世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

2021年11月

かなり古い設問ですが、この年の設問は冷戦、中でも分断国家の形成と統合についての問題でした。1989年当時私はちょうど中学生になるかならないかくらいの頃でしたが、こども心に「何かすごいことが起こっている」と考えさせられる時期でした。やはり、ベルリンの壁の崩壊はとても印象的で、きっとこれからすごいことが起こるんだろうなぁと思ったものです。あの頃にむしろITとかアップルとかに関心を持っていれば今頃大金持ちだったかもしれないのにw 脱線しましたが、あの頃は子どもも大人も無邪気に「もしかしたら世界はもっと良くなるかもしれない」と思ったものです。もっとも、すぐに湾岸戦争やら各地の民族紛争で「どうも、そうではないのかもしれない」と感じさせられることになったわけですが。いずれにせよ、本設問が出題された背景にもおそらく、当時の出題者の問題関心が冷戦後の世界がどうなるか、また冷戦がどういうものであったか受験生は知っているだろうかとうことに向けられていたのではないでしょうか。当時の雰囲気は実際にニュース映像などをご覧いただいた方が文章で追うよりも手っ取り早いのではないかと思います。

 

ベルリンの壁崩壊→https://www.youtube.com/watch?v=1YJDvpWL4AY

ソ連崩壊→https://www.youtube.com/watch?v=3l3QxfZHPTQ

 

冷戦については、2016年の東京大学でも出題されていますが、1993年から2016年まで冷戦を真正面から扱った出題はされていません。この理由はよくわかりませんが、実際のところ一般的な認識として冷戦をどこか終わったものとして理解していた向きはあるのかもしれません。2016年の設問については、すでに過去の記事でご紹介していますので、そちらをご覧ください。今後冷戦に関する問題が東大で登場するか、はっきりとしたことは分かりませんが、もしかしたら冷戦終結40周年とか50周年当たりでは出るのかもしれませんねw 少なくとも、私の中ではそれほどは警戒してないです。ただ、冷戦は早慶などの次第では頻出の設問になりますので、メインになる話は整序も含めてしっかりと確認しておきたいところです。世界が平和になりますようにw

 

【1、設問確認】

・二つの分断国家(ベトナムとドイツ)の形成から統合への過程を略述せよ。

・冷戦の展開と関連付けよ。

・指定語句:ゴルバチョフ / ジュネーヴ会議 / 封じ込め政策 / 平和共存 / ベルリンの壁

・指定語句に下線を付せ

20行(600字)以内で記せ

 

:設問は非常にシンプルです。少し気を遣わないといけないのは、冷戦との関連付けでしょうか。ただ、ベトナムとドイツの分裂が書けないと話になりませんので、いろいろ考えてごちゃごちゃになるよりは、まず両国の分裂と統合の過程をしっかり確認した上で、それらを冷戦の文脈の中に位置づけるという方法が無難かと思います。

 

【2、ベトナムの分裂と統合について整理】

 まず、ベトナムの分裂と統合について整理します。文章で書くよりも、表でまとめちゃった方が良いかなと思いますので、とりあえず以下の表にまとめてみます。

分裂国家(ベトナム) - コピー

受験生がよく混乱しがちなのが、ベトナム民主共和国とベトナム国、ベトナム共和国の区別です。かなり乱暴な区分けではあるのですが、「民主」と名前に着くのは共産主義の国に多いです。後にあげるドイツ民主共和国(東ドイツ)もそうですし、民主カンプチア、朝鮮民主主義人民共和国…、結構ありますねw 世界史で出てくるレベルの国であれば特に問題はないので、「ベトナム民主共和国(北ベトナム)=共産主義の国=ホーチミン」というように理解しておけば問題ないかと思います。その上で、残った南部ベトナムについては、「最初の方はフランスが阮朝最後の皇帝バオ=ダイを元首に担ぐので典型的な共和国ではない=ベトナム国」、「後の方はアメリカの後ろ盾を持ち、ゴ=ディン=ディエム(ジェム)を大統領とする共和国=ベトナム共和国」と理解すれば、間違えることは少なくなるかと思います。

ベトナム史については、後ほど地域史か何かで上の表を文章にしましょうか。ただ、それほど分かりにくいところはないので、上の表の内容が理解できていれば本設問を解くには十分かと思います。

 

【3、ドイツの分裂と統合について整理】

ドイツについても、以下の表にまとめておきます。

分断国家(ドイツ) - コピー

こちらについては、いくらか分かりにくいところもあるかと思いますので何点か補足しておきます。

 

① 西側占領地域の通貨改革とベルリン封鎖

 ドイツについては、米・英・仏・ソの四か国による分割占領がされたことはよく知られています。ここでしっかり理解しておかなければならないのは、ベルリンも同様に四か国の分割占領下におかれたのですが、ベルリンの周辺地域は全てソ連の占領下にあり、そのためベルリンの米・英・仏による管理地域はソ連によって交通を遮断された場合、陸の孤島になってしまうということです。(下の地図、白い丸で囲まれた部分がベルリン。そのうち、西部の青・緑・オレンジが西側占領地域)これが、後のベルリン封鎖を可能にすることになります。

1920px-Map-Germany-1945.svg

Wikipedia「連合軍軍政期(ドイツ)」より、一部改変)

て、当初、ドイツに対しては米の占領地域においても積極的な工業復興は支援せず、農業国化することが想定されていました。しかし、ソ連との対立が深まるにつれて、占領地域を貧困のままにとどめておくことは、占領国(米・英・仏)に対する反発を呼ぶだけでなく共産主義の拡大を招く恐れがありました。(共産主義は、一般的に経済がパッとしない場合に広まる傾向が強いです。みんなが日雇い労働者や失業者の場合、失うものがないので「金持ちの財産をオラに分けてくれー」という思想は共感を呼びやすいですが、みんながそこそこの財産を所有している場合にはむしろ「財産を取られて誰かに分け与えられるのは嫌だなぁ」という発想につながりますので、共産主義の勢いはそがれることになります。) そこで、いわゆる西側(米・英・仏)の占領地域については経済再建が目指されることになります。また、その副産物というわけでもないのですが、かつてのナチ時代の企業による対ナチ協力についても「んー、まぁ、ナチに強制されてた分はしょうがないよね」という形で「何でもかんでも厳罰!」というムードではなくなってきます。(もちろん、ホロコーストにかかわっていたとか、どうしようもない場合は除きますが。) 戦争中のドイツ人はほとんどの場合何らかの形でナチスにかかわっていましたので、それらを片っ端から挙げてしまうと復興のための人材が極端に不足してしまうんですね。実際、ドイツの3代目首相となったキージンガーなども内心はユダヤ人迫害などに批判的であったようですが、若いころに一時ナチスに在籍した経歴があり、かつ後の外務省勤務時代にゲッベルスなどと交流があったことから、就任時はかなり批判を受けたようです。いずれにしても、西側占領地域では占領政策が経済復興に転換されたことによって急速に暮らし向きが良くなっていきます。

