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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw 問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

 長らくご無沙汰をしております。前回の記事をあげてからもう半月もたっていますね、申し訳ないです。本業の方がもう無茶苦茶忙しかったもので。そのくせ、「どうせ書くならちょっとは手間暇かけたものを」とか考えていたものですから、遅くなってしまいました。見捨てずにご覧くださり、ありがとうございます。

さて、もう11月も半ばになり、センター試験が近づいてまいりました。この時期になると毎年のことですが「センターの勉強の仕方ってどうしたらいいですか?」とか「頑張って勉強しているのですが、半分くらいしか取れなくて、どうしたらいいかわからないんです」などの質問や相談が増えてきます。

 ところが、センターの勉強って、実際のところどこまでやったらいいのか判断がつかないことが多いんですよね。『詳説世界史研究』では詳しすぎると思うし、かといって学校で使うような教科書だけでは不安だし。文系の受験生であれば二次試験を見越して思い切り深く勉強するというのもありかと思いますが、「理系でセンターだけ社会が必要で」といった受験生の場合はなおのことどこまでやればどれだけ点数がとれるのか判断がつきません。学校や塾の先生は経験上から「まぁ、教科書をやって、過去問を解いていればそれなりにとれますよ、大丈夫!」というけれども、数値として実際に分析した人はそう多くないと思います。(もっとも、センターに限って言えば、それが基本の学習法になるわけですが)

そこで、今回はテーマを絞ってセンターの過去問を分析してみることにしました。そのテーマとは、「ぶっちゃけ、『世界史B(東京書籍)』の教科書の太字部分だけを覚えたとしたら何点くらいセンター世界史でとることが可能なのか?」ですw 何というか、ものすごくしょーもないというか、省エネな発想のテーマだなぁと思うのですが、実際にデータ化してみないと自信をもって勉強できないと思うんですよ。2次試験であれば「詳説世界史研究をがっつりやりこめばまず大丈夫」という確信が持てるわけですが、センターを勉強するときの「世界史B(各社)」にはそうした確信めいたものが欠けている気がします。自信をもって勉強できる、自分の目標に確信が持てる、というのはモチベーションをキープする上でとても大切なことだと思いますので、あえて調べてみることにしました。これで「教科書だけやっておけば間違いなくセンター試験は大丈夫!」なんていう結果が出ちゃうとそれ以上勉強しようとしないめんどくさがりな部分を助長しちゃいそうな気もするのですが、まぁそこは自己責任でいいかなとw

 

 今回の分析手順ですが、以下の作業を行いました。

    センター過去問3年分(本試験のみ)を分析し、「どの知識があればその問題を解くことができるか」に絞って検討した。その際、「この知識があれば問答無用でその設問は解ける」という知識を「確定条件」とした。また複数の知識が必要な設問については「これらの知識がそろえばその設問が解ける」という知識を抽出し、これらを「複数条件」として表を作成した。

    作成した表を見ながら、その知識が「世界史B(東京書籍)」に太字で示されているかどうかを一つ一つチェックした。

    太字で示されている知識のみでほぼ説くことができる問題に〇をつけ、その合計点を出した。

    の手順で作った表を単元別、テーマ別で整理し、どの単元、どのテーマからの出題が多いかを別の表にまとめた。

 

以上になります。やってみて本当に、心から思ったことは「過去問10年分とかにしないでよかった…orzということです。本当に、心折れるかと思いました。腰が痛いです。

 ただ、注意していただきたいのは、手間暇かけている割にこのデータは必ずしも信用のおけるものではありません。特に、以下の点には注意をしていただきたいと思います。

 

    「太字で出ている部分だけ」を「丸暗記」すれば解ける、というものではない。

:これはどういうことかと言いますと、たとえば、2016年の設問1の分析では、「大陸封鎖令を出したのはナポレオン1世(3世ではない)」、「社会主義者鎮圧法の時はヴィルヘルム1世(2世でない)」、「則天武后が変更してつけた国号は周(新ではない)」という三つの知識が示してあり、これらには太字で載っていたことを示すピンク色が私の作成した表(後ほど示します)には示してあります。これは、実際に教科書を見たところ、「大陸封鎖令」、「社会主義者鎮圧法」、「則天武后」、「周」などが太字で示してあったからですので、間違いではないのですが、かといってこれらの用語を「丸暗記」すれば解けるということではありません。教科書には「社会主義者鎮圧法が出された時の皇帝はヴィルヘルム1世である」と太字で書かれているわけではありませんので、こうした太字の知識の周辺にある「内容、意味、意義、関係性、時代、時系列」などは自分で把握する必要がある、ということです。もっとも、これらの多くは太字の知識の周辺にしっかり書かれていますので、そこまで心配する必要もありません。要は「用語の丸暗記ではなくて、内容もしっかり理解しないと解けないよ」ということです。

 

    出題頻度を単元別、テーマ別に示したものはものすごくテキトーな数え方

:これは仕方のないところでもあります。例えば、同じく2016年の設問2は「漢の武帝の時代に砂糖の専売は行われていない(行われたのは塩・鉄・酒)」、「十分の一税は(聖職者に対してではなく)農民に課せられたものである」という二つの知識があれば解ける設問ですが、この二つの知識は何に分類すべきでしょうか。武帝の政策ですから政治と言えば政治ですが、専売制ということは経済的な要素も入ってきます。また、十分の一税は税金ですから社会・経済に含むべきものかと思いますが、一方で宗教的な要素も濃いです。こうしたものを分類するにあたって、基本的にその分類は私の主観と気分で決めていますので、かなりアバウトな基準で分類されています。(ちなみに、それぞれ「政治」と「社会経済」に分類しました。)

