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ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

(この記事は執筆当時のもので、現在は古くなっている情報を含んでいます。最新の記事であるhttp://history-link-bottega.com/archives/14929526.htmlを合わせてお読みください)

すでに一橋「世界史」出題傾向1(1995年~2016年)で述べましたが、ここ数年、一橋大学では出題傾向に大きな変化が見られます。これまでの一橋は、深い歴史的知識の整理が要求される設問が多い反面、出題範囲に大きな特徴があったことから、神聖ローマ帝国周辺史や中国近現代史を集中的に勉強する、いわゆる「ヤマをはる」勉強を行えば、ある程度は対応できた部分もありました。しかし、最近の傾向変化によってこうした従来型の出題傾向把握では対処できない部分が増ええきたように思われます。そこで、今回は出題傾向に変化が見られ始めるここ56年ほど(2011年ごろ~2016年)の傾向に特に注目して、その変化の内容と注意点を示してみたいと思います。

 

[ここ数年における出題傾向の変化とその原因]

 

この数年の出題傾向に大きな変化が見られることは特筆に値します。この出題傾向の変化には、かつて一橋で力を持っていたドイツ関連の研究者たちが定年を迎えて入れ替わる反面、新しい分野の研究者たちが一橋の西洋史・東洋史の指導者として招かれはじめているところが大きいのではないでしょうか。

「研究者の専門分野なんかに意味はない」と思うかもしれませんが、さにあらず。特に一橋においては以下に示すように各教員の専門分野と出題の関連性は極めて高かったです。また、近年東大をはじめとして「世界システム論」や「イスラーム世界」といったテーマが取り上げられている背景には、もちろん近年のグローバル化やイスラーム原理主義の台頭といった問題関心が強まっていることもありますが、こうした分野を専門にしている研究者が多いことも背景にあると思われます(東大の副学長である羽田正はイスラーム史の専門家です)。

一橋大学の研究者に関する詳細なデータは一橋大学HPトップページ右上検索から「史学 教授」と検索すれば教員紹介ページが出てきます(http://www.soc.hit-u.ac.jp/teaching_staff/)ので、本学を第一志望に考えている人はぜひ一度は目を通して参考にして欲しいと思います。受験問題に対応するという意味だけでなく、これから自分が通おうとする大学の教授陣がどのような問題関心を持っているのかを知ることは、意味のあることだと思いますので。「歴史社会研究分野」となっている部分が主な該当部分だと思われます。

 

それでは、具体的な例を挙げましょう。現在は「留学生・グローバル化関連担当」教授である中野聡教授の専門は環太平洋国際史・米比関係史などですが、これは一橋大学2015年度大問2の「ECASEANの共通点と相違点」、2012年度大問2の「国際連盟と国際連合の設立とその問題点」や2008年度大問2の「米西戦争」をテーマとした設問などと親和性が高いです。また、現在は総合社会科学専攻に籍を置いている糟谷啓介教授は、歴史社会研究分野に籍を置いている頃は閔妃政権や李朝末期の権力構造をテーマとしていました(ちなみに現在は加藤圭木専任講師がいますが、加藤講師の専門テーマは「日露戦争と朝鮮」、「植民地支配と公害」、「慰安婦問題」などです)が、こうしたテーマも同校の大問3に影響しているようだ。こうした研究テーマが設問に影響している以外にも、以下の2点は近年の設問の変化として強調しておくべき点であると思われます。

 

     出題範囲が従来よりも広い

:これは特に大問12で顕著で、ここ十数年で言えば頻度の低かったイギリス史(2014年度大問1:ワット=タイラーの乱)や、神聖ローマ帝国とは関連の薄い中世史もしくは宗教史(2016年度大問1:聖トマスとアリストテレスの都市国家論の相違[ギリシアポリスと中世都市の比較])などが2010年度以降たびたび出題されるようになってきています。これまではすでに述べてきた出題傾向を念頭にある一定の分野だけを学習してもいくらかの得点を得ることが期待できていたのに対し、近年はいわゆる「ヤマをはった」学習の仕方では総崩れになる恐れが出てきていると言えるでしょう。

 

      史料や設問文からその意味や出題者の意図を読む、より深い読み取りが要求されている

:これまでの史料問題では、史料そのものには深い意味はなく、史料と設問は独立していることが多かったように思います。しかし、近年は史料や設問の本文自体にかなり重要な意味が持たせられており、これを読み解くことで論述の大きな枠組みが初めて得られるという設問が増えてきています。一方、ここで必要とされているのはむしろ国語的な読解力であり、必ずしも深い歴史的知識は必要としません。時間の制約はあるものの、すぐに論述の方向性が見いだせない時には史料や設問本文をじっくり読むという作業が必要になる可能性もあるということは頭に入れておくべきでしょう。

