世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

2021年09月

【普遍論争とは】

世界史の学習の中でも、特に受験生が「いまいち中身がわからん」と感じるものの中に「普遍論争」があります。普遍論争は、中世スコラ学が発展していく過程で発生した論争の一つなのですが、その内容がやや入り組んでいるため、高校世界史では詳しい内容まで突っ込んで解説されることがありません。もっとも、受験問題としてはせいぜい主要な論者であるアンセルムスとアベラールの名前や、それぞれが実在論と唯名論の立場に立っていたということ、各論の簡単な内容程度しか出題されませんので、「アンセルムス‐実在論」、「アベラール‐唯名論」と覚えてしまえば大体の出題には対応できてしまうため、受験生はこれを丸暗記することになるのですが、その中身が全くイメージできないため「何かモヤモヤする」感じを拭い去ることができないまま受験を終え、そしてほとんどの世界史知識と同様に忘却の彼方へと葬り去られていくことになりますw

 

ですが、「普遍論争」は、そもそも「なぜそうした論争が生まれるのか」や、「実在論や唯名論は何をもたらしたか」を考えたとき、中世ヨーロッパの神学・哲学の発展の上で非常に重要な意義を持っています。(だから教科書や参考書に載るわけですが。) その意義が理解できれば、中世ヨーロッパ文化の発展をもっと立体的に、実感をともなって理解することが可能になるので、できれば理解しておきたいところです。そこで、本稿ではこの「普遍論争」をできるだけかみ砕いて説明したいと思います。(ただ、元々の内容がとても難しいので、キリスト教やギリシア哲学についての基礎知識がないとちょっと厳しい部分もあるかもしれません。)

 

普遍論争は極めて神学的・哲学的・形而上学的な議論ですから、わかりやすく伝えることがものすごく難しいです。正確性を追求すると、どんどん難しくなってしまって収拾がつかなくなってしまいます。ですから、これからお話しする内容は多分、ところどころ間違っていますw ですがそれは、できるだけわかりやすくイメージできるように伝えたいという目的からくるものですので、「お前、それは間違っているぞ」というような不毛な議論はしかけないようにお願いしますw ぶっちゃけ、普遍論争のディテールを多少間違えて理解したからと言って、それが人生の致命傷になるという人はごく稀だと思います。と言うか、いるのかそんな奴。

 

[実在論と唯名論]

イスラーム世界を介して古代ギリシア・ローマの哲学が流れ込み、ヨーロッパに知の世界における革新が起きた、いわゆる12世紀ルネサンスが起こる頃に、ヨーロッパでは後に実在論と唯名論として認識されることになる議論が巻き起こります。これが普遍論争です。

実在論の主要な論者はアンセルムス(1033-1109というカンタベリの大司教でした。アンセルムス自身は主に11世紀に活躍した人物ですが、彼の理論というのが12世紀に入り普遍論争が生じる土台となります。通常「普遍」とは、「全てのものにあてはまること」とか「ある範囲の全てのことがらにあてはまること」であり、「普遍的な」とは「全てのものにあてはまる様子」のことを言います。これと似てはいますが、実在論における「普遍」とは、個別に存在する「個(個物)」に対置される概念で、「個」を特徴づける本質的な部分または概念のようなものです。わかりにくいのでかみ砕きますと、五条悟とナナミンと釘崎野薔薇は、それぞれ別個の「個」なわけですが、全て「人間という類(ないしは形相)」に属するもので、犬や猫ではありません。パンダパイセンはどうなるんだという議論はここでは必要ありません。また、織田シナモン信長も、武田ラッキー信玄も、今川ギルバート義元もそれぞれが別個の「個」なわけですが、「犬という類・形相」に属するもので、人間ではありません。中身は人間じゃねーかという議論はここでは必要ありません。 

