かなり古い設問ですが、この年の設問は冷戦、中でも分断国家の形成と統合についての問題でした。1989年当時私はちょうど中学生になるかならないかくらいの頃でしたが、こども心に「何かすごいことが起こっている」と考えさせられる時期でした。やはり、ベルリンの壁の崩壊はとても印象的で、きっとこれからすごいことが起こるんだろうなぁと思ったものです。あの頃にむしろITとかアップルとかに関心を持っていれば今頃大金持ちだったかもしれないのにw 脱線しましたが、あの頃は子どもも大人も無邪気に「もしかしたら世界はもっと良くなるかもしれない」と思ったものです。もっとも、すぐに湾岸戦争やら各地の民族紛争で「どうも、そうではないのかもしれない」と感じさせられることになったわけですが。いずれにせよ、本設問が出題された背景にもおそらく、当時の出題者の問題関心が冷戦後の世界がどうなるか、また冷戦がどういうものであったか受験生は知っているだろうかとうことに向けられていたのではないでしょうか。当時の雰囲気は実際にニュース映像などをご覧いただいた方が文章で追うよりも手っ取り早いのではないかと思います。
ベルリンの壁崩壊→https://www.youtube.com/watch?v=1YJDvpWL4AY
ソ連崩壊→https://www.youtube.com/watch?v=3l3QxfZHPTQ
冷戦については、2016年の東京大学でも出題されていますが、1993年から2016年まで冷戦を真正面から扱った出題はされていません。この理由はよくわかりませんが、実際のところ一般的な認識として冷戦をどこか終わったものとして理解していた向きはあるのかもしれません。2016年の設問については、すでに過去の記事でご紹介していますので、そちらをご覧ください。今後冷戦に関する問題が東大で登場するか、はっきりとしたことは分かりませんが、もしかしたら冷戦終結40周年とか50周年当たりでは出るのかもしれませんねw 少なくとも、私の中ではそれほどは警戒してないです。ただ、冷戦は早慶などの次第では頻出の設問になりますので、メインになる話は整序も含めてしっかりと確認しておきたいところです。世界が平和になりますようにw
【1、設問確認】
・二つの分断国家(ベトナムとドイツ)の形成から統合への過程を略述せよ。
・冷戦の展開と関連付けよ。
・指定語句:ゴルバチョフ / ジュネーヴ会議 / 封じ込め政策 /
平和共存 / ベルリンの壁
・指定語句に下線を付せ
・20行(600字)以内で記せ
:設問は非常にシンプルです。少し気を遣わないといけないのは、冷戦との関連付けでしょうか。ただ、ベトナムとドイツの分裂が書けないと話になりませんので、いろいろ考えてごちゃごちゃになるよりは、まず両国の分裂と統合の過程をしっかり確認した上で、それらを冷戦の文脈の中に位置づけるという方法が無難かと思います。
【2、ベトナムの分裂と統合について整理】
まず、ベトナムの分裂と統合について整理します。文章で書くよりも、表でまとめちゃった方が良いかなと思いますので、とりあえず以下の表にまとめてみます。
受験生がよく混乱しがちなのが、ベトナム民主共和国とベトナム国、ベトナム共和国の区別です。かなり乱暴な区分けではあるのですが、「民主」と名前に着くのは共産主義の国に多いです。後にあげるドイツ民主共和国(東ドイツ)もそうですし、民主カンプチア、朝鮮民主主義人民共和国…、結構ありますねw 世界史で出てくるレベルの国であれば特に問題はないので、「ベトナム民主共和国(北ベトナム)=共産主義の国=ホーチミン」というように理解しておけば問題ないかと思います。その上で、残った南部ベトナムについては、「最初の方はフランスが阮朝最後の皇帝バオ=ダイを元首に担ぐので典型的な共和国ではない=ベトナム国」、「後の方はアメリカの後ろ盾を持ち、ゴ=ディン=ディエム(ジェム)を大統領とする共和国=ベトナム共和国」と理解すれば、間違えることは少なくなるかと思います。
ベトナム史については、後ほど地域史か何かで上の表を文章にしましょうか。ただ、それほど分かりにくいところはないので、上の表の内容が理解できていれば本設問を解くには十分かと思います。
【3、ドイツの分裂と統合について整理】
