調べたところ、私だけではないらしく、ネットに悲しみがあふれていました…。
https://togetter.com/li/1836850
どうも、警告の原因は私の調べた限りではSSL証明書の期限切れっぽいですが、当事者でないのでホンマにそうなのかは分かりません。
https://amsstudio.jp/news/privacy-protection-warning
いずれにしても、あの膨大な量のデータベースが見られないのは大きな損失なので、早く復旧するといいなぁと願っています。
大学受験向け世界史情報ブログ
(注意:本記事は2015年~2021年分を分析した記事になります。)
上智のTEAP利用型が始まって今年で7回目です。上智は2015年度からTEAPを活用した試験を導入してきましたが、この試験では世界史が採用されています。かなり本格的な史料読解と論述試験が採用され、多少の試験形式の変更はあるものの、史資料を提示し、それに関する5問程度の小問と2題の論述問題を課すというスタイルに変更はありません。開始から7年分が出そろったということで、データとしてもかなりまとまったものになってきておりますので、以前書いた分析記事の更新を行ってみようかと思います。もっとも、以前から2年分しか追加されておりませんので、内容的に変わらない部分もあるかと思います。年ごとの設問解説は別途掲載しております(一部、抜けている年があります)ので、そちらをご覧ください。
過去7年分の上智TEAP型の設問データは以下の通りです。
(試験時間、設問数、論述字数と全体のテーマ、扱われた主要な時代)
試験形式については、初年度と2年目についてはやや安定を欠きましたが、その後は概ね小問5問前後、論述2題の形式に落ち着いています。ただし、リード文として示される文章の量と、論述として要求される字数についてはかなりの差があるので注意が必要です。また、試験時間については当初60分試験であったものが、ここ4年間は90分試験に変更されています。そうした意味で、過渡期であった2017年の設問は論述の難度、字数、試験時間を考慮した場合にややアンバランスなものとなり、受験生にはかなり厳しい年となりました。おそらく、この2017年問題がこれまで出題された設問の中では条件も含めて考えた場合に最も難しかったものだと思います。
上智TEAP利用型世界史の問題では、小問には特別見るべきものはありません。2020年にやや難化したかと思われましたが、2021年の小問ではむしろ簡単になりましたので、平均してみれば旧センター試験または中堅私大クラスの出題がされているかと思います。問題数が少ないことを考えても、取りこぼすことなく全問を正解したいところです。論述問題については意外に一橋に通じるものがあり、史料読解と世界史の知識を合わせて適切な解答を用意するというプロセスを受験生に要求します。史料を読ませる、という意味では東京外語の問題とも似たところがありますが、外語の問題よりも解答作成に際して史料に依拠する割合が高い(史料から読み取った内容を解答に反映させる必要があることが多い)です。また、外語の小問数が多いのに対して上智の小問数は少なく、論述が占める割合が非常に高くなっています。(もっとも、それが配点の面においてもそうであるかは定かではありません。)また、こうした史料読解型の設問はこれまで東大ではあまり出題されてこなかったのですが、つい最近東大でも史料の読み取りと利用を要求する設問が出題されました(2020年)。もっとも、東大ではその後通常の出題形式にもどりましたので、今後どうなるかは分かりませんが、大学共通テストでも史資料を用いた出題が増加していることを考えると、今後こうした出題が増えてくることはほぼ確実かと思います。上智の世界史論述問題は、年によって良し悪しはありますが、全体的に論述問題としてはよく練られていて、質はかなり高いと思います。
全体のテーマも論述も近現代史が中心です。今のところは16世紀以降しか出題がされておらず、また16世紀について出題された2020年を除けば、18世紀以降からしか出題されていません。また、地域としてはヨーロッパとその周辺が主です。前回の解説では「アジア・アフリカでも植民地史や独立のプロセスなどはしっかり追っておくべきでしょう。」としておりましたが、2021年問題はまさにロシアの進出と中央アジア(一部イギリスの進出)が主要なテーマでした。また、2020年問題はアジアも関連はしていましたが主要なテーマはフランシスコ=ザビエルやイエズス会宣教師の布教活動で、やはり主軸が置かれているのはヨーロッパであったと思います。テーマ自体は一橋よりも東大や外語に親和性がある気がします。