世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

2021年10月

 2002年の東大の大論述は、19世紀から20世紀にかけて海外に移住した中国系移民が増加した背景と、移住した人々の本国への政治的影響を問う設問でした。ちょうどこの21世紀に入る頃から、冷戦後の世界は冷戦終結直後に人々が思い描いたようなバラ色の平和な世界ではなく、民族紛争をはじめとして新たな諸問題に直面する時期なのだということがはっきりと意識され、それにともなって、民族問題のほかにこの移民・ディアスポラの問題が歴史学や社会学の分野でクローズアップされるようになったように思います。(もちろん、それ以前から研究はされていました。実際、私のエディンバラでのお師匠さんは移民史が専門の一つでした。ただ、一種の「トレンド」になって研究者の話題やメディアに登場する機会が増加してきたのは、ちょうど世紀の移り変わりの時期であったように思います。) 

さらに、2001年はいわゆる「9.11」の同時多発テロが発生した年でもありますので、その傾向はこれ以降加速したように思います。そうした影響か、最近では教科書や参考書、あるいは教員の意識なども「移民」というテーマには敏感になってきているので、おそらく現在の受験生でしっかりとした世界史の勉強をしてきた人がこちらの設問に取り組む場合、もちろん難しくはあるのでしょうが「さっぱりわからない」という感想を抱くことはあまりないはずです。ですが、2002年時点の受験生にとってこちらの設問はかなり解くのに苦労した設問だったのではないかと思います。後述しますが、指定語句からだけではストーリーを明確に描くことができないため、自分自身の知識と力である程度のストーリーや大枠を作ることが必要になるのですが、当時の受験生でこうしたストーリーを作れた人は稀だったのではないかと感じます。同一の問題でも出題された時期や解く人間によって難易度が変化する一つの良い例ではないでしょうか。

 

【1、設問内容確認】

・時期:19世紀から20世紀はじめ(1801-190?

・中国からの移民が南北アメリカで急増した背景

・中国からの移民が東南アジアで急増した背景

・海外移住者が中国本国の政治的動きにどのように影響を与えたのか
・15行以内(450字)
・指定語句
 植民地奴隷制の廃止 / サトウキビ・プランテーション / ゴールド・ラッシュ / 海禁 / アヘン戦争 / 海峡植民地 / 利権回収運動 / 孫文

 

:「はじめ」という表現はいささかアバウトです。「前半」であれば50年なのですが、「はじめ」といった場合、どこまでなのかはっきりしません。ただ、1950年により近くなる1930年代や40年代まで入るとすれば、「前半」や「半ば」といった表現が妥当となりますので、長くとも20年代に入るか入らないかくらいまでと考えてよいでしょう。指定語句に「孫文」があることや「中国本国の政治的動き」などが設問に示されていることから、おそらく辛亥革命の前後あたりまでになるかと想定しておくとよいかと思います。

 

【2、整理(移民のpush要因とpull要因を意識する)】

:さて、指定語句自体には時系列をはっきり示すものやストーリーを示すものはあまりありません。やや散文的といってよい指定語句ですから、指定語句をベースにしただけでは全体像はつかみにくいかと思います。そこで、ここでは南北アメリカならびに東南アジアへ移民が増えた原因として、移民側が中国から移住したがった理由(Push要因)と、移住先が移民をひきつけた理由(Pull要因)に分けて検討してみるのが良いかと思います。

 

① 共通の背景

・アヘン戦争後の開国(海禁の崩壊)と中国人の海外渡航の自由化

・アヘン戦争後の政情不安や経済混乱

・買弁をはじめとするブローカーによる移民契約

 

:清の海禁は、基本的には鄭氏台湾の平定された翌年に遷海令が解除されたことでなくなりましたが、民間人の海外渡航は厳重に管理されており、渡航する乗員の身元や数、渡航期間などはチェックされ、自由に海外に渡航できたわけではありませんでした。また、18世紀には人口流出を防ぐ目的から東南アジアへの渡航が禁止(南洋海禁)され、ヨーロッパとの交易も乾隆帝の時代に広州一港に限定されました。しかし、アヘン戦争とその講和条約である南京条約で5港が開かれたことで、中国人の海外渡航を阻む制限は実質的になくなりました。(清政府は中国人の海外移住を禁止していましたが、南京条約、虎門寨追加条約、望厦条約、黄埔条約などで欧米の諸特権が認められ、特に領事裁判権が承認されたことで、外国商人が中国人を拐かす行為を取り締まることは難しくなりました。)

南京条約の開港場

(赤い文字が開港場、青い文字の香港は割譲地)

 

また、アヘン戦争後には江南で太平天国の乱、華北では捻軍の乱が発生するなど政情不安が続き、さらに1856年にはアロー戦争が開始されます。こうした政情不安が続く中で当然経済も混乱し、生活苦にあえぐ農民たちは外国商人によって表向きは自由契約の契約移民などとして、労働力とされるために海外へと移住していきました。こうした苦力貿易には、ラッセル商会などの外国商人や、外国商人の手助けをする買弁とよばれる中国人商人の存在がありました。当時の苦力貿易が必ずしも「自由」契約でなかったことは、1852年に発生したロバート=バウン号事件(中国人を運ぶアメリカの奴隷貿易船で虐待された中国人が反乱を起こして石垣島に漂着した事件)や、1872年のマリア=ルス号事件(横浜に停泊中のペルー船マリア=ルス号から奴隷扱いされた中国人が逃亡し、日本側に保護された事件)などからもうかがい知ることができます。

OE_Taku

(マリア=ルス号事件で裁判長として清国人232名を解放した大江卓[Wikipediaより]

 

② 南北アメリカで急増した背景

(北アメリカ)

 ・ゴールドラッシュ

 ・南北戦争と奴隷制廃止

 ・南北戦争後の急速な経済発展と安価な労働力の需要

 

(カリブ海)

 ・英領植民地における奴隷制廃止

 ・サトウキビ=プランテーションにおける労働力不足

 

(南アメリカ)

 ・ラテンアメリカ諸国の独立と奴隷制の廃止

 ・鉱山やプランテーションの労働者として(ex.ボリビアの鉱山労働者など)

 

:北米のゴールド=ラッシュや大陸横断鉄道建設に際して、クーリー(苦力)の労働力としての需要が高まったことは世界史の教科書や参考書等でもよく言及されておりますので、そのあたりについては基本事項かと思いますが、設問では北米だけではなく「南北アメリカ」となっておりますので、北米の事情だけを書いたのでは不十分です。そのため、当然南アメリカ(または、この場合当然中米も含むと考えるのが妥当かと思いますので、中南米)の状況についても言及しなければならないのですが、意外に19世紀の中南米の状況について言及している教科書や参考書がないのですね。ですから、この部分についてはある程度の根拠に基づいた類推で書くことが必要になるかと思います。事実から言えば、イギリスが1807年に奴隷貿易を廃止し、1833年に奴隷制度を完全廃止したことにともない、カリブ海における英領植民地でも奴隷制度が廃止されます。その結果、ジャマイカをはじめとするサトウキビ=プランテーションの労働力としてアジア系労働者の数が増えていきます。また、ラテンアメリカ諸国でも、1888年まで奴隷制を継続するブラジルなどを除いて、多くの国で奴隷制が廃止されます。その結果、鉱山やプランテーションの労働力として中国人労働者が連れてこられるようになります。上述したマリア=ルス号事件の船もペルー船籍でした。(

この事件は日本政府が国際裁判の当事者となった初めての事例と言われており、ペルー政府との間で争われましたが、最終的にはロシア皇帝アレクサンドル2世の仲介による国際仲裁裁判が開催され、日本側の措置を妥当とする採決が下されました。)

 

③ 東南アジアで急増した理由

(英領植民地:海峡植民地から発展しつつあったマレー連合州[1895]

 ・植民地経営(錫やゴム)

 ・華僑資本の進出

 

(オランダ領東インド[インドネシア]

 ・植民地経営への転換

1830以降の強制栽培制度

19世紀後半にはプランテーション経営へ[コーヒー、サトウキビ、藍など]

 

(その他)

 ・米領(旧スペイン領)フィリピン、仏領インドシナなど

 

:東南アジアについても、世界史の教科書などでクーリーなどの移住について直接言及している箇所はほとんどないですが、これらの地域についてはマレー半島の英領植民地や、オランダ領東インドなど、プランテーションや鉱山採掘などの植民地経営がなされている地域がたくさんありますので、それらの地域の実態を書きつつ、移民が増加したことを指摘してあげればよいでしょう。特に、英領マレーの錫鉱山やゴムのプランテーションと、複合社会(イギリス人、中国人、インド人、マレージン)の形成や、蘭領東インド(ジャワ島)の強制栽培制度[政府栽培制度]からプランテーション経営への転換などは重要です。

注意しておきたいこととしては、ジャワ島でファン=デン=ボスが導入したとされる強制栽培制度は、「現地住民に指定の農作物(コーヒー、サトウキビ、藍など)を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げる」制度で、ここにクーリーの入りこむ余地は基本的にはありません。(実態面では、半ばプランテーション化した地域などへの移住者等はいたかと思いますが。)栽培の強制のされ方自体にはいろいろな形態があったようですが、おおよそ村落ごとに5分の1程度までの耕地がこれら商品作物の栽培のために利用されたと考えてよいようです。この制度は商品作物を安価に仕入れて転売することができたオランダ当局に大きな利益をもたらしはしましたが、非効率的で、かつ現地の食糧事情などを考慮せずに実施したことがもとで飢饉などを引き起こしたことから批判が高まり、1870年代には廃止され、新たに私企業がプランテーションを経営する方式に切り替えられていきます。実際には、この変化は1870年代に急に進んだのではなく、すでにそれ以前から徐々に進んでいた変化であろうとは思いますが、形式上は、プランテーション経営への切り替えがあって初めて中国からの労働力供給が問題となりますので、「強制栽培制度により中国人移民が増加した」と書くのは避けて、「強制栽培制度に代わりプランテーション経営がなされた結果、中国人労働者の需要が増した」とする方が、理屈の上ではすっきりします。

