世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw 問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

 先日、ブログを友人に見せたところ「イタリア戦争の項目って、両シチリア王国の話でイタリア戦争の部分ほとんどなくねw」と言われましたw しかり、ごもっとも。ただ、これは何もHANDが手抜きをしたからとかいうことではなくて、単純に受験生に必要な情報に絞って書いたらこうなりましたよ、ということなんです。イタリア戦争については戦争の経過自体よりも「戦争に至るまでのイタリア周辺の政治状況の概略」と「イタリア戦争中に形成される大きな構図(ヴァロワ家フランスvsハプスブルク家)」、「イタリア戦争の意義(ルネサンスの衰退・主権国家体制の形成開始など)」が世界史では問われるので、そこに情報を絞ったんですね。ただ、こちらをご覧になる方の中にはイタリア戦争自体の概略を知りたい、という方もいらっしゃるかと思いますので、少し視点を変えてイタリア戦争について詳述しておきたいと思います。(この部分は特に世界史で頻出というわけではありませんし、おそらく知らなくてもどうにかなる部分かとは思いますので注意して下さい。ただし、稀に一橋などでちょっとはっちゃけちゃった場合に出題されることがありますw)

 

 まずは、イタリア戦争までのイタリア周辺の政治状況を概観してみましょう。おおざっぱにいうと、11世紀頃までのイタリアは北イタリアを神聖ローマ帝国、南イタリアを東ローマ帝国、シチリアをイスラーム勢力、さらには教皇領と4分されていました。ただし、この勢力図は実際には名目上のもので、イタリアの各地にはコムーネをはじめとする小国家が成立しており、これがその時々の勢力に応じて神聖ローマ帝国ないし東ローマ帝国の権威に服したり、逆に同盟を組んでこれらに対抗したりしていました。簡単に整理すればこのようになります。

 

(北イタリア)

 フランクによる制圧までは東ゴート王国→東ローマ帝国→ランゴバルドの支配、9世紀以降は中部フランクの支配下に入ります。この時期において特筆すべきことは、ラヴェンナが東ローマのイタリア支配の拠点となっていくことでしょう。本来、東ローマの派遣した部隊長的立場にあった東ゴート王国(テオドリックは東ローマ皇帝ゼノンによって派遣されています)のイタリア支配に否定的だったユスティニアヌスは東ゴートを征服してラヴェンナを占領。以降、この地は東ローマのイタリア支配の中心となる総督府がおかれる都市となります。サン=ヴィターレ聖堂(548年完成)に例のユスティニアヌスと皇后テオドラの肖像が描かれたモザイクがあるのはこのことによります。


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Wikipedia「サン=ヴィターレ聖堂」より引用)

 

 ですが、東ローマの影響力の低下とローマ教皇との対立の中で、東ローマのイタリア支配は難しくなり、8世紀の前半にはランゴバルド族にここを奪われます。その後は、フランク王国の侵入とピピンの寄進にいたるまでの受験生にはおなじみの流れになりますね。10世紀頃からは神聖ローマ帝国のイタリア政策に悩まされます。典型的なものがシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)のフリードリヒ1世などですが、これに対抗してイタリアでは1167年にロンバルディア同盟がミラノを中心にボローニャ・パルマ・マントヴァ・パドヴァなどのロンバルディア諸都市により結成され、1176年にレニャーノの戦いでフリードリヒ1世の軍を撃退した後も継続され、イタリアの教皇党(ゲルフ)の中心となります。一方で、イタリア内の皇帝党(ギベリン)の存在や、ローマ教皇との関係などにより、神聖ローマ皇帝がどの程度の影響力を有していたかは時代によってたえず変化しました。

 

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クリーム:ビザンツ帝国

オレンジ:ランゴバルド系の諸国

ピンク:係争地

Wikipediaより引用、8世紀初頭のイタリアです。)

 

(中部・南イタリア)