 いずれにせよ、「個」が実体をともなった事物として存在することに疑いはありません。五条悟という人間は存在し、触ることもできる物体として「ある」わけです。(マンガの中の人物じゃねーかという議論はここでは必要ありません。)問題は、このそれぞれの「個」を特徴づける、またはそれぞれの「個」の本質的な部分である「普遍的」な「類・形相」(つまり普遍論争ではこれを「普遍」とするわけですが)は、「個」と同様に実体をともなった存在としてあるのかどうか、ということです。五条悟も、ナナミンも、野薔薇ちゃんも、「個」が「実在する」ことは疑いがない。では、それらの本質たる「人間」という「普遍」は同様に「実在しているのか」、これが普遍論争の要点になります。これについて、「実在する」と考えるのが実在論、「実在しない」と考えるのが唯名論です。

実在論では、「類・形相」は「個」を形成する材料のようなものとして存在していると考えます。つまり、「人間」という土台の上に様々な要素が加わった結果として個別の「個」になっているが、もしそれぞれの「個」から余分な要素を取り払ったとき(実際にはできないのですが)には「人間」という「実在」が残ると考えるわけです。つまり、アンセルムスをはじめとする実在論者は、「個」よりも先に「普遍」が実在をともなって存在すると考えたわけです。

一方、唯名論では「普遍」は「個」のような実在ではなく、あくまでも類を示す「名称」(または概念)にすぎないと考えます。つまり、「個」のように実体をともなって存在するものではなく、(論者の立場により違いはありますが)基本的には人間の頭の中にある「名称・概念」に過ぎないと考えるわけです。こうした唯名論者として有名なのはフランスの神学者アベラール(1079-1142やイギリスのフランシスコ会士であるオッカムのウィリアム(1285-1347、ウィリアム=オブ=オッカム)などがいます。アベラールは家庭教師として教えた20歳以上も年の離れたエロイーズに手を出して、エロイーズの叔父に去勢されたことでも有名な人です。その後、エロイーズは修道女(というか後には大修道院長)となりましたが、その間も両者の間には大量の書簡というか、ラブレターが残されているあたり人間としての業を感じます。

普遍論争 - コピー

[普遍論争が生じた背景]

では、そもそもなぜ普遍論争は生じたのでしょうか。よく「12世紀ルネサンスがきっかけで」と言われますが、それはどういうことなのでしょうか。まず、普遍論争の前提として、古代ギリシアの哲学、特にプラトンやアリストテレスの哲学と、ローマ帝国時代の新プラトン主義の創始者とされるプロティノスの思想があると言われています。

プラトンのイデア論はよく知られています。イデア論というのは、「世界に存在するのはイデアであって、現実とはイデアが様々な形をとってあらわれたに過ぎない」という考え方です。これも感覚的によくわからないことなので少し簡単にお話します。プラトンは、イデアについて「人間にはそれをつかむことはできない」けれども「たしかに存在する」と考えます。そして、現実世界は、イデアの影のようなものが様々な形で我々に感知されたものに過ぎないとします。

 たとえばですが、私たちは白鳥を見ても、フラミンゴを見ても、雀を見ても「鳥だ」と認識します。もっと言ってしまえば、たとえば白い紙を二つに折って、パタパタと羽ばたかせた場合、「紙」ではなく「鳥(のような)」として認識することがあるかもしれません。こうした認識は基本的には各人に共通しているものであって、カモメを見て「イノシシだ」という人はいないわけです。同様に、岩を見て「水だ」という人もいなければ、アリを見て「花だ」という人もいません。また、別のパターンについて話しますと、「花」も「景色」も「女性」も、見目麗しいものは多くの人が「美しい」と感じるわけです。


 ということは、「〇〇は鳥である」とか、「〇〇は美しい」と認識できる共通項が存在しなければいけません。そうでなければ、全く別の人間、場合によっては言語や文化も違う人間があるものを見て「人」、「鳥」、「美しい」などの同類のものとして認識することは不可能なはずです。プラトンは、こうした共通項が必ず存在するはずで、それをイデアであると主張したわけです。このイデア論は、アリストテレスにも継承されていきますが、プラトンがイデアはその現実世界への投影である個々の事物から独立して実在すると考えたのに対し、アリストテレスはあるものにそのものの性質を与える形相(エイドス:プラトンの言うところのイデア)はそのものを物質的に構成する質料(ヒュレー)に内在するもので、分離しては存在しえないと考え、プラトンのイデア論とはやや異なる形で発展させていきます。