また、マレーやジャワ以外の地域でということであれば、フィリピンやフランス領インドシナを想定するとよいかと思います。

 

④ 海外移住者の中国本国の政治的動きに対する影響

:この設問の一番の問題点がこの部分かと思います。出題者が意図しているのかどうかはわからないのですが、「海外に移住した中国の人々」は全く同じような立場だったわけではありません。当時、海外に移住していた中国人は大きく分ければ以下のように分類できるかと思います。

 

A、設問の指定時期以前からの海外移住者(南宋以降の南洋華僑[12-16世紀]

cf.) 「南洋」とは、浙江省以南の福建省や広東省を指す

(華北の北洋[遼東・直隷・山東]に対する語)

B、19世紀以降クーリー(労働者)として渡航したもの

C、19世紀以降海外(特に東南アジア)に進出した中国資本

 

これらのうち、Aについては、地縁、血縁を利用した交易活動に早くから従事していました。しかし、清朝の時代に入ると海禁が厳格化されたために対立の原因となり、反清傾向を強めていきます。本設問の「海外に移住した人々」がこれらの人々を含むかという問題ですが、その直前に「19世紀から20世紀はじめに中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景には」とありありますので、時期的に「含まない」と考えるのが妥当でしょう。

一方、Cはいわゆる民族資本家として成長していきます。通常、民族資本家とはその土地に住む土着資本のことを指しますが、この時期に東南アジアに移住した華僑については、完全に本国との関係を断つのではなく、本国にも多くの血縁、地縁に基づき密接な関係を残している資本家が多いため、民族資本家と表現しても差し支えはないかと思います。民族資本家と表現するのが気持ち悪い場合には「華僑」の語を用いても良いかと思いますが、上記のようにひとことで「華僑」と言っても、その内容は一様でないことには注意を払うべきでしょう。

さて、AやCは移住してきたBを吸収して現地社会におけるコミュニティを強化し、影響力を拡大していきます。AもCも経済活動の自由を求め、また当時の清の方針と対立していたことから様々な形で反清運動や反植民地運動に協力することになります。こうした中で、資金面や人的資源の面などから、孫文の率いる革命運動の支援や中国における利権回収運動などを支援していくことになります。これが、辛亥革命(1911)へとつながっていくことになります。

 また、「海外に移住した人々」は商売を目的としたり、労働力として移住した人々以外にも、日本などに留学した留学生が多数おりました。1905年に科挙制度が廃止されたこともあり、清では西欧式の教育を導入するとともに留学を奨励しました。1900年代の清国では日本に留学する人々があとを絶たず、辛亥革命直前には数万人が日本で留学していたとされています。こうした留学生の多くは、留学先で新しい思想に触れる中で革命思想に傾倒する人が増えていきます。中国同盟会成立時には、その会員の大部分が日本で学ぶ留学生でした。孫文だけでなく、華興会を作って中国同盟会に合流した黄興、後の国民党指導者である宋教仁、国民党左派として後に蒋介石と対立する汪兆銘など、辛亥革命に際して重要な役割を果たした指導者の多くは日本への留学経験者でした。ですから、海外に移住した人々が本国の政治に与えた影響としては、以下の2点を中心に具体例を交えて書けば良いかと思います。

 

・華僑による革命運動支援

:資金面、人脈面での革命組織支援、利権回収運動などへの資金提供

・留学生による革命運動の指導

:孫文による中国同盟会結成(1905)など

 

【解答例】

 アヘン戦争後の海禁崩壊で中国人の海外渡航が可能となり、太平天国の乱やアロー戦争で政治と経済の混乱が続き、買弁などの仲介者が移民契約を進めたことから、海外渡航者数が増加した。北米のゴールド・ラッシュ、南北戦争後の奴隷制廃止と急速な経済発展、大陸横断鉄道敷設などはクーリーと呼ばれた中国人労働者をひきつけた。中南米の旧スペイン領やカリブ海の英領植民地奴隷制の廃止によりサトウキビ・プランテーションや鉱山労働者の需要が増加した。東南アジアでも、当初強制栽培制度を実施したオランダが19世紀後半からコーヒー、サトウキビ、藍などのプランテーション経営に切り替えたことや、海峡植民地から発展したマレーの英領植民地でゴム栽培や錫採掘の進展したことから、増加した中国人労働者をすでに同地に居住していた南洋華僑が組み込みコミュニティを形成した。光緒新政が進む中で留学生も日本などに移住した。成長した華僑や留学生は、啓蒙運動や利権回収運動などを支援し、孫文の中国同盟会結成などの革命運動の力となり、辛亥革命の一因となった。(450字)

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2001年東大の問題は、エジプト5000年の歴史をわずか540字で書け、という設問でした。最近はあまり見ていませんが、東大は時々こうした「ある特定の地域の歴史的発展」について書きなさいという設問を出題していました。たとえば、1995年の「ローマ帝国成立からビザンツ帝国滅亡までの地中海世界」や1999年に出題された「紀元前3世紀~紀元15世紀にかけてのイベリア半島史」などがあります。また、少し毛並みは違いますが、イスラーム世界をテーマにかなり長い期間を設定してその歴史的展開を問う設問などもたびたび出題されています。

注意しておきたい点は、これらの設問のどれもが「世界史的視点」からその歴史的発展を問うものであって、ある特定の地域がテーマとなっているからと言って決して一国史的な視点から問われているものではない、ということです。本設問でも、周辺の政治勢力との関係が非常に重要な視点であることが明確に示されており、広域にわたって諸文明や異なる民族同士が交流や対立を繰り広げる中で、どのように歴史が展開されてきたのかという世界史のダイナミズムを問う東大の出題スタンスについては、近年の出題と比較しても大きなブレはありません。

エジプト史は、高校世界史でも比較的情報量が多い分野で、かつ複数の民族が入り交じる地理的な要地でもあります。ですから、相当に情報の取捨選択を行わないと、5000年の歴史的展開をわずか540字でまとめることは不可能だと思います。幸い、設問は「政治勢力の侵入」に対してエジプト側がどのような対処をしたのかと、テーマをかなり限定してきていますので、経済・社会・文化史的要素はかなりの部分省略することができます(政治的勢力の変遷にかかわる部分はその限りではありませんが)が、それでも、何がテーマとなっているのかを見落とすとただの情報の羅列になってしまったり、的外れな解答を書き上げてしまう危険性がありますので、論述を書き始める前に全体像をある程度は見定めておきたい設問かと思います。

 

【1、設問確認】

・エジプト文明発祥以来の歴史的展開を概観せよ

・エジプトに到来した政治勢力の関心や進出にいたった背景を考慮せよ

・進出をうけたエジプト側がとった政策や行動を考慮せよ

・指定語句(一度は用いて下線を付せ)

:アクティウムの海戦 / イスラム教 / オスマン帝国 / サラディン / ナイル川 / ナセル / ナポレオン / ムハンマド・アリー

18行(540字)以内

 

(ヒント)

・エジプトに到来した政治勢力=エジプトに深い刻印を残した勢力

 

【2、指定語句の整理(時代的な)】

:冒頭でもご紹介した通り、エジプト5000年の歴史をイチから全て描き出すことは容易ではありません。そこで、本設問については、指定語句をヒントにしてこれらを整序し、おおよその流れを組み立てた上で、どの分が抜けているかを検討するという方法が一番時間的なロスも少なく解答を仕上げられるのではないかと思います。時代順に並べ替えてみると、おおよそ以下のような形になるのではないでしょうか。

東大2001_エジプト史整理 - コピー

さて、この表を見てみると、次の①~⑤の点に気づきます。

 

①紀元前がすっぽり抜け落ちていること【重要】

②ローマ帝国~イスラームによる占領までが抜け落ちていること

③オスマン帝国によるマムルーク朝滅亡からナポレオンのエジプト遠征までが抜けていること

④近現代史がやや手厚いこと【わりと重要】

⑤ナセル以降のエジプト現代史が抜けていること(ただし、出題は2001年当時)

 

以上の点を考慮すると、大まかではありますが時代的なくくりは以下のようなものが必要になります。

 

A、エジプトの文明発祥~プトレマイオス朝の滅亡まで

B、ローマ帝国支配下~イスラームによる占領まで

C、イスラームによる占領~アイユーブ朝・マムルーク朝の統治まで

D、オスマン帝国による占領~ナポレオンのエジプト遠征まで

E、ムハンマド=アリーの自立~イギリスによる植民地化(保護国化)まで

F、イギリス支配~独立運動やナセルによるスエズ運河国有化まで

G、ナセル以降

 

そこで、次の手順ではこの抜けている箇所も含めて時代順に何を書くべきか、情報の取捨選択について検討していきたいと思います。

 

【3、時代ごとに書くべき内容を検討】

(A、エジプトの文明発祥~プトレマイオス朝の滅亡まで)

:この時期のエジプトについての大きな流れは「文明発祥」→「古王国・中王国・新王国」→「海の民の侵入」→「アッシリアによるオリエント統一」→「四国分立(メディア・リディア・新バビロニア・エジプト)→「アケメネス朝によるエジプト征服」→「アレクサンドロスの遠征」→「ヘレニズム時代とプトレマイオス朝」となります。東大受験を目指すのであれば、できればこれくらいの流れは頭の中で出せるようにはしておきたいところです。全部が難しくても8割くらいは思い浮かべられるようにしておくべきかと思います。

もっとも、これらをただ並べればよい、ということではなく、外部の政治勢力の関心や進出に注目してまとめるとすれば、以下のような内容になるでしょう。

 