 南イタリアの多くの部分はランゴバルド系のベネヴェント公国の支配下に入りましたが、周辺諸地域は東ローマ(ビザンツ)帝国や、これから派生したアマルフィ公国、イスラームが支配するシチリア首長国などが乱立していました。理解しておきたいのは東ローマの影響力低下にともない、イスラーム勢力の浸透が見られたことです。もともとは東ローマの支配下におかれていたシチリアでしたが、この島を治めていた総督が東ローマに反乱を起こした際に援助を求めたことがきっかけで、アッバース朝支配下の独立政権アグラブ朝がシチリア島に侵入、これを段階的に制圧します。これにより、シチリアにはおよそ200年にわたってアグラブ朝系のイスラーム勢力であるシチリア首長国(831-1072)が成立することになりました。よく、シチリア島で育ったシュタウフェン朝のフリードリヒ2世の宗教的寛容性やイスラーム文化の受容、近代的視点などが言われ、テレビの特集番組などで紹介されることがありますが、その背景にはこうしたシチリア島や南イタリアの歴史的背景があるのです。

 

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10世紀末イタリア」

WikipediaList of historic states of Italy」より引用)

 

 その後、こうした様々な勢力が割拠していたイタリアに、ノルマン人たち、なかでもフランス・ノルマンディー公国で次第に貴族化したノルマン系貴族たちが入り込んできます。そのきっかけははっきりしませんが、「サレルノ伝承」と呼ばれる半伝説的な記録によれば、イスラームからの貢納要求に困っていた当地の領主のために働いたことがきっかけで、南イタリアで傭兵として働けばかなりの褒賞を得ることができるという噂が当時ヨーロッパで盛んになってきていた巡礼者の口を通して伝わったことからであるようです。このようにして入り込んできたノルマン系貴族の中に、ロベール=ギスカールとルッジェーロ1世がいたわけですね。彼らは、教皇のお墨付きをいただいて南イタリアの各地を統合していきます。


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1112年イタリア」

WikipediaList of historic states of Italy」より引用)

 

 その後、彼らが征した南イタリアをルッジェーロ1世の子、ルッジェーロ2世が継承して(両)シチリア王国となったことは以前「あると便利なテーマ史に書いた通りです。


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http://imillecoloridinapolii.blogspot.jp/より引用)

 

13世紀以降のイタリア)

 さて、それ以後のイタリアですが、皆さんもご存じの通り、北イタリアでは各地にコムーネと呼ばれる都市共和国や、シニョリーア制(もともとは都市共和国などであったものが、臨時に独裁官を任命することをきっかけに終身、世襲の僭主となること)などから発展した公国が成立します。代表的なものにはヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、シエナなどのコムーネやミラノ公国(ヴィスコンティ家)やフェラーラ公国(エステ家)などがあります。

 

 また、南イタリアでは、12世紀から13世紀にかけてはシュタウフェン朝が統治していた(両)シチリア王国(当時はシチリアと後のナポリ王国の領域を含めた全域が「シチリア王国」とよばれていました)でしたが、フリードリヒ2世死後の後継者争いの中で、教皇の支持を受けたフランス貴族アンジュー家のシャルル(シャルル=ダンジュー、ルイ8世子、ルイ9世弟)が兄ルイ9世の承認を受けてシチリア王国に侵入し、フリードリヒ2世の庶子であったマンフレーディを敗死させてカルロ1世としてシチリア王に即位しました(1266年)。

 

 ところが、突然やってきたこのフランス系貴族の支配にシチリア王国の民衆は不満を募らせていきます。当時、カルロ1世(シャルル=ダンジュー)は姻戚関係から滅亡したラテン帝国(1261年滅亡、最後の皇帝ボードゥアン2世の息子フィリップがシャルル=ダンジューの娘婿)の継承権を主張して東ローマ帝国のミカエル8世(パラエオロゴス朝)と対立していたため、住民から強制徴発などを行っていたとも言われます。こうしたカルロ1世に対する不満が噴出したのが1282年のシチリアの晩鐘(晩祷)とよばれる暴動事件です。事件の背後にはアンジュー家による地中海支配を恐れるイベリア半島のアラゴン家や、東ローマ皇帝ミカエル8世の謀略があったとする説もありますが、いずれにせよこの暴動事件に端を発する混乱の中でカルロ1世はシチリア島からの撤退を余儀なくされ、シチリア島にはこの混乱に乗じてカルロ1世を破ったアラゴン家のペドロ3世が侵入して、カルロ1世に敗れて死んだかつてのシチリア王マンフレーディの娘婿であることを理由として王位につきました。一方、シチリア島を追い出されたカルロ1世は南イタリアに逃れてこの地を確保し、あらためてナポリ王として即位します。その結果、それまでは「シチリア王」という称号のもとに統治されていたシチリア島とイタリア半島南部は「シチリア王国(アラゴン家)」と「ナポリ王国(アンジュー家)」の二つの王国に分割されていくことになります。

