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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw 問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

 東アジアの通貨・産業・金融史に続いて、ヨーロッパ通貨・産業史と近現代の金融史についていくつか補足しておきたいと思います。

 

【ポイント①:リディアと古代ギリシアの商工業】
:取引手段としての金銀は古代においては「鋳造」されて用いられるのではなく、塊で取引され、その重さが交換の基準となりました。世界で最古の鋳造貨幣と言われるのは、リディアにおいて鋳造されたエレクトロン貨です。ここで注目してほしいのはリディアと古代ギリシアの位置関係です。世界史の教科書ではこの両地域の歴史は別々に出てくることが多いので受験生はあまり意識することがないのですが、実はリディアが勢力圏としたアナトリアと古代ギリシアは目と鼻の先にあります。

リディアメディア新バビロニア_国名入

そして、リディアが栄えたのは紀元前7世紀~紀元前6世紀です。さらに、『詳説世界史』の記述を見ると「ポリスの発展」という節に「前7世紀、小アジアのリディアで始められた鋳造貨幣をイオニアのポリスも取り入れて」とあります。このように、注意深く見ていくと一見別々の世界のように感じられるメソポタミア地域の歴史と古代地中海世界の歴史は、アケメネス朝の登場を待たなくてもリンクしてきます。

 各地に植民市を建設し、鋳造貨幣を取り入れた古代ギリシアはその商業活動を活発化させていきます。こうした中で、アテネで鋳造されるのがテトラドラクマ銀貨です。これは、ペイシストラトスが開発を奨励したラウレイオン銀山の銀をもとに鋳造されたものです。

 
SNGCop_039
 Wikipedia「テトラドラクマ」より引用)


【ポイント
:「価格革命」の虚実】

:世界史の教科書や参考書には「価格革命」について以下のように書いてあります。

 

アメリカ大陸から大量の銀が流入して、価格革命とよばれる物価騰貴がおこった。これは、停滞していた経済活動に活気を与え、「繁栄の16世紀」をもたらした。農村にまで貨幣経済が浸透すると、農民の一部は経済力をつけて領主から自立するようになった。すでに固定額の貨幣地代が普及していた西ヨーロッパでは、貨幣価値の下落は領主層に大きな打撃を与え、封建社会の崩壊を促進した。」(東京書籍『世界史B』、平成27年度版、p.220.

 

しかし、実は『詳説世界史』にはこれに加えて目立ちませんが重要な記述があります。

 

 「その結果、銀の流通量が急速に増加したことが一因となって、ヨーロッパで激しいインフレーション(いわゆる「価格革命」)がおこった。16世紀を通じて、物価を数倍に引き上げることになったこのインフレには、ヨーロッパ全域における人口の激しい増加という原因もあったがいずれにせよ、この物価騰貴によって額面の固定した地代に依存する伝統的な封建貴族は苦境にたち、資本家的な活動をする新たなタイプの地主や農業経営者は、大きな利潤を獲得するようになった。」(『改訂版 詳説世界史研究』、山川出版社、2016年版)

 

実は、この赤い部分で示したところがカギなのです。近年、価格革命が銀の大量流入にのみによって引き起こされたという説は否定されつつあります。たとえば、例の世界システム論を日本に紹介したことで知られる川北稔は銀流入説を否定し、人口増加説をとっています。(村岡健次・川北稔編著『イギリス近代史宗教改革から現代まで』ミネルヴァ書房、1986年) 下の二つの図を見てください。これは、16世紀から17世紀にかけてスペインに流入した銀の5年ごとの流入平均量(最初の図)と累積流入量(2番目の図)、そして価格指数を比較したものです。(平山健二郎「16世紀『価格革命』論の検証」経済学研究58(3)2004年、207-225より。これは関西学院大学リポジトリより全文を参照することができます。)

 
スペインへの金銀流入量と価格

スペインへの金銀流入累積と価格
 
まず、図1を見ると、たしかに1500年代の後半に銀の流入量が増えるにつれて価格も上昇していることが見てとれます。また、図2を見ても銀の累積流入量が増えるにつれ、価格指数も上昇しています。かつての研究者たちはこれを根拠として銀流入による物価騰貴、すなわち「価格革命」論を展開しましたが、これには問題となる点がいくつかあります。

 

 流入量と価格指数に相関関係があるとすれば、1600年ごろから銀の流入量は減少傾向にあるのに価格が高止まりしている理由に説明がつかない。(図1)

