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2016年08月

今回の記事では、一橋などでも出題されそうな李朝末期から20世紀にかけての朝鮮史を扱ってまとめていきたいと思います。受験生が整理に苦労するところなんですよね、このあたり。世界史で整理に苦労するのは、覚えることが多いからじゃありません。このあたり勘違いされている方が多いのですが、「歴史は覚えることが多いから覚えられない」のではなく、「情報に対してストーリーが不足しているから覚えられない」のです。たとえば、「1882年に壬午軍乱が起こってその後1884年には甲申政変が起こったよ」って言われてもそりゃ覚えられませんよ。何の修行かと思います。そうではなくて、壬午軍乱とは何で、どんな登場人物がいたか、その人たちの関係はどうであったかなど、むしろ情報を増やしてやることで個々の事象のイメージ化が可能になります。個々の事象がイメージできれば、さらにそれを他の関連する事項と結びつけたり、比較することも可能になります。英単語なんかでも、「un-とかim-に否定の意味がある」など分かると覚えやすくなるとか、あるじゃないですか。これも、ただのアルファベットの羅列に過ぎないun-im-に意味が与えられたから(認識できたから)覚えやすくなるので、むしろ情報量としては増えているんですね。世界史は情報が多いから覚えられない、と思っている人はこうしたところに対する認識が不足しています。情報は、多い・少ないではなくて、意味を把握して整理しながら取り込むことでより分かるようになるのです。

最近とにかくこどもたちの負担を減らそうと情報量を減らそうという動きがありますが、よく考えずに情報を減らしてしまうと、前後のつながりがスッカスカの無味乾燥な情報の羅列となってしまい、かえって負担を増やしてしまいそうな気がします。ワンピースの登場人物は暗記できて鬼滅の刃はストーリーを暗唱できるのに世界史が覚え「られない」のは原理的に無理がありますよw 

 

 脱線してしまいましたが、李朝末期のお話を進めるにあたって、そもそも朝鮮王朝(李氏朝鮮)がいつ頃からか覚えていない人がいたりするので確認してみます。

 

1392 朝鮮王朝(李氏朝鮮)成立:倭寇討伐に功のあった李成桂が高麗を滅ぼして建国

   →両班による支配

 

・その後の李氏朝鮮は、世界史では秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱[1592-931597-98])と、清への服属(ホンタイジの時)のあたりで出てきます。

 

・世界史でその後李朝が問題になるのは19世紀後半に入ってからです。このあたりは大学受験でも頻出の箇所なので、注意しておくとよいでしょう。ただ、教科書や参考書だと時期ごとにぶつ切りになっていたり、情報が不足していてなかなか全体像をとらえることができません。そこでまず、当時の朝鮮で起こった事件を追いながら、朝鮮国内またはそれに与する外国の勢力図がどのように変化していくのか見ていくことにしましょう。

 

1863 大院君(国王高宗の父)が摂政として実権掌握

:鎖国政策

1873 閔妃政権の成立(大院君に対するクーデタ)

:開国政策への転換

1875 江華島事件

日朝修好条規(1876

  朝鮮の自主独立

  釜山・仁川・元山開港

  治外法権

  関税自主権喪失(双方無関税)

1882 壬午軍乱:大院君のクーデタ

・賃金未払いを不満とする兵士の暴動を利用

・日本公使館員も多数殺傷される

   清の袁世凱の支援で鎮圧

閔氏が親日から親清へ

(事大党の形成=清の勢力下で李朝の安全維持を図る)

   以降、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐留させる

    一方で、開化派の不満が高まる

急進改革による朝鮮の近代化を図る金玉均・朴泳孝らが独立党を形成

1884 甲申政変:独立党による対閔妃のクーデタ

・日本公使竹添進一郎と独立党が共謀、清仏戦争の隙をつく

    高宗を擁立、閔氏の要人を殺害

  閔妃を支援する清が鎮圧

(清仏戦争に敗北した清はメンツにかけても朝鮮へ出兵)

金玉均は亡命(1894年に亡命先で暗殺される)

    この事件をうけて日清両国は天津条約(1885)締結

:日清両国の朝鮮からの撤兵と出兵時の事前通告を規定   

1894 甲午農民戦争

:東学を中心とする農民反乱

(創始者:崔済愚[チェジェウ]、指導者:全琫準[チョンボンジュン]

   鎮圧に日清両軍が出兵、日清戦争

   朝鮮では日本軍が出兵して閔氏を追放

・大院君を中心とする開化派政権が成立

・甲午改革の実施

     [両班制・科挙廃止、奴婢・人身売買の禁止など発表]

       政権内部の対立

→三国干渉によるロシアの影響力を利用した閔氏派の巻き返しで失敗

1895 下関条約:朝鮮の完全独立承認(日本‐清間)

1896 乙未事変:日本の指揮下の訓練隊(朝鮮軍)と日本人士官が閔妃暗殺

(背景)ロシアの力を背景に巻き返しを図る閔妃と大院君が対立

 ・甲午改革を推進した金弘集内閣が再度近代化策を実施

 開化派を支持する大院君と高宗の対立が決定的に

(守旧派が担ぐ高宗はロシアに接近:露館播遷[1896-97]

1897 大韓帝国と国号を改称

1898 1896年以降、朝鮮の立憲君主制樹立を目指してきた独立協会が弾圧される

1904-1905 日露戦争日本の優勢によって朝鮮が日本の影響下に

1904 第1次日韓協約:日本からの財政・外交顧問の受け入れ

1905 ポーツマス条約:日本の韓国保護国化承認

2次日韓協約(1905

:韓国の外交権接収(保護国化)、統監府の設置(初代:伊藤博文)

      反日義兵闘争の高まり、愛国啓蒙運動が激化

1907 ハーグ密使事件

   3次日韓協約(1907):韓国軍の解散、内政権を失う

1909 伊藤博文暗殺(安重根による)

1910 韓国併合:朝鮮総督府(初代:寺内正毅)