 

(例)2016年大問1 「聖トマスとアリストテレスの都市国家論」

 

I 聖トマス(トマス=アクィナス)に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 

 聖トマスは都市の完全性を二因に帰する。すなわち第一に、そこに経済上の自給自足があり、第二には精神生活の充足、すなわちよき生活、がある。しかして、およそ物の完全性は自足性に存するのであって、他力の補助を要する程度、においてその物は不完全とされるのである。さて、霊物両生活の充足はいずれも都市完全性の本質的要件であるが、なかんずく第一の経済的自足性は聖トマスにおいて殊更重要視される。「生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られる」と説かるるのみならず、都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるものと称せられる。けだし、都市には各種の階級や組合など存し、人間生活の自給自足にあてられるをもってである。このように都市の経済性を高調することは明らかに中世ヨーロッパ社会の実情にそくするものであって、アリストテレース(アリストテレス)と行論の類似にもかかわらず、実質的には著しき差異を示す点である。聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取り扱っていない

(上田辰之助『トマス・アクィナス研究』より引用。但し、一部改変)

 

 *civitas:市民権、国家、共同体、都市等の意味を含むラテン語。

 

問い 文章中の下線部における聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察しなさい。

 

上の問題を一読すると「そんなことは習っていない」と投げてしまいそうになる設問ですが、本文(もしくは下線部)をよく読むと、聖トマスが生きた「都市国家(=中世都市)」が地理的・経済的要素にその特質の多くがあるのに対して、アリストテレスの生きた「都市国家」は政治的組織としての要素が色濃いと言っているに過ぎません。これが分かれば、ここでいう両者の都市国家論の対比というのは「中世都市とポリスの対比」をせよということに気付くことは難しくありません。また、中世都市とポリスの性質などは一橋を受験する受験生には基礎レベルの知識と言えます。

 つまり、一橋大学では必ずしも重箱のすみをつついたような歴史用語や事実についての知識を要求しているわけではありません。むしろ、近年は史資料の読解能力、大きな枠組みにある一定の歴史的事象を位置づけて解釈する能力、そしてそれらを支えるための最低限の現代文読解能力が要求されています。一言でいえば、大学に入学後は様々な書籍を読み、議論したり、レポートを書くことになるわけで、そうした大学生になってから必要となる最低限のスキルを身につけているかどうかが問われていると考えるべきでしょう。一部の塾や過去問解説では、一橋があまりにも専門的な事柄や歴史学的な理解を設問に盛り込むことについて疑問を呈する向きもあるようですが、私は必ずしもそうは思いません。一橋は何もないところからそういう専門的な知識を問うているのではないからです。そうではなく、まず史資料を用いて専門的な歴史的理解を「紹介」した上で、受験生に彼らがもっている知識や理解をもとに「紹介」された専門的な事柄を整理しろと求めているに過ぎません。むしろ、史資料を読めば答えの一部はそこに書いてあるのであって、これまでの問題よりも一部の受験生にとっては易化している面もあるのではないかと思っています。いずれにしても、「本当の意味での歴史的理解とは何か」ということを、これから大学に入ろうとする受験生に歴史学を「体験」させるという意味ではよく考えられた良問であると言えるでしょう。(もっとも、そうした要素を加味しても「これは…(汗)」と思う悪(難?)問もたまーに含まれています。そういう時は、周りと比べて見劣りしない程度の解答に仕上げることに専念すべきでしょう。)

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(この記事は執筆当時のもので、現在は古くなっている情報を含んでいます。最新の記事であるhttp://history-link-bottega.com/archives/14929526.htmlを合わせてお読みください)


 どの大学でも出題傾向を把握することはとても大切ですが、一橋大学の世界史では意欲的な出題がされることが多いため、特にその傾向が強くなります。以下、全体の簡単な特徴をしめした上で、大問ごとの出題傾向について紹介します。ただ、一橋ではここ5年ほどで出題傾向に大きな変化が見られ、従来型の出題傾向の把握だけでは対処しきれないことがあるかもしれません。この近年の変化については、別の記事(一橋大学「世界史」出題傾向2)の方で示したいと思います。


(出題形式)

 ・120

 ・大問3×400字論述 (時折、200×2200字+100×2などのパターンアリ)

 ・大問1400字論述が1のみ、大問2と大問3は複数問になることがある

 

(出題傾向)

 ・西洋史2題、アジア史1題が基本

 

(大問ごとの分析)