 同じく、累積量が価格指数に影響を与えるとすれば、増加するほど価格が上がるはずであるが、1600年以降、累積流入量は増え続けているのに価格は頭打ちになり、むしろ下落傾向を示していることが説明できない。(図2

 

とくにこの2点が問題点として目立ちます。その他にも、金銀の流入比と各地域の価格上昇に一致が見られないこと(金銀が大量に流れ込んでいる地域も、逆にむしろ流出していく地域も同じように価格が上昇しているなど)や、金銀が大量流入する以前からすでに価格上昇が見られることなどから、少なくとも銀流通量の増加のみを根拠とした価格革命説は否定されつつあります。

 

 スペインへの金銀輸入量

ストックホルム地域の価格
(表12ともに前出、平山[2004]より引用)

 

かわって、登場してきているのが「人口増加説」です。以下は中世ヨーロッパにおける人口増加のグラフです。

  9010

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9010.htmlより引用)


1300
年代の人口急減の原因は当然のことながらペストですが、その後のヨーロッパの人口は安定して回復傾向にあります。1500年代に5600万人ほどであった人口は1650年ごろには一億に達します。要は、新しい説では急激な人口増加に食糧生産とその分配が追いついていないことが価格上昇の原因であるとするわけです。

 「そんなことになっているなら、どっちを覚えたらいいの?」ということに受験生ならなると思います。もちろん、教科書や参考書には銀流入説が主体で書いてあるわけですから、まずはこちらを把握してかまわないと思います。ただ、裏にこうした説があることを理解しておいて損はないでしょう。たとえば、慶応大学の経済学部の世界史ではたびたびこうしたグラフや表を示しながら歴史的事象を解説させる問題が出題されますが、こうした出題の仕方で「近年、価格革命論のこれまでの説明の仕方には批判が高まっているが、それはなぜか。示した図表を参考にして説明しなさい」などのスタイルの出題がされないとは限らないからです。歴史とは常に一方向からだけ見たものが正しいとは限らないということを意識して学習することが必要となるでしょう。

 

【ポイント ブレトン=ウッズ体制の本質を考える】
:最近になってようやく戦後史の中でブレトン=ウッズ体制をはじめとする国際通貨体制について語られるようになってきました。私が大学を受験する頃は、ブレトン=ウッズ体制はあまり注目されず、むしろGATTなどが強調されていたように思いますが、これはおそらく1980年代に日米が貿易摩擦の真っ只中にあったことや、様々な分野で輸入自由化などが論議されていたことと無関係ではないのでしょう。いつの時代でも、望むと望まざるとにかかわらず、その時代の問題関心の影響を少なからず受けるものです。その意味で、純粋にバイアスのかからない物の見方、歴史像というものもないと思います。

だとすれば、1990年代末のアジア通貨危機や2008年のリーマンショック、近年のアベノミクスや米国のQE(量的緩和)をはじめとする世界中の中央銀行の非伝統的な金融緩和策など、金融の国際化とそれに伴う諸問題が様々な場面で俎上に載せられる中で、戦後の金融政策が歴史学において注目され始めることは、なんら不思議なことではありません。しかし、それでは教科書や参考書はこうした戦後の国際金融体制について満足のいく説明をしているのでしょうか。無理もないことではありますが、教科書や参考書に最新の知見が登場するまでにはある一定のタイムラグというものが存在します。なぜなら、新説に対する評価がある程度定まり、通説として教科書なりに載せるに足ると判断されるまでには多くの人々の検証を経る必要があり、それにはそれなりの時間がかかるからです。学校の教員なり、塾の講師なりに教科書や参考書以上の価値があるとすれば、その一つはこうした新しい知見に対する巷の評価を吟味、検証して紹介する点にあるのではないでしょうか。(もちろん、それは押しつけであってはならないし、それだけが価値なのではないと思いますが。)

 

 さて、まずブレトン=ウッズ体制についてですが、さすがに『詳説世界史研究』にはある程度の記載が見られます。これについては私の方でも基本的な流れは「通貨・産業・交易史」の方で示しておきました。しかし、この体制がある意味で西側諸国におけるアメリカの「金融面での覇権」を確立した、という視点を提示しているものは皆無に等しいのではないでしょうか。世界システム論的に言えば、覇権国家は生産・流通・金融の順にその覇権を確立していくとされますが、この金融覇権をアメリカが握ったのがまさにこのブレトンウッズ体制の成立によってでした。それまでは英連邦内諸国との経済的つながりのなかでかろうじて基軸通貨としての面目を保っていたイギリスでしたが、このブレトンウッズ体制がいわゆる「金=ドル本位制」によって各国の通貨がドル・ペッグ制(自国の貨幣相場をドルと連動させること)をとったことにより、この体制成立以降は名実ともにドルが世界の基軸通貨となります。

