世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

2016年08月

[設問概要]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 問題の概要は以下の通り。

 

・「ナポレオンによるドイツ支配からドイツ帝国の誕生にいたるまでの歴史的過程」を250字から300字で説明せよ。

・条件1:オーストリアの歴史的役割に留意しなさい。

・条件2:指定語句を列記した順に用い、所定の語句には下線を付せ。

    (指定語句:ライン同盟 / ウィーン体制 / 1848年革命 / ビスマルク)

 

【解答手順1:設問内容の確認】

:設問の要求はナポレオンによるドイツ支配~ドイツ帝国の誕生に至るまでの歴史的過程を記述せよというものです。「オーストリアの役割に留意せよ」という部分を以下に処理するかが問題となります。

 

【解答手順2、指定語句分析】

:簡単に指定語句についてまとめておくと以下のようになります。

 

1、ライン同盟

1806年にナポレオンが西南ドイツ諸邦支配のために結成させた傀儡同盟

 これを受けて神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国が完全消滅した

2、ウィーン体制

181415年にかけて開催されたウィーン会議によって成立した国際体制

 メッテルニヒの主導によって成立した反動体制

 タレーランの提唱による正統主義と勢力均衡を基本原理とする

31848年革命

1848年に発生したフランス2月革命が各地へ波及

ベルリン3月革命・ウィーン3月革命

メッテルニヒ亡命、ウィーン体制の一部が崩壊

その後、ドイツではフランクフルト国民議会、ヨーロッパ各地でも自由主義と民族主義の運動が高揚

4、ビスマルク

:ヴィルヘルム1世によって宰相に任命される

自由主義的な議会と対立しながらも鉄血政策を推進
  (プロイセンによる「上からの統一」)

デンマーク、オーストリア、フランスを戦争で打ち破ってドイツ帝国を成立させる

 

3、関連事項の把握と必要事項の整理】

:それでは、指定語句にそって関連事項を整理していきましょう。設問では、「オーストリア」に注意するように言っておりますので、オーストリアの動きで特に関連するものは赤字で、その他のものでドイツ統一に深く関連する事項は青地で示していきます。双方に関連するものもありますが、ここではあまり気にしないでください。

 

A、ナポレオンのドイツ支配の開始

アウステルリッツの戦い(1805年)

ライン同盟の結成(1806年)

神聖ローマ帝国の消滅(フランツ2世の退位)

・イエナの戦いティルジット条約(1807年)

プロイセン領の削減とワルシャワ大公国成立

 プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルク)

ナショナリズムの高揚(フィヒテ)

 

 ナポレオンがドイツ支配を始めるためには、当時のドイツ地域における二大領邦であるプロイセンとオーストリアを撃破しなければなりません。また、この両国はフランス革命(1789)の起こった後にルイ16世を支援してフランスに干渉戦争をしかけてきていますから、その流れからしてもナポレオンは両国と敵対します。

 こうした中で、ナポレオンはオーストリアとロシアをアウステルリッツの三帝会戦(1805年)で撃破し、これがきっかけでオーストリアのドイツ諸邦に対する影響力が弱まると同時に西南ドイツ諸邦はナポレオンの占領下におかれました。そして、名目上神聖ローマ帝国に属していた諸邦にナポレオンが強制的に締結させたのがライン同盟です。ライン同盟の成立によって完全にその存在意義をなくした神聖ローマ帝国は、皇帝フランツ2世の退位をもってその幕を下ろします。

 つづいて、ナポレオンは北ドイツの雄、プロイセンをもイエナの戦い(1806年:またはイエナ=アウエルシュタットの戦い)で撃破します。これによりナポレオンはプロイセンの首都ベルリンに入城し、大陸封鎖令(1806年)を発してイギリスとの戦いに備えるのです。続く1807年にはナポレオンはティルジット条約をプロイセン・ロシアと締結して、プロイセンの領土の大幅な削減(エルベ川東岸はウェストファリア王国となり、ナポレオンの弟ジェロームが王となる。また、ポーランド分割で手にしていたプロイセン領ポーランドはワルシャワ大公国となり、ザクセン公が大公位を兼ねた)と、ダンツィヒの自由市化、ロシアによる大陸封鎖令の順守などが決定され、ドイツからポーランドにかけてはナポレオンの影響下に入ることになりました。

 

 ワンポイント

 勘違い、というか正確に把握していない受験生も多いのですが、当時のプロイセンとオーストリアは同じドイツ地域にありますが別の国(領邦)です。ですから、オーストリアを撃破したからといって自動的にプロイセンも支配下に入るわけではありません。プロイセンがナポレオンの影響下に置かれるのはイエナの戦いの後です。イエナの戦いでプロイセンを破ったからこそ、ナポレオンは「ベルリン勅令(大陸封鎖令)」を発することができるわけです。ベルリンはプロイセンの都ですから。また、この後のシュタインとハルデンベルクらによる「プロイセン改革」もあくまで「プロイセン」での出来事なのだということは確認しておきましょう。

 同じようなことは、1848年のベルリン3月革命やウィーン3月革命にも言うことができますね。つまり、当時はドイツ各地の領邦で同じような革命運動が起きていて、その代表的なものがプロイセン首都のベルリンやオーストリア首都のウィーンで起こったものなわけです。こうしたドイツ各地の自由主義者が集まって結成するのがフランクフルト国民議会、というわけですね。日本の幕末で言えば、西郷隆盛や桂小五郎に坂本龍馬といったお歴々が京都に集まってもし「議会をつくるどー」って言ったら京都国民議会、みたいなイメージでしょうか。

 

B、ウィーン体制(ワーテルローでのナポレオンの敗北による)

メッテルニヒ(オーストリア外相)が主導

オーストリアが国際協調を主導する中で、ドイツ連邦の盟主としてドイツへの影響力回復

(ただし、これはオーストリアがドイツ地域の支配権を手に入れたことを意味するのではなく、むしろ「勢力均衡」の縮図)

プロイセンは関税同盟(1834)をリストの提唱で結成=北ドイツの経済的統一進む

 

ウィーン体制は入試でも頻出の箇所で内容も盛りだくさんですが、ここではドイツ統一の過程を、オーストリアを中心に見ればよいので、関連する事項も絞られます。やはり、ここではオーストリアがこの会議を主導したことに注目した上で、ドイツ地域にどのような影響を及ぼしたかを考えるべきでしょう。

 その際、注目すべきはドイツ連邦です。ドイツ連邦は確かにオーストリアを連邦議会議長とするドイツ諸邦の連邦国家で、ライン同盟とフランスの影響力は消失しました。ですが、これはオーストリアが連邦に所属する諸邦を支配したことを意味しません。ホルシュタインの君主はデンマーク王国でしたし、ハノーファーはイギリス国王の実家です。むしろ、このドイツ地域は会議に参加した大国同士の「勢力均衡」の場とされ、ドイツ統一からはむしろ遠ざかるものでした。これは、ナショナリズムを嫌悪する多民族国家オーストリアの宰相となるメッテルニヒの目的にも敵ったものであったといえます。

 一方で、地域的な統合はまず経済面から達成されていきます。それが経済学者リストの提唱によって成立したプロイセンを中心とする北ドイツ諸邦の関税同盟であるドイツ関税同盟(1834)です。

 

C、1848年革命

・ウィーン体制の崩壊

・ドイツナショナリズムの高揚(ベルリン3月革命、ウィーン3月革命)

フランクフルト国民議会(大ドイツ主義と小ドイツ主義)

小ドイツ主義の勝利と、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の戴冠拒否によるフランクフルト国民議会の自然消滅と「下からのドイツ統一」の挫折

 

 フランス2月革命のあおりをうけて、それまで抑圧されてきた自由主義運動とナショナリズムが高揚、ドイツ地域ではフランクフルト国民議会による「下からの統一」が模索されます。

 この際、オーストリアを含む(大ドイツ主義)か含まない(小ドイツ主義)かが議論されましたが、多民族国家でドイツ統一によるナショナリズムの高揚が国家分裂につながりかねないオーストリアが統一ドイツに参加する見込みも立たず、議論は小ドイツ主義が優勢となり、国民会議はあらたな旗印としてプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝就任への要請を行います。しかし、革命的な自由主義者に国王であるフリードリヒが好意を抱いているはずもありませんし、まして彼らに担がれてオーストリアを敵に回すのもまっぴらごめんということで、この就任要請はすげなく断られてしまい、ドイツにおける「下からのドイツ統一」は挫折を余儀なくされてしまいました。

 

D、ビスマルクの鉄血政策とドイツ帝国の誕生(「上からのドイツ統一」の完成)

