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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw 問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

一橋の出題傾向分析では、大問3で中国史、なかでも明末から清にかけての3つのテーマが出題されやすい、という話をしましたので、せっかくですからこの3つのテーマを簡単におさらいしておきましょう。3つのテーマとはすなわち、

 

  清の建国期(ヌルハチ~遷界令解除まで)

  対外関係の変化(遷界令[海禁]~アヘン戦争まで)

  洋務運動から続く3つの改革運動と辛亥革命

 

この3つですね。そういう意味ではロシアとの国境紛争にプラスアルファ混ぜたりしてくる設問なんかもあるのかなとも思ったりします。イリ事件とか東大で出てますしね。それでは、以下これら3つについて簡単にまとめておきます。ご参考までに。

 

[明末期から清建国期まで]

・明末の混乱[万暦帝の頃~]

 (混乱の原因)

1、政治混乱(東林派vs非東林派:魏忠賢の弾圧[1621-27]

  2、(伝統的に)北虜南倭

  3、壬辰・丁酉の倭乱で援軍

  4、女真の強大化(1619 サルフの戦い:遼東半島へ進出)

  これら1~4による財政難重税農民の窮乏化と反乱

 

・清の建国

 (経過)

1、満州で女真統一(ヌルハチ:後金国[1616]、満州八旗の組織)

  2、ホンタイジ(内モンゴル[チャハル部]進出1635、国号を清に1636

  3、李氏朝鮮を属国化1637

  この1~3の時期を通じて蒙古八旗、漢人八旗の組織化

  

4、李自成の乱による明滅亡(崇禎帝自害[1644]

  5、呉三桂による山海関開城

  6、順治帝の北京入城(清による華北統治の開始)

 

・朝鮮

 明の冊封下清による征服と新たな冊封小中華思想

 

・三藩の乱(1673-81

  1、呉三桂(雲南)、尚可喜(広東)、耿継茂(福建)らが藩王に

    江南において半独立化

  2、康熙帝の危機感と勢力削減策

  3、三藩が反乱開始、台湾の鄭氏が呼応

    鎮圧(長江以南の完全支配、台湾滅亡と海禁の終了[中国支配完成]

 

[明・清の交易・対外関係の変遷]

(明)

<全体の流れ:初期の海禁~後期の海禁緩和>

・洪武帝の海禁(民間貿易の禁止)

-前期倭寇対策(南北朝騒乱・元末の混乱など)

-洪武帝の農本主義

・南海遠征(永楽帝期:鄭和)

-朝貢貿易の促進

 -日本の冊封と勘合貿易:足利義満による

(港:堺・博多/輸出:硫黄・銅・刀剣・漆器/輸入:銅銭・絹織物・生糸)

・銀の大量流入と後期倭寇の発生

Cf.)寧波の乱(1523):一時勘合貿易停止、日本人商人との私貿易活発化

・海禁緩和(1567

-ポルトガルのマカオ拠点化(1517来航、1557居住権)

アユタヤ・マニラ・マラッカと結ぶ

-中国人の移住(華人街の形成)

-日本銀・メキシコ銀の流入(石見銀山[16世紀半ば~]

一条鞭法(明)地丁銀(清)

-朱印船貿易(16世紀末~17世紀)

・オランダの進出

  バタヴィア(1619

  アンボイナ事件(1623

  台湾占領(ゼーランディア城:1624

  鎖国令(1639

 

(清)

<初期の海禁>

・鄭氏台湾の成立(1661-1683

遷界令(1661

鄭氏台湾の制圧(1683)と遷界令解除(1684

海関の設置(1685:朝貢貿易の受け入れ港、広州・厦門・寧波・上海)

 

<中期からの貿易制限>

・乾隆帝による貿易制限:広州(1757

・イギリスによる自由貿易要求

-マカートニー、アマースト、ネイピア

一橋大学2015解説参照

・アヘン戦争(1840-1842)と南京条約、虎門寨追加条約(1843

5港開港、領事裁判権承認、関税自主権放棄

・アロー戦争と天津条約(1858)、北京条約(1860

-総理各国事務衙門設置

 

[洋務運動・変法運動・光緒新政]