類似の設問として、前回解説では2016年のスペイン領と13植民地の「対照的な」という表現が1998年東大のアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の対照的発展についての問題と類似していること、2018年のヨーロッパ統合の「加速」・「抑制」要因という表現が、2006年東大の戦争の助長要因と抑制要因についての問題を思い出させることなどを指摘しましたが、これに加えて2021年のロシアの進出とユーラシアの国際関係というテーマが2014年の東大で出題されたロシアの対外政策とユーラシア各地の国際関係変化について述べるという問題と似通っていることも追記しておきたいと思います。やはり、「別の大学の過去問は見る必要がない」とすぐに切り捨てるのではなく、余力があればですが、幅広く様々な問題に触れておくことが結果として対応力の底上げにつながるのではないかと思います。
注意点としては、2020年から2年続けて論述問題の質が変化しています。2019年までは史料読解の必要はありつつも基本的には世界史の知識と読み取った情報を整理してまとめれば十分であったのに対し、2020年と2021年の論述問題では解答者自身の見解や用意された文章の文脈を考慮する必要があるなど、解答者自身が自分の言葉で語る必要のある設問が続けて出題されています。この傾向が今後も続くかどうかは分かりませんが、今後も続くとすれば受験生はかなりの文章読解力と文章作成力を要求されることになります。また、今後は同様の問題が出題されない場合でも、これまでの上智の出題を見るに何かしら実験的な出題や変化が起こってくる可能性は十分に考えられます。過度に過去問の傾向に頼りすぎるのは禁物です。目先の変わった問題に出くわしたときに焦らない気構えと対応力を備えておくべきかと思います。一方で、時代と場所・テーマについては近世以降のヨーロッパ史が主であることは確かです。ただ、これも7年分しかデータがないということは肝に銘じておくべきかと思います。
2021年の上智TEAP利用の問題でリード文に選ばれたのはロシアのユーラシア内陸部(中央アジア)における南下とイギリスとの対立、いわゆるグレートゲームを扱った文章でした。このテーマについては、東大がかなり真正面から取り扱った設問が2014年に出題されていますので、こちらの解説が参考になるかと思います。また、ロシアの南下政策や東方問題についてもこちらで解説しています。もっとも、上智のこの年の設問で問われている内容はロシアの南下政策とイギリスとの対立そのものではありません。ただ、小問の方ではそれに関連して身につく知識で解けるものが多く出題されておりますし、最後の論述問題についても英露の対立の状況を理解している方が書きやすいかなと思います。いずれにしても、ロシアの南下は19世紀史の一大テーマなので、他大の受験を併願することを考えても、うろ覚えにすることなくしっかりと確認しておくにこしたことはないでしょう。
この年の設問として非常に興味深かったことは、最後の論述問題が世界史の知識と本文、設問をベースとしつつも、基本的には受験生自身の言葉で書かせることを目的として出題されているという点でしょう。この点については、上智大学の2020年TEAP利用型世界史で出題された「香料と霊魂」について「解答者自身の考えを述べよ」とした設問と同じ流れをひいているかと思います。ただ、2021年の設問では、ある文章の段落末尾の文章を受験生に作らせるという形式であり、さらにこの文章に加えて「冒頭の問題文(リード文)の論旨を踏まえよ」となっていますから、受験生自身が文章を作る反面、その内容については完全な自由回答ではなく、一定の基準の中で解答を作成することが要求されています。この点、ほぼ解答者の自由回答となっていた2020年の論述問題とは大きく異なります。(2020年問題は「香料と霊魂」といった受け止められ方が一般になされているのはなぜか、という点については暗黙のうちにリード文等を参考にすることが求められていますが、その後の「解答者自身がそのような受け止め方に対してどのように考えるか」という部分については特に問題文を参照にしろなどの指示は出ておりませんので完全な自由回答です。) 2020年と違い、2021年の問題では解答作成のための基準・指針が示してあることになりますので、ある意味安心して解答を作成できることになります。いずれにしても、大学側としては「受験生自身の情報整理能力と文章作成能力」を見たいと考えていることは明らかで、そのための出題が2年連続で続いたことになります。まだ2年しか続いていないので、2022年の問題もそうなるかは未知数ですが、同じ形式の出題が出てきたときに戸惑わないようにしておく必要はあると思います。
