今回は東京外国語大学の2016年「世界史」過去問解説を行いたいと思います。本当は東京外語は先に問題傾向の分析から掲載したかったのですが、なにぶん、データの整理というのは時間と手間がとてもかかるのですよ(汗) 現在は私も受験直前の講習だわ、自分の学校の入試だわで正直データ整理を行っている暇がありません。
それでも、なぜあえて東京外語の設問を取り上げようということになったかといいますと、外語の世界史解説は需要のわりにあまり正面からされていないということがひとつ。正直、外語は世界史よりも英語(外国語)ができるかどうかの勝負というところがありますのでね。そのせいか、あまり取り上げられることがないようです。でも、受験生にとっては、やはり不安の種。それまでに世界史に力を入れていないならなおさらです。そうした人の声に毎年応えたいと思いながらも、なかなか整理する時間が取れませんでしたのでこの機会に数年分くらいは整理しておきたいと思いました。
二つ目の理由としては、外語の論述問題は近年しっかりと史料を読ませ、その情報分析を行わせた上で歴史的知識を整理させる良問が多いように感じていることです。外語の問題は個々の設問も理屈くさくて長い私の文章のようですが、それ以上に史料が長い!ざっと見た印象ですが、大問1の史料だけで5000~6000字くらいはあるのではないでしょうか。そういう点では毛並みは違うのですが、「史資料の情報を活用して解く」という点では、近年の一橋の設問と相通ずるところがあると思いますので、史料読解練習として使うのはアリかなと思います。(ただし、あくまでも「史料読解」の練習が目的です。外語は基本的に近現代史からの出題になりますし、一橋とは扱われるテーマの傾向もかなり違います。)
2016年 東京外国語大学「世界史」解説
【全体】
・外語大の過去問は大学HPからたどりつける下記のページで紹介されています。
http://www.cybercollege.jp/tufs/index.php
ただし、表示するには同ページに表示されているパスワードが必要となりますので注意してください。(2017年1月28日現在)
・構成としては、大問が二つあり、大問1に小問が8~9問、大問2に小問が7問というのが普通です。各大問には一つずつ論述問題があり、大問1の論述が400字、大問2の論述が100字というのが最近の傾向です。配点は2016年を例にとると以下のようになっています。
大問1(60点)‐内訳:記述問題(5点×8)+400字論述(20点)
大問2(40点)‐内訳:記述問題(5点×6)+100字論述(10点)
・外語の設問は上にも書きましたが、長いです。ただ、聞かれていることは単純で基本的な設問が多いと思います。具体的に示すと、以下のようになります。
(例:2016年大問1、問1)
下線部①に関連して[下線部①は「マラッカ市はアチェンから約150リュー(1リュー=約4km)離れています」]、この国際的な交易都市は、中国や琉球王国の貿易商人や西方からのムスリム商人が集散する海上貿易の拠点であり、文化発信の拠点でもあった。ポルトガル占領後にはフランシスコ・シャヴィエル[フランシスコ・ザビエル]がこの地を拠点にして布教活動をおこなっている。このマラッカが大きく発展した理由は、ポルトガルによる占領以前に明の保護下にはいり、北方で勢力を広げていた商業国家アユタヤと対抗できるようになったからである。マラッカを明の保護下に置くことで、永楽帝が企図したインド洋からアフリカに至る遠征を成功させた人物の名を答えなさい。(5点)
とまぁ、このように長いです。ですが、結局この設問が聞いているのは波線を引いた部分で、「永楽帝の時にマラッカを保護下においてインド洋からアフリカに至った人物は誰ですか」という設問で、答えは「鄭和」ということになるのですが、正直なところ基本問題ですね。外語の小問はこの手の基本問題がほとんどです。ただ、外語の設問は史料とともに他の問題を解くヒントを隠していることもありますので、安易に読み飛ばさないようには注意してください。効率よく問題の要求を把握しつつ、必要な情報はしっかり拾って時間短縮につなげてください。
