世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

2017年02月

 さて、本日はこれまでも当ブログで解説してまいりました早稲田大学法学部の2017年「世界史」のうち、大問5の論述問題について焦点を当てたいと思います。問題はすでに各予備校HPで公開されていますので、そちらをご覧ください。

 今回の問題を見た第一印象ですが、「お、ワセ法もちょっと洗練されてきたぞ」というのが私の印象です。私の早稲田法学部論述に対するこれまでの印象は一言で言うと「無骨」です。「直球どストレート工夫なし!」という雰囲気であったわけで、イメージ的にはモブ化した後のタイガーショットであり、鳳翼天翔です。  

 今回の問題ではその雰囲気が少し変わりました。たしかに、航海法は「ベタ」な設問で頻出の箇所です。これまでの設問では、この航海法は主に17世紀イギリスの重商主義政策の典型、または英蘭戦争の原因という流れの中で出題されることが多かったものです。ところが、今回の設問では、まずイギリスの国内事情への視点が追加されました。つまり、重商主義政策から自由貿易主義への転換という視点です。(これが近年一橋などでは頻出のテーマであることはすでにご紹介しました) さらに、ここでは19世紀前半の反穀物運動や選挙法改正という別視点も加わってきます。また、制定された17世紀の状況から19世紀半ばまでという時期的な長さも確保されています。つまり、これは航海法をテーマとした設問というよりは、イギリスの通商政策の変化とその背景として存在した工業化の進展と産業資本家の台頭という社会構成の変化を説明せよ、という設問なわけで非常に複合的な設問です。

もっとも、ワセ法がこうした変化をする兆しを見せているということはすでに出題傾向の中でも指摘していました。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_231096.html)それまでの単線的な出題が、次第に多面的、多角的な設問になってきているという点には注意が必要だと述べたかと思いますが、今回の設問でこの傾向が今後も続いていく可能性がさらに高まったと思います。今回はイギリスを中心に複数の要素を抱えるテーマについて説明するという形のものでしたが、場合によってはむしろ地理的に広い範囲のもの同士の関係を問う(いわゆるグローバルな展開の)設問が出題される可能性もあると思います。いずれにしても、一つの物事を一つの側面からのみ理解するような勉強の仕方では今後のワセ法の論述を解くことは難しくなってきそうですね。レベル的には東大の方が高いと思いますが、東大の過去問演習などは役に立つかなぁと思います。

 また、形式的な点としては、昨年に続いて上限は300字となりました。どうやらこちらもこの変化で固定されるようです。

 

早稲田大学法学部「世界史」2017年論述問題(問題概要・解説とポイント)

 

【問題概要】

17世紀半ばに制定されたイギリスの航海法が制定された理由を答えよ。

19世紀半ばに航海法が廃止された理由を答えよ。

・当時の政治と経済の情勢に関連付けよ。

・指定語句を全て用いよ。(選挙法改正/重商主義/自由貿易/中継貿易)

・指定字数は250字から300字。

・指定語句には下線を付せ。句読点、数字は1字として数える。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

 設問の要求

:イギリスの航海法が制定・廃止された理由を当時の政治・経済と関連付けて説明せよという、きわめて明快な問題設定です。実は、類似の設問はすでに2012年早稲田大学法学部の論述問題で出題されています。(17世紀における英蘭両国の友好関係と敵対関係) ですから、過去問をしっかりやってから臨んだ受験生であれば、今回の設問の「制定の理由」を答えることはそう難しくなく、こちらの部分で差がつくことはなかったと思います。

 

【解答手順2、設問の二つの要素ごとに事実関係を整理】

:今回の設問のテーマは、問題設定自体も明確ですし、頻出の箇所ですから、大きなフレームワークを描くことはさほど困難ではありません。まずは、指定語句に頼ることなく、素直に設問の要求している「制定の理由」と「廃止の理由」、そして関連事項の整理をしてしまうのが解答作成への近道だと思います。

 

 もっとも、今回の要求のうち「廃止の理由」については漠然としか理解していなかった受験生も多いのではないでしょうか。「何となく穀物法廃止の3年後くらいに航海法が廃止されたことは覚えているけど…何でだ?」と固まってしまった受験生と、「よっしゃ、来た!自由貿易の流れね!」とすぐに判断のついた受験生で差がついたものと思われます。固まってしまった場合でも、半分は書けるわけですから、ここは焦らず半分+αを狙いましょう。どんなに頑張っても、人間の記憶には限界というものがあります。たまたま、自分の記憶からすっぽり抜け落ちてしまっている、というところから出題される可能性は常にゼロではありません。そうした時に大切なのは、周囲との差を最小限にすること。まずは不時着解答を作成するためにも、できる整理、「制定の理由」を整理することからしておくべきです。

 

1、制定の理由

 オランダの中継貿易を妨害するため。

(関連事項)

  航海法の内容:イギリスへの輸入をイギリスの船か原産国の船に限定すること。(正確には、アジア・アフリカ・アメリカからの輸入についてはイギリス船のみ、ヨーロッパからの輸入についてはイギリス船または生産国か最初の積載を行った国の船に限定する)

  制定の時期:クロムウェル統治下の1651年。議会に影響力を及ぼした貿易商の要望によるもの。

  政治的関連:クロムウェル、議会、重商主義、英蘭戦争

  経済的関連:貿易商、重商主義、中継貿易、海洋覇権

 

 制定の理由については上に書かれたようなことが盛り込まれていれば十分でしょう。注意しておきたいのは、航海法はたしかにクロムウェルの政権下で成立しましたが、クロムウェル自身は航海法制定に対しては否定的であった点です。クロムウェルは、同じプロテスタント国家であるオランダと積極的に敵対する政策には内心反対でした。貿易商の働きかけを受けた議会の要請で仕方なく、というのが本当のところであるようです。ですから、ここをはき違えてクロムウェルが積極的に航海法制定を行った、という風に書いてしまうと実態とのずれが生じてしまいます。

「そんな細かいこと知らないってw」と思うなかれ。実は、このクロムウェルの態度は17世紀イギリス史を研究している人間が読む基本の概説書にはきちんと載っています。ですから、おそらくこの設問を作成した先生はすぐにこうした点に違和感を持つと思います。

脱線ついでに書いておくと、独裁者のイメージが強いクロムウェルですが、この独裁自体もクロムウェルが望んだ形ではなかったようです。国王を殺害してしまった議会派でしたが、慣れない「共和政」なる政体に完全に戸惑ってしまい、意見がまとまりません。かれらは、自ら政策を立案決定などしたことがなかったので、それを任された時に途方に暮れてしまいます。何だかこのあたり、突然政権を担当することになった万年野党のようですね。そこで議会は強力なリーダーシップを持つ指導者を待望するようになります。そして議会は、あろうことかクロムウェルに「どうか僕たちの国王陛下になってください!」とお願いをします。せっかく苦労して王政を打倒したにもかかわらず、です。

これには、クロムウェルの方が面食らってしまいます。厳格なピューリタンで清貧と節制を良しとしたクロムウェルは、この要請を断ります。当然ですねw 自分で国王を殺しておいて自分が国王になってしまったら全く自己を正当化することができません。完全な簒奪者、弑逆者になってしまいます。まるでシェイクスピアのリチャード3世みたいな立ち位置になることはクロムウェルの本意ではありません。ところが、あきらめきれない議会は「それなら、国王陛下ではなくて、国を守るために僕らを導くリーダーになってください!」と要請します。これはさすがにクロムウェルも断るわけにはいかず、承諾します。これが「護国卿(Lord Protector)」というあの地位です。

ですから、クロムウェルの独裁というのは、絶対王政における国王による統治とは異なりますし、ヒトラー的な強権による独裁とも全く異なります。たしかに、クロムウェルは軍を握り強力なカリスマを持ってはいましたが、その権力は議会からの委任とその後の調停役としての力量によるものであって、彼自身が何でも自由にすることができた、というのとは根本的に違うのです。ですから、彼自身が望まなかった航海法が制定されたというのも、そうしたコンテクストの中で考える必要があります。このあたりのやや突っ込んだイギリス史の概説が読みたいという時には、色々な本がありますが、私のお勧めは17世紀についてはBarry Coward, The Stuart Age: England 1603-1714 (London: Longman, 2003)17世紀末から19世紀初頭についてはFrank OGorman, The Long Eighteenth Century: British Political & Social History 1688-1832 (London, Hodder Arnold, 1997)18世紀史を中心としてはH.T. Dickinson(ed.), A Companion to Eighteenth-Century Britain (Oxford, Blackwell, 2002)あたりがしっかりしていて面白いと思います。