実は、イギリスのスターリング=ポンドの地位下落は1944年に突然もたらされたものではありません。すでに第一次世界大戦が終了した段階で、イギリスの金保有量はアメリカのそれを下回っていました。「黄金の20年代(または狂騒の20年代)」を経て、対外貿易輸出額でイギリスを凌いで世界トップに躍り出たアメリカは、たしかに世界恐慌による痛手をうけたものの、当時最先端であったケインズ経済学(修正資本主義)を採用したニューディール政策をはじめとする諸政策によって30年代の後半には恐慌前の状態に近いところまで回復します。一方、イギリスはこの世界恐慌をポンド=ブロックの形成によって乗り切ろうとしたものの、ヒトラーとの未曽有の大戦に巻き込まれた結果、その経済に完全にとどめを刺されてしまいました。一方のアメリカは1941年のレンド=リース法(Lend Lease Acts)によってイギリスをはじめとする各国へ軍事物資を供与し始めます。その結果、イギリスは総額314億ドル(現在価値でざっと45兆程度)もの軍需物資を実物で貸与されることとなりましたが、これによりイギリスはアメリカに対して膨大な「債務」を負うことになってしまいました。さらに、戦争が終わりに近づいた時点でアメリカは世界全体の金保有量の7割以上を有していました。

こうした中で戦後の国際経済体制についての話し合いである「ブレトン=ウッズ会議」が開かれたわけですが、戦後経済の主導権をアメリカが欲したのは当然の成り行きでした。しかし、イギリスはどうにかその経済的覇権と面目を保とうと英国の誇る経済学者であるケインズを会議に派遣します。ケインズはドイツ経済学者シューマッハーとともに超国家通貨(というか、決済手段)「バンコール」の創設を提唱することによってポンドの相対的な地位低下を隠そうとしました。これに対しアメリカの財務次官補ハリー=ホワイトが対抗案を示し、ケインズの案と競った結果、IMFの創設やドルを基軸とする国際通貨体制など、ホワイト案にそった解決がなされてアメリカは金融における「覇権(ヘゲモニー)」を確立するに至ります。(ちなみに、バンコールは近年、国際的な金融危機が頻発することを受けて再度注目を集めました。)

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ケインズとホワイト

Wikipedia「ハリー=ホワイト」より引用)

 

 確かに、その後のECの台頭や金の欧州への流出、ドル=ショックとその後の変動相場制への移行など、アメリカの相対的地位低下を示す事例が続くことになりますが、それでもドルは依然として国際経済における基軸通貨ですし、プラザ合意やルーブル合意などを見るまでもなく、アメリカの金融政策や経済政策が各国に与える影響は依然として大きなものがあります。一方、当初はブレトン=ウッズ体制の維持という役割を与えられたIMFも、変動相場制への移行以後は各国通貨の安定と経常収支が悪化した国への融資など、その役割を変えつつありますが、1994年のメキシコ通貨危機、1997年のアジア通貨危機などではその役割に限界も感じさせるようになってきています。[これについてはポール=ブルースタインが書いたノンフィクション『IMF』の日本語版(東方雅美訳、楽工社、2013年)が3年ほど前に出版されましたが、これは実に面白いです。基本的な経済の仕組みさえわかっていれば、高校生でもその面白さを感じるには十分ですし、何より世界経済の最前線の裏側を覗き見るかのような興奮があります。] 20世紀半ばにアメリカが築いた金融の「覇権」の行方がどのようになるのか、21世紀はそれが問われる時代なのかもしれませんね。

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1 古代・中世通貨史(ヨーロッパ・西アジアほか)

【古代世界】

①古代メソポタミア・エジプト
:価値の尺度としての金銀の使用 
(ただし、定量・同形状の「貨幣」としてではない。)
 ex. ハンムラビ法典中の財産関係の記述に出現

②紀元前
7世紀
リディアで世界初の鋳造貨幣が作成(エレクトロン貨)
 →隣接するイオニア地方に伝播
 (ギリシアにおける商工業の発展と平民の台頭→民主政の進展)

③紀元前
4世紀ごろまで
:交易の拡大による鋳造貨幣の普及
 →古代ギリシア・マケドニア・アケメネス朝などで使用される
  cf. ダレイオス1世による貨幣の統一

 

