しばらくさぼっておりました一橋の問題解説を進めていきたいと思います。ぶっちゃけ、一橋の過去問は何度も何度も解いておりまして、一応解説も昔作ったもののストックがあるにはあるのですが、過去問というのは面白いもので、時間がたってもう一度解いててみようかなと思うとまた違った見方ができたりしていくつかの解答が出来上がったりします。特に古い問題の場合には、最近の歴史学の研究動向の変化や新説などの登場によって、当時正解であった解答が現在も最適解かというと、必ずしもそうでなかったりするのですね。
そんなわけで、執筆するとなると再度検討して書き直すことになるのですが、最近少々忙しいもので、一度に同じ年度の大問1~大問3の解説を執筆しようとすると「いつまでたってもやらない(めんどくさがりなもので)」ことになります。昔オカンに「あんた、いつになったら勉強するの!」と怒鳴られた中高時代から全く変わっておりません。まぁ、そんなわけですので、しばらくの間は時間のある時に大問ごとに解説を執筆していきたいと思います。
一橋2013 Ⅰ
【1、設問確認】
①中世ドイツの東方植民の経緯を述べよ。
(送り出した地域の当時の社会状況をふまえよ)
②植民を受け入れた地域が近代にいたるまでのヨーロッパ世界で果たした経済史的意義について論ぜよ。(その地域の社会状況の変化に言及せよ)
:設問の要求は非常にシンプルです。要は、東方植民の経緯とエルベ川以東の地域が世界史上果たした経済史的意義について書きなさい、ということです。
【2、東方植民の経緯】
:それではまず、東方植民の経緯について考えてみましょう。東方植民とは、11世紀~14世紀にかけて展開されたエルベ川以東を中心とするヨーロッパ北東部へのドイツ人の植民活動のことです。この経緯を書かなくてはならないのですが、「経緯」とは物事の筋道やいきさつ、顛末のことですから、通常は「どのようにして始まり、どのようにして展開し、最終的にどうなったか」を示すことになります。これを東方植民について示すのであればおおよそ以下のような内容になると思います。
①ドイツの諸侯・騎士・修道会を中心にエルベ川以東のスラヴ人地域に植民を開始
(シュタウフェン朝時代が中心)
②シトー修道会などの修道会の開墾運動
③ドイツ騎士団の活動と布教
:ポーランドの招聘による。バルト海沿岸に進出、周辺のスラヴ系住民に布教
④この過程で新たなドイツ諸侯領が形成される
Ex.) ブランデンブルク辺境伯領、ドイツ騎士団領
以上のような内容を、「送り出した地域の当時の社会状況」と結びつけるような形で示す必要があるわけです。
<ドイツ騎士団領ならびにプロイセンについて>
余談ですが、ドイツ騎士団領とプロイセンの関係については受験生には見えづらい部分になりますので追加で説明しておきます。(ただし、本設問では送り出した地域、受け入れた地域双方の「社会状況」を踏まえた経緯説明を求められておりますので、政治史の一環としてのドイツ騎士団領形成は設問解答には一切含む必要はありません。もっとも、「経緯について述べよ」の部分には「社会状況を踏まえて」とはありますが、「社会状況のみを述べよ」とは書いてありませんので、物事の顛末としてのドイツ諸侯領形成を示すこと自体は問題ないと思います。(後に示しますが、諸侯領の形成自体がエルベ川以東の社会状況変化にかかわってくる部分もありますので、その限りにおいては問題ないということです。政治的な出来事としてのみ示すのはイケてないとおもいます。少なくとも、加点はされないのではないでしょうか。)
さて、ドイツ騎士団領は同地域のプロテスタント勢力が拡大するにしたがってカトリックの騎士修道会としての体裁を保つことが困難となりました。そのため、当時の騎士団総長アルブレヒト=フォン=ブランデンブルク=アンスバッハは騎士団総長を辞し、その配下の騎士たちとともにポーランド王からの授封を受けて世俗の領主となり、プロイセン公となりました(1525)。これにより、それまで騎士修道会領であったドイツ騎士団領はプロイセン公国という世俗君主領となります。
その後、17世紀の初めに初代プロイセン公アルブレヒトの男系血統が途絶えると、アルブレヒトの孫娘であったアンナの夫であるブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公国を継承することが認められ、この時点でブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国は同君連合となりました(1618、ブランデンブルク=プロイセンの成立)。ですが、この段階ではブランデンブルク選帝侯国は神聖ローマ帝国に属し、プロイセン公国はポーランド王の封土でした。