 また、たとえば「義浄」の「南海寄帰内法伝」などにいたっては、そもそもこれを宗教に分類するのか文化に分類するのかだけではなく、中国文明の方に分類するのかインド文明の方に分類するのかでも問題となります。「両方数えればいいじゃない」とおっしゃるかもしれませんが、そんなめんどくさいえ、そうしますと設問によって多くの要素を含むものと、一つの要素しか含まないものがあり、総計するとかえって全体の傾向を把握しづらいものにしてしまう可能性があります( -`д-´)キリッ。

 以上の理由から、かなり強引に分類しましたので、数字はかなりアバウトなもので、あくまでも大まかな傾向を示すにすぎないのだ、ということには注意をしてご覧いただければと思います。

 

[2014年~2016年世界史本試験:各設問を解くのに必要な知識一覧]

2016
センター2016

 

2015
センター2015


2014
センター2014
 

 以上のように、「世界史B(東京書籍)」の太字の知識で手に入る知識をピンク色で示した上で、ほぼそれだけで解ける問題をチェックしたところ、2016年は77点、2015年は65点、2014年は72点取れることがわかりました。案外少ないと感じるかも知れませんが、この計算は「確実にその知識だけで解ける」設問に絞っており、「太字の知識だけで2択までは絞れる問題」などは計算に入れておりません。当然、2択まで絞れる問題の中にはいくつか実際に得点できる問題もあることから、実際に太字の知識のみでとれる点数はもう少し多くなるはずです。また、教科書で太字の部分を覚える際には当然周辺の知識も入ってくることから、おそらく「世界史B」の教科書だけでもしっかり勉強すれば8割以上とれる、というのは間違いではないと思います。「確実に95点以上を狙いたい」という人はともかく、「とりあえず急ぎで何とか8割以上をキープしたい」という人には「教科書+過去問(またはさらに+実戦問題集)」といった勉強法はアリなのではないでしょうか。

さて、それでは直近3年のセンター試験はどういった単元と内容から出題されているのでしょう。それを示してみたのが下の表です。


 センター分析2014-2016
 

 こちらは、私が感じていた以上に近現代史が厚くなっているということが見て取れました。その他は、伝統的な古代世界と、中世・近代ヨーロッパあたりが多いですね。もっとも、これは設問の数ではなく、「設問を解くのに必要となった知識」がどこの分野に属するものかを分類したものになりますから、この割合がそのまま点数の割合になるわけではありません。ただ、全体的にテーマとしては政治・制度史が中心で、各国の成り立ちや、君主、行政制度、拡大発展と衰退といったメインパートから出題されることが多いようです。

 

 以上の分析から結論を導きますと、「世界史B(東京書籍)」の太字の知識だけでもセンターで7~8割はとれるだけの要素はあるらしい、ということが言えると思います。あとは、自分がどの程度の点数を欲しているのか、文系なのか理系なのか、急いでいるのか余裕があるのかなどによって勉強方法を変えていくとよいのではないでしょうか。より高得点を狙いたいというのであれば、2次試験も見越してはじめから『詳説世界史研究』をみっちり(もっとも、今から開始して来年の春、というのでは分量的に厳しいです。すでにこのスタイルで勉強してきている人向けですね。)とか、または「世界史B」教科書ベースでセンター過去問だけでなく早慶クラスの過去問や問題集を合わせて進めるとか、いろいろやり方はあると思います。自分自身にとって一番素敵だと思える勉強スタイルで頑張ってください!

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 東大2014年度問題解説の方でもお話していた通り、今回は受験生にはイマイチ理解できない露土戦争以降のサン=ステファノ条約とベルリン会議(ベルリン条約)の意味を確認しておきたいと思います。ついでといっては何ですが、ロシアの南下政策と東方問題を含めてまとめておいた方が良いかなと思いますので、19世紀全体にわたるロシアの黒海・バルカン方面進出とそれに対するイギリスの対応をまとめておきましょう。

 

 高校世界史で扱われる東方問題は基本的に19世紀のオスマン領をめぐる国際的諸問題を指します。山川の『改訂版 世界史Ⓑ用語集』(2012年版)には「東方問題」について「19世紀にオスマン帝国の領土と民族問題をめぐって生じた国際的諸問題を、西欧列強の側から表現した言葉。オスマン帝国の衰退に乗じて、支配下の諸民族の独立運動が激しくなり、それに西欧列強が干渉して起こった。」となっています。ただ、これは狭義の定義で、歴史学的には東方問題といった場合、もう少し広くとって18世紀ロシアの拡大政策から考えることもありますし、さらに広くとって14世紀頃からのオスマン対ヨーロッパの対立図式を指してこのように言うこともあります。

 実際に「東方問題」という言葉が歴史上作られていくのはギリシア独立戦争(1821-1829)が始まった時期です。大学受験をする際には、原則として山川大明神の言うことに従っておけば良いわけですが、より深い歴史的理解のためには、18世紀からのロシアの拡大が視野にある方が良いかもしれません。

 

 高校世界史では「東方問題」の書き出しをエジプト=トルコ戦争から書き出すことが多いです。ただ、前述の通り、ロシアの南下はすでに18世紀の段階から着実に進んでおります。中でも注目しておくべきなのはキュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約(1774です。エカチェリーナ2世の時代に戦われたロシア=トルコ戦争(1768-1774、露土戦争は高校世界史では1877-1878の露土戦争だけが紹介されていますが、実際にはロシアとトルコの間には18世紀から19世紀を通して数次にわたる戦争が展開されています)の結果、両国はキュチュク=カイナルジ条約を締結し、①ロシアの黒海自由通行権、②ロシア商船のボスフォラス=ダーダネルス両海峡の通行権、③オスマン帝国内のギリシア正教徒保護権付与(ロシア皇帝に対して)、④オスマン帝国のクリム=ハン国に対する保護権、などの内容を取り決めました。これにより、ロシアは大きく黒海方面へと進出し、オスマン帝国が宗主権を放棄したクリム=ハン国は、この条約から間もない1783年にロシアによって併合されることになります。