ドイツについても、以下の表にまとめておきます。
こちらについては、いくらか分かりにくいところもあるかと思いますので何点か補足しておきます。
① 西側占領地域の通貨改革とベルリン封鎖
ドイツについては、米・英・仏・ソの四か国による分割占領がされたことはよく知られています。ここでしっかり理解しておかなければならないのは、ベルリンも同様に四か国の分割占領下におかれたのですが、ベルリンの周辺地域は全てソ連の占領下にあり、そのためベルリンの米・英・仏による管理地域はソ連によって交通を遮断された場合、陸の孤島になってしまうということです。(下の地図、白い丸で囲まれた部分がベルリン。そのうち、西部の青・緑・オレンジが西側占領地域)これが、後のベルリン封鎖を可能にすることになります。
(Wikipedia「連合軍軍政期(ドイツ)」より、一部改変)
さて、当初、ドイツに対しては米の占領地域においても積極的な工業復興は支援せず、農業国化することが想定されていました。しかし、ソ連との対立が深まるにつれて、占領地域を貧困のままにとどめておくことは、占領国(米・英・仏)に対する反発を呼ぶだけでなく共産主義の拡大を招く恐れがありました。(共産主義は、一般的に経済がパッとしない場合に広まる傾向が強いです。みんなが日雇い労働者や失業者の場合、失うものがないので「金持ちの財産をオラに分けてくれー」という思想は共感を呼びやすいですが、みんながそこそこの財産を所有している場合にはむしろ「財産を取られて誰かに分け与えられるのは嫌だなぁ」という発想につながりますので、共産主義の勢いはそがれることになります。) そこで、いわゆる西側(米・英・仏)の占領地域については経済再建が目指されることになります。また、その副産物というわけでもないのですが、かつてのナチ時代の企業による対ナチ協力についても「んー、まぁ、ナチに強制されてた分はしょうがないよね」という形で「何でもかんでも厳罰!」というムードではなくなってきます。(もちろん、ホロコーストにかかわっていたとか、どうしようもない場合は除きますが。) 戦争中のドイツ人はほとんどの場合何らかの形でナチスにかかわっていましたので、それらを片っ端から挙げてしまうと復興のための人材が極端に不足してしまうんですね。実際、ドイツの3代目首相となったキージンガーなども内心はユダヤ人迫害などに批判的であったようですが、若いころに一時ナチスに在籍した経歴があり、かつ後の外務省勤務時代にゲッベルスなどと交流があったことから、就任時はかなり批判を受けたようです。いずれにしても、西側占領地域では占領政策が経済復興に転換されたことによって急速に暮らし向きが良くなっていきます。
一方、ソ連の占領地域では土地改革をはじめとして社会主義化が図られていきます。企業は解体され、非ナチ化は徹底していました。これは、そもそもファシズム(ナチス)と共産主義が相容れない存在であったことを考えれば容易に理解できることです。ドイツはたしかに一時ソ連と独ソ不可侵条約を結びましたが、これは戦争を有利に進めるための一時的なもので、ナチスは根っこのところから反共産主義でしたし、ソ連も同じく反ナチスでした。そのため、ソ連による占領地の社会主義化と非ナチ化は西側諸国の占領地域と比べるとはるかに徹底したものでしたが、このことがソ連占領地域の経済復興を遅らせることになります。
その結果、西側と東側には次第に復興速度に格差がみられるようになりました。西側が、西側占領地域でのみ通用するドイツ・マルクの発行(通貨改革)を計画したのはこうした時期です。この西側の通貨改革に対し、ソ連は西側経済に東側が吞まれ、その後の占領政策で西側に主導権を握られることを恐れ、占領地は統一したものとして扱われるべきものと元来の連合国の合意でされていることを主張し、通貨改革を批判します。そして、ソ連が採った手段がいわゆるベルリン封鎖でした。これにより、ベルリンの西側占領地域までの交通が遮断された結果、西側占領地域は陸の孤島となることになりました。これに対し、西側諸国はベルリン西部への大空輸作戦を実施し、西ベルリン市民に必要な物資を届ける作戦を1年弱にわたって繰り広げ、最終的にソ連はベルリン封鎖を解除します。
(Wikipedia「ベルリン封鎖」より)