武断政治、土地調査事業

 

【★ここがポイント:朝鮮内の勢力関係】

 朝鮮近代史を読み解く上で難しいのが朝鮮内における勢力関係ですね。たとえば、当初は保守派とされていた大院君が後になってなぜか開化派と仲良くしていたりとか、国王なのに高宗は開化派に担がれたり、後に対立したり「いったいどっちなんだ!」と思うこともあるかと思います。でも、日本も幕末期には「公武合体だー」とか「攘夷だー」とか「開国だー」とか、やってますよね。当時の朝鮮も、諸外国の圧力の中で将来をどういう方向へ持って行ったら良いか模索している時期です。その時々の立場や情勢によって各人の立場が変わっていったのだと考えれば、それほど変なことでもないのですね。

 ここでは、頭をすっきりさせるために、いくつかの時期についてその勢力図を図示してみたいと思います。

 

[初期(1860年代~1870年代)の対立関係]


地域史②(朝鮮史)

 初期の対立関係は意外にシンプルです。幼少であった国王高宗の父である大院君が実権を握ると、大院君は保守的な鎖国政策を実施します。ところが、大院君の独裁に対する反発や、日本でも起こったような進歩的な考え方を持つ開化派からの反発が高まっていくんですね。そうした中で、もともとは大院君のお声がかりで妃におさまった閔妃は、舅との折り合いが悪くなって次第に険悪になっていきます。閔妃とその一族(閔氏)は反大院君の勢力を結集してクーデタを決行、これにより大院君が失脚してしまうのが1873年です。

 

[1870年代~1880年代]

 

地域史②(朝鮮史)2
 

 ところが、閔氏政権のもとでの開化政策は必ずしもうまくはいきませんでした。おりしも、江華島事件以降、朝鮮では清朝の冊封国としての地位を維持すべきとする守旧派(後の事大党)と、日本の力を利用して近代化を達成しようとする開化派(後の独立党)の二派に分かれて争っていました。そんな中、開化派政策を推進する閔氏政権は大胆な軍制改革に着手し、旧式の軍隊とは異なる西洋式の新式軍隊「別技軍」を組織します。しかし、別技軍が好待遇を受ける一方でないがしろにされていると感じた旧軍の一派は、続いていた給与不払いをめぐる不満を暴発させて暴動を起こします。これに乗じて閔氏政権の転覆をはかったのが先に失脚させられていた大院君でした。これが壬午事変(壬午軍乱:1882)です。

 この事件に対して日本側は対応することができませんでした。反乱に巻き込まれた日本公使館員たちは何名かの死傷者を出しながら命からがら朝鮮を脱出します。これに対し、清国側は当時洋務運動によって増強していた軍隊を朝鮮に出動させ、これを率いた袁世凱が反乱を鎮圧し、大院君を軟禁しました。この結果、政権に復帰した閔氏一派は自分たちの政権維持を重視してそれまでの親日姿勢から親清姿勢へと鞍替えします(事大党の形成)。要は「開化政策の推進」と「政権と権力の維持」を天秤にかけた結果、後者を選択したわけです。


地域史②(朝鮮史)3
 
 

しかし、こうした閔氏政権の変節に不満を感じたのが親日派の開化派たちです。朝鮮でも日本式の近代化を実現しなくてはならないと考える開化派の金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)らは独立党を結成します。清への依存をはかる事大党に対して、朝鮮の自主独立を目指したわけですね。かれらのこの目標は当時開化派を支援していた日本政府の目的とも、最終的な利害はどうあれ合致します。そして、独立党は次第に閔氏政権との対立を深め、その中で同じく閔氏と対立する大院君と接近します。つまり、開化派(独立党)と大院君を結びつけたのは「敵の敵は味方」という構図です。

 そして、この両者は日本の力を借りて清が清仏戦争にかまけて朝鮮に目が向かない間隙をぬって、閔氏政権打倒のクーデタを敢行します。これが甲申政変です。

 ところが、この政変も清の軍隊によって鎮圧されてしまった結果、再度閔氏が政権に返り咲きます。そしてこれ以降、朝鮮国内では「閔氏政権vs開化派+大院君」と「清vs日本」という対立が深まっていきます。

 

[1890年代(日清戦争以降)]

 

 こうした中で日清戦争が勃発し、日本の勝利に終わると開化派と大院君は勢いづき、甲午改革と呼ばれる近代化策を進めます。ところが、一度は日本の力を借りて閔氏一派を一掃したと思われたのですが、閔氏一派は新たに朝鮮進出を狙うロシアの力を借りて巻き返しをはかります。こうした両派の対立の中で発生したのが乙未事変(1896:いつびじへん)です。この事件で閔妃が暗殺されてしまったわけですが、これに激怒したのが妻を殺された国王高宗です。これまでも父と妻の一族の間の権力争いでどこか蚊帳の外に置かれてきた高宗は怒り心頭、開化派・大院君とは決別して守旧派とともにロシア公館に遷り、ここで政務を執りました。この期間のことを露館播遷(1896-97)と言っています。嫁さん殺されてムキーってことですね。こうした流れの中で、それまでの「清vs日本」という構図は「ロシアvs日本」という構図に置き換わってその後の朝鮮を巻き込んでいき、1904年からの日露戦争へとつながっていくのです。

 
地域史②(朝鮮史)4
 

 

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一橋の出題傾向分析では、大問3で中国史、なかでも明末から清にかけての3つのテーマが出題されやすい、という話をしましたので、せっかくですからこの3つのテーマを簡単におさらいしておきましょう。3つのテーマとはすなわち、

 

  清の建国期(ヌルハチ~遷界令解除まで)

  対外関係の変化(遷界令[海禁]~アヘン戦争まで)

  洋務運動から続く3つの改革運動と辛亥革命

 

この3つですね。そういう意味ではロシアとの国境紛争にプラスアルファ混ぜたりしてくる設問なんかもあるのかなとも思ったりします。イリ事件とか東大で出てますしね。それでは、以下これら3つについて簡単にまとめておきます。ご参考までに。