こうしたロシアの南下はギリシア独立戦争とその末期におけるトルコーロシア間の戦争の結果としてのアドリアノープル条約によって一時的には成功をおさめたかに見えます。しかし、こうしたロシアの南下成功は、この後のイギリスを中心とする諸国の外交と干渉によって再三阻止されていくことになり、1877-1878年にかけての露土戦争とその後の戦後処理によって、ロシアのバルカン半島における南下は一時完全に停滞することになります。この一連の流れは19世紀を通して「ギリシア独立戦争→エジプト=トルコ戦争(第1次・第2次)→クリミア戦争→露土戦争」と続くわけですが、この流れ自体はかなり有名な流れですし、みなさんご存じのところでもあると思いますので、簡単に図示した上で、わかりにくい、または気づきにくいポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 
東方問題年表
(クリックで拡大)

 

ポイント① ギリシア独立戦争とその結果

 

 さて、ギリシア独立戦争はギリシアがオスマン=トルコ帝国から独立しようとしたことがきっかけで起こる戦争ですが、このギリシアの独立は当時ヨーロッパ周辺で高揚していたナショナリズムと強い関連があります。ナポレオンのヨーロッパ大陸支配とフランス革命の理念である自由・平等という考え方の伝播は、「ナショナリズム」と「自由主義」という二つの大きな思潮を生み出しました。1815年のウィーン体制は、多民族国家を瓦解させかねない「ナショナリズム」と、君主による専制政治と貴族支配を脅かしかねない「自由主義」を抑圧するために墺・露が中心となって作り上げた体制でしたが、早くも1810年代からこれらの動きは大きなうねりとなってヨーロッパの各地で噴出します。1820年代にはデカブリストの乱(露)、カルボナリの運動(伊)、ラテンアメリカ諸国の独立など、各地でナショナリズム、自由主義の動きが渦巻いているわけですが、こうした動きの中にギリシアの独立運動も位置付けることができるわけです。当時、ギリシア独立を率いていたのはイプシランティ(イプシランティス)という人物でしたが、彼が所属した秘密結社「フィリキ=エテリア」はオスマン=トルコの「専制」支配から「ギリシア」と「ギリシア人」の政治を取り戻すための戦いを準備するわけで、これはまさに当時の風潮とピッタリなわけですね。

 

 こうしたギリシアの独立を支援したのもヨーロッパのロマン主義者でした。ところで、このロマン主義というのは実はナショナリズムと密接に関連しています。ロマン主義の起こる前、18世紀におけるヨーロッパの文化的トレンドはロココ、そして新古典主義でしたが、これらはどちらもその中心はフランス、ヴェルサイユでした。ロココなどはルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人を中心とする宮廷人のサロン文化の中で花開きますし、新古典はナポレオンが皇帝に即位したことで英雄主義的側面を強く打ち出すために発展します。18世紀のヨーロッパの人々はフランス文化、特にフランス絶対王政期の宮廷文化を最先端のモードとして受容していたわけです。

 ところが、ナポレオンの大陸支配以降は様子が違ってきます。旧支配階層はもちろんのこと、解放者かと思いきや結局は他国からやってきた支配者に過ぎなかったナポレオンに「自由・平等」を求めたヨーロッパの人々は失望し、反ナポレオン・反フランス感情を高めていきます。そうした中で、「最先端のフランス」に対する「憧れ」は消え失せ、新たに「自分たち自身のルーツや、良さとは何か」を探求するようになっていきます。これがつまり、土着の文化に価値を見出し、恋愛賛美・民族意識の称揚、中世への憧憬などの特徴を持つロマン主義になっていきます。グリム兄弟が土着の民話を収集していくなどを想定するとわかりやすいです(もっとも、グリムはどちらかというと後期ロマン主義に分類される人々ですが)。こうしたロマン主義者にとって、ヨーロッパの源流たる「ギリシア人」たちがイスラームの帝国オスマン=トルコの専制支配から自由と平等を取り戻すために闘う、というテーマはとても甘美で、彼らの心を動かすテーマだったわけで、バイロンなんかは熱に浮かされて燃え尽きちゃうわけですね。とっても中二病で素敵ですw

 
_1826
 

「バイロンの死(Wikipediaより)」

 

 こうした中で戦われたギリシア独立戦争ですが、ギリシアを支援した露・英・仏など各国の思惑は当然ロマン主義の熱によるものだけではありません。それぞれ、バルカン半島や黒海沿岸、地中海東岸地域へ進出する機会をうかがってのことです。ですが、オーストリアだけは自国が多民族国家であることもあり、ギリシアのナショナリズムを容認するわけにもいきません。ここはウィーン体制の原則に従い静観、ということになりました。

 1827年に英仏露連合艦隊とオスマン帝国との間に偶発的な衝突が起き、ナヴァリノの海戦が発生します。この戦争にトルコ軍が敗北したことで、この戦争は大きく転換していきます。戦争終盤の1828年に、ロシアはトルコと戦端を開きます。これに勝利した露は、オスマン帝国との間にアドリアノープル条約を締結します。戦勝による講和条約ですから、その内容は以下のようにロシアに有利な内容となっていました。

 

  ギリシアの自治承認

:トルコの影響力が減少する半面、独立運動を支えてきた露の影響力は大きく増大

  黒海沿岸地域の一部を露へ

  モルダヴィア、ワラキア(両地域が後のルーマニア)、セルビアの自治承認

:同じく、歴史的にスラヴ系民族が多く、ギリシア正教とも多い地域に対する露の影響力が増大します。


Rom1793-1812


1793-1812頃のルーマニア地域[モルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニア]

Wikipedia

 