 

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14世紀イタリア」

https://jp.pinterest.com/pin/534309943262026426/より引用)

 

 

 その後、しばらくの間ナポリ王国はアンジュー家の支配下にありますが、15世紀に出たジョヴァンナ2世(女性)に後継者がなく、ジョヴァンナがその後継者に一度はアラゴン王アルフォンソ5世を指名したことなどがきっかけとなって、ジョヴァンナの死後にアンジュー家とアルフォンソ5世がナポリの領有をめぐって争います。この戦いに勝利したアルフォンソ5世はナポリ王位を獲得し、これ以降シチリア、ナポリともにアラゴン系の家系がこれを領有していくことになります。このように、南部においてシュタウフェン家→アンジュー家→アラゴン家とそれぞれ神聖ローマ帝国、フランス、イベリア半島と縁の深い家系が覇を競う一方で、北方のコムーネや諸侯国も周辺の大国や教皇との力関係の中で割拠する状態にありました。

 

 ですが、15世紀半ばのルネサンスが花開かんとしつつも群雄が割拠する時代に、イタリア半島全土を揺るがす大事件が起こります。オスマン帝国のメフメト2世によるコンスタンティノープル占領(1453)です。この事件が起こる前兆はすでに十数年前からイタリアにも届いていました。東ローマ皇帝ヨハネス8世(パラエオロゴス朝)が参加したバーゼル公会議(1431)とフェラーラ公会議(1438-39)です。両公会議は、1054年の正式分裂以来東西に分かれていたギリシア正教会ならびにローマ=カトリック教会の合同を餌として、オスマン帝国に対する十字軍の協力を西欧諸国から得るためにヨハネス8世が画策して開かれたものでした。ちなみに、この会議の際に多くのギリシア人学者がイタリアに来たことが、ルネサンスをさらに促進させることにつながったと言われています。一時は東西教会合同の署名が交わされるまでにいたった両会議でしたが、東ローマにおける人々の反対は根強く、ヨハネス8世の意に反してこの署名は教会、人民の総反対のもとで反故にされてしまいます。また、何とかこの合意に基づいて教皇の要請により派遣されたハンガリー王兼ポーランド王ウラースロー1世(ヴワディスワフ3世)の軍はオスマン帝国のムラト2世の軍に敗れ、ウラースロー自身も戦死してしまいました。

 

 実は、オスマン帝国のバルカン半島への進軍は15世紀の初めにある事情で停止していました。アンカラの戦い(1402)です。ムラト1世以来、アドリアノープル遷都(1366)、コソヴォの戦い(1389)、ニコポリスの戦い(1396)と、14世紀後半に着実にバルカン半島の奥へと侵攻してきていたオスマン帝国でしたが、後方に起こったティムールと雌雄を決したアンカラの戦いで皇帝バヤジット1世は捕らえられ、帝国は一時大混乱に陥ります。このため、バルカン半島への進行もストップします。

 

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ムラト1世時代の支配域の拡大

Wikipedia「ムラト1世」より引用)

 

 オスマンの攻勢に手を焼いていた東ローマ帝国では、ヨハネス8世の父であるマヌエル2世がこの好機をとらえて外交交渉に腐心し、オスマン帝国メフメト1世との間に友好的な外交関係を築き上げることに成功しました。しかし、その子のヨハネス8世はオスマン帝国に対する強硬策を主張し、メフメト1世の後を継いだばかりのムラト2世に対抗する、対立スルタンを擁立するという奸計を巡らせた上に失敗します。つまり、寝かしつけた虎の尾を踏んで起こしてしまったのです。先のバーゼル公会議、フェラーラ公会議は、オスマン帝国に追い詰められたヨハネス8世の苦肉の策でした。しかし、それも成果を上げることはなく、東ローマ帝国はヨハネス8世の次のコンスタンティノス11世がコンスタンティノープルでその命を散らした時に長い歴史に幕を下ろしました。