 

[明末期から清建国期まで]

・明末の混乱[万暦帝の頃~]

 (混乱の原因)

1、政治混乱(東林派vs非東林派:魏忠賢の弾圧[1621-27]

  2、(伝統的に)北虜南倭

  3、壬辰・丁酉の倭乱で援軍

  4、女真の強大化(1619 サルフの戦い:遼東半島へ進出)

  これら1~4による財政難重税農民の窮乏化と反乱

 

・清の建国

 (経過)

1、満州で女真統一(ヌルハチ:後金国[1616]、満州八旗の組織)

  2、ホンタイジ(内モンゴル[チャハル部]進出1635、国号を清に1636

  3、李氏朝鮮を属国化1637

  この1~3の時期を通じて蒙古八旗、漢人八旗の組織化

  

4、李自成の乱による明滅亡(崇禎帝自害[1644]

  5、呉三桂による山海関開城

  6、順治帝の北京入城(清による華北統治の開始)

 

・朝鮮

 明の冊封下清による征服と新たな冊封小中華思想

 

・三藩の乱(1673-81

  1、呉三桂(雲南)、尚可喜(広東)、耿継茂(福建)らが藩王に

    江南において半独立化

  2、康熙帝の危機感と勢力削減策

  3、三藩が反乱開始、台湾の鄭氏が呼応

    鎮圧(長江以南の完全支配、台湾滅亡と海禁の終了[中国支配完成]

 

[明・清の交易・対外関係の変遷]

(明)

<全体の流れ:初期の海禁~後期の海禁緩和>

・洪武帝の海禁(民間貿易の禁止)

-前期倭寇対策(南北朝騒乱・元末の混乱など)

-洪武帝の農本主義

・南海遠征(永楽帝期:鄭和)

-朝貢貿易の促進

 -日本の冊封と勘合貿易:足利義満による

(港:堺・博多/輸出:硫黄・銅・刀剣・漆器/輸入:銅銭・絹織物・生糸)

・銀の大量流入と後期倭寇の発生

Cf.)寧波の乱(1523):一時勘合貿易停止、日本人商人との私貿易活発化

・海禁緩和(1567

-ポルトガルのマカオ拠点化(1517来航、1557居住権)

アユタヤ・マニラ・マラッカと結ぶ

-中国人の移住(華人街の形成)

-日本銀・メキシコ銀の流入(石見銀山[16世紀半ば~]

一条鞭法(明)地丁銀(清)

-朱印船貿易(16世紀末~17世紀)

・オランダの進出

  バタヴィア(1619

  アンボイナ事件(1623

  台湾占領(ゼーランディア城:1624

  鎖国令(1639

 

(清)

<初期の海禁>

・鄭氏台湾の成立(1661-1683

遷界令(1661

鄭氏台湾の制圧(1683)と遷界令解除(1684

海関の設置(1685:朝貢貿易の受け入れ港、広州・厦門・寧波・上海)

 

<中期からの貿易制限>

・乾隆帝による貿易制限:広州(1757

・イギリスによる自由貿易要求

-マカートニー、アマースト、ネイピア

一橋大学2015解説参照

・アヘン戦争(1840-1842)と南京条約、虎門寨追加条約(1843

5港開港、領事裁判権承認、関税自主権放棄

・アロー戦争と天津条約(1858)、北京条約(1860

-総理各国事務衙門設置

 

[洋務運動・変法運動・光緒新政]

1、洋務運動

1860s-1880s 同治帝時代 「同治の中興」

・「中体西用」(アロー戦争敗北による危機感)

 :中国の伝統的文化・国制を基礎に西洋技術を導入

・曽国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞の主導

・表面的模倣と日清戦争敗北で限界露呈

(洋務運動が挫折していく過程)

  ユエ条約(188384)でヴェトナム保護国化と清仏戦争(1884-85)による敗北

 ヴェトナムのフランスによる植民地化と天津条約(1885)による宗主権放棄

  1894-1895 日清戦争

 

2、変法運動

・日本の明治維新にならった抜本的改革(立憲君主制)の模索

 →1898 戊戌の変法(変法自強)

・康有為・梁啓超・譚嗣同らによる改革の進言を光緒帝が認める

・科挙改革・近代学校設立・官庁の統廃合準備

 保守派(西太后)のクーデタ[戊戌の政変]、光緒帝は幽閉される

 

3、光緒新政

・義和団後、保守派が一度つぶした変法の線で改革を進める

(注意点)

  すでに改革派からは「保皇派」とみなされ、保守派扱いされる

  光緒帝は戊戌の変法の後に幽閉されている。

[実際に政策を進めたのは西太后を中心とする保守派]

(光緒新政の内容) 

  科挙廃止(1905

② 六部廃止(1906

  新軍創設

  憲法大綱の発布(1908)、国会開設公約(1908

  内閣大学士・軍機処の廃止(1911責任内閣制・総理大臣の設置

⑥その他:商部(商工業省)創設や会社の設立奨励、学制の交付などの教育改革

   

・同時期には革命運動が水面下で展開

  孫文による興中会(1894:ハワイ)、中国同盟会(1905:東京)の結成

  三民主義(民族独立・民権伸長・民生安定)

  四大綱領(駆除韃虜・創立民国・恢復中華・平均地権)

 

 この時期に光緒新政を進める立憲派(保皇派)と、孫文率いる革命派の対立については一橋大学2013年度大問3のAでも出題されています。かなり細かい知識まで頻出事項だと思います。
 

 

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  昨年(2016年試験)の受験用に、予想問題を作ったことがあるので紹介します。解答も下の方につけておくので、もしお時間があれば挑戦してみてください。

 