【大問1】
 [ 1 ]では中世・近世・近代史(9世紀~17世紀)がメイン。1990年代には4世紀前後の内容が出題されたこともありますが、古代史は少ない。内容としてはドイツ史が重視されています。かつての一橋の学長であった阿部勤也がドイツ中世史の日本を代表する人物であったことをはじめとして、ドイツ系の優秀な学者が多い(マルクス研究で有名な良知力[らち・ちから]など)ことと無関係ではないかもしれません。ドイツ以外で出題されるとすれば英・仏・伊の中世史が目立ちます。

以下は1995年~2016年までに[ 1 ]で出題された問題を地域別にまとめたものです。(以下、大問23の解説に出てくる表も1995年~2016年までの集計です。)


一橋出題傾向1-1



・「叙任権闘争」などはドイツ・イタリアともに1として数えています。

・フランス史は5回ですが、うち2回が「カール大帝」、1回が「フランク王国」をテーマ としたものであり、神聖ローマ帝国の前史としてとらえる方が妥当。

・その他は「農業技術・制度の変化(1996年)」

45世紀のローマ帝国の政治・社会(1997年)」

「聖トマスとアリストテレスの都市国家論比較(2016年)」

・西欧全体は「三十年戦争」です。

 

やはり、全体として神聖ローマ帝国を軸として時代別の変遷を問う問題、他の地域とのかかわりや比較を問う出題が目立ちます。

【大問2】
 [ 2 ]では主に18世紀以降の近代史と現代史が出題される傾向がありますが、出題範囲は多岐にわたり、焦点が絞りづらいです。それでも、あえて傾向を示すのであれば[ 1 ]に比して明らかにフランス史とアメリカ史の割合が多いことは見て取れます。


一橋出題傾向1-2

 50字論述などの短い論述問題は数に加えず、複数問でも一連のものは1問として数えました) 

 

その他は「第2・第3産業革命(1995)」

18世紀半ばのグローバルな紛争(2009:七年戦争)」

「女性参政権(2010)」

「国際連盟と国際連合(2012)」

「エンゲルスの歴史観と西スラヴ人の歴史(2014)」

「ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合(2015)」です。

18世紀以前は「絶対主義の絶対性(2001)」

「ピョートル1世の西欧化と国内改革(2004年)」

「中世都市市民ほか(2006)」です。

・アメリカ史に関しては20世紀史が頻繁に出題されています。

(マッカーシズム、ヴェトナム戦争、核軍縮、米西戦争[19世紀末]など)

フランス史についてはフランス革命や啓蒙思想と関連する事柄についての出題が近年特に目立ちます。

【大問3】

[ 3 ]はアジア史が出題されますが、近現代史が圧倒的に多いです。中でも多いのが明・清~第2次世界大戦前までの中国史です。戦後中国史は全くと言っていいほど出題がありませんでしたが、2010年に「アジア=アフリカ会議」に関する出題(100字)がありますし、油断はできないと思っていましたら2016年に朝鮮戦争が出題されました。東大でも2016年は久しぶりの戦後史が出題されましたね。中国史以外で比較的よく出題されるのはインド、東南アジア、朝鮮史です。また、「植民地」をテーマにしたと見られる出題も多く見受けられます。明末~清~辛亥革命の前後を軸として学習し、インド史、東南アジア史に対する理解を充実させていくことが[ 3 ]の対策としては有効でしょう。


一橋出題傾向1-3


・清は出題回数で突出していますが、内容は「支配の確立(建国~三藩の乱)」、「交易体制」、「清末の改革(洋務運動~光緒新政)」に集中しています。清末の改革を現代史としてとらえれば、「清朝における支配の確立期~交易体制の変遷」というまとまりと「清朝の衰退と改革~日中戦争以前の民族運動の高揚と国民党・共産党」というまとまりの二つにまとめることができるでしょう。

・朝鮮史は日本の支配や清国との関係の中で出題されることが多いです。

   ex) 朝鮮の開化派の改革(2013

1920年代後半から1940年代前半にいたる日本植民地化の朝鮮(200字、2009

 

(全体的な出題内容分析)

   分野別

-政治史・経済史・社会史・宗教史が中心。

   -政治史の出題頻度は総じて高い。

   -西洋中世・近世史では近年宗教に関連する出題が増加しています。

   -近現代史では、ヨーロッパの革命・国際関係・民族問題が頻出。

    また、ここ4年ほどで超国家的機関・共同体に関する問題が2題出題されていま     す(ただし、単純な比較ではなく国際政治の中に位置付けることが要求されています)。

     ex) ECASEANの歴史的役割(2015

国際連合と国際連盟の設立と問題点(2012

 

  史料問題

   -多くの設問が実際の史料(ただし、現代語訳・簡略化されたもの)を利用したものになっています。そのため、こうした史料が何かを判断する理解力は最低限求められます。また、後述するように、近年はこの史料読解のレベルが引き上げられる傾向があり、より深い読み取りを要求されることがあるので注意が必要です。(一橋大学「世界史」出題傾向2参照)