・フランクフルト国民議会によるドイツ統一の挫折「上からのドイツ統一」へ

・デンマーク戦争(1864

・普墺戦争(1866

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の成立(1867

オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(1867

・普仏戦争(1870-1871

ナポレオン3世を破る(セダンで捕虜に)

アルザス・ロレーヌ獲得、ドイツ帝国の成立

  (オーストリアが統一ドイツから除かれる)

 

 あとは、ビスマルクとヴィルヘルム1世が率いるプロイセンによるドイツ統一の過程を書いていけばよいことになりますね。やはり注目しておくべきなのは北ドイツ連邦の成立と、オーストリア=ハンガリー帝国の成立、さらにドイツ帝国の成立でしょう。オーストリアに注目することを要求されている本設問では、やはりオーストリアが統一ドイツから除外されたことは強調しておきたいところです。

ここまでまとめられれば、以上のA~Dの内容を設問の要求に沿って整理していくだけになります。いろいろ情報があって取捨選択が難しいですが、「当初ナポレオンが支配を及ぼしたことで影響力をそがれたオーストリアが、ウィーン体制によって新たな国際秩序を築いたものの、自由主義とナショナリズムを抑えきれずにその体制も崩壊した。しかし、「下からの統一」も挫折した後に、鉄血政策によって国力を増強させたプロイセンがドイツ帝国を成立させてドイツ統一を成し遂げ、オーストリアはドイツ地域から除外された」(ちなみにこれで171字)のような大きな流れをつくってしまえば、あとはどこをどう肉付けするかという問題だと思います。できるだけ本論にそった事柄を選んで、余計な情報は極力カットしていかないと300字以内でまとめるのは難しいかと思います。頑張ってください。

 

3、解答例】

 ライン同盟の成立で神聖ローマ帝国が消滅したことで墺はドイツ地域への影響力を失ったが、ウィーン体制下ではドイツ連邦を成立させて影響力を回復し、自由主義やナショナリズムとともに高揚した統一への動きを抑圧した。一方、北ドイツではプロイセンがドイツ関税同盟結成で経済的統一を進めた。1848年革命の余波を受けて墺が混乱したことで、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義による統一が模索されたが挫折した。その後、ビスマルクの鉄血政策を通して統一を進めていたプロイセンは普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦を成立させてドイツ地域に影響力を拡大した後、普仏戦争に勝利しオーストリアを除くドイツ地域はドイツ帝国として統一された。(300字)

解答例はたしか自前でつくったはずですが、ちょっと昔過ぎて覚えていません。(解答例=2020.3.7追加) もし勘違いだったら消しますね。

 

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最近、私大でも論述問題が課せられることが多く、その対策に苦労しているらしい人たちからの相談が多いもので、早稲田の法学部と慶応の経済学部を中心に論述対策を行っています。まぁ、歴史的な知識と理解さえしっかり身につければ、各校ごとの対策というのは出題傾向の確認と練習程度の意味合いしかないのですけれどもw ただ、大学によっては出題傾向を把握してその周辺の歴史に強くなっておくことで、ある程度の耐性をつけることは確かにできると思います。「侮らず、過信せず」程度で考えておくのが良いでしょう。まして、「ヤマをはればイケる!」なんていうのは運任せのギャンブル的な発想ですね。嫌いではないですがw

今回は早稲田法学部の論述問題の紹介と出題傾向の分析、過去問の解説などを行っていきたいと思います。まずは出題傾向なのですが、下の表が早稲田の法学部で過去7年間に出題された問題のテーマです。

早稲田法論述一覧2010-16
 

[形式1]

 過去6年間では必ず大問5に設置されています。2010年から2015年までは一貫して200字以上250字以内という字数指定でしたが、昨年の問題では250字から300字と50字分量が増しましたただ、それも決して大きな変化とは言えず、基本的な形式に変化はありません。

[形式2]

 例年、4語の指定語句が示されています。設問の要求がかなりアバウトなこともありますので、この指定語句がないと論述の方向が定まらないこともあり、早稲田法学部の論述を解く上でこの指定語句の分析と整理は極めて重要になります。

[出題傾向1]

 大きく分けて、ヨーロッパ近現代史と中国近現代史から出題されています。時期的には16世紀以降を意識しておくとよいでしょう。内容も教科書や参考書の中で一大テーマとなるような重要な箇所が多く、あまりマイナーなテーマが出題されることはありません。

      東大のように非常に大きな枠組みを意識しないと解けないような広い視点も必要なく、一橋のように特定の分野についてやや深い歴史的理解や知識が求められることもありません。オーソドックスな問題で、よく言えばシンプル、悪く言えば単純でアバウトな出題になっていると思います。

[出題傾向2]

 あまり言い方は良くありませんが、東大や一橋で出題された問題をやや簡単にしてアレンジしたような出題がされることがあるように感じます。ですから、早稲田の法学部の論述を解いてしまって練習材料がなくなってしまった、ということがもしあれば、その時は東大の論述対策用テキスト(ベタですが、『東大の世界史25カ年』とか、『テーマ別東大世界史論述問題集(駿台受験シリーズ)』など)のうち、近現代史を重点的に練習しておくとよいでしょう。ここ7年の間、近現代史しか出ていないからといってそれ以外の範囲から出題されない保証はありませんが、仮に近現代史以外から出題されたとしても、だれでも一度は聞いたことのあるテーマからの出題になるでしょうから、基本的な知識さえまとめてあれば他の受験生に大きく差をつけられることにはならないのではないかと思います。

 

[解法・その他]

 基本的な解法としては指定語句を参考に関連事項を思い浮かべ、設問が求める解答へ導くために整理するという手順となります。設問に多少の変化が出たとしても、200字から300字程度で経過説明や背景・理由説明、結果・影響説明などを行う設問であると考えれば、特に戸惑う必要はなく、ブレイン・ストーミングからの整理、論述をいつもと同じようにこなせばよいでしょう。ただし、時間配分には注意すること。

内容としては、かつては一国史が多かったのですが、近年は近現代の国際関係を問うものなどが多く、複数の要素の対比や関係性を問おうとする出題者の意図が感じられます。正直、まだ過渡期にあるのではないでしょうか。東大などと比べると「まだ練れていないな」といった印象のある出題ですが、次第に洗練されてきている印象で、どこかでレベルが大きく変化するということもあり得るのかもしれません。早稲田は近年グローバル化への対応を大学全体で打ち出しているので、今後も国際関係史やそれに準ずる内容が出る可能性は高いと思います。

 

出題傾向については以上です。各年の過去問解説については早稲田大学法学部「世界史」論述対策(問題・解説と分析)をご参照ください。
 

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ここでは、教科書や参考書になかなかまとまった記述のないベーメン(ボヘミア)の歴史についてまとめていきたいと思います。教科書や参考書にあまり記述がないので、受験にも出ないと思われがちですが、このベーメンという地域はハプスブルク家との絡みで出題されることも多く、その際にぶつ切りの単語を覚えているだけよりは大きな流れを知っておく方が何倍も理解が深まり、実際の試験の場でも役に立つと思います。

 ベーメン、というと神聖ローマ皇帝やハプスブルク家という連想をしがちですが、神聖ローマ皇帝が常にベーメン王位を兼ねていたわけではないですし、ベーメン王位を常にハプスブルク家が継承していたわけでもありません。神聖ローマ皇帝位、オーストリア大公位やハンガリー王位と同様に、ベーメン王位は別に存在していたわけで、それを誰が継承したのかは時代によっても異なります。地域的に北方のポーランドなどとも以外に関わりの深い地域です。とはいっても、あまり深入りしてもきりがないので、簡単な通史を紹介した上で、注目すべきポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 

[ベーメン王国の王朝の変遷]

まず、ベーメンの王位については、大きく4王朝の交代があったことを確認しておきましょう。

  プシェミスル朝(10c-14c

:建国、シュタウフェン朝の弱体化に乗じた拡大、東方植民の受け入れ

  ルクセンブルク朝(14c-15c

:神聖ローマ皇帝カール4世(カレル1世)によるベーメン王兼任

:ジギスムント(ニコポリスの戦い・コンスタンツ公会議、フスの火刑)

  ヤゲヴォ朝(15c-16c初)

:モハーチの戦い(1526)におけるラヨシュ2世戦死
(ラヨシュ2世はハンガリー王位も兼ねた)

  ハプスブルク朝:(15c16c~)

:ジギスムントの死後にハプスブルク家のアルブレヒト2世が一時ベーメン王となるが、フス派の混乱の中でヤゲヴォ朝に交代。モハーチの戦い以降再度ハプスブルク家のフェルディナント1世がベーメン王となった。

 

[ベーメン王国史]