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡のロシア船舶の通行権

:これは、ロシアの船舶が黒海からエーゲ海に出て地中海方面に進出することを可能にします。


 svg

(赤い部分がボスフォラス海峡、黄色がダーダネルス海峡:Wikipedia

 

 つまり、アドリアノープル条約は明確にロシアの南下を成功させた条約だったのですが、これにイギリスがかみつきます。特に、ギリシアの自治国化は、国としての立場が弱く、ロシアの影響力を受けやすくなると考えたことから、イギリスはギリシアの完全独立を主張してすでに1827年から開催されていたロンドン会議の席上でこれを認めさせます。これにより、ギリシアは1830年に完全な独立国として出発することになりました。

 

ポイント② エジプト=トルコ戦争とその結果

 

 続いて、このギリシア独立戦争でオスマン帝国の属国という立場で戦争協力をしたエジプトのムハンマド=アリーが見返りを要求したことが発端となって、2度にわたるエジプト=トルコ戦争が展開されます。戦争の経過については図表を参照していただければよいのですが、ポイントはやはりウンキャル=スケレッシ条約です。この条約の性質をよく理解できていない受験生が実は多いのですね。ウンキャル=スケレッシ条約というのは、トルコとロシアの間で締結された相互援助条約であり、一種の軍事同盟です。なぜ、ギリシア独立戦争では敵同士で、かつ南下政策を展開するロシアとトルコとの間でこのような条約ができたのでしょう。

 実は、この時期ロシアはトルコの属国化を狙っています。また、トルコの方では弱体化する中でエジプトをはじめとする外敵に対応するためにうまくロシアからの援助を引き出そうと狙っていました。こうした中で、エジプトとトルコの戦争が始まるとロシアはトルコの側を支援します。ところが、ロシアの東方地域におけるさらなる影響力拡大を懸念する英仏はトルコに圧力をかけて無理やり講和を結ばせます。これがキュタヒヤ条約(1833)ですが、この条約でトルコはエジプトにシリアをはじめとする広大な領域を割譲させられる羽目になりました。これに怒ったトルコはロシアとの相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約を結び、その秘密条項においてロシア艦隊のボスフォラス、ダーダネルス両海峡の独占通行権を与えます。これは同地域におけるロシアの軍事的プレゼンスを大きく高める内容であったことから、英はこれに不満を持つことになります。

 その後、二度目のエジプト=トルコ戦争が起き、その講和会議であるロンドン会議が開かれると、イギリスの外相で、後に首相を務めることにもなるパーマストンがこの問題の調整に乗り出します。その結果、ここで締結されたロンドン条約では以下の内容が取り決められます。

 

  エジプトはエジプト・スーダンの世襲統治権が与えられた(オスマン宗主権下)

  シリアはエジプトからトルコに返還

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の軍艦通行を禁止

 

 中でも、③の条項は先にロシアがトルコと単独で結んだウンキャル=スケレッシ条約を無効化することを意味していました。さらに、この時点では英・露・墺・普の間の取り決めにすぎませんでしたが、翌年に仏を加えて五国海峡協定として承認させます。これにより、パーマストンは「フランスが影響力を高めるエジプトが勢力を強めることを防ぐ」ということと、「ロシアの地中海東岸地域における軍事的プレゼンスの排除」という二つの目的を見事に達成し、外交的な勝利を手にしたのです。

 

ポイント③ クリミア戦争とパリ条約 

 
 クリミア戦争は「聖地管理権問題が発端」ということはよく言われますが、これも受験生にはイマイチよくわからないところです。当時、キリスト教の聖地イェルサレムはオスマン帝国の支配下にあるのですが、オスマン帝国というのはイスラーム国家ではありますがその帝国内に多数の異教徒を抱えていました。カトリックもそうですし、旧ビザンツ領ではギリシア正教徒も多くいます。また、北アフリカやシリア・パレスチナ地域を中心に単性論の系統をひく諸宗派なども存在していました。イェルサレムにはこうしたキリスト教徒たちにとって信仰の対象となる街区(聖墳墓教会など)があるのですが、こうした部分の管理権は、16世紀ごろからフランス王がカピチュレーションの一環としてオスマン帝国から管理を認められていました。しかし、フランス革命の混乱の中でこの聖地管理権の所在がうやむやになります。こうした中で、ロシアの援助を受けた現地のギリシア正教徒たちが聖地管理権を1851年に獲得すると、国内のカトリックに対する人気取りを画策したフランスのナポレオン3世が横からしゃしゃり出てきてオスマン帝国に再度フランスが聖地を管理することを認めさせ、1852年にこれを回復します。これに不満をもったロシアが聖地管理権を要求し、またカトリックの多いフランスの管理やイスラームであるオスマン帝国の支配からギリシア正教徒を保護するのだということを口実に開戦するというのがクリミア戦争の直接の契機です。

 

 この戦争は難攻不落と思われたセヴァストーポリ要塞を落とされたロシアの敗色が濃い中で終結します。その講和条約として締結されたパリ条約では、1840-41年の取り決め(ロンドン条約や五国海峡協定)の内容が再確認されたほか、黒海の中立化・非武装化が新たに加えられた結果、黒海周辺にあるロシアの軍事施設はすべて撤去されることになりました。さらに、ロシアは1812年にトルコから獲得していた黒海北岸のベッサラビア(現モルドバ、一部はウクライナ)をモルダヴィアに割譲することになりました。

 

 800px-Ukraine-Bessarabia

20世紀のベッサラビア」(Wikipedia

 