 

だいぶ話がそれましたw 問題なのは廃止の理由ですね。これについては、かねてからお話ししていた19世紀初頭のイギリスの自由貿易体制、自由主義外交の動きをしっかり頭に入れてあるかがカギになります。すでに、当ブログの「あると便利なテーマ史③:近現代経済学の変遷」の「ここがポイント」のところで詳しく説明してありますし、一橋の問題解説の方でも似たようなことをお話しした記憶があります。

http://history-link-bottega.com/archives/cat_216372.html

 イギリスでは産業革命の進展に伴い、産業資本家が台頭してきます。その中で、既存の特権を持った集団との軋轢が生まれてくるわけです。

 
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  ですが、産業資本家は選挙法改正前には選挙権は持っていません。(昔、この時期について指摘して「19世紀の議会においては貴族などの旧来の支配階層による寡頭制は崩された」とする説を、図表などを駆使して批判せよ、という設問が慶応で出ましたねぇ。記憶曖昧ですが、たしか1994年でしたか。「ジェントルマン資本主義」論が流行ってたからですかね。)ですが、彼らは「圧力団体(Pressure Group)」として議会に対して効果的なロビー活動を行うことは可能でした。こうした中で、産業資本家が要求する自由貿易主義論が高まっていきますし、選挙法改正も達成されるわけです。産業資本家に選挙権がないからと言って議会に対して無力であったなら、いつまでたっても選挙法が改正されるわけがありませんからねw ですから、航海法廃止の理由も、基本の路線は「産業革命→産業資本家の台頭→自由貿易要求の高まり」で良いと思います。この動きに当時の穀物法廃止運動をからめて、選挙法改正による産業資本家の選挙権獲得がこうした自由貿易への動きを加速したとしておけばまずまずの解答が仕上がるでしょう。まとめると、以下のようになります。

 

2、廃止の理由

 産業資本家の台頭と自由貿易要求の高まり

(関連事項)

  産業資本家台頭の背景:産業革命

  自由貿易要求の背景:長年の保護貿易による物価高騰に対する労働者、産業資本家の反感

  廃止の時期:1849年、ラッセル内閣(ホイッグ党)の時

  政治的関連:19世紀初頭ヨーロッパの自由主義の波、第1回選挙法改正(1832

  経済的関連:反穀物法同盟(1838結成)、コブデン・ブライト、穀物法廃止

 

【解答例】

 オランダと海上交易の覇権を争っていた貿易商の要請を受け、クロムウェル統治下の議会はイギリスへの輸入をイギリス船または原産国の船に限定する航海法を制定し、オランダの中継貿易を妨害する重商主義政策を展開した。その後の英蘭戦争に勝利し海洋覇権を握ったイギリスであったが、産業革命による工業化が進み産業資本家が台頭すると、長年の保護貿易による物価高騰に対する不満から自由貿易要求が高まった。第1回選挙法改正により産業資本家にまで選挙権が拡大されると運動は勢いを増し、コブデンやブライトが攻撃した穀物法とともに航海法も自由貿易の障害と批判され、1849年に航海法が廃止されたことでイギリスでは自由貿易体制が確立した。(300字)

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先日、Cannadine’Ornamentalism’についてのお話をしましたので、今回はいわゆる「想像の共同体(Imagined Community)」についてのお話をしたいと思います。歴史学の世界ではこれもずいぶん以前に提示されたものでありながら、依然としてその価値を失わず、様々な分野の研究にインスピレーションを与えている概念です。今では、大学生くらいなら普通にご存じなのでしょうが、高校生くらいだと「ほにゃ?」となる概念なのかなぁと思います。1983年にベネディクト・アンダーソンが出した『想像の共同体』がこれについて語る代表的な著作ですが、「国民」や「ナショナリズム」が人々の想像による産物であるという考え方自体は、これ以前にもアーネスト・ゲルナーなどによっても指摘されています。今回は、この「想像の共同体」がどういったもの(または概念)であるのかということと、それがどのようにネイションまたはナショナリズム等と関係しているのかということについてご紹介したいと思います。

 

1、「想像の共同体」とは何か

想像の共同体とは、アンダーソンがそれまでの研究では十分に検証されていないと感じていた「ナショナリズム」が成立した背景を考察するにあたり考え出した概念です。要は、ネイションとは人々が心の中で想像することによって初めて成立した政治的共同体である、とする考え方です。アンダーソン自身は、これをその著作の序文で「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(Imagined Political Community)である」としています。(ベネディクト=アンダーソン著、白石隆・白石さや訳『定本 想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』書籍工房早山、2007年)

 

2、一定の規模を持った共同体の被想像性

 アンダーソンは、同じく同書序文の中で「原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものなのである。」と述べます。これは、アンダーソン自身が述べているように、本質的にはゲルナーが述べた「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ」という論と同じものです。

 すこし分かりづらいかと思いますので説明しますと、ある町、ある地方、ある国といった「共同体」が存在するときに、そこに所属するある人物は、「同じ共同体」に所属する全ての人を見知っているわけではありません。また、彼らがどのような人物で、どのように物を考え、どのような社会背景を持っているかも知らない人々が大半のはずです。そもそも、「同じ」町、「同じ」地方、「同じ」国といった場合に、その境界や内容というものは多くの場合曖昧なことが多いです。にもかかわらず、人間は自分と同じ町、同じ地方、同じ国に住んでいる人々が「同じ共同体」に属していると「想像」し、場合によっては自分と類似した属性を持っていると「想像」します。このように、実際には実体として存在していないにも関わらず、人々が「想像」することによって「創られた」共同体をアンダーソンは「想像の共同体」と呼んでいるわけです。

ゲルナーは上述の通り「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。」と述べたわけですが、仮に、ナショナリズムが「国民の自意識の覚醒」であったとした場合、そこには自意識を覚醒させる主体としての「国民」がすでに前提として存在していなければなりません。はじめから存在している「国民」が「あ、そうか、自分たちは○○人なんだ」と気付くのであればそれは「国民の自意識の覚醒」ということになります。ですが、そうではないのですね。そもそもそこにははじめから「国民」は存在していないのであって、存在していない主体が「覚醒」をすることはできません。ですから、ナショナリズムが生まれるときには、もともと存在していなかった「国民」を「発明」するところから始めなくてはいけません。こうした点において、アンダーソンの「想像の共同体」とゲルナーの意見は同一の内容を示していると言えるわけです。

 

3、「国民」が想像されるときの3つの特性

 アンダーソンは、以上の議論を展開した上で、人々によって想像された「国民」には以下の3つの特性があると主張します。

 

①    国民は限られたものとして想像される。

:どれほど大きな共同体であっても、共同体である以上は必然的に「自己」と「他者」を区別する性質を持つ、ということです。「自分の町」と「別の町」、「自分の国」と「他の国」という形で。

 

②    国民は主権的なものとして想像される。

:アンダーソンは、この理由を「国民」という意識が形成された時期が、「啓蒙主義と革命が神授のヒエラルキー的王朝秩序の正当性を破壊した時代」であったことに帰しています。「主権」とは「他国の意思に左右されず、自らの意思で国民および領土を統治する権利」のことです。つまり、「神」や「王権」という価値観が揺らぎ始めた時期に生じた「国民」はその性質として他者から自由であることを追求し、その結果「国民」はみずからのことをみずからで決定することを当然とする性質を有することになります。

 

③    国民は一つの共同体として想像される。

:仮に、実体としての集団の内部に搾取や不平等などが存在していたとしても、同一の「国民」は「常に、水平的な深い同士愛」として想像される。

 

このような特性を考えれば、ナショナリズムが歴史の中で果たした役割やそれが持つ傾向をよりよく理解し、把握することが可能になります。ナショナリズムはなぜ、自分とは異なる「他者」と敵対する傾向を持ったのか。また、国民国家が形成された19世紀から20世紀にかけて、国家の中において「国民」と見なされなかったマイノリティがなぜ排斥されたのかといったことを、です。