【ローマ帝国・中世地中海世界】
:金貨・銀貨・銅貨を鋳造し、貨幣経済が発達

①1世紀~2世紀
:「パクス=ロマーナ」(オクタウィアヌス~五賢帝の時期)
・地中海沿岸地域を中心に貨幣経済が発展、各地に地方都市成立
 (ウィンドボナ、ロンディニウム、ルテティア)
・インド・東南アジアと季節風貿易
 (『エリュトゥラー海案内記』に記述)
 ex.1 扶南(カンボジア)の港オケオからローマ金貨が出土

 ex.2 南インドのサータヴァーハナ朝や前期チョーラ朝にはローマ金貨が流入1世紀頃から)
 ex.3 南インドのパーンディヤ朝からローマのアウグストゥスに使者?AD22年、ストラボンによる記述)

②4世紀
:コンスタンティヌス帝によるソリドゥス金貨鋳造(東ローマではノミスマ
:「3世紀の危機」後の経済混乱を収拾して国際交易の安定化を図る 

 →ローマ帝国・東ローマで流通(11世紀まで高純度を保った「中世のドル」)

 ソリドゥス金貨

Wikipedia「ソリドゥス金貨」より)

③7世紀
:ウマイヤ朝がディナール金貨・ディルハム銀貨を鋳造
 (5代カリフ、アブドゥル=マリク[アブド=アル=マリク]の時代)

  アフリカのガーナ王国(サハラ交易[金-岩塩])、ヌビア(現スーダン)などから金供給
  ディナール金貨はノミスマ(ソリドゥス金貨)の流通していた旧東ローマ帝国で、ディルハム銀貨は旧ササン朝領で流通したが、アッバース朝下の9世紀には金銀二本位制に移行した

ディナール・ディルハム
Wikipediaより 

サハラ交易
 
 Wikipedia「ガーナ王国」の地図より作成)
④13世紀
:フィレンツェがフローリン金貨を発行(~16世紀)
:メディチ家の支店がヨーロッパ中に存在し、金融ネットワークを作っていた
 →取引において優位に

 →ヨーロッパ全土で金貨の流通(ただし、希少なので主に銀貨・銅貨が併用される[実質的な銀本位制] 

フローリン金貨
 

 Wikipediaより引用

2 大航海時代とアメリカ銀の流入

【ヨーロッパ】
:1492 コロンブス(ジェノヴァ人、スペインの援助を受ける)によるアメリカ大陸の「発見」
 →スペインによって大量のアメリカ銀がヨーロッパに流入


(影響)
① 価格革命
:新大陸からの大量の銀の流入によって貨幣価値が下落・物価高騰
 →西欧地域で商工業が活発化
 →定額の貨幣地代にたよる封建領主に打撃
 →封建制崩壊を促進
② 商業革命
:貿易の中心が地中海岸から大西洋岸に移動

 →大西洋岸の都市(リスボン・アントワープなどが発展)

 →17世紀に入るとアムステルダムが国際金融の中心都市に 

価格革命
 Wikipediaより[一部改変]

 

【アジア】


1521
マゼランの世界周航

1545 ポトシ銀山発見
1565 フィリピン領有
1571 マニラ建設
   →アカプルコ貿易の展開(メキシコ銀と中国の絹織物・陶磁器を交易)

 

3 金融の世界史(16世紀以降~第二次世界大戦)

【銀行制度の誕生と金融市場の形成と拡大】

① 中世
:秤量貨幣の信用性と品質の不均衡
:各地の権力者が私的に鋳造
 →品位と重量がバラバラなため、取引や計測の煩雑さ

 

② 近世
:グレシャムの通貨改革 [イギリス、エリザベス1]
:イギリスの貨幣が他国の貨幣に比べて通用価値が低く、取引に支障をきたしたために、トマス=グレシャムが通貨改革を行い、通貨価値を高める

  「グレシャムの法則」(悪貨は良貨を駆逐する)
=貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合に実質価値の高い方の通貨が流通過程から駆逐され、より実質価値が低い通貨が流通するという法則(現在の紙幣の場合、実質価値[紙の価値]が額面価値よりもはるかに低いため、この法則は当てはまらない)


③ 近代
<17世紀>
・初の株式会社・株式取引所の設置[オランダ・東インド会社(1602)]
 (英の東インド会社[ジョイント・ストック・カンパニー]は無限責任)
<1637>
・チューリップ=バブル崩壊[オランダ]
 →その後のオランダ経済に影響なし
  (先物取引で債権者=債務者が多い。一部がババ引いただけ)
 →オスマン帝国産のチューリップの球根価格の暴騰と暴落、世界初のバブル崩壊 