 一方、ソ連の占領地域では土地改革をはじめとして社会主義化が図られていきます。企業は解体され、非ナチ化は徹底していました。これは、そもそもファシズム(ナチス)と共産主義が相容れない存在であったことを考えれば容易に理解できることです。ドイツはたしかに一時ソ連と独ソ不可侵条約を結びましたが、これは戦争を有利に進めるための一時的なもので、ナチスは根っこのところから反共産主義でしたし、ソ連も同じく反ナチスでした。そのため、ソ連による占領地の社会主義化と非ナチ化は西側諸国の占領地域と比べるとはるかに徹底したものでしたが、このことがソ連占領地域の経済復興を遅らせることになります。

 その結果、西側と東側には次第に復興速度に格差がみられるようになりました。西側が、西側占領地域でのみ通用するドイツ・マルクの発行(通貨改革)を計画したのはこうした時期です。この西側の通貨改革に対し、ソ連は西側経済に東側が吞まれ、その後の占領政策で西側に主導権を握られることを恐れ、占領地は統一したものとして扱われるべきものと元来の連合国の合意でされていることを主張し、通貨改革を批判します。そして、ソ連が採った手段がいわゆるベルリン封鎖でした。これにより、ベルリンの西側占領地域までの交通が遮断された結果、西側占領地域は陸の孤島となることになりました。これに対し、西側諸国はベルリン西部への大空輸作戦を実施し、西ベルリン市民に必要な物資を届ける作戦を1年弱にわたって繰り広げ、最終的にソ連はベルリン封鎖を解除します。

C-54landingattemplehof - コピー

Wikipedia「ベルリン封鎖」より)

注意しておきたいのは、この時のベルリン封鎖ではベルリンの壁は建設されていないということです。このベルリン封鎖は、ソ連軍による各所の検問や、鉄道・地下鉄・運河・高速道路の封鎖によって行われたもので、壁によって遮られたのではありません。下に書くように、ベルリンの壁建設は西ドイツの奇跡の経済復興によって東西の経済格差が明らかになった1950年代末から1960年代初めにかけて東ドイツから西ドイツへの市民流出が問題となった結果、1961年に建設されるもので、ベルリン封鎖からは10年以上も後のことである点は注意しておいた方が良いでしょう。

 

② ベルリンの壁建設

:ベルリンの壁建設については、先日簡単に別記事の方に書いておきましたので、こちらをご覧ください。

 

③ ヨーロッパ=ピクニック

1989年の東欧革命とドイツについては、とかくベルリンの壁崩壊がクローズアップされがちですが、実はそれ以前から東側諸国と西側諸国の国境にはほころびが生じておりました。ソ連でゴルバチョフが就任し、ペレストロイカを進める一方で東側諸国に対しても各国の自由裁量を容認したことで、ワレサの率いる「連帯」に理解を示し始めたヤルゼルスキの指導下にあったポーランドや、1960年代ごろから寛容な政治路線を打ち出し、市場経済の導入を模索していたハンガリーなどでは次第に自由化へと進み始めます。しかし、東ドイツは分断国家であり、「なぜ、西ドイツと別国家であるのか」を問われた場合、それは「共産主義体制であるから」というイデオロギー的部分に拠るところが大きく、自由化を進めること自体が国家の存在意義を問われる問題であったため、ソ連と同様の改革路線を拒絶します。もちろん、同様のことは西ドイツにも言えたわけですが、当時の東西ドイツの経済状況は圧倒的に西ドイツが優勢であったため、仮に東ドイツが自由化に着手して西とのイデオロギー上の差異が希薄となった場合、西ドイツに吸収されて国家自体が消滅することを東側首脳部は危惧したわけです。

 こうした政治状況のなか、ハンガリーでは中立国オーストリアとの国境管理が負担となっていました。国内旅行の自由化も進められていたハンガリーでは、中立国オーストリアとの国境管理の必要性は極端に乏しく、数百キロに及ぶ国境の警備費用は無駄な出費であると考えられるようになりました。しかし、ハンガリーには他の東側諸国からやってくる旅行者なども存在したため、ハンガリーが単独で国境を開放することは考えられませんでした。こうした中、ハンガリーのネーメト首相はゴルバチョフにハンガリー国境の警備を緩めることについて意見を確認しましたが、すでに西側への窓を開くことを考え始めていたゴルバチョフはこれを黙認します。

 これを受けて、ハンガリーはオーストリア国境地帯にあった鉄条網の撤去に入ります。これは、ハンガリーとオーストリア国境の通行が半ば黙認されたことを示す出来事でした。これに敏感に反応したハンガリーへの旅行許可を受けた東ドイツの人々は大挙ハンガリー国内のオーストリア国境地帯へと殺到し、最終的にはハンガリー政府の黙認の下で「ヨーロッパ=ピクニック」と称されるイベントを口実に強引に両国国境を突破して、多数の東ドイツ市民がオーストリアを経由して西ドイツへと亡命していきました。

ヨーロッパ・ピクニック - コピー

Wikipedia「東ドイツ」より引用の地図を一部改変)

この出来事は、西側諸国と東側諸国の間の国境封鎖が形骸化したことを強く東ドイツの人々に印象付け、後のベルリンの壁崩壊へとつながっていきます。この時の様子を示したフォトギャラリーは以下のサイトなどで見ることができます。

https://www.rferl.org/a/hungary-1989-east-germany/30156892.html

またEuropeanaで「Pan European Picnic」を検索するといくつかの動画も見ることができます。
(Europeanaについてはこちらでご紹介しています。)

 

【4、冷戦の展開とどのように関連するか考察】

:最後に、上記のベトナムやドイツの分断と統合が、冷戦の展開とどのように関連していたかを確認していきます。冷戦については大きな区分けになりますが、概ね「①冷戦構造の形成期(~1950年代前半)」、「②スターリン批判と雪解け(1950年代後半)」、「③再緊張と危機(1960年代前半から後半にかけて)」、「④デタント(緊張緩和:1960年代末~1979年)」、「⑤新冷戦(19791985)」、「⑥ゴルバチョフ就任後の共産圏の改革と冷戦の終結(19851989)」に区分すると理解がしやすいかと思います。これらの時代区分に基づいて、ドイツやベトナムの分断・統合に深くかかわってくる出来事をピックアップしていくと以下のようになるかと思います。

 

① 冷戦構造の形成期(~1950年代前半)

・チャーチルの「鉄のカーテン」演説(1946

・トルーマン=ドクトリンと対ソ「封じ込め政策」(1947

・マーシャル=プラン(1947

・チェコスロヴァキアクーデタ(1948.2)と西ヨーロッパ連合条約(1948.3

 

→ドイツ西側占領地域の通貨改革とソ連によるベルリン封鎖(1948.6

:東西の緊張関係は、当時四か国による分割占領中だったドイツにも影響を与えます。

 