 

さて、この事態に驚いたのがイタリアの諸国です。それまでは自分たちの利益ばかり考えて半島内の勢力争いを行っていましたが、オスマン帝国が迫ってくるとなると話は別です。当面の争いは置いておいて、まずは共同戦線をはろうということで、イタリア半島の国際関係を安定させることにしました。その結果結ばれたのが「ローディの和(1454)」と呼ばれる和約です。イタリアを代表する当時の五大国(教皇領、ナポリ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア)が交わしたこの和平協定によりイタリアの政局は安定し、その後数十年にわたる盛期ルネサンス時代が訪れます。ボッティチェリも、レオナルド=ダ=ヴィンチも、ミケランジェロも、ラファエロもみんなこの時代に現われたのです。「イタリア戦争」が始まったのは、こうした15世紀の繁栄が終わりを告げようという、また一方では新たな世界への扉が開かれんとする、そんな時代だったのです。

 

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1494年、イタリア半島

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Italy_1494_AD.pngより引用)

 

(イタリア戦争)

ローディの和の一角が崩れ始めたのは1492年、コロンブスが新大陸を「発見」したこの年に、フィレンツェのロレンツォ=デ=メディチが病没します。メディチ家を継いだのは若干20歳のピエロ=デ=メディチでした。 

このことが周辺諸国の不安を煽ります。中でも不安に陥ったのはミラノ公国の実質的な支配者であったルドヴィーコ=スフォルツァでした。背後に大国フランスを抱えるミラノ公国の状況をよく知るルドヴィーコは、ロレンツォのいなくなったフィレンツェとの同盟関係の見直しに入ります。当時、ルドヴィーコは、甥のジャン=ガレアッツォから実権を奪う形でミラノ公国を取り仕切っていました。そして、そのジャンが1494年に亡くなったことをきっかけに正式にミラノ公位につきます。ところが、ジャンの妻であるイザベラ=ダラゴーナがナポリ王アルフォンソ2世の娘であったことからアルフォンソがこれに異議を唱えます。こうして、イタリア半島内における自身の立場が怪しくなったことを悟ったルドヴィーコはフランスに接近し、フランス王シャルル8世にナポリ王位の正式な継承権はフランス王家にあるのではないかとたきつけて自領の通行権を認め、フランス軍を北イタリアに引き入れます。フィレンツェのピエロはこの際、戦乱を嫌うフィレンツェ市民によって追放されてしまいました。フィレンツェはナポリ王位を要求して南イタリアへと進軍するシャルル8世のフランス軍の通行を許可します。イタリア戦争の始まりです。(ちなみに、この出来事を予見していたとされたサヴォナローラがその後フィレンツェで信望を集め、フィレンツェでは数年間彼の神権政治が展開されます。)

 

一時は2万を超す大軍を擁してイタリア入りしたシャルル8世でしたが、ナポリをはじめ、ナポリの親類筋のスペイン(カスティーリャ・アラゴン)や、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ教皇、神聖ローマ帝国、さらに一度はフランスについていたはずのミラノ公国のルドヴィーコらが連合軍を組織したことで追い詰められ、目的(ナポリ王位の継承)を果たせぬままに撤退します。その後、シャルル8世の後を継いだルイ12世(シャルル8世の義兄)は、再度遺恨の残るミラノ公国やナポリ王国への進軍を計画しますが、失敗に終わります。

その後もいくつかの小競り合いが続きますが、イタリア情勢が新展開を見せるのは1519年の神聖ローマ皇帝選出選挙です。この選挙ではフランスのフランソワ1世が対立候補として名乗りを挙げましたが、ハプスブルク家を継いだカール5世(カルロス1世)がこれを撃退し、神聖ローマ皇帝に選出されます。このことで、自領をハプスブルク領に囲まれることになったフランソワ1世は、自国防衛の拠点を確保するため、ピレネー山脈やネーデルラントで軍事行動を起こし、さらに停止していたイタリアでの戦闘も再開されました。

 