<17世紀末>
国債の発明[オランダ・イギリスなど]
:従来の君主発行型の公債は様々な理由でたびたびデフォルト(債務不履行)をひき起こした。イギリスで議会が国家の歳入(徴税)・歳出を安定的に管理し、君主の私的財産が国庫と明確に区別されると国債の発行時に返済の裏付けとなる恒久的な税などが設定された。こうした安定した徴税を信用として18世紀以降のイギリスは国民所得の数倍に及ぶ国債を発行することができ、この財源をもとに18世紀を通じた対外戦争を勝ち抜くことが可能となった(財政軍事国家)

※「財政軍事国家」とは
:歴史家ジョン=ブリュアによって提唱された、名誉革命以降におけるイギリスの巨大な陸海軍、勤勉な行政官(整備された官僚制度)が、消費税をはじめとする重税と徴税システムによって担保される莫大な国債をはじめとする債務によって支えられたとする考え方、またはこうした当時のイギリスの国家システムを指す。イギリスがこの莫大な債務により戦費を維持できたことが、
18世紀イギリスが大国フランスとの戦争に勝利した一つの原因だとする。これについては折を見て「東大への世界史」の方で詳述する。(ジョン=ブリュア『財政=軍事国家の衝撃:戦争・カネ・イギリス国家 1688-1783』大久保桂子訳、名古屋大学出版会、2003年)

<1694>
イングランド銀行設立
 →ファルツ戦争・ウィリアム王戦争などの対仏戦争の戦費捻出(財政革命)
 →金融におけるイギリスの信用能力を高め、イギリス資本主義の発展に寄与
 →第一次世界大戦が始まるまでの金融界を支配


<1720>
・南海泡沫事件(サウスシー=バブル)[イギリス]
:当時の財政危機解決のために国債を引き受ける目的で設立された南海会社が引き起こしたバブル崩壊事件。数か月の間に10倍強にもなった株価が元値以下になるまで暴落した。この事件の事後処理を担当した財政の専門家であるロバート=ウォルポールは後にイングランドの初代首相となった。


図1
 Wikipediaより
<1871>
ソブリン金貨の発行(初の金本位制の確立)[イギリス]
:イギリスの貨幣法により、発行されたソブリン金貨の自由鋳造・自由融解を認めることで本位貨幣(通貨の実質価値と額面価値が一致した貨幣)とした。世界金融の中心がロンドンのロンバード街(シティ)に(「世界の銀行」)
 →20世紀初頭までに世界各国で金本位制が確立=「国際金本位制=ポンド体制」の成立 

ソブリン
Wikipediaより 
 ロンバード街
(Wikipediaより[一部改変])
<1914-1918>
・第一次世界大戦によるイギリスの相対的地位の低下と世界金融の不安定化
 →アメリカの台頭(黄金の20年代を経てウォール街が世界金融の中心に)
1923>
・ドイツでハイパーインフレ(ルール占領がきっかけ)

 →シュトレーゼマン内閣によるレンテンマルク発行で沈静化

 →ドイツの経済・政治危機をアメリカが支援

(対ドイツのアメリカによる支援策)
A、ドーズ案
(1924)
:アメリカ資本の対ドイツ貸与、賠償金支払い方法と期限の緩和(減額はなし)
B、ヤング案(1929)
:賠償総額の減額と期限の緩和[ローザンヌ会議(1932)でさらに減額→ヒトラーによる一方的破棄(1933)]


<1929>
世界恐慌による経済の動揺
A、金本位制の動揺と停止
‐イギリス(1931:マクドナルド挙国一致内閣)
‐日本(1930 金解禁→1931 犬養毅内閣による金輸出再禁止
‐アメリカ(1933:フランクリン=ローズヴェルト大統領)
‐フランス・ベルギー・オランダによるフラン=ブロック(金本位維持)
 →フランスの金本位制停止(1937)による管理通貨制度への移行
B、ブロック経済の形成
 ex.スターリングブロック(英、1932:オタワ連邦会議)

 

4 現代の通貨・金融体制(第二次世界大戦以降)

【ブレトン=ウッズ体制】
:第二次世界大戦終了時に圧倒的な経済力を有していたアメリカによる国際為替の安定と自由貿易体制の確立


ブレトン=ウッズ会議(1944)
:ブレトン=ウッズ協定に基づくアメリカ主導の国際通貨・経済体制の成立

・世界恐慌前の「国際金本位制=ポンド体制」崩壊にかわる新通貨秩序の成立

・米ドルと各国通貨の交換比率を固定した固定相場制の成立
 (1ドル=360円、金1オンス(28g=35USドル)
・二つの国際機関設立の決定
 (1945IMF[国際通貨基金]IBRD[国際復興開発銀行、後の世界銀行]の設立)
IMF:固定相場制(金=ドル本位制)の採用
・IBRD:長期資金の融資による戦後復興や発展途上国への資金援助を行う
 (1960年に国際開発協会と合わさり現在の世界銀行[WB]に)