8c-9c:チェック人がモラヴィア王国(建国者:モイミール)の支配下に入る

→10c初めにモラヴィアがマジャール人によって衰退してチェック人が自立

10c:チェック人(プシェミスル家)によるベーメン国家の成立、ベーメン公を名乗る

→11c後半に「ベーメン王」号を認められ、神聖ローマ帝国を構成する一部に

13c半ば:神聖ローマ帝国のシュタウフェン朝が弱体化し、かわってベーメン王国が強大化

ドイツ人による東方植民の積極的受入れと領内の開拓

  →神聖ローマ帝国内の最有力諸侯に
    (大空位時代にハプスブルク家を擁する諸侯と対立)

  

神聖ローマ皇帝をうかがうベーメン王

(オタカル2世)

VS

これを阻止する諸侯の推すハプスブルク家

(ルドルフ1世)

   

1278   マルヒフェルトの戦い

:オタカル2世の戦死

ベーメン(プシェミスル朝)の弱体化

14c:プシェミスル朝断絶ルクセンブルク朝の成立

  ベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝に(カール4世)
   ・「金印勅書」でベーメン王を選帝侯に

・都プラハの繁栄、プラハ大学(カレル大学)の設立
   ・最盛期を迎えるも、ヨーロッパ全体としては戦乱・分裂期[百年戦争、大シスマ]

14c-15c:フス派の台頭

1414-1418:コンスタンツ公会議(神聖ローマ皇帝ジギスムントが主導して開催)

     ・大シスマの終了(1417

・ウィクリフ、フスの異端決定、フスの火刑

      ・フス戦争(1419-1436、フス派過激派 vs フス派穏健派 vs カトリック)

15c半ば:ハプスブルク家との対立の中でフス派のイジーがベーメン王に選出される

    フス派諸侯と教皇が対立する中で教皇派のハンガリー王マーチャーシュ1世(フニャディ朝)がベーメンの対立王に推されるが、急死

    ベーメン、ハンガリー地域の政治的混乱

1526:モハーチの戦い

   ・ベーメン王兼ハンガリー王ラヨシュ2世が戦死

(オスマン帝国のスレイマン1世に敗れる)

   後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(カール5世弟)がベーメン王に

=ハプスブルク朝の成立

16c半ば:兄であるカール5世の退位に伴い、オーストリア大公にしてハンガリー王、ベーメン王であったフェルディナントが神聖ローマ皇帝フェルディナント1世として即位

    ベーメンはオーストリア=ハプスブルク家の一部に

1618:三十年戦争開始(ベーメンで新教徒の反乱)

反乱は鎮圧されて、以降はハプスブルク家の支配力が強化された

 

 

 以上がベーメンの簡単な通史です。普通の教科書や参考書では一連の流れがなかなかとらえづらいのでまとめ直してみました。必要があれば参考にして下さい。ベーメン史は特に一橋の受験を考える受験生には必須の(2016年時点では)知識かと思われます。一橋2011年の大問1などは良い例でしょう。また、17世紀以降のベーメン史については一橋大学過去問「世界史」2014年(問題、解答、解説・解法と分析の大問2の解説中に示しておきました。

 やはり、ポイントになるのはジギスムントとフス派や三十年戦争あたりでしょうか。そういえば、フス戦争を題材にした『乙女戦争』なるマンガがあるらしいのですが、なぜか本屋に行くと常に最新刊しか置いていないので、大人買い派の私としては未だに食指が動きません。個人的には、厳密にはハンガリー史ではあるものの、ハンガリーの水戸黄門ことマーチャーシュ1世が好きです。ハンガリーでその手の番組をやってたりしないのでしょうか 

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思えば、一橋の問題について「あっ、これは今までと明らかに違う!」という印象をもったのはこの年からだったように思います。2014年といえば、大問2のエンゲルスの「歴史なき民」についての問題が有名で、試験直後にはコアなファンが出現するほどでしたw ただ、それを抜きにしても、それまでは「史料問題」と銘打ちながら史料自体にはそれほどの意味が付されていないことが多かった一橋の問題が、設問の本文や史資料の読解にはっきりと意味を持たせた出題に変化した、と感じました。それは、大問1のワット=タイラーの乱についての出題からもくみとることができます。ですから、この年の一橋の問題がある意味「伝説」になってしまったのは、そうした一橋大学の出題傾向の変化に対し、従来型の考えしかできなかった受験生が固まってしまった、というのが本当のところだと思います。これについてはすでに一橋大学「世界史」出題傾向2でも示してありますが、今後大きな変化がなければ、一橋大学の世界史の問題を解くにあたっては設問本文と史料の読解が重要なカギとなることは間違いないでしょう。

 

2014 

 問 題 概 要 

・まず、ワット=タイラーの乱について書かれた史料が歴史学研究会編『世界史史料 5』より引用されて紹介されています。内容を紹介すると以下の通り。

1、1381年の農民反乱は拡大し、国王に対していくつかの要求をつきつけた。

2、ワット・タイラーは国王に対し、以下の要求を行った。

-国王と法に対する反逆者を捕え、彼らを処刑する。

-民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない。

-地代は1エーカーにつき4ペンスとする。

-誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい。

これに対し、国王は特許状を与えて認めた。

3、これを受けて、カンタベリー大司教シモン・サドベリ、財務府長官ロバート・ヘイルズ等、国王側近は民衆によってとらえられ、首をはねられた。

4、翌日、再びタイラーは国王に対して以下の要求を行った。

-ウィンチェスター法以外の法は存在しないこと。

-同法以外の法の執行過程での法外処置を禁止すること。

-民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃すること。

5、ところが、タイラーはその直後にロンドン市長によって刺殺された。

 ・この文章を受けて、ワット=タイラーの乱が起こった原因あるいは背景として考えられる14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象を示し、それらの事象が史料中で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」とワット=タイラーの乱にいたるまでとどのように関連していたかを説明することを求めています。字数はいつも通り400字ですね。

 

 解 答 例 

政治的事件は百年戦争,社会的事象は封建制の動揺である。14世紀半ばに始まった百年戦争は,イギリスの優勢で展開したものの戦争は長期化したため,戦費確保のために「国王側近」が人頭税の導入を実施した。また,14世紀半ばのペストの流行により農村人口が激減し,領主は労働力の確保のために地代を軽減させ,農民の身分的束縛を緩和したため農民の待遇は改善された。特にイギリスでは,貨幣経済の普及に伴って特に地代の金納化が進んでいたこともあり, ヨーマンと呼ばれる独立自営農民が増加した。しかし,農奴解放が進んだことで経済的に困窮した領主は,賦役を復活させるなど「民衆に対する領主権」を強化した。こうした百年戦争に伴う課税の強化や封建反動の動きに対する農民の不満が高まり,さらにウィクリフの教会改革に影響を受けて身分制度を批判するジョン=ボールも合流し,ワット=タイラーは領主権の廃止や身分制の撤廃などを求めて蜂起した。(398字)

 

 採 点 基 準 

政治的事件(百年戦争)

  政治的事件=百年戦争であることを明示

 「国王側近」との関連

:百年戦争の戦費調達のために「国王側近」が課税強化(人頭税を導入)

 

社会的事象(封建制の動揺)

 社会的事象=封建制の動揺(ペストの流行でも許容)であることを明示

 農民の地位向上

  貨幣経済の普及貨幣地代の普及

  ペストの流行農村人口の激減

  領主が労働力確保のために農民の待遇を改善

  イギリスでは独立自営農民(ヨーマン)が増加

 封建反動

  「民衆に対する領主権」との関連:困窮した領主が「民衆に対する領主権」(賦役etcの農民への身分的束縛)を強化

 

ワット=タイラーの乱の勃発

 人頭税の導入・封建反動に対する農民の反発

 ジョン=ボールの合流

:ウィクリフの影響を受けて身分制を批判、ワット=タイラーの乱に合流

 

 解 法 

やはり、設問と史料をよく読むことが大切です。もちろん、設問の「14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象」という部分から考えるだけでもある程度は解くことができますが、この問題にさらに「上の資料で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」と、この乱にいたるまでどのように関連していたか論じなさい」という条件が付されていることを考えると、史料を読まないわけにはいかないでしょう。特に、下線を引いた「国王側近」の部分は教科書レベルの知識では到底思いつかない内容になるので注意が必要です。そこで、史料を読んでいくと以下のようなポイントを示すことができます。

 

  ワット=タイラーの指導した反乱は国王の存在は否定していない

『国王と法に対する反逆者を捕え、彼らを処刑する。』

『翌日、再びタイラーは国王に対し、「(中略)民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した。

これらの文章からは、国民を統治する国王の権威は否定されず、むしろ認められていることが読み取れます。

 

  農民の待遇改善、特に領主権の廃止、農奴的な身分的束縛の制限、地代の軽減を要求

『民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない、地代は1エーカーにつき4ペンスとする、誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい』