 18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールは、神聖ローマ帝国について「神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。」と評したが、「神聖ローマ帝国」という称号を初めて用いたのは13世紀半ばに神聖ローマ皇帝コンラート4世と対立したホラント伯ヴィルヘルムであった。当時のドイツ地域の政情はいかなるものであったか、特に叙任権闘争終結以降のドイツとイタリアの関係について言及しつつ答えなさい。また、ドイツにおける13世紀半ばの政情混乱が最終的にどのように解決されたのかについても述べなさい。(400字以内)

 

 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

 

 上の文章はドイツの哲学者カントが啓蒙について語った一節である。18世紀の西ヨーロッパで興り、合理的な世界観で人間性の解放を目指した啓蒙思想はその後のヨーロッパの政治や文化に大きな影響を与えるが、この啓蒙思想が起こった背景とその展開、また啓蒙思想がヨーロッパの政治と文化に与えた影響について述べなさい。(400字以内)

 

 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。私は日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りたまた、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ答えろ!』と繰り返し聞いてきた。私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。

 

 上の文章は、日清戦争の終結した年の末に朝鮮で発生した「乙巳事変」という政変の様子を宮殿の警護に当たっていた「侍衛隊」と呼ばれる近衛隊とともにいたロシア人御用技師サバチンが語ったものである。朝鮮では1860年代以降、度重なる権力闘争に外国勢力が介入した結果、この事件で暗殺された「王妃」とこれに対抗する勢力が形成された。1890年代における「王妃側の勢力」と「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたのかについて、諸外国との関係に考慮しつつ述べなさい(400字以内)

 

[問題作成の基準]

 これらの問題を、何を基準に作ったかがわからないと意味があるのかないのか不明だと思いますので、問題を作った基準を示しておきます。

 (大問1)

  :やはり、一橋の予想問題ですからオーソドックスに神聖ローマ帝国史、中でも金印勅書についての問題がまだ出ていないんですよね。といっても、金印勅書ではさすがに作りづらいのではないかな~、と思います。世界史の教科書レベルですと他に関連情報があんまりないんですよ。正直、東大や一橋受ける人たちに金印勅書なんて出したらみんな解いちゃうでしょ。ですから、その前後のドイツ国内の情勢と国際関係を含めた少し大きな枠組みで出題してみたのがこれです。正直、15分程度で作ったので設問としても粗いですが、この時期の神聖ローマ帝国史の復習がてら見ておくのもいいかなと思いました。

   実際に出たのは聖トマスとアリストテレスの都市国家論比較ということで、「なんじゃこりゃ!」ということになりましたが、これでは多分どこの予想問題も当たらないですねw 問題自体もそれほど無理のあるものでは無かったので、予想を外しても受験生たちはある程度は対応して解けていたみたいだったのでほっとしてますw

 

 (大問2)

  :大問2啓蒙ですよ!啓蒙!これはもう、正直鉄板じゃないかなぁと思っています。まだしばらくの間は出題されてもおかしくないテーマですね。出題傾向のところでも書きましたが、啓蒙とか宗教的寛容、場合によると理神論あたりなんかは一橋好きそうだなぁと個人的には思っています。最近出題されていたフランス革命がらみの出題も、正直啓蒙の延長線上としてとらえておりますので。エンゲルスなんか見ても、思想史系好きなのかなぁと。今後の一橋はこうした宗教を含む思想史系の出題と、アメリカが絡んでくる国際関係氏の大きくわけて二つのジャンルが出やすいのかなぁと思っているんです。

   そんな中、「だったらもう啓蒙全部復習させちゃおうw」というので作ったのがこの問題です。実際には出ませんでしたが、でも「宗教」が絡んでいる(ユグノーとか、ポーランド系カトリックとか)ことと、「啓蒙」が絡んでいること(フリードリヒ2世と宗教的寛容とかまんまですね)、あとは時期もほぼドンピシャでしたので、これはまぁ、アリだったのかなって思いましたw

 

 (大問3)

   これは朝鮮近現代史ですね。やはり、一橋はこのあたり好きで狙ってくるんじゃないかなと思ってたんですが、冬休みの段階で受験生の朝鮮近現代史の完成度がもう一つ、という状況でしたので、これも練習のつもりで作ってみた問題です。同じく、実際にはこれまでの流れを打ち破って戦後史を一橋が出してきたせいで外れてしまいましたが、朝鮮と近現代史に意識が向いていたおかげでさすがに朝鮮戦争はそこそこ書けたみたいです。大問3については従来の出題傾向の大枠を変えずにちょっと目先をかえた予想をたてたほうが今後は良さそうですね。

 

【解 答】

ヴォルムス協約以降も皇帝によるイタリア政策は続き、特に北イタリアでは教皇党と皇帝党の争いを引き起こした。シュタウフェン家のフリードリヒ1世が皇帝となると、度々イタリア遠征を行ったが、ミラノを盟主とするロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでこれを撃破した。しかし、シュタウフェン家の支配は次第に両シチリア王国にもおよび、フリードリヒ2世の時代には十字軍において条件付きながらイェルサレムを奪回し、パレルモを中心に文化的にも繁栄するなど帝国の勢力を拡大した。13世紀半ばにフリードリヒが死ぬとドイツでは大空位時代と呼ばれる皇帝不在の混乱期を迎え、これによりシュタウフェン家の所領であった両シチリア王国をフランスのアンジュー家に奪われるなど国力を衰退させたが、14世紀にはカール4世の金印勅書により7人の選帝侯が皇帝を選出することが決められて、皇帝選出をめぐる混乱は収まる一方、帝国の分権的体制は固定化された。

 

【論述のポイント】

  「ドイツの政情=大空位時代」であることを把握すること

  「叙任権闘争終結~大空位時代=シュタウフェン朝を中心とするイタリア政策の時代」であることを確認すること

  金印勅書の意義について言及すること

 

【採点ポイント】

  フリードリヒ1世もしくはシュタウフェン家によるイタリア政策

  ゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)