GATT(関税と貿易に関する一般協定)成立(1947)
:関税障壁撤廃による自由貿易体制確立を目指す

 →1995年にWTO(世界貿易機関)に発展

 

【ブレトン=ウッズ体制崩壊】
:世界貿易・財政の拡大に金=ドル本位制が対応できず
(金産出・保有量と経済規模の乖離が拡大)

ドル=ショック(ニクソン=ショック、1971)
:アメリカ大統領ニクソンが金とドルの兌換を停止

(背景)
・ベトナム戦争(1960 / 19651973 / 1975)による米軍事費の増大
・日本・ECの台頭と国際競争力向上により貿易赤字に

変動相場制へ移行(1973、ブレトン=ウッズ体制の完全な崩壊)

 円2

 Wikipediaより

【経済規模の拡大と国際化に伴う経済危機の発生】
<1970s>
・オイル=ショック(1973、1979)

<1980s>
対外累積債務問題の深刻化
:中所得国(ラテンアメリカ[メキシコ・ブラジルなど]やフィリピンなど)で対外累積債務問題が深刻化

(対外累積債務深刻化の背景)
1970s3つの動き
①一次産品価格が高騰したことによる途上国の交易条件の改善
②過剰な産油国資金の流入(オイルショックによる原油価格の高騰)
③金融自由化により先進国政府ならびに民間機関や国際機関による貸付が容易に
 →発展途上国が大規模な借入により工業化を進める(高成長の時期)
1980sに入り一次産品価格の下落や米国金利の急騰
 →途上国の資金繰りが困難に(70年代債務の返済の見通しが難しくなった) 


プラザ合意(1985)
:G5(先進五か国[米・英・西独・仏・日]蔵相会議)で為替レート安定化に関する合意

(背景)
 :双子の赤字(貿易赤字&財政赤字)拡大によるアメリカの債務国への転落
(内容)
 :アメリカの貿易赤字解消のためにドル安政策を進める
  →日銀による独自の金融政策によって当初の目標をはるかに上回る円高・ドル安が進行

ルーブル合意(1987)
:行き過ぎたドル安の防止のためのG7(G5 + 伊・加)での合意
 →失敗
円
 Wikipediaより
バブル経済(平成バブル)崩壊[日本、1989~1993頃]
:プラザ合意直後の日銀の短期金利引き締め策(高目放置)と、その後の政府の意を受けた金融緩和策(公定歩合の引き下げ)が人々に極端な金融緩和策が行われているという錯覚(貨幣錯覚)を生じさせて、過剰な投資へと結びつく。
→下落し始めていた不動産価格に財務省・日銀の金融引き締め策(総量規制・公定歩合の引き上げ)がトドメをさして株価暴落
バブル2
Wikipediaより
【経済のグローバル化と金融危機】
<1980s末~1990初>
:超国家的な経済協力体制・共同体の形成

APEC(アジア太平洋経済協力会議、1989年)
 →日・韓・
ANZUSASEANなど
EU(ヨーロッパ共同体)
 →1991年の会議で合意、1992年に採択されマーストリヒト条約をもとに発足(1993)
 →域内共通通貨ユーロの導入によって米ドルの国際支配に対抗

<1990年代以降>
:経済のグローバル化にともなう金融危機の連鎖と規模の拡大

ex.1) 
メキシコ経済危機(1994)

ex.2) 
アジア通貨危機(1997)
:タイを皮切りに韓国・インドネシアなどアジア各国で発生した通貨価値の急激な下落ドルと連動していたアジア通貨がドル高に伴い上昇し、実体経済と乖離した頃にヘッジファンドの空売りを浴びた
 →アジア各国が変動相場制へ

