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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw 問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

[問 題]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 概要を紹介すると以下のようになります。

・民族自決の考え方の世界への波及の仕方について述べなさい。

・時期は20世紀初頭から20世紀前半まで

 (表現としてどうかと思いますが、要は1901-1950まで)

・指定語句は「平和に関する布告 / 十四か条の平和原則 / 三・一独立運動 / 国際連合」の四語が示されています。(順番は設問通り)所定の語句に下線を付せという指示は例年通りです。 

・指定字数は200字から250字です。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

:設問の要求は「20世紀初頭から20世紀前半までにどのように民族自決という考え方が波及していったか」です。(期間は1901-1950年になります)

 

【解答手順2、指定語句分析】

 設問がややアバウトなので、まずは方向性を把握するために指定語句を精査します。正直なところ、「民族自決」について書こうと思えば東欧だろうとアジアだろうと中東だろうとあらゆるところをテーマに書けることが山ほどあるので、もう少し範囲や路線を絞って方向性を確認しないと書きようがありません。ですから、書き始める前に出題者が何を意図しているかを指定語句から推し量ることが必須です。

 逆に、指定語句の分析とその整理という作業さえ済んでしまえば、聞かれていることは基本的なことが多いのである程度は体裁を整えて書くことができると思います。

 

1 平和に関する布告(1917

:ロシア十一月革命(十月革命)を達成したボリシェヴィキが発布

:「無併合・無賠償・民族自決」の原則による講和の提唱

→1918 ブレスト=リトフスク条約によるドイツとの講和

 

2 十四か条の平和原則(1918

:ロシアの平和に関する布告に対抗してウィルソンが発表

[影響]

・第一次大戦後のパリ講和会議ならびにヴェルサイユ体制下において、フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年からユーゴスラヴィア)などの東欧諸国が独立

・アジア諸国やエジプトなどで民族自決を求める運動が激化

[問題点]

・一民族一国家の原則に基づいて東欧に国民国家が形成された結果、少数民族問題が発生

・民族自決の適用はヨーロッパのみであり、アジアには適用されなかった

 

 ワンポイント

 あまり世界史の教科書などでは言及されませんが、ウィルソンの十四か条の平和原則は、その前年にロシアのボリシェヴィキ(1918年からはロシア共産党)が発表した平和に関する布告に対抗する必要性から出された面があります。ボリシェヴィキが第一次世界大戦を帝国主義戦争と断罪し、その証拠としてロシア帝国時代に締結された秘密外交(サイクス=ピコ協定など)を次々に暴露したことで連合国側の戦争に対する大義名分は大きく揺らぎ、またロシアの戦争からの離脱によって東部戦線の維持が困難になり、協商国側は不利な立場に置かれることになりました。こうした中でウィルソンは新たな戦争目的として十四か条を示したのです。だから十四か条にも「秘密外交の禁止」という項目があるのですね。

 ですが、共産主義者であるレーニンが示した平和に関する布告と、英・仏などの植民地を多く抱えた協商国に配慮しなくてはならないウィルソンの十四か条では内容に大きな差がありました。本設問に関係する民族自決について言えば、平和に関する布告が民族自決を全面承認する内容になっていたのに対し、十四か条では「関係住民(植民地住民など)の利害が、法的権利を受けようとしている政府(支配国政府)の正当な請求と同等の重要性を有する」として、民族自決の重要性を認めながらも、それはあくまで本国政府が「正当」に有する権利と比較衡量された上で認められるべきものだとされています。さらに、その適用範囲も、第10条から第13条によって示されているように、基本的に敵対国の民族集団に適用されるものでした。

 ちなみに、第10条から第13条の内容をかいつまんで示すと以下のようになります。

 

 第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の自治

 第11条:バルカン諸国の回復

 第12条:トルコ少数民族の保護

 第13条:ポーランドの独立

 

 ね?もう何というか、そのまんまドイツ・オーストリア・オスマン帝国が利害を持っていた地域でしょ?ですから、民族自決がヨーロッパにのみ適用されたというのは、何のことはない、要はこれら敵対国の解体を進めたに過ぎなかったからなんです。ですから、民族自決がアジアなどに適用されなかったのも無理はありません。だって、これらの地域は戦勝国の支配地なんですから。