『民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した』

こうした事柄を当時の農奴解放や封建反動などと結びつけて考えるのは当然ですが、同時に農民を指導していたジョン=ボールがウィクリフの影響を受けた聖書主義、身分的平等を唱える人物だったことにも注意する必要があると思います。

 

  おそらく、重税、財政に関することがらが問題となっている

『ワット・タイラーと民衆は、(中略)財務府長官ロバート・ヘイルズ等、国王側近を捕え、首をはねた。』
で地代をめぐる争いがあることや、財務府の長官が目の敵にされていることなどから、税金をめぐり問題が起こっていることがうかがえます。
 以上のをふまえたうえで、百年戦争についてと中世末期の封建制の崩壊をワット=タイラーの乱と結びつけて論じれば、おそらく十分な内容と分量を確保することができるでしょう。

 

 ワンポイント
 通常は、ワット=タイラーの乱との関連と「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが領主(ジェントルマン)であったか」という言葉で有名なジョン=ボールですが、彼がウィクリフの流れをくむロラード派の僧侶だったことをご存知の方はあまりいないかもしれません。ローマ=カトリックを批判して聖書主義の先駆となったジョン=ウィクリフ(1320-1384)の教えは、その後のイングランドにおいてロラード派という人々に受け継がれ、ロラード派はローマ=カトリックの改革を要求しました。ジョン=ボールはこのロラード派に属し、その影響から社会的不平等を告発したわけです。こうした背景を知っていると、ジョン=ボールに対する見方も単なる農民反乱に共感した聖職者、といったものにとどまらないのではないでしょうか。また、同じくウィクリフの影響を受けた人物として有名な人にベーメンのフスがいますが、このベーメンをめぐる宗教問題は一橋を受験する受験生にとってはおなじみのものでしょう。そう考えると、ワット=タイラーの乱を扱ったこの年の問題は、イギリスに関する設問ではあったものの、ある意味で一橋らしい設問であったとも言えるのではないでしょうか。

 

 分 析 

出題分野】

・大問1では神聖ローマ帝国に関わる分野が頻出であり、2014年のようにイギリス史単独のテーマが出題されるのは稀です。(イギリス史が単独で出題されたのは,過去には「イギリス史におけるノルマン=コンクエストの意義:1999年」程度)

【解答のポイント】

・まず、解答の冒頭でイギリスが直面していた政治的事件が「百年戦争」、社会的事象が「封建制の動揺」であることを明示することが重要です。その上で、百年戦争と封建制の動揺のそれぞれに分けて関連を述べていけば解答はまとめやすいと思います。

・百年戦争中の人頭税の導入は教科書レベルを超えた知識で、述べることは難しいと思います。(ただし山川の「詳説世界史研究」には記述があります。)ただ、上述のように、設問の読解をしっかりした上で類推すれば「人頭税」とは書けなくとも、百年戦争と重税の関係を指摘することは十分に可能なはずです。

・封建制の動揺については,教科書レベルの知識で十分に対応できます。「ペストの流行で農民人口減少領主が農民の待遇を改善特に貨幣地代の発達していたイギリスでは独立自営農民が増大困窮した領主による封建反動」という流れはしっかり述べたいところです。

・百年戦争と封建制の動揺だけでは字数にだいぶ余りが出ます。そこで、ジョン=ボールの活用の仕方が問題となります。問題の史料中の「『国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等』を要求した」という部分と、乱の指導者のジョン=ボールが身分制を批判したことを結びつけることができれば想起することは十分可能です。一部の教科書にも、ジョン=ボールがウィクリフの教会改革に同調し社会的平等を説いたということが説明されているものはあります。論述を書くためには、図版の説明やコラムなども含めてしっかり読み込んでおくことが必要です。

 

2014 

 問 題 概 要 

・まず、一橋大学で教鞭をとっていた良知力の「48年革命における歴史なき民によせて」『向う岸からの世界史』より引用されたやや長文の文章が紹介されます。この中で、良知は、エンゲルスの「悪名高き一文」を紹介します。

「ヘーゲルが言っているように、歴史の歩みによって情容赦なく踏み潰された民族のこれらの成れの果て、これらの民族の残り屑は、完全に根だやしされた民族ではなくなってしまうまで、いつまでも反革命の狂信的な担い手であろう。およそかれらの全存在が偉大な歴史的革命にたいする一つの異議なのだ」

良知がこの文章を紹介したのは、1848年のヨーロッパについて「歴史なき民」が「歴史のおもてに現われ」さらに「歴史に積極的にかかわるかもしれず」、この年に「歴史」または「歴史の価値が崩れる」という、「選ばれた民」からすれば「歴史に対する冒涜と反動」であるとエンゲルスの歴史観、価値観を説明するためです。さらに良知は、エンゲルスの頭に「パン=スラヴ主義の担い手たち、すなわちポーランド人をのぞく西スラヴ人と南スラヴ人、それにヴァラキア人(ロマン人、すなわちルーマニア人)など」が思い浮かべられており、エンゲルスの視点からはこれらの諸民族に「未来もなければ、歴史もない。……これらの民族は、放置しておけばトルコ人に侵され、回教徒にされてしまうであろうから、そのくらいならドイツ人やマジャール人に吸収同化してもらえるだけありがたく思わねばならぬ」と述べていたことを紹介しています。

・これをうけて、設問は以下のことを要求しています。

1、文章を参考にして、エンゲルスが「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係をどのように理解しているかを説明せよ。

2、それを批判的に踏まえながら、ポーランド人を除く西スラヴ人の17世紀頃から21世紀までの 政治的立場を論ぜよ。

 解 答 例 

エンゲルスは唯物史観に基づき,階級闘争により資本主義から社会主義へと発展することを「歴史の歩み」と考え,異民族の支配を受ける「歴史なき民」が自民族の国家建設をめざす動きは,階級闘争による「歴史の歩み」を妨げると考えた。西スラヴのチェック人はハプスブルク家の支配に対し,17世紀には三十年戦争の契機となるベーメン反乱を起こした。反乱鎮圧後は同家の支配が強化され,1848年にはスラヴ民族会議を開いたが弾圧された。第一次世界大戦後は,マジャール人の支配を受けていた同じ西スラヴのスロヴァキア人とともにチェコスロヴァキアとして独立したが,ナチス=ドイツにより国家は解体された。第二次世界大戦後は社会主義国としてソ連に従属,「プラハの春」はソ連に抑圧されたが,1989年の東欧革命では社会主義体制を崩壊させ,冷戦終結後はチェコとスロヴァキアに分離,EUにも加盟するなど,独立した民族国家として重要な役割を果たしている。(398字)

 

 採 点 基 準 

「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係

  「歴史の歩み」

:(唯物史観に基づき、)階級闘争により資本主義から社会主義へ発展すること

  「歴史なき民」との関係

:「歴史なき民」(多民族みの支配を受け、自民族の国家を持たない民族)の民族主義(民族の独立をめざす動き)は階級闘争による歴史の発展(労働者による革命)の動きと反する

 

「ポーランド人をのぞく西スラヴ人」(チェック人・スロヴァキア人)の政治的地位

 スロヴァキア人:マジャール人の支配を受ける

 17世紀:ハプスブルク家の支配に対しベーメンで反乱三十年戦争の契機に

 ベーメン反乱鎮圧後はハプスブルク家の支配が強まる

 1848年:(パラツキーが)スラヴ民族会議を開催弾圧される

 第一次世界大戦後:チェック人とスロヴァキア人がチェコスロヴァキアとして独立

 ナチス=ドイツの侵攻チェコスロヴァキア解体

 第二次世界大戦後:社会主義国となりソ連に従属

 1968年:「プラハの春」(ドプチェクによる自由化)弾圧される

 1989年:東欧革命で社会主義体制崩壊

 1993年:チェコとスロヴァキアに分離

 2004年:チェコとスロヴァキアがEUに加盟

 

 解 法 

1、まずは設問の要求を確認します。かなり込み入った内容なので、設問の要求を正確に把握しないと答えがあらぬ方向へ飛んでいきかねません。設問の要求は以下の3つです。

 エンゲルスの、「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係に対する理解を示す

 ポーランド人をのぞく西スラヴ人(=チェック人とスロヴァキア人)の17世紀頃から21世紀までを視野に入れた政治的地位について論ずる

 その際、エンゲルスの理解を批判的に踏まえる(この場合の「批判的」とは必ずしも反対意見を示すことではなく、その可否に検討を加えて評価すること) 

2、エンゲルスの歴史観と彼のいう「歴史の歩み」と「歴史なき民」とは何かを確認します。

  まず、世界史的知識として、エンゲルスは共産主義を奉ずる人間なのであり、彼の歴史観は基本的には共産主義における「唯物史観」がそのベースにあることに注意する必要があります。 