その他の形式には大きな変更はなく、小問が5題、200字論述が1題、300字論述が1題の90分試験でした(2020年は小問6、200字論述1,350字論述1の90分試験)。 小問の内容は2020年の問題と比べるとかなり易化しているように思いますので、1問の取りこぼしもないようにしたい設問です。論述問題のうち、200字論述についてはすでに何度か他大でも出題されているもので目新しいものではありませんし、テーマとしても難しいものではない標準的な設問です。受験生の間で差がついたとすれば、やはり最後の300字論述でしょう。こちらの論述は単なる英露対立ではなく、カフカースやトルキスタンといった中央アジア地域における地域秩序の本来の姿がいかなるものであったかを、同地域における少数勢力の抵抗運動を参照しながら説明する必要があり、高校世界史で通常学習する知識に加えて、リード文や設問の説明文など色々な情報を取り入れ、整理する必要のある設問です。あまり抽象的になってしまうととりとめのない文章になってしまうので、適度に具体例なども示す必要があり、要求されている内容は(知識面というよりは文章を作る力という面で)かなり高いと思います。こうした設問に対応するためには、普段から論述問題や、その他文章を書くことに慣れておく必要があるでしょう。
【小問(設問1、⑴~⑸)】
設問1
問⑴ a
:クリミア半島がロシアの支配下に入るのはエカチェリーナ2世(在:1762-1796)の時で、ピョートル1世(在:1682-1725)の時ではありません。ピョートル1世の時にはたしかにロシアの南下政策の端緒が開かれますが、この時の進出は黒海北岸のアゾフ海まででした。
これに対し、クリミア半島を支配下に置いたのがエカチェリーナ2世でした。同地の領有を目指したエカチェリーナ2世はトルコに宣戦を布告して勝利をおさめ、1774年にはキュチュク=カイナルジャ条約(キュチュク=カイナルジ条約)で講和し、オスマン帝国はクリミア半島に存在した属国クリム=ハン国に対する宗主権を喪失します。この結果、クリム=ハン国に対するロシアの影響力は急速に高まり、エカチェリーナ2世の愛人であったグリゴリー=ポチョムキンの進言によってクリミア半島併合(ロシアによる直接統治)が決定・実行されました(1783)。
問⑵ b
:アレクサンドル2世(在:1855~1881)は1861年の農奴解放令で良く知られています。クリミア戦争(1853~1856)中に亡くなったニコライ1世にかわって皇帝となったアレクサンドル2世は、クリミア戦争の敗北でロシアの後進性が明らかとなると、ロシアの近代化を目指した諸改革を進めます。内容的には不十分であったものの、農奴解放令はロシアで産業革命が始まる原動力となりましたし、地方の自治機関であるゼムストヴォの設置によって地方レベルではより広い範囲の人びとが政治に参加することになりました。しかし、こうした諸改革は1863年に起こったポーランドの反乱(一月蜂起)をきっかけに後退し、アレクサンドル2世の政策は反動化したというのが一般的な理解となっています。(もっとも、これについては諸説あります。)
ですから、bの文章の「一貫して自由主義的であった。」の部分が誤りとなります。念のため、山川の用語集と『詳説世界史研究』(山川出版社)の該当箇所のみ引用します。
「アレクサンドル2世」の項目より
…63年のポーランド反乱鎮圧後も改革は進められたが、次第に反動化した…
(全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集:改訂版』山川出版社、2018年版)
…63年1月、革命派の主導で武装蜂起が始まり…ロシアは軍を派遣して蜂起を制圧する一方、…1866年、革命派の青年カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件が起こると、政府は反動的姿勢を強めた。
(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.334)
実は、このアレクサンドル2世の改革とポーランド蜂起に関するくだりは、以前の詳説世界史研究と比べて大幅に加筆・修正が加えられたところです。19世紀の東欧各国の状況についてはかなり詳しい解説が加えられており、これまでの画一的な理解に対して最新の研究動向を踏まえての記述となっているので注意が必要です。ロシアのこの部分についても、アレクサンドル2世の改革を単に「反動化した」で片付けていいのかという視点から、多角的に丁寧に述べられているように思います。ただ、こうした微妙な記述の変化が教員や受験生の間に浸透するには時間がかかりますし、アレクサンドル2世の改革が一定のレベルで後退したことも事実です。また、用語集にもある通り基本的には反動化したと考えられていますので、本設問ではbを誤り(正解)として選ぶのが妥当かと思います。
問⑶ c
:インド大反乱(1857~1859)中の1858年にムガル帝国が滅亡したことならびに東インド会社が解散させられたことは基本事項です。そのため、cの文の「イギリス東インド会社は従来の活動を継続した」は誤りです。