 

さて、アンダーソンの『想像の共同体』では、彼のいう想像の共同体がどのようにして形成されたのかが、その起源について考察するところから始まり、事細かに描かれ、さらに「公定ナショナリズム」‐この著作では「国民と王朝帝国の意図的合同」と表現されていますが‐と帝国主義の関係など、様々な側面について考察が深められていきます。本当は、そうした部分をじっくり読み進めていくことが一番面白いのですが、ここでそれをやっているとキリがないですし、高校世界史で理解すべき内容よりはるか先までいってしまうので控えておきます。ただ、アンダーソンが提示するこの「公定ナショナリズム」、つまり領域の支配者によって意図的に誘導・形成されるナショナリズムという考え方は面白いですし、いろいろなことに応用がききますよね。彼は一つの例としてハプスブルク帝国を例にとっていますが(※彼はこの中で、ハプスブルク家をはじめとするヨーロッパの多くの君主の正統性が「国民的なること[ナショナルネス]」とは無縁のことであったことから、19世紀に国民主義[ナショナリズム]運動が高揚してその支配領域が分裂の危機に瀕したときに、権力を維持するため意図的に「普遍・帝国的な要素」と「特殊・国民的な要素」の統合を図ったとしています)、こうした要素はハプスブルク帝国と同じく複合民族国家であったオスマン帝国末期のアブデュル=ハミト2世が展開したパン=イスラーム主義にも共通の要素を見て取ることができます。続く文章は、岩波の『世界史史料』の中にある、アブデュル=ハミト2世が書いた『政治的回顧録』の中でスンナ派とシーア派について書かれているくだりです。

 

イスラーム主義の本質を考えるとき、われわれは結束を強化すべきである。中国、インド、アフリカの中央部をはじめ、全世界のムスリムたちはお互いに密接な関係になることに有効性がある。このような時に、イランとの相互理解がなされていない事態は残念なことである。それゆえ、ロシアおよび英国にもてあそばれないように、イランはわれわれに接近することが重要である。

わがユルドゥズ宮殿で知識ある人として高名なセイド=ジェマレッディンは「スンナ派とシーア派は、誠実さを示すことによって統一は可能である」と私に進言して希望を持たせてくれた。もしこの言葉が実現すればイスラーム主義にとって崇高な状態をもたらすだろう。

 

アブデュル=ハミト2世はミドハト憲法停止後、自身が専制政治を展開していく中で、その権力の維持と帝国の統一性を保つ拠り所としてパン=イスラーム主義を利用しようとするわけですね。彼がアフガーニーをイスタンブルへ招聘するのはこのような文脈の中で理解することができます。また、パン=イスラミズムが皇帝専制の道具として利用されていると喝破したからこそ、トルコの改革派はパン=イスラミズムに見切りをつけてむしろパン=トルコ主義などへと傾斜していくことになるわけです。このあたりのテーマは、トルコの政治的変遷と結びつけてもよし、イスラームの改革運動と結びつけてもよし、非常に奥深い部分ですよね。 


 Sultan_Abdul_Hamid_II_of_the_Ottoman_Empire

“Le_Rire”,_Number_134,_May_29,_Paris,_1897

アブデュル=ハミト2世の写真と、『ル=リール』誌に描かれたアブデュル=ハミト2

Wikipedia

 

 いずれにしても、アンダーソンが提示した「想像の共同体」論のように、これまで実体があるかのように語られてきたものには、実は実体のない(かといって現実世界に影響を及ぼさないということではなく、むしろ大きな影響力を持ちうる)、創られた存在や概念というものがあるのではないか、という議論はここ数十年ほど歴史学界が関心を向けてきたテーマでもあります。同じような議論として、ホブズボームの『創られた伝統』などがありますし、以前ちらっとお話ししたキャナダインの『オーナメンタリズム』も「想像の共同体」論の延長線上にありますね。もちろん、これらの話は直接大学の世界史受験に出題されるような内容のものではありませんが、これらの著作で示されている歴史の見方や考え方を理解すると、東大をはじめとする難関校がなぜテーマの一つとしてナショナリズムや民族意識という側面を重視するのかということを知る一助になるかと思います。

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慶応大学経済学部「世界史」2017年(解答とポイント)

 

 体調を崩してしまいまして更新が遅れてしまいましたが、慶応の経済学部の解答とポイントが用意できました。慶応経済は毎度のことながら解きごたえのある良い問題を作りますね…。ただ、今回はグラフや数表の読み取りよりも史料問題の方に秀逸な問題が多かったように思います。問題は各予備校からDLできると思いますので、そちらを参照して下さい。(慶応の問題概要を示すと、問題の比重が大きくなりすぎて、解き方や考え方を示すという趣旨から外れると判断しましたので割愛します。) 

 一度に表を載せると長くなりすぎますので、5題ずつ紹介します。(表の見方はこれまでと同じく、水色:基本問題、白:標準問題、ピンク:やや難、黄色:難しい、としていますが、これも完全に私の主観です)

 

(問1~問5)

 問1-5


・問2

 慶応の論述では与えられた解答欄に従って論述するというスタイルがとられています。ですから、問題を見ただけでは何字程度なのか判断ができませんが、予備校の解答を見る限りでは問2については100字程度かと思われます。

問2の論述は基本的なものでしたが、二つの点から注意が必要かと思います。

・通常、指定語一つにつき何か追加情報をつければそれは加点要素になることが多いのですが、この設問ではむしろ指定語同士が密接に関係しているので、単純に追加情報を足しただけでは加点されない可能性があります。(指定語は正統主義、1848革命、ナショナリズム、ナポレオン、ロシア)

・設問の設定がアバウトな上に、指定語だけ見ると1815年前後から1848年までがすっぽり抜けている印象がありますので、そこをどう処理するかが問題になると思います。

 

以上のことから私が最初にまとめるとすれば以下のような内容だと思います。

 

・ナポレオンによりヨーロッパ各地にフランス革命の自由・平等という理念が広まったこと

・ナポレオン支配の中で、各地にナショナリズムが高揚したこと

・ナポレオン没落後のウィーン体制では正統主義・勢力均衡といった原則が確認されたこと

・正統主義の内容=フランス革命以前の反動的な国際秩序に戻り、フランスではブルボン朝がルイ18世のもとで復活したこと。

・ウィーン体制成立後まもなく、各地でナショナリズム・自由主義に基づいた運動がたかまり、これを体制側が四国同盟を中心に抑圧したこと。

・上記の運動を積極的に弾圧したロシアがヨーロッパの憲兵と呼ばれたこと。

・一方で、イギリスの四国同盟からの離脱などにより、ウィーン体制にほころびが見られたこと。

・最終的には1848年革命によってフランスで共和政が成立し、オーストリアではメッテルニヒが亡命したことによってウィーン体制が崩壊したこと。

 

指定語を意識しながらさっとまとめた内容が以上のようになります。これらの内容を出してみた上で本設問を解くポイントだなと感じるのは以下の通りです。

①    基本は正統主義が覆されるまでの過程を描く。

:つまり、勢力均衡より、正統主義に焦点を当てた方がよさそうだということです。見方によっては勢力均衡が完全に崩れたクリミア戦争をもってウィーン体制の完全な終焉とする場合もあるにはあるのですが、指定後を見る限りではそうした視点は要求されていません。やはり、ウィーン体制で成立した反動的体制が自由主義・ナショナリズムの動きから覆ったという路線が本筋でしょう。ですから、1848年革命をウィーン体制の終焉とし、この扱いをナショナリズムと結びつけると字数的には処理がうまくいきます。

②    ロシアの使い方

:そうすると、ロシアの役割もウィーン体制の守り手としての役割がクローズアップされます。だとすれば、ロシアについては実質的な役割を果たさなかった神聖同盟について言及するよりも「ヨーロッパの憲兵」としてのロシアの方が重要度は上でしょう。

③    1820年代、1830年代をどう埋めるか

:ウィーン体制崩壊の「経緯」(設問通り)というわけですから、いきなり結果というよりも途中経過ある方が良いと思うのですが、結局このあたりはナショナリズム・自由主義の抑圧や、強国の出現防止などで埋めるしかないですね…。

 

解答例については、代ゼミのものしかまだ見ていませんがよくできていると思います。

 