1、洋務運動

1860s-1880s 同治帝時代 「同治の中興」

・「中体西用」(アロー戦争敗北による危機感)

 :中国の伝統的文化・国制を基礎に西洋技術を導入

・曽国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞の主導

・表面的模倣と日清戦争敗北で限界露呈

(洋務運動が挫折していく過程)

  ユエ条約(188384)でヴェトナム保護国化と清仏戦争(1884-85)による敗北

 ヴェトナムのフランスによる植民地化と天津条約(1885)による宗主権放棄

  1894-1895 日清戦争

 

2、変法運動

・日本の明治維新にならった抜本的改革(立憲君主制)の模索

 →1898 戊戌の変法(変法自強)

・康有為・梁啓超・譚嗣同らによる改革の進言を光緒帝が認める

・科挙改革・近代学校設立・官庁の統廃合準備

 保守派(西太后)のクーデタ[戊戌の政変]、光緒帝は幽閉される

 

3、光緒新政

・義和団後、保守派が一度つぶした変法の線で改革を進める

(注意点)

  すでに改革派からは「保皇派」とみなされ、保守派扱いされる

  光緒帝は戊戌の変法の後に幽閉されている。

[実際に政策を進めたのは西太后を中心とする保守派]

(光緒新政の内容) 

  科挙廃止(1905

② 六部廃止(1906

  新軍創設

  憲法大綱の発布(1908)、国会開設公約(1908

  内閣大学士・軍機処の廃止(1911責任内閣制・総理大臣の設置

⑥その他:商部(商工業省)創設や会社の設立奨励、学制の交付などの教育改革

   

・同時期には革命運動が水面下で展開

  孫文による興中会(1894:ハワイ)、中国同盟会(1905:東京)の結成

  三民主義(民族独立・民権伸長・民生安定)

  四大綱領(駆除韃虜・創立民国・恢復中華・平均地権)

 

 この時期に光緒新政を進める立憲派(保皇派)と、孫文率いる革命派の対立については一橋大学2013年度大問3のAでも出題されています。かなり細かい知識まで頻出事項だと思います。
 

 

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  昨年(2016年試験)の受験用に、予想問題を作ったことがあるので紹介します。解答も下の方につけておくので、もしお時間があれば挑戦してみてください。

 

 18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールは、神聖ローマ帝国について「神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。」と評したが、「神聖ローマ帝国」という称号を初めて用いたのは13世紀半ばに神聖ローマ皇帝コンラート4世と対立したホラント伯ヴィルヘルムであった。当時のドイツ地域の政情はいかなるものであったか、特に叙任権闘争終結以降のドイツとイタリアの関係について言及しつつ答えなさい。また、ドイツにおける13世紀半ばの政情混乱が最終的にどのように解決されたのかについても述べなさい。(400字以内)

 

 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

 

 上の文章はドイツの哲学者カントが啓蒙について語った一節である。18世紀の西ヨーロッパで興り、合理的な世界観で人間性の解放を目指した啓蒙思想はその後のヨーロッパの政治や文化に大きな影響を与えるが、この啓蒙思想が起こった背景とその展開、また啓蒙思想がヨーロッパの政治と文化に与えた影響について述べなさい。(400字以内)

 

 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。私は日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りたまた、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ答えろ!』と繰り返し聞いてきた。私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。

 

 上の文章は、日清戦争の終結した年の末に朝鮮で発生した「乙巳事変」という政変の様子を宮殿の警護に当たっていた「侍衛隊」と呼ばれる近衛隊とともにいたロシア人御用技師サバチンが語ったものである。朝鮮では1860年代以降、度重なる権力闘争に外国勢力が介入した結果、この事件で暗殺された「王妃」とこれに対抗する勢力が形成された。1890年代における「王妃側の勢力」と「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたのかについて、諸外国との関係に考慮しつつ述べなさい(400字以内)

 

[問題作成の基準]

 これらの問題を、何を基準に作ったかがわからないと意味があるのかないのか不明だと思いますので、問題を作った基準を示しておきます。

 (大問1)