 ワンポイント

*唯物史観

:生産力の発展に照応してその生産関係が移行していくとする発展論的な歴史観。生産力と生産関係の間に矛盾が生じた際にそれを解消すべく進歩が起こり、これがあらたな生産関係を導くという考え方です。具体的には、

 

「原始共産制」(共同狩猟と食糧採集)

「古代奴隷制」(大地主と奴隷)

「中世封建制」(封建領主と農奴)

「ブルジョワ革命(中世封建社会の矛盾による階級闘争)」

「近代資本主義」(資本家と労働者、国民国家の形成と資本主義の発展、帝国主義)

「社会主義革命(資本主義社会の矛盾による階級闘争)」

「共産主義(国家という社会抑圧のための装置の消滅)」

 

以上のような変化をたどると主張します。 

こうした共産主義における発展段階説を知っていればより理解しやすいのですが、仮にこうした知識がなくとも、設問文からエンゲルスの考え方を読み取ることは可能です。まず、エンゲルスが「歴史なき民」が「歴史のおもてに現れる」こと、つまり歴史に積極的にかかわることは「選ばれた民」にとっては歴史の「冒涜」であると考えているということをしっかり読み取りましょう。その上で、史料中の「歴史なき民」や「選ばれた民」に対応する語や表現としてどのようなものがあるかを示すと下のようになります。

 

(歴史なき民)

=歴史の歩みによって踏みつぶされた民族の成れの果て、残り屑

=反革命の担い手であり、偉大な歴史的革命に対する一つの異議

=「パン=スラヴ主義の担い手たち」

=ポーランド人を除く西・南スラヴ人とルーマニア人

=これら諸民族には未来もなければ歴史もない

=ドイツやマジャール人に吸収同化される分だけありがたく思わねばならぬ             

 

(選ばれた民)=ドイツ人やマジャール人

 

つまり、エンゲルスの歴史観によれば、「チェック人やスロヴァキア人」が「歴史にかかわること」は社会主義革命という「偉大な革命」に反する「冒涜」であり「反動」なのです。

3、では、なぜエンゲルスはチェック人やスロヴァキア人に「歴史がない」と断じ、その活動を否定するのか

:共産主義の発展段階説的に考えれば、

 

「各地の封建領主」「民族ごとの小集団」「国民国家」「国家消滅」

 

となるはずであり、この段階にいたって抑圧は消滅し、社会的平等が達成されるはずです。だとすれば、「国民国家」の段階に至っているとエンゲルスが考えていた時(1848年当時)からあえて「民族ごとの小集団」への回帰を求める人々の動きは「反革命」的であり、歴史の流れに逆行する「冒涜」であるとエンゲルスにはうつるわけです。ゆえに、エンゲルスからすれば、チェック人やスロヴァキア人のように、ブルジョワジーの力が弱体で国民国家を独立して形成できなかった「歴史なき民」は、強力で国民国家を独自に形成しえたドイツ人(ドイツ・オーストリア)やマジャール人(ハンガリー)のような人々に吸収同化されて「国民国家」の一部として消滅すべき民族である(そうであるがゆえにロシアの実質的支配下にあるとはいえ、ポーランド王国を形成しているポーランドは対象から除かれることになる)ということになります。 

4、以上のエンゲルスの歴史観を、全てではないにせよある程度は踏まえた上で、チェック人とスロヴァキア人の歴史を確認し、エンゲルスの歴史観を批判的に考察すればよいでしょう。となれば、基本の路線は「エンゲルスはチェック人やスロヴァキア人が国民国家を建設することに批判的だが、実際には両地域の人々はその後彼ら自身の国家を建設するにいたった」という方向になると思います。最後に、簡単にチェック人とスロヴァキア人の歴史(17世紀以降)を表にしたものを下に示しておきます。

1
 分 析 

出題分野】

・今回のテーマは「17世紀から現在に至るチェコ人・スロヴァキア人の歴史」です。一橋大ではドイツ史が頻出ですが、ドイツと関わりの深いハンガリー・チェコ・ポーランドなど東欧の歴史が出題されることも多いので、これらの地域についてはドイツとの関係をふまえながらタテの流れを確認しておくことが不可欠です。

・過去にチェコやスロヴァキアが出題された例としては「フス戦争とその歴史的意義」(2011年の)、「近現代のポーランドとチェコスロヴァキア」(1992年の)などがあります。

解答のポイント】

要求:エンゲルスが『歴史の歩み』と『歴史なき民』の関係をどのように理解しているか

・まず、エンゲルスにとっての「歴史の歩み」=唯物史観であり、唯物史観が「階級闘争による歴史の発展」であることを短い字数で述べる必要があります。

・エンゲルスの歴史観では「歴史なき民」が他民族の支配を受け、自民族の国を持たない民族であるということは、史料から分かると思います。史料中の「およそかれらの全存在が偉大な歴史的革命にたいする一つの異議なのだ」という部分から「歴史なき民」が自民族の国家を求める動きが、偉大な歴史的革命である階級闘争を妨げるものであるとエンゲルスが考えていたということを読み取ってほしいと思います。国際的な労働者の連帯をめざす動き(インターナショナリズム)と、国民主義・民族主義(ナショナリズム)が基本的には相容れないものであることについて、しっかり理解しておく必要があるでしょう。

 

要求1721世紀のポーランドを除く西スラヴ人の政治的地位

・ポーランドを除く西スラヴ人がチェック人とスロヴァキア人であることが分かれば、17世紀のベーメン反乱、1848年のスラヴ民族会議、第一次世界大戦後のチェコスロヴァキアの独立、第二次世界大戦直前のナチス=ドイツによる国家解体、第二次世界大戦後は社会主義国となりソ連の影響下に入る、プラハの春、東欧革命時のビロード革命、チェコとスロヴァキアに分離、EUへの加盟など教科書レベルの知識で対処することは十分可能です。もっとも、この年の受験生にはポーランドを除く西スラヴ人がチェック人とスロヴァキア人であることをしっかり確認できなかった人もかなりの数いたと思います。そうなるとこの問題は対処のしようがないですね…。個人的には「史資料を読ませる」という点からは難しくもあるが意欲的で良い設問だと思うのですが、ある一つの知識の有無によって問題全体が解けなくなってしまうという点では、設問としてのバランスはあまりよくないと思います。そこに不満を感じた受験生も多かったのではないでしょうか。

・エンゲルスの歴史観を批判的にふまえる必要があるので、エンゲルスの予測に反して「チェック人とスロヴァキア人は自民族の国家を持ちながら歴史の中で一定の役割を果たしている」という筋でまとめるようにすればよいでしょう。

 

2015 

 問 題 概 要 

久芳崇『東アジアの兵器革命』より引用された、16世紀から17世紀末にかけて変動した東アジア情勢の一端を伝える文章が紹介され、空欄A・Bが示されます。

(Aのヒント)

-万暦47年(1619)年、サルフ山の戦いでの大敗以降、明朝は徐光啓をはじめとする官僚の努力により、( A )のポルトガル人と深い関係を持つ人間を通して新式火器の導入が進められた。

-Aはポルトガルの拠点であった。

(Bのヒント)

-北京や寧遠などといった軍事拠点と同じ重要な軍事拠点で、( A )から購入した火器が投入された。

・この文章を受けて、設問は以下の問1、問2を要求します。

1

・空欄(A.   )(B.   )に当てはまる地名を答えよ。

・清朝から明朝への交替の経緯を様々な要因をしめして説明せよ。(240)

2 

16世紀末から17世紀末にかけての朝鮮・明朝・女真・清朝との関係の変遷を説明せよ。(160) その際、[壬辰の倭乱 ホンタイジ 冊封]の三語を使用しなさい。

 

 解 答 例 

問1

Aマカオ,B山海関。明は北虜南倭への対応に苦しみ,朝鮮への援軍で財政が悪化,東林党と非東林党の党争で政治も混乱した。また国際商業の発展に伴う産業の発達や銀経済の浸透により貧富の差が拡大,重税も重なり民衆が困窮し,各地で反乱が起こった。中国東北部ではヌルハチが女真族を統合し,八旗を組織して支配体制を整えた。明が李自成の乱で滅びると,清は呉三桂の先導で李自成を倒して北京を占領した。その後,清は呉三桂らの三藩の乱を鎮圧し,台湾で清への抵抗を続ける鄭氏を降して中国支配を確立した。(238字)

問2

朝鮮は明から冊封を受けており,壬辰の倭乱の際は明の援軍を受けて豊臣秀吉の遠征軍を撃退した。女真が後金を建国し,国号を清と改めた後も,明との冊封関係から女真に従うことを拒否したが,ホンタイジの侵攻を受けて清に服属し,冊封国となった。しかし,明の滅亡後は,清を夷とみなし,朝鮮が中華文明の継承者とする小中華思想を強めた。(158字)