 このようにして黒海周辺からはロシアの影響力がかなり排除されることになりました。一方で、すでにアドリアノープル条約で認められていたモルダヴィア、ワラキア、セルビアの自治は再度承認、確認されています。特に、モルダヴィアとワラキアは後にルーマニアとなる地域ですが、この地域は、形式上はオスマン帝国が宗主権を持っていますが、長らくロシアの軍政下に置かれていました。ところが、1840年代に入ると外国(ロシア)による保護制に反対する民族運動が高揚し、反乱が発生します。当時のモルダヴィアならびにワラキアはこれを鎮圧したロシア・トルコ両軍の制圧下にある状態でしたので、その扱いを再度確認する必要があったのです。ですから、これらの地域の自治を承認するということは、再度ロシアが同地域に影響力を与えるきっかけを与えかねないのですが、これを他の諸国は承認します。この段階において、同地域が自治権をもつことは、ロシアのみならずオーストリアをはじめとする諸国にもトルコに代わって同地域に影響力を及ぼすためには悪くないことだからです。つまり、たしかにパリ条約においてロシアは黒海沿岸地域から大きく後退させられましたが、一方的な敗北条約をのませられたというよりはいくらかの妥協の産物としてパリ条約を受け入れたわけです。

 

ポイント④ サン=ステファノ条約とベルリン会議

 

 さて、やっと私が本来書きたかった内容にやってこれました。と言っても、正直一言で済んでしまうのですが。この一言を書くために調子に乗って東方問題のまとめに首を突っ込んでしまったことを今はものすごく後悔していますw 自分の中では把握していることでも、説明するとなるとえらい手間がかかりますし、長くなるものです(;´・ω・)

 さて、それではサン=ステファノ条約とベルリン会議(またはベルリン条約:1878)とは一体何なのでしょうか。以下に、この二つの条約を理解するためのポイントをいくつか紹介していきます。

 

  サン=ステファノ条約は、露土戦争の講和条約で、二国間条約である。

:ある意味当たり前のことなのですが、サン=ステファノ条約はロシアとトルコ間の講和条約です。つまり、戦勝国であるロシアに有利な内容になっています。中でも、ブルガリアについての規定は決定的でした。スラヴ系民族の多いこの地域は、形式上はオスマン帝国の宗主権下で自治国となることが決められましたが、これを履行させるためという名目で、ブルガリアにはロシア軍が駐留することが決められました。実は、ご存じない方が多いのですが、ある地域に他国の軍隊が駐留するということは、「事実上保護国になる」ということとほぼ同義です。例えば、イギリスのエジプト支配についてもウラービー=パシャの反乱を鎮圧した後に「事実上保護国化した」という表現が出てきます。これは、軍隊がその地に駐屯することによって、同地域の治安維持ならびに外交権などに大きな影響を及ぼすことが可能になるためです。つまり、ブルガリアはこのサン=ステファノ条約で実質的にロシアの保護下に置かれることが決まりました。そして、問題であったのはその大ブルガリア公国の領土です。

 

 Bulgaria-SanStefano_-(1878)-byTodorBozhinov

Wikipedia

 

黒い太線でくくられれている部分がサン=ステファノ条約で決められたブルガリアの領土ですが、この領土がエーゲ海に面しているところが重要です。つまり、ロシアはこのブルガリアを事実上の保護下に置くことで、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡を経ずして地中海に面する地域に進出することが可能となりました。これはロシアにとって南下政策の大きな進展に他ならなかったのですが、だからこそ英・墺の反発を呼ぶことになったのです。

 

  ベルリン会議(ベルリン条約)では、ブルガリアの性質が大きく変更となった。

(ロシアは地中海への道を閉ざされた)

  :さて、再度上のブルガリアの地図に注目してください。ベルリン会議の結果、ブルガリアの領土は3分割され、大きく縮小されます。ブルガリアは黒海に面した北部の緑がかった部分(うすーく「Principality of Bulgaria」とあるのが見えるでしょうか)のみとなり、黒海に面した南部の赤い部分(東ルメリア)と西南部の茶色っぽい地域(マケドニア)は別のものとされ、東ルメリアはオスマン帝国化の自治州となり、マケドニアはオスマン帝国に返還されてしまいました。つまり、新しいブルガリアは地中海に面する部分をすべて失ってしまったのであり、ロシアの南下政策は再度挫折してしまったのです。また、この時に領土を削減されたブルガリアは失った領土の奪還を目指し、執念を燃やす(大ブルガリア主義)ことになりますが、こうしたことが20世紀に入ってからのバルカン戦争へとつながっていきます。

 

  ベルリン条約では気づいたら英・墺が進出して楔を打ち込む形になっていた。

:これは皆さんご存知のことと思いますが、このベルリン会議でエジプトに利権を持ち、3C政策を展開するイギリスと、パン=ゲルマン主義に基づいて国家統合とバルカン進出を狙うオーストリアがどこを手に入れたのかを再度確認しておきましょう。

 

 キプロス

(キプロス島:イギリスが獲得)
 

 Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries

(ボスニア=ヘルツェゴヴィナ:墺が統治権を獲得)

http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Bosnia_Herzegovina/Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries.htm

 

 英はエジプトの北、地中海東岸に位置し、オスマン帝国の首根っこをおさえるキプロス島を、墺はバルカン進出の要となるボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を手に入れます。この状態ではロシアの南下政策は完全に「死に体」です。このベルリン会議をうけてロシアの南下政策は「挫折した」と表現されるのはこのような内容によるわけです。「東方問題」は時期によって国際関係の変化(露・墺関係の変化、ウィーン体制の意味など)もありますし、条約の内容もかなり細かいもので、なかなか把握しづらいものです。大きな枠組みは「ロシアの南下政策の挫折」で良いのですが、やはりしっかりと当時の政治状況を理解するためには地理的理解も含めた各条約の内容をしっかりと消化しておくことが大切でしょう。また、このあたりのことをしっかりと把握しておくと、青年トルコ革命や、そのどさくさに紛れた様々な動き(墺のボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合など)、さらにはバルカン戦争なども理解しやすくなると思います。