→ソ連と中国によるベトナム民主共和国(北ベトナム)支援と、フランスによるベトナム国建設

:元々は宗主国フランスからの独立闘争であったインドシナ戦争(1946~)にも、東西冷戦構造の形成が影響を与え、ホー=チ=ミンの率いるベトナム民主共和国の側をソ連ならびに成立したばかりの中華人民共和国が支援します。一方、ドミノ理論に基づくアジアの共産化を恐れたアメリカは1950年代初めに相次いで反共同盟を成立させ、防共圏の形成を進めます。(1954、東南アジア条約機構[SEATO]など。)

 

② スターリン批判と雪解け(1950年代後半)

・ソ連のスターリン批判

・フルシチョフの平和共存路線

・ジュネーヴ会議(1954

 

→インドシナ戦争の終結と北緯17度線を境とする南北ベトナムの分断

1953年にスターリンが亡くなったのち、ソ連では1956年にスターリン批判がおこなわれ、当時の指導者フルシチョフの下で平和共存路線が打ち出されました。これに先立ち、1954年にスイスのジュネーヴで開かれたインドシナ問題を話し合う会議(ジュネーヴ会議)では、北ベトナムが当時圧倒的に優勢で国土の大部分を掌握していたため、北緯17度線の軍事境界線設定に難色を示していたものの、スターリンの死により外交方針を転換させつつあったソ連政府の説得によって最終的には軍事境界線の設定に合意し、南北ベトナムは北緯17度線で分断されました。ですが、この段階では一定の準備期間を経て1956年に南北ベトナム統一のための自由選挙が行われる予定であり、南北ベトナムの分断は決定的なものではありませんでした。南北の分断が決定的になるのは、南ベトナムにおいてそれまでのベトナム国の元首バオ=ダイを追放して成立したベトナム共和国のゴ=ディン=ディエム大統領が北ベトナムとの統一のための自由選挙を無視し、これをフランスに代わってアメリカが支援したことによるものでした。

 

③ 再緊張と危機(1960年代前半から後半にかけて)

U-2機撃墜事件(1960)と米ソの再緊張

:スターリン批判以降、改善されつつあったアメリカとの「雪解け」ムードはアメリカのU-2偵察機がソ連に撃墜された事件をきっかけに急速に冷え込みます。その後、1962年にはキューバ危機(1962)が発生し、核戦争の危機に直面するなど、1960年代前半を通して世界は危機の時代を迎えます。

 

→ベルリンの壁建設(1961

:直接の原因は東西の経済格差と東ドイツからの市民流出ですが、上記のように当時が東西の緊張関係が高まっていた時期であったことには注意する必要があります。

 

→ベトナム戦争の開始(1960~)とアメリカの本格介入(1965~)

:同様の時期に、ベトナムでは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されます(1960年)。これを北ベトナムや共産主義諸国が支援し、一方で南ベトナム(ベトナム共和興)をアメリカのケネディ政権が支援することになりますが、ジョンソン大統領の時代に入って発生したトンキン湾事件(1964)とその翌年の北爆(1965)を機にアメリカ軍が本格的に介入を進めます。

 

④ デタント(緊張緩和:1960年代末~1979年)

:デタントへと至った要因は複数ありました。たとえば、1960年代の中ソ対立の激化、ソ連経済の停滞、ベトナム戦争の長期化・泥沼化と反戦運動などです。こうした中で、アメリカ側はベトナム戦争の解決とソ連への牽制を狙った対中接近をキッシンジャーとニクソンが進めますし、米・中を敵に回すことを避けたいソ連も一定の妥協を強いられます。こうした状況下で大きく東西の関係をデタントへと導いたのが西ドイツの首相ブラントによる東方外交でした。

 

→西ドイツのブラントの東方外交(1970~)

:ソ連=西ドイツ武力不行使条約(1970)、西ドイツ=ポーランド国交正常化条約とポーランド国境問題の解決(1970)、東西ドイツ基本条約(1972)と東西ドイツの国連同時加盟(1973)などが進められました。

 

→パリ協定(1973)による米軍のベトナム戦争からの撤退

:すでに選挙時からベトナム戦争の「ベトナム化」を主張して戦線の縮小を図っていたニクソン政権は、米中接近を通して北ベトナムに圧力をかけ、最終的にはパリ協定によって泥沼化していたベトナム戦争からの離脱に成功します。その後、米国の再介入を警戒していた北ベトナム政府は、再介入はないと判断すると1975年から南に対する大攻勢に出て首都サイゴンを陥落させ、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利で終結し、1976年にベトナム社会主義共和国として統一されました。

 

⑥ ゴルバチョフ就任後の共産圏の改革と冷戦の終結(19851989

:ゴルバチョフのペレストロイカは、ソ連国内にとどまらず、それまでソ連が主導権を握ってきた共産諸国全体に対しても、その自主性を認め、自由化を容認するものでした。特に、1988年の新ベオグラード宣言では、ゴルバチョフはブレジネフによる制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン:1968年のプラハの春におけるソ連の介入に際してブレジネフが表明した考え方で、共産圏全体の維持のためには一国の主権は制限されうるという考え方)を撤回し、ソ連は東欧諸国に関与しないことを明確に示しました。これにより、ソ連の介入の恐れが亡くなった東欧諸国では急速に自由化と民主化が進展し、1989年の東欧革命へとつながっていきます。

 

→ベルリンの壁崩壊(1989)とドイツの統一(1990

:上記の通り、ゴルバチョフ就任による共産圏の変化の中で、東ドイツは西側へと亡命する市民の流出を防ぐことができず、最終的にはベルリンの壁崩壊とドイツ統一へとつながっていきます。

 

→ドイモイと市場経済の導入

:すでに統合後のことになるので本設問では書く必要のないことではありますが、ベトナムでも1970年代から1980年代にかけての共産圏の停滞の中で、他の共産主義諸国同様に市場経済の導入が図られ、1986年からドイモイ(刷新)と呼ばれる市場経済の導入政策が進められていきます。

 

【解答例】

トルーマンがギリシア・トルコ支援と対ソ封じ込め政策を表明し、マーシャル=プランによる欧州復興計画が示されると東西対立は深まった。分割統治下にあった独の西側占領地域で通貨改革が断行されるとソ連はベルリン封鎖で対抗し、翌年には西にドイツ連邦共和国、東にドイツ民主共和国が成立した。ベトナムではホー=チ=ミン率いるベトナム民主共和国が仏とインドシナ戦争を戦い、ディエンビエンフーで勝利したものの、平和共存を企図するフルシチョフの意向を受けたジュネーヴ会議の決定で、北緯17度線を境に南北が分断された。U-2機撃墜で米ソの緊張が再度高まると、東独は亡命者を防ぐベルリンの壁を築いた。また、南ベトナム解放民族戦線と戦うベトナム共和国政府支援のため、トンキン湾事件を口実に米が北爆を開始しベトナム戦争に本格介入すると、ベトナムでも分断が深まった。しかし、ニクソンが中国に接近してベトナム戦争からの離脱を図り、パリ協定により軍を完全撤退させると、北ベトナムはサイゴンを陥落させて南北を統一し、ベトナム社会主義共和国を成立させた。また、西独のブラントによる東方外交から東西ドイツ基本法が制定され、欧州でもデタントが進んだ。さらに1980年代半ばにゴルバチョフがペレストロイカを打ち出し、新ベオグラード宣言で東欧諸国の自主性尊重を示すと、急速に東欧の自由化が進み、ベルリンの壁崩壊を機にコール首相の下で東西ドイツも統一された。(600字)