  ロンバルディア同盟

  ロンバルディア同盟がミラノを中心とする北イタリア諸都市によって結成されたこと

  レニャーノの戦い

  フリードリヒ2世もしくはシュタウフェン家が両シチリア王国に進出したこと

  フリードリヒ2世が第6回十字軍においてイェルサレムを奪回したこと

  パレルモもしくはナポリの繁栄(他にイスラーム・ギリシア文献の翻訳など)

  大空位時代

  ルドルフ1世もしくはハプスブルク家による神聖ローマ皇帝即位(1273年)

  シチリアをアンジュー家(またはシャルル=ダンジュー)に奪われたこと

  金印勅書

  金印勅書の内容と意義

 

以上をポイントに全体的なバランスを考慮することになる。

  

II

17世紀の科学革命により封建社会の中におけるキリスト教的世界観が動揺し、18世紀には人間・社会・国家のあり方を合理的に見直す啓蒙思想が現れた。ブルジョワが台頭したフランスで特に先駆的な動きが見られ、モンテスキューの三権分立などの国家論やルソーの社会契約説などが後のフランス革命に影響した。啓蒙思想は各国の君主と交流を持ったヴォルテールの活躍により東ヨーロッパにももたらされたが、地主貴族の力が強く、市民が十分に成長していなかった普・墺・露などでは、君主が自ら貴族・教会の力を抑え、近代化と国家権力の絶対化を進める啓蒙専制君主が現れ、フリードリヒ2世やエカチェリーナ2世らが啓蒙思想を利用した。啓蒙思想は政治面以外でも既存の価値観を打ち破る方向で働き、百科全書派の活動などに見られる世界観の世俗化や封建社会の矛盾をついて自由放任を主張するケネーなどの重農主義や、その後の古典派経済学の成立などへつながった。(400字)

 

【論述のポイント】

 啓蒙思想成立の背景

 啓蒙思想の特徴

 啓蒙思想の政治への影響

 啓蒙思想の文化への影響

 

【採点ポイント】

 17世紀科学革命が合理的考え方を醸成したこと

 イギリス経験論・大陸合理論なども合理的考え方に寄与したこと(またはで良い)

 啓蒙思想が人間の理性を重視し、個人・合理性・未来への前進などを志向したこと

 から、啓蒙思想が既存の特権や教会等の権威を否定する傾向を持ったこと

 背景としてのブルジョワ階層の台頭

 啓蒙思想の政治的影響1:フランス革命に大きく影響したこと

 啓蒙思想の政治的影響2:啓蒙専制君主を出現させたこと

 啓蒙思想の具体例の適切な使用と例示

  モンテスキュー・ルソー:国家論、社会契約説

  ヴォルテール:フランスの後進性の指摘、宗教的寛容論など

  百科全書派(ディドロ・ダランベールなど):既存の価値観、キリスト教的世界観の打破

  重農主義(ケネーなど):国家による経済介入に対する否定的見解、自由放任(レッセ=フェール)アダム=スミスの古典派経済学への継承

 啓蒙専制君主の出現した地域、西欧との差異、具体例

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

文化に与えた影響としては他に教育論、教育制度の発達と世俗化などを挙げることもできる。

また、啓蒙思想に対する反動として、19世紀初めごろから人間の感情・集団への帰属・過去の回顧を強調するロマン主義が生じ、ドイツの歴史主義・歴史学派などへとつながることになる。

 

鎖国攘夷政策を展開していた大院君が、1870年代に閔妃の一族に実権を奪われると、閔氏は当初開国・親日政策を採用して、江華島事件を機に日本と日朝修好条規を結んだ後は積極的な開化政策を行い、軍備の近代化を図ったが、新式軍隊に対して放置された旧式軍隊が不満を募らせたことや、開国による経済混乱から兵士への賃金未払いが生じた結果、壬午軍乱が発生した。これ以降閔氏は政権安定のために清と接近する事大主義をとり保守化へと転じたが、これに不満を持った金玉均などの開化派は日本に接近し、清朝からの独立や身分制度の廃止などの近代化を目指し、甲申政変を起こしたが清によって鎮圧された。事大党と開化派(独立党)の争いは日清戦争を引き起こした。日本が清を破ったことで1894年には開化派政権が誕生し甲午改革が行われたが、その後ロシアが朝鮮問題に介入してその影響力が強まって改革が弱まると、これに不満を感じた一派は乙巳事変を起こして閔妃を暗殺した。(400字)

 

【論述のポイント】

 1860年代以降形成された「王妃側の勢力」について詳述すること

 1890年代に「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたかについて詳述すること

 諸外国の影響が朝鮮国内の政治にどのように影響したのかについて言及すること

 

【採点ポイント】

 1890年代時点における王妃側の勢力=閔妃(事大党)であることを示す

 事大党の政治的立場について示す

 1890年当時の王妃に対抗する勢力=開化派(独立党)であることを示す

 開化派の政治的主張(清朝からの独立、身分制度の廃止、税制改革、議会制の導入)などを示す

 開化派の代表的人物(金玉均、朴泳孝など)を挙げる

 大院君と閔氏政権の違いについて示す(鎖国攘夷 / 開国親日)

 閔氏政権の変化について示す(開国親日 事大主義[親清・保守化]

 壬午軍乱について示す

 甲申事変について示す

 日清の対立と日清戦争について示す

 日清戦争後のロシアの影響力増大について示す

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

 
 

 

 

 

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【問 題】

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

問題の概要は以下の通りです。

・中国をめぐる外交関係の展開を説明せよ。

 

ただし、設問導入部分の文章から以下の条件が想定できます。

・中華人民共和国の成立以降の話であること。

・その時々の国際関係による影響や、逆に中国が他国の外交政策に影響を及ぼしたことなどを考慮せよ。

・指定語句は「中ソ友好同盟相互援助条約 / 中ソ論争 / ニクソン・ドクトリン / 日華平和条約」の四語で、これらを「列記した順に用いて」解答することが求められています。(示した指定語句の順番は設問通り)

・指定字数は200字から250字です。

・所定の語句には下線を付せ。

 