 いずれにしても、ヴェルサイユ条約によって東欧諸国は独立を果たしました。もっとも、これはロシア革命がヨーロッパに波及することを防ぐこともその目的としていました。以下の薄い黄色がついている国がこの時に独立した諸国です。

WWI後の東欧_国名入り
(第一次世界大戦後のヨーロッパ)

 「東欧の地図なんて覚えても」と思う人がいるかもしれませんが、多くの受験生が世界史を覚えられない原因の一つに「地図を把握していない」ということがあると考えています。「中央アジア」とか「イベリア半島」と言われた時に「パッ」とその地域が目に浮かぶようにするとイメージ付けも簡単ですが、知らない情報の上に知らない情報を重ねようとしてもうまくいきません。また、東欧は中世では神聖ローマ帝国、近現代ではオスマントルコ、ロシアの南下政策、ドイツ・オーストリアの進出や戦後の共産化など、様々な分野で出題される地域にもなりますから、せめて「ポーランド」、「チェコスロヴァキア(このうち東部がチェコ[ベーメン])」、「ハンガリー」の位置関係くらいは把握しておきましょう。バルト三国が覚えづらい時は、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの順だけ覚えておくと、「リトアニア=ポーランド大公国」があるからポーランドに近い方がリトアニアだ、と判断がつきます。ものを覚えるときに重要なのは、語呂合わせなどももちろん良いですが「常に同じ順番で覚える」など自分なりのルールを決めておくことです。

 

3 三・一独立運動(1919

[背景] 

・朝鮮総督府による武断政治と土地調査事業

・パリ講和会議に対する期待(東京で留学生が独立宣言とデモ)

[事件の発生と経過]

・高宗(ハーグ密使事件後日本の監視下に)の死

ソウルで数千人規模のデモ、独立宣言

3月から5月で延べ50200万人参加、死者数百~1万弱を出す全国規模の運動に発展

日本は文化政治への転換

李承晩は上海で大韓民国臨時政府を結成

 

4、国際連合成立(1945

[成立の背景と民族自決]

・大西洋憲章(1941

=枢軸国との戦争目的と戦後の国際協調についての英・米合意民族自決の明記

 ・サンフランシスコ会議(1945

国際連合憲章採択、半年後の10月に発足

[国際連合成立の民族自決にとっての意義]

 ・それまでは理念に過ぎなかった民族自決に国際法上の根拠が成立

インド・朝鮮の独立、その他東南アジア各国で独立運動

 

【解答手順3、解答のポイント】

 本設問のポイントは、何といっても「民族自決」を軸に解答を整理するということです。これにつきます。さらに、もう一点ポイントをあげるとすれば「国際連合の使い方」ですね。「平和に関する布告」や「十四か条の平和原則」、「三・一独立運動」が比較的近い時期(23年の間)におこった出来事であるのに対して、残り一つ「国際連合」だけは1945年設立と数十年もの開きがあります。流れでいったら「国際連盟」があってもいいのですが、そうではないのですね。そこにどのような意味を見出すか、これがポイントではないでしょうか。

 だとすれば、基本的な流れは「ボリシェヴィキの発表した平和に関する布告の中で民族自決が示されたことに対抗して、ウィルソンは十四か条の平和原則を発表したが、これは民族自決を敵対国の支配地であった東欧諸国に限定し、アジアなどの植民地には適用しないという限界があった。これに期待を裏切られたアジアなどの植民地では民族運動が激化し、朝鮮では三・一独立運動が起こった。(ちなみにこれで165字)」という流れだと思いますが、これに国際連合設立によって民族自決に国際法上の根拠が示されたこと、英仏に植民地を抑える力が残っていなかったことなどから、インドや朝鮮の独立や各地での独立運動へとつながったとまとめるとすっきりすると思います。様々な情報があって取捨選択することが難しいのは相変わらずですが、大切なことは設問の要求する大テーマを外さないこと、そして設問に含まれる意図をどこまで正確にくみ取るかということです。やはり、ここでもコミュニケーションが大切になるのですね。出題者の側は多少そっけないですがw