 よりイデア論に近く、かつ後のキリスト教神学に大きな影響を与えたと考えられているのが、古代ローマのプロティノスが創始した新プラトン主義(ネオプラトニズム)です。プロティノスはこの人です。何か、スカーフェイスっぽくてイカついです。

Plotinos
(Wikipedia「プロティノス」より)

 プラトンのイデア論に影響をうけたプロティノスは、「流出説」と呼ばれる考え方を主張します。流出説とは、「一者」と呼ばれる無限の存在(神のようなもの)が存在し、その働きによって万物が生み出されているという考え方です。「一者」は、全ての存在の根底をなしつつ、全ての存在を超越するものであり、無限であり、その働きによって万物を生み出すものの、「一者」は変化も増減もしません。太陽が、自身は変わることなく存在することで周囲を照らし、様々な効果を生むようなものである、とプロティノスは考えます。このあたり、キリスト教の「神」概念に似ていると思いませんか?

 実際、プロティノスの「一者」と流出説は、キリスト教初期の神学者に影響を与えます。中でも、明らかにプロティノスの説に影響を受けたと考えられるのが教父アウグスティヌスです。アウグスティヌスは『告白(告白録)』の中で以下のように述べます。

 

 驚くべき高慢のために膨れ上がっているある人をとおして、あなた(神)はプラトン派の書物を私に与えたもうた。この書物は、しかし、ギリシャ語からラテン語に訳されていた。「始めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった。この言葉は、始めに、神とともにあった。あらゆるものは、その言葉からつくられ、そしてこの言葉によらずに、つくられたものは一つもなかった。つくられたものは、この言葉においては生命であり、生命は人々の光であった。そして光りは暗闇の中で輝いたが、暗闇はこの言葉を知らなかった。」確かにわたしはプラトン派のある書物の中にその章句を見いだして、読んだのではなかった。けれども、その章句の意味と非常に似ている事柄が、多くの種類の様々な理由によって、説かれているので、わたしはこれを読んだのである。

 

ある学者は、この文章を引用してこの文章中の「言葉」という語を「イデア」と置き換えればプラトンの思想と一致し、またプラトンのイデアにはなかった「創造」という要素を考えると、アウグスティヌスが影響を受けたのはむしろ「一者」からの「流出」が万物の根幹となるとするプロティノスの思想に影響を受けていると指摘しています。(大多和明彦「プロティノスの一者について」、『東京家政大学研究紀要』第32(1)pp.1-111992年、引用文含む)

 このように、プラトンのイデア論や新プラトン主義は、キリスト教の初期において非常に親和性の高いもので、一部の神学者は大いに影響を受けていました。ですが、ローマ帝国の崩壊と、ゲルマン諸国家の乱立による混乱、新たな教会組織の整備にしたがって、ギリシア・ローマの哲学は次第に異端(キリスト教以前)の学問として忘れ去られていきます。しかし、十字軍や東方貿易、レコンキスタなどを通して、イスラーム世界でアラビア語訳されて保存されていたギリシア・ローマの学問が新たにラテン語に翻訳されて西ヨーロッパ世界に流れ込むと、当時の神学者たちは流れ込んできた学問体系と聖書との矛盾に戸惑うと同時に、聖書や初期の教父哲学の中に見出されるギリシア・ローマ哲学との親和性や、高い知性や精緻な観察に裏付けられた知の体系に驚き、この新しい刺激をどのように自分たちの信仰と調和させ、取り込んでいくかを真剣に考えるようになります。これがスコラ学です。つまり、スコラ学は聖書にある事柄や、それに基づくカトリックの信仰と世界観を、ギリシア・ローマの哲学により弁証(論をたてて証明)することで調和させ、より精緻な知の体系として作り上げようという試みでした。