早稲田はなんだかんだ言って中国好きそうですね。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

・設問の要求

:(中華人民共和国の成立以降の)中国をめぐる外交関係の展開を記せ

・留意点

:その時々の国際関係から中国の外交政策はどのような影響を受けたか。また、他国の外交政策にどのような影響を及ぼしたかに注目。

 

【解答手順2:指定語句分析】

・指定語句についてですが、「列記した順に用いて」とあるにもかかわらず、日華平和条約(1952)があるなど、起こった年代順ではないので注意が必要です。もっとも、このことが逆にヒントにもなっています。

 

・中ソ友好同盟相互援助条約(1950

:台湾の国民党政府がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」を狙うことに対抗。米ソ冷戦下での軍事同盟、「向ソ一辺倒」。本条約のもとに中国は朝鮮戦争に「義勇軍」を派遣。

アメリカはアジアにおける防共圏の形成に腐心(対中封じ込め)

アメリカによる太平洋集団安全保障構想に基づく反共同盟や、関連する条約などは以下の表の通りです。

 

1951

米比相互防衛条約

太平洋安全保障条約(ANZUS

日米安全保障条約

(サンフランシスコ講和条約とともに)

1952

日華平和条約(本設問での使いどころはここではない)

1953

米韓相互防衛条約

1954

米華相互防衛条約

東南アジア条約機構(SEATO

 

 ワンポイント

 一見すると脈絡がなくて覚えにくい反共同盟にも、背景があります。たとえば、1951年の諸同盟について言えば、アジアでの冷戦激化にともない、米英では対日早期講和論が台頭してこの実現に向けた動きが強まりましたが、これに対し日本の軍国主義の再度の台頭を恐れるオーストラリア・ニュージーランド・フィリピンは反対し、むしろ「対日防衛」圏構築の必要性を訴えました。アメリカとしても集団安全保障体制に基づいて講和後も米軍が日本に駐留できれば日本の防衛と日本における軍国主義の抑制の双方を達成しうると判断して、日本を含めたNATO型の集団安全保障体制を形成しようとしましたが、オーストラリアとニュージーランドは日本と同盟国になることを拒否しました。このため、アメリカは両国との間にANZUS(オーストラリアのA、ニュージーランドでNZ、アメリカ合衆国でUSですね)を、フィリピンとの間に米比相互防衛条約を締結の上で、日本と講和して日米安全保障条約を締結する、という形で個々に反共同盟を構築する流れになったわけです。

 1953年の米韓相互防衛条約は朝鮮戦争の影響ですね。実はこの太平洋集団安全保障構想は1949年初めにフィリピンの提案に賛同した朝鮮の李承晩や台湾(中華民国)の蒋介石から持ち込まれたものでした。ところが、アメリカは1949年の段階ではこれらの国が内政の安定化のためにアメリカを利用しようとしているのではないかと考えて消極的だったんですね。アメリカが対日講和に本腰をいれるのは1949年の後半からで、反共同盟構築が促進されたのは朝鮮戦争が開戦した後のことです。また、米華相互防衛条約は、当初台湾に対する軍事援助を打ち切っていたアメリカが、他の中国周辺事態が鎮静化(1953年朝鮮戦争終結、1954年第1次インドシナ戦争停戦)したことで、矛先が台湾に向かうことを懸念したから締結されたものです。教科書的には「反共防衛圏を形成した」の一言で片づけられてしまうのですが、背景にはその時々での国際関係の変化や国民感情、国家間の利害対立が複雑に作用していました。結局、アメリカはこの太平洋集団安全保障構想の実現に失敗し、個別の対応をとらざるをえなくなりました。

・中ソ論争[1950年代以降の中ソ対立(中ソ論争)と米ソ接近]

1953年のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存路線に毛沢東が反発

(中国の独自路線と米ソの接近)

1954 周・ネルー会談「平和五原則」

1955 バンドン会議「平和十原則」

1959 フルシチョフの訪米(アイゼンハウアーとの会談)

中ソ技術協定破棄(1959):ソ連技術者の中国からの引き上げ

中国は大躍進政策に失敗

 

 ・1960年代の中ソ対立激化

1962 キューバ危機:米ソ再対立とその解決

   中印国境紛争:ソ連がインドに武器支援

1963 部分的核実験停止条約

1969 中ソ国境紛争(ウスリー川のダマンスキー島での軍事衝突)

 

1970年代の米中接近(ニクソン=ドクトリン / 日華平和条約)

:ヴェトナム戦争の泥沼化とアメリカの財政赤字

アメリカが戦争を「ヴェトナム化」することを企図、中国への接近を図る

1969 ニクソン=ドクトリン

:ヴェトナムへの過度な軍事介入を避けることを言明中国に接近

1971 国連代表権が台湾から中華人民共和国へ

   1972 ニクソンの訪中:事実上の中国との国交正常化

日中共同声明と国交正常化

日華平和条約の失効、日本が台湾と断交

   1978 日中平和友好条約

   1979 米中国交樹立

 

【解答手順3:解答のポイント】

 設問の要求と指定語句を検討すれば、ここでは中国(中華人民共和国)をめぐる国際関係の大きな変化を示せばよいことがわかります。基本の流れは「当初は冷戦構造が成立する中でソ連に接近1950年代前半から中ソ論争中ソ論争の激化と軍事衝突(中ソ国境紛争)ヴェトナム戦争の泥沼化によるアメリカの方針転換と中国への接近1970年代に入り、日米中の平和共存」という流れになります。この流れ自体は早稲田の法学部を受験するのであれば作れるようにしておきたいですね。問題になるのは「日華平和条約」の使い方です。設問に「列記した順に用いて」とあるので、時系列で書いていくと締結時(1952)のタイミングでは使えません。やはりここは、日本と中国の関係改善にともなって本条約が失効した、という流れで話をまとめるべきでしょう。実際、これが論述の方向性のヒントにもなっているのですが、問題はかなりの数の受験生が「日華平和条約って何だ?」となってしまっていることですね。正直、試験会場でも日華平和条約に反応してきちんと内容も把握できた受験生は少数派で、世界史の得意な人たちでしょう。だとすれば、仮に日華平和条約の部分が書けなかったとしてもそれほど気にすることはありません。上述した大きな流れさえ外さずに書けていれば、きちんと7割~75分くらいは確保できるはずです。最悪でも6割を下回ることはありません。いつも申し上げていることですが、論述は満点解答を作成するよりも、大幅な点数の取りこぼしをしないことが重要です。まして、早稲田は他にも数多くの小問がありますから、全体として合格点にたどり着くことを重視してください。