① ナイルの恵みによる文明の発生

cf.)「エジプトはナイルの賜物」(ヘロドトス)

② 古代王朝の発生 

cf.) 都市国家(ノモス)の統一、ファラオ

③ ヒクソスの侵入 

cf.) 中王国の末期、騎馬と戦車を伝える

④ 新王国とヒッタイトの抗争 

cf.) カデシュの戦い、鉄器

⑤ 海の民の侵入

⑥ クシュ王国の侵入 

cf.) ヌビア(スーダン)の黒人王国、第25王朝

⑦ アッシリアのオリエント統一

⑧ アケメネス朝のエジプト征服 

cf.) カンビュセス2

⑨ アレクサンドロスの遠征 

cf.) アレクサンドリアの建設

⑩ プトレマイオス朝 

cf.) ヘレニズム文化、ムセイオン

⑪ ローマ(オクタウィアヌス)によるプトレマイオス朝の滅亡

cf.) アクティウムの海戦

 

(B、ローマ帝国支配下~イスラームによる占領まで)

:オクタウィアヌス(アウグストゥス)以降、エジプトはローマの属州となります。ここでおさえておきたいことは、エジプトが重要な穀倉地帯(小麦の生産地)となっていくことです。その後、395年にローマは東西に分裂しますが、その頃にはすでにローマ帝国の中心地は西のローマから東のコンスタンティノープルにうつっていました。476年に西ローマ帝国はオドアケルに滅ぼされますが、エジプトはそのまま東ローマ帝国の統治下にとどまります。この時代に書くべきことは、以下のような内容で十分でしょう。

 

① ローマ(オクタウィアヌス)によるプトレマイオス朝滅亡とヘレニズム時代の終焉

cf.) アクティウムの海戦、クレオパトラ

② ローマの属州

cf.) 穀倉地帯化(小麦の生産地)

③ 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下

 

(C、イスラームによる占領~アイユーブ朝・マムルーク朝の統治まで)

:エジプトに新たな支配者がやってくるのは7世紀の正統カリフ時代で、第2代ウマルの時にエジプトはアラブ人たちイスラーム勢力に占領されました。イスラーム勢力はジハードに際して各地に軍営都市(ミスル)を築きましたが、そのうちの一つがフスタート(後のカイロ)です。

その後、エジプトの支配者はウマイヤ朝、アッバース朝、さらにアッバース朝から一時独立したトゥールーン朝と続きますが、カイロを中心としたその後のエジプト支配の基礎が築き上げられるのはファーティマ朝がエジプトに侵入してからのことです。シーア派を信奉していたファーティマ朝は、自王朝の正当性を確保するためにカイロにアズハル学院を建設します。しかし、ファーティマ朝が11世紀頃から衰退を始めると、かわってスンナ派のアイユーブ朝がエジプトの支配者となります。この頃、その世界を膨張させ始めていた西ヨーロッパは第3回十字軍を派遣しますが、これはアイユーブ朝を建てたサラディンによって撃退されました。その後、アイユーブ朝からマムルーク朝へと王朝が引き継がれる頃にイル=ハン国のフラグ率いるモンゴル勢力がシリア、パレスティナあたりまで迫りますが、これをアイン=ジャールートの戦い(1260)で退け、その後はモンゴルを撃退した5代スルタンのバイバルスの下でまとめられていきます。アイユーブ朝、マムルーク朝の頃にはカイロを拠点として紅海からインド洋にかけて交易したムスリムのカーリミー商人たちが保護され、彼らはこの頃からエジプトの特産となった砂糖(サトウキビ)などを交易品として扱い、カイロはアッバース朝時代のバグダードに代わって政治・経済・文化の中心地となっていきます。また、彼らが扱う東方からの香辛料や絹織物、陶磁器などは北イタリア商人たちの東方貿易によってヨーロッパにももたらされました。

 

① イスラームによる占領

cf.) 正統カリフ時代(ウマル)、フスタートの建設

② カイロの繁栄

cf.) ファーティマ朝(シーア派)、アズハル学院、バグダードにかわる中心地

③ アイユーブ朝、マムルーク朝

cf.1) 第3回十字軍の撃退、アイユーブ朝(サラディン)、スンナ派

cf.2) モンゴルの撃退(ただし、モンゴルはエジプトまでは到達していない)

cf.3) カーリミー商人の活躍とカイロの繁栄、サトウキビの栽培、東方貿易

 

(D、オスマン帝国による占領~ナポレオンのエジプト遠征まで)

:マムルーク朝は16世紀の初めにオスマン帝国のセリム1世によって滅ぼされます。その後、エジプトはオスマン帝国の支配下に入ることになり、この地にはエジプト総督が置かれました。18世紀に入り、オスマン帝国の衰退がすすむ中で地方の自立が進みつつありました。こうした中で18世紀末に発生したナポレオンによるエジプト遠征はエジプト人の民族意識を刺激することになります。

 

① セリム1世によるマムルーク朝滅亡とオスマン帝国支配

② ナポレオンのエジプト遠征とエジプト民族意識の覚醒

 

(E、ムハンマド=アリーの自立~イギリスによる植民地化[保護国化]まで)

:ナポレオンのエジプト遠征が起こったころ、アルバニア人の傭兵隊長としてこれに対処して台頭したムハンマド=アリーは、カイロ市民の支持を背景に1805年にエジプト総督の地位につくと、独自の近代化策を打ち出します。それまでエジプトの統治を担っていたマムルークの一掃に成功した彼は、アラビア半島のワッハーブ王国を滅ぼし、スーダンにも遠征するなど、その勢力を拡大しました。ギリシア独立戦争ではオスマン帝国側について戦いましたが、その見返りとしてシリアを要求し、一時は支配下に入れるなど独立傾向を強め、最終的には第二次エジプト=トルコ戦争後のロンドン会議でエジプトとスーダンの総督世襲権を手に入れてオスマン帝国から独立し、ムハンマド=アリー朝が開かれました。

 その後、領内の近代化やインフラ整備が進み、フランスのレセップスの提案と支援により1869年にスエズ運河も開通しますが、こうした開発のためには外国資本が導入され、外債が積みあがっていきました。1860年代はアメリカの南北戦争の影響で綿花価格の乱高下など、コモディティの国際価格は不安定で、小麦、綿花、砂糖といった一次産品に依存する形の経済であったエジプトは、同様の経済体制であったオスマン帝国とともに1870年代に財政破綻します。この結果、1875年にイギリスはスエズ運河会社株を買収することに成功し、エジプトに対するイギリスの経済進出が進んでいくことになりました。

 

① ナポレオンのエジプト遠征とエジプトの民族意識の覚醒

② ムハンマド=アリーの台頭と自立化

③ エジプト=トルコ戦争とムハンマド=アリー朝の開始

④ スエズ運河の開通

⑤ 英によるスエズ運河会社株買収とエジプトの財政破綻

 

(F、イギリス支配~独立運動やナセルによるスエズ運河国有化まで)

:イギリスの経済支配が進むと、これに抵抗するエジプト人の民族運動が高まります。その結果、エジプトでは「エジプト人のためのエジプト」を掲げるウラービーの反乱(18811882)が発生しますが、これはイギリスによって鎮圧され、エジプトにイギリス軍が展開した結果、エジプトは事実上イギリスの保護国となりました。同時期には、スーダンでマフディーの乱(18811899)が発生していますが、本設問の対象は「エジプト」ですから、本設問では書かなくても良いかと思います。

 その後、第一次世界大戦の終わるころからエジプトではワフド党の民族運動が展開されます。こうした運動に対して、イギリスは1922年には条件付きでエジプトの独立を認め、1936年にはエジプトの完全主権を認めるエジプト=イギリス同盟条約を締結するなど、段階的なエジプトの独立を認めつつ、スエズ運河ならびにスーダンの駐兵権を維持して実利を維持しようと試みました。

1024px-Cairo-Demonstrations1919

Wikipedia「エジプト革命(1919年)」より、カイロでのデモ行動)

 

第二次世界大戦中にも、エジプトは基本的にはイギリスの拠点として機能しましたが、戦後のパレスティナ戦争(第一次中東戦争)でのアラブ諸国のイスラエルに対する敗北が強い衝撃となって、旧態依然とした王政に対する批判が高まり、エジプトではナギブ、ナセルらの率いる自由将校団によるエジプト革命が発生します。その後、ナギブとの関係が悪化したナセルはナギブを失脚させて軟禁し、ナセルが首相、次いで大統領に就任します。大統領に就任したナセルは、かねてから計画されていたアスワン=ハイ=ダムの建設費用のための融資が撤回された(イスラエルとの対立に加えて、当時、非同盟主義にたって第三勢力の一角となりつつあったエジプトは、武器供与に関する問題で西側諸国の一部と対立していた)ことをきっかけに、スエズ運河の国有化宣言を行いました。これを契機として発生したスエズ戦争(第二次中東戦争、1956-57)では、英・仏・イスラエルがエジプトを攻撃したものの、国際世論の批判に加えてソ連の介入と強硬姿勢を危惧したアメリカのアイゼンハウアーが国連を介して英・仏・イスラエルを批判して撤退を迫ったため、三国は撤退します。これによりスエズ運河国有化を実現して実質的勝利を収めたナセルの声望は増し、ナセルを中心とするアラブ民族主義の高揚がこのしばらく続くことになります。

 

① ウラービーの反乱

cf.) 「エジプト人のためのエジプト」、事実上の保護国化、マフディーの乱

② ワフド党の民族運動と段階的独立

cf.) 条件付き独立(1922)、エジプト=イギリス同盟条約(1936

cf.) ムスリム同胞団

③ 英のスエズ運河利権確保

④ 第1次中東戦争とエジプト革命

cf.) ナギブ、ナセル、自由将校団

⑤ ナセルのスエズ運河国有化と第2次中東戦争

cf.) アラブ民族主義の高揚

 