  

Ex.1)  独立小問としての難問(2014年 III-1 B

  明朝は、徐光啓の建議を採用し、合計30門の紅夷砲をマカオから購入し、北京、および(B)や寧遠などの軍事拠点に投入した。

 

解答は山海関。この問題には「明の軍事拠点」としかヒントがないので、当時数多くあった軍事拠点から特定のしようがなく、難問というよりはむしろ悪問。山海関は明の呉三桂によって守られていた中国と東北地方の国境付近に位置する軍事上の要地で、李自成の乱で北京が陥落すると、侵攻してきていた清の軍勢に山海関を明け渡した。

 

Ex.2)  本文が論述の前提となった難問(2012年 III-1

 

   次の文章は1820年代初頭に植民地官僚ラッフルズが彼の母国イギリスとアジアとの交易について述べたものである。これを読んで、問1、問2に答えなさい。
 私がイギリス国旗をかかげたとき、その人口は二百人にも達しないほどでした。三ヶ月のうちに、その数は三千人に及び、現在は一万人を越えております。主としてシナ人であります。最後の二ヶ月のあいだに主として原住民の色々な種類の船が百七十三隻も到着したり、出帆したりしました。それはすでに重要な商港となったのです。
(中略)……イギリスにおける東インド会社とシナにおける行(ホン)商人の独占は、私たちの船舶や広東港における公正な競争といったようなものの観念を排除しております。……(A.  )においてすべての目的は達せられるでしょう。……シナ人自身が(A.  )にやってきて購買します。彼らは行(ホン)商人の制限や着服なしに広東の色々な港に輸入する手段をもっております。シナの多くの総督は自分で秘密に外国貿易に従事しており、(A.  )は、自由港として、かようにしてヨーロッパ・アジアおよびシナの間を結ぶ環となり、偉大な集積港となるのです。事実、そうなってきています。

 

問1 文中の(A.  )に入る地名を答えなさい。

 

:この設問では、Aをシンガポールと確定することが必要となります。この問題自体はそれほど難度の高いものではありませんが、これに続く設問が「ところで、ラッフルズは(A.  )における交易の自由がアジアの物流を一変させると考えていますが、この思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べなさい(200字以内)」であることを考えると、「ラッフルズ」からシンガポールを連想できなかった受験生には心理的にかなりきつい設問であった可能性があります。もっとも、設問で要求していることは19世紀前半におけるイギリスの自由貿易主義と、実際にその後の東南アジア地域で進められた植民地経営の対比にあるので、シンガポールがわからなくても対応することはできます。
 

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2015年は大問1と大問3が極めてオーソドックスな設問であったのに対して、大問2で一橋としてはかなり毛並みの変わった設問が出題されました。結局のところ、大問13でしっかりと解答を書けたかどうかが合格点をとるカギだったのではないでしょうか。ちなみに、2015年の河合の大問ごとの評価は-やや難、-やや難、-標準でした。個人的には-標準、-難、-標準といったことろ。もっとも、大問2の採点基準がそこまで厳しいとは思えませんし、仮に採点基準が厳しかったところで、受験生間で解答に差がつくとは思われませんので、実際にはもやや難と言ったところかもしれません。難しい問題が出るとつい見落としがちですが、結局その難しい問題を解いて合否の判断を下されるのは当日の受験生なのであり、要は問題の難易にかかわらず、周囲と比べてどれだけのものが用意できるかが問題となるので、会場で「おおぃ!こんな問題解けるかよ!」と焦ってはいけません。逆に、「自分が解けないなら周りもこんなもんだろ」と思えるくらいの準備をしておくことが肝心です。

 

2015 

 問 題 概 要 

・『フランク編年史』より引用された、ローマ人民がローマに滞在し、クリスマス・ミサのために聖ペテロ教会に出かけたカールを「至聖なるカール、神により戴冠されたる偉大にして平和を許すローマ人の皇帝に命と勝利を!」と称える様子が描かれた短い文章が示された上で、以下の点について説明することを求めています。(400字)

1、カールはなぜこの時ローマに滞在していたのか。

2、カールはなぜ「ローマ人の皇帝」ローマ人民から歓迎されたのか。

3、この出来事はヨーロッパの歴史にどのような影響を与えたか。

・これらについて、8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べよ。

 