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時折勘違いされるのですが、ベルリン封鎖(19481949)とベルリンの壁建設(1961)は同時期ではありませんし、原因も全く異なります。知っている人にとっては「なーんだ」な知識ですが、現代史に不慣れな現役生などは意外と見落としがちでもあるので、この点、注意しておかないと私大の時代整序問題などで間違えることになります。前者が西側占領地域での通貨改革にソ連が反発したことから、西ベルリンへの交通を検問などの方法によって遮断したのに対し、後者は東西ドイツの経済格差が拡大し、東ベルリンから西ベルリンへの亡命者が急拡大した時期に、そうした亡命を防ぐ目的で西ベルリン全域を取り囲む壁を築いたことによります。

 まず、この両者を理解するためには、当時のベルリンがどのような状態に置かれていたのかを正確に理解する必要があります。当時のベルリンは、ドイツ全域同様に四か国の分割占領下におかれたのですが、ベルリンの周辺地域は全てソ連の占領下にあり、そのためベルリンの米・英・仏による管理地域はソ連によって交通を遮断された場合、陸の孤島になることとなり、これがソ連によるベルリン封鎖を可能にさせた地理的条件でした。下の地図の白い丸で囲まれた部分がベルリンで、そのうちの青・緑・オレンジのついている部分が西ベルリンです。その周辺が真っ赤なソ連占領地域に囲まれているのがお分かりになるかと思います。

ドイツ4国分割占領_4国名入り_3
(ドイツの四国分割占領)

ベルリン4国分割占領_国名入り

(ベルリンの四国分割占領)

 一方、ベルリンの壁というのはこの西ベルリンを完全に壁で囲んでしまうというものです。もちろん、「壁」ですから転生モノよろしく「いでよ!壁!」みたいに一夜のうちにできるわけではなく、壁の建設に際しては軍による各所の封鎖が行われます。

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Wikipedia「ベルリンの壁」より)

 封鎖以前は、西ベルリンとその周辺地域は物理的には閉鎖されていないので、人が行き来できる状態だったわけですが、その封鎖が急遽行われたために、急いで西側への脱出を試みようとする人がいたり、本来いるべき場所に戻れない人が出るなどして、多くの人々が東西に引き裂かれる結果を生みました。その後、封鎖された地域には最初は鉄条網、後には壁が建設されて、東側から西側へ亡命しようとする人を防ぐことになりました。壁の西側は何もないのに対し、壁の東側には逃亡者を防ぐための監視塔や、市域から数十メートルに及ぶ無人地帯、逃亡防止用の各種仕掛けが施されていたことは象徴的です。この壁は、1989年のベルリンの壁崩壊にいたるまで、ベルリン市民を東西に引き裂き続けることになります。

Structure_of_Berlin_Wall.svg

Wikipedia「ベルリンの壁」より)

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冷戦の展開の話をするときには、とかくマーシャル=プランとか、コメコンとか、NATOとかワルシャワ条約機構とか、分裂国家とかいうテーマに目が行きがちです。もちろんそれらも大切なのですが、そうした燦然ときらめく重要事項の中に一人ぽつんとたたずんでいるかのように見えるヤツがいます。そう、チェコスロヴァキアクーデタ(1948です。ですが、このチェコスロヴァキアのクーデタは実は結構な重要事項、冷戦構造を形作っていくきっかけの一つであり、いろいろなことと結びついています。何より、出題頻度が高い。早慶などの難関校では、特に正誤問題や並べ替え問題などの常連さんです。ここをしっかりおさえているかで点数に差がつくことも少なくない。

 

 第二次世界大戦期には、ミュンヘン会談(1938)だの、その後のドイツの支配だのでけちょんけちょんにされたチェコスロヴァキアですが、戦後にはミュンヘン会談後に亡命していた大統領ベネシュの下、再度議会制民主主義が復活し、非共産党系政党と共産党との連立政権が成立します。ところが、アメリカの出した欧州復興計画であるマーシャル=プランが打ち出されると、この受け入れをめぐって共産党が反発し、他勢力との対立が起こります。ソ連の後押しを受けた共産党は大衆を動員してデモ活動を行い、政府に圧力をかけます。共産党の様々な圧力に抗議した連立内閣の非共産党系政党の閣僚12名は、抗議の意思を示すため、ベネシュが受理しないであろうことを想定して辞表を提出しますが、国内の分裂と内戦、またソ連の介入を恐れたベネシュはこの辞表を受理してしまうんですね。これにより共産党勢力からなる政権が成立し、さらにその後の総選挙で共産党系の諸政党が圧倒的多数の得票を獲得したことを受けて、ベネシュは大統領を辞任しました。ベネシュはその数か月後に亡くなります。ベネシュはすでに1947年に脳卒中を患っており、その後も高血圧等の持病に悩まされて健康状態は非常に悪かったと言われています。どうもミュンヘン会談を含めていまいち根性入ってないように見えるベネシュですが、チェコスロヴァキアクーデタ当時にはこうした健康状態も影響していたのではないかと言われます。

Edvard_Beneš-1945
(ベネシュ:Wikipedia UKより)

 

 いずれにしても、一時はマーシャル=プランを受け入れるかに見られていた議会制民主主義国家チェコスロヴァキアが、急転直下共産化してソ連の影響下に入ることとなったことは、チャーチルをはじめとする西側首脳にとってはとんでもない衝撃でした。このことが、英・仏・ベネルクス三国による西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約:1948)という集団安全保障を結ぶにいたります。これがのちにアメリカを巻き込んで拡大すると北大西洋条約機構(NATO1949)になるわけです。

 

 ですから、このチェコスロヴァキアクーデタは、①マーシャル=プランをきっかけとし、②東西冷戦が避けられないと西側諸国に明確に知らしめ、③西ヨーロッパ連合条約締結のきっかけとなる、とかなり重要な位置を占める出来事になっています。ところが、これがストーリーとして理解できていないと並べ替え問題などには太刀打ちできないんですね。チェコスロヴァキアクーデタも西ヨーロッパ連合条約も1948年ですから、年号で覚えようとしてもどうにもなりません。現代史は情報量が多くそれぞれの出来事の間も詰まっていますから、現代史ほど年号ではなくストーリーで前後関係を把握することが大切です。チェコスロヴァキアクーデタをめぐる出来事の流れとして、少なくとも以下の流れはしっかりと確認しておくとよいでしょう。