外語を受験する受験生の多くが外国語に力を入れ、歴史にはそこまで力を入れていないと考えると、論述でそこまでの差がつくかは疑問です。ですから、外語の世界史は論述よりもいかにこれらの基本的な記述問題を落とさないかが勝負の分かれ目になります。記述問題に限って言えば、少し気の利いた世界史解答者なら全問正解することも難しくはありません。仮に、記述問題を全て拾ったとすればそれだけで70点、論述が半分弱しか書けなかったとしても優に80点を超えてきます。一方、記述問題で3問(15点)取りこぼしたとすると、論述でよほど質の高い解答を用意できなければ80点を取ることは難しいでしょう。ですから、外語の世界史で高得点を狙うならば、まず基本の記述問題をしっかりとって、論述で並程度の無難な解答を仕上げることです。もちろん、論述も質が高ければいうことはありません。ただ、60分という試験時間と、設問の文章量を考えるとあまり論述の質にこだわりすぎるのも危険かもしれません。記述問題に無駄な時間をかける余裕は全くありませんね。時間配分には十分に気を付けて。
【記述問題概要】
・次に、2016年の各記述問題を簡略化したものと、その解答を表にしたものを下に示しておきます。
難しいのは大問2の問3でしょうか。アヘン戦争の講和条約(1842、南京条約)で開港されるのは広州・福州・厦門・寧波・上海の5港であり、香港はイギリスに割譲された土地です。一応、設問中には「彼(マンソン)が中国生活の最後の7年間を過ごしたある植民地都市で」と、この年がイギリスの植民地であることは示してあるのですが、さりげなさ過ぎてヒントとしてはパンチが弱いですし、マンソンのことを知っている受験生は皆無に近いでしょうから、この問題はほとんど解けなかったのではないでしょうか。また、同じく問5の野口英世はある意味では常識なのですが、いわゆる「受験勉強」の中ではあまり注目することのない人物かもしれません。でも「黄熱病で死んだ」ってありますので、何となくわかりそうではあります。外語の設問は決して難しくはないのですが、ちょっとしたさりげないヒントが問題を解くカギになることがありますので注意が必要ですね。
【論述問題解説】
1 問8
(設問概要)
・史料A~C(『イエズス会士中国書簡集1、5』矢沢利彦編訳、平凡社、1970、1974年、一部改変)を示す。
・宣教師たちが清朝の皇帝や官僚から一定の信頼を得ていたこと、特に史料Cにおいて17世紀の終わりごろにある国と清朝との間でおこなわれた条約交渉に宣教師が清朝側の通訳として関与したことが語られていることを指摘する。
・以上を踏まえて、「この条約」が結ばれた背景とその内容について400字で説明せよ。
・その際、当時の両国(清と「ある国」)がおかれていた情勢、また史料中に登場する「モスコー人たちのツァー」、「皇帝」、「イエズス会士」のそれぞれの立場や意図をふまえよ。
・「モスコー人たちのツァー」の名、「皇帝」の名、この時締結された条約名を必ず使用せよ。
・「鄭成功」、「毛皮」の語を必ず使用し、これらの語を使用した箇所全てに下線を引け。
(史料)
・本設問で質の高い論述解答を用意するには、ある程度は史料読解を行うことが不可欠です。史料の全文は上に示した大学関連HPまたは赤本などでご覧いただくことにして、こちらでは説明の都合上、特に注意すべき部分のみを抜粋したいと思います。
[史料A:イエズス会の宣教師ド・プレマール師が国王の聴罪司祭である同会のド・ラ・シェーズ師にあてた書簡(1699年2月17日)]
……北京朝廷のニュースについては( a )[答:ブーヴェ]師が広東に到着した後に受け取った書簡によって、皇帝はこれまでになかったほどご機嫌麗しくあらせられること、これまでになかったほど赫々たる栄誉に輝いておられること、これまでになかったほど臣下からたたえられていることを知りました。皇帝は大部隊を親率されて西韃靼にお出かけになり、500リュー四方に恐怖の念をお広げになり、彼の二つの国家[満蒙と中国本部]の中に残っていた唯一の敵手を打破されました。…(中略)…しかし、われわれに一層大きな喜びを与えておりますのは、この君主がこれまで以上にキリスト教に好意を示しておられることです。……
[史料C:イエズス会の宣教師ド・フォンタネー師が国王の聴罪司祭である同会のド・ラ・シェーズ師にあてた書簡(1703年2月15日、浙江省舟山にて)]
(前段の内容:「モスコー人」が東進し、セランガ河を経て黒竜江にまで到ったのち、これらの河を確保するためにニプシュ、ヤクサなどの要塞を築いた)
万里の長城と黒竜江との間にあるこの広大な地域全体を占している東韃靼人である皇帝の臣民たちは、自分たちが主人であることを主張していた土地にモスコー人が黒貂の猟を争いにやってきて、そこを占領するために築城したのを見て驚きました。…(中略)…双方から両国の境界を調整しようという提議がなされました。モスコー人たちのツァーは彼らの全権大使をニプシュに遣わしました。皇帝も大使とともに、通訳の役を勤めることになっているポルトガル人トメ・ペレイラ師とヂェルビヨン師を派遣されました。そして皇帝がこの両師に対して抱いている敬意をしめすために、両人に御自身の衣服のうちから二揃いを御下賜になり、二人が第二品の高官たちとともに坐することを望まれました。(中略)