(G、ナセル以降)

:ナセルを中心に高まったアラブ民族主義でしたが、早くも1960年代には挫折に直面することになります。ナセルは、1958年にシリアと合同してアラブ連合共和国を成立させましたが、エジプト寄りの政策に失望したシリアが1961年にはこれを離脱し、合同は解消されていきます。また、1967年に発生した第3次中東戦争ではイスラエルの奇襲に敗れ、シナイ半島を失うなど、その領土を大きく減らすことになり、ナセルの名声は失墜します。

 ナセル死後、シナイ半島奪還を目指したサダト大統領でしたが、1973年の第4次中東戦争でもこれを果たせず、うち続く戦争によりエジプトの経済は疲弊しました。これを解決するためにサダトはアメリカへの接近と、それを通した外交交渉によるシナイ半島の回復を考えます。最終的にはアメリカのカーター大統領の仲介により、1978年のキャンプ=デーヴィッド合意がサダトとイスラエルのベギン首相との間でなされ、これに基づいて翌1979年にエジプト=イスラエル平和条約が締結されてシナイ半島の返還が約束され、順次返還されました。サダトは、この条約に反発したイスラーム主義組織によって暗殺されますが、その後成立したムバラク政権でも、アメリカ、イスラエル寄りの外交政策は維持されることになります。

 

【キャンプ=デーヴィッド合意の後、記者会見を行うカーター、サダト、ベギン(Wikipedia「キャンプ=デーヴィッド合意」より)】

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?title=File%3APresident_Carter%27s_Remarks_on_Joint_Statement_at_Camp_David_Summit_(September_17%2C_1978)_Jimmy_Carter.ogv

 

 さて、本設問がもし現在(2021年時点)で出題されたとしたなら、かつ字数が現在の東大で出題されるように600字の論述であるならば、ムバラク政権下で発生したアラブの春あたりまでを視野に入れた解答作りをする必要があるかと思います。ですが、本設問が出題されたのは2001ですので、書いてもエジプト=イスラエル平和条約あたりまでを想定しておけば良いかと思います。外部の政治勢力の進出について書くことが想定されていること、シナイ半島を奪われたことなどを考えれば、できれば第3次中東戦争には言及しておきたいところで、ナセルのスエズ運河国有化で終わるのはどうかなぁ、と思います。ただ、いかんせん字数が540字とかなりタイトなので(もっとも、この年はそれまでと比べてやや増量されているのですが)、情報の取捨選択によってはスエズ運河国有化で終わってしまってもやむなし、という気もします。大切なことは満点解答を作成することではなく、合格点に至る解答を作成することですから、各自の状況に応じて検討し、必要な点数を確保しに行くべきかと思います。

 

① アラブ民族主義の高揚と衰退

cf.) アラブ連合共和国、第3次中東戦争

② 第3次中東戦争(1967)の敗北とシナイ半島の喪失

③ サダト政権下の方針転換

cf.) 4次中東戦争(1973

キャンプ=デーヴィッド合意(1978

エジプト=イスラエル平和条約(1979

シナイ半島返還、アラブ諸国内での孤立化

 

【解答例】

ナイル川により農耕の発展したエジプトでは、ノモスを統一したファラオの下で王国が築かれ、ヒクソスやヒッタイトと抗争しつつ発展したが、海の民襲来で衰退した。アッシリアやアケメネス朝支配の後、アレクサンドロスの遠征で築かれたアレクサンドリアは、ヘレニズム世界の中心として栄えた。アクティウムの海戦で勝利したオクタウィアヌスがプトレマイオス朝を滅ぼすと、重要な穀倉地帯としてローマ、ビザンツ経済を支えた。イスラム教勢力進出以降は、アズハル学院を築いたファーティマ朝、十字軍を撃退したサラディンのアイユーブ朝、モンゴルを撃退したマムルーク朝がカイロを中心地とし、カーリミー商人を保護してヨーロッパとも交易した。セリム1世の征服以降はオスマン帝国支配下に入ったが、ナポレオンのエジプト遠征で台頭したムハンマド=アリーの下で自立化した。財政破綻でスエズ運河会社を英に買収され、ウラービーの反乱鎮圧後に事実上の保護国とされてからは英に搾取されたが、エジプト革命後に実権を握ったナセルのスエズ運河国有化宣言から発生したスエズ戦争で英は撤退した。第3次中東戦争の敗北でアラブ民族主義が勢いを失った後には、サダトがシナイ半島奪還のために米に接近してエジプト=イスラエル平和条約を締結し、これを達成した。(540字)

 

指定語句が「イスラム教」でしたので、そちらは指定のままにしてあります。今なら「イスラーム」でしょうね。それにしても、キッツキツですねw ちなみに、とりあえず全部入れてみようかなとおもって何も考えずに書いた最初の解答例は950字くらいありましたw そらそうだよー、エジプト5000年の歴史だもん。500字で書いたら「1字=10年分」よ?東大さんも無茶言ってるなってことに気づきましょうね?多分、素直な人ほど苦労するタイプの設問だったんじゃないかなぁと思います。思い切って大胆に省略しちゃうことも大切ですよ!「ソ連」みたいにw

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2007年の東大大論述は、農業生産の変化が各地の社会にどのような変化をもたらしたのか、でした。東大では、小論述ではわりにこうした農業史についての出題があるのですが、大論述でここまで農業が社会に及ぼした変化をガッツリ書かせようという問題は比較的珍しいように思います。経済史・社会史というくくりにしてしまえば大論述でも良く出題されますが、その場合は交易や移民といった要素が前面に押し出された設問で、この年のように「農業!」という設問は新鮮にうつりました。その昔、農業型サイボーグ「サイボーグじいちゃんG」が異彩を放ったのと同様かと思います。ちなみに、大好きでした。コミックスばっちり買いましたw 

さて、東大の大論述としては比較的珍しい設問ではあったものの、実は内容的には世界史の王道を行く内容です。特に、「農業技術の進歩」が「農業生産の向上」につながり、それが「人口増加」や「商工業の発展」を促して最終的に社会を大きく変化させていく、という構図は世界史を勉強していると「またか!お前~」と思いたくなるほどたくさん出てきますので、きちんと世界史を勉強している人であれば「ああ、あれね」と思えるテーマであるかと思います。今回の設問とは時期が違いますが、たとえば古代中国における「牛耕と鉄製農具の導入」が「農業生産の向上」につながり、それが「家族単位の農業経営を可能にした」ことが、それまで人々が生きていくにあたって依存せざるを得なかった「氏族共同体の解体や価値観の変化」につながるという社会変化をもたらす、あるいは、「余剰生産物の発生」が「商工業の発展」につながり、「青銅貨幣の流通や都市の成長」につながる、などというのは、11世紀ヨーロッパの農業技術の進展から商業ルネサンスへの流れとそっくりです。非常にわかりやすい構図で汎用もきくので、世界史を勉強している受験生は意識しておくと話が分かりやすくなるかと思います。

ただ、まぁ、わかりやすいんですけどね…、下部構造(生産様式)に上部構造(社会制度、組織、イデオロギー)が影響されるという過度にモデル化された図式にはマルキシズムの残滓を感じますねぇ~w ま、分かりやすいからいいんですけど、いつも上に書いたような流れを説明しながら「まぁ、本当にそうかどうかは眉唾だけどね…」と思っていますw 教科書に書いてあることが常に歴史的に正確であるとか、実態を表しているとは限りません。(もっとも、史資料に基づいた研究の蓄積ですから、根拠のない荒唐無稽な話ではないですが。)

少し脱線します。小学校、中学校、高校で使ういわゆる「歴史の教科書」は基本的には「歴史学に厳密に照らして、正確であるか」よりも、「その教科書を使う人にとって、分かりやすいか」を基準に書かれています。そのよい例が日清戦争の講和条約(下関条約)です。中学受験する小学生は、日清戦争を学ぶときには決まって「賠償金2(テール)(日本円で3億円)をもらってその金で八幡製鉄所ダー」と覚えさせられるのですが、高校世界史ではなぜかそれは鳴りを潜めて、むしろ「朝鮮の独立を認める」といった内容がむしろ強調されます。これは、朝鮮への進出を考える日本が朝鮮の宗主国であった清にその宗主権を放棄させるという意味で非常に重要な内容なのですが、中学受験向けの教科書では書いていないか、あまり強調されません。それは、「清の宗主権を放棄させて…」と小学生に言ったところでわからんのに対し、「戦争で買ったから賠償金ゲットだぜ!製鉄所もたてちゃうぜ!フー!」の方が分かりやすいからです。このように、文章を書くという行為は(誰かに読まれることを前提としている限りは)双方向のコミュニケーションですから、書き手は常にだれに向けてのものなのかを考えて書く必要がありますし、読み手はその文章が何を目的に書かれたのかを意識する必要があります。そうでないと、その文章の持つ奥底の深い部分、行間からにじみ出る雰囲気や感性を感じることはできないからです。

また脱線してしまいましたが、この年の設問は、多少時間や地域の設定の仕方に無理はあるものの、その難易度といい、農業という基本的な生産手段がいかに広い範囲に影響を与えるかというテーマを受験生に考えさせる点といい、良問かと思います。

 

【解答手順1:設問内容確認】

・時期は11世紀から19世紀

・指定語句から、少なくとも中国とヨーロッパについては時期を明確にしておくとよい

 中国:宋代~清代(1000年代~1800年代)

 欧州:中世中期~近代

・農業生産の変化について述べよ。

・農業生産が変化したことの意義について述べよ。

 

ヒント1:農業生産の変動は人口の激減と密接に連動した。

ヒント2:耕地の拡大

ヒント3:農地の改良

ヒント4:新作物の伝播

→これらは「人口増加」、「商品作物栽培」、「工業化」、「分業発展と経済成長」につながった

 