 

①マーシャル=プラン

②チェコスロヴァキアクーデタ(共産党独裁の成立)

③西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)

④さらにNATOに拡大

 

 

 

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 2018年から、東京外国語大学の出題形式に変化があり、従来の「400字論述+100字論述」から2018年は「600字論述+30字論述」、2019年は「500字論述+40字論述」となったことについてはすでに述べました。2020年はどうなるのだろうと思っていましたが、2020年も2019年と同じく「500字論述+40字論述」となりました。また、このスタイルは2021年の問題でも共通しています。3年連続で「500字論述+40字論述」となっておりますので、しばらくはこのスタイルで定着するのではないかと思っています。東京外国語大学の過去問については、東京外国語大学の方で過去3年分の過去問を掲載しています(→こちら)が、問題文の一部が欠落している部分などもありますので、やはり赤本を購入されるか、各学習塾の過去問データベースなどを利用されるのが良いかと思います。

 ところで、2020年の東京外国語大学の出題ですが、これはかなり注目すべきものでした。と言いますのも、500字論述として出題された「オスマン帝国の政治的統合と思想」というテーマはほぼ前年の東京大学の出題の焼き直しと言ってもよい内容でしたし、類似の出題はさらにその前年の2018年の京都大学でも出題されていました。以前こちらのブログでも書きましたが、このテーマは以前から「ホットだな」と感じていたテーマで、当ブログではすでに2017年に予想問題として掲載していました(→こちら。実際に作成したのは2016年ですが)。また、2020年に東京外国語大学で出題された設問の史料の一つであるユスフ=アクチュラの『三つの政治路線』(1904年、所収は歴史学研究会編『世界史史料8』より)についても、当ブログで紹介した予想問題で使用した史料そのままでした。

 もっとも、資料が同じものになること自体は、このテーマに関心を持ってこのテーマに関する出題をしたいと思って史料を探せば、かなり高い確率で『世界史史料』(『世界史史料』については→こちら)は用いることになりますので、別に特筆すべきことではありません。重要なことは、東京大学、京都大学、東京外国語大学という主要な国公立大学において、3年という短い期間の間に同一のテーマで出題がなされるくらい、このテーマはホットであったということです。

 私が、本テーマについて「ホットだな」と感じた理由はいくつかあります。まず、一つ目は「以前よりもオスマン帝国近代史に関する教科書、参考書の記述量が増えてきた」こと。二つ目は「以前は、やや難しいと感じられていた近代オスマン帝国がらみの用語の出題が、むしろ一般的でよく出題されるものに変わってきている」こと。三つめは「帝国やナショナリズムについての注目度や出題頻度が上がっている」こと。四つ目は「受験生が出題に耐えるだけの環境が整った(教科書、参考書の記述の増加や、出題頻度の増加により、きちんと学習さえしていればやや込み入った内容のオスマン帝国近代史でも対応できるようになってきている。)」ことなどです。

 たとえば、『詳説世界史研究』などにおけるオスマン帝国の近代史についての叙述は、以前のものと比べると目に見えて詳しく、その実態が分かるような記述にかわってきています。私は、オスマン帝国史を中心とする歴史学は専門外なのですが、その背景には近年のオスマン帝国史の隆盛があるようです。近年のオスマン帝国史の発展については、Web上のものですが永田雄三「近年のオスマン史研究の回顧と展望」(→こちら)などをごらんになると概要がつかみやすいでしょう。また、各種史料についての紹介は公益財団法人東洋文庫研究部イスラーム地域研究史料室の「オスマン帝国史料解題」(→こちら)などで見ることができます。

 重要なことは、たしかにこうした歴史学会における研究の隆盛などもあるのですが、先にあげた東京大学・京都大学・東京外国語大学などは高校で教えられている世界史の実態も鑑みて、歴史学的にも重要でかつ受験生も解くことができる出題とそのテーマはどのあたりかという感覚を共有しているということです。それはかなり、現場の感覚とも近いものだということが言えるわけで、だとすれば教科書や参考書の中で「最近、記述の分量が増えてきた」と感じる部分や、「叙述の仕方に変化が表れてきた」と感じる部分には注目するべきだと思われます。中でも、単に記述量が増えたというだけでなく、全体としてそれらの変化がこれまでの世界観やストーリーを上書きするような内容となってきている部分には注意が必要でしょう。そういう意味では、東京大学の2020年問題で出題され、東京外国語大学の2020年問題でも40字論述(小論述)として出題された琉球の日清両属など、東アジアがヨーロッパの主権国家体制に巻き込まれていく過程での伝統的関係の変化などは注目すべきテーマの一つであると思います。

 

2020 東京外国語大学

【概観】

:大問1は、オスマン帝国内外の動向にかかわる三つの史料を用いて、関連する事項について問うもので、小問数7と大論述1(500字)という構成は前年と同様のものでした。また、大問2は、東アジアの境界地域とそこに暮らす人々についての文章を読み、関連事項を問うもので、小問数6に対して小論述1(40字)と、こちらも前年と同様のものでした。

 内容は、大問1の方がほぼ近代オスマン帝国の周辺史のみで解答できる内容であったのに対し、大問2の方は時代的にも地域的にもややバラエティーに富んだ出題がなされていました。問題の難易度についてですが、小問のレベルは前年よりもやや難しくなったのではないかと感じます。易しい問題と難しい問題がはっきりと分かれていて、難しい問題はかなりしっかりと世界史の勉強をしてきていないと解けないのではないかと思います。また、すでに前年、前々年と京都大学や東京大学で立て続けに出題されたとはいえ、オスマン帝国における帝国維持の動きと思想を問うテーマは、おそらく英語主体の勉強を進めてくるであろう東京外国語大学志望の受験生にとってはまだまだとっつきにくいテーマであったかと思いますので、大論述もやや難しいと感じたのではないでしょうか。例年であれば、小問は基本全問正解、落としても1、2題までにしたいところですが、この年はそれよりも取りこぼしたとしても仕方なかったのではないかと思います。

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【小問概要と解説】

(大問1-1)

概要:以下の絵を描いた人物と、その人物に代表される理性や規範よりも個性に重きを置く思潮の名称を答えよ。

解答:ドラクロワ / ロマン主義

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Wikipedia「キオス島の虐殺」より)

:ギリシア独立戦争に関連する頻出問題で、基本問題かと思います。強いて言えば、ドラクロワは出てもロマン主義が書けない人はいるかもしれません。関連事項としては、同時期に活躍し、ギリシア独立戦争に義勇兵として参加したものの熱病で亡くなったバイロンをおさえておくとよいでしょう。バイロンの代表作としては『チャイルド・ハロルドの巡礼(遍歴)』などがあります。

 

(大問1-2)

概要:ベルリン会議(1878)の調停を担当したドイツ帝国宰相は誰か。

解答:ビスマルク

 

