通貨・金融に関する事柄は受験生の間では「ある国・皇帝の時代の政策の一部」であるとか、「文化史の中の一部」といった理解の仕方でとどまってしまうことが多く、極めて断片的なものとして捉えられてしまうことが多いように思われます。また、交易に関する事柄も多くは「東西交流」や「他の地域との交流」という、文化的伝播の手段としての側面が強調され、交易自体が本来有する経済的側面に対する理解が十分になされずに終わってしまうこともしばしばです。
一方で、近年の受験問題では通貨・金融・交易(そしてさらには生産[農業史・工業史]・情報伝達史・交通史)などの経済・社会史に対して、上っ面の理解にとどまらず、より深い理解を要求する設問が増えてきているように思われます。これは、近年の西洋史・東洋史の分野が経済・社会史の理論的な部分だけではなく、その実態面を充実させるための多様な研究を進めてきていることと無関係ではありません。
そこで本稿では、「中国通貨史」、「中国産業・交易史」、「西洋・西アジア通貨史ならびに近現代金融史」などについてご紹介したいと思います。途中、ところどころに抜けもあるかと思いますが、生暖かい目で見てあげてください。
1 鋳造貨幣の使用と普及
【古代】 貝貨(貨幣鋳造以前)→青銅貨幣(春秋・戦国時代)
壊れやすい貝に代わり、実用価値のある青銅器へ、それを模した貨幣へ
青銅貨幣の種類
・刀貨 (斉・燕・趙で使用:東北部)
・蟻鼻銭 (楚で使用:南部)
・布銭[鋤を模したもの] (韓・魏・趙で使用:中央部)
・環銭[円銭] (秦・趙・魏で使用:西北部)
【秦(始皇帝)】 貨幣の統一(半両銭)
:鋳造貨幣は環銭が多くなる
→漢代に入ると重くて不便な半両銭から軽量化が図られる
【前漢(武帝)】 文帝期[5代]に私鋳禁止廃止
→粗悪な私鋳銭の流通と貨幣の暴落
→貨幣の私鋳の禁止
→五銖銭の鋳造(武帝[7代]期)
(写真はWikipedia「五銖銭」より引用)
【新】 王莽による貝貨・布貨などの復活(復古主義の表れ)
→不便なため流通せず、五銖銭が私鋳される
【唐】 開元通宝:はじめての重さが表示されない貨幣(重さは2.4銖)
→日本の和同開珎などに影響
【宋】 宋銭の鋳造量が歴代王朝で最大に
→銅銭の普及、アジア諸国が信用価値の高い宋銭を輸入して自国で流通
[一部地域(四川など)では遼・西夏への銅の流出防止のために鉄銭を使用]
2 紙幣の成立
【唐】 飛銭(役所発行の送金手形)の使用
:両税法(原則銭納)の施行・遠距離取引の増加による
(徳宗の宰相、楊炎の時)
【宋】 交子(北宋・仁宗の頃~)・会子(南宋~):世界最初の貨幣
:宋代の貨幣経済・商業の発達、鉄銭の流通による輸送の困難
(鉄銭の使用が強制された四川・陝西地方で特に重要)
→後に大量発行による価値下落とインフレ
【金】 交鈔(海陵王の治世)
→濫発によるインフレ
※
交子・会子・交鈔までは使用年限が決められていた補助貨幣
※
「交鈔」という言葉は狭義では金の海陵王の時代に発行された紙幣を指すが、それ以外にも「金・元の時代に発行された紙幣の総称」または「宋代以降、明までの諸王朝で用いられた紙幣の総称」としても使われるので注意しましょう。
cf. 2015年早稲田大学「世界史」大問1、設問5