(問6~問10) 


 問6-10


  

(問11~問15)


 問11-15


・問13

 この設問は難しいですね。カンボジアの歴史的展開をきちんと覚えている人は慶応経済の受験生でも少数派ではないでしょうか。しかも、その中でのシハヌークの立ち位置というのはかなり微妙(一時期ポル=ポトに担がれて実権のない国家元首にすえられたりしています)ですので、書くのはなかなか難しい。

 

ざっとあげるとすれば、

・米の支援を受けたロン=ノル政権によるシハヌーク追放

・赤色クメール(クメール=ルージュ)と結びついたシハヌークの反撃

・ロン=ノル政権の打倒と中国の支援を受けたポル=ポト政権の樹立、民主カンプチア建国

・ポル=ポトの極端な共産主義政策

・ベトナムの介入によるポル=ポト政権打倒とヘン=サムリン政権樹立

・中越戦争(1979

・反ベトナムでまとまった三派連合とヘン=サムリン政権との内戦(1980s

・パリ和平協定(1991

UNTACによる活動(1992

・カンボジア王国の成立とシハヌークの即位(1993

 

こうした流れでしょうか。この流れを150字でまとめるだけですから、作業としては問2よりも難しくないのですが、内容をひねり出すのが大変ですね。また、設問の「内戦の経緯」について書きなさいという指定も難しい。権力や新しく成立する国の変遷と、それらがどのような勢力と結びついていたかを示す必要があると思います。150字程度で書くにはなかなかハードルが高いですね。

 

(問16~問20)

問16-20

 

・問17(2)‐C

 この設問もエグイですね。天津条約中で開港されている10港すべてを覚えている人はそうはいないと思います。ただ、実は設問自体にかなりのヒントも含まれています。それは「(X)上流では」という史料中の言葉です。この言葉に従えば、(C)の港は川の上流ということになりますので、5678のほぼ4択ですw

 また、イギリスの勢力圏が長江流域であるということはそう難しい知識ではないと思いますので、これを合わせて長江上流の港ということになれば、58しかありません。ここまでくれば、天津条約で開港された港の中に「漢口」があったと思い出す人がそれなりの数はいるかもしれません。条約の内容を微に入り細を穿つように覚えているかどうかということではなく、視覚的な理解と、史料中から読み取れる情報を整理する総合力が要求される問題かと思います。

 

全体的には、テーマに多少偏りがあるものの、よく練られた良問だと思います。でも、相変わらず難しいですねw

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(記事に誤りがありましたので、訂正いたしました。[2017.2.16、訂正箇所:大問Ⅰ、設問1] ご指摘ありがとうございました!)


 次々に出てきましたので、とりあえず早稲田の文構について解いてみました。理屈は抜きにして大問ごとの表をお見せした上で、注意すべき点と萌えた点について述べていきたいと思います。色分けは同志社の時と同じく、水色:基本問題、白:標準問題、ピンク:やや難、黄色:難しい、としています。問題文自体は各予備校HPなどからDL可能ですので、そちらをご参照ください。(早稲田の問題については、問題概要を示すとその比重が大きくなりすぎ、「解き方」や「考え方」を示すという趣旨から外れると判断しましたので割愛します)

 

(大問Ⅰ・Ⅱ)

早稲田文化構想2017-1.2


 やっちゃいましたね。初っ端から飛ばしてしまいましたよ。いきなり第一問からミスってしまいました(汗) 最初この「ハンムラビ法典碑には( A )神を崇拝するハンムラビ王の姿」が描かれているとあるAには「太陽神シャマシュ」から「シャマシュ神」が入るものだと思って、ずいぶん難しい問題をだすものだなぁと思っていたのですが、お読みいただいている方からご指摘をいただいた通り、「インカ文明でも王は( A )の子と考えられていた」とありますので、( A )に入るのは「太陽」で良いのですね。すみません、昨日のうちにご覧いただいた方にはご迷惑をおかけしてしまいました。訂正いたします。(表の方も合わせて基本問題[水色]に訂正いたします)
 
個人で急ぎで作っておりますので、他にももしかするとミス等あるかもしれませんが、ご容赦いただければと思います。基本HANDは信用がならない。」とお考えいただいて、過度のご期待をされないくらいで丁度良いかと思いますw
 

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Wikipedia

 

ところで、問題に出てくるハンムラビ法典が上の写真です。この碑文が置かれていたのはバビロンのマルドゥク神殿(後に奪われるので発見地はスサです)なのですが、レリーフに描かれているのは正確には太陽神シャマシュです。授業では一応写真示しつつ名前も毎回伝えているのですが、さすがに覚えている人の方が少ないでしょうねぇ。

 大問1で難しいなと感じた問題は設問5の「天子」に関する問題ですね。引っかかって始皇帝選んでしまう人が続出しそうです。一応、用語集にはちゃんと出ています。周代の周公旦(武王の弟)あたりの思想から発展して使われるようになったようですが、当然そんなことを知っている人はいないでしょう。『詳説世界史研究』もどちらかというと話の流れを重視しますので、サッと見た限りでは触れていませんね。私は「ああ、西周かな」と何となく気づきましたが、それも勉強で気づいたというよりは最近読んでいる『達人伝』という戦国時代末期をテーマにしたマンガに周王朝の末裔が出てきて、それが「天子」呼ばわりされているから「ああ、そういえばw」みたいな形で気づきましたw 

 ただ、難しいのはこの1問だけで、あとの問題は早稲田としては基本問題でしょう。

 

(大問3・4)

早稲田文化構想2017-3.4
 特に注意すべきものはありません。どちらかというと大問3のイスラーム史の方が難しかったかなという印象があります。誤文選択や正文選択は消去法で解こうとするとかえって難しいですね。むしろ、「あ、これだ!」といきなり確定させることができた方が簡単だと思います。ガザーリーがニザーミーヤ学院の教授職にあったというのなんかは有名な話ですし。ただ、カーディーは用語を書かせる問題としてはやや難しいでしょうか。

 

(大問5・6・7)

後半は手ごたえがありましたね。特に、大問の5はしっかりとした知識がないと正解にたどり着けない問題が多く、この設問でかなり差が付きそうです。正答を導くためのヒントは表の方に示しておきましたので参考にしてください。それに対して大問の6は地図を使っての出題の分、設問の内容自体は基礎的なものが多かったように感じました。

早稲田文化構想2017-5

早稲田文化構想2017-6

早稲田文化構想2017-7

文化構想らしさが出たのは大問7ですね。

これは萌えますねw

 全然世界史の受験勉強とは関係のないところから問題を出してきましたw これは何ですか「受験勉強にばかり一生懸命で、他の世界に関心が向かない人間は文化構想では減点対象だー!」とでもいうつもりなんでしょうかw たしかにまぁ、西美(国立西洋美術館)は世界遺産登録されましたから、時事問題と言えば時事問題なんですけど、私みたいに世界遺産嫌い(全てというわけではなく、特に文化遺産については、何でもかんでも遺産だ保護だというのは嫌いですw 自然に時の中で朽ちていく美しさも含めて遺産だというのに)は一体どうしたらいいというのでしょうw

 ただ、それでも設問1~3については、少しでも美術に興味のある人にとってはある意味常識の範疇だと思います。文構目指そうという受験生であれば美術好きな人も多そうですし、案外解けるのではないでしょうか。難しいのは設問4ですね。これは知識では正直解けません。私も知りませんでした。でも、解けました。なぜか。

 実は、この設問文章の雰囲気と、提示された絵と、美術的な知識(ほんのちょっぴり)があればそれで判断できる設問になっているんですね。ある意味、国語的というか、美術的というか、総合的な問題です。

 

 まず、文章を見てみますと、マティスについては「絵画を現実世界の再現という伝統的役割から解放した」人物であり、「実際に見える色にとらわれない自由な色彩を用い」る作風であると書かれた上で、下の「赤の調和」という絵画が示されています。


 red

マティス「赤の調和」

 

こうした文章と絵を見た上で、選択肢を検討してみましょう。

 

ア:イスラーム美術の装飾性が認められる。

イ:フェルメールの細密な描写が指摘できる。

ウ:印象派風の室内風景

エ:ルネサンス絵画の遠近法

 