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[設問概要]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 問題の概要は以下の通り。

 

・「ナポレオンによるドイツ支配からドイツ帝国の誕生にいたるまでの歴史的過程」を250字から300字で説明せよ。

・条件1:オーストリアの歴史的役割に留意しなさい。

・条件2:指定語句を列記した順に用い、所定の語句には下線を付せ。

    (指定語句:ライン同盟 / ウィーン体制 / 1848年革命 / ビスマルク)

 

【解答手順1:設問内容の確認】

:設問の要求はナポレオンによるドイツ支配~ドイツ帝国の誕生に至るまでの歴史的過程を記述せよというものです。「オーストリアの役割に留意せよ」という部分を以下に処理するかが問題となります。

 

【解答手順2、指定語句分析】

:簡単に指定語句についてまとめておくと以下のようになります。

 

1、ライン同盟

1806年にナポレオンが西南ドイツ諸邦支配のために結成させた傀儡同盟

 これを受けて神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国が完全消滅した

2、ウィーン体制

181415年にかけて開催されたウィーン会議によって成立した国際体制

 メッテルニヒの主導によって成立した反動体制

 タレーランの提唱による正統主義と勢力均衡を基本原理とする

31848年革命

1848年に発生したフランス2月革命が各地へ波及

ベルリン3月革命・ウィーン3月革命

メッテルニヒ亡命、ウィーン体制の一部が崩壊

その後、ドイツではフランクフルト国民議会、ヨーロッパ各地でも自由主義と民族主義の運動が高揚

4、ビスマルク

:ヴィルヘルム1世によって宰相に任命される

自由主義的な議会と対立しながらも鉄血政策を推進
  (プロイセンによる「上からの統一」)

デンマーク、オーストリア、フランスを戦争で打ち破ってドイツ帝国を成立させる

 

3、関連事項の把握と必要事項の整理】

:それでは、指定語句にそって関連事項を整理していきましょう。設問では、「オーストリア」に注意するように言っておりますので、オーストリアの動きで特に関連するものは赤字で、その他のものでドイツ統一に深く関連する事項は青地で示していきます。双方に関連するものもありますが、ここではあまり気にしないでください。

 

A、ナポレオンのドイツ支配の開始

アウステルリッツの戦い(1805年)

ライン同盟の結成(1806年)

神聖ローマ帝国の消滅(フランツ2世の退位)

・イエナの戦いティルジット条約(1807年)

プロイセン領の削減とワルシャワ大公国成立

 プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルク)

ナショナリズムの高揚(フィヒテ)

 

 ナポレオンがドイツ支配を始めるためには、当時のドイツ地域における二大領邦であるプロイセンとオーストリアを撃破しなければなりません。また、この両国はフランス革命(1789)の起こった後にルイ16世を支援してフランスに干渉戦争をしかけてきていますから、その流れからしてもナポレオンは両国と敵対します。

 こうした中で、ナポレオンはオーストリアとロシアをアウステルリッツの三帝会戦(1805年)で撃破し、これがきっかけでオーストリアのドイツ諸邦に対する影響力が弱まると同時に西南ドイツ諸邦はナポレオンの占領下におかれました。そして、名目上神聖ローマ帝国に属していた諸邦にナポレオンが強制的に締結させたのがライン同盟です。ライン同盟の成立によって完全にその存在意義をなくした神聖ローマ帝国は、皇帝フランツ2世の退位をもってその幕を下ろします。

 つづいて、ナポレオンは北ドイツの雄、プロイセンをもイエナの戦い(1806年:またはイエナ=アウエルシュタットの戦い)で撃破します。これによりナポレオンはプロイセンの首都ベルリンに入城し、大陸封鎖令(1806年)を発してイギリスとの戦いに備えるのです。続く1807年にはナポレオンはティルジット条約をプロイセン・ロシアと締結して、プロイセンの領土の大幅な削減(エルベ川東岸はウェストファリア王国となり、ナポレオンの弟ジェロームが王となる。また、ポーランド分割で手にしていたプロイセン領ポーランドはワルシャワ大公国となり、ザクセン公が大公位を兼ねた)と、ダンツィヒの自由市化、ロシアによる大陸封鎖令の順守などが決定され、ドイツからポーランドにかけてはナポレオンの影響下に入ることになりました。

 

 ワンポイント

 勘違い、というか正確に把握していない受験生も多いのですが、当時のプロイセンとオーストリアは同じドイツ地域にありますが別の国(領邦)です。ですから、オーストリアを撃破したからといって自動的にプロイセンも支配下に入るわけではありません。プロイセンがナポレオンの影響下に置かれるのはイエナの戦いの後です。イエナの戦いでプロイセンを破ったからこそ、ナポレオンは「ベルリン勅令(大陸封鎖令)」を発することができるわけです。ベルリンはプロイセンの都ですから。また、この後のシュタインとハルデンベルクらによる「プロイセン改革」もあくまで「プロイセン」での出来事なのだということは確認しておきましょう。

 同じようなことは、1848年のベルリン3月革命やウィーン3月革命にも言うことができますね。つまり、当時はドイツ各地の領邦で同じような革命運動が起きていて、その代表的なものがプロイセン首都のベルリンやオーストリア首都のウィーンで起こったものなわけです。こうしたドイツ各地の自由主義者が集まって結成するのがフランクフルト国民議会、というわけですね。日本の幕末で言えば、西郷隆盛や桂小五郎に坂本龍馬といったお歴々が京都に集まってもし「議会をつくるどー」って言ったら京都国民議会、みたいなイメージでしょうか。