 

[普遍論争とキリスト教神学]

12世紀ルネサンスとともに発展したスコラ学でしたが、そこで起こった普遍論争はキリスト教の教義の根幹にかかわる問題をはらんでいました。なぜなら、イエスが人類の「原罪」を背負って昇天したとするキリスト教の根幹ともいえる教義が揺らいでしまう可能性があるからです。つまり、「普遍」がもし存在しないのであれば、全ての「個」は独立した別個の存在となります。だとすればアダムとイブが犯したとされる罪はあくまでアダムとイブという「個」の犯した罪ということになります。また、「人類」という「普遍」が存在しない以上、世界に存在する人々は別個の「個」なのであって、アダムとイブとは無関係、すなわち「人類」の「原罪」自体が存在しないことになってしまうのです。だとすれば、何のためにイエスが十字架にかけられたのか分からなくなってしまいます。

また、プロティノス風に言えば「一者」は、キリスト教の「神」と同一視できるものですが、「普遍」が実在しないのであればこの「一者」の実在も怪しくなります。つまり、「普遍」が「実在」するか否かという問題は、そのまま「神」は「実在」するか否かの問題につながってくるのです。

 これについて、実在論をとったアンセルムスの立場は「理解せんがために我信ず」という言葉で表現されます。つまり、神を理解するためにはまずその実在を信じるところから始めなければならないとする考え方です。これは、中世のキリスト教の知的世界において「哲学は宗教の婢」とされた考え方とも合致する発想です。つまり、「信仰>理性」なのですね。

 これに対して、アベラールやオッカムのウィリアムなどの唯名論者の立場は「信ぜんがため我理解す」という言葉で表現されます。これは、自分としても神を信じたい。だが、実際には神が実体をともなって姿を見せることはないし、実在することを証明もできない。であるならば、神とは何なのか、自身の信仰のためにもまずは理解したいという立場です。大切なことは、唯名論はたしかに「神」がこの世界に実体をもって「実存」することは否定しますが、神そのものを否定してはいないということです。神は、すくなくとも名前や、かれらの頭の中(理性)の中には存在しているし、また人の知覚できない何らかの形で存在しているかもしれない。でも、人間や動物、物などと同じように現実世界に「実存」しているとは思えない、というのが唯名論の立場であるわけです。

 

[普遍論争がもたらしたもの]

この普遍論争は、13世紀にトマス=アクィナスが『神学大全』をまとめて、どちらかと言えば実在論的な立場に沿ってスコラ学を大成させたことにより、基本的には普遍は実在するという考え方、もっと言えば神(絶対的存在)は実在するという考え方がカトリック教会の主流となっていきます。ギリシア・ローマ哲学をその世界観の中に組み入れたスコラ学により、カトリック教会の教義はより精緻で体系的なものとなりました。

ですから、一部の教科書や参考書では「普遍論争は実在論が勝利して終わった」のような調子で書いてあるものもあるようですが、ことはそう簡単ではありませんでした。一時は下火になった唯名論でしたが、唯名論的な立場はその後も続き、14世紀にはイギリスのオッカムのウィリアムなど、有力な唯名論者が登場して実在論を批判していきます。こうした流れは、13世紀イギリスでイスラームの科学者たちの著作に影響を受けて、実験・観察や経験による知識を重視したロジャー=ベーコンなどの考え方ともあいまって、近代的な経験論的哲学の基礎を形づくっていきます。つまり、「聖書に書いてあるんだから黙ってそれを信じればいい」という立場にとどまるのではなく、「それがあるかないか、どうなっているか、確かめてみよう」という立場が芽生え始めるわけです。こうした立場は、最終的には17世紀の「科学の世紀」へとつながる実験・観察を重視する立場を生み出し、実験・観察を行う手法や技術の発展につながっていきます。

また、実在論・唯名論にかかわらず、キリスト教世界がギリシア・ローマ哲学を包含し、その世界観の中に組み入れていったことは、その後のルネサンスにおける古典文化の復興や、人文主義の発展にもつながっていきます。