…モスコー人たちは横柄で、尊大な口をききました。中国人の方はまた自分たちが有力な軍隊を伴ってきており、黒竜江を遡航してやってくる東韃靼からの別軍の到来を待っていましたので、自分たちの方が強力であると信じていました。しかしながら彼らの意図は決して戦争することにあったのではありません。なぜならば彼らは西韃靼人がモスコー人と結びつきはしないか、それとも西韃靼人が中国に対してなんらかの陰謀をたくらんだ場合にモスコー人が彼らを助けはしないかと恐れていたからです。…(中略)…中国側全権たちは彼(ヂェルビヨン師)の言葉を聞いて喜び、モスコー人の陣営に赴いて、今司祭が言ったことと同じことを提議してくれと請いました。そして神は彼の企図を祝福なさったのでした。なぜならばモスコー人たちは司祭が彼らにはっきりと示したように、北京に毎年商売をしに来る自由は自分たちの期待できる最大の利益であるということを諒解しましたので、ヤクサを捨て、皇帝が提起した境界線を吞んだのでした。…(中略)…全権たちは二日後には署名し、両方の軍隊の先頭に立ち、天と地の真の主であるキリスト教徒たちの神を証人にして、この条約を守ることを誓いました。
この和平は両宣教師に多大の名誉を与えました。…(中略)…しかし宣教師たちに一番の愛情を示した人は使節団の長である索額図(ソンゴト)公でありました。彼は自分を大変な窮地から脱却させてくれたことについて何度も礼を言い、とくに、もしあなたがたを喜ばす機会にぶつかったら、その時は自分をあてにしていいと述べたのでした。…彼は数年後、皇帝にキリスト教の自由を公然と請わなければならないと思われたときに、大変立派にこの約束を守ってくれたのでした。
(採点基準と解説)
・本設問で要求されていることを整理します。本設問で要求されていることは
①史料中の条約が結ばれた背景を説明せよ。
②史料中の条約の内容を説明せよ。
③その際、当時の「両国(清と相手方の国)」が置かれていた情勢をふまえよ。
④同じく、史料中に登場する「モスコー人たちのツァー」、「皇帝」、「イエズス会士」それぞれの立場をふまえよ。
⑤「モスコー人たちのツァー」、「皇帝」の名と条約名を示せ。
⑥「鄭成功」、「毛皮」の語を使用して下線を付せ、です。
・とっかかりになる部分は色々ありますが、最初に注目すべきは以下の点でしょう。
① 史料Aの書簡が書かれた時期が1699年であり、当時の清朝の「皇帝」はイエズス会士に対して好意的にふるまっていたということ。
② 史料Cの書簡が書かれた時期が1703年であり、当時の清朝は「モスコー人」との間に境界線を確定する条約を締結したということ。
③ 使用を指定されている語句に「鄭成功」があること。
以上の点から見て、清朝の「皇帝」は康熙帝、史料中の「条約」は「ネルチンスク条約」であることは明らかです。となれば、史料を読むだけではなかなかピンと来ない相手方の「モスコー人たちのツァー」はモスクワ人(ロシア人)たちのツァーリであるピョートル1世であることも読み取れると思います。
・ここまで読み取れればあとはもうネルチンスク条約の内容と条約締結の背景を書けばよいだけですね。ただ、注意すべき点としては、その際にピョートル1世・康熙帝・イエズス会士が当時どのような立場を有していたかをふまえなくてはいけない、というところです。まず、ネルチンスク条約の内容ですがこれは教科書通り「両国国境を外興安嶺(そとこうあんれい=スタノヴォイ山脈)とアルグン川の線にそって画定した、清にとって初めての外国との対等条約」であることを示せばよいでしょう。これにより、清は満州全域を確保し、ロシアの南下を阻止することになりました。また、ネルチンスクにおける通商貿易を行うことも決められましたが、このことは史料中からも読み取ることができます。
・ネルチンスク条約が締結された背景には以下のようなものがありました。
① 康熙帝が三藩の乱や鄭氏台湾の抵抗を鎮圧することに注力した結果、北方の防備がおろそかになっていたこと。
② ピョートル1世の時代にはシベリア探検が進み、その結果アムール川(=黒竜江)周辺においてロシア側の商人が毛皮や金を奪うなどの活動を見せたことが清朝を刺激したこと。