これらア~エから選ぶとすれば、私はやはりアを選びます。まず、イについて検討しますと、フェルメールの絵とは似ても似つきませんし、マティスの絵からは単純化された線の大胆さは感じますが「繊細さ」は感じません。フェルメールは以下の絵などです。


 uy

フェルメール「真珠の耳飾りの少女」

800px-Jan_Vermeer_van_Delft_009

フェルメール「地理学者」

 
 また、ウについて考えますと、そもそもマティスは「絵画を現実世界の再現という伝統的役割から解放した」人物なのですから、「印象派風の室内風景」では何だか説明とあわない気がします。ついでに言えば印象派って光を大切にしますから戸外制作多いんですよね。下は印象派のひとりルノアールの「二人の姉妹」です。
 


 800px-Renoir,_Pierre-Auguste_-_The_Two_Sisters,_On_the_Terrace

ルノアール「二人の姉妹」

 

 さらに、エについてですが、うーん、遠近法って感じではないですよねぇ。下はマサッチオの「貢の銭」ですが、初期のルネサンス遠近法を取り入れた代表作です。


 1280px-Masaccio7

マサッチオ「貢の銭」

 

とまぁ、こんな感じで文章と絵画の雰囲気を検討していくんです。そうすると、「ああ、多分これは当てはまらないな」という形で消去できる選択肢が出てくる、という形でも解けます。知識がなくても正解にたどり着ける問題の好例ですね。

 同じように、図2のピカソの絵も検討してみましょう。下がピカソの「アビニヨンの娘たち」です。


 アビニョン

ピカソ「アビニヨンの娘たち」

選択肢は以下の通りです。

 

ア:アフリカ美術の影響が認められる。

イ:レンブラントの明暗法が指摘できる。

ウ:ギリシャ彫刻を思わせる人物像が見出せる。

エ:バロック美術の空間処理が見出せる。

 

…アやな。アやw まず、レンブラントは違う。レンブラントと言えば代表作は「夜警」ですが、下の絵です。全然似てませんw 


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レンブラント「夜警」

 

次に、ウについてですが、ギリシャ彫刻のような均整の取れた人物像とはかけ離れた姿をしています。最後にエですが、バロック美術はルネサンスと比べて調和・均衡が破れたとはいえ、まだまだ構図はしっかりとしています。上に出てきたレンブラントもバロックの人ですよ。

 ということで、総合すればやはりアが答えになるということです。「知識がないからできない」ではなく設問のヒントをじっくりと検討すると解ける場合もあるということには注意しておいた方がイザというときに道を開いてくれたりします。あきらめないって大切です。

 

 それにしても、答え出す時間、代ゼミに負けちゃいましたね…。昨夜のうちには解いてあったのですが、ブログに載せる体裁を整えているとさすがに時間かかっちゃいますねw



 

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2015年 東京外国語大学「世界史」解説

記述問題概要

2015年の各記述問題(小問)概要は以下の表の通りです。

2015東京外語大学小問一覧
 

印象としては、この年の小問は比較的難しい(または答えにくい)内容が多かったように思います。大問1では問6、大問2では問1・問5あたりは答えられない受験生が多かったかもしれません。以下、注意すべき点について解説していきます。

 

(大問1、問1)

まず、大問1の問1ですが、史料読解問題になっています。本文(史料)中に空欄()が配置されており、これについて様々なヒントが示された上で、()に入る国名を答えなさい、というものです。史料全てを掲載するのは煩雑ですので、そちらは赤本なりを参照していただくとして、本設問を解くにあたり重要なヒントを示したいと思います。

 

ヒント1:史料から読み取れるヒント

では、奴隷貿易が存続しており、英国の反対にもかかわらず、それを継続しようとしている。

で奴隷貿易が存続している原因は、原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる勤勉な人々、人口が不足しているからである。

 

ヒント2:設問から読み取れるヒント

1822年にポルトガルから独立したラテンアメリカのある国である。

・イギリスはの独立を承認する代わりに、に奴隷貿易を廃止させようとして1826年に奴隷貿易禁止条約を締結したが、条約は死文化して、では1850年代まで奴隷貿易が存続した。(大問1の問1より)

の皇帝はペドロ1世である。(大問1の問2より)

 

本設問で決定的なのはまず、ラテンアメリカに存在したポルトガルの植民地という部分です。これだけで「ブラジル」という答えを導くことは可能です。また「君主国」であり、その皇帝が「ペドロ1世」であるということからも情報を確定することができます。もちろん、ラテンアメリカで奴隷制が続いていて、サトウキビなどの栽培が行われているという情報からでもある程度は答えを導くことが可能ですが、完全に答えを確定させるには固有名詞や個別の事実に依拠する方が確実でしょう。

 

ブラジルは元々ブラガンサ朝ポルトガルの植民地でしたが、ナポレオン戦争にイベリア半島が巻き込まれた結果、当時のポルトガル宮廷は植民地であるブラジルのリオデジャネイロに一時避難します。この街は、18世紀の前半に内陸部で金が発見されたことから金採掘のための拠点都市として急速に発展した街です。

 

宮廷が移転したことで、イベリア半島からやってきた本国ポルトガル人とブラジル人との間で次第に確執が生じます。また、この宮廷の避難やその後のイベリア半島の奪回などにイギリスが深くかかわっていたことなどからポルトガルやブラジルではイギリスへの経済的従属が進みます。さらに、宮廷がリオに遷ったことでポルトガルブラジル間の関係が微妙なものになります。「本国植民地」の関係が「植民地本国」へと変化してしまったのです。

 

こうした変化に対する不満からポルトガルで自由主義革命(1820)が起こると、革命政権は国の秩序を回復するためにリオのポルトガル王家にポルトガルへの帰還を要請し、宮廷はこれに応えてポルトガルへと戻りますが、帰国したのは国王ジョアン6世とその近臣たちで、皇太子ペドロはリオに残されました。しかし、その後「本国」の立場に復帰したポルトガルは、ブラジルを再度「植民地」の立場へと追いやる施策を続けたため、これに不満を感じたブラジル人たちは残されたペドロを担ぎ出し、ポルトガルから独立します(1822)。

 

 だからと言って、ペドロとポルトガル王室の関係が極端に険悪になった、というわけではなかったようです。このことは、父ジョアン6世が死んだ際にペドロが一時的にではありますがポルトガル王(ペドロ4世)として即位したことからもうかがえます(1826)。ペドロ自身はブラジルがポルトガルから独立したとはいえ、対等な関係での「同君連合」を取り結び、その王に父王ジョアンがつくことを想定していたようです。しかし、ブラジルのクリオーリョたちにその意思はなかったため、最終的にはペドロ自身がブラジルの「皇帝(ペドロ1世)」として即位する立憲君主国が成立しました(1824)。

 

(大問1、問6

奴隷貿易にたずさわった黒人王国としてよく出てくるのはベニン王国ですが、用語集や『詳説世界史研究』あたりだとアシャンティ王国やダホメ王国も出てきます。名前は知っている受験生も位置関係を視覚的に把握している受験生は少ないのではないでしょうか。これらの国々のおおまかな位置関係は以下のようになります。


黒人王国
 

 

念のためおことわりしておきますと、ものすごくアバウトな位置関係になります。特にベニン王国はひどいですねw ベニン王国はニジェール川の下流西岸一帯くらいで考えておくと良いかと思います。いずれにしても、

 

ベニン王国=ニジェール川下流(現ナイジェリア)

ダホメ王国=現ベナン共和国

アシャンティ王国=現ガーナ共和国

 

という位置関係になっています。どこも奴隷貿易で栄えた国ですが、ベニン王国の繁栄が早く15世紀末以降であるのに対し、18世紀に入るとベニン王国にかわりダホメ王国やアシャンティ王国が勢力をのばします。

最近はこれとは別に内陸にあったブガンダ王国(現ウガンダ)なども用語集の中には見られますね。

 

(大問1、問7)

クックですが、以下の二人がいることに注意して下さい。

・ジェームズ=クック

18世紀イギリスの航海者。ベーリング海峡からニュージーランドを探検し、ハワイで先住民に殺害された。

・トマス(トーマス)=クック

19世紀イギリスの旅行業者。ロンドン万博(1851)にちなんで国内の夜行列車や乗合馬車を利用したツアー旅行を計画、成功させた。その後はパリ万博(1855)、スエズ運河開通などを機とする海外旅行も計画。今でも彼にちなむトーマス=クック=グループという旅行者は存在する。