 解 答 例 

首位権や聖像崇拝問題でビザンツ帝国やコンスタンティノープル教会と対立し、頼るべき政治勢力を求めていたローマ教皇は、8世紀後半にピピンがクーデタでカロリング朝を創始するとこれを承認した。この見返りとしてピピンも教皇を圧迫したランゴバルド王国を討伐しラヴェンナ地方を寄進するなど、両者は次第に結びつきを深めた。その後、ピピンの子カールがランゴバルド王国を滅ぼしてイタリア半島に政治的安定をもたらし、さらにザクセン・アヴァール・後ウマイヤ朝と争って西ヨーロッパの主要部分を統一すると、ローマ人は彼をキリスト教の守護者とみなした。カールを自身の保護者として利用することを考えた教皇レオ3世は、その要請により軍を率いてローマに入ったカールに皇帝の冠を戴せた。カールの戴冠によりローマ教会とはビザンツ教会から自立し、カールの統治地域を中心に古典文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した西ヨーロッパ世界が成立した。(400字)

 

 採 点 基 準 

:設問中にある以下の質問や条件を踏まえて適切に答えることできるかどうかがカギとなります。

 

(1)『なぜローマに滞在していたのか』

ローマ教皇レオ3世の要請よるものであったことを示す。

 

(2)『なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか』

キリスト教(アタナシウス派=カトリック)の守護者であることを示す。

イタリア半島に政治的安定をもたらしたことに言及する。

これらを述べる際にと関連付けるとよいでしょう。

 

(3)『8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べる』

首位権・聖像崇拝問題での東西教会の対立に言及する。

ローマ教皇が西ローマ皇帝やビザンツ帝国にかわる政治的な保護者を必要としていた

 ことを示す。(これと関連付けて以下のに言及する。)

ローマ教皇がフランク王国のピピンによるカロリング朝創始を承認したことを示す。

ピピンが教皇にラヴェンナ地方を寄進したことを示す。

カール大帝がランゴバルド・アヴァール・ザクセン・後ウマイヤを討伐したことを示す。

カール大帝による西ヨーロッパの主要地域の政治的統一に言及する。

 

(4)『この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響について説明しなさい』

ローマ教会がビザンツ帝国の影響から分離してローマ=カトリックが成立したことを示す。

西ヨーロッパがビザンツ帝国の政治的影響力を脱して西ローマ帝国が復活したことに

 言及する。

西ヨーロッパに古典(ローマ)文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した独自の

 西ヨーロッパ世界が成立したことを示す。

 

 分 析 

【出題分野】

何度も繰り返しますが、一橋の大問1では、神聖ローマ帝国に関わる分野が頻出で、特に中世ドイツ史の出題率が高いです。(2008年度、2010年度、2011年度、2013年度) 今回のようにカール大帝を題材とした出題としては2009年度の問題があります。2009年の出題では「カール大帝の帝国成立の経緯」についてイタリア・東地中海の政治情勢・ムハンマドとの関係に言及しながら述べさせるもので、「西ヨーロッパ世界の成立」という大テーマが共通しているなど、今回の出題と重なる部分も多いです。

 

【解答のポイント】

・設問に条件が複数示されているので、これらの条件をきちんと踏まえることが大前提となります。「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べる」と時期・コンテクストが指定されていることから、8世紀前半の事項(聖像禁止令など)に必要以上に言及する必要はなく、東西教会の対立の原因として軽く触れる程度で良いでしょう。また、2009年度の問題では重要な要素であったイスラームの影響はここでは主な要素として言及する必要はありません。

・カールがローマに滞在していいた理由について問う部分は難しく、教科書のレベルを超えています。カールの戴冠は、戴冠の前年に教皇の反対派から教皇を保護したカールが教皇の要請で軍を率いてローマに滞在していた折に、クリスマスのミサに出席するため訪れたサン=ピエトロ大聖堂における突発的な出来事であったと言われています。そのため、「教皇からローマ皇帝の冠を授かるために」とするのは誤りで、「教皇を保護するため」、「教皇の要請により」などとしておく方が無難です。

・「ローマ人民がカール皇帝として歓呼した理由」についても直接的に教科書では言及されていないのでやや難しいですが、カールの業績を考慮すればキリスト教(アタナシウス派)の保護者であることやイタリア半島に安定をもたらした人物に対する敬意であることを推測して導くことは十分可能です。

・「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢」について述べる部分では、教会の東西対立と教皇とカロリング朝(ピピン・カール)の接近を軸にまとめればよいので、平易。

・「カールの戴冠がヨーロッパに与えた影響」についてはローマ・カトリックの成立と西ヨーロッパ世界の成立という重要なテーマをすぐに思いつく必要があります。

・採点基準のについては一橋の受験者にとっては基本事項であり、この部分がきちんと書けるかどうかが重要。字数に限りがあるが、単なる事実の列挙にとどまらず各要素の関連も考えながらまとめる必要があるでしょう。各要素の関連やをどう盛り込むかは難しいものの、できれば3分の2程度の得点は確保したいところです。