  :やはり、一橋の予想問題ですからオーソドックスに神聖ローマ帝国史、中でも金印勅書についての問題がまだ出ていないんですよね。といっても、金印勅書ではさすがに作りづらいのではないかな~、と思います。世界史の教科書レベルですと他に関連情報があんまりないんですよ。正直、東大や一橋受ける人たちに金印勅書なんて出したらみんな解いちゃうでしょ。ですから、その前後のドイツ国内の情勢と国際関係を含めた少し大きな枠組みで出題してみたのがこれです。正直、15分程度で作ったので設問としても粗いですが、この時期の神聖ローマ帝国史の復習がてら見ておくのもいいかなと思いました。

   実際に出たのは聖トマスとアリストテレスの都市国家論比較ということで、「なんじゃこりゃ!」ということになりましたが、これでは多分どこの予想問題も当たらないですねw 問題自体もそれほど無理のあるものでは無かったので、予想を外しても受験生たちはある程度は対応して解けていたみたいだったのでほっとしてますw

 

 (大問2)

  :大問2啓蒙ですよ!啓蒙!これはもう、正直鉄板じゃないかなぁと思っています。まだしばらくの間は出題されてもおかしくないテーマですね。出題傾向のところでも書きましたが、啓蒙とか宗教的寛容、場合によると理神論あたりなんかは一橋好きそうだなぁと個人的には思っています。最近出題されていたフランス革命がらみの出題も、正直啓蒙の延長線上としてとらえておりますので。エンゲルスなんか見ても、思想史系好きなのかなぁと。今後の一橋はこうした宗教を含む思想史系の出題と、アメリカが絡んでくる国際関係氏の大きくわけて二つのジャンルが出やすいのかなぁと思っているんです。

   そんな中、「だったらもう啓蒙全部復習させちゃおうw」というので作ったのがこの問題です。実際には出ませんでしたが、でも「宗教」が絡んでいる(ユグノーとか、ポーランド系カトリックとか)ことと、「啓蒙」が絡んでいること(フリードリヒ2世と宗教的寛容とかまんまですね)、あとは時期もほぼドンピシャでしたので、これはまぁ、アリだったのかなって思いましたw

 

 (大問3)

   これは朝鮮近現代史ですね。やはり、一橋はこのあたり好きで狙ってくるんじゃないかなと思ってたんですが、冬休みの段階で受験生の朝鮮近現代史の完成度がもう一つ、という状況でしたので、これも練習のつもりで作ってみた問題です。同じく、実際にはこれまでの流れを打ち破って戦後史を一橋が出してきたせいで外れてしまいましたが、朝鮮と近現代史に意識が向いていたおかげでさすがに朝鮮戦争はそこそこ書けたみたいです。大問3については従来の出題傾向の大枠を変えずにちょっと目先をかえた予想をたてたほうが今後は良さそうですね。

 

【解 答】

ヴォルムス協約以降も皇帝によるイタリア政策は続き、特に北イタリアでは教皇党と皇帝党の争いを引き起こした。シュタウフェン家のフリードリヒ1世が皇帝となると、度々イタリア遠征を行ったが、ミラノを盟主とするロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでこれを撃破した。しかし、シュタウフェン家の支配は次第に両シチリア王国にもおよび、フリードリヒ2世の時代には十字軍において条件付きながらイェルサレムを奪回し、パレルモを中心に文化的にも繁栄するなど帝国の勢力を拡大した。13世紀半ばにフリードリヒが死ぬとドイツでは大空位時代と呼ばれる皇帝不在の混乱期を迎え、これによりシュタウフェン家の所領であった両シチリア王国をフランスのアンジュー家に奪われるなど国力を衰退させたが、14世紀にはカール4世の金印勅書により7人の選帝侯が皇帝を選出することが決められて、皇帝選出をめぐる混乱は収まる一方、帝国の分権的体制は固定化された。

 

【論述のポイント】

  「ドイツの政情=大空位時代」であることを把握すること

  「叙任権闘争終結~大空位時代=シュタウフェン朝を中心とするイタリア政策の時代」であることを確認すること

  金印勅書の意義について言及すること

 

【採点ポイント】

  フリードリヒ1世もしくはシュタウフェン家によるイタリア政策

  ゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)