注意しておきたいのは、この時のベルリン封鎖ではベルリンの壁は建設されていないということです。このベルリン封鎖は、ソ連軍による各所の検問や、鉄道・地下鉄・運河・高速道路の封鎖によって行われたもので、壁によって遮られたのではありません。下に書くように、ベルリンの壁建設は西ドイツの奇跡の経済復興によって東西の経済格差が明らかになった1950年代末から1960年代初めにかけて東ドイツから西ドイツへの市民流出が問題となった結果、1961年に建設されるもので、ベルリン封鎖からは10年以上も後のことである点は注意しておいた方が良いでしょう。
② ベルリンの壁建設
:ベルリンの壁建設については、先日簡単に別記事の方に書いておきましたので、こちらをご覧ください。
③ ヨーロッパ=ピクニック
:1989年の東欧革命とドイツについては、とかくベルリンの壁崩壊がクローズアップされがちですが、実はそれ以前から東側諸国と西側諸国の国境にはほころびが生じておりました。ソ連でゴルバチョフが就任し、ペレストロイカを進める一方で東側諸国に対しても各国の自由裁量を容認したことで、ワレサの率いる「連帯」に理解を示し始めたヤルゼルスキの指導下にあったポーランドや、1960年代ごろから寛容な政治路線を打ち出し、市場経済の導入を模索していたハンガリーなどでは次第に自由化へと進み始めます。しかし、東ドイツは分断国家であり、「なぜ、西ドイツと別国家であるのか」を問われた場合、それは「共産主義体制であるから」というイデオロギー的部分に拠るところが大きく、自由化を進めること自体が国家の存在意義を問われる問題であったため、ソ連と同様の改革路線を拒絶します。もちろん、同様のことは西ドイツにも言えたわけですが、当時の東西ドイツの経済状況は圧倒的に西ドイツが優勢であったため、仮に東ドイツが自由化に着手して西とのイデオロギー上の差異が希薄となった場合、西ドイツに吸収されて国家自体が消滅することを東側首脳部は危惧したわけです。
こうした政治状況のなか、ハンガリーでは中立国オーストリアとの国境管理が負担となっていました。国内旅行の自由化も進められていたハンガリーでは、中立国オーストリアとの国境管理の必要性は極端に乏しく、数百キロに及ぶ国境の警備費用は無駄な出費であると考えられるようになりました。しかし、ハンガリーには他の東側諸国からやってくる旅行者なども存在したため、ハンガリーが単独で国境を開放することは考えられませんでした。こうした中、ハンガリーのネーメト首相はゴルバチョフにハンガリー国境の警備を緩めることについて意見を確認しましたが、すでに西側への窓を開くことを考え始めていたゴルバチョフはこれを黙認します。
これを受けて、ハンガリーはオーストリア国境地帯にあった鉄条網の撤去に入ります。これは、ハンガリーとオーストリア国境の通行が半ば黙認されたことを示す出来事でした。これに敏感に反応したハンガリーへの旅行許可を受けた東ドイツの人々は大挙ハンガリー国内のオーストリア国境地帯へと殺到し、最終的にはハンガリー政府の黙認の下で「ヨーロッパ=ピクニック」と称されるイベントを口実に強引に両国国境を突破して、多数の東ドイツ市民がオーストリアを経由して西ドイツへと亡命していきました。
(Wikipedia「東ドイツ」より引用の地図を一部改変)
この出来事は、西側諸国と東側諸国の間の国境封鎖が形骸化したことを強く東ドイツの人々に印象付け、後のベルリンの壁崩壊へとつながっていきます。この時の様子を示したフォトギャラリーは以下のサイトなどで見ることができます。
https://www.rferl.org/a/hungary-1989-east-germany/30156892.html
またEuropeanaで「Pan European
Picnic」を検索するといくつかの動画も見ることができます。
(Europeanaについてはこちらでご紹介しています。)
【4、冷戦の展開とどのように関連するか考察】