 

2015 

 問 題 概 要 

・ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合という2つの機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を示せ。(400字以内)

 

 解 答 例 

ヨーロッパ共同体は、大戦を招いた独仏対立の解消と欧州の平和的復興をその出発点とする。OEECを皮切りに超国家的に資源と市場を共有する経済統合を発展させるにつれ、欧州は米ソ両大国に対する発言力を次第に回復し、多極化の一因をつくった。イギリス加盟以降のEC拡大に伴い、貿易制限撤廃と単一市場形成による競争力強化を目指したECは、冷戦終結後に超国家機構EUを発足させ、単一通貨ユーロを採用した。東南アジア諸国連合は、ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国の主導で成立し当初は反共同盟としての性格が強かったが、次第に政治的中立を宣言して経済協力機構としての性格を強めた。冷戦後には社会主義国のベトナムや軍政のミャンマーなど、東南アジア全ての国が参加し、EUと同様に関税障壁撤廃などの市場統合を進めて地域共同体としての役割を強めたが、一方で加盟国の主権に対する拘束力がないため政治的影響力に限界がある。(400字)

 

 採 点 基 準 

難問です。設問の要求が明確(というよりは単純)な分だけ、ECとASEANについてどれだけ正確な知識を持ち、設問の条件に沿って(または出題者の意図を推し量って)解答を作成できるかで大きな差がつく問題です。単純にECとASEANの共通点・相違点を列挙するのではなく、それぞれの歴史的役割をきちんと示しながらまとめる視点と文章力が要求されています。

 

(1) ECの歴史的役割

 2度の世界大戦の原因をつくった独仏両国の対立を解消する目的が、ECの前身たるOEECをはじめとする組織構築のきっかけとなった。

  同じく、大戦によって荒廃したヨーロッパを平和的に復興する目的がECの前身を作り上げた。

 その発展とともに米ソに対抗する第3極として多極化の一端を担ったことを示す。

 冷戦後にEUとして発展したことを示す。

 

(2) ASEANの歴史的役割

ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国が主導して結成された反共色の強い組織であったことを示す。

ベトナム戦争終結期である1971年に中立地帯宣言を発し、その後は経済協力機構としての役割を強めたことを示す。

この中で、1980年代からのアジア地域の経済発展について述べることもできる。

冷戦終結後のベトナム・ミャンマー加盟などによりさらにイデオロギー色を薄めた地域共同体として活動していることを示す。

 

(3) ECとASEANの共通点

通商上の障壁を取り除き、市場統合を進めた経済的な地域共同体であり、経済的発展を

もたらした点。

経済的な結びつきを主軸に地域統合をもたらした地域共同体としての性格を持つ点。

 

(4) ECとASEANの相違点

ECは部分的ではあるが主権国家としての枠組みを超えた超国家的結合であり、それが発展したEUについても加盟国の主権の一部を拘束する中央議会と共通通貨を有する点。

ASEANはEUと異なり各加盟国に対して主権を制限する権限を持たないために政治的な

結合力が弱く、ベトナム戦争以降は主に経済共同体としての役割を担っている点。

 

域外協力についてはASEANのAPEC参加などが教科書レベルの要素としてあげられますが、ECについても1973年のスイス・リヒテンシュタインなどとのFTAをはじめとする域外協力を行っているので、むしろ共通点として挙げるべきものです。ただ、この設問ではこのことを書けと求められているとは思えません。)

 

 分 析 

【出題分野】

・大問2は、近現代欧米史が出題されますが、その出題の範囲・形式は非常に多様であるため、的を絞ることは難しいです。ただ、今年度のように戦後史が問われることは比較的少ないです。(2000年、2005年、2012年) 2000年、2005年はそれぞれヴェトナム戦争、冷戦と核兵器についてその歴史的経緯を問う比較的オーソドックスな問題でした。2012年も国際連盟と国際連合設立の歴史的背景と両機関の課題について問う基礎的な問題でしたが、二つの国際機関を比較するという視点を必要とした点で今回の設問と共通する部分も見受けられます。今回のテーマは「ECとASEANの歴史的役割について共通点と相違点を説明」するというもので、2012年の設問と同様に比較的視点が要求されている点では共通しているものの、あまり問われることのない両機構の「歴史的役割」について問う設問で、やや難しいです。ここ最近本格的な戦後史が56年に一度の頻度での出題であったことを合わせると、かなり取り組みづらい設問であったことが予想されます。

 