:上のヒントについて言うなら「ヒント1~4」が「農業生産の変化」であり、→以降の内容がその意義ということになりますね。また、

ヒント5:凶作による飢饉が世界各地にたびたび危機をもたらした

と、凶作・飢饉についても言及するように述べられています。

 

【解答手順2:指定語句と設問から関連地域を予測】

(中国) 湖広熟すれば天下足る / 占城稲

(ヨーロッパ) アイルランド / 農業革命 / 三圃制 / 穀物法廃止

(新大陸) アンデス / トウモロコシ

 

【解答手順3:各地域について考察】

:設問自体は「世界各地」とか「農業」といったアバウトな設定しかしていないのですが、指定語句を分析すると、基本的には「中国」、「ヨーロッパ」、「新大陸」に絞ってよいことが分かります。そこで、ここでは「中国」、「ヨーロッパ」、「新大陸」のそれぞれについて、世界史で学習する農業関連の重要事項を簡単にまとめてみたいと思います。

 

(中国)

宋代

・蘇湖熟すれば天下足る(長江下流域の穀倉地帯化)

・背景として、占城稲などの新品種の導入、竜骨車などの新技術

・干拓による囲田・圩田・湖田などの開発

→重税、副業としての手工業発達、商品作物の栽培(綿花・桑など)、都市化と人口増加

明代

・湖広熟すれば天下足る(長江下流域の都市化にともない、長江中流域が新穀倉地帯に)

・沿岸地域の商工業発展と海外貿易の増加による銀の流入

→中国における銀経済の発達

 

清代

・新作物の導入(トウモロコシ:山地で栽培、他にサツマイモ・ジャガイモなど)

  →人口増加、東南アジア地域への流出(華僑)

 

(ヨーロッパ)

11世紀頃

・三圃制、重量有輪犂の導入

→人口増加→西欧の膨張(大開墾時代、十字軍、東方植民、レコンキスタ)

 

16世紀頃

・「商業革命」と「価格革命」

→国際分業体制の成立(グーツヘルシャフト)

・アジア・新大陸産物の流入による「生活革命」

→コーヒー・茶・砂糖・綿織物などの需要急増

→世界各地での栽培開始(プランテーション、モノカルチャー化)

 

18世紀後半以降~

・農業革命(ノーフォーク農法、第2次囲い込みなど)

  →人口増加、農村労働者の増加と資本主義的農業経営の拡大

  →ナポレオン戦争中の穀物価格急騰と地主による利益追求

  →小麦輸出とアイルランドのジャガイモ飢饉、アイルランド人移民

  →一方で、さらなる人口増加と、産業革命時の労働力供給

  →台頭する産業資本家と地主層の対立

  →自由主義の高揚とコブデン・ブライトの反穀物法同盟結成、穀物法廃止(1846

  →航海法廃止(1849)による英の自由貿易体制確立

 

(新大陸)

・大航海時代→アンデス原産の作物が各地へ伝播(清・日本:青木昆陽『蕃諸考1735』)

・商品作物のプランテーション栽培(サトウキビ・タバコ・綿花・コーヒー)

 

おおよそ、上記の内容を丁寧に配置すれば解答は書けるかと思います。

 

【解答例】

 中国では、宋代の占城稲や竜骨車の導入、干拓による耕地拡大から、長江下流域が穀倉地帯化し「蘇湖熟すれば天下足る」と言われ、重税に対処するための副業から綿花・桑などの商品作物栽培や手工業も発達した。明代には、都市化した長江下流域から中流域に穀倉地帯が移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われた。西欧でも、11世紀頃から三圃制や重量有輪犂導入で農業生産が向上して人口が増加し、十字軍や東方貿易などの西欧の膨張につながった。大航海時代到来は、商業革命と価格革命による東西ヨーロッパの価格格差をもたらし、東欧のグーツヘルシャフト発展を促して国際分業体制を成立させた。生活革命とコーヒー・茶・砂糖・綿織物などの需要急増は、アジアや新大陸における商品作物栽培とモノカルチャー化を促した。トウモロコシやジャガイモなどのアンデス産作物の伝播は、清の人口増加や華僑流出、アイルランドの飢饉と合衆国への移住など、各地の人口動態に影響を与えた。18世紀の英に始まるノーフォーク農法や第二次囲い込みによる農業革命は、資本主義的農業経営の拡大をもたらし、地主の利益追求型の経営は台頭する産業資本家の反発を買い、穀物法廃止や英の自由貿易体制確立に影響した。

510字)

 

正確には、トウモロコシはアンデス原産ではなくもともとはメキシコなどで育てられていたものがアンデス地方の重要な作物になっていくものですが、目をつぶりました。(そもそも、アメリカ大陸「原産」であることはわかりますが、実際のところは判然としません。栽培自体はメキシコの方がアンデスよりもかなり早かったようですが、後にアンデスでも重要な作物になっていきます。解答では「原産」の語を使わずに「アンデス産」としてごまかしましたw)

解答の作り方は、もちろん「中国では~」と中国について宋代から清代までを書き、「ヨーロッパでは~」とヨーロッパ中世から近代までを書く、といった書き方もできるのですが、ここで注意したいのは大航海時代の影響です。大航海時代の引き起こす商業革命・価格革命は、ヨーロッパの国際分業体制を成立させるきっかけとなりますし、生活革命は需要の急増した砂糖などをカリブ海プランテーションで栽培させるなど、世界各地の耕作の状況や産業構造を大きく変えるきっかけになります。また、新大陸からアジアへもたらされた文物は、各地に大きな影響を与えます。たとえば、産地でも栽培可能なトウモロコシの栽培は「清の人口増加と、土地不足に起因する中国人の海外流出(華僑の増加)」をもたらしますし、ジャガイモの栽培はこれを主食としていたアイルランドで大飢饉を引き起こし、合衆国へのアイルランド系移民の増加を招きます。ケネディやレーガン、クリントンはアイルランド系ですね。『グレート=ギャツビー』の作者として知られるF=スコット=フィッツジェラルドもアイルランド系です。

何がいいたいかと言いますと、大航海時代をきっかけに世界の農業のあり方が大きく変化するんですね。ですから、「中国は~」、「ヨーロッパは~」とぶった切って書いてしまうと、そのあたりのダイナミズムがいまいち表現できない、ただの情報の羅列になってしまう可能性があります。解答例はその辺のところに注意してみたとお考え下さい。あとは、指定語句と相談してどのあたりまで書けばよいか、情報を取捨選択することになります。

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【定期考査】~【難関大】(頻出)

・石窟寺院は「敦煌、雲崗、竜門」(北魏史もからめて)

:もう、とにかくよく出ます。頻出事項ですが、うろ覚えの人多いです。これらは位置も含めてよく出るので、常に「敦煌、雲崗、竜門」の順でセットにして覚えておくこと。できた時期もこの順番です。

石窟寺院位置 - コピー
その他、ポイントは以下の通り。

 

① 「莫高窟」ときたら敦煌

 

② 雲崗は北魏の最初の都、平城の近く。(平城は黄河の折れ曲がる右肩のあたり)

 

③ 竜門は北魏の孝文帝の頃に遷都された洛陽の近く。

 

Dunhuang_Mogao_Ku_2013.12.31_12-30-18 - コピー
 Wikipedia「莫高窟」より)

 

 雲崗と竜門は北魏の歴史と結びつけておくとよいです。

北魏は北方異民族の五胡のうち鮮卑の拓跋氏が建てた国です。その関係で、初期の都は平城(地図中の雲崗のそば)であり、それまでの中国の政治の中心からはかなり北の方にあります。華北を統一し、寇謙之を重用して新天師道(道教)を国教とした3代の太武帝の頃は、この平城です。(雲崗の石窟は仏教に帰依した4代目文成帝の時に建造が始まります。)

しかし、6代目の孝文帝の頃には漢民族との同化が進み、漢化政策が採られます。その流れで、都も元々の中国の政治の中心地がある南の方にうつり、洛陽に遷都されます。また、農耕民族である漢民族に同化する中で、農村政策も重視されるわけで、この頃に三長制均田制の導入が始まります。竜門の造営が始まるのもこの頃です。

 

 以上の流れをおさえた上で、

・太武帝の頃‐華北統一‐北方拠点

・孝文帝の頃‐漢化政策‐南へ遷都

とイメージしておくとわりと頭の中が整理しやすくなります。

 

 

 

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一橋2011年の問題です。2011年っていうと、ちょうど私がエディンバラの大学院に通っている時期に出された設問なので、リアルタイムでは見ていません。リアルタイムで見ていないといえば、私がリーズに行っていたあたりでAKBが出始めて、帰ってきてから「これってアキバって読む感じ?」と友達に聞いたら、微妙な顔をされて「まぁ、ある意味間違ってはいない」と返されました。エディンバラにいる頃はたしか金爆の女々しくてが流行りまくっていたころで、PVを見た私が「日本大丈夫か?」と言ったら、「それは熱を感じることができない外部の人間の感想だ」と言って怒られました。怒らなくたっていいじゃないか( ゚Д゚)

この年の設問についてですが、テーマとしてはいかにも一橋らしい設問です。特に、大問Ⅰのフス戦争なんかは一橋らしさが全開でハァハァしちゃいます。また、中世の農民反乱を資料から読み解かせるという点では、2014年のワット=タイラーの乱を題材とした設問とも通じるものがありますね。