  ロンバルディア同盟

  ロンバルディア同盟がミラノを中心とする北イタリア諸都市によって結成されたこと

  レニャーノの戦い

  フリードリヒ2世もしくはシュタウフェン家が両シチリア王国に進出したこと

  フリードリヒ2世が第6回十字軍においてイェルサレムを奪回したこと

  パレルモもしくはナポリの繁栄(他にイスラーム・ギリシア文献の翻訳など)

  大空位時代

  ルドルフ1世もしくはハプスブルク家による神聖ローマ皇帝即位(1273年)

  シチリアをアンジュー家(またはシャルル=ダンジュー)に奪われたこと

  金印勅書

  金印勅書の内容と意義

 

以上をポイントに全体的なバランスを考慮することになる。

  

II

17世紀の科学革命により封建社会の中におけるキリスト教的世界観が動揺し、18世紀には人間・社会・国家のあり方を合理的に見直す啓蒙思想が現れた。ブルジョワが台頭したフランスで特に先駆的な動きが見られ、モンテスキューの三権分立などの国家論やルソーの社会契約説などが後のフランス革命に影響した。啓蒙思想は各国の君主と交流を持ったヴォルテールの活躍により東ヨーロッパにももたらされたが、地主貴族の力が強く、市民が十分に成長していなかった普・墺・露などでは、君主が自ら貴族・教会の力を抑え、近代化と国家権力の絶対化を進める啓蒙専制君主が現れ、フリードリヒ2世やエカチェリーナ2世らが啓蒙思想を利用した。啓蒙思想は政治面以外でも既存の価値観を打ち破る方向で働き、百科全書派の活動などに見られる世界観の世俗化や封建社会の矛盾をついて自由放任を主張するケネーなどの重農主義や、その後の古典派経済学の成立などへつながった。(400字)

 

【論述のポイント】

 啓蒙思想成立の背景

 啓蒙思想の特徴

 啓蒙思想の政治への影響

 啓蒙思想の文化への影響

 

【採点ポイント】

 17世紀科学革命が合理的考え方を醸成したこと

 イギリス経験論・大陸合理論なども合理的考え方に寄与したこと(またはで良い)

 啓蒙思想が人間の理性を重視し、個人・合理性・未来への前進などを志向したこと

 から、啓蒙思想が既存の特権や教会等の権威を否定する傾向を持ったこと

 背景としてのブルジョワ階層の台頭

 啓蒙思想の政治的影響1:フランス革命に大きく影響したこと

 啓蒙思想の政治的影響2:啓蒙専制君主を出現させたこと

 啓蒙思想の具体例の適切な使用と例示

  モンテスキュー・ルソー:国家論、社会契約説

  ヴォルテール:フランスの後進性の指摘、宗教的寛容論など

  百科全書派(ディドロ・ダランベールなど):既存の価値観、キリスト教的世界観の打破

  重農主義(ケネーなど):国家による経済介入に対する否定的見解、自由放任(レッセ=フェール)アダム=スミスの古典派経済学への継承

 啓蒙専制君主の出現した地域、西欧との差異、具体例

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

文化に与えた影響としては他に教育論、教育制度の発達と世俗化などを挙げることもできる。

また、啓蒙思想に対する反動として、19世紀初めごろから人間の感情・集団への帰属・過去の回顧を強調するロマン主義が生じ、ドイツの歴史主義・歴史学派などへとつながることになる。

 

鎖国攘夷政策を展開していた大院君が、1870年代に閔妃の一族に実権を奪われると、閔氏は当初開国・親日政策を採用して、江華島事件を機に日本と日朝修好条規を結んだ後は積極的な開化政策を行い、軍備の近代化を図ったが、新式軍隊に対して放置された旧式軍隊が不満を募らせたことや、開国による経済混乱から兵士への賃金未払いが生じた結果、壬午軍乱が発生した。これ以降閔氏は政権安定のために清と接近する事大主義をとり保守化へと転じたが、これに不満を持った金玉均などの開化派は日本に接近し、清朝からの独立や身分制度の廃止などの近代化を目指し、甲申政変を起こしたが清によって鎮圧された。事大党と開化派(独立党)の争いは日清戦争を引き起こした。日本が清を破ったことで1894年には開化派政権が誕生し甲午改革が行われたが、その後ロシアが朝鮮問題に介入してその影響力が強まって改革が弱まると、これに不満を感じた一派は乙巳事変を起こして閔妃を暗殺した。(400字)