 ハプスブルク家

http://tabisuru-c.com/travel/germany_201205/germany_history/germany6.htmより引用した地図を一部改変)

 

この戦いの中で、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国とスペイン、教皇とそれに味方するイタリア諸侯、イングランド(当時はヘンリー8世)などを敵に回し、国際的に孤立したフランソワ1世は、遠く離れたオスマン帝国のスレイマン1世の宮廷へ使節を派遣し、カール5世と対抗させる同盟関係を構築することになります。(この中で、後のカピチュレーション[オスマン帝国による恩恵的諸特権]の素地が作られていくことになるわけです。)このようにしてヨーロッパのみならず、地中海全域を巻き込んだ戦いはヴァロワ家、ハプスブルク家の双方を疲弊させ、財政難にあえがせることになりました。カール5世の退位(1556年)をきっかけとして、これらの国々の次代の王たち(フランスのアンリ2世、スペインのフェリペ2世)によってカトー=カンブレジ和約が締結されたのは1559年のことです。イタリア戦争は、アンジュー家のシャルルの頃から続くイタリア領有の夢をかなえることなく、ハプスブルク家の優位を16世紀ヨーロッパにつくりだして終わりました。フランスが、ハプスブルク家に対してその遺恨を晴らすのは、三十年戦争後の1648年、ウェストファリア条約を締結するブルボン家の統治においてでした。

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 山川は「〇〇ノート」と名のつく学習ノート形式のものを非常に数多く出しています。これらの学習ノートは外見も非常に似ており、本屋の店頭に行くとこれでもかというくらいにおいてあるので、受験生からすると「そもそもこいつらは役に立つのか。いや、それ以前にこれらはどのような違いがあるのだろう」と迷ってしまうというのがこの山川の学習ノート群です。ためしに、いくつか例を挙げてみると、

 

・『詳説世界史ノート』

・『授業用 詳説世界史B整理ノート』

・『詳説世界史学習ノート:上』

・『詳説世界史学習ノート:下』

・『流れ図で攻略詳説世界史』

・『詳説世界史スタンダードテスト』

 

などなど。とにかく似ています。そっくりです。どれくらい似ているのか。

まず、学校の教科書などとして使われている「詳説世界史B」です。

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つづいて、『詳説世界史ノート(本書)』です。

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『流れ図で攻略:詳説世界史B』です。

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『詳説世界史スタンダードテスト』です。

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 これらが同じような水色の表紙に包まれて本屋に陳列されている様はさながらスライムなのか水色のぷよぷよなのかわからない連中が群れをなしているかのようです。開いてみると、内容的にも一見、「む、どこに差があるのだろうか」と思わせるほどよく似ています。

 これらの学習ノート・問題集群の中でおそらくもっともよく見かけ、さらに受験用のまとめに適しているだろうと思われるのがこの『詳説世界史ノート』です。本書の「使い方」として、表紙カバーには以下のようにあります。

 

このノートは、『詳説世界史』の流れに沿ったノートです。教科書に完全準拠しているので、授業の予習・復習はもちろん、受験のための自宅学習にも最適です。

 

また、本書の冒頭にある「内容と使用法」にはこのように書いてあります。

 

 『詳説世界史』に完全準拠しており、教科書の構成・本文の流れに忠実に沿ってつくられています。内容は教科書の記述を逸脱せず、過不足なく整理されております。

 

たしかに、その通りなのでしょう。実際、私もその通りだと思います。学習ノートとしてよく練ってあると思いますし、仮にこれを一般の中高における世界史プリントとしてそのまま用いたとしても、特に問題なく使用できるレベルに仕上がっていると思います。

 

ただ、ここで注意しなくてはならない点があります。それは、ここでいう『詳説世界史』とは、高校の教科書として用いられる『詳説世界史B』のことをさしているのであって、私が最初に紹介した受験生のバイブル『詳説世界史研究』のことを言っているのではない、ということ(多分)です。実際、本書を手に取って実際に進めてみると、『詳説世界史研究』と比べるとやや内容が薄いことに気付きます。このことが何を意味しているかというと、本書を解き進めるだけで東大をはじめとする難関国公立ならびに早慶の難関学部に対応するだけの学力が身につくかは「微妙」だということです(身につかない、と言っているのではありません。使い方次第です。)要は、『詳説世界史研究』の方が情報が濃いのです。これは本書の出来が悪いと言っているのではなく、単純にその目的とするハードルが違うのです。つまり、本書はあくまでも教科書『詳説世界史B』のまとめ用の学習ノートに過ぎず、『詳説世界史研究』のまとめ用学習ノートではない、ということです。ちなみに、『詳説世界史研究』はこちらです。