問⑷ b
:イギリスは19世紀の2度にわたるアフガン戦争でアフガニスタンを保護国としますが、当時のアフガニスタンはイギリスの進行にかなり激しく抵抗し、一部においては勝利を収めるなどしており、イギリスがアフガニスタンを保護国化できたのは外交交渉の部分も大きいものでした。そのため、イギリスによるアフガニスタン支配の基盤はかなり弱く、第一次世界大戦でイギリスの余力が失われるとアフガニスタンは1919年にイギリス領東インドに逆侵攻を開始し、戦闘の末、イギリスとの交渉によって外交権を回復し独立を達成します。つまり、アフガニスタンは1919年の段階ですでに独立国となっておりますので、二次大戦後までイギリスやロシアの勢力争いの舞台になる理由が(本当はないことはないのですが)ありません。
また、第二次世界大戦後のイギリスは国力を大きく衰退させ、中東やアジア方面への支配力を失っていきます。たとえば、アメリカ合衆国がギリシア・トルコへの支援表明を行ったトルーマン=ドクトリンは、同地域への影響力行使をイギリスが放棄したことがきっかけでした。(英の支援が途切れたことで同地域が共産化することを防ごうとしたもの) また、イギリスはパレスティナ地域についても手に余って国連に丸投げ(国連のパレスティナ分割案)しますし、インド・パキスタンの独立も認めていきます。こうした文脈が理解できていれば、直接アフガニスタンの状況を世界史で習っていないにしても、「イギリスとロシア(ソ連)の間でアフガニスタンへの支援競争が続いた」という文章が極めて不自然であるということには気づけるはずです。
問⑸ c
:ソ連の承認が最も遅かった主要国はアメリカ合衆国です(1933年に承認)。イギリスのソ連承認はマクドナルド労働党政権が成立した1924年、日本のソ連承認は日ソ基本条約の締結された1925年です。当時日本では大正デモクラシーが盛り上がりを見せて政党内閣が続いていた時期であり、関東大震災後の不況やアメリカにおける排日移民法制定(1924)を受けて経済回復を図る必要のある時期でした。こうしたことが日本のソ連承認を認めた背景にありましたが、同時に共産主義の高まりを恐れる当局は同年に治安維持法を制定(加藤高明内閣)して、国内の共産主義者の取り締まりを強化していきます。
設問2(論述問題、150字~200字)
【1、設問概要】
・二重波線部(綿花)について、
① 1860年代のロシアにおける供給不足の原因を含めて論述せよ
② 19世紀を通じての国際的な綿花生産・供給の事情を論述せよ
・指定語句
アメリカ /
インド / 産業革命 / 南北戦争
【2、ロシアにおける供給不足の原因】
:ロシアにおける綿花の供給不足の原因を直接的に世界史の教科書や授業の中で学習することはありませんが、1860年代の綿花不足がアメリカの南北戦争にあったことは近年よく出題されるようになりました。また、南北戦争がアメリカ南部の綿花生産に打撃を与えたことによって、インドやエジプトがそれにかわる綿花供給地となったこと、南北戦争の開始と終結が綿花国際価格の乱高下につながったことなどについても参考書等で言及されるようになっています。
…南北戦争がアメリカでの綿花生産に大きな打撃を与えたことから、インドでは空前の綿花ブームが生じた。ブームは短期間で終わり、その後深刻な不況がおそったが、ブーム中に商人たちによって蓄えられた資金が工場制の綿製品生産にも向けられることになった…
(前掲『詳説世界史研究』、p.376、インド製造業の発展に関する文章で)
【3、19世紀を通じての国際的な綿花生産・供給の事情】
:19世紀前半における綿花の主要な供給地はアメリカ合衆国南部です。ホイットニーの綿繰り機発明(18世紀後半)以来、アメリカ南部では綿花プランテーションが拡大し、同地域はコットン=ベルトを形成していきます。一方、1813年に東インド会社のインド貿易独占権が廃止をされたことを機に、インドには産業革命で機械化された安価なイギリス制綿布が大量に流入し、手作業で作られるインド綿工業は壊滅的な打撃を受けます。これにより、インドは綿織物の生産地ではなく、原料となる綿花の供給地へと変貌を遂げていきます。
(『世界史B』東京書籍、2016年版、p.324より引用)
インドへのイギリス産綿布輸出が拡大していった背景には、それまでイギリス産綿布を輸入していた欧米諸国で産業革命が進み、自国で綿製品を生産し始めたことなども影響しています。アメリカ合衆国は1812年~1814年の米英戦争をきっかけに北部の工業化が進んで英経済から自立していきますし、ヨーロッパでも1830年ごろからベルギーやフランスなどで産業革命が進んでいきます。下の表を見ると、イギリスの綿布輸出先が欧米諸国から「低開発地域」へと急激にシフトしていく様子がわかります。この場合の「低開発地域」というのはインドをはじめとするアジア地域などでした。