:基本問題です。ただし、ベルリン会議の内容は私大などでも頻出事項ですから、細かいところまでしっかり確認しておきましょう。

 

(大問1-3)

概要:一時ロシアに割譲された後、パリ条約(1856)で一部が放棄され、ベルリン条約で改めて獲得した地域はどこか。

解答:ベッサラビア

 

:この設問は難しいです。各種模試で偏差値70UPなど、よく勉強している人であれば解けるかもしれませんが、そうでなければほとんどの受験生は書けないと思います。

 

(大問1-4) 

概要:アブデュルメジト1世により開始された改革の名称を答えよ。

解答:タンジマート

 

:基本問題です。これが解けないと正直この年の世界史は苦しいです。

 

(大問1-5) 

概要:エジプト遠征を指揮し、ピラミッドの戦いで勝利した軍人は誰か。

解答:ナポレオン=ボナパルト

 

:基本問題です。ですが、実際の設問は他にも多くの情報があり、それに惑わされると意外に思い浮かばないかもしれません。

 

(大問1-6) 

概要:反帝国主義とイスラーム世界の統一を訴え、当時のムスリム知識人に大きな影響を与えた思想家は誰か。

解答:アフガーニー

 

:一昔前であれば難しい設問でしたが、最近はすっかり定番の問題になりました。知識がきちんとアップデートされている先生の授業を受けていれば多分解けるはずです。

 

(大問1-7) 

概要:サイクス=ピコ協定を結んだ参加国はどこか

解答:イギリス、フランス、ロシア

 

:基本問題です。この協定は英・仏・露で結ばれましたが、よく出てくる下の地図にはロシアの支配地が描かれていません。これは、ロシアの支配地とされたのがボスフォラス・ダーダネルス両海峡周辺とされてこの地図の中におさまらないことが原因で、ロシアは同協定に参加しています。ですが、1917年にロシア革命が発生すると、この秘密協定は暴露されて、この協定を締結した主体であるロシア帝国は滅亡します。その結果、第一次世界大戦後の中東地域は英・仏を中心にその実質的支配下に置かれることとなりました。

サイクスピコ協定_勢力入り
サイクス・ピコ協定

(大問2-1) 

概要:倭寇の頭目、王直の拠点や、ポルトガル、オランダ、イギリス商船の拠点となった日本の島はどこか

解答:平戸

 

:この設問は少し難しいかと思います。ポルトガルが1550年に平戸を拠点に商館を設置した話は教科書、参考書等で出てくるので、そうした知識を丁寧に拾った人であれば解けるかもしれません。

 

(大問2-2) 

概要:アメリカ大陸(新大陸)の発見者は誰か。

解答:コロンブス

 

:超基本問題です。

 

(大問2-3) 

概要:7世紀前半に陸路でインドにおもむいた仏僧とその著作

解答:玄奘 / 『大唐西域記』

 

:基本問題です。同じく唐の時代の仏僧として義浄がいますが、義浄は海路での往復になりますのですぐに玄奘と特定できるはずです。漢字にだけ気をつける必要があるでしょう。

 

(大問2-4) 

概要:金を成立させた人物は誰か

解答:完顔阿骨打

 

:標準的な問題です。唐・宋の時代の周辺諸民族とその建国者はわりと良く出題される割に受験生が区別できていない&漢字の書けない部分です。逆に言えば、そこを身に着ければ点数になるということですので、どこかで確実に身につけておく必要があるでしょう。

 

(大問2-5) 

概要:大黒屋光太夫と親交のある、1792年に来日したロシア使節は誰か

解答:ラクスマン

 

:基本問題です。

 

(大問2-7) 

概要:2019年の法律で、日本で初めて法的に「先住民族」と認められた民族は何か

解答:アイヌ

 

:あまり世界史で出てくる内容ではなく、どちらかというと時事問題ですが、設問の文章から類推することは可能です。そもそも、「日本の先住民族」といった時にアイヌ以外の単語が思い浮かぶ受験生はそう多くないでしょうし、最近では『ゴールデンカムイ』なんかも人気でしたので、解けた人も多いのではないでしょうか。

 

【小論述解説(40字、大問2-6)】

概要:1870年代に琉球を舞台に発生した日清の対立について、その契機を指定語句を用いて40字以内で説明せよ。

解答例:日本が日清両属琉球王国沖縄県を設置する琉球処分を行ったため、清と対立した。(39字、下線部は設問の指定語句)

 

:標準的な小論述かと思います。40字と字数がややタイトなのでまとめるのに苦労するかもしれませんが、内容については知っていてほしい内容です。また、上述の通り2020年の東京問題の大論述でもテーマの一つとして出題された内容です。

 

【大論述解説(500字、大問1-8)】

(設問概要)

オスマン帝国に体制改革を必要とさせた当時の国際情勢について説明せよ。

19世紀~20世紀はじめのオスマン帝国で、為政者や知識人の間にあらわれた、人々を政治的に統合する思想について論ぜよ。

・史料[][]と問1~7の設問文を参考にせよ。

500字以内

・指定語句:ギュルハネ勅令 / ミドハト憲法 / 青年トルコ / パン=イスラーム主義 / ムスタファ=ケマル(使用した箇所全てに下線を付せ)

 

(史料[]) ベルリン条約

:第1条、第3条、第25条、第26条が示されています。出典は歴史学研究会編『世界史史料6』です。大論述を解くにあたって特に注意すべき内容はありませんが、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立やブルガリアの自治、ボスニア=ヘルツェゴヴィナに対するオーストリアの統治権承認など、オスマン統治下にあったバルカン半島の諸民族が独立、自立化したことによる帝国の分裂や、それにつけこんだ列強の進出など、基本事項はしっかり押さえておくべきです。(もっとも、本史料は読まなくとも、持っている世界史の知識で事足ります。)

 

(史料[B]) ユスフ=アクチュラ『三つの政治路線』(1904年)

:この史料の詳細とその解釈の仕方については、以前掲載した予想問題とその解説の方に示してあります(→こちら)。東京外国語大学が引用した箇所もほぼ同じ個所(少し東京外国語大学の方が長く引用していますが)です。本史料から読み取れる重要なことは以下の3点です。

 

①三つの政治路線とは「オスマン国民」の創出、「パン=イスラミズム」、「トルコ人の政治的ナショナリティ」の形成の三つ

:この三つの政治路線がどういうものかということについては、東京大学2019年の問題解説で詳しく解説済みですので、こちらをお読みください。

 

②「オスマン国民」とは、オスマン政府の名のもとに多様な諸民族を同化すること

:つまり、オスマンの分裂の原因であった多様な民族の混在の原因を、諸民族の同化によって根本から絶つことを意図しています。その際、同化の中心にあるのは「オスマン政府」であり、これはつまり「オスマン帝国に所属していること」を根拠としてそこに住まうものはみな同じく同化されるべきであるという発想です。これは、主としてタンジマートの期間中に新オスマン人が追い求めた「オスマン主義」に他なりません。それまで複数の民族や宗教によって多種多様な民族の坩堝であったオスマン帝国を、法の下の平等をはじめとする諸改革によって等しくオスマン臣民(オスマン人)とし、一つにまとまった国民国家を形成しようとする考え方で、だからこそタンジマートは西欧式の行政・司法改革を進めていきます。