 

 採 点 基 準 

問1

空欄(A  )(B  )の語句

 Aマカオ・B山海関

 

明の衰退・滅亡

 北虜南倭への対応に苦慮

 (豊臣秀吉の侵攻を受けた)朝鮮への援軍財政難に

 政治の混乱:東林党と非東林党の党争

 社会経済の発展:国際商業の発展産業が発達、銀が大量に流入

 民衆の困窮:社会経済の発展に伴う貧富の差の拡大,財政難に伴う重税

 

清の台頭・中国支配

 清の台頭:ヌルハチが女真族を統一,八旗の整備で支配体制を確立

 中国支配の開始:明が李自成の乱で滅亡呉三桂の先導で北京入城李自成を倒す

 呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧

 台湾の鄭氏を平定

 

問2

明との関係

 明から冊封を受ける

 壬辰の倭乱:豊臣秀吉が朝鮮に出兵明は宗主国として援軍を送る

 

女真・清朝との関係

 女真族が後金を建国国号を清に変更

 朝鮮は女真への臣従を拒否

 ホンタイジの侵攻清の冊封国に

 明の滅亡清を夷とみなし小中華意識を強める

 

 分 析 

出題分野

・問1のテーマは「明清交代の要因と経緯」です。明清交代期の中国は頻出テーマであり、過去には「鄭氏の活動と17世紀のオランダのアジア交易」、「三藩の乱とその歴史的意義」(いずれも2011年)、「清朝の軍事・社会制度」、「典礼問題」(いずれも2006年)が出題されています。さらに1998年には「1644年以降の清朝の中国支配の確立」という今年と類似の問題が出題されています。大問3の出題傾向については一橋大学出題傾向1をご参照ください。

・問2のテーマは「16世紀末~17世紀末の朝鮮と明・女真・清朝との関係」でした。朝鮮史も頻出テーマで、その中でも19世紀後半~日本の植民地時代がよく出題されます。今年(2014年)のような明清交代期の朝鮮の問題としては、過去には「1719世紀の朝鮮と日本・清との関係の変化」(1998年)があります。

 

解答のポイント】

問1

・空欄補充は、Bの山海関を答えるのが難しいかもしれません。

・要求は「清朝が明朝に替わって中国を支配するようになった経緯」です。どこまで言及するのかについては「李自成の乱で明が滅亡して清が北京を占領した所まで」、「三藩の乱の鎮圧と鄭氏台湾を平定して中国全土の支配を確立した所まで」の2通りが考えられますが、240字という字数を考えるとのパターンで述べるべきでしょう。

・「明の弱体化」、「女真の台頭」、「清の中国支配」の3点についてまとめていけばよいでしょう。明の弱体化については、北虜南倭、朝鮮への援軍などによる財政難、東林派と非東林党の党争などに言及します。女真の台頭については、ヌルハチの女真族統一、八旗の整備などに言及します。清の中国支配については、李自成の乱で明が滅亡したこと、呉三桂の先導で清が北京に入城したこと、三藩の乱鎮圧、台湾の鄭氏を平定したことを時系列にまとめていけばよいでしょう。教科書レベルの知識のレベルで十分に対応できる問題だとおもいます。

問2

・明と朝鮮の関係として、明から冊封を受けたこと、壬辰の倭乱の際に明が援軍を派遣したことを述べておきましょう。女真との関係としては、ホンタイジの侵攻で清の属国(冊封国)となったことは述べられると思います。

・明の滅亡後、小中華意識を強めたことを想起できるかが差のつくポイントです。旧課程の教科書では記述はありませんが、新課程の教科書には「ついで清が成立すると、侵攻を受けて服属し、冊封・朝貢関係をもったが、清を「夷」とみて,朝鮮が正統な中華文明の継承者であるという意識をもった。」などと記述されているものもあります。

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2016年の一橋「世界史」について、各予備校の評価は(-やや難、-やや難、-標準)または(-標準、-標準、-標準)とやや分かれました。個人的には、-やや易、-やや難、-標準といったところでしょうか。各設問は、満点を取ると仮定すれば難しい問題なのですが、合格点をとるということを考えればそれほど難しい問題とは思えません。は中世都市とポリスの比較をする基本問題ですし、もユグノーについてとフリードリヒの啓蒙専制が書ければ、シュレジェンなどの情報が十分に書けなくても半分はとれるでしょう。同じく、も台湾の部分が十分に書けなかったとしても半分程度の解答を作成することは可能ですから、全体として6割を確保しにいくことは例年と比べても難しくなかったかなという印象です。史資料の読解と歴史に対する総合的理解を要求される設問に対して平均点がどう動くかは気になるところでしたが、それ以上に「どうやって周りから一歩抜け出すか」が問題となった年だったと思います。普段から歴史の全体像を気にして、設問の読みがしっかりできる生徒にとってはむしろ解きやすい設問だったかもしれません。

 

2016年  

 問 題 概 要 

 

国公立の問題は、あちこちの学習塾や場合によっては大学などでも公開されているので概要だけを示します。というか、志望校であれば是非赤本を買いましょうw 手元にあるのとないのとでは大きな差があると思います。

[設問概要]
・聖トマスとアリストテレスの「都市国家論」の相違がなぜ生じたのかを考察しなさい。(400字)
・条件:両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ論じること。
・本文として、上田辰之助『トマス・アクィナス研究』より引用された文章が付されているが、その文章の中でも以下の部分に下線が付されています。

 聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取り扱っていない

 

 解 答 例 

アリストテレスと聖トマスの都市国家論の相違は、前者が政治的共同体としての側面が強いポリス、後者が経済活動を基礎とした中世都市という異なる歴史的実態を持つ都市社会を論の前提としていることからきている。前者が想定する、アテネに代表されるポリスでは軍役に参加する成人男子市民が全て民会を通じて政治に参加する直接民主制が成立し、官職も抽選で選出されるなどの政治的平等が達成された。ギリシア人は植民市を築き商工業や交易も発展させたが、経済活動は政治的活動に比して副次的なものと考えられ、農作業など労働の多くは奴隷に委ねられた。一方、後者が前提とした中世都市は、商工業や交易で得た資金で自治を獲得し防衛を傭兵に頼るなど、経済力に基礎をおいた。都市内部では手工業者がツンフト闘争を通して市政に参入するなどの変化はあったが、基本的にはギルドを形成する大商人による寡頭政治が行われ、親方と徒弟といった階級秩序が存在した。(400字)

 採 点 基 準 

:設問にある要求は以下の2点です。

(1)聖トマス(トマス=アクィナス)とアリストテレスの「都市国家論」の相違が生じた理由

(2)両者が念頭に置いていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させる

 

ですから、以上の2点に対する答えを明確に示しつつ、必要な事項を整理する必要があります。(1)に対する答えを用意するためにも、まずは「両者が念頭に置いていた都市社会の相違とは何か」と「両者の都市国家論の相違点とは何か」を整理することから始めるのが解答への近道です。

 

【A:両者が念頭においていた都市社会(ポリスと中世都市)の相違】

 ポリス(アテネ)の特徴について示す。

 :民会と直接民主政、奴隷制に立脚、将軍職以外の官職を抽選で決定、商工業も発展、など

 中世都市の特徴について示す

 :商工業、交易活動の発展、自治権の獲得、都市内部の身分秩序(ギルド・ツンフト)、など

 

【B:両者の都市国家論の相違】

 アリストテレスの前提=ポリス(特にアテネを想定)

 アリストテレスの都市国家論:政治的組織として考察、経済生活は第二次的なもの

 聖トマスの前提=中世都市 

 聖トマスの都市国家論:地理的・経済的な要素を重視し、都市を「完全社会」とみる 

 (理由):中世都市には各種の階級や組合などが存在し、人間生活が自給自足されることで「他力の補助」を必要とせず、これにより「完全性」が保たれるから。さらに、この「経済上の自給自足」が「精神生活の充足(よき生活)」を支えているとする。

 

以上のA・Bを整理すれば、両者の都市国家論の相違が、両者が前提としている都市社会の相違と対応していることが読み取れます。それをもとに「アリストテレスの都市国家論」と「聖トマスの都市国家論」の相違を際立たせるような都市社会の歴史的実態を拾い上げて、両者の違いが生じた理由として示してやればよいでしょう。

 

【C:両者の都市国家論の相違が生じた理由】

 ポリスが政治的共同体としての側面が強かったのに対し、中世都市は経済的な繁栄を形成の前提とした(自治権の獲得など) 