このような状況を変化させたのがフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯(位1640~1688)です。フリードリヒ=ヴィルヘルムは世界史の教科書や参考書にも登場しますが、ブランデンブルク=プロイセンの時期の君主であり、後に成立するプロイセン王国の君主としては数えられないので注意が必要です。(ご先祖ではありますが。)2020年の早稲田の政経の問題にも登場していましたね。彼の時代に、ポーランドとスウェーデン間の争いから、プロイセン公国は一時スウェーデン王の封臣の地位に置かれます。ですが、その後スウェーデンへの軍事奉仕を提供する中で存在感を増したフリードリヒ=ヴィルヘルムは、当時のスウェーデン王カール10世に独立国としての地位を認めさせることに成功します(1656、ラビアウ条約)。さらに、その後同様の内容をポーランドにも承認させたプロイセン公国はポーランドの臣下でもスウェーデンの臣下でもない、独立した地歩を築くことに成功しました。フリードリヒ=ヴィルヘルムの子であるフリードリヒの時代にスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国を支援する見返りとして、当時の神聖ローマ皇帝レオポルト1世はフリードリヒに対してプロイセンにおける王号の使用を認めます(1701)。この時点で、高校世界史では「プロイセン王国」が成立したと考え、ザクセン選帝侯にしてプロイセン公であったフリードリヒは、プロイセン王フリードリヒ1世(位1701~1713)として即位します。彼の息子がプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713~1740:兵隊王、軍隊王)であり、孫が啓蒙専制君主のフリードリヒ2世(位:1740~1786)となります。
【3、当時の西欧、ドイツ(送り出した地域)の社会状況】
:さて、続いて東方植民を「送り出した地域」の社会状況についてです。問いの冒頭で「中世ドイツの」と言っているにもかかわらず、わざわざ「送り出した地域」という表現を用いているところに注目したいと思います。もし単純に送り出した地域をドイツとするのであれば、わざわざこうした表現はとらないのではないでしょうか。教科書的にも、東方植民は十字軍やレコンキスタ、東方貿易などと同様に西欧の膨張の一つとしてとらえられていますから、ここはやはり送り出した地域はドイツのみに限定するのではなく西ヨーロッパ世界全体としてとらえたいところかと思います。ただ、一方でよりミクロな視点、ドイツの実情に即した視点なども必要でしょう。以上を踏まえて当時の西欧・ドイツの社会状況をまとめると以下のようにまとめられるかと思います。
① 西欧の膨張(11c~ 十字軍、レコンキスタ、東方貿易etc.)
(背景)
・農業技術の進歩(三圃制、重量有輪犂、繋駕法や水車の改良など)
・気候の温暖化
→生産力の向上と人口増加
・宗教的な熱情の高まりと巡礼熱
Ex.)ドイツ騎士団、シトー修道会と大開墾
② 人口増と西欧の膨張にともなう植民運動の発生
・人口増(困窮)、賦役貢納厳しい
→土地の相続から排除された農民の子弟を中心に植民運動が発生
③ 領国開発を目指す諸侯による植民活動支援
・各地の諸侯が植民請負人に委託して入植者を招致
→入植者には開墾後の一定期間貢租を免除するなどの植民法が適用
ほとんどは教科書や参考書に書いてある基本的な事柄ですから、全てをおさえられないにしてもある程度のレベルでまとめることは可能だと思います。
【4、エルベ川以東(受け入れた側)の社会状況の変化】
つづいて、エルベ川以東の社会状況の変化についてまとめてみましょう。その前に、そもそもエルベ川とはどのように流れていて、「エルベ川以東」とはどのあたりのことを指すのか正確に把握しておきましょう。
正確に、と言っておきながらだいぶ大雑把な線ですみません。ただ、世界史では正確な地図よりも位置関係を把握することが大切です。よく、道に迷わない人は地図を見るのではなく、目印になるものを把握するのだと言われます。道順や形を覚えるのではなく、「目的地に向かうには郵便局のある角を右にまがる」という把握の仕方ですね。世界史は地図を書く科目でも正確で精緻な地理的知識を問う科目でもありませんから、自分がイメージできる程度にだいたいの地理を把握することが大切です。
そのような把握の仕方ですと、エルベ川の把握の仕方は「ユトランド半島の付け根、西の方に河口があり、ドイツを袈裟懸けにバサーッとぶった切ったように流れる川で、河口にはハンブルク、上流にはドレスデンが位置している」という把握の仕方ができれば十分なのではないかと思います。この川以東、ということですから、東方植民に従事した人々が移住したのはドイツの北東部の肩のあたりからポーランド、バルト海方面にかけてということになります。