:最後に、上記のベトナムやドイツの分断と統合が、冷戦の展開とどのように関連していたかを確認していきます。冷戦については大きな区分けになりますが、概ね「①冷戦構造の形成期(~1950年代前半)」、「②スターリン批判と雪解け(1950年代後半)」、「③再緊張と危機(1960年代前半から後半にかけて)」、「④デタント(緊張緩和:1960年代末~1979年)」、「⑤新冷戦(1979~1985)」、「⑥ゴルバチョフ就任後の共産圏の改革と冷戦の終結(1985~1989)」に区分すると理解がしやすいかと思います。これらの時代区分に基づいて、ドイツやベトナムの分断・統合に深くかかわってくる出来事をピックアップしていくと以下のようになるかと思います。
① 冷戦構造の形成期(~1950年代前半)
・チャーチルの「鉄のカーテン」演説(1946)
・トルーマン=ドクトリンと対ソ「封じ込め政策」(1947)
・マーシャル=プラン(1947)
・チェコスロヴァキアクーデタ(1948.2)と西ヨーロッパ連合条約(1948.3)
→ドイツ西側占領地域の通貨改革とソ連によるベルリン封鎖(1948.6)
:東西の緊張関係は、当時四か国による分割占領中だったドイツにも影響を与えます。
→ソ連と中国によるベトナム民主共和国(北ベトナム)支援と、フランスによるベトナム国建設
:元々は宗主国フランスからの独立闘争であったインドシナ戦争(1946~)にも、東西冷戦構造の形成が影響を与え、ホー=チ=ミンの率いるベトナム民主共和国の側をソ連ならびに成立したばかりの中華人民共和国が支援します。一方、ドミノ理論に基づくアジアの共産化を恐れたアメリカは1950年代初めに相次いで反共同盟を成立させ、防共圏の形成を進めます。(1954、東南アジア条約機構[SEATO]など。)
② スターリン批判と雪解け(1950年代後半)
・ソ連のスターリン批判
・フルシチョフの平和共存路線
・ジュネーヴ会議(1954)
→インドシナ戦争の終結と北緯17度線を境とする南北ベトナムの分断
:1953年にスターリンが亡くなったのち、ソ連では1956年にスターリン批判がおこなわれ、当時の指導者フルシチョフの下で平和共存路線が打ち出されました。これに先立ち、1954年にスイスのジュネーヴで開かれたインドシナ問題を話し合う会議(ジュネーヴ会議)では、北ベトナムが当時圧倒的に優勢で国土の大部分を掌握していたため、北緯17度線の軍事境界線設定に難色を示していたものの、スターリンの死により外交方針を転換させつつあったソ連政府の説得によって最終的には軍事境界線の設定に合意し、南北ベトナムは北緯17度線で分断されました。ですが、この段階では一定の準備期間を経て1956年に南北ベトナム統一のための自由選挙が行われる予定であり、南北ベトナムの分断は決定的なものではありませんでした。南北の分断が決定的になるのは、南ベトナムにおいてそれまでのベトナム国の元首バオ=ダイを追放して成立したベトナム共和国のゴ=ディン=ディエム大統領が北ベトナムとの統一のための自由選挙を無視し、これをフランスに代わってアメリカが支援したことによるものでした。
③ 再緊張と危機(1960年代前半から後半にかけて)
・U-2機撃墜事件(1960)と米ソの再緊張
:スターリン批判以降、改善されつつあったアメリカとの「雪解け」ムードはアメリカのU-2偵察機がソ連に撃墜された事件をきっかけに急速に冷え込みます。その後、1962年にはキューバ危機(1962)が発生し、核戦争の危機に直面するなど、1960年代前半を通して世界は危機の時代を迎えます。
→ベルリンの壁建設(1961)
:直接の原因は東西の経済格差と東ドイツからの市民流出ですが、上記のように当時が東西の緊張関係が高まっていた時期であったことには注意する必要があります。
→ベトナム戦争の開始(1960~)とアメリカの本格介入(1965~)
:同様の時期に、ベトナムでは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されます(1960年)。これを北ベトナムや共産主義諸国が支援し、一方で南ベトナム(ベトナム共和興)をアメリカのケネディ政権が支援することになりますが、ジョンソン大統領の時代に入って発生したトンキン湾事件(1964)とその翌年の北爆(1965)を機にアメリカ軍が本格的に介入を進めます。
④ デタント(緊張緩和:1960年代末~1979年)