つまり、普遍論争がなぜヨーロッパの文化にとって重要であるかと言えば、その後のルネサンスや宗教改革、地理上の発見やその後の科学の世紀へとつながる近代的な思想や技術を準備する苗床となったという点で非常に重要であるわけです。そのような視点から、教科書や参考書の中に「なぜ、ここで普遍論争が登場するのか」をあらためて見直してみると、新しい発見があるのではないでしょうか。

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【共通テスト】

・ベルリン会議(1878)とベルリン会議(1884-1885

:ベルリン会議はビスマルクが仲介して開催したことで知られる国際会議なのですが、実は2つあります。どちらも歴史上重要な意義を持つ会議なのですが、意外に受験生は開催時期・内容などについて区別がついていないことが多いので注意が必要です。まとめると以下の通り。

ベルリン会議(1878_1884-1885) - コピー

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【共通テスト】

・ユトレヒト条約(1713)は中身まで覚える!

:ユトレヒト条約は、締結された背景やその内容まで非常によく出題され、難関大でも正誤問題のみならず論述の一部としても出題されます。しかし、かなり多くの内容が含まれているため「どうしても覚えにくい」と感じてしまうのも確かだと思います。そういう人は、細かい内容を覚える前に、まず以下の3点を抑えましょう。

 

① イギリスが北米進出への足掛かりを作った。(仏から領土獲得)

② イギリスが地中海への入り口を確保した。(西から領土獲得)

③ イギリスがアシエントを獲得した。

 

まず、①についてです。ユトレヒト条約では「ニューファンドランド」、「アカディア」、「ハドソン湾地方」がフランスからイギリスに割譲されます。しかし、これらの地名は世界史の他の場面では登場しないため、地理的にどのあたりなのかをイメージできず、結果として用語だけ丸暗記にしてしまっている人たちが多いです。ちなみに、これらの地域のおおよその位置は以下のようになります。

ユトレヒト条約1 - コピー
つまり、イギリスはフランスからケベック(赤・青・黄色に囲まれた中心部)を除くカナダ一帯に進出して、北米進出の足掛かりを得たわけです。

ちなみに、残っていたケベックについては七年戦争後の1763年パリ条約でイギリスはこれを手に入れることになります。つまり、これを指してイギリスは「カナダを手に入れた」と表現するわけです。
パリ条約後のケベック
(パリ条約[1763年]後のケベック周辺図)

 

また、②についてですが、イギリスはスペインからミノルカ島とジブラルタルを獲得しました。これについても世界史ではあまりなじみがありませんので、地図に示してみたいと思います。

ユトレヒト条約2 - コピー

これを見ると、スペインの南端、そして地中海に入ったところにイギリスは拠点を得たことになるのがよくわかるかと思います。

 

最後に、③です。イギリスがユトレヒト条約でスペインから獲得した「アシエント」は奴隷貿易特権と説明されることが多いですが、もう少し詳しく言うと、「スペイン王室から認められた、スペイン領植民地に黒人奴隷を供給するための特権」がアシエントです。(もっとも、バリバリ密輸なんかも横行しているわけですが。)

アシエントを得たことによって、イギリスは大っぴらに大西洋を横断して西アフリカからラテンアメリカへ黒人奴隷を供給する奴隷貿易を展開できることになり、18世紀に大西洋三角貿易は最盛期を迎え、イギリスの港リヴァプールは賑わい、資本の蓄積は産業革命の原動力となっていきます。

 