1861年に南北戦争が発生すると、綿花供給地であるアメリカ合衆国南部の生産・輸出が打撃を受けたことから国際的な綿花価格が急騰し、南部にかわる綿花の安定供給地が必要となりました。これを主に担ったのはインドでしたが、さらにエジプトも合衆国南部にかわる綿花供給地としての役割を果たしていきます。(下の表の「地中海地域」の割合が60年代後半に急上昇しているのはエジプトからの輸出が急増したためです。)
(※ただし、なぜか1806-10に限り、合計が100%を超えてしまう。)
ですから、19世紀の国際的な綿花生産・供給の事情について押さえておくべきことは以下の点になります。
① アメリカ南部の綿花プランテーションが最重要の供給地であったこと
② 19世紀前半頃からインドが重要な綿花供給地となっていたこと
③ 南北戦争で南部からの綿花供給が急減したことが綿花の国際市場を動揺させたこと
④ ③により、インドやエジプトなどの綿花供給地としての重要性が増したこと
また、リード文中にはロシアのフェルガナ地方への進出が綿花不足を補うことを目的としていたことが示されていますので(本文第8段落を参照)、高校世界史の学習内容を越えてくる内容ではありますが、これについても言及してよいかと思います。フェルガナ地方には当時コーカンド=ハン国がありましたが、これが隣接していたブハラ=ハン国やヒヴァ=ハン国とともにロシアの支配下に置かれるのは1860年代後半から1870年代にかけてのことでした。
フェルガナ地方の位置
【解答例】
英の産業革命の本格化で綿花需要が高まると、アメリカ合衆国南部は奴隷制に依拠した綿花プランテーションにより主要な綿花供給地となった。その後、東インド会社のインド貿易独占権廃止で英産綿布が大量に流入し、綿工業が壊滅したインドも生産を拡大した。南北戦争で合衆国南部が打撃を受けるとインドやエジプトなどがシェアを拡大したが、国際価格が乱高下し露への供給は滞ったため、露は綿花生産地のフェルガナ地方へ進出した。(200字)
設問3(論述問題、250字~300字)
【1、設問概要】
・冒頭の問題文と以下の文の論旨を踏まえ、「このように」で始まる段落の末尾の空欄に入る文章を完成させなさい。
・250字から300字
(「冒頭の問題文(以下、リード文または文章Aとする)」の概要)
:本設問のリード文については、その冒頭で「ロシアからの視点を中心に、19世紀の国際関係の動向やユーラシア内陸部における大国と少数勢力との関係についてまとめたもの」となっていますが、実際にはその内容の半分近くはロシアの南下政策とこれに対立するイギリスの対応について書かれたものです。これについてはいわゆる世界史の勉強で学習する内容ですので、ここでは言及しません。一方、本設問でより重要なのは、後に示します通りカフカ―ス地方やトルキスタンにおける少数勢力の活動の実態の方です。そこで、このリード文(文章A)で示されている少数民族に関連する情報をまとめると以下のようになります。
① 18世紀以降のロシアのカフカ―ス地方への進出は、オスマン帝国支配下で同地に住むイスラームを信奉する様々なエスニック集団(民族集団)にとって、自分たちの従来の生活や信仰が制約される可能性があることだった。
② ムスリムが退いた土地にはロシア帝国拡張の尖兵としてコサックが定住した。
③ クリミア戦争敗北はロシアの関心をユーラシア内陸部(トルキスタン)へと向けたが、ロシアの出身者がトルキスタンの諸勢力に拉致、拘束される事例がたびたび見られたことはロシアの同地への勢力拡張を正当化する論拠となった。
④ ロシアのトルキスタンへの進出はムスリムの抵抗や過酷な自然環境に妨げられたが、鉄道の敷設などを通して19世紀後半には同地の支配が確実なものとなった。
⑤ ロシアのトルキスタン進出の背景には、綿花の供給不足を補うため一大生産地であったフェルガナ地方をおさえる実利的目的が存在した。
(⑥ アフガニスタンでもイギリスからの自立を目指す動きが続き、20世紀に入ってようやく独立した。)
ここで、アフガニスタンをカッコつきにしてある理由は二つあります。一つは、それまでの話がロシアとの関係を中心に語られているのに対し、アフガニスタンは主としてイギリスとの関係の中で語られていること。また、カフカ―スやトルキスタンについては少数民族の実態について言及されているのに対し、アフガニスタンではそれが見られず、基本的に英露関係のみが示されていることです。
(設問3で示された「以下の文(以下、文章Bとする)」の概要)
:設問3の方では、「カフカ―スや中央アジアにいる少数勢力の立場について叙述したもの」という説明書きがあり、基本的にはその通りに話が進んでいきます。文章Bの概要と構成は以下の通り。
<第1段落(カフカ―スのエスニック集団について)>
・クリミア戦争の最中、カフカ―スのエスニック集団はオスマン