ところが、これについてアクチュラは「実行不可能である」と言い切っています。これは、当時オスマン帝国内の諸民族がその文化、宗教などの違いから分裂傾向にあったことを考えれば、現実的ではなかったからです。アクチュラによれば、「オスマン国民」という概念は「オスマン国家のすべての民族の意思に反して、外国の妨害にもかかわらず、オスマン政府の指導者の何人かが、いくつかのヨーロッパ諸国…を頼って創出しようとしたものなのだ!」と述べており、オスマン帝国の分裂を避けたいオスマンの指導層による無理な創出物に過ぎないと指摘し、「オスマン国民」という単一の民族・国民の創出は現実的に不可能であることを主張しています。

 

③「パン=イスラミズム」は、全てのイスラームを政治的に統一するが、オスマン朝はこれを自身の権力の強化に利用しようとしていること

:アクチュラは、パン=イスラミズム(パン=イスラーム主義)について「カリフ権がオスマン朝の君主にあることを利用して」とオスマン朝のスルタンがスルタン=カリフ制を利用してイスラームの連帯を隠れ蓑に自身の専制政治の強化を図っていることをはっきりと認識しています。史料中にそれについての言及はほとんどありませんが、世界史の教科書や参考書にはその点記載があるはずです。また、同時代にアブデュル=ハミト2世自身が示した『政治的回顧録』や彼の政策(ミドハト憲法の停止、アフガーニーの招聘、皇帝専制の強化など)、そしてその後の青年トルコ革命などを思い浮かべれば、アクチュラがパン=イスラミズムに対して期待を寄せていないであろうことは想像がつきます。

 

(史料[]) T..ロレンス『知恵の七柱』(1922年)

:トマス=エドワード=ロレンスは俗に「アラビアのロレンス」として知られるイギリスの軍人で、オスマン帝国に対抗して独立を目指すアラブ人の反乱を支援した人物です。昔の映画は場合によっては感覚が古すぎて見るのがつらいものもあるのですが、映画『アラビアのロレンス』は映像・音楽ともに今見ても新鮮さを感じさせる部分も多く、わりと安心してみることができます。ただ、昔の映画はとにかく長い!w この映画も今調べたら完全版227だそうなので、もしご覧になるのであれば、覚悟して鑑賞する必要があるかもしれません。

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Wikipedia「アラビアのロレンス」より、1963年のポスター)

本史料はそのロレンスから見たオスマントルコの状況について言及した部分になりますが、論述に関連するポイントを示すと以下のようになります。

 

① 「青年トルコ」革命はアラブにとって視野が明るくなるものだった

② パン=イスラーム主義を統治に利用しようとしたアブドュルハミトの野心

③ トルコは、ソヴィエトが公開したサイクス=ピコ協定を西欧に対抗する武器とした

 

ただし、注意しておきたいのはロレンスの史料は基本的にイギリス側からの見方であるということと、オスマン帝国内の諸民族をヨーロッパ的な「オリエント」という視点で混同しがちなことです。たとえば、①についてですが、たしかに青年トルコ革命はロレンスの史料内で述べられているように「主権国家の憲法理論に駆られ」た「自治と民族の自由を目指す」ものでありましたが、その基本理念はパン=トルコ主義(トルコ民族主義)でした。とすれば、青年トルコによる政権はトルコ人以外の民族についても帝国内の人々をトルコ人として扱おうとする、つまり同化圧力がかかるのであって、必ずしもアラブ人の自立や独立にプラスの影響を与えるものではなかったと言えます。(そもそも、青年トルコ革命にアラブ人が満足するのであれば、アラブ大反乱がおこる理由がありません。)そうした部分を割り引く必要はありますが、それでもパン=イスラーム主義とアブデュルハミト2世の専制強化との関係や、それに対する青年トルコの対抗、サイクス=ピコ協定に対するトルコ人の不満などは本史料から読み取ることが可能です。

 

(解答手順1:オスマン帝国に体制改革を必要とさせた当時の国際情勢を整理)

:本設問の要求は19世紀~20世紀はじめとなっていますので、「当時」とはこの時期で考えればよいでしょう。オスマン帝国の体制改革は、すでに18世紀末から19世紀はじめにかけて、セリム3世のニザーム=ジェディット(西洋式軍隊)の創設やマフムト2世によるイェニチェリの全廃などによって進められておりましたが、より大きな改革としてはアブドュルメジト1世のギュルハネ勅令を機に開始されたタンジマート(恩恵改革)があります。ですから、本設問は、なぜオスマン帝国がタンジマートをはじめとする諸改革を始めることになったのか、その背景となった国際情勢について言及すればよいことになります。それらをまとめれば以下のようなものになるでしょう。また、タンジマートは非常に長い期間にかけて展開された諸改革ですので、その過程において影響を与えた事柄として⑤についても言及するとよいかと思います。

 

① ロシアの南下

② ギリシアの独立をはじめとする各地域の自立化傾向

③ エジプト=トルコ戦争の敗北とエジプトの実質的独立

④ 欧州列強の進出と脅威

⑤ クリミア戦争

 

(解答手順2:政治的統合についての思想を整理する)

:上述の通り、政治的統合についての思想には以下の三つがあります。これは、設問に史料として提示されているユスフ=アクチュラの思想が『三つの政治路線』となっていることもヒントになるかと思います。

 

① オスマン主義

② パン=イスラーム主義

③ パン=トルコ主義(トルコ民族主義)

 

これらが、当時のオスマン帝国でどのような意味をもったのかについては、上述の通り、すでに2019年の東京大学大論述解説で示しておりますので、そちらをご覧ください(→こちら)。

 

(解答手順3:記述すべき内容の整理)

:今回は細かい部分の解説を過去の記事(東大2019年過去問や予想問題)に任せてしまったので、ここでどういった内容を解答に盛り込むべきか整理しておきたいと思います。

 

① ロシアの南下

② ギリシアの独立をはじめとする各地域の自立化傾向

③ エジプト=トルコ戦争の敗北とエジプトの実質的独立

④ 欧州列強の進出と脅威

:①~④によるタンジマートの開始

⑤ クリミア戦争

:オスマン帝国の財政破綻、西欧諸国への経済依存度の高まり

⑥ オスマン主義

:立憲制樹立に向けての「新オスマン人」の活動、国民国家創出を目指す

⑦ ミドハト憲法の制定と停止

:露土戦争を契機としたミドハト憲法の停止

⑧ アブデュルハミト2世によるスルタン専制とパン=イスラーム主義の利用

⑨ パン=イスラーム主義の内容

:アフガーニーによる反帝国主義とイスラーム世界の統一を目指す思想

⑩ 青年トルコの活動

:アブデュルハミト2世の退位とミドハト憲法の復活

⑪ パン=トルコ主義(トルコ民族主義)