:「下線部a(元)の元代に関する事項として誤っているものはどれか」という設問に対し、選択肢③は「交鈔は宋・金・元・明で発行された紙幣の総称で、元では主要通貨となった。」とあります。これは上にも書いた通り、広義の意味では正しい記述ということになるので、解答としては当てはまりません。赤本では「難問」としていますが、個人的には解釈次第で正文とも誤文ともとれる内容を設問に盛り込むのはいかがなものかと思います。「正解となる選択肢④が誤文であるから判断はつくだろう」ということかもしれませんが、その肝心の選択肢④も「モンゴル帝国では支配領域にジャムチをしいたが、元では中国に適用しなかった」というもので、そもそも日本語としてイマイチ意味が取れません。言いたいことは「モンゴル帝国では支配領域にジャムチをしいたが、元では支配領域のうち中国(地域)にジャムチをしかなかった」ということなのでしょうが、そもそも「元」自体が「チンギスハーンが建設したモンゴル帝国のうち、フビライ以降の皇帝政権のこと」とされることもあり、この場合「元≒モンゴル帝国」となりますし、逆に「元≒当時の中国」の意味で用いられることも多いわけですから、文章中の「中国」が地域名としての中国であることを明示しなければその意図がくみ取れません(当時の「元」はモンゴル高原と中国地域の双方を支配領域としていた)。こうした曖昧な表現のもとに文章を構成しているわけですから、少なくとも「適用しなかった」の目的語として「これ(ジャムチ)を」ということを示すのは必須ではないでしょうか。入試ではこの手の明らかに出題者側に起因する悩ましい問題はたびたび出てくるので、それを乗り越えて正解にたどり着く鋭敏な感覚を養うことも受験生には要求されます。
【元】 中統鈔の発行(交鈔の一種、フビライの治世)
:色目人をはじめとする財務官僚の力量で積極的な経済政策
(従来の紙幣が補助通貨(有効期限あり)だったのに対し、有効期限なし)
=通貨としての紙幣の本格流通、金銀との兌換を保証
(その後の元における通貨政策)
・南宋征服の際の大量発行で兌換準備の不足
→インフレーション
・至元鈔(中統鈔の5倍の価値)の発行と塩の紙幣による購入の義務づけ(銀不足対策)
→一時的に通貨価値安定
・政治混乱やパスパ(赤帽派[サキャ派]の法王)によるチベット仏教の隆盛と国費濫用
→再度インフレ進行、交鈔使用禁止(1356)
※
パスパはチベット仏教の指導者と説明されることが多いが、実際にはチベット仏教のみならず中国地域全域の寺院の監督権と、旧西夏領の行政権を与えられた人物で、国政に対する影響力も大きかった。
【明】
(明初[1368~])
・元末の混乱(貨幣制度の崩壊)による実物依存型経済
・洪武帝の農本主義と通貨流通に対する知識不足
:宝鈔(不換紙幣)と銅銭(永楽通宝など)の併用
→貨幣価値の下落(紙幣の価値を保つための政策行われず)
→次第に銀が通貨として流通するように(外国からの銀流入[下記])
(明後期[16c])
・後期倭寇の活動、海禁策の緩和[1567]
→日本銀・メキシコ銀の流入(石見銀山、ポトシ銀山など)
→一条鞭法の成立(万暦帝期、宰相張居正)
=銀が東アジアにおける国際通貨に(東アジア交易網の形成)
※
前期倭寇と後期倭寇の区別はついている受験生も多いでしょうが、前期倭寇と後期倭寇の活動域を地理的に見るとその違いがより鮮明になります。鎌倉末期~南北朝騒乱という日本の政情混乱と元末の政情混乱がもとで沿岸地域の略奪行為が行われた前期倭寇では朝鮮半島ならびに華北の沿岸地域が主要な活動域となっています(当然、李成桂もここで活躍することになります)のに対し、海禁下における密貿易が主体の後期倭寇では経済の中心である江南沿岸、台湾・琉球などがその主要な活動域となっています。
【清】
・地丁銀制の成立(明代後期以降の銀経済の成立による)
※ 康熙帝の頃から「盛世慈世人丁」数を確定(丁=成人のこと)
仮の人口数から割り出した丁税を地税に繰り込み、地税に一本化
→丁銀がなくなったことで人口隠しが無くなったことによる人口増加?