【解答のポイント】

(1)EC・ASEANの歴史的役割を確認する

どちらも経済発展をもたらした地域共同体であることは常識的なことなので、ここで要求されていることがより深い内容であることに気付かなくてはならないでしょう。ECが大戦後の欧州復興に際して「大戦を招いた対立を解消する目的で設立されたこと」や「発展の過程において多極化の一因をつくったこと」、ASEANが当初「米国に主導された反共同盟としての性質を有していたこと」などについて思い出す必要があります。

 

(2)EC・ASEANの歴史的役割についての共通点と相違点をまとめる

設立の背景の違いについては上述の歴史的役割を確認する中で述べることができます。両者の歴史的役割について、共通点については比較的容易に思いつくので、ここでは相違点について深く考える必要があります。その際、この「歴史的役割」とはいったいどの時期を対象としているのかを考えると、特定することは難しいです。ものによっては、ECがOEECとは異なることをことさら強調したり、ECとEUは違うのであるからEUについては言及してはいけないとする解説も見られ、そうした判断にも一理ありますが、ECやASEANはたえずその政治的、経済的性質を変化させてきたものであり、当然その前身である諸組織や発展形態としてのEU、ASEAN10などとも連続性を有するものです。ですから、それらの前身や発展形態と断絶したものとしてとらえることは、ECやASEANの本質を見るにあたって有益なことではないでしょう。だとすれば、設問が指定する視野や時代設定はかなり広いものになる可能性があるので、一時期における歴史的役割のみを取り出してその相違を示すよりも、最終的にECやASEASNがどのように変化していったのかを示す方がよいと思います。そうした観点からすれば、ECやその発展形態であるEUが超国家的結合であり、主権国家の枠を越えたものとなっていった一方、ASEANはあくまでも主権国家間の経済協定の枠内に依然としてとどまるものである点に注意を払う必要があるでしょう。その方が、単純な両組織比較よりも、国民国家という枠組みの崩壊とその後の超国家的紐帯の形成という最近の各大学の問題関心に近く、出題者の意図から外れないものになるのではないでしょうか。

 

2015 

 問 題 

・イーニアス・アンダーソン著・加藤憲市訳『マカートニー奉使記』より引用された、清朝の対外関係を示すやや長い史料が付された上で、以下の点について説明するように要求されています。(400字)

1、文中に登場する下線が付された「皇帝」の名前を記せ。

2、また、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明せよ。

 

ちなみに、本史料中で「皇帝」が英国使節に謁見する年は1793年です。

 

 解 答 例 

乾隆帝。清朝の対外関係は周辺諸国と形式上の君臣関係を結ぶ冊封体制と朝貢国に対する恩恵的な貿易形態である朝貢貿易に基づいており、条約による主権国家間の対等な関係に基づくヨーロッパ諸国の外交関係とは異なっていた。清はイギリスとの貿易を広州一港に限定し、公行という特権商人がこの貿易を独占したが、これに不満を持つイギリスは自由貿易を求めて使節を派遣したが失敗した。その後アヘン戦争に敗れた清は南京条約で開港や公行廃止を強要され、続く諸条約で欧米諸国に領事裁判権・最恵国待遇を与え、清の関税自主権喪失を認める条約関係を結び、自由貿易体制に組み込まれ始めた。続くアロー戦争敗北後の北京条約で外国公使の北京駐在を認め、外交を一元的に処理する総理衙門を設置した。さらに、清仏戦争後の天津条約で阮朝越南国に対する宗主権を、日清戦争後の下関条約で李氏朝鮮に対する宗主権を相次いで失ったことで清朝の冊封体制は崩壊した。(400字)

 

 採 点 基 準 

・「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」と清朝側からの視点で解答作成することが要求されていることと、400字で一問という字数の長さを考えると、イギリスとの貿易関係の変遷についてのみ述べたのでは不十分でしょう。やはりここは、朝貢・冊封体制の特徴とその崩壊過程としてまとめることが要求されると思います。

 

(1) 下線の皇帝の名前

 乾隆帝

:年代から判断できなくとも、対外交易を広州一港限定した人物で英国の使者と謁見した皇帝であることを考えれば乾隆帝であることはすぐに導けます。イギリスが派遣した人物にはマカートニー(1793)、アマースト(1816)、ネイピア(1834)らがいますが、乾隆帝はこのうちマカートニーと謁見しています。乾隆帝の統治期間は17351795とかなり長期にわたるので注意が必要です。ちなみに、アマーストは嘉慶帝に三跪九叩頭問題で謁見することができませんでした。また、ネイピアは1833年に東インド会社の中国貿易独占権が廃止されたことにともない、英国本国から派遣された貿易監督官で、当時の中国に対して強硬姿勢であたろうとしていたパーマストン外相とジャーディン=マセソン商会の意向をうけて任につきましたが、中国側と武力衝突事件を起こした後でマラリヤによって亡くなっています。