⑫ 西欧の中東分割に対するトルコ人の反発

:サイクス=ピコ協定に対する反発、セーヴル条約とこれを締結したスルタン政府に対する反発

⑬ ムスタファ=ケマルとアンカラ国民議会による抵抗

:イズミルに侵入したギリシア軍の撃退、ローザンヌ条約(1923)の締結

⑭ スルタン制の廃止

⑮ トルコ共和国の樹立

⑯ 政教分離策と西欧的近代化の推進

 

時代的にどこまで書くべきかという問題がありますが、指定語句に「ムスタファ=ケマル」があることから考えても、トルコ共和国の建国までは書くべきだと思います。また、ムスタファ=ケマルの政教分離策が、スルタン専制支配につながるイスラーム色の排除を意図したものであったと考えれば、新しい国民統合の形として政教分離を選んだという部分もありますので、これについても言及して差し支えはないかと思います。

 

【解答例】

オスマン帝国は黒海北岸へのロシアの南下やギリシアの独立、ムハンマド=アリーとのエジプト=トルコ戦争の敗北などで衰退の度を増したため、アブドュルメジト1世のギュルハネ勅令でタンジマートを始めた。広範な西欧化改革を進めた背景には、法の下の平等により多様な民族をオスマン帝国臣民として統一せんとする新オスマン人と呼ばれる知識人層のオスマン主義があった。クリミア戦争敗北を機に立憲君主制を志向するまでに改革は進み、ミドハト憲法が制定されたが、財政破綻は西欧列強への依存度を高めた。露土戦争を口実にアブデュルハミト2世が憲法を停止し、パン=イスラーム主義を利用して専制を強化すると、失望した青年知識人層はトルコ民族主義を軸に憲政復活を目指す統一と進歩委員会を結成し、青年トルコ革命で憲法を復活させた。議会はスルタンから主導権を奪ったが、第一次世界大戦の敗北で解体した。権力の奪還を図るスルタン政府が連合国とセーヴル条約を締結すると、反発したムスタファ=ケマルとアンカラ国民議会はトルコ民族主義を高めて抵抗し、スルタン制を廃止してセーヴル条約を破棄し、トルコ共和国を建国して政教分離政策に基づく近代化を開始した。(500字)

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ちょうどブログのご質問に対する答えの中で話題になったので、こちらのご紹介を忘れておりました。駿台受験シリーズの『テーマ別東大世界史論述問題集』です。東大を受験することを考えるのであれば持っていて損のない本かと思います。過去二十数年(私の持っている版では「28か年徹底分析」となっています)にわたる東大大論述と小論述をテーマ別に配置し直したもので、解答例もしっかりとしたものがつけられているかと思います。もちろん、人によって細かいところに意見したくなることもあるのかもしれませんが、「設問の要求を組みとり、これに答えよう」という論述問題における基本的な姿勢が大きくぶれることがないので、わりと安心して使うことができます。こちらは私が現在手持ちのものですが、今は多分改訂されてもっと新しいのが出ているかと思います。

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本書の良い点としては以下のようなことがあるかと思います。

・解答例や解説がしっかりしている

・テーマ別に問題が配置されているので、類似の問題が見つけやすい

・テーマ別に問題が配置されることで、どのような問題があるテーマについて出題されてきたのかが一目でわかるため、同テーマについて東大側がどのような問題関心を抱いているのかつかみやすい

・単純に解答に至る道筋が示されているだけでなく、関連する事項や視点などが示されているため、もともと持っている知識・理解に厚みを持たせることができる
・問題と解説部分が切り離されているので使いやすい

・大論述よりもむしろ小論述に丁寧な解説がつけられていることに好感が持てる(あ、これは個人的な感想か…)

 

 こんなところでしょうか。さすがに、長年第一線で活躍されている先生方ですので、問題解説にとどまらず近年の歴史学の知見についても紹介されていて、知識の厚みを感じるものになっています。先に本書に取り組んだうえで、直近数か年の東大過去問については赤本で力試し、といった使い方もできるかと思います。一方で、使いづらいと考える場合があるとすれば以下のようなときでしょうか。

 

・テーマ別に配置されているため、年代順に設問を解きたいなどの場合には手間がかかる

・第3問は収録されていない

・上記の理由から、「力試しがしたいのでひと通り1年分の東大過去問を解きたい」などの場合には適さない

 

これらは、そもそも本書がそうした目的のために作られたものでないわけですから無理もないことです。野球のバットの代わりにダイソンの掃除機を使うようなもので、どんな優れた道具であっても目的に合致しないものに使っては不具合が生じるのも当然でしょう。ですから、力試しがしたいときや第3問まで通しで見たい場合には赤本などの東大過去問を、一つ一つの問題とその背景や関連知識まで含めてしっかり理解していきたい場合には本書を使うなど、その目的に合わせて使い分けをするとよいのではないかと思います。また、東大入試は何も世界史だけではないので、英国数など、他の教科も含めて解きたい場合には当然ですが赤本を買うべきですね。

 私の個人的な意見では、少なくとも第一志望・第二志望までは自前の赤本を購入する(または常に利用できる環境にしておく)べきだと思いますので、それを前提に、東大前期試験の教科の中でも特に世界史で点数をとりたいとか、世界史の力を伸ばしたいなどの場合には持っていて良い本かと思います。

 使い方ですが、もちろん「設問を解いて解説を読む」というやり方でも良いかとは思いますし、それが最善かとは思いますが、英語・国語・数学など他の教科もある中で28か年分の大論述+小論述を一つ一つ書いていく作業、さらにその答え合わせをして解答を精読し、知識の再確認をする作業は、そう簡単なものではありません。大論述と小論述で多分年間平均で800字~900字くらいはある分量ですから、全部でざっと3万字弱は書かないといけない計算になります。受験まで1年以上あるところから進めるのであれば余裕もあるかもしれませんが、この問題集に取り掛かろうとする人の多くは通史を終えて、少し知識も蓄えて…という状態で取り組む人がほとんどだと思いますので、早くて高3の最初、場合によっては夏休みが終わるくらいから取り組むという人もいるのではないでしょうか。そうした場合、本書の問題を一問一問、丁寧に解いていくとかなり無理がありますので、しっかり解く問題と、解説を読んでテーマの理解を深め、知識をbrush upする問題とを分けておくとよいかと思います、ただし、その場合でも「小論述にはしっかりと取り組むこと」が大切です。東大は大論述が目立ちますが、一橋などと違い、大論述だけで結果が決まるのではありません。第2問、第3問を落とさないことの方がより重要です。そうした意味で、本書は確かに良書ではありますが、受験生が使う場合にはある程度の基礎を身につけた状態で取り組むべき一冊でしょう。

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