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 『詳説世界史ノート』のつくりですが、以下のようになっています。
 スライド1


右側に内容がプリント風にまとめてあって、左側に番号に入る言葉を入れていく形式ですね。ですが、私はこのやり方で本書を利用することはおすすめしません。私がもし本書を使うならこうします。

スライド2

おわかりになるでしょうか?つまり、ダイレクトに書きこんでいってしまうということです。本気で覚えるつもりなら絶対にこうしたほうがいいです。理由は二つあります。一つは、もし左の「解答欄」に答えを書き入れた場合、必ず目は「右」というように往復を繰り返します。これが思いのほかに負担になりますし、なにより時間のロスにつながります。二つ目ですが、経験則で申し訳ないのですが、私は記憶にとって「視覚情報」は非常に重要だと思っています。「目で」見た印象というのは意外に頭に残っていたり、忘れてしまったとしても何かの拍子に「ひょいっ」と飛び出してくるものなのです。直接書き込んだ場合、その単語を見たときの視覚情報はその周辺の情報も連れてきてくれる、引き出してくれる可能性がありますが、「解答欄」に書きこんでしまった場合、右の「まとめページ」の情報と左の「解答欄」の情報が断絶してしまい、「視覚情報」からは何も引き出せなくなってしまいます。これが本番では意外に大きな差となって出てくる、というのが私の印象です。こうしたことは、本書の活用に限らず、たとえば地図を覚えるときにも当てはまります。下の例を見てみましょう。(ちなみに、この地図は私が無料の白地図サイトから保存したフランスの地図を加工して作ったもので、本書の内容とは無関係です。)

 

地図記入例1

 

地図記入例2

 Aはダメな例、Bが良い例です。一目瞭然だと思いますが、Bの方は名前を覚えると同時にその都市がある「場所」の情報も一緒に視覚情報として取り入れることができます。何かを覚えて、自分の知識として消化する場合、こうした何気ない小さなことが大きな差となってあらわれることがありますので、「なかなか覚えられないな」という風に感じている人は、自分の学習方法に何か改善できる点があるのではないかと疑ってみましょう。

 

[本書が向いている人]

・世界史を習い始めたが、自分で「世界史B」の教科書レベルの内容をある程度まとめて、覚えてみたいという人。(高1、高2)

・様々な理由から、「世界史B」の教科書レベルの通史をざっとおさらいをしたいという人(高2、高3)

・あまり細かい説明はどうでもいいので、とりあえず必要最低限のつながりと用語だけ頭に叩き込んでおきたいという人。

・センター試験レベルの世界史に最低限対応できる力を急遽(2か月~半年程度)で身につけたいという人。

・東大、早慶クラスは正直あまり考えていないという人。

・『詳説世界史研究』を用いて自学自習しているが、その前提となる書き込み用教材が欲しいという人。(ただし、余白はあまりないのですごく細かくなる覚悟を)

・学校や塾の先生があまり副教材を作ってくれない&板書もしょぼくてまとめのしようがない、という人。

 

[本書をあまりオススメしない人]

・東大、早慶レベルの世界史に真っ向から立ち向かって高得点をゲットしたい人。

・話の細かい流れ、説明がないと満足できない人、覚えにくい人。

・図表や地理情報も含めて世界史を理解したい人。

・すでに模試で高得点を取れる人。

・学校や塾の先生から十分なレベルのプリントなどの副教材を与えられている人。

・学校や塾の先生の板書が充実していて、それをまとめれば教科書レベルの内容はきちんとわかるようになっている人。

・『詳説世界史研究』を用いて自学自習が進められている人。


 

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 「プリントが全然覚えられないんです。頑張って勉強はしているんですが、間に合わなくて…」という相談があります。実際「ものすごく」とまでは言わないにせよ自分が使える時間の中できちんとそれなりの時間をかけてやっている様子ですから、本人が困っている様子は伝わってきます。