・銀不足が起こると実質的な税負担の増加に(銀ベースの納税で額面が一定のため)
→時期によっては抗租運動(税の不払い運動)の増加
3 経済活動の拡大と銀経済の浸透
【南宋~明】
・宋代以降における江南沿岸地域の商業的発展・都市化
→長江下流域では商品作物の栽培が進む
(宋代に最大の穀倉地帯であったことから重税がかけられ、副業として綿花・茶・桑栽培が盛んに)
→手工業が発達(綿織物・絹織物・陶磁器)
※
ペルシア起源のコバルトの活用
:釉を塗り、低温焼成したのは唐三彩、高温が染付(青花)
・陶磁器では明代に染付(藍色の絵模様)・赤絵(五色の釉による文様)の技法が発達(景徳鎮を中心産地として)
→長江下流域の人口が増加・都市化し、周辺の田園地帯では商品作物への転作が進む
→穀倉地帯が長江中流域に移動「湖広熟すれば天下足る」
・遠隔地交易の発展
:宋代に各地で都市(鎮・市・店など)が発達したものの、沿岸地域を除く各地域は比較的独立した経済圏にとどまっていた。
[宋代の3大経済圏]
1、北宋の都開封を中心とする北部
2、江南の臨安[杭州]・蘇州を中心とする南部
3、四川・関中を中心とする西部
→宋末~明代に入ると、銀の流通と貨幣経済の発達、経済規模の拡大から内陸の遠隔地商業が発展、遠隔地商人(客商)の出現
→こうした遠隔地商人のうち、同郷・同業の者が集まって各地に相互扶助組織や共用の建物を設置(=会館・公所)。これらの建物は集会所・宿泊所・倉庫を兼ね、見知らぬ土地での交易を進める上で役立った。
★二大客商 ・新安商人(安徽省) :もともとは江浙地方の塩を扱う商人だったが、明代には海外との貿易にも従事して金融業に進出 ・山西商人(山西省) :洪武帝の頃、北辺防衛軍への物資供給代行の見返りとして得た塩の専売権で大きな利益をあげ、その後は明・清両王朝の資金を操る政商として活躍、金融業に従事した |
・銀経済の拡大と浸透
(宋・元)
:ユーラシア大陸・中国内における「銀の大循環」の形成
(明中期[16世紀以降])
:日本銀・メキシコ銀の流入による銀経済の拡大と浸透
Cf1 石見銀山(日本、1530年発見:実際には鎌倉期から存在は知られた。地方領主・小笠原長隆が奪取したのが1530年、後に大内氏・尼子氏らが争奪)
CF2 ポトシ銀山(ボリビア、1545年発見→アカプルコ貿易でマニラ[1571]へ)
【影響】
①
税制の変化
両税法[唐~明初]→一条鞭法[明・万暦帝期・張居正]→地丁銀制[清中期~]
②
明末の銀価値高騰による抗租運動の増加(佃戸の反地主・政府闘争)、奴隷反乱(奴変)、都市下層民反乱(民変)
:税の銀納化が進んだことや銀の価値高騰により、農民[佃戸]の実質的な税負担が拡大
ex. 鄧茂七の乱[15世紀半ば]
4 明清期の対外政策
【中国の伝統的対外関係】
・冊封体制(朝貢と冊封に基づく、中国を中心とした東アジアの国際秩序)
(冊封)周辺諸国・部族に官爵を与えるなどして形式上の君臣関係を結ぶこと
(朝貢)周辺諸国の君主が中国の皇帝の徳に対して敬意を表して貢物をすること
※古くは後漢(光武帝-漢委奴国王)・三国(魏[曹叡]-親魏倭王)時代にその例が見られる。唐代には東アジア全域に拡大し、渤海・新羅・南詔などが冊封国に、日本・真臘・林邑(チャンパー)・シュリーヴィジャヤ(スマトラ南部)などが朝貢国として唐と関係を結び、東アジア文明圏が確立。
【明】
(初期):前期倭寇対策と海禁
・洪武帝による海禁策(元末混乱や日本の鎌倉幕府弱体化や南北朝騒乱によって発生し た前期倭寇対策、洪武帝の農本主義)
・永楽帝・鄭和の南海遠征
→朝貢貿易の促進、日本の冊封(勘合貿易[足利義満の時期~、建文帝の頃に使節、永楽帝が継続])
(中・後期):銀の大量流入と後期倭寇の発生→海禁の緩和
Cf. 1523 寧波の乱
:応仁の乱以降、大内・細川両氏の間の勘合貿易をめぐる争いが武力衝突に発展
(細川管領家=堺、大内家=山口・博多などを拠点としていた)