それでは、東方植民の結果、これらの地域はどのように変化したのでしょうか。
解答としてイケてないのは、「東方植民の結果、エルベ川以東にはブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの諸侯領が成立した。」でしょう。これは政治的な変化を示したものにすぎず、社会的な変化、つまり人々の生活の仕組みや価値観の変化には一切言及していません。むしろ、当たり前のことではありますが、農村や都市の発展などにより同地域の経済活動が活性化されたことを示してはどうでしょう。これであれば十分に人々の生活のしくみ、つまり社会状況の一面を示したことになります。また、同じ諸侯領について語る場合でも「ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定は周辺地域の経済活動の活発化や都市の発展につながった」とすれば、先ほどまでは「役立たず」であった諸侯領を、社会状況変化の原因の一つとして活用することができます。ちなみに、以下はドイツ騎士団領と騎士団の拠点分布を示したものです。
(Wikipedia「ドイツ騎士団」:1300年、バルト海沿岸の薄い青色が騎士団領)
また、設問がエルベ川以東の地域の「世界の中で果たした経済史的意義とその地域の社会状況の変化」を聞いていることから、教科書的にはすぐ「再版農奴制とグーツヘルシャフトの形成」や「東西ヨーロッパの国際分業体制」を思いつきますが、果たしてそれだけで良いものでしょうか。もちろん、それだけでも十分に立派な解答になりますし、おそらく出題者も究極的にはそこを求めているのだとは思います。ですが、東方植民の開始は11世紀後から、再版農奴制やグーツヘルシャフト、国際分業体制の成立は16世紀頃~17世紀にかけてで、いかにも離れすぎてしまう感があります。そのあたりのことを考えても、東方植民がバルト海沿岸地域を活性化させ、商業の復活の一翼を担ったことは示しても良いのではないかと思います。以上のことをまとめると以下のような内容になるかと思います。
① 東方植民の進展による農村や都市の発展
Ex.) ダンツィヒなど
:ハンザ諸都市の通商網の中に組み込まれる
日用品の取引(穀物、木材、毛皮、毛織物、ニシンなどの魚加工品)
② 再版農奴制
・農奴解放が進んだ西欧と対照的に領主による農奴の支配が続く
・16世紀以降、プロイセンなどの領主(グーツヘル)たちがグーツヘルシャフト(農場領主制またはそれによる大農園)を形成
→土地貴族(ユンカーの形成)
補足しますと、ダンツィヒは14世紀にドイツ騎士団支配下で都市として成長し、国家建設にいそしんでいたドイツ騎士団が必要としていた木材や穀物などの取引に積極的にかかわり、それが安定すると今度はポーランド各地から集まるの品物の輸出なども展開します。
また、東欧では農奴解放が進んだ西欧と違い再版農奴制が進みますが、ポーランドをはじめとした東欧各地では、西欧において農奴解放の原因の一つとされる14世紀のペストの発生率が比較的低かったことも指摘されています。
最後に、本設問とは直接関係はないのですが、再版農奴制の法的廃棄の開始は18世紀末か、19世紀に入ってからになります。
(オーストリア) 1781 農奴解放令(ヨーゼフ2世)
(プロイセン) 1807~ シュタイン・ハルデンベルクの自由主義改革の時
(ロシア) 1861 農奴解放令(アレクサンドル2世)
[クリミア戦争敗北が契機]
【5、エルベ川以東が近代にいたるまでのヨーロッパ史で果たした経済史的意義】
最後に、すでに「4」である程度述べてしまっていますが、エルベ川以東の東方植民の対象となった地域が世界の中で果たした経済史的意義についてまとめておきます。
① 商業ルネサンス(商業の復活)の一翼を形成(12世紀以降)
・北海、バルト海交易の活発化 ex.)ダンツィヒの繁栄
‐ドイツ騎士団領成立による政治的安定
・ハンザ同盟の通商網と連結、日用品の取引(魚加工品、穀物、毛皮、木材)
② 国際分業体制の形成
・商業革命を達成した西欧に対して穀物を輸出する農場領主制(グーツヘルシャフト)
リード文が長く、思わせぶりな設問であるわりに設問の要求自体はシンプルで、聞かれている事柄も基本的な事柄、わかりやすい事柄であったのではないかと思います。一方で、基本的である分、どの程度まで細部を丁寧に示せるかは受験生の理解度が試される部分でもあったのではないでしょうか。一橋ではたびたび北海・バルト海沿岸地域や東欧地域の社会経済について問う問題が出題されますので、注意が必要かと思います。
【解答例】