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やっと復活できました。いえ、実際にはまだ本調子とは程遠いですね。ゲホゴホ咳ばっかり出ますが、どうにか体力的に余裕が出てきました。もう行事やら試験づくりやらで、本業が忙しくて。「一週間で戻ってくるぜ!」みたいに戦隊モノみたいな捨て台詞を残していたのに本当にすみません。これからまたちょくちょく更新していくつもりですので、なにとぞお見捨てなく。

 

さて、今回は予告しておりました通り、東大2014年の第1問、大論述ですね。個人的な感想ですが「やや難」です。ちなみに、当時の河合も「やや難」ですね、手元の資料見ると。正直、ロシアの拡大政策だけを書くなら東大クラスの受験生なら普通に書けます。多分。数学とか英語が得意で世界史は捨てた、とかではない限り。受験生が出しにくい部分は指定語句がちゃんと示してくれていますし、連想すればアイグン条約も北京条約も三国干渉も出てきますしね。ですから、「事項をただ並べるだけ」ならそれほど苦にはならないんです。

やはり、難しいのは「とりあえず並べてみた事項」を「当時の国際情勢の変化」と結びつけて述べる、というこの部分をどう処理するかにつきます。東大の好きそうなフレームワークの設定ですね。しかも、地味に難しいのは、この「変化」の中に、19世紀前半から後半へという時間的な「タテの変化」(具体的には露墺関係の変化)と、ロシアの進出先の転換という地理的な「ヨコの変化」(クリミア戦争後の中央アジア、極東地域への進出)、ある地域における国際情勢に変化をもたらす「局地的な変化」(極東地域におけるロシアのプレゼンス上昇と極東情勢の変化、日ロ対立の発生、日英の接近など)という複数の変化が混在しているところです。これを600字の中にどう入れるかということが問題になるのですが、やはり字数の関係上、うまく言葉を入れていかないと十分にこれらの変化を示せずに、結局露墺関係の変化と英露対立示して終わり、ってことになりかねないですね。 

 

2014 第1

 問 題 概 要 

(設問の要求)

・ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について論ぜよ。

・時期はウィーン会議から19世紀末までの間である。

 

(本文から読み取れる条件と留意点)

・西欧列強の対応に注意を払いなさい。

・隣接するさまざまな地域への拡大をロシアの対外政策の基本として示すべきである。

・ロシアの「動向」がカギとなって変化した国際情勢に注目すべきである。

・特にイギリスとの摩擦には注目する。(ただし、他の列強についても注意が必要)

 

(指定語句)

 アフガニスタン / イリ地方 / 沿海州

 クリミア戦争 / トルコマンチャーイ条約

 ベルリン会議(1878年) / ポーランド / 旅順  (順番通り)

 

 解 法 の 手 順 と 分 析、 採 点 基 準

(解法の手順)

1、指定語句の整理またはロシアの対外進出地域の整理

:指定語句の整理から行うこともできますが、19世紀ロシアの対外拡大政策を地域ごとに把握できている人は、まず大まかなユーラシア周辺の地図を頭に思い描くことから始めても良いと思います。というより、その方が時間的に早いかもしれません。この時期のロシアの対外拡大が進められている地域を大まかに分ければ、以下の地域をあげることが可能だと思います。

 

 ・ヨーロッパ(東欧、北欧)

 ・バルカン半島

 ・中央アジア(カフカス地方[コーカサス地方]、トルキスタン)

 ・イランおよびアフガニスタン

 ・極東地域

 

  一方、仮に指定語句を中心にロシアの進出地域をまとめたとしても、以下のように、ほぼ同じような構成になると思います。ちょっと中央アジアの分けがアバウトになる感じですね。こういう時、地理的にカフカス地方、西トルキスタン、東トルキスタンをしっかり把握できている人は中央アジアに対する理解が強いですね。カスピ海とパミール高原を基準にイメージすると割と簡単に把握できるのでそれも別稿で示しますね。

 

 ・ポーランド東欧

 ・クリミア戦争、ベルリン会議バルカン半島

 ・アフガニスタン、イリ地方、トルコマンチャーイ条約中央アジア

 ・沿海州、旅順極東

 

2、設問の要求を精査し、それに沿った形で書くべきテーマを見出す。

 :設問の要求から、書くべき主要な内容がロシアの南下政策とイギリスとの対立(広い意味でのグレート=ゲーム)にあることは容易に想像がつきます。ただ、いくつか条件が付されていることから、それ以外の点にも注意を払う必要が出てくるでしょう。

 

 A、国際情勢の「変化」の「変化」という語

   「変化」というからには、Aという状態や関係性がずっと続くのではなく、BまたはCという別の状態と関係性へと移り変わらなくてはなりません。つまり、関係性の移り変わりを示さずにただ歴史的事項を書き並べただけでは駄目だということ。そのようなものがあるか考えると、とりあえず以下の例を挙げることができるでしょう。

 

   -ウィーン体制における露墺の協調から世紀後半の対立への変化

   -英の独自外交とロシアの南下政策の対立(南下政策の進展と挫折)

   -北東欧地域へのロシア支配の進行とそれに対する民族的反発

   -中央アジアからイラン、アフガニスタン地域における英露の均衡状態の創出

   -極東地域におけるロシアのプレゼンス拡大

 

 B、西欧列強の対応に注意

   「対応」に注意を払えというのですから、対外政策を行うロシアに対して欧米列強が示した反応を中心にまとめればよいでしょう。わかりやすい例としてはエジプト=トルコ戦争後のロンドン会議と五国海峡協定、クリミア戦争とパリ条約、露土戦争とサンステファノ条約に対するベルリン会議(ベルリン条約)などですが、何もこれに限ったことではないと思います。

  

 C、ロシアの「動向」がカギとなる事柄に注目すべき

   これも設問からの理解ですが、基本の構図は「ロシアが動く西欧列強が反応する」というものであることを理解すると話が作りやすいです。

 

 D、イギリスとの摩擦を中心の軸として想定する、べきか?