 

【解答例】

民族自決を掲げたソヴィエト政権の平和に関する布告に対抗してウィルソンは十四ヵ条の平和原則を示し、パリ講和会議では東欧諸国独立が達成されたが、戦勝国の植民地が多いアジア・アフリカの自決権は認められなかった。そのため、朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動、インドのサティヤーグラハのほか、エジプトや東南アジア各地でも独立を求める民族運動が高揚したが弾圧された。第二次世界大戦が始まると、国際連合成立過程で大西洋憲章などの諸法規に民族自決が国際法上の権利として明示され、朝鮮やインドの独立の根拠となった。(250字) [解答例を2022.6.21に更新しました]

 

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[設問概要]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 問題の概要は以下の通り。

 

・「ナポレオンによるドイツ支配からドイツ帝国の誕生にいたるまでの歴史的過程」を250字から300字で説明せよ。

・条件1:オーストリアの歴史的役割に留意しなさい。

・条件2:指定語句を列記した順に用い、所定の語句には下線を付せ。

    (指定語句:ライン同盟 / ウィーン体制 / 1848年革命 / ビスマルク)

 

【解答手順1:設問内容の確認】

:設問の要求はナポレオンによるドイツ支配~ドイツ帝国の誕生に至るまでの歴史的過程を記述せよというものです。「オーストリアの役割に留意せよ」という部分を以下に処理するかが問題となります。

 

【解答手順2、指定語句分析】

:簡単に指定語句についてまとめておくと以下のようになります。

 

1、ライン同盟

1806年にナポレオンが西南ドイツ諸邦支配のために結成させた傀儡同盟

 これを受けて神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国が完全消滅した

2、ウィーン体制

181415年にかけて開催されたウィーン会議によって成立した国際体制

 メッテルニヒの主導によって成立した反動体制

 タレーランの提唱による正統主義と勢力均衡を基本原理とする

31848年革命

1848年に発生したフランス2月革命が各地へ波及

ベルリン3月革命・ウィーン3月革命

メッテルニヒ亡命、ウィーン体制の一部が崩壊

その後、ドイツではフランクフルト国民議会、ヨーロッパ各地でも自由主義と民族主義の運動が高揚

4、ビスマルク

:ヴィルヘルム1世によって宰相に任命される

自由主義的な議会と対立しながらも鉄血政策を推進
  (プロイセンによる「上からの統一」)

デンマーク、オーストリア、フランスを戦争で打ち破ってドイツ帝国を成立させる

 

3、関連事項の把握と必要事項の整理】

:それでは、指定語句にそって関連事項を整理していきましょう。設問では、「オーストリア」に注意するように言っておりますので、オーストリアの動きで特に関連するものは赤字で、その他のものでドイツ統一に深く関連する事項は青地で示していきます。双方に関連するものもありますが、ここではあまり気にしないでください。

 

A、ナポレオンのドイツ支配の開始

アウステルリッツの戦い(1805年)

ライン同盟の結成(1806年)

神聖ローマ帝国の消滅(フランツ2世の退位)

・イエナの戦いティルジット条約(1807年)

プロイセン領の削減とワルシャワ大公国成立

 プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルク)

ナショナリズムの高揚(フィヒテ)

 

 ナポレオンがドイツ支配を始めるためには、当時のドイツ地域における二大領邦であるプロイセンとオーストリアを撃破しなければなりません。また、この両国はフランス革命(1789)の起こった後にルイ16世を支援してフランスに干渉戦争をしかけてきていますから、その流れからしてもナポレオンは両国と敵対します。

 こうした中で、ナポレオンはオーストリアとロシアをアウステルリッツの三帝会戦(1805年)で撃破し、これがきっかけでオーストリアのドイツ諸邦に対する影響力が弱まると同時に西南ドイツ諸邦はナポレオンの占領下におかれました。そして、名目上神聖ローマ帝国に属していた諸邦にナポレオンが強制的に締結させたのがライン同盟です。ライン同盟の成立によって完全にその存在意義をなくした神聖ローマ帝国は、皇帝フランツ2世の退位をもってその幕を下ろします。