ex.3) 
リーマン=ショック(2008)
:リーマン=ブラザーズが負債総額64兆円を抱えて倒産
 →連鎖的な世界規模の金融危機
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たびたび「東大の世界史では」とか、「東大が受験生に求めているのは」と申し上げることがありますが、これは何も東大の過去問だけを見て当てずっぽうに推測で述べているわけではありません。歴史学の近年の動向ももちろんのことですが、それ以上に東大に所属する研究者などの諸研究や執筆した書物などから読み取れることを口にしているに過ぎません。ちなみに、歴史学の近年の動向を一般の方が簡単につかみたいと思うなら、財団法人史学会(ちなみに本部は東京大学文学部内)が発行している『史学雑誌』から毎年出される第5号がその前年の歴史学会の「回顧と展望」の号となっているので、これが参考になるでしょう。ただし、書かれている内容は極めて専門的な内容(少なくとも、大学の史学部学生がある程度勉強してから理解できる内容)になるので、高校生がちょっと見ただけで全貌をつかむのは難しいと思います。もし大学生になって史学系の学問を志す気になった場合は、おそらく最初に触れる学術雑誌になると思うので心にとめておいて下さい。

 

 ところで、東大の研究者の中でも世界史の現状について何を考えているかが見えてくる研究者が、たびたび言及している東大副学長(かつての国際本部長)である羽田正です。羽田先生はかねてから大学で行われている歴史学と高校教育における世界史の現状があまりにもかけ離れていること、さらに一般の人に歴史学の成果が十分に伝わっていないことを憂慮しており、いかにすれば歴史学をさらに有意義な学問として発展させていけるか、またどうすれば歴史学と一般の人々との間にある乖離をなくしていくことができるかを考えていらっしゃいました。そうした考えは、たとえば羽田先生の代表的著作である『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005年)にも示されています。あるご縁でこの著作を題材に現在の歴史学について検討するゼミに参加させていただいたことがありますが、そこでも羽田先生は「歴史学と高校世界史、または歴史学と一般的な歴史との乖離」に危機感をお持ちでした。この『イスラーム世界』の創造は著作自体が「アジア・太平洋特別賞」や「ファラービー国際賞」などの賞を受賞し、「イスラーム世界」という概念の曖昧さを指摘した当時としては画期的な書であったわけですが、この著作には「イスラーム世界」に対する考え方や「世界史」に対する危機感が随所に示されています。本書の内容の紹介は機会があれば別稿で紹介する予定でおりますが、本書の要点を示せば以下のようになると思います。

 

・「イスラーム世界」というのは一種の「イデオロギー」であって、ある地域の歴史の実態をとらえるための枠組みとしては極めて曖昧なものであるから、こうした枠組みはすでに不要のものである。

・「イスラーム世界」という概念が特にヨーロッパの知識人たちを中心に想像されてきた概念だとすれば、そこには「ヨーロッパ」という対概念が存在し、これもきわめてイデオロギー的かつ曖昧な枠組みであるから再考を要する。

 

つまり、羽田先生は「イスラーム世界」という概念は実際に存在する地理的要素、気候、風土、政治体制、民族、経済的なつながり、文化などの諸要素とその相違を全く考慮することなく、「宗教的にイスラームが主要に信じられている地域であるから」とか「イスラーム法が通用する世界であるから」などといった乱暴なくくりで一つの世界としてまとめてしまう概念であり、こうした曖昧な概念では各地域の歴史的実態を真に把握することはできない、ということを主張しています。さらに、こうした「イスラーム世界」という概念が近代歴史学の基礎を作り出した19世紀ヨーロッパ知識人による「ヨーロッパに対するイスラーム」という視点、イデオロギーによるものであることを問題視しています。わかりづらいかもしれませんが、極端な例をあげれば、仏教が信じられる地域を全て「仏教世界」として規定し、かつそこに存在する都市を「仏教都市」として類型化することは果たして可能かどうかを考えればその問題点は明らかになるはずです。また、タイが仏教国だからといって、タイが文化的にインドやイランよりも日本と類似性が強い、という議論が成り立たないことも明白だと思います。にもかかわらず、現在の歴史はこれと同じことを「イスラーム世界」においてしてしまっている。「イスラーム世界」であるからカラ=ハン朝とムワッヒド朝は「同じようなイスラーム王朝」と言えるのだろうか。「イスラーム世界」に存在する都市は全て「イスラーム都市」としての性質を有しているといえるのだろうか。羽田先生はこれを明確に否定しています。

 

 「イスラーム世界」には独特の形態と生活様式を持った「イスラーム都市」が存在するという命題が破綻していることを、私はこの本の出版以前にすでに仲間とともに指摘していた。(同書P.289

 

こうした考え方に基づくと、最近の世界史の記述の中に、または東大の設問中に「アラブ=イスラーム文化圏(2011年東大第1問)」であるとか、「トルコ=イスラーム」といった用語が用いられるようになってきている理由が良くわかります。羽田先生は、イスラームという要素のみならず、その時代、各地域における特徴を踏まえた上でその歴史的実態をとらえようとしており、少なくとも現在の歴史学界の潮流としてそうした考え方は一定の支持を得ています。また、羽田先生は世界史の記述に関してこのようにも述べている。