 ちなみに私が「ものすごく頑張る」といった場合、吐き気をもよおすレベルで勉強することを指しています。10時間ぶっ通しで『詳説世界史研究』とにらめっこ」、「10行分の文章丸ごと暗唱」とかは高1の頃にすでにザラでしたが、英語と数学はとことんやりませんでしたw ある意味何が「やる」で何が「やらない」ということなのかはよくわきまえていましたw 
 英単語ターゲットは
14001900の両方をセンター試験が終わってから購入して、早稲田の2次試験までの一か月強で全部覚えました。私は高3の頃は(世界史以外)全然勉強していなかったのと、コミュ障のために情弱だったので、そもそもターゲットの存在自体をセンター試験終わるまで知りませんでしたw センター試験終わったところで「ヤバイ、やらなきゃ」と思って「こたつ・みかん・ターゲットw」みたいな状態でこもり切りでやったら意外と覚えられました。吐き気はしましたが。結局浪人しちゃいましたが、ターゲット覚えただけで英語の偏差は10以上上がりました。いかに自分が勉強していなかったかがよくわかりました↓ おかげで数学に集中できたので最終的には東大や一橋に通るだろうくらいの成績までは上がりました。

 

 現代文ができる人は、英語は英単語さえ覚えれば長文の内容が何となくわかるようになりますので、あとは努力次第でどうにかなりますよ。私が英語をそれなりに扱えるようになったのは30歳過ぎてイギリスに留学してからです。私、脱サラして(コミュ障で仕事嫌いなので)イギリス史専門の研究を進めたのですが、さすがに自分のお金をかけて後がない勉強を強いられるとやりますね…。 英語は英文の学術専門書の1~3冊も真面目に自力で読むようになれば自然と身につきますので、高校生のうちに苦手だからと言って気にしなくても大丈夫です。会話はしゃべらないとだめですけどね。未だに会話は苦手です。コミュ障なので。そのうち留学の話なんかもUPしてみましょうかね。手続きとかえらい面倒でしたし、お金どこから引っ張ってくるとかでも結構苦労しました…。

たまに気にされるので大学受験の結果をお伝えしておくと、浪人して一橋・早稲田×4・慶応などに合格し、11戦9勝でした。受けすぎですよね…でも怖かったんですよ。車の免許を取る金だと思って!と親に土下座しました。でも早稲田に進学したらめっちゃ怒られましたw 落ちたのは上智の法(上智の英語はエグイ!大問1題あたりかけられる時間が10分ないって何だw)と、東大の後期です。センター試験でやられました。はっきり言って能力不足です。ちゃんとやるべきでした。いや、ちゃんとできないのだからそれも含めて能力不足ですね。昔、弟に「兄ちゃんはやれば何でもできるのにやらないから嫌いだ!」と言われたことがあります。弟よ、それは違う。兄ちゃんは「やれない」人間だから、「やれば」というifは意味をなさないのだ。つくづく「努力を継続できる」というのは得難い「能力」なのだと痛感します。

 

あ、脱線しまくりですね。そうそう、「プリントが覚えられない」と困っている受験生がいるときには、以下の方法を示してあげて一緒に暗記してみると「全然覚えられない」と言っていた子でもそれなりに頭に入るようになります。人によっては急激に改善して覚えることが苦にならない子も出てきます。そこで、今回は実際にプリントを使いながら、どうやって覚えるのか、その手順を示していきたいと思います。ちなみに、今回使うプリントは私が講習のために作った通貨・金融史のプリントの解答です。

 

  まず、絶対にしてはいけないのが、ページ全体に目を通して覚えて、再度一番前に戻る、という手順を繰り返すやり方です。(画像はクリックで拡大、さらにクリックでもっと拡大できます。)

 

 スライド1

 

これははっきり言って一度にインプットする量が多すぎて処理しきれません。冒頭に戻った時にはすでに内容を忘れているから、また読んで…の繰り返しで非常に効率が悪いです。効率を高めるためにも、まず以下の手順を試してみてください。

 