 

(大問2、問1)

津田梅子は日本史の設問としては平易ですが、世界史の設問としては少々厳しいです。ですが、津田塾大学(旧女子英字塾)の創始者、日本の女子教育の先駆者として常識の範疇といえば確かにその通りですし、「明治期の女子教育の先駆者」ということになれば他に浮かぶ名前もないということで、書けた受験生も案外多かったのではないでしょうか。

 

(大問2、問5)

イプセンをおさえている人はそう多くないのではないでしょうか。「近代演劇の父」と呼ばれる人ですが、世界史で出てくるのはノルウェー出身の人物であるということと『人形の家』の作者であることだけです。『人形の家』は、夫である弁護士の示す愛情は表面的で上っ面のものであることを薄々感じつつも平穏に日々を過ごす妻が、ある事件をきっかけに自分に対する態度を豹変させた夫を見て(社会的地位が脅かされると感じた夫がそれまで寵愛していた妻をなじり始める)、自分を一個の人間として見ず、可愛い「人形」としてしか見ていない夫に絶望して家を出るという物語です。こうした物語の内容もありますので、北欧史や女性史に関連する設問ではわりに出題しやすい人物であると言えるでしょう。

 

論述問題解説

【大問1、問9】

(設問概要)

・カニングが史料[A]において、(ブラジル)の独立を認めようとしつつ、ブラジルが行っている奴隷貿易の廃止を訴えた理由を400字で説明せよ。その際、ウィーン体制発足後の国際関係についても言及せよ。

・指定語句

:メッテルニヒ / モンロー / 安価な労働力 / 1807 / 工業製品

 

(条件・前提・与えられている材料)

1822年にポルトガルから独立を宣言したある国(    )[設問1でブラジルとわかる]について言及した3つの史料(の独立承認をめぐるカニングの覚え書きの一部、に立ち寄ったビーグル号船長フィッツロイの航海記、同じく、に立ち寄ったダーウィンの航海記)が示される。

・イギリスは人道主義だけでなく経済的な利害関心から、特に砂糖生産をめぐる国際競争の観点からポルトガルに奴隷制度を廃止させようとした点が設問で示されている。

・以下のグラフが示された上で、ブラジルの砂糖輸出が拡大する一方で英領西インド諸島の砂糖生産が衰退傾向にあったことが設問内で説明される。

 
砂糖輸出

 

[A]-[C]の史料と設問1~8を参考にせよ。

・アラビア数字、アルファベットは1マスに2文字ずつとする。

・指定語句を使用した箇所全てに下線を付すこと

 

(史料)

史料については解説の都合上必要な部分、注意すべき部分のみ抜粋します。

 

[史料A:A. G. Stapleton, The Political Life of the Right Honourable George Canning, 1831. およびLeslie Bethell, The Abolition of the ******Slave Trade, 1970]

※  ちなみに、設問には「表題を一部伏せた」という注がつけられていますが、これは何も差別用語や放送禁止用語がつかわれているからというわけではなく、******の部分に’Brazilian’の語が入るためですw 表記すると答えがばれちゃうのですねw

※  史料中、( )で略、中略とされているのは私が省略した部分、[ ]で略されているのは設問の段階で省略されていた部分です。

 

ブラジルは合法的奴隷貿易の一大中心地です。(中略)しかし、諸々の事情により、奴隷貿易全廃の可能性が見えてきました。(中略)それは、イギリスの決断がブラジル独立の成否を左右すると考えられるからです。しかし、もし、われわれが判断を遅らせ、オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら、あるいは、フランスが奴隷貿易の存続を支持し、それを支援することになったら、イギリスが独立を認めるかわりに、ブラジルは奴隷貿易を廃止するという我々の提案は時宜を失ってしまいます。[中略]③西インド植民地を救う方法は、奴隷貿易を全廃することであり、それはブラジルに奴隷貿易を廃止させることによってしか達成できないのです。

 

[史料B:Robert FitzRoy, Narrative of the Surveying Voyages of his Majesty’s Ships Adventure and Beagle, 1839.]

 (略)ブラジルにおいて奴隷制度が存続しているのは、人口が不足しているからです。もちろん、それだけが奴隷制度の原因というわけではありませんが、やはり原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる、勤勉な人々が不足しているのです。

 人口不足を解消するのは非常に困難なため、ブラジルなどでは、自分のことしか考えない、行き当たりばったりの大地主が、不運にみまわれた人々を、何百人、何千人と連行してくるのです。(略)

 

[史料C:Charles Darwin, Journal of Researches into the Natural History and Geology of the Countries visited during the Voyage of H.M.S. Beagle round the World, 2nd ed., 1845.]

 (省略)

 

(採点基準と解説)

・本設問で要求されていることを整理します。本設問での要求は「カニングがブラジル独立を認める一方で、ブラジルの奴隷貿易廃止を訴えた理由を説明すること」、「ウィーン体制発足後の国際体制に言及すること」、「指定語句としてメッテルニヒ / モンロー / 安価な労働力 / 1807 / 工業製品」を用いることの3点です。(あと、指定語句に下線を忘れないように)

 

・まず、本設問を解く上でスッキリさせておきたいのは、=ブラジルということです。これを導くことは上に書いた設問1の解説からもわかる通り、それほど難しいことではありません。仮にこれが導けなかったとしても当時のとイギリスとの関係は設問中にかなり示されていますし、当時のイギリスとラテンアメリカ、ヨーロッパをめぐる国際関係は受験ではありきたりのテーマですから、解答を作成することは十分に可能ですが、やはり分からないままで解くとなると、何となくスッキリしない、ムズムズした感じが残るのではないかと思いますので、ここははっきりブラジル、としておきたいですね。

 

・次に、設問の周辺にかなりのヒントがちりばめられていることに注目しましょう。すでに設問のうちヒントになりそうな部分は上で示してありますが、整理すると以下のようになります。

 

カニングはブラジルの独立を承認しようとしていた。

カニングはブラジルの奴隷貿易をやめさせたいと考えていた。

カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した理由は人道主義からのみではないこと。

カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した理由に砂糖生産をめぐる国際的な競争があったこと。

当時、ブラジルが砂糖輸出を拡大していたのに対し、ジャマイカ(設問中で英領西インド諸島であることが明示されている)の砂糖生産は衰退していたこと。

 

・つづいて、史料から読み取れることを検討します。

 

まず、史料Aですが、この史料だけを読まされたとすれば非常に難解な史料であるかもしれませんが、設問の中でカニングの意図()については明確に解説されています。

それでもよくわからない箇所があるとすれば、下線部で示されている「オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら」という部分でしょうが、これについても大問1の問2の問題文において「オーストリア皇帝フランツ2世の娘マリア・レオポルディーネは(ブラジル皇帝)ペドロ1世の皇后だった。」と書いてあります。さらに、「そのため、スペインから独立したラテンアメリカの新生共和国は、オーストリアを中心とする神聖同盟の再植民地化政策を警戒した。」とまで書かれています。当時の事情をしっかりと思い出せない人も、こうしたことをヒントにすれば、ラテンアメリカの独立とウィーン体制の関係、さらには当時の合衆国やイギリスの外交政策をある程度正確に思い出すことができるのではないでしょうか。

 

さらに、上に書いた史料Bの赤字で示した部分を読めば、当時のブラジルにおいて黒人奴隷は「原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる、勤勉な人々」として重要であり、地主によって絶えず輸入され、酷使される存在であったことが読み取れます。このことから、当時のブラジルにおけるプランテーション経営と黒人奴隷の関係について述べることは比較的容易でしょう。

 

ただ、ここで問題となるのは史料Cです。史料Cは進化論で有名なダーウィンが書いたビーグル号での航海記です。ダーウィンは確かに奴隷反対論者で、このビーグル号の航海でもフィッツロイと奴隷制をめぐり意見の対立があったといわれます(もっとも、本設問の史料ではそのあたりがはっきりとは見えてきませんが)。ですが、今回この史料Cを見る限りでは設問の要求に答える際に必要となるようなヒントは特に見当たりませんでした。強いて言えば、当時のイギリスの人々が持っていた奴隷制に対する見方や感情がどのようなものであったかという具体例からエヴァンジェリカル(福音主義的)な要素を導くことくらいでしょうか。エヴァンジェリカリズムについては後で述べることにして、ここでは、「史料C」を配置した意図が気になる、とだけ示しておきたいと思います。設問を作る側からすれば、何らかの意図があってこの史料を配置したと思うんですが、この史料からはそれが明確に見えてこないんですよね。私が何か見落としているのかもしれません。