 つづいて、ナポレオンは北ドイツの雄、プロイセンをもイエナの戦い(1806年:またはイエナ=アウエルシュタットの戦い)で撃破します。これによりナポレオンはプロイセンの首都ベルリンに入城し、大陸封鎖令(1806年)を発してイギリスとの戦いに備えるのです。続く1807年にはナポレオンはティルジット条約をプロイセン・ロシアと締結して、プロイセンの領土の大幅な削減(エルベ川東岸はウェストファリア王国となり、ナポレオンの弟ジェロームが王となる。また、ポーランド分割で手にしていたプロイセン領ポーランドはワルシャワ大公国となり、ザクセン公が大公位を兼ねた)と、ダンツィヒの自由市化、ロシアによる大陸封鎖令の順守などが決定され、ドイツからポーランドにかけてはナポレオンの影響下に入ることになりました。

 

 ワンポイント

 勘違い、というか正確に把握していない受験生も多いのですが、当時のプロイセンとオーストリアは同じドイツ地域にありますが別の国(領邦)です。ですから、オーストリアを撃破したからといって自動的にプロイセンも支配下に入るわけではありません。プロイセンがナポレオンの影響下に置かれるのはイエナの戦いの後です。イエナの戦いでプロイセンを破ったからこそ、ナポレオンは「ベルリン勅令(大陸封鎖令)」を発することができるわけです。ベルリンはプロイセンの都ですから。また、この後のシュタインとハルデンベルクらによる「プロイセン改革」もあくまで「プロイセン」での出来事なのだということは確認しておきましょう。

 同じようなことは、1848年のベルリン3月革命やウィーン3月革命にも言うことができますね。つまり、当時はドイツ各地の領邦で同じような革命運動が起きていて、その代表的なものがプロイセン首都のベルリンやオーストリア首都のウィーンで起こったものなわけです。こうしたドイツ各地の自由主義者が集まって結成するのがフランクフルト国民議会、というわけですね。日本の幕末で言えば、西郷隆盛や桂小五郎に坂本龍馬といったお歴々が京都に集まってもし「議会をつくるどー」って言ったら京都国民議会、みたいなイメージでしょうか。

 

B、ウィーン体制(ワーテルローでのナポレオンの敗北による)

メッテルニヒ(オーストリア外相)が主導

オーストリアが国際協調を主導する中で、ドイツ連邦の盟主としてドイツへの影響力回復

(ただし、これはオーストリアがドイツ地域の支配権を手に入れたことを意味するのではなく、むしろ「勢力均衡」の縮図)

プロイセンは関税同盟(1834)をリストの提唱で結成=北ドイツの経済的統一進む

 

ウィーン体制は入試でも頻出の箇所で内容も盛りだくさんですが、ここではドイツ統一の過程を、オーストリアを中心に見ればよいので、関連する事項も絞られます。やはり、ここではオーストリアがこの会議を主導したことに注目した上で、ドイツ地域にどのような影響を及ぼしたかを考えるべきでしょう。

 その際、注目すべきはドイツ連邦です。ドイツ連邦は確かにオーストリアを連邦議会議長とするドイツ諸邦の連邦国家で、ライン同盟とフランスの影響力は消失しました。ですが、これはオーストリアが連邦に所属する諸邦を支配したことを意味しません。ホルシュタインの君主はデンマーク王国でしたし、ハノーファーはイギリス国王の実家です。むしろ、このドイツ地域は会議に参加した大国同士の「勢力均衡」の場とされ、ドイツ統一からはむしろ遠ざかるものでした。これは、ナショナリズムを嫌悪する多民族国家オーストリアの宰相となるメッテルニヒの目的にも敵ったものであったといえます。

 一方で、地域的な統合はまず経済面から達成されていきます。それが経済学者リストの提唱によって成立したプロイセンを中心とする北ドイツ諸邦の関税同盟であるドイツ関税同盟(1834)です。