  とりあえず、何が書いてあるのか話の概要を理解する。

:「人類の誕生」について書いてあるのか「フランス革命」について書いてあるのかくらいの大雑把な内容くらいは把握しておきましょう。

 

  プリント全体の地図を描く(プリント全体をブロック化する)

:上のプリント(画像)で言えば、1に「鋳造貨幣」、2に「紙幣」についての話が書いてあるんだな、くらいの理解で十分です。

 

  ③で理解したテーマごとに、自分がまず覚えるべきブロックを見定めます。


スライド2
 

テーマを確認するためにも、これから自分が覚えようとする内容が何であるか、見出し語には注意を払いましょう。


 スライド3

 

  少し量が多いかな、と感じたらそのブロックをキリのいいところでさらに細分化してみましょう。基準としては、覚えるべき内容が4語~10語程度が無理もなくて最適です。


 スライド4

 

  自分で決めたブロックだけを集中してものすごく短い時間で覚えます。覚えるべき言葉が4語であれば、長くて2分もあれば十分でしょう。肝心なのは、2分と時間を決めたらそこでやめること。また、周辺の内容もある程度は把握しておきましょう。


スライド5

 

  2分経ったら、覚えているかどうかをチェックしましょう。一人でやってもいいですが、友達と出し合いっこをする方が手間もかからず時間も省けて効果的です。もし、半分程度しか覚えていないようでしたら再度時間を短くして覚えます。おそらく、これが終わる段階で覚えている内容がゼロ、ということはあまりないはずです。



  終わったら、次のブロックも同じ手順を繰り返します。できるだけ、単語だけに目をとらわれるのではなく、関連事項と結びつけるようにしましょう。それがヒントになって思い出せることが増えてきます。


 スライド6

 

  いくらか進んで一つのテーマがおわったら、全体を把握するために再度目を通して頭の中に入れた知識を「ならし」ます。2~3分で十分でしょう。

 

 スライド7

 

  最初のブロックが終わったら次に進みます。


 スライド8

 

おそらく、プリント1枚につき4~5分割くらいが一回に覚えるのに最適な分量です。「無理がない」というのが一つのポイントです。過度な負担をかけると、疲労感だけがたまって肝心の内容が頭に入っていないということになりがちです。全ての作業が終わることには、20分から30分程度でプリント一枚分の暗記が完了しています。

 

スライド9
 
スライド10
 
 

基本的な手順は以上の通りなのですが、効果的に行うためにも、以下の点に注意しておくとよいでしょう。

 

・ダラダラとはやらない。超短期、超集中!なので、疲れてきたら休みましょう。その意味でも、一夜漬けはおススメしません。1時間、長くて2時間半が限度でしょう。

・中国史の場合、漢字の書きがあっているかどうかにこの段階でこだわるのはやめましょう。まずは「ことば」と「内容」が頭に入っているかどうかにこだわって、漢字などの細かい部分は最後の「ならし」の時に確認して、怪しいものがあればマーカーや目印などでチェックをつけておきましょう。できるだけ一度にいれる情報量が少なくなるようにするのがコツ。

やりっぱなしにしない。一度覚えたら、その日のうち、3日後、一週間後、どこでもいいですから必ず「思い出す」作業を行いましょう。一度覚えたことは、3日~1週間たつと急激に失われるそうですが、それまでに再度「思い出す」ことで定着を図ることができます。その際、実際にプリントを開く必要は必ずしもありません。むしろ、自分で「思い出す」作業を行うことが肝心です。極端な話、授業を聞いた後で帰りの電車の中で「今日、先生は何の授業をしてたっけなー」と考えるだけでもかなりの意味があります。

・何度かやっているうちに、「いつもここだけ忘れている」、「ここだけは注意しないと」というところがでてくるので、そこにマーカーなりで印をつけておくとやり直すときに便利です。やり直しをする時には、すでに覚えているところは省いて、覚えていないところだけを集中してインプットするようにすれば、時間も労力も短縮できる上に、自分が覚えなくてはならない対象に集中することができます。勉強すればするほど自分の労力が減るような学習をすることが効果的です。

 

今回の「プリント暗記法」は以上です。他にもいろいろ工夫の仕方はありますが、まずは自分の出来る範囲で試してみてください。

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