 

・さて、以上のことをベースとして採点基準になりうるポイントを考えていきましょう。これらのポイントの中には通常の受験世界史を勉強していれば書ける内容と、史料・設問がヒントになって書ける内容の両方があると思いますが、今回の設問では必ずしもその境界がはっきりしません。そこで今回は「世界史の(東京外語レベルを目指した)基本的な学習からすれば書けるはずの事柄」のみ赤字で強調することにしてポイントを列挙してみたいと思います。

 

①    カニングがブラジルの独立を承認しようとしていた背景にはイギリスの自由貿易主義が背景にあったこと。

②    一方で、カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した背景には、英国内の奴隷制反対の世論があったのみならず、イギリス領西インドの砂糖輸出がブラジル産砂糖輸出の拡大によって圧迫されているという事情があったこと。

③    ②のような状態に陥った背景には、イギリスが奴隷制を廃止しつつあった(奴隷貿易廃止は1807年、奴隷制廃止は1833年)ために、農場経営に不可欠な安価な労働力を確保できず、砂糖生産のコストが上がったのに対し、ブラジルでは奴隷制が維持されたことから安価な砂糖を生産でき、国際競争においてブラジル産砂糖が優位に立っていたこと。

④    ウィーン体制発足後のヨーロッパではナショナリズム・自由主義を抑圧するための神聖同盟・四国同盟が結成されたこと。

⑤    ウィーン体制は1820年代までのヨーロッパ内ナショナリズム・自由主義の弾圧には成功した(ギリシア独立を除き)ものの、ラテンアメリカ諸国の独立を防ぐことができなかったこと。

⑥    ⑤の一因に、当初は四国同盟の一員であった英国が自由主義貿易、自由主義外交への転換によって四国同盟を離脱し、メッテルニヒ主導のウィーン体制とは一線を画してラテンアメリカ独立を支持したことがあること。

⑦    英国がラテンアメリカの独立を支持した背景にはラテンアメリカへの経済的関心があったこと。

⑧    同じく、合衆国はモンロー宣言によってアメリカとヨーロッパの相互不干渉を主張し、同じくラテンアメリカの独立を支持したこと。

⑨    イギリスでは、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ウィルバーフォースをはじめとする福音主義者やクウェーカー教徒の活動によって奴隷制廃止の運動が高まっていたこと。

 

こんな感じでしょうか。極論を言ってしまえば、ラテンアメリカの独立についての部分をしっかり勉強していた人であれば、仮に設問の要求している史料読み取りができなかったとしても、まぁ多少の点数は入りそうな雰囲気です。採点する側からすると残念な(質が、というよりも自分の意図を理解してもらえなかったことが)答案に見えるでしょうがw

 

 脱線しますが、いつも申し上げている「論述はコミュニケーション」というのは実は出題する側も同じで、出題する側は「これくらいの材料を提供すれば、きっとこちらの誘導に乗って、これくらいの内容を書いてきてくれるかな。どれくらいの人が正解にたどり着けるかな。」と意地悪な気持ち半分、期待半分でわくわくして待っていたりします。肝試しの脅かし役みたいな気分ですねw 脅かしてやろうとワクワクして待っているところに、正規のルートではないショートカットを通ってゴールされたのでは「あ、うん。そうね。そっちの道を通っても確かに着くかもしれないけどさぁ。せっかく待ってるんだからこっちに来てよ」とがっかりするわけですねw

 

解答例

ナポレオン没落後に発足したウィーン体制を主導するメッテルニヒは、ラテンアメリカの独立運動が欧州の自由主義とナショナリズムを刺激することを恐れて干渉を試みたが、英外相カニングは産業革命の進展と産業資本家の成長により国内で高まっていた自由貿易要求を受け、四国同盟と一線を画し諸国の独立を支持した。また、独立して間もないアメリカ合衆国大統領モンローも欧州による干渉を恐れアメリカ・ヨーロッパの相互不干渉を主張したため、メッテルニヒは干渉を断念した。こうした中で、ブラジルの独立を工業製品輸出による経済支配拡大の好機と捉えたカニングはその独立を支持した。一方で1807に奴隷貿易を廃止したことで国際競争力が低下していた英領西インド諸島の砂糖産業救済のため、ブラジルの砂糖プランテーションで安価な労働力である黒人奴隷が使用されることを止めようと奴隷貿易廃止を訴え、英国内の福音主義者などの奴隷廃止論者はこれを支持した。(400[18074字で2字扱い]

 

(おまけ:奴隷制廃止)

 奴隷制の廃止について、受験世界史で出てくる人物としてはウィルバーフォースがあげられます。もっとも、彼の名前は用語集には出てきますが、『詳説世界史研究』(2016年版)にはまだ登場していないようです。『詳説世界史研究』の奴隷制廃止に関する箇所を見てみると、以下のように出ています。

 

18世紀末からの革命思想によって人間の尊厳に対する人道主義的世論が高まり、1807年イギリスにおける奴隷貿易が禁止され、さらに33年植民地も含む奴隷解放令がグレーGrey1764-1845、任1830-34)内閣のもとで成立し、38年有償方式による全奴隷の解放が実現した。」(同書p.362

「イギリスでは18世紀からクウェーカー教徒によって奴隷反対運動が進められていた。デフォーやアダム=スミスなども反対を表明した。」(同書p.362,3

18世紀後半から非国教各派による奴隷制と奴隷貿易の廃止を求める運動が展開された。ナポレオン戦争中に奴隷貿易が停止され、1833年、イギリス帝国全体で奴隷制度を廃止することが決定されたのは、この運動の成果である。奴隷貿易廃止への動きは、ヨーロッパにおける産業と社会の構造変化を反映するものであった。19世紀前半に西アフリカからのアブラヤシの輸出が急速に拡大したように、アフリカはもっぱら工業化を進めるヨーロッパにとってのヤシ油・ピーナッツ油・綿花などの原料供給地と工業製品市場の役割を果たすことになった」(p.435

「イギリスはウィーン会議(1814-15)で奴隷貿易の禁止を提起した。その背景には、解放奴隷を産業化推進のための労働力として確保しようという意図があったと考えられる。フランスではフランス革命の時にいったん奴隷制度が廃止されたが、最終的には1820年に奴隷貿易が、48年の二月革命において奴隷制が廃止された。スペイン植民地における奴隷制廃止は1883年であった。」(p.435,注1)

 

『詳説世界史研究』のレベルで奴隷制廃止について書いてあるのがこの程度ですから、かなりよく勉強している受験生でも奴隷制廃止の経緯とその周辺の物事の詳細についてはご存じない方が多いのではないでしょうか。

 

 まず、イギリスで奴隷制廃止論が高まっていくのは18世紀末のことです。イギリスで奴隷制度反対の動きが高まった背景としては様々な原因が考えられます。学問的には諸説あるとは思いますが、わかりやすく話を理解することを重視すれば(w)、大きく以下の点をあげることができると思います。

 

早くから農奴制が消滅していたこと。

二度の「革命」を経て人々の「自由」、特に人身の自由にかんする意識が高まっていたこと。

黒人奴隷取引の実態が非常に悲惨で酸鼻にたえない状態であったこと。

イギリス本国内に連れてこられた黒人奴隷の法的扱いをめぐってたびたび世論を巻き込む議論が巻き起こったこと。

クウェーカー教徒を中心とした奴隷制反対運動が起こったこと。

ウィルバーフォースをはじめとする福音主義者たちのキリスト教的な博愛主義が、同じく奴隷制反対運動へと向かわせたこと。

産業革命の進展により、イギリス本国の産業構造が変化していたことと、産業資本家の勢力が国政に対する圧力として働いたこと。

 