 ポリスの市民が労働を奴隷に委ねて経済活動から遠ざかったのに対して、中世都市市民の活動の中心は政治的活動よりも手工業・商業・交易活動といった経済活動であった 

 ポリス市民(市民に奴隷は含まれない)は政治的に平等であったのに対し、中世都市では原則として政治に携わるのは経済力の豊かな大商人や親方階層であり、階級秩序が存在した。

 

本設問については、歴史的な知識の有無よりも、「設問の意図をくんで適切な論を構築すること」、「構築された論の整合性」に重きが置かれていると思われます。

 

 解 法 

1、とにかく、まずは史資料を熟読します。その上で、本文が聖トマスならびにアリストテレスについてどのような見方をしているか、以下のように整理しましょう。

 

[聖トマス]

・都市の完全性を二因に帰する。

経済上の自給自足(物)

精神生活の充足(霊) 

「霊物両生活の充足(4行目)」

・物の完全性=自足性に存する

(不完全である物は他力を必要とし、その程度が大きいほど不完全である)

・特に、聖トマスは経済的自足性(物)を重視

「生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られる」

「都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるもの」

(理由)都市には各種の階級や組合などが存在し、人間生活の自給自足にあてられるから

・都市の経済性を重視すること=中世ヨーロッパの実情に即している(経済都市)

      

[アリストテレス]

・論の進め方は聖トマスと類似していますが「実質的には著しき差異」があります

聖トマスのcivitas:地理的・経済的要素を重視している

アリストテレスの都市国家:政治組織として考察(経済は二次的なもの)

 

2、ポリスと中世都市の特徴を整理します

[ポリス(アテネ)]

・民会と直接民主政

・奴隷制に立脚

・将軍職以外の官職を抽選で決定

・商工業も発展 など

 

[中世都市]

・商工業、交易活動の発展

・自治権の獲得

・都市内部の身分秩序(ギルド・ツンフト) など

 

大切なことは、いくつかある特徴の中から、設問本文に即してどの特徴について論ずるのが適切であるかを見極めることです。そう考えれば、政治的組織としての点を重視するアリストテレスの立場から、同じギリシアのポリスでもスパルタではなくアテネ民主政について言及すべきであることは自明ですし、聖トマスが「各種の階級・組合」に注目していることから、中世都市の身分秩序に触れるべきことは明らかです。また、ここでは対比が要求されるわけですから「アテネ民主政に対する中世都市の政治システム」、「中世都市の身分秩序に対するギリシアの奴隷制」といったように、比較するのに適切な部分が何かをよく考えてまとめるべきでしょう。

 

【解答作成のポイント】

(1)両者が前提とする都市社会の歴史的実態の対比

設問がアリストテレス時代の都市社会(=ポリス[特にアテネ])と聖トマス時代の都市社会(中世都市)の歴史的実態を対比することを求めていることに気づくのは必須条件です。 両者の特徴を書き連ねるのはそれほど難しい作業ではありません。

(2)両者の論の相違と前提とする都市社会の相違の関連性について検討

ポリスと中世都市の相違が、どのように両者の「都市国家論」の相違と関連するのかを考察する必要があります。これは世界史で教わる知識ではないので、資料の読解と二つの異なる「都市社会」の特徴からの考察によって導くしかありません。文章から「聖トマス=地理的・経済的方面(言い換えれば物的側面)を重視」しているのに対し、「アリストテレス=政治組織として都市をとらえる」という違いが存在することを読み取り、両「都市社会」の相違とうまく結び付けてやればよいでしょう。

  

 ワンポイント

最後に、本設問の解答とは無関係ですが、聖トマスはアリストテレス哲学を受容して神中心主義と人間中心主義を調和させ、スコラ哲学を大成した人物であるからこそ、ここで両者の都市国家論の対比がなされているのだということは知っておいてよいでしょう。両者は無関係の二人ではなく、ヨーロッパの思想体系の中でつながっているのです。

 

2016年 

 問 題 概 要 

・ベルリンにある、「フランス大聖堂」と「聖ヘートヴィヒ聖堂」という2つの聖堂が建設された理由を比較しつつ、建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明せよ(400字)
・フランス大聖堂と聖へトヴィヒ聖堂について紹介する文が付されていますが、特に以下の2か所に下線が付されています。
フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられた」
聖ヘートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。」
・また、両聖堂の建設開始と完成の年も示されており、それによればフランス大聖堂は1701年開始・1705年完成、聖ヘートヴィヒ聖堂は1747年開始、1773年完成である。
  

 解 答 例 

1685年のルイ14世によるナントの勅令廃止で信仰の自由を失ったフランスのユグノーたちは北欧各国へ亡命した。新教国プロイセンは、産業振興のため商工業者が多いユグノーを受け入れ、王国に昇格してホーエンツォレルン家領を統合した1701年には彼らのためフランス大聖堂を建設した。18世紀前半にフリードリヒ=ヴィルヘルム1世がユンカーを登用して官僚制や軍隊を整備し、王権の強化を進めた後、1740年に即位したフリードリヒ2世はオーストリア継承戦争と七年戦争でオーストリアのマリア=テレジアと争い、ハプスブルク家が領有していた鉱工業地帯シュレジェンを獲得して軍備の強化に努めた。近代化を進めるために啓蒙思想を受容した彼の統治下では、旧ハプスブルク領のカトリックに対して寛容な宗教政策がとられて聖ヘートヴィヒ聖堂が建設され、1772年の第1回ポーランド分割で新たに支配下に入ったポーランド系カトリックに対する受け皿ともなった。(400字)
2016.11.23、一部を訂正しました。[プロイセンの王権について、絶対王政を確立したという表現を使っておりましたが、少々表現として強かったように思いましたので王権の強化を進めたとしておきました。] 

 

 採 点 基 準 

:設問は、ユグノーのためのフランス大聖堂とポーランド系住民(カトリック)のための聖ヘートヴィヒ聖堂という二つの聖堂の建設について、以下の3点について述べることを求めています。

 

(1)建設された理由を比較せよ

(2)建設をめぐる宗教的背景を説明せよ

(3)建設をめぐる政治的背景を説明せよ    

 

論点は整理しやすいですが、建設時期がフランス大聖堂の18世紀初頭(プロイセン公[王]フリードリヒ1世の時期)と聖ヘートヴィヒ聖堂の18世紀半ば~後半(フリードリヒ2世の時期)と異なる時期にまたがっていることには注意を払う必要があるでしょう。

 

【A宗教的背景】

 1685年のルイ14世によるナントの勅令廃止(仏)

 ナントの勅令廃止によるユグノーの北欧各国への亡命

 フリードリヒ2世の啓蒙専制君主としての国家建設と宗教的寛容との関係

 (は設問文章中の「パンテオン」などの語からも想起することができる)

 新たに獲得したシュレジェン(またはハプスブルク家の領地)にカトリック(またはポーランド系住民)が多いこと。

(予備校の模範解答などにはシュレジェンにポーランド系カトリックが多いことなどが示されていますが、これは教科書や通常の参考書のレベルをこえた要求であり、少なくとも2016年度の受験生がこれを示すことは望むべくもありません。むしろ、ハプスブルク領がプロイセン支配下に入ることにどのような宗教的意義があるかを見出す想像力が重要。ただし、ポーランド分割[1772]を聖堂建設の理由[1747-]に結びつけることは時期的に無理なので注意。)

 

【B.政治的背景】

 18世紀初頭のプロイセンにおける軍国主義的絶対王政の形成

 - 1701  フリードリヒ1世時代にプロイセン王国としてホーエンツォレルン家領を統合

 - 1713~ フリードリヒ=ヴィルヘルムによるユンカー出身者を用いた軍隊・官僚制の整備

 フリードリヒ2世の即位と近代化策

 オーストリア継承戦争(1740-48)と七年戦争によるオーストリアとの争いとシュレジェン獲得

 シュレジェンが鉱工業地帯であること

 第1回ポーランド分割(1772) [2回・第3回分割にもプロイセンは参加していますが、1773年に完成した聖ヘートヴィヒ聖堂の「建設理由」を問う本設問では必ずしも言及の必要はありません。ただ、「新たに加わったポーランド系カトリックの受け皿となった」とは言えるでしょう。]

 

【C.両聖堂が建設された理由】

A.Bとの重複箇所あり。適切に統合できるかがカギ)

 

(フランス大聖堂)なぜ、ユグノーを受け入れたか

 プロイセンがドイツ地域を代表する新教国であること

 国内の産業育成のために亡命してきたユグノーを受け入れたこと

 

(聖ヘートヴィヒ聖堂)なぜ、ポーランド系カトリックが統治下に入ったのか

 シュレジェンの領有とポーランド分割(ただし、ポーランド分割開始時には建設はほぼ完成)

 宗教的寛容・移民や新たな住民の受け入れ

 