条約の内容一つ一つはなじみのないもので覚えにくいかもしれませんが、①~③のようにストーリーとして組み立てることで忘れにくくなるはずです。

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世界史を学習する上で意外と盲点なのが、世界史にはおろそかにするとその後の理解や学習効率が著しく落ちる基礎技能が存在するということです。「世界史なんて、どうせ読めばわかる」と思われていますし、「日本語で書いてあるし、ただのお話だから、暗記すればいいだけ」と思われています。実際、その通りでもあるのですが、ところがいざ実際に学習してみると思いのほか頭の中に入ってこず、勉強にかかる時間も積みあがっていきます。「おかしいな、こんなに勉強しているのに全然進まない…」と思っているうちに、だんだん嫌になってきて「もう、いいや」となってしまう…世界史を教える側としては本当に悲しいことです。本来、世界史とは謎アリ、戦いアリ、エロアリ、どろどろの人間関係ありの人間ドラマの集合体であって、最強の大河ドラマです。深く学べば学ぶほど味が出る、やりこみ要素アリの本当に面白いものなのですが、意外にも入り口で躓いてしまう人が結構な数います。

実は、「英語で単語や文法を知らないと話が(本当の意味では)分からない」、「数学で公式を覚えたり、計算力を身につけないと高度な問題が解けない」のと同じように、学校における一つの教科として世界史をとらえた場合、身につけないと理解が進みにくい技能が二つあります。

一つ目は、「〇〇年=〇〇世紀」の変換を瞬時にできるようにする能力です。「何だ、そんなことか」と思われるかもしれませんが、これを「頭で考えることなしに」できる人は意外に少ないのです。「頭で考えない」というのは、脊髄反射的に「パッ」とわかる、ということです。青い色を見たときに「青」と言ったり、「900円買って1000円払ったからお釣りは100円」ということを計算することなしに理解するのと同様に、「1689年」と言われたら「ああ、17世紀後半か…」と即座に理解できるようにしておかないと、どうしてもテスト向けの世界史の学習は効率的に進みません。「ルターの宗教改革は1517年の九十五か条の論題から始まったわけですが…、当時は16世紀前半なわけですけれども…」という説明を学校の先生がしたり、教科書やら参考書に書いてあるときに、「パッ」と分かる人は特に抵抗なく言っていることが頭の中にスッと入ってきます。一方、この変換がすぐにできない人は「ん?1517年だから…151足すので…ああ、16世紀…で、いいんだよ、な…?」となってしまい、どうしてもワンクッションというか、「ツマリ」のようなものが生じてしまうのですね。たとえて言えば、英語の長文を読むときに分からない単語をいちいち辞書で引かないと先に進めないときのようなもので、これが思いのほか学習効率を落としてしまいます。

二つ目は、出てくる地名がどこなのか、初出の段階で地図上に思い浮かぶように確認しておくということです。世界史では当然のことながら、世界各地の地名や国名が出てきます。これを重要語句や人名とは直接関係ないからとうろ覚えにしてしまうと、「〇〇年=〇〇世紀」の場合と同じように「ツマリ」を生じてしまってまともな勉強になりません。ためしに、世界史を勉強すると出会うことになる地名について、いくつか列挙してみましょう。

 

・イラク、イラン、インド、パキスタン、アフガニスタンを東から順に並べられますか?

・「アナトリア」ってどの辺ですか?

・「トルキスタン」ってどのあたりですか?

・インダス川とガンジス川、どちらがインドの東側を流れる川ですか?

・フランス、オーストリア、ドイツ、ポーランドの位置関係がわかりますか?

 

…いかがでしょう。案外、難しいものですよね。ですが、世界史ではこれらの知識は「前提」であって、しかめ面をして学ぶものではありません。日本史で言ったら、「大阪、名古屋、東京を西から順に並べよ」と言っているようなものですからね。

ですから、先生は当たり前のように「ドイツのヒトラーは、オーストリアを併合すると東方へとドイツの生存圏を拡大するためにポーランドへと侵攻し、これが第二次世界大戦の始まりとなったわけですがァー…」と授業を進めます。地図が頭に入っていなかったらイメージのしようがありません。そこで生徒はおっさんのがなり声を子守歌代わりに聞きながら「がァー、じゃねぇよ。くた〇れ」と悪態をついて机の中に沈んでいきます…。 