11世紀頃から西欧では三圃制や重量有輪犂などの農業技術進歩と気候温暖化により、農業生産力が向上し人口が増加した。厳しい賦役貢納と土地不足により、余剰人口はエルベ川以東など周辺地域への植民活動を開始し、諸侯は植民請負人による入植者招致や、開墾後の一定期間貢租を免除する植民法の適用などでこれを奨励した。同時期の西欧における巡礼熱や宗教的熱情はシトー修道会の開墾運動やドイツ騎士団の入植運動を活発化させた。ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定と、植民者・開墾地の増加は周辺地域の経済活動を活発化させ、ダンツィヒなどの都市が発展し、バルト海沿岸は商業ルネサンスの一翼を担い、穀物や木材などの日用品取引でハンザ同盟の通商網と連結された。16世紀以降は再版農奴制により農奴支配を強化した領主がグーツヘルシャフトを形成し、商工業の発展した西欧へ東欧が穀物を輸出する国際分業体制を支えた。(400字)
【補足:(「ハンザ同盟」について)】
ハンザ同盟についてですが、近年記述の見直しが進んでいます。昔は比較的結びつきの強い同盟のように描かれていて、共通の商取引の取り決めや、共通の軍隊を保有していたと書かれていることもありました。しかし、近年では各都市が自己の利益のために行動することがあったこと、あくまでも商業目的の各都市のゆるやかな連携にすぎず、自警力や都市の代表会議は持っていたけれども、常設・共有の軍隊は保持していなかったこと、「同盟」という語はその実態に比してやや響きが強すぎることなどが指摘されるようになりました。そのせいか、直近の『詳説世界史研究』ではハンザ同盟についてかなり記述量が減ってきています。また、山川の用語集の記述もかなりマイルドになってきています。
(例) 「13世紀~17世紀まで北ヨーロッパに存続した通商同盟ハンザ同盟は14世紀に最盛期を迎えた。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2019年[第3刷]、p.175)
…ちなみに、ハンザと結びつけない形でリューベック・ハンブルクなどの北ドイツ諸都市や北海・バルト海沿岸諸都市が行った木材・海産物・塩・毛皮・穀物・鉄・毛織物などの取引については別途示されています。
一方で、教科書の方の記述は依然として内容をぼかしているもの、またははっきりと軍隊を保有していると書いているものなど様々で、まだ過渡期にあるようです。
(例2) 「とくにリューベックを盟主とするハンザ同盟は14世紀に北ヨーロッパ商業圏を支配し、共同で武力をもちいるなどして大きな政治勢力になった。」
(『改訂版詳説世界史B』山川出版社、2016年版、2020年発行)
(例3) 「北ドイツの諸都市は、リューベックを盟主とするハンザ同盟を結成して、君侯とならぶ政治勢力となった。」
「(※ハンザ同盟の注として)→13世紀半ばにはじまり、最盛期には100以上の都市が加盟した。ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドなどに商館を置き、共同の海軍も保有した。」
(『世界史B』東京書籍、平成28年版、平成31年発行)
この辺りの事情について、「世界史の窓」さん(いつも大変お世話になっておりますw)では高橋理先生の研究の影響などを指摘されています。また、ハンザ同盟の項目については同氏の『ハンザ「同盟」の歴史』創元社、2013年を参照されています(https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-070.html)。Wikipediaの方の記述もいつの間にかいやに詳細になっておりまして、そちらも出典はこちらの本のみに依拠しているようです。(Wikipedia「ハンザ同盟」) ちなみに、高橋理先生は弘前大、山梨大、立正大などで教鞭をとられていた歴史学教授です(2003年に退官されています)。
では、受験生はどちらで覚えなくてはならないのだろうかということなのですが、歴史学会で出てくる新説を高校生が常に把握するなどということは到底不可能ですから、基本的には各教科書の記述に従って良いと思います。おそらく、「軍隊を持っていた」と書いたからと言って不正解にするような狭量なことは大学側もしないと思いますし、できないと思います。(教科書を持ってこられて「ほら、ここに書いてあるじゃないですか」と言われたらどうにもなりませんし、その主張を否定すれば公平性の観点から行っても問題があります。)ただ、こうした新しい視点を知っておくと理解が深まりますし、イメージも厚くなります。また、こうした新しい視点というのが往々にして大学入試のテーマの一つとして盛り込まれることもありますので、「最近はこういう風に変わってきているんだなぁ」くらいのイメージ・理解はしておいて損はないと思います。