 

C、1848年革命

・ウィーン体制の崩壊

・ドイツナショナリズムの高揚(ベルリン3月革命、ウィーン3月革命)

フランクフルト国民議会(大ドイツ主義と小ドイツ主義)

小ドイツ主義の勝利と、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の戴冠拒否によるフランクフルト国民議会の自然消滅と「下からのドイツ統一」の挫折

 

 フランス2月革命のあおりをうけて、それまで抑圧されてきた自由主義運動とナショナリズムが高揚、ドイツ地域ではフランクフルト国民議会による「下からの統一」が模索されます。

 この際、オーストリアを含む(大ドイツ主義)か含まない(小ドイツ主義)かが議論されましたが、多民族国家でドイツ統一によるナショナリズムの高揚が国家分裂につながりかねないオーストリアが統一ドイツに参加する見込みも立たず、議論は小ドイツ主義が優勢となり、国民会議はあらたな旗印としてプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝就任への要請を行います。しかし、革命的な自由主義者に国王であるフリードリヒが好意を抱いているはずもありませんし、まして彼らに担がれてオーストリアを敵に回すのもまっぴらごめんということで、この就任要請はすげなく断られてしまい、ドイツにおける「下からのドイツ統一」は挫折を余儀なくされてしまいました。

 

D、ビスマルクの鉄血政策とドイツ帝国の誕生(「上からのドイツ統一」の完成)

・フランクフルト国民議会によるドイツ統一の挫折「上からのドイツ統一」へ

・デンマーク戦争(1864

・普墺戦争(1866

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の成立(1867

オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(1867

・普仏戦争(1870-1871

ナポレオン3世を破る(セダンで捕虜に)

アルザス・ロレーヌ獲得、ドイツ帝国の成立

  (オーストリアが統一ドイツから除かれる)

 

 あとは、ビスマルクとヴィルヘルム1世が率いるプロイセンによるドイツ統一の過程を書いていけばよいことになりますね。やはり注目しておくべきなのは北ドイツ連邦の成立と、オーストリア=ハンガリー帝国の成立、さらにドイツ帝国の成立でしょう。オーストリアに注目することを要求されている本設問では、やはりオーストリアが統一ドイツから除外されたことは強調しておきたいところです。

ここまでまとめられれば、以上のA~Dの内容を設問の要求に沿って整理していくだけになります。いろいろ情報があって取捨選択が難しいですが、「当初ナポレオンが支配を及ぼしたことで影響力をそがれたオーストリアが、ウィーン体制によって新たな国際秩序を築いたものの、自由主義とナショナリズムを抑えきれずにその体制も崩壊した。しかし、「下からの統一」も挫折した後に、鉄血政策によって国力を増強させたプロイセンがドイツ帝国を成立させてドイツ統一を成し遂げ、オーストリアはドイツ地域から除外された」(ちなみにこれで171字)のような大きな流れをつくってしまえば、あとはどこをどう肉付けするかという問題だと思います。できるだけ本論にそった事柄を選んで、余計な情報は極力カットしていかないと300字以内でまとめるのは難しいかと思います。頑張ってください。

 

3、解答例】

 ライン同盟の成立で神聖ローマ帝国が消滅したことで墺はドイツ地域への影響力を失ったが、ウィーン体制下ではドイツ連邦を成立させて影響力を回復し、自由主義やナショナリズムとともに高揚した統一への動きを抑圧した。一方、北ドイツではプロイセンがドイツ関税同盟結成で経済的統一を進めた。1848年革命の余波を受けて墺が混乱したことで、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義による統一が模索されたが挫折した。その後、ビスマルクの鉄血政策を通して統一を進めていたプロイセンは普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦を成立させてドイツ地域に影響力を拡大した後、普仏戦争に勝利しオーストリアを除くドイツ地域はドイツ帝国として統一された。(300字)

解答例はたしか自前でつくったはずですが、ちょっと昔過ぎて覚えていません。(解答例=2020.3.7追加) もし勘違いだったら消しますね。

 