   これは難しいところですね。設問に示されている部分を読めば、「こうした動きは、イギリスなど他の列強との間に摩擦を引き起こすこともあった」とあるので、英露対立を中心に書けばよいような気になってきます。具体的にはパーマストン外交の勝利、クリミア戦争、ベルリン会議、イラン・アフガニスタンをめぐる抗争とアフガニスタンの緩衝地帯化(グレートゲーム)、極東地域への進出と間接的干渉(アヘン戦争、アロー戦争、日英同盟)などです。

   ですが、設問の設定がウィーン会議を起点としていること、国際情勢の「変化」に注目することを要求している点などを鑑みれば、やはりここはオーストリアとの関係と、19世紀後半の普墺露間の外交関係(ビスマルク外交)を外すわけにはいかないでしょう。イメージで言えば、英4、墺、3、普1、極東1、その他(仏など)1くらいのつもりで書きたいものですが、さて、そううまくいきますかねぇ。

 

3、2から大きな流れを設定する

  :2で考察した内容を踏まえて、大きな流れを設定すると19世紀前半については以下の2点を示すことができます。

 

  A、ウィーン体制(露墺が主導したため、協調関係をとる)

露の南下政策の進展とウィーン体制崩壊によりバルカンをめぐる露墺対立へ

  B、ウィーン体制を主導する露と独自路線を打ち出す英

   露の南下政策をイギリスが阻止(cf. 3C政策)

 

   一方、19世紀後半については、以下のようにこうした流れに一定の変化が起こることについても注意しておくべきでしょう。

  

  C、クリミア戦争後のロシアは、確かにパリ条約の妥協的な内容によってバルカン方面における南下政策の一時的な中断を余儀なくされたが、一方で極東方面や中央アジア方面への進出は成功させた。(cf. アイグン条約、北京条約、ウズベク三ハン国併合、イリ事件etc.) ただし、露土戦争後の展開によってロシアのバルカン方面への南下は完全に頓挫した。

  D、ウィーン体制後のヨーロッパにおける国際関係の変化

    (cf.三帝同盟とその解消、ビスマルク外交、ベルリン会議、露仏同盟など)

 

 どうも、高校の世界史教科書では、やたらと「ロシアの南下政策を阻止した」という流れにしたいらしく、Cの前半部分を強調するのですが、実際にはロシアは中央アジアをガッツリ南下してイラン、アフガニスタンに迫りますし、極東でもしっかり南下を成功させているのですよね。だからこそ、イギリスはアフガニスタンを緩衝地帯化する必要に迫られるわけですし、極東でも次第にロシアの影響力があらわになってきて、最終的には三国干渉、日英同盟、日露戦争のあのおなじみの流れにつながっていくわけです。こうしたロシアをdisってイギリスを持ち上げる歴史の書かれ方はもしかするとヨーロッパ中心史観ならぬ西側中心史観の名残なのかもなぁと思ったりもします。

 冒頭でも書いたように、本設問の「変化」には時間的な「タテの変化」と地理的な「ヨコの変化」と「局地的な情勢変化」などさまざまな変化が混在しています。これをどうまとめるかが腕の見せ所なわけですが、それでもやはり、大きい軸を2本用意しろと言われたら英露関係と露墺関係でしょう。ですから、この部分だけは取りこぼしのないようにしっかりと幹を作って、その上でその他の細かな変化を肉付けしていく方が、間違いが少なくて良いのではないでしょうか。

 

4、1でまとめた地域ごとに関連事項を整理し、3で設定した流れやテーマに沿ってまとめる。

  :基本的には指定語句にプラスアルファしていく形でいいかなと思います。地域ごとの詳細をまた例によって表にしてみましたので参考にしてください。(間違いがあったので一部修正しました。[2016.10.19] ギリシア独立戦争が何故かエジプト独立戦争とかになってました[汗])

 東大2014訂正版


(クリックして拡大) 

 

 解 答 例

 ウィーン議定書でフィンランドとポーランドの君主となりバルト海支配を強化した露は、支配地の民族運動を抑えるため墺と協調した。南下を進める露はトルコマンチャーイ条約でカージャール朝からアルメニアなどを奪い、オスマン支配下のギリシアやエジプトの混乱に乗じ地中海進出を図った。英印の連絡を重視するパーマストンはロンドン会議でウンキャル=スケレッシ条約破棄に成功し、露を妨害した。東方問題が深刻化する中で、クリミア戦争でも地中海進出を阻まれたことで露墺の協調関係が崩れ、独伊の統一やビスマルクによる新たな国際関係構築につながった。矛先を極東へ転じた露は、アイグン条約と北京条約で沿海州に進出、ウラジヴォストークを建設し不凍港を獲得した。また、中央アジアではウズベク3ハン国を併合し、イリ地方をめぐる争いで清との通商を拡大した。3C政策や中国進出を進める英は警戒し、イランへの進出を強め、アフガニスタンを緩衝地帯化して露との均衡状態を作った。汎スラヴ主義高揚で再度バルカン進出を図る露は露土戦争後のサン=ステファノ条約でブルガリアを影響下に置き、地中海への出口を確保したが、スエズ運河を持つ英と汎ゲルマン主義を掲げる墺の反発によるベルリン会議で南下を阻止され、三帝同盟は崩壊した。露は再度極東に進出、三国干渉後に清から旅順、大連の租借権を獲得し朝鮮へも影響力を拡大したことから英は光栄ある孤立を撤回し日に接近した。(600字、2016.10.19UP)
 