 

【論述のポイント】

 1860年代以降形成された「王妃側の勢力」について詳述すること

 1890年代に「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたかについて詳述すること

 諸外国の影響が朝鮮国内の政治にどのように影響したのかについて言及すること

 

【採点ポイント】

 1890年代時点における王妃側の勢力=閔妃(事大党)であることを示す

 事大党の政治的立場について示す

 1890年当時の王妃に対抗する勢力=開化派(独立党)であることを示す

 開化派の政治的主張(清朝からの独立、身分制度の廃止、税制改革、議会制の導入)などを示す

 開化派の代表的人物(金玉均、朴泳孝など)を挙げる

 大院君と閔氏政権の違いについて示す(鎖国攘夷 / 開国親日)

 閔氏政権の変化について示す(開国親日 事大主義[親清・保守化]

 壬午軍乱について示す

 甲申事変について示す

 日清の対立と日清戦争について示す

 日清戦争後のロシアの影響力増大について示す

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

 
 

 

 

 

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【問 題】

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

問題の概要は以下の通りです。

・中国をめぐる外交関係の展開を説明せよ。

 

ただし、設問導入部分の文章から以下の条件が想定できます。

・中華人民共和国の成立以降の話であること。

・その時々の国際関係による影響や、逆に中国が他国の外交政策に影響を及ぼしたことなどを考慮せよ。

・指定語句は「中ソ友好同盟相互援助条約 / 中ソ論争 / ニクソン・ドクトリン / 日華平和条約」の四語で、これらを「列記した順に用いて」解答することが求められています。(示した指定語句の順番は設問通り)

・指定字数は200字から250字です。

・所定の語句には下線を付せ。

 

早稲田はなんだかんだ言って中国好きそうですね。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

・設問の要求

:(中華人民共和国の成立以降の)中国をめぐる外交関係の展開を記せ

・留意点

:その時々の国際関係から中国の外交政策はどのような影響を受けたか。また、他国の外交政策にどのような影響を及ぼしたかに注目。

 

【解答手順2:指定語句分析】

・指定語句についてですが、「列記した順に用いて」とあるにもかかわらず、日華平和条約(1952)があるなど、起こった年代順ではないので注意が必要です。もっとも、このことが逆にヒントにもなっています。

 

・中ソ友好同盟相互援助条約(1950

:台湾の国民党政府がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」を狙うことに対抗。米ソ冷戦下での軍事同盟、「向ソ一辺倒」。本条約のもとに中国は朝鮮戦争に「義勇軍」を派遣。

アメリカはアジアにおける防共圏の形成に腐心(対中封じ込め)

アメリカによる太平洋集団安全保障構想に基づく反共同盟や、関連する条約などは以下の表の通りです。

 

1951

米比相互防衛条約

太平洋安全保障条約(ANZUS

日米安全保障条約

(サンフランシスコ講和条約とともに)

1952

日華平和条約(本設問での使いどころはここではない)

1953

米韓相互防衛条約

1954

米華相互防衛条約

東南アジア条約機構(SEATO

 

 ワンポイント

 一見すると脈絡がなくて覚えにくい反共同盟にも、背景があります。たとえば、1951年の諸同盟について言えば、アジアでの冷戦激化にともない、米英では対日早期講和論が台頭してこの実現に向けた動きが強まりましたが、これに対し日本の軍国主義の再度の台頭を恐れるオーストラリア・ニュージーランド・フィリピンは反対し、むしろ「対日防衛」圏構築の必要性を訴えました。アメリカとしても集団安全保障体制に基づいて講和後も米軍が日本に駐留できれば日本の防衛と日本における軍国主義の抑制の双方を達成しうると判断して、日本を含めたNATO型の集団安全保障体制を形成しようとしましたが、オーストラリアとニュージーランドは日本と同盟国になることを拒否しました。このため、アメリカは両国との間にANZUS(オーストラリアのA、ニュージーランドでNZ、アメリカ合衆国でUSですね)を、フィリピンとの間に米比相互防衛条約を締結の上で、日本と講和して日米安全保障条約を締結する、という形で個々に反共同盟を構築する流れになったわけです。