ちなみに、女真が強大化した背景には貂の毛皮や朝鮮人参などの交易を握っていたことがあげられます。確認したわけではありませんが、明が北虜南倭に苦しむ中、北辺防備のために流れ込んだ銀による中国東北部の経済規模拡大なども有利に働いたのかもしれませんね。さらに蛇足ですが(でも私、交易品を理解するにはその「品」を理解してイメージするのが最重要だと思うんですよ)、貂ってこんな感じです。
…可愛い(*’▽’)。基本的には黒貂が最高級品とされたそうで、ロシアはこれを積極的に確保しに行きます。そのため、貂の毛皮はヨーロッパにも輸出されて王侯貴族のガウンなどにも使われていきます。
ヘンリ8世のガウンの白い部分に使われているのがおそらくアーミン(=オコジョ・または白貂)だと思われます。本当は実物見せたかったのですが、現在の画像は商品だったりしますので使うのがはばかられるということと、過去の毛皮は…。ちょっと、ね。実はこの毛皮のアーミン文様のポツポツとある黒い部分は貂のシッポの部分でして。つまり、過去に作成された毛皮の中には本当に貂を丸ごとそのまま使っているのもあってちょっと可哀想な部分もありますので、控えました。もっとも、狩られてしまった時点でどんな使われ方をしようと可哀想なことには変わりないわけですが。昨日も貂ではないですがお肉食べましたし。あー、罪深い罪深い私。
・それでは、次に両国がおかれていた情勢についてですが、これはネルチンスク条約についての説明でほとんど終わっています。ただ、史料中からは教科書で通常学習する流れとは異なるもう一つの要素も見えてきます。史料Cの中には「しかしながら彼らの意図は決して戦争することにあったのではありません。なぜならば彼らは西韃靼人がモスコー人と結びつきはしないか、それとも西韃靼人が中国に対してなんらかの陰謀をたくらんだ場合にモスコー人が彼らを助けはしないかと恐れていたからです。」という部分が出てきます。つまり、当時の清朝はロシア人が「西韃靼人」と結びついて行動することを警戒していたわけです。そこで、この「西韃靼人」とは何かということが問題となります。史料と設問7にある記述(清朝は、漢人から見れば異民族[本文にある「東韃靼人」]の王朝であるという記述)から「東韃靼」は満州を指していることがわかります。ですから、「西韃靼人」も同じく中国北方の民族であることがわかりますので、当時の清朝周辺の状況と、ロシアと結びつくかもしれないという記述を考えれば、「西韃靼人」はジュンガル部のことであることが読み取れるはずです。実際、ジュンガルというのは明の時代に活躍したオイラート部族の末裔に当たる部族です。ちなみに、この「ジュンガル」は大問1の問4の答えにもなっています。このように、外語の設問では史料のみならず設問自体がヒントになっていることもありますので、もしわからないと感じることが出た場合には設問の方に読み落としがないかどうかを確認する必要があるでしょう。17世紀後半のジュンガルにはガルダン=ハンが現れてモンゴル高原のハルハ部に侵入し、康熙帝との間に争いを繰り広げることになります。
・最後に、ピョートル1世、康熙帝、イエズス会士の立場をそれぞれまとめておきましょう。
ピョートル1世(位:1682-1725)
:ロシアの西欧化と近代化の必要性。領土拡大とシベリア進出。黒貂の毛皮を獲得することによる交易上の利益。
康熙帝(位1661-1722)
:南方における三藩の乱[1673-81]と鄭氏台湾(1661-1683:鄭成功など)の鎮圧による北辺防備の再開と強化、北西部ジュンガルとの抗争とこれに対する警戒、イエズス会士の活用
イエズス会士
:中国における布教拡大のための皇帝や中国高官への接近
【解答例】
弱小国ロシアを強大化させるために西欧化と近代化を図る「モスコー人のツァー」、ピョートル1世は、黒貂の毛皮などの交易で得られる利益を確保するためシベリア進出を積極的に行い、アムール川周辺に出没してたびたび清朝と衝突した。三藩の乱と鄭成功をはじめとする台湾勢力の鎮圧により中国全土の統一を完成した清朝の「皇帝」康熙帝は、北辺防備を強化してロシア人と衝突したが、同時に当時抗争中のジュンガル部がロシア人と結びつくことを警戒した。康熙帝はイエズス会士を内政・技術両面で活用し、イエズス会士も中国における布教拡大のために皇帝や中国高官の厚意にすがる必要があった。康熙帝は、ロシアとジュンガルが協力することを防ぐためイエズス会士ペレイラ等を通訳として派遣し、ロシアとの間に清朝初の対等条約であるネルチンスク条約を締結して、両国国境をスタノヴォイ山脈とアルグン川を境として画定する代わりに、ロシアとの交易を認めた。(400字)
(おまけ)