 

B、ウィーン体制(ワーテルローでのナポレオンの敗北による)

メッテルニヒ(オーストリア外相)が主導

オーストリアが国際協調を主導する中で、ドイツ連邦の盟主としてドイツへの影響力回復

(ただし、これはオーストリアがドイツ地域の支配権を手に入れたことを意味するのではなく、むしろ「勢力均衡」の縮図)

プロイセンは関税同盟(1834)をリストの提唱で結成=北ドイツの経済的統一進む

 

ウィーン体制は入試でも頻出の箇所で内容も盛りだくさんですが、ここではドイツ統一の過程を、オーストリアを中心に見ればよいので、関連する事項も絞られます。やはり、ここではオーストリアがこの会議を主導したことに注目した上で、ドイツ地域にどのような影響を及ぼしたかを考えるべきでしょう。

 その際、注目すべきはドイツ連邦です。ドイツ連邦は確かにオーストリアを連邦議会議長とするドイツ諸邦の連邦国家で、ライン同盟とフランスの影響力は消失しました。ですが、これはオーストリアが連邦に所属する諸邦を支配したことを意味しません。ホルシュタインの君主はデンマーク王国でしたし、ハノーファーはイギリス国王の実家です。むしろ、このドイツ地域は会議に参加した大国同士の「勢力均衡」の場とされ、ドイツ統一からはむしろ遠ざかるものでした。これは、ナショナリズムを嫌悪する多民族国家オーストリアの宰相となるメッテルニヒの目的にも敵ったものであったといえます。

 一方で、地域的な統合はまず経済面から達成されていきます。それが経済学者リストの提唱によって成立したプロイセンを中心とする北ドイツ諸邦の関税同盟であるドイツ関税同盟(1834)です。

 

C、1848年革命

・ウィーン体制の崩壊

・ドイツナショナリズムの高揚(ベルリン3月革命、ウィーン3月革命)

フランクフルト国民議会(大ドイツ主義と小ドイツ主義)

小ドイツ主義の勝利と、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の戴冠拒否によるフランクフルト国民議会の自然消滅と「下からのドイツ統一」の挫折

 

 フランス2月革命のあおりをうけて、それまで抑圧されてきた自由主義運動とナショナリズムが高揚、ドイツ地域ではフランクフルト国民議会による「下からの統一」が模索されます。

 この際、オーストリアを含む(大ドイツ主義)か含まない(小ドイツ主義)かが議論されましたが、多民族国家でドイツ統一によるナショナリズムの高揚が国家分裂につながりかねないオーストリアが統一ドイツに参加する見込みも立たず、議論は小ドイツ主義が優勢となり、国民会議はあらたな旗印としてプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝就任への要請を行います。しかし、革命的な自由主義者に国王であるフリードリヒが好意を抱いているはずもありませんし、まして彼らに担がれてオーストリアを敵に回すのもまっぴらごめんということで、この就任要請はすげなく断られてしまい、ドイツにおける「下からのドイツ統一」は挫折を余儀なくされてしまいました。

 

D、ビスマルクの鉄血政策とドイツ帝国の誕生(「上からのドイツ統一」の完成)

・フランクフルト国民議会によるドイツ統一の挫折「上からのドイツ統一」へ

・デンマーク戦争(1864

・普墺戦争(1866

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の成立(1867

オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(1867

・普仏戦争(1870-1871

ナポレオン3世を破る(セダンで捕虜に)

アルザス・ロレーヌ獲得、ドイツ帝国の成立

  (オーストリアが統一ドイツから除かれる)

 

 あとは、ビスマルクとヴィルヘルム1世が率いるプロイセンによるドイツ統一の過程を書いていけばよいことになりますね。やはり注目しておくべきなのは北ドイツ連邦の成立と、オーストリア=ハンガリー帝国の成立、さらにドイツ帝国の成立でしょう。オーストリアに注目することを要求されている本設問では、やはりオーストリアが統一ドイツから除外されたことは強調しておきたいところです。

ここまでまとめられれば、以上のA~Dの内容を設問の要求に沿って整理していくだけになります。いろいろ情報があって取捨選択が難しいですが、「当初ナポレオンが支配を及ぼしたことで影響力をそがれたオーストリアが、ウィーン体制によって新たな国際秩序を築いたものの、自由主義とナショナリズムを抑えきれずにその体制も崩壊した。しかし、「下からの統一」も挫折した後に、鉄血政策によって国力を増強させたプロイセンがドイツ帝国を成立させてドイツ統一を成し遂げ、オーストリアはドイツ地域から除外された」(ちなみにこれで171字)のような大きな流れをつくってしまえば、あとはどこをどう肉付けするかという問題だと思います。できるだけ本論にそった事柄を選んで、余計な情報は極力カットしていかないと300字以内でまとめるのは難しいかと思います。頑張ってください。

 

3、解答例】

 ライン同盟の成立で神聖ローマ帝国が消滅したことで墺はドイツ地域への影響力を失ったが、ウィーン体制下ではドイツ連邦を成立させて影響力を回復し、自由主義やナショナリズムとともに高揚した統一への動きを抑圧した。一方、北ドイツではプロイセンがドイツ関税同盟結成で経済的統一を進めた。1848年革命の余波を受けて墺が混乱したことで、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義による統一が模索されたが挫折した。その後、ビスマルクの鉄血政策を通して統一を進めていたプロイセンは普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦を成立させてドイツ地域に影響力を拡大した後、普仏戦争に勝利しオーストリアを除くドイツ地域はドイツ帝国として統一された。(300字)

解答例はたしか自前でつくったはずですが、ちょっと昔過ぎて覚えていません。(解答例=2020.3.7追加) もし勘違いだったら消しますね。

 

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