フス戦争については、マンガなんですけど『乙女戦争(ディーヴチー=ヴァールカ)』が出てますね。「フス戦争をテーマにしたマンガなんて、コアすぎて続くのかな?」と思っていたら、がっつり12巻まで続いて全巻買ってしまいましたw 少々エログロ表現きついので、そういうのが苦手すぎる方は向いてないかもしれませんが、中世の戦争ってそういうものかもしれません。大問Ⅲも、この頃の一橋は清の歴史をよく取り扱っておりましたので、おそらくこの年の受験生にとってはそれほど大変さを感じるものではなかったように思います。大問Ⅱのみ、少し考えさせる設問になっていますね。多分、差がつくとすれば大問Ⅰか大問Ⅱなのではないかと思いますが、設問が小分けになっているので、しっかりと小さい設問を拾った上でじっくり取り組めれば、まったく解けないという類の設問ではないです。標準的な設問かと思います。

 

2011 一橋 Ⅰ

【設問概要】

・フス戦争へと至った経緯を踏まえよ

・フス派が何に対して戦っていたかに重点を置け

・フス戦争の結果と歴史的意義を論ぜよ 

 

:設問は非常にシンプルで、フス戦争に至る経緯、結果、歴史的意義を問う設問です。ただし、注意したいのは史料(プラハの四か条)を示した上で、「フス派が何に対して戦っていたか」という、単純な世界史知識だけでは十分に答えようがない問いを発しているところでしょう。また、フス派やフス戦争については通り一遍の知識で済ませている受験生も多数いると思われますので、それなりに手ごたえのある設問だったように思います。

 

【手順1、史料の読解】

手順としては、本当は先に解答の全体像というか、大きな流れを考えるべきかもしれませんが、受験生にとってフス戦争の全体像はその他の王道を行くテーマと比べるとすんなりとは作れないことが予想されますので、まずは史料の読解を行ってみたいと思います。史料の引用されている『西洋中世史料集』ですが、東京大学出版会から出されています。というか、手元にありますw 史料問題なんかを作るのに便利なのでわりと重宝します。

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「そんなに値の張るものではないので…」と言おうと思って今アマゾンで調べてみたら、「単行本6,722/ 6,630円より中古品14」。…は?たっかw ちなみに、私が買った時は2300円でした。定価は…3200円。価格崩壊してないかw この手の史料を自腹で買わなきゃいけない環境ってどうかしていると思いますけどね…。史資料にいくら自腹切っとるんじゃ、わし。

 さて、本設問では、同史料のうち「チェコの共同体(と、神のもとに忠実なキリスト教徒たち)」がこの4か条以外には求めず、何もなさないことを示す冒頭の文章と、第4条のみが示されています。この史料からは、以下の内容が読み取れれば十分でしょう。

 

① 「チェコの共同体」とは何かを考察する

:フス派は、農民など庶民のみに波及した宗教勢力ではなく、チェコの貴族を巻き込んだ大規模なものでした。また、ベーメン(チェコ)の「ドイツ化」にともなって貴族・庶民の広い層が一定の「民族意識」と言えるものを醸成していたことにも注意が必要です。これについては後述します。

 

② 「死に値する罪」

:このプラハの4か条では、第4条で「死に値する罪」とは何かを列挙しています。それは聖職者による聖職売買、サクラメント(秘跡:洗礼、堅身、告解、聖体拝領、結婚など)やその他の儀式にあたっての金銭の徴収(金銭の徴収が繰り返し示される点に注意)などとされています。このことからは、当時のチェコ(ベーメン)において、これらのことが横行しており、フス派はこれら聖職者の堕落行為については取り締まられるべき行為であると考え、カトリック教会を批判していたことがうかがえます。

 

【手順2、フス戦争にいたった経緯の確認】

:つづいて、フス戦争にいたった経緯ですが、これについては政治的な側面と宗教的な側面の両方を確認する必要があります。もっとも、この頃の政治と宗教って厳密には分けられないものなのだと思いますが、高校生にはきっとその方がまとめやすいかと思いますので。

 

① 政治面

14世紀)

ベーメン王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の統治

‐チェック人としてのアイデンティティを強く持つ

   ‐ルクセンブルク家

   ‐プラハ大学設立、金印勅書の制定、教皇のローマ帰還に尽力(教皇のバビロン捕囚終結)

 =非常に強い力を有していたがゆえに、ベーメンの君主としての性格を損ねずに皇帝位を利用

 

15世紀)

同じルクセンブルク家の統治だが、強い指導力を発揮できず

→ベーメンの‘ドイツ化’の進展(ドイツ系貴族や聖職者の影響力拡大)

→ドイツやカトリック教会による抑圧への反発、チェック人の「民族意識」醸成

 

② 宗教面

A 教会の分裂と腐敗に対する不満

130977 教皇のバビロン捕囚

:カール4世(カレル1世)は教皇がアヴィニョンからローマに帰還するよう尽力

13781418 大シスマ

・教会、聖職者の豪奢な生活

 

B ウィクリフによる教会財産の否定と聖書主義

 

C ウィクリフの影響を受けたフスの改革とフス派の形成

・プラハ大学でウィクリフ支持・不支持の論争

→フス派の優勢、チェコ語による説教、フスのプラハ大学学長就任

(教会の世俗化批判、聖書主義、平信徒もパンとワインによる聖餐)

     ※当時のカトリックの聖餐はワインのみ

→フスのことは貴族も支持

 

D コンスタンツ公会議(14141418)とフスの火刑(1415

:公会議主義と教皇権の衰退もあるが、フス戦争の展開と直接的な関係はない

 

【手順3、フス戦争の展開(本設問では戦争の詳細については不要)】

:続いて、フス戦争の展開について簡単にまとめてみたいと思います。もっとも、本設問では戦争に「至った経緯」と「結果」だけ聞いているので、戦争の詳細については不要です。ただ、フス戦争の簡単な流れを知っておくと、「経緯」や「結果」についての理解も深まると思いますので、示しておきたいと思います。

 神聖ローマ皇帝ジギスムントが会議中の身の安全を保障したにもかかわらず、コンスタンツ公会議でフスが異端とされ火刑に処せられたことに憤激したベーメンのフス派たちは、1419年にプラハ窓外投擲事件(第1回、プラハ城を襲った民衆によって王の使者5名が城3階の窓から投げ落とされた事件)を引き起こしてフス戦争を開始します。ちなみに、この「プラハ窓外投擲(放出)事件」は世界史の教科書には出てきませんが、三十年戦争開始の発端となったベーメンの新教徒反乱(1618)開始の際にも発生しています。これは、1618年に反旗を翻したベーメンの新教徒たちが、1419年の事件を意識して行ったことは想像に難くありません。この第2回の事件の時にはなぜか下に干し草が積んであって、投げ落とされた使者たちは一命をとりとめたそうです。

Defenestration-prague-1618

Wikipedia「プラハ窓外放出事件」より)

 

その後、フス派はフス戦争の英雄で傭兵上がりのヤン=ジシュカによる新戦法(銃・弩・装甲馬車の使用、軍紀の徹底)を導入して、神聖ローマ皇帝ジギスムントの率いる十字軍と対決することになります。当初は、チェコのフス派貴族と庶民も協力し、ジシュカの新兵器と新戦術、強い信仰心によって非常に強力な軍隊となり、神聖ローマ皇帝ジギスムントの十字軍をたびたび破りました。このあたりのことをイメージしたいと思ったら、上述した大西巷一『乙女戦争/ディーヴチー・ヴァールカ』(双葉社)がおすすめです。たしかに、フィクション的要素も多く、また描写にどぎつい部分(拷問、処刑、性暴力、性奴隷などの描写が多く登場します)も多くあり、評価の分かれる作品かと思います。ところどころ歴史的題材についての描写が丁寧に描かれていますし、何よりフス戦争を事細かに描いたサブカルチャーが限られている中で、フス派の内紛やジギスムント配下の貴族の力関係までマンガで描かれているというのは希少かと思います。

 

さて、当初は快進撃を続けたフス派でしたが、次第にフス派内部の急進派(ターボル派)・穏健派(ウトラキスト)の対立やジギスムントの調略工作によって内部分裂が激しくなってきます。その結果、フス派は急進派と穏健派に分かれることになりました。

 

  急進派:厳格な信仰、財産共有制などの社会変革と徹底抗戦を主張

  穏健派:戦争の終結を望む、貴族や都市上層、商人層など

 

こうした中、1434年のリパニの戦いでは、カトリックとフス派穏健派が手を結んで作られた連合軍がフス派急進派を打ち破ります。これによってフス戦争は実質的には終結し、その後のバーゼルの誓約(1436)が結ばれて、フス派穏健派の聖餐が承認されたことによって講和が成立します。また、フス派穏健派に対する異端認定も、その後しばらくして解除されることになりました。重要なことは、フス戦争の終結はフス派の根絶を意味しなかったということです。上述の通り、フス派穏健派は神聖ローマ皇帝やカトリック勢力と妥協することで、フス派式聖餐を承認され、かつ異端認定を取り消されます。つまり、1618年に三十年戦争のきっかけを作る「ベーメンの新教徒」というのは、このフス派穏健派の流れをくんでいるわけです。

Hussites

ベーメンにおけるフス派支配領域の変遷(Wikipedia「ウトラキスト」より)

 

【手順4、フス派が戦った対象】

:では、フス派が戦った対象とは、何だったのでしょうか。これについては、世界史の知識や史料の読み取りなどから以下のことを導くことが可能です。

 

①教会の腐敗、堕落(史料より)

:フス自身は教皇の権威を否定していませんでしたが、フス派はカトリック教会を否定、批判します。

 

②ドイツ化からの脱却、チェコ人の民族意識と自由(vs神聖ローマ皇帝)

:フス派は、当初ベーメンへの影響力を強めようとする神聖ローマ皇帝ならびにドイツ系諸侯と対立していました。また、宗教・文化的にもたとえば「大学におけるチェコ語の使用」などが求められたことは、後の宗教改革にもつながる聖書主義的要素が認められるだけではなく、チェコ(ベーメン)人としての民族意識を垣間見ることができます。ただ、フス派穏健派は最終的にはカトリックとの妥協の中でジギスムントのベーメン王即位を認めることとなりました。