 とりあえずで作ってみました。解答としての出来は正直いまいちかなぁと感じてしまうのは、やはり我々世代のアタマだと英露対立をもっと総合的に見たい(だから、アヘン戦争やアロー戦争なんかももっと前面に出したいし、黒海周辺のせめぎあいも示したい)し、墺露(19世紀後半では普墺露)間の関係の変遷ももう少し詳しく示したいし、フランスの立ち位置も示したいのですね。大国主義~w

 ただ、それらを削って本設問に対する解答としての質が多少落ちたとしても、今回解答の中で示してみたいな~と思ったことを盛り込んでみました。それは「ロシアにとって、ヨーロッパって何だ?」っていうこと、そして「中央アジアとひとくくりにしてしまいがちだけど、その中身は地域によってだいぶ違うんだぜ」ということなどに触れておきたかったということです。
 まず、受験生の皆さんには周知のことですがロシアは北方戦争を機にスウェーデンにかわってバルト海に進出します。ピョートルの時ですね。その後もロシアは各方面への拡大を続けますが、特にエカチェリーナ2世期の拡大は目覚ましく、クリミア半島、ポーランドなどへと領土を拡大します。バルト海、ポーランド、黒海北岸…まさに19世紀のロシアの南下政策の前哨戦のようなことを18世紀を通じてやっているわけで、これらは連続しているのですね。そういう意味で、どうしてもウィーン体制というとポーランド立憲王国がクローズアップされがちなんですが、ここではフィンランドにもそれなりの意味を持たせたかった。それまでスウェーデンの支配下にあったフィンランドは1809年にロシアに割譲され、フィンランド大公国としてこの国の大公をロシア皇帝アレクサンドル1世が兼任し(フィンランド大公としてはアレクサンテリ1世)、それがウィーン会議で国際的に承認されます。ですから、まさにポーランドと同じような流れで実質的にロシアの支配下に入りますし、民族運動が強まることもポーランドと類似しています。何より、フィンランドとポーランドを支配下においたロシアはバルト海東岸地域の完全な支配者で、それまでとはヨーロッパに対して示す存在感が圧倒的に異なります。これをお見せしたかったんですね。下は、19世紀のロシアとその影響下にある地域の地図です。


map-russia-19c
(http://www.globalsecurity.org/military/world/russia/maps-history.htm)

 また、中央アジアについてですが、当時ロシアが進出していたのは同じ中央アジアでも「カフカス地方」、「西トルキスタン」、「東トルキスタン」と複数あり、それぞれの地域で敵対する相手も、その地域の持つ意味合いもかなり異なります。まず、地理的な把握をしておきましょう。「カフカス地方」は別名を「コーカサス地方」ともいう、黒海とカスピ海に挟まれた地域になります(上の地図を参照)。ここには現在のグルジアやアゼルバイジャン、アルメニアなどがあり(下の図を参照)、豊富な天然資源(アゼルバイジャンのバクー油田などは有名です)もあり、民族構成も複雑で、現在でもチェチェンやナゴルノ=カラバフ、グルジア(ジョージア)などで紛争が起きました。当時ここをロシアと接していたのはカージャール朝イランで、建国したばかりのイランは南下するロシアとの戦いに巻き込まれていきます。トルコマンチャーイ条約が締結されるのはこの時です。

 Caucasus
(Wikipediaより引用)

 一方で、ウズベク人の3ハン国(ボハラ[ブハラ]、ヒヴァ、コーカンド)があるのは西トルキスタンで、これはカスピ海とアラル海をまたいだ地域になります。サマルカンドなんかはこの西トルキスタンの中心都市(現ウズベキスタン)になるわけです。
 こちらもイランと接していますが、この地域にある3ハン国を領有したこと、その後最後まで抵抗するトルクメンをギョクデぺの戦いで制したことは、より直接的にインドを植民地として持ち、イランへの進出を進めて3C政策を展開するイギリスにとっての脅威となりました。これは上の地図を見ればおわかりになるかと思います。そこでイギリスはアフガニスタンを緩衝地帯として保護国化、と言えば聞こえはいいですが、最後の最後でアフガニスタン人の抵抗にこっぴどくやられた結果完全支配することができず、外交面での帳尻合わせをしたに過ぎないかったわけですが、とにかくもロシアとの「住み分け」をする材料を手に入れます。この地域ではその後もしばらく緊張が続きますが、日露戦争でロシアが敗れたこととロシア第一革命(1905)を機に英露協商で同地域(イラン、アフガニスタン、チベット)の勢力圏が設定されることになります。

 また、東トルキスタンは現在の新疆ウイグル自治区です。よくシルクロードの地図ということで、タクラマカン砂漠を中心に天山北路、南路、西域南道などが出てくる地域ですね。実は、イリというのは現在の新疆ウイグル自治区で、まさにこの地域です。
 この地域で起こったイスラームの反乱の混乱に乗じて、コーカンド=ハン国の軍人であるヤクブ=ベクが同地域を制圧します。実はヤクブ=ベクはその後イギリスから武器などを援助してもらっています。ヤクブ=ベクによって同地に駐留していた清軍は追い払われてしまったわけですが、この地域にロシア軍が進駐します(1871)。清は左宗棠を派遣してヤクブ=ベクの反乱を鎮圧するのですが、ロシアが占領していたイリ地方をめぐってその帰属が問題となり、最終的にはイリ地方は東部を清が、西部をロシアが領有し、同地におけるロシアの通商権を認めるというかなりロシア寄りの内容のイリ条約(1881)によって決着がつきます。こうした意味で、イリ事件は西トルキスタンをめぐる英露の対立構図も絡んできて、その性格が強い一方、ロシアの清への進出政策の一環としてもとらえうる事件となっています。こうしてみると、中央アジア、とひとくくりに語るのはかなり乱暴だということがお分かりになるのではないかなと思います。
 前に書いておいたサン=ステファノ条約とベルリン条約の関係については、別稿を設けてお話しすることにしたいと思います。ではでは。
  
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