ですから、多少の苦労をともなったとしても、その地名がどこかというのは最初に目にした時に把握しておくべきなのです。幸いなことに、今は昔と違っていちいち地図帳を調べる必要がありません。ちょっとGoogleやらYahooで地名を入力すれば、すぐWikipediaのページが出てきて、それを開けば地図は載っています。いちいち地図帳の索引から調べなければならなかった我々の高校生時代とは大違いです(マジでうらやましい)。

 

 本稿では、地理の問題はとりあえず置いておいて、「世紀」の変換について簡単に解説してみたいと思います。これは、ほんのちょっとの練習でできるようになりますから、最初に身に着けておきましょう。

 

① 紀元(後)の場合

 紀元とは、本来は「ある出来事がおこった年を始点として時間を測定する際の、始点となる年」のことです。ですから、世界にはいろいろな「紀元」があります。たとえば、イスラーム暦の場合には、預言者ムハンマドがメッカからメディナへと遷った「ヒジュラ」のあった年を紀元とします。

 現在使われている西暦は、イエス=キリストことナザレのイエスが生まれた年を紀元として数える年代測定法です。

プレゼンテーション1
 
 もっとも、研究では実際にイエスが生まれたのは紀元前4年頃らしいと言われていますので、西暦の紀元とはズレるわけですけれども、事実が判明するたびに紀元を動かしていたら「あ、今年2021年だと思ってたら今度から2025年になるらしいわ」みたいなことになって厄介ですので、昔から紀元とされる年がそのまま使われています。

 イエスの生まれた年=「紀元元年(1年)」として、そこから2、3、4…と数えていきます。つまり、西暦2021年というのは、イエスが生まれた年を1とした時に、2021番目にあたる年なわけです。「世紀」というのは、これを100年ごとにまとめたもので、紀元から数え始めて100年までが1世紀となります。つまり、「紀元元年~紀元100年」までが1世紀、「紀元101年~200年」までが2世紀となります。

 理屈ではそうなるのですが、すぐにパッと思い浮かべるのはちょっとした練習が必要です。1の位が「0」以外の年は、年数の100の位に1を足した数が「世紀」の数になります。たとえば、

 

・64年→1世紀(百の位は0なので)

・375年→4世紀

・726年→8世紀

・1492年→15世紀

・1871年→19世紀

・2021年→21世紀

 

となります。ただし、1の位が「0」の時だけはちょうど100年目になりますので、百の位の数字がそのまま「世紀」を表す数となります。たとえば、

 

・300年→3世紀

・1600年→16世紀

 

となるわけです。301年は4世紀、1601年は17世紀ですね。

これは慣れるとほんとに簡単です。簡単な練習用の動画を気分で作ってみましたので、利用してみてくださいw

https://youtu.be/cGbctvfQE7s

 

② 紀元前の場合

 紀元前の場合も基本的には紀元後の数え方と一緒です。「紀元元年の前の年」が「紀元前1年」となり、そこから100年間が「紀元前1世紀」となります。つまり、

 

紀元前1年~紀元前100年=紀元前1世紀

紀元前101年~紀元前200年=紀元前2世紀

紀元前201年~紀元前300年=紀元前3世紀

 

となるので、紀元前285年は「紀元前3世紀」となり、紀元後の数え方と特に変わりはありません。ただ、注意しておきたいのは、紀元後と紀元前では数字の増える方向が逆になりますので、世紀の前半と後半が逆転します。つまり、数字の多い方が世紀の前半、少ない方が後半となります。これは、感覚的につかんだ方が理屈で考えるよりも早いと思うので、図示してみましょう。

紀元法2
上の図を見ると分かる通り、たとえば紀元前1世紀は紀元前100年から始まり、紀元前1年で終わることになります。ということは、紀元前96年は「紀元前1世紀の前半」ということになる一方、紀元前15年は「紀元前1世紀の後半」となるわけです。この紀元前の世紀の前半と後半を認識することは少し難しいのですが、ここまで身につけてしまえばまず怖いものはありません。この技能は地味ではありますが、世界史を学習する上では大切な技能になるので、早いうちに身につけておくとよいと思います。
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以前から奴隷制をめぐる出題は多かったのですが、近年はその度合いが増してきています。今までの政治史中心の歴史から、社会史のような人に焦点をあてた歴史、または経済・社会・文化といった人の動きや考えを取り入れた歴史が重視されてきているせいかもしれません。