本設問で要求されている内容ではありませんが、設問中の史料からは典礼問題へとつながる様々な情報が読み取れます。史料中に見られる「索額図公(ソンゴト公)」はソンゴトゥ公のことで、清朝初期の重臣で幼少の康熙帝を補佐したソニンの子です。康熙帝の初期治世を支えて出世し、1689年には史料にもあるようにネルチンスク条約を締結しますが、後に康熙帝の後継問題でその意に背いたことが原因で失脚します。本史料中にはこのソンゴトゥが通訳の大役を果たしたペレイラ、ヂェルビヨン両イエズス会士に対して大変感謝をして支えになることを約束し、「数年後、皇帝にキリスト教の自由を公然と請わなければならないと思われたときに、大変立派にこの約束を守ってくれたのでした。」とあります。これはおそらく康熙帝の治世においてイエズス会士が布教を認めたことに口添えしたことを示しています。康熙帝の治世においては後に典礼問題が生じてキリスト教布教は禁止されます(1704)が、イエズス会士のみは布教を許されました。ただ、この際にはすでにソンゴトゥは大きな役割を果たしていないようです。彼が失脚するのは1701年のことであり、1703年には獄死しています。ですから、史料中にイエズス会・キリスト教のことが書いてあるからと言って、典礼問題には触れない方がよいでしょう。設問も論述ではこの点について特に要求していません。
典礼問題について書きましたのでついでに述べておきますと、雍正帝の時にはイエズス会も含めたカトリック布教が禁止されます(1724)。この背景には雍正帝の対立候補をイエズス会が支持したという後継問題が絡んでいたという話がありますが、出典がどこか忘れてしまいました(汗)。何で読んだんだっけ。ことの真偽はともかくとして、エピソードとしてでも入れておくと、なぜ突然雍正帝の時代にイエズス会が禁止されるのかとか、イエズス会が当時の清朝の内政にまで深くかかわっていた様子などがイメージしやすくなって便利ではあります。また、キリスト教全てが清朝において禁止されたわけではないことには注意が必要です。カトリック禁令も布教の禁止であって日本におけるほど厳しい禁令ではありませんし、中国には古来から伝わってきたヨーロッパにおける異端のキリスト教も伝わっています。また、1727年のキャフタ条約では、「北京における会同館を専用のオロス館(ロシア館)とし、正教会の設置と、聖職者および語学研究の留学生滞在を認める」とする条項が定められています。
2 問6(2)
(設問概要)
・東南アジアにおいては、ヨーロッパの利潤追求の在り方に大航海時代と19世紀ごろとで変化がみられるが、その変化の経緯を100字以内で説明しなさい。
・指定語句として「東インド会社」、「香辛料」、「ゴム」、「スズ」を使用して、用いた箇所すべてに下線を付せ。
(解説)
・ここで要求されているのは結局以下の差異について述べろ、ということです。
大航海時代=香辛料貿易を主とする通商による利潤追求
19世紀以降=植民地経営による利潤追求
指定語句として東インド会社なども見られますので、ここでは大航海時代においては東インド会社を設立した英や蘭が当初香辛料交易を中心とする通商利潤を追い求めていたのに対し、19世紀には胡椒価格の暴落などの要因から旨味をうしなった香辛料交易ではなく、むしろ「ゴム」や「コーヒー」、「サトウキビ」、「藍」などのプランテーション経営や「スズ」などの鉱山開発を進める植民地経営による利潤追求に姿勢を変化させたことを示せばよいでしょう。ちなみに、「コーヒー」、「サトウキビ」、「藍」はオランダによるジャワ島をはじめとする後のオランダ領東インド経営でよく言及される作物であり、「ゴム」と「スズ」はイギリスのマレー半島の領域支配下(海峡植民地からマレー連合州成立の過程)で言及されることが多いものです。
最近、外語に限らず他の大学でも、こうしたアジアやアメリカなどの諸地域との関わり合いについて、地域だけではなく時代による変化や違いに注目させる設問が増えています。難関国公立・私立を目指すのであれば、単純にアメリカと言えば鉱山開発、のような発想ではなく、いつ・どこで・どこが、「金・銀」、「砂糖」、「綿花」、「コーヒー」などを利益追求の手段として追求し、その背景には何があるのか、などをつかむ意識を早くから持っておくと良いのではないかと思います。
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ブログの背景カラーも黒から薄緑に変化したことで目にも優しくなり、とても嬉しいです。
昨年度の一橋世界史の予想問題を公開していらっしゃいますが、今年の予想問題はありますでしょうか…