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最近、私大でも論述問題が課せられることが多く、その対策に苦労しているらしい人たちからの相談が多いもので、早稲田の法学部と慶応の経済学部を中心に論述対策を行っています。まぁ、歴史的な知識と理解さえしっかり身につければ、各校ごとの対策というのは出題傾向の確認と練習程度の意味合いしかないのですけれどもw ただ、大学によっては出題傾向を把握してその周辺の歴史に強くなっておくことで、ある程度の耐性をつけることは確かにできると思います。「侮らず、過信せず」程度で考えておくのが良いでしょう。まして、「ヤマをはればイケる!」なんていうのは運任せのギャンブル的な発想ですね。嫌いではないですがw

今回は早稲田法学部の論述問題の紹介と出題傾向の分析、過去問の解説などを行っていきたいと思います。まずは出題傾向なのですが、下の表が早稲田の法学部で過去7年間に出題された問題のテーマです。

早稲田法論述一覧2010-16
 

[形式1]

 過去6年間では必ず大問5に設置されています。2010年から2015年までは一貫して200字以上250字以内という字数指定でしたが、昨年の問題では250字から300字と50字分量が増しましたただ、それも決して大きな変化とは言えず、基本的な形式に変化はありません。

[形式2]

 例年、4語の指定語句が示されています。設問の要求がかなりアバウトなこともありますので、この指定語句がないと論述の方向が定まらないこともあり、早稲田法学部の論述を解く上でこの指定語句の分析と整理は極めて重要になります。

[出題傾向1]

 大きく分けて、ヨーロッパ近現代史と中国近現代史から出題されています。時期的には16世紀以降を意識しておくとよいでしょう。内容も教科書や参考書の中で一大テーマとなるような重要な箇所が多く、あまりマイナーなテーマが出題されることはありません。

      東大のように非常に大きな枠組みを意識しないと解けないような広い視点も必要なく、一橋のように特定の分野についてやや深い歴史的理解や知識が求められることもありません。オーソドックスな問題で、よく言えばシンプル、悪く言えば単純でアバウトな出題になっていると思います。

[出題傾向2]

 あまり言い方は良くありませんが、東大や一橋で出題された問題をやや簡単にしてアレンジしたような出題がされることがあるように感じます。ですから、早稲田の法学部の論述を解いてしまって練習材料がなくなってしまった、ということがもしあれば、その時は東大の論述対策用テキスト(ベタですが、『東大の世界史25カ年』とか、『テーマ別東大世界史論述問題集(駿台受験シリーズ)』など)のうち、近現代史を重点的に練習しておくとよいでしょう。ここ7年の間、近現代史しか出ていないからといってそれ以外の範囲から出題されない保証はありませんが、仮に近現代史以外から出題されたとしても、だれでも一度は聞いたことのあるテーマからの出題になるでしょうから、基本的な知識さえまとめてあれば他の受験生に大きく差をつけられることにはならないのではないかと思います。

 

[解法・その他]

 基本的な解法としては指定語句を参考に関連事項を思い浮かべ、設問が求める解答へ導くために整理するという手順となります。設問に多少の変化が出たとしても、200字から300字程度で経過説明や背景・理由説明、結果・影響説明などを行う設問であると考えれば、特に戸惑う必要はなく、ブレイン・ストーミングからの整理、論述をいつもと同じようにこなせばよいでしょう。ただし、時間配分には注意すること。

内容としては、かつては一国史が多かったのですが、近年は近現代の国際関係を問うものなどが多く、複数の要素の対比や関係性を問おうとする出題者の意図が感じられます。正直、まだ過渡期にあるのではないでしょうか。東大などと比べると「まだ練れていないな」といった印象のある出題ですが、次第に洗練されてきている印象で、どこかでレベルが大きく変化するということもあり得るのかもしれません。早稲田は近年グローバル化への対応を大学全体で打ち出しているので、今後も国際関係史やそれに準ずる内容が出る可能性は高いと思います。

 

出題傾向については以上です。各年の過去問解説については早稲田大学法学部「世界史」論述対策(問題・解説と分析)をご参照ください。
 

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