 

③封建社会の変革を求める

:これは、たとえば急進派による共有財産制の主張などにはっきりと認めることができます。後のドイツにおいて発生するドイツ農民戦争で掲げられた「12か条」に見られるような諸要求が、フス戦争の最中にも見られた点については確認しておくべきかと思います。

 

【手順5、フス戦争の結果と歴史的意義】

:以上を踏まえた上で、フス戦争の結果と歴史的意義をまとめると以下のようになるかと思います。結果については十分に書けない受験生が多い気がします。せいぜい「フス派は鎮圧された」くらいで終わってしまうのではないでしょうか。もともと与えられている情報が少ないので、それはそれで問題ないかと思いますが、その分、歴史的意義については後の三十年戦争へとつながる宗派対立の残存について、しっかりと示しておきたいところです。

 

(結果)

 ・ベーメンにおけるフス派穏健派ならびに神聖ローマ皇帝との妥協

 ・フス派の聖餐承認と異端認定の解除(一定の信仰の自由)

 ・ベーメンの国土荒廃

 

(歴史的意義)

 ・カトリックとの宗派対立の残存

 ・支配権をめぐる神聖ローマ帝国とチェコ貴族とのせめぎあい

 1618年のベーメン新教徒反乱(第2回プラハ窓外投擲事件)と三十年戦争へ

 (1620年の白山[ビーラー=ホラ]の戦いでフス派壊滅後はカトリック化)

 

【解答例】

 14世紀にベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝となって以降進展したドイツ化と、聖職者の堕落や大シスマで混乱するカトリックによる支配にチェック人は不満を募らせた。英のウィクリフの影響を受けたプラハ大学のフスは、聖書主義やチェコ語の使用、パンとワインによる聖餐などを訴えたが、神聖ローマ皇帝ジギスムントが主催したコンスタンツ公会議でウィクリフとともに異端とされ、火刑に処せられた。憤慨したフス派信徒はフス戦争を起こし、聖職者の堕落を批判してローマ教会の権威を否定し、チェック人としての民族意識を高めてジギスムントに反抗した。フス派の一部急進派は財産共有や信徒の平等などの社会変革を求めたが次第に穏健派との対立が高まり、穏健派を懐柔したジギスムントが急進派を壊滅させてフス戦争は終結した。ベーメンではフス派穏健派の信仰が認められ、チェコ貴族の勢力も維持されたため、後の三十年戦争へ続く火種を残すこととなった。(400字)

上の解答について補足しますと、「フスは…コンスタンツ公会議でウィクリフとともに異端とされ、火刑に処せられた。」とありますが、これは「異端とされた」部分のみが「ウィクリフとともに」のかかっている部分として読んでください。なぜかと言いますと、ウィクリフはコンスタンツ公会議時点ではすでに死んでおり、火刑とされたのはフスのみだからです。ただ、異端とされたウィクリフの墓も暴かれ、遺体は掘り起こされて焼かれ、その灰は川に流されたと伝えられています。

Wycliffe_bones_Foxe
遺体を焼かれ、灰を川に流されるウィクリフ
Wikipedia「ウィクリフ」より)
 

2011 一橋 Ⅱ

:大問Ⅱでは、『特命全権大使米欧回覧実記』からうかがえる岩倉使節団の様子が示されています。私は専門ではないので通り一遍の情報しか知らず、手に取ったこともありませんが、あちこちの入試で引用される史料なのでよほど魅力的な史料なのでしょうか。「歴史総合」の新設で日本史と世界史の融合的要素が増えてくることになると思いますので、その意味からも今後も良く出題される史料になると思われます。

 

【1-1、設問確認[問1]

大問Ⅱは、問1(50字以内)と問2(350字以内)に分かれています。

(問1)

・明治6年の2年足らず前にパリを舞台にして起こった出来事について説明せよ。

 

【大問Ⅱ、問1の解答例】 

問1、普仏戦争後にパリ市民が樹立した世界初の社会主義政権パリ=コミューンは、ティエールに鎮圧された。(「問1、」の部分を含めて50字)

 

(ポイント)

・まずは、年代を確認します。明治4年は1871年です。

・さらに、ヒントとして「大規模な戦闘」が行われたことや、マルクスが『フランスにおける内乱』で議論したことなどが紹介されています。これだけでもパリ=コミューンのことが問題となっていることは明らかで、基本問題かと思います。マルクスはパリ=コミューンを主導していたのが労働者たちであり、史上初めて「プロレタリア独裁」を宣言した政府であったこととの関係を想起すれば良いかと思います。

 

【1-2、設問確認[問2]

(問2)

・明治6年(1873年)に先立つ十数年間におけるヨーロッパの国際関係の変化について

①「この変化」を説明せよ

②「この変化」が準備し、この世紀の末(19世紀末)に顕著になる国際関係上の趨勢を視野に入れよ

 

後述しますが、設問の意図が非常にとらえにくい設問です。読みようによってどうとでも取れてしまう部分があり、もう少し丁寧に設問の指示を出してほしいなぁというのが正直な感想になります。「この変化」、「この世紀」などの表現も、もうちょっとどうにかしてほしいですね。読みにくいです。素直に読み取れば、19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢を準備した、1873年に先立つ十数年間におけるヨーロッパの国際関係の変化について説明せよ。」となります。

 

【2、1860年代~1870年代前半の国際関係の変化】

・時期:意外に時期の特定が難しいです。1873年に先立つ「十数年間」ということで、20年はありません。とすれば、11年前~19年前だとして1862年~1854年あたりが本設問の開始時期となり、想定されている時期は[1854-1862]1873ということになります。

・時期を特定しても設問の意図が読めないので、とりあえずこの時期に起こった世界史上の大きな出来事を列挙してみると、世界史の教科書的には以下のような内容が想像できるかと思います。

 

クリミア戦争(185356

ビスマルクの主導によるドイツ統一

サルディニアの主導によるイタリアの統一

フランス第二帝政の展開

パクス=ブリタニカの展開

ロシアの改革とその後の反動化

(南北戦争とアメリカの発展):設問では「ヨーロッパの」とされているので、アメリカは念のため

 

・この時期にヨーロッパの国際関係が「変化」したのであるから、「変化前」と「変化後」があると考えるべきです。ただし、これも1854年が始点なのか1862年が始点なのかでかなり様子が変わります。

 

1854年が始点の場合)

 ウィーン体制の崩壊とそれにともなう変化

1862年が始点の場合)

 独・伊による「上からの統一」とヨーロッパにおける国民国家形成の進展

 

→すぐには特定できないので、やや広く時期を取った上で、特に「19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢」と関連しそうな事柄を整理していくことにします。

 

【3、19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢とはなにか】

:これについては、各国の帝国主義と植民地獲得競争を想定すれば良いかと思います。1880年代まではいわゆる「公式帝国主義」の時代で、欧米先進国による領土の単独・直接支配が進められていきます。また、外交的にはビスマルクによる外交調整が展開して、ヨーロッパの国際関係は一応の安定を保っていきます。

しかし、1890年代に入ると「非公式帝国主義」の時代に入り、資本投下を通じた間接的支配が拡大していきます。また、外交的にはビスマルクの引退とヴィルヘルム2世の世界政策の展開によって、欧米先進諸国間の緊張が急速に高まっていきます。こうした中で、英・露・仏などの先進帝国主義間では支配権の調整が進められ、独・伊などの後発帝国主義諸国は植民地の再分割要求を行い、軍事衝突の危機が拡大していきます。

また、世界の一体化の「実質化」が進展し、アジア・アフリカなどの従属地域にヨーロッパなどの支配地域の価値基準が導入されて、伝統的な社会構造や、文化体系の破壊・再編が進んでいく点にも注意が必要です。日本の「文明開化」などはその例の一つですし、東大の2020年の問題が「東アジアの伝統的な国際関係の変化」というテーマで示したものも広くとればこの例として見ることもできるかと思います。

 

【4、指定語句の確認】

:設問の意図が、どうやら19世紀末の帝国主義(政策)拡大と、各国間の緊張の高まりを準備した「ある変化」にあるらしい、ということは見えてきましたが、肝心の「ある変化」とは何か、がいまいち見えてこないので、試しに指定語句と関連する知識を整理してみます。

 

・教皇

:おそらく、普仏戦争時の教皇領併合(1870年)とイタリア統一の完成の文脈で用いる

 

・ヴェルサイユ

:ヴェルサイユ宮殿鏡の間におけるドイツ皇帝の戴冠式(ドイツ帝国成立)

 

・資本

:植民地への資本投下、独占資本の形成など(各国の帝国主義政策の拡大と関連付ける)

 

・バルカン

:スラヴ系諸民族の独立や、パン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立など

 

・アフリカ

:ベルリン会議(18841885)とアフリカ分割、ビスマルクの主導

1890年代~、ヴィルヘルム2世の世界政策と緊張の高まり

 

【5、3と4を踏まえた「変化」の再確認】

:ここまで来て、ようやく「1873年に先立つ十数年間に起こったヨーロッパの国際関係の変化とは何か」が見えてきます。予想の範囲内ではありましたが、これはやはり、ウィーン体制の崩壊にともなって国際協調が崩れ、各国の利害対立が前面に出やすくなり、争いへと発展しやすくなる環境が出現したことを言っているのだと考えてよいでしょう。教科書的には、1848年革命によってウィーン体制は崩壊したとされることが多く、それは必ずしも間違いではないのですが、より正確に言えば、「正統主義」に基づく各国の専制支配が1848年革命によって大きく変化したのに対し、「勢力均衡」が完全に崩壊するのはクリミア戦争によってです。クリミア戦争前までは、まだウィーン体制の屋台骨となってきた露・墺の対立が顕在化することはありませんでした。しかし、この戦争では、ロシアの後進性が明らかとなったことや、オーストリアが外交的調整力を発揮できなかったことから、両国の国際的地位が大きく低下します。また、クリミア戦争の終戦間際にオーストリアが連合国側(英・仏・サルディニア側)で参戦する用意があると表明したことや、その後のバルカン半島をめぐるパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立が高まったことなどから、墺露関係は急速に冷え込んでいくことになりました。つまり、ウィーン体制の二大原則のうちの「勢力均衡」はオーストリアとロシアの協調関係が完全に崩壊したクリミア戦争で消え去ったと、とらえることもできるわけです。