 

(2) 清朝の対外関係の特徴

朝貢貿易の内容(朝貢してきた国に対する恩恵的な貿易形態)について示す。

冊封体制の内容(周辺国との形式的な君臣関係)について示す。

これを示す際に朝貢貿易と冊封体制をはっきり分けて示す方が良いと思います。

 

(3) 清朝の対英貿易とイギリスとの対立

イギリスとの交易が乾隆帝の時代に広州一港に限定されたことを示す。

広州での貿易は公行という清の特権商人によって独占されていたことを示す。

イギリスが自由貿易を要求していたことを示す。

使節派遣の例を示すのであれば、ここでは乾隆帝が資料中に出てくることからマカートニーが望ましいですが、おそらく使節の名前にまで言及する字数の余裕はないでしょう。

設問はイギリスとの対立や通商関係に焦点をあてたものではないので、片貿易や三角貿易の詳細について述べる必要はなく、字数的な余裕もありません。

 

(4) アヘン戦争・アロー戦争による対外関係の変化

アヘン戦争と南京条約の内容

→5港開港、公行廃止など。対外・交易関係を考えればよいので香港割譲は述べる必要なし。

アヘン戦争後に締結された諸条約(虎門寨追加条約・望厦条約・黄埔条約)とその内容

領事裁判権、片務的最恵国待遇、清の関税自主権の喪失などの不平等条約

アロー戦争と天津・北京条約の内容

天津・南京など11港開港、外交を一元的に処理する外交官庁としての総理各国事務衙門の設置

清がイギリスの自由貿易体制の中に組み込まれていった点を示す。

 

(5) 清の対外関係の崩壊過程

周辺の朝貢国・冊封国に対する宗主権の喪失による朝貢・冊封体制の崩壊を示す。

具体例として「琉球王国(台湾出兵、琉球処分)」、「阮朝越南国(清仏戦争)」、「李氏朝鮮(日清戦争・下関条約)」などに対して清が宗主権を失ったことを示せばよいでしょう。

 

 分 析 

【出題分野】

この年の「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」というテーマは、過去に清朝の国内情勢・朝鮮をはじめとする周辺諸国との関係・列強のアジア進出などがたびたび出題されていることを考えれば十分予測可能な出題であり、王道的な設問であると言えます。今回の設問に近い出題としては2012年大問3の(2)で出題された「19世紀のヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制とその変化」について200字で述べさせる問題があります。

 

【解答のポイント】

(1)清朝の対外関係=朝貢・冊封体制であることを把握する。

2012年の問題が「対ヨーロッパ交易」に限定されているのに対し、今回の設問は資料中に「外国と条約関係に入るということ=清の伝統的国是にもとる」などの記述があることや設問も「清朝の対外関係」とヨーロッパとの通商に限定していないことなどから、朝貢・冊封体制というより大きな視点で述べるべきです。

 

(2)対英貿易の変化と朝貢・冊封体制の変化という二つの軸を確認する

・資料中にイギリス側からの通商関係の改善要求があったことが示されていることから、清側による対英交易の制限と、その後の戦争による開港と不平等条約の締結という流れを軸として設定します。この際、単に事実を羅列するよりもイギリスが自由貿易体制を確立しようとしていたことに言及すると、清とイギリスとの対立やその後の変化の意味が明確になります。

・「清朝の対外関係=朝貢・冊封体制」であるとすれば、「その崩壊」について述べることが要求されているので、いかにして清の朝貢・冊封体制が崩壊するのかを明示する必要があります。そのためには、アヘン戦争後の開港や不平等条約の締結に言及するだけでは不十分であり、朝貢体制とは何か、冊封体制とは何かをはっきり示した上で、これらが崩壊したと言うに足る事実を示す必要があります。ここまで考えることで、「外国と条約関係による国際関係を成立させること(=清の伝統的国是の放棄)」、こうした外国との交渉窓口としての「総理各国事務衙門の設置(対等な主権国家間の外交処理とその一元化)」、「列強の進出による朝貢国・冊封国の喪失(宗主権の放棄)」などによる朝貢・冊封体制の崩壊という図式が見えてきます。特に、最後の朝貢国・冊封国の喪失などは対英交易のみに視点が限定されてしまうとなかなか出てこないので注意が必要です。

・要求されている知識は基本的なものであるが、単なる事実の列挙にとどまらない、テーマを理解した文章を作れるかどうかが差をつけるポイントです。最初にテーマを把握しないとイギリスとの通商関係に限定しすぎて片貿易や三角貿易などの詳細を述べるなど、的外れな解答をつくってしまいがちなので注意しましょう。

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