 ところで、奴隷制をめぐる問題で最も出題頻度が高いのはやはりアメリカの南北戦争と奴隷制廃止をめぐる動きかと思います、一番有名なのはやはり1863年の奴隷解放宣言ですが、奴隷制をめぐる動きは実はそれより前から存在します。中でも、受験生にはいまいち理解しにくいのが「カンザス=ネブラスカ法」です。カンザス=ネブラスカ法制定はアメリカの二大政党の一つである共和党結成に深くかかわっています。前のトランプさんの側の政党が共和党ですね。

 ですが、このあたりの事情が多少込み入っているために、一問一答式や穴埋め重視の授業・学習スタイルで覚えている人には、カンザス=ネブラスカ法と共和党結成の関連性がとらえにくい(あるいは、見逃してしまう)のです。

 では、カンザス=ネブラスカ法の何が問題だったのでしょうか。

 アメリカでは、19世紀(1800年代)の前半から、奴隷制を認めない自由州と奴隷制を認める奴隷州の対立が深まり始めていました。そうした中で、ミズーリが奴隷州として新たな州としての加盟を申請すると、この申請を認めるか否かで大きな議論となりました。当時、各州からは2名の議員が選出されることになっていたため、新たに昇格する州が自由州であるか奴隷州であるかは、奴隷制度の問題だけでなく議会内のパワーバランスにもかかわる問題でした。

 この問題に一定の妥協点を見出すために結ばれたのが1820年のミズーリ協定です。ミズーリ協定は、ミズーリ州を奴隷州として認めるかわりに、今後新しく誕生する州については北緯3630分以北に誕生する州を自由州、以南に誕生する州を奴隷州とするという内容でした。その後誕生したアーカンソー州やミシガン州などは、この協定にしたがってそれぞれ奴隷州、自由州となっていきます。

 ミズーリ協定 - コピー
 1849年ごろのアメリカ合衆国と北緯36度30分線
青は自由州赤は奴隷州(灰色部分は州に昇格していない地域)
Wikipedia「北緯3630分」より、一部改変)


 ところが、1854年に制定されたカンザス=ネブラスカ法はこの妥協を破壊する内容でした。つまり、「新たに創設されるカンザス準州(州に準ずる自治権をもつ地域)ならびにネブラスカ準州においては、これらの地域に住む人々の住民投票によって奴隷制を認めるかどうかを決めること」とされました。下は、カンザス、ネブラスカ両州の位置です。(ただし、地図は現在のもの)

54-2南北戦争【移民史追加後】 - コピー

Wikipedia「カンザス州」[]と「ネブラスカ州」[]より引用、作成)

 
 ご覧いただくと分かるのですが、実はこの二つの準州はミズーリ協定で定められた北緯3630分線よりも北にある土地でした。つまり、カンザス=ネブラスカ法はミズーリ協定に従えば本来は自動的に自由州になるはずの土地において、奴隷制を認めるか否かを住民に選ばせる(奴隷州になる可能性がある)ことを認める法律に他なりませんでした。これに怒った北部自由州を中心とする奴隷制反対派によって、1854年に共和党が結成されました。その後、南部を中心とする民主党と、北部を中心とする共和党のあいだでは奴隷制をめぐる問題を中心に対立が続き、1860年の大統領選挙で共和党のリンカンが当選したことをきっかけに南北戦争(18611865)へと突入していくことになります。

 南北戦争を理解する上で、共和党は重要な要素であるために必ず教えられるのですが、「なぜ共和党が結成されたのか」については「カンザス=ネブラスカ法をきっかけに奴隷制をめぐる対立が高まったから」と通り一遍のことしか教えてくれない場合があります。ですがやはり、「そこにはどういう意味があるのか」を掘り下げて理解しておいた方が、ストーリーがはっきりしてより良く理解できるのではないかと思います。 

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