 以上のことを踏まえて、1854年以前と以降の世界の違いを表にすると以下のようになります。

画像1 - コピー


わかりにくいところもあるかと思いますので補足しますと、たとえば、正統主義に基づく各国の君主による専制支配は、1848年革命を境に大きく変わりますが、どの国でも一気に変化したのかといえばそうではなく、地域によっては緩慢な、時として反動化をともないながら諸改革が進められていきます。その一つの例がオーストリアの状況です。『詳説世界史研究』(山川出版社)の2017年版に書かれている、この時期のオーストリアの状況を引用してみましょう。

 

 1850年代はドイツ・オーストリアとも政治的反動期になった。とりわけ、オーストリアでは1848年革命のさなかに即位したフランツ=ヨーゼフ皇帝(位18481916)のもとで、先の欽定憲法すら撤回され、カトリック教会の復権、出版の規制などの露骨な反革命政策がとられ、「新絶対主義」とよばれた。しかし、新絶対主義はたんなる反動ではなく、上からの近代化が推進された時期でもあり、身分制特権の廃止、パリにならったウィーンの都市改造・行政改革も実施された。一方、オーストリアは対外的にはクリミア戦争で友好関係にあったロシアを支持しなかったため、以後両国関係が冷却化し、サルデーニャ王国との戦争で北イタリアを失うなど、国際的地位を低下させた。(前掲書、p.342

 

実は、このくだりは、これまでの教科書や参考書ではあまり詳しく書かれてこなかった部分です。お読みいただければ、上で述べたこととの整合性も確認でき、ご納得いただけるのではないかと思います。

また、これとは別に、19世紀後半のパクス=ブリタニカの下でも、イギリスの自由貿易政策に対抗して保護関税政策を進める独・米のような国がある点には注意が必要です。

19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢」は各国の帝国主義政策の拡大と、緊張の高まりを示していると考えられるので、それを準備するような「変化」を示すのが良いでしょう。「変化」として考えることができるのは以下のような内容としてまとめることができます。

 

①ウィーン体制の完全崩壊と国際協調の崩壊(ただし、1870年代からビスマルクが一時再構築)

②各国の国内改革と近代化の進展

③独・伊の統一によるヨーロッパにおける国民国家体制の成立

④第二次産業革命の進展と産業構造の変化、資本主義の発展と独占資本の形成

 →原料供給地・市場・投資の場としての植民地を獲得するための各国の競争が激化

 →イギリス1強(パクス=ブリタニカ)に対抗する新興勢力の出現(ドイツなど)

 

【大問Ⅱ、問2の解答例】

問2、1848年革命でウィーン体制が崩壊し、クリミア戦争で列強体制が消滅すると、ヨーロッパ諸国は国内改革や経済発展に専念した。英仏がアジア進出、露が南下政策で勢力拡大を図る一方、普仏戦争に勝利したヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を行い、イタリア王国は教皇領併合で統一を完成して国民国家形成に成功した。ビスマルクがヨーロッパの列強体制を再構築したものの、バルカンをめぐるパン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義の対立は高まりつつあり、第二次産業革命の進展と独占資本の形成は、原料供給地・市場・投資先としての植民地拡大圧力を強めたため、帝国主義政策を採用した列強はアジア・アフリカへと進出した。さらに、後発国ドイツのヴィルヘルム2世の世界政策は植民地獲得競争を激化させ列強の緊張関係を高めた。(「問2、」の部分を含めて350字)

 

こんな感じではないでしょうか。この設問は、設問自体が読み取りにくい上、教科書や参考書からも読み取りにくい内容がテーマとして設定されているため、非常に難しい設問です。ただ、どちらかといえば意地悪な設問に属する問題であるため、いわゆる「できる人とできない人で差のつく問題」ではありません。つまり、世界史のできる人も、あまり世界が得意でない人も、おそらく最大限欠ける内容にあまり差がでないタイプの設問ではないかと思います。以前から申し上げている通り、この手の設問では「設問の指示をしっかり守り」、「自分の可能な限りの知識を整理して」、「他の受験生と差のつかない」、不時着的な解答を作成できれば十分だと思います。そういう意味で、大問Ⅱは確かに苦労させられる設問ではありますが、全体として障害になるほどの設問ではないかと思います。

2011年 一橋 Ⅲ

2011年の第3問は、基本的には清とその周辺史で、この時期の一橋では頻出の箇所で受験生も十分な準備をしてきたところではないかと思います。また、設問自体も空欄補充を含む200字論述が二つと小ぶりで、頭をつかって複雑な組み立てを必要とする設問ではありませんでした。おそらく、この年の一橋対策をしてきた受験生でこちらの設問が「めちゃくちゃ難しい」と感じた人はあまり多くなかったのではないでしょうか。清朝史については、過去記事にも掲載しておりますので、細かい解説はそちらに譲り、ここではポイントだけ示していきたいと思います。

 

問1

【1、設問確認】

:空欄補充は以下の通りです。鄭芝竜のみ、少し難しいかなと感じる設問で、あとは基本問題です。

 

A 鄭芝竜

2行目の「息子の(B  )は…」という部分で判断可能です。

 

B 鄭成功

:国姓爺とも呼ばれますね。1662没で、息子は鄭経です。(1681没、その後は鄭克[こくそう]

近松門左衛門の人形浄瑠璃は『国性爺合戦』と、少し字が違うのは「史実とは異なる」話だからだそうで。

 

C 遷界令

 

D オランダ

:Dがオランダになりますので、問1の残りの論述は「オランダが17世紀アジアにおいて展開した活動について述べよ」という要求だと分かります。このDを埋められないと問1が丸々解けないことになるので、そういう意味ではきついですね。

 

【2、オランダとアジア進出】

:設問の要求にしたがって、オランダのアジアでの活動を地域ごとに簡単にまとめてみます。

 

(東アジア~南アジア)

1602 連合東インド会社(VOC)設立

1619 バタヴィア(ジャワ島)

1623 アンボイナ事件 

   :モルッカ諸島の香辛料貿易独占

1624 台湾(ゼーランディア城)

1641 マラッカ 1656 セイロン:ポルトガルから奪う

1652 ケープ植民地を建設

 

(対日貿易)

1609 平戸:生糸、銀を中心に取引(1639の「鎖国」以降はヨーロッパ貿易を独占)

1641~ 長崎(出島)

 

(西アジア)

・オスマン帝国のカピチュレーションを得る(1613

・サファヴィー朝とも交易(イスファハーンの建設は1597

    余談ですが、イスファハーンでのオランダの活動について言及した史料を用いた設問が2014年の東京外国語大学の設問で出題されています。こちらの東京外語の問題は結構手ごたえのある問題です。

 

【解答例】

A鄭芝竜B鄭成功C遷界令Dオランダ:オランダは連合東インド会社を設立し、ジャワ島のバタヴィアに総督府をおき、アンボイナ事件で英を駆逐し香辛料貿易を独占した。日本の鎖国完成後は平戸から長崎の出島へ移り、欧州諸国として唯一貿易を許されて生糸と銀の取引で利益をあげた。アジア東部への中継点として台湾にゼーランディア城を築き、ポルトガルからマラッカやセイロンを奪い、オスマン帝国やサファヴィー朝とも交易した。(全て含め、200字)

 

問2 

【1、設問確認】

・三藩の乱(反乱名自体も設問の対象)の経緯と清朝史において有した意味

 

【2、三藩の乱(1673-81)】

:三藩の乱については、清朝史の前半における基本です。鄭氏台湾の平定と、この三藩の乱の鎮圧によって、ついに清は中国全土の完全支配を達成します。三藩の乱では、基本的には呉三桂をおさえておけば十分なのですが、参考書によってはその他の藩王たちも紹介されていることがありますので、一応データだけ示しておきます。解答に尚可喜だの耿精忠だのを盛り込む必要はないと思います。

 

・呉三桂(雲南、平西王)

・尚可喜(広東、平南王)  

[尚可喜(老いて引退を申請したところ廃藩を言い渡される)→尚之信(反乱の中心)]

・耿精忠(福建、靖南王)  

[耿仲明(初代)→耿継茂(1671没)→耿精忠(反乱時)]

 

・康煕帝の即位後、三藩の廃止が決定されたために反乱

・台湾の鄭氏(鄭経)と連動

・フェルビースト(南懐仁)による清への協力と大砲の製造

 

【3、清朝史において有した意味】

・長江以南の制圧による中国大陸の完全支配

・台湾の制圧

→中国全土の直轄化の完成 

→海禁の終了(遷界令の解除1684、海関の設置1685

 

【解答例】

三藩の乱。李自成の乱鎮圧に際し山海関を開いて功をあげた明の降将呉三桂は、平西王として雲南に封ぜられたが、康煕帝即位後に三藩廃止が決定されると興明討虜を掲げ、尚之信や耿精忠ら他の藩王と三藩の乱を起こした。反清復明を目指す台湾の鄭経とも連動して清打倒を図ったが、フェルビーストの大砲なども用いた清軍により鎮圧され、長江以南と台湾を制圧した清は中国全土の直轄支配を完成し、遷界令を解除して海禁を終わらせた。(200字)

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