→一時勘合貿易が停止(1536年に大内義隆が再開)
・日本人商人との私貿易(密貿易)が活発化
・北虜に対抗するための軍事費の増大(支払いのための銀需要の拡大)
→密貿易による銀の調達(中国・日本・ポルトガル商人[1557年、マカオ居住]による日本銀・メキシコ銀の大量流入)
→1567 海禁の緩和
【清】
(初期)
・海禁策の強化(1661年、遷界令)
(中期以降)
・鄭氏台湾の制圧(1683)と遷界令の解除(1684)
→海関の設置(1865):上海、定海、厦門、広州の4港で朝貢貿易
・乾隆帝が貿易港を広州一港に限定(1757)
(公行と呼ばれる少数の特許商人に貿易管理を独占させる[広東十三行])
→18世紀末からのイギリスの自由貿易要求(マカートニー[1793]、アマースト[1816]、ネイピア[1834]派遣)、東インド会社の中国貿易独占権廃止(1833)によるジャーディン=マセソン商会の活動活発化
→片貿易から三角貿易への転換による中国からの銀流出とアヘン流入量の急増
→アヘン戦争の敗北による冊封体制の終焉
(南京条約[1842]で5港開港と公行廃止=貿易完全自由化)
5 明清期の東シナ・南シナ海域
(東南アジア諸国の繁栄とイスラーム化)
14c末 マレー半島周辺にマラッカ王国成立
1411 ・明の鄭和が入港したのを機に明に朝貢・冊封(1411)
(マレー半島を南下してくるアユタヤ朝を牽制)
・ヒンドゥー教からイスラーム教に改宗
(2代目:イスカンダル=シャーの時)
東南アジアのイスラーム化を促進
★東南アジアのイスラーム化 ・マタラム王国成立(16c末~1755、ジャワ東部) ・バンテン王国成立(16c初~1813、ジャワ西部) ・ジャワ島最後のヒンドゥー王国であるマジャパヒト王国崩壊 |
(16世紀ポルトガルの進出)
1510 ポルトガルがゴア(インド西岸)を占領
:初代総督アルメイダがディウ沖海戦(1509)でマムルーク朝に勝利
→アラビア海への進出
1511 マラッカ王国を占領(滅亡)
:ゴアを建設したポルトガル総督アルブケルケ(2代目)による
1512 ポルトガルがモルッカ諸島に進出
→香辛料貿易に乗り出す
1517 コロンボ(セイロン)占領
1543 ポルトガル人の種子島来航
1550 平戸で交易開始
1557 ポルトガル人がマカオに居住権
(来航は1513頃、19世紀末にはポルトガル領に)
1571 マニラ建設
(スペイン人の初代フィリピン総督レガスピがルソン島に)
→メキシコ銀の中国流入
(17世紀 オランダの経済覇権確立期)
・アントウェルペンなどへのアクセスを断たれたオランダは独自にアジア進出
・ヨーロッパではアムステルダムが世界の商業・金融中心に
1602 オランダ東インド会社(連合東インド会社[VOC])設立
1619 オランダがジャワ島に拠点バタヴィアを建設
(オランダ東インド会社総督クーンによる)
1623 アンボイナ事件
:オランダ人がアンボイナ島(モルッカ諸島)でイギリス商館を襲い、商館員を処刑
→オランダによる香辛料貿易の独占
→イギリスがアジア経営の比重をインドに傾ける
※ 同時期、オランダは新大陸にも進出
1621 オランダ西インド会社設立 1625 ニューアムステルダム建設 |
1624 オランダ東インド会社が台湾を占領
:ゼーランディア(安平) 城を建設
(フィリピンを領有するスペインに対抗、対日貿易の拠点)
→鎖国下の日本と交易(長崎・出島:1639 ポルトガル人追放)
1641 オランダ東インド会社がマラッカ王国を占領
1652 ケープ植民地建設
1658 セイロン島をポルトガルから奪取
1661~1662 鄭成功がオランダ勢力を台湾から駆逐
→清の康熙帝は封じ込めのために遷界令発布(1661)
→三藩の乱(1673-1681)鎮圧後に台湾が清の直轄領に(1683)
=清の中国統一の完成
→遷界令解除(1684)