まぁこんな感じでしょうか。世界史で時々言及される「クウェーカー教徒」や「福音主義」はある意味当時のイギリスを知る上ではとても重要なのですが、これらの全体像を把握しようとすると下手するとそれだけで小冊子が一冊書けてしまうことになるので、ここでは深入りしません。ここでは、18世紀以降のイギリス(またはアメリカ)においてはたびたび信仰覚醒運動と呼ばれる動きが起きて主流の教会・宗派とはことなる宗派が分離、または対立していくことと、19世紀において大衆の運動に大きな影響を与えたものに福音主義があるのだということだけおさえておけば十分だと思います。詳しいことが知りたいということでしたら、それこそ大学でイギリス史近代史を専攻してみるのも面白いと思います。高校で勉強する世界史は歴史の本当にほんの一部分にすぎません。もっとも、史学科に進学するのであれば、「就職向けのスキル・勉強もしておいて、大学の歴史はあくまでも趣味の一環と割り切って勉強する」、「大学院(修士)くらいまではいくつもりであらかじめ教員免許も取っておく」、「本気で研究者になるつもりでガンガン留学したり生の史料から読み漁っていく」など、卒業後に最低限の「物の役に立つ」レベルまで持っていっておかないとあとで何にも残らないということがあり得ますのでお気をつけてw 

 受験用の世界史として奴隷制廃止を理解するのであれば、上の原因をさらに整理して「A:革命や啓蒙思想、自然法思想などの様々な要因から人間の自由や最低限の待遇を重視する[人道主義]とも呼ぶべき考え方が広まり始めていたこと」、「B:こうした[人道主義]と、クウェーカー教徒や福音主義者などのキリスト教的博愛の実践を重視するセクトが奴隷制廃止に向けた運動を精力的に展開したこと」、「C:工業化が進展したイギリスで必要であったのはむしろ流動的な労働力で、固定の維持費がかかる奴隷制度は(少なくとも本国では)必要なかったこと」の三点を理解しておくべきでしょう。

 

 個人的にはCの工業化と必要とされる労働力とのマッチングが、19世紀の欧米の変化を理解する上で大切なポイントなのではないかなと思っています。たとえば、南米で16世紀以降展開した金・銀の採掘や商品作物のプランテーションといった農作業は基本的に一日中、一年中作業することが期待される労働です。こうした環境下においては、多少の維持コスト(住居費、食費、衣類など)がかかったとしても、休まず徹底して酷使することが可能な黒人奴隷は理想的な「安価な労働力」となりえます。ですから、クリオーリョによるプランテーション経営が中心的な産業であった旧スペイン植民地、19世紀以降同じくコーヒーのプランテーション栽培が拡大したブラジル、綿花プランテーションが発展したアメリカ合衆国南部といった地域では奴隷制の維持は最重要の前提でしたし、実際にこれらの地域で奴隷制が廃止されたのも19世紀の後半から末にかけてと、かなり遅れてのことでした。

 一方、工業化が進むとこうした奴隷を抱えることは必ずしもコストの削減にはつながりません。工場で製品を生産する場合、好不況の波や、流行り廃りといった要因にも影響を受けて、工場をフル稼働させるべき時期と、むしろ生産を縮小するべき時期に差が出てきますので、一年中同じように工場で労働させれば良い、というわけにはいきません。1年中同じように働かせ続けないのであれば、労働力を「所有物」として維持し続けることはむしろコスト高へとつながります。つまり、工業化された地域で必要とされる理想的な「安価な労働力」となるのはむしろ「流動的な」労働力、雇いたい時に安く雇うことができて、クビにしたい時にはすぐにクビにできる、そういう労働力です。それがつまり、イギリスでは「都市に流入する余剰人口」であり、アメリカ合衆国であれば「移民」ということになるわけです。

 このように考えれば、産業革命をいち早く達成したイギリスや、工業化の進展した合衆国北部でなぜ、早くに奴隷制が廃止されたのかをよく理解することができます。もちろん、人道主義や博愛主義というものの影響もあったのでしょうが、これらの地域の支配層にとってもはや奴隷制は必要なものではなかったことも理由としてあげられます。むしろ、特に合衆国においては、南部のプランターの所有から解放された奴隷たちが流動的な労働力に転化していく方が、工業化が進んだ北部の利益にかなうという側面があったのです。南北戦争に発展するほど北部が奴隷制に反対した理由が、人道主義とアンクルトムの小屋だけだなんて、ねぇ。

近代経済学についてテーマ史を書いたところでもご紹介したように、当時の工業化や産業資本家の台頭は、既存権力との対立や社会システムの変化と密接に関連しています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_216372.html)このあたりを深く理解していくと社会・経済史は俄然面白くなりますし、「歴史って何の役に立つの?」という残念な疑問も自然と解消されてきます。

 

【大問2 問4】

(設問概要)

・インド大反乱の結果を受けてイギリスのインド統治はどのように変化していったか100字以内で説明しなさい。。

・パクス=ブリタニカ期の英国女王の名と、指定語句(東インド会社 / ムガル皇帝 / インド帝国)を用いなさい。

・語を使用した箇所全てに下線を引きなさい。

 

(解説)

ちょっとびっくりしたのは、本設問にジャーンシー藩王国王妃ラクシュミー・バーイーの名前が登場したことです。ラクシュミー・バーイーは、ジャーンシー藩王ガンガーダル・ラーオの妃でしたが、せっかく生まれた子が病没した後に夫にも先立たれた結果、当時の東インド会社が展開していた「失権の原則」という、後継ぎがいない場合にその王国を東インド会社の所有とするとする取り潰し政策にあって追放されてしまいます。ですが、それから数年後にシパーヒーの乱が起こるとこれに加わり各地を転戦、大活躍をしたインドの英雄です。超有名人なんですが、なぜか世界史にはあんまり出てきません。

ですから、大学の試験問題で、しかも東京外語などというA級大学で出題されたことにHANDは萌えましたw ラクシュミーを想像するときの私のイメージ図は私が中学生の頃に出版され始めたラノベ『風の大陸』に出てくる、祖国を出奔して男装のまま主人公と旅を続ける少女、ラクシです。いのまたむつみのイラストが美麗だったのですが、途中から多少話が退屈になってきたので10巻あたりで読むのをやめましたw 今調べたら完結したそうです。1990年に始まって2006年完結って 

 脱線しました。あ、ちなみに今回の設問では残念ながらラクシュミーの出番はまったくありません。というより、リード文となっている2次文献全体がそれほど必要ないですね。きわめてオーソドックスな問題です。要は、それまで東インド会社が行っていたインド統治権がイギリス国王へ移譲されてインド担当大臣が新設されて統治される方式へと変わり、さらに反乱の途中でムガル帝国が滅亡したことを示して、最終的にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立したことを述べればそれで十分です。論述としては基本問題の部類に入るものだと思います。

 

一点、設問について難癖をつけるとすれば、設問では「インド大反乱の結果をうけて、イギリスのインド統治はどのように変化していったか(原文ママ)」とありますが、指定語句にムガル帝国を入れる意図から考えれば、「結果を受けて」ではないですね。ムガル帝国はインド大反乱(シパーヒーの乱:1857-59)中の1858年にバハードゥル=シャー2世が形式的にではありますが反乱軍の指導者に擁立されたことを咎められてビルマに追放されたことにより滅亡しますから、設問は本来「インド大反乱の経過と、その結果を受けてイギリスのインド統治がどのように変化したか」とすべきです。実は、2015年の設問は2016年や2014年の設問と比べると、どことなくその辺のきめ細やかさというか、設問に対する愛に欠けているようなところを解いていて感じます。根拠はありませんw ただ何となく、そんな感覚がするだけです。忙しかったのかもしれませんねぇw

 

ちなみに、イギリスの帝国支配またはインド支配については少し古い本になりますがデイヴィッド=キャナダイン(David Cannadine)による『オーナメンタリズム』(Ornamentalism)という本が面白い知見を提供してくれています。イギリスがインドをはじめとする植民地統治をおこなう際に、現地の人々をどのようにその支配機構に取り込んでいくのかについて考察したものですが、単なる力による支配ではなく、自分とは異なる他者が持つ類似性をもとに再秩序化していく過程を丹念に見ていった研究書で、邦訳も出ています(平田雅博、細川道久訳『虚飾の帝国:オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』日本経済評論社、2004年)。そのうちこれについてもご紹介したいですがと言いつつ全然できてないですよね、すみませんw

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