:デタントへと至った要因は複数ありました。たとえば、1960年代の中ソ対立の激化、ソ連経済の停滞、ベトナム戦争の長期化・泥沼化と反戦運動などです。こうした中で、アメリカ側はベトナム戦争の解決とソ連への牽制を狙った対中接近をキッシンジャーとニクソンが進めますし、米・中を敵に回すことを避けたいソ連も一定の妥協を強いられます。こうした状況下で大きく東西の関係をデタントへと導いたのが西ドイツの首相ブラントによる東方外交でした。
→西ドイツのブラントの東方外交(1970~)
:ソ連=西ドイツ武力不行使条約(1970)、西ドイツ=ポーランド国交正常化条約とポーランド国境問題の解決(1970)、東西ドイツ基本条約(1972)と東西ドイツの国連同時加盟(1973)などが進められました。
→パリ協定(1973)による米軍のベトナム戦争からの撤退
:すでに選挙時からベトナム戦争の「ベトナム化」を主張して戦線の縮小を図っていたニクソン政権は、米中接近を通して北ベトナムに圧力をかけ、最終的にはパリ協定によって泥沼化していたベトナム戦争からの離脱に成功します。その後、米国の再介入を警戒していた北ベトナム政府は、再介入はないと判断すると1975年から南に対する大攻勢に出て首都サイゴンを陥落させ、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利で終結し、1976年にベトナム社会主義共和国として統一されました。
⑥ ゴルバチョフ就任後の共産圏の改革と冷戦の終結(1985~1989)
:ゴルバチョフのペレストロイカは、ソ連国内にとどまらず、それまでソ連が主導権を握ってきた共産諸国全体に対しても、その自主性を認め、自由化を容認するものでした。特に、1988年の新ベオグラード宣言では、ゴルバチョフはブレジネフによる制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン:1968年のプラハの春におけるソ連の介入に際してブレジネフが表明した考え方で、共産圏全体の維持のためには一国の主権は制限されうるという考え方)を撤回し、ソ連は東欧諸国に関与しないことを明確に示しました。これにより、ソ連の介入の恐れが亡くなった東欧諸国では急速に自由化と民主化が進展し、1989年の東欧革命へとつながっていきます。
→ベルリンの壁崩壊(1989)とドイツの統一(1990)
:上記の通り、ゴルバチョフ就任による共産圏の変化の中で、東ドイツは西側へと亡命する市民の流出を防ぐことができず、最終的にはベルリンの壁崩壊とドイツ統一へとつながっていきます。
→ドイモイと市場経済の導入
:すでに統合後のことになるので本設問では書く必要のないことではありますが、ベトナムでも1970年代から1980年代にかけての共産圏の停滞の中で、他の共産主義諸国同様に市場経済の導入が図られ、1986年からドイモイ(刷新)と呼ばれる市場経済の導入政策が進められていきます。
【解答例】
トルーマンがギリシア・トルコ支援と対ソ封じ込め政策を表明し、マーシャル=プランによる欧州復興計画が示されると東西対立は深まった。分割統治下にあった独の西側占領地域で通貨改革が断行されるとソ連はベルリン封鎖で対抗し、翌年には西にドイツ連邦共和国、東にドイツ民主共和国が成立した。ベトナムではホー=チ=ミン率いるベトナム民主共和国が仏とインドシナ戦争を戦い、ディエンビエンフーで勝利したものの、平和共存を企図するフルシチョフの意向を受けたジュネーヴ会議の決定で、北緯17度線を境に南北が分断された。U-2機撃墜で米ソの緊張が再度高まると、東独は亡命者を防ぐベルリンの壁を築いた。また、南ベトナム解放民族戦線と戦うベトナム共和国政府支援のため、トンキン湾事件を口実に米が北爆を開始しベトナム戦争に本格介入すると、ベトナムでも分断が深まった。しかし、ニクソンが中国に接近してベトナム戦争からの離脱を図り、パリ協定により軍を完全撤退させると、北ベトナムはサイゴンを陥落させて南北を統一し、ベトナム社会主義共和国を成立させた。また、西独のブラントによる東方外交から東西ドイツ基本法が制定され、欧州でもデタントが進んだ。さらに1980年代半ばにゴルバチョフがペレストロイカを打ち出し、新ベオグラード宣言で東欧諸国の自主性尊重を示すと、急速に東欧の自由化が進み、ベルリンの壁崩壊を機にコール首相の下で東西ドイツも統一された。(600字)