 解 法 

Iほどではありませんが、資料文が参考にはなるのでまずは読解と整理を。

 

1701年にユグノーに対して建てられたフランス大聖堂(1705年完成)

亡命ユグノーを想起する必要あり(1685年 ナントの勅令廃止)

1747年に建設が開始された聖ヘートヴィヒ聖堂(ポーランド系の「新」住民のため)

→1740-1748 オーストリア継承戦争:シュレジェンの獲得

 時期に注目できるかどうか。

1773年に完成した聖ヘートヴィヒ聖堂の円形聖堂

=ローマのパンテオンを模して造られたもの

 =当時の国王(フリードリヒ2世:1740-1786)の基本思想

  「君主は国家第一の下僕」(啓蒙専制君主)

 ここから「啓蒙」と「宗教的寛容」を結びつけて論ずることができるかどうか。

 

【解答のポイント】

(1)文章の読解と分析

一橋の大問では史料・文章の読解と分析が必須です。ベルリンが当時のプロイセンの都であること、18世紀がプロイセンにとっての発展期であり、その世紀の半ばからは啓蒙専制君主フリードリヒ2世の統治下で近代化が図られたことなどは必ず想起しなくてはならないでしょう。

 

(2)当時のヨーロッパの宗教事情の確認

ユグノーという単語から、一橋の受験者であれば1685年のフランスにおけるナントの王令廃止とそれにともなうユグノー(多くの商工業者を含む)の北西欧地域への亡命はすぐに思いつくことができます。問題は、もう一つのカトリックをどのように処理するかということですが、18世紀ドイツ地域においてプロイセンと覇を競いあうハプスブルク家の支配下ではカトリックの勢いが強いことは教科書レベルの知識であっても引き出すことは可能なはずです。

 

(3)プロイセンにおける宗教の意義と、政治的状況との関係性についての考察

プロイセンが新教国であり、富国強兵策を展開していたことから、商工業者の多い亡命ユグノーが保護の対象となったことや、フリードリヒ2世が啓蒙思想に傾倒していたことから宗教的寛容が国策として打ち出されたことを指摘するべきでしょう。

 

 ワンポイント

 「啓蒙」は今後一橋の大問2を説くうえでキーになる概念になるかもしれないので良く理解しておきましょう。最近の歴史学会の動向としても「宗教的寛容」や「啓蒙」といったテーマは注目されています。西欧で絶対王政が成立したのに対し、地主貴族が優勢だった東欧地域では啓蒙専制君主という形で、君主が啓蒙思想を利用しながら国家の近代化と権力の集中を図るスタイルが成立したわけですが、その際、君主が啓蒙思想を利用してその力を抑えたのは当時力を持っていた旧来からの地主貴族や教会勢力でした。つまり、啓蒙専制君主は国の近代化を進めると同時にこうした教会勢力の伸張をおさえる意味でも啓蒙思想を利用したわけですが、それは啓蒙思想が宗教的寛容の要素を色濃く持っていたからです。フランスにおける百科全書派と教会との対立や、オーストリアのヨーゼフ2世による宗教寛容令の失敗などを想起すれば、啓蒙と宗教的寛容の関係について思い出すことができるでしょう。啓蒙については2015年に予想問題として作ったものをあげておきましたのでご参照ください。 

 

2016年 

 問 題 概 要 

1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明せよ。
・また、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論ぜよ。

(以上、2点について400字)
・これに関して、19508月の周恩来による対朝鮮戦争戦略が紹介されています。

(中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)
 その内容を要約すると、
 1、米帝は朝鮮半島を世界大戦の前線基地にしようとしている。
 2、朝鮮は世界、中でも東アジアにおける闘争の焦点となっている(下線部)
 3、朝鮮問題は単に隣接する地域との利害関係を超えた国際問題である。
 4、朝鮮支援のためには台湾解放を先送りにしてでもその防衛のための軍隊を組織すべきである。

 

 解 答 

日本の降伏により朝鮮では朝鮮人民共和国が建国を宣言したが、間もなく北緯38度線を境界とする米ソの軍政下におかれた。一時は大国による信託統治も検討されたが、これに反対する朝鮮の世論は左右に分極化し、米ソの対立も深刻化する中で朝鮮は南北に分裂し、金日成を主席とする朝鮮民主主義人民共和国と李承晩率いる大韓民国が成立した。冷戦の拡大にともない南北の対立も深まり、1950年に朝鮮戦争が勃発し、北の侵攻に対して米は国連軍を派遣したが、中国が人民義勇軍を組織して対抗したため戦線が膠着し、1953年に板門店で休戦協定が結ばれた。この戦争の結果、毛沢東率いる中国共産党は指導力を強め、土地改革や第一次五か年計画などの社会主義化を進めるとともに本格的な核開発に着手した。一方、台湾は米の支援を受けて蒋介石率いる国民党の独裁が確立し開発独裁が展開されるとともに米華相互防衛条約を締結して米の反共軍事包囲網の一角に組み込まれた。(398字)

 

 採 点 基 準 

設問で要求されているのは次の2点です。

 

 1945年以降の朝鮮半島の情勢についての説明

 朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響

 

以上について論じる素直な設問であり、提示されている史料についても特に深い読みは必要としません。(文章中からは人民義勇軍の組織・冷戦などが示唆されるが、これらは特に意識しなくても思いつくことができます。ただし、「台湾の解放を先送りにし」、朝鮮戦争への介入を周恩来が主張しているこの史料からは朝鮮戦争が中国共産党による台湾への圧力を弱めることになったことが読み取れるのでこの点については注意が必要です。)

 

【A.1945年以降の朝鮮半島の情勢】

 朝鮮人民共和国の成立(朝鮮の人々が主体となった臨時政府の樹立)

 北緯38度線を境界とした分割占領(北:ソ連、南:アメリカの軍政下)

 信託統治をめぐる朝鮮世論の左右分極化 

 冷戦の拡大 

 朝鮮民主主義人民共和国(金日成)と大韓民国(李承晩)の独立宣言と南北分裂 

 朝鮮戦争(1950-53)の勃発とその進展 

 アメリカによる国連軍の派遣と、中国人民義勇軍の参戦 

 板門店での休戦協定締結 

 

【B.朝鮮戦争が中国及び台湾の政治に与えた影響】

 中華人民共和国における毛沢東率いる中国共産党の指導体制の確立 

 中国における土地改革の実施・第一次五か年計画の推進による社会主義国化の進展 

 中国における核開発の本格化 

 太平洋地域におけるアメリカの反共軍事包囲網の構築

 米華相互防衛条約(1954)の締結 

 中国の台湾侵攻の先送り 

 台湾における蒋介石率いる中国国民党の指導体制の確立 

 蒋介石指導下における開発独裁の展開 

 

【C.補足事項】

 中国における国共内戦と中華人民共和国の建国(蒋介石の台湾への逃亡)

 

 以上をバランスよく配分することが必要となります。朝鮮戦争中の経過を詳述してもあまり意味はなく、戦争に至るまでの経過と、戦争後の中台への影響をどれだけ丁寧に盛り込めるかが高得点を狙うカギとなるでしょう。

 

【解答のポイント】

(1)1945年以降の朝鮮半島情勢について説明する

戦後の朝鮮半島情勢というとすぐに朝鮮戦争につなげがちですが、戦争に至るまでの状況についても留意しましょう。北緯38度線における南北分割占領、大韓民国ならびに朝鮮民主主義人民共和国の成立、冷戦の影響などの基本事項については必ず抑えておくべきですが、それほど難しい内容ではなく、むしろ得点源になったのではないでしょうか。

 

(2)朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響について論ずる

本設問においてもっとも得点に差がつく部分であり、ここをきちんと書けたかどうかが勝負の分かれ目となります。朝鮮戦争に中国が参戦することはよく知られた事実ですが、ここで注意しなくてはいけないことは人民義勇軍が朝鮮戦争に参戦したことは正確に言えば「中国が」・「朝鮮に」与えた影響であって、「朝鮮戦争が」・「中国に」与えた影響ではないということです。設問の要求に従えば、朝鮮戦争によってその後の中国・台湾がどのように変化したのかについて説明する必要があるでしょう。

 

[中国への影響]

 米軍を中心とする国連軍と痛み分けに持ち込んだことで、成立直後の中国共産党指導部の国内における権威が高まり、これを背景に毛沢東は本格的な社会主義化に着手し、土地改革や第一次五か年計画を進めることになった。

 戦争後、中国は本格的な核開発に着手した。

 

[台湾への影響]

アメリカが構築する反共包囲網の中に組み込まれ、1954年に米華相互防衛条約を締結するとともに、アメリカの支援を得た蒋介石率いる国民党の独裁が確立した。

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