 1953年の米韓相互防衛条約は朝鮮戦争の影響ですね。実はこの太平洋集団安全保障構想は1949年初めにフィリピンの提案に賛同した朝鮮の李承晩や台湾(中華民国)の蒋介石から持ち込まれたものでした。ところが、アメリカは1949年の段階ではこれらの国が内政の安定化のためにアメリカを利用しようとしているのではないかと考えて消極的だったんですね。アメリカが対日講和に本腰をいれるのは1949年の後半からで、反共同盟構築が促進されたのは朝鮮戦争が開戦した後のことです。また、米華相互防衛条約は、当初台湾に対する軍事援助を打ち切っていたアメリカが、他の中国周辺事態が鎮静化(1953年朝鮮戦争終結、1954年第1次インドシナ戦争停戦)したことで、矛先が台湾に向かうことを懸念したから締結されたものです。教科書的には「反共防衛圏を形成した」の一言で片づけられてしまうのですが、背景にはその時々での国際関係の変化や国民感情、国家間の利害対立が複雑に作用していました。結局、アメリカはこの太平洋集団安全保障構想の実現に失敗し、個別の対応をとらざるをえなくなりました。

・中ソ論争[1950年代以降の中ソ対立(中ソ論争)と米ソ接近]

1953年のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存路線に毛沢東が反発

(中国の独自路線と米ソの接近)

1954 周・ネルー会談「平和五原則」

1955 バンドン会議「平和十原則」

1959 フルシチョフの訪米(アイゼンハウアーとの会談)

中ソ技術協定破棄(1959):ソ連技術者の中国からの引き上げ

中国は大躍進政策に失敗

 

 ・1960年代の中ソ対立激化

1962 キューバ危機:米ソ再対立とその解決

   中印国境紛争:ソ連がインドに武器支援

1963 部分的核実験停止条約

1969 中ソ国境紛争(ウスリー川のダマンスキー島での軍事衝突)

 

1970年代の米中接近(ニクソン=ドクトリン / 日華平和条約)

:ヴェトナム戦争の泥沼化とアメリカの財政赤字

アメリカが戦争を「ヴェトナム化」することを企図、中国への接近を図る

1969 ニクソン=ドクトリン

:ヴェトナムへの過度な軍事介入を避けることを言明中国に接近

1971 国連代表権が台湾から中華人民共和国へ

   1972 ニクソンの訪中:事実上の中国との国交正常化

日中共同声明と国交正常化

日華平和条約の失効、日本が台湾と断交

   1978 日中平和友好条約

   1979 米中国交樹立

 

【解答手順3:解答のポイント】

 設問の要求と指定語句を検討すれば、ここでは中国(中華人民共和国)をめぐる国際関係の大きな変化を示せばよいことがわかります。基本の流れは「当初は冷戦構造が成立する中でソ連に接近1950年代前半から中ソ論争中ソ論争の激化と軍事衝突(中ソ国境紛争)ヴェトナム戦争の泥沼化によるアメリカの方針転換と中国への接近1970年代に入り、日米中の平和共存」という流れになります。この流れ自体は早稲田の法学部を受験するのであれば作れるようにしておきたいですね。問題になるのは「日華平和条約」の使い方です。設問に「列記した順に用いて」とあるので、時系列で書いていくと締結時(1952)のタイミングでは使えません。やはりここは、日本と中国の関係改善にともなって本条約が失効した、という流れで話をまとめるべきでしょう。実際、これが論述の方向性のヒントにもなっているのですが、問題はかなりの数の受験生が「日華平和条約って何だ?」となってしまっていることですね。正直、試験会場でも日華平和条約に反応してきちんと内容も把握できた受験生は少数派で、世界史の得意な人たちでしょう。だとすれば、仮に日華平和条約の部分が書けなかったとしてもそれほど気にすることはありません。上述した大きな流れさえ外さずに書けていれば、きちんと7割~75分くらいは確保できるはずです。最悪でも6割を下回ることはありません。いつも申し上げていることですが、論述は満点解答を作成するよりも、大幅な点数の取りこぼしをしないことが重要です。まして、早稲田は他にも数多くの小問がありますから、全体として合格点にたどり着くことを重視してください。

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