 

 私は別稿で、国や民族などある一つのまとまりを設定し、そのまとまりの内の出来事を時系列に沿って整理し、解釈しようとする現在の歴史研究の限界を指摘し、「不連続の歴史」という考え方と現代の地域研究から示唆を得た「歴史的地域」という概念を提唱した。未だ萌芽的な研究ではあるが、これは、過去のある時代に一つの地域を設定し、その全体像を地域研究的手法によって明らかにしたうえで、現代世界をそのような歴史的地域がいくつも積み重なったうえに成立したものとして理解しようとするものである。

また、歴史的地域を考える際には、環境や生態が十分に考慮されるべきだということも強調した。(中略)必要とされる世界史とは人間と環境や生態の関わり方の歴史を説明するものでなければならない。(同書P.298

 

 こうした世界史像からは、羽田先生が詳細かつ緻密な地域史研究に基づいたある時代、ある地域の歴史的実態をもとに、それらが複層的に折り重なって形成される世界史像を求めていることがわかります。「東大の出題では各地域の関連が重視される」ということを繰り返し指摘していますが、これは単なる過去問分析からだけではなく、こうした東大研究者の歴史観、歴史学会の流れなどをふまえた上で指摘していることです。

 

 もっとも、羽田先生が現在でも同じような歴史観を抱いているかはわかりません。ですが、つい最近、羽田先生をはじめとする歴史学者たちが興味深い書物を出版しました。それが『世界史の世界史』(ミネルバ書房、2016年)という著作です。内容については『イスラーム世界の創造』と同様、高度に専門的な内容がほとんどで高校生には難しすぎるため、また別稿を設けて紹介するつもりですが、この著作のタイトルからも見てわかる通り現在の「世界史」をいかにすべきか、という視点が多分に盛り込まれていて、羽田先生をはじめとする歴史学者が現在の世界史をどのような目で見ているのかということをうかがい知ることができます。

 同書の終章にあたる「総論」は「われわれが目指す世界史」というタイトルになっていて、この本の編集委員会を構成する秋田茂、永原陽子、羽田正、南塚信吾、三宅明正、桃木至朗らによる議論の中でまとめられた、彼らが目指すこれからの世界史像の概要を知ることができます。ここには編集委員会のうち桃木至朗・秋田茂・市大樹らが大阪大学で担当する授業のために作成した「現代歴史学を理解するキーワード一覧」が示されています。この中には受験生にはやや難解な用語も含まれますが、高校教員や大学で史学を志す学部生などにとってはある意味ではなじみのある、またある意味では再度歴史学の問題関心を見直す上で非常に便利な用語や事象がのせられた表であると思われますので、下に引用します。

 

 世界史の世界史

(同書P.400より引用)

 

さらに、この総論ではこの編集委員会の目指す方向性とその可能性や問題点についての検討がなされています。各節の見出しを見るだけでも、その目指す方向の大枠はつかめるので、同じく下に示したいとおもいます。

 

・国民国家を超える / 疑う

・欧米中心主義と闘う

・「反近代」、「超近代」、「ポスト近代」

・脱中心化

・人間中心主義から離れる

・「世界史の見取り図」の必要性

・「全体像」と「個別研究」の関係

・人文学の限界を方法、組織面で突破する世界史

 

編集委員会はこれらの方向性について、その意義を強調すると同時にどのような問題点があるかを詳細に検討しています。たとえば、「国民国家を超える」ことは必ずしも万能ではなく、『「多様性のなかの統一」「多元一体」などをうたう柔らかいタイプ』のナショナリズムへつながる可能性などを指摘するなど、ナショナル・ヒストリーの超克とグローバル・ヒストリーの叙述が常に喜ばしい、望ましい方向へ向かうわけではないことなどを指摘しています。いずれにせよ、この「総論」で挙げられている問題関心を見る限り、先に紹介した『イスラーム世界の創造』が執筆された時期(2005年当時)と比較しても、現在(同書は20169月の発行である)の問題関心とその方向性や軸が大きくずれているようには感じられません。こうした歴史観を羽田先生とその周辺の歴史家たちが共有しているということを知ったうえで、東大をはじめとするいわゆる難関校と呼ばれる大学の、ここ数年、あるいは今後数年の出題傾向を見ていくと、なかなか面白いものが見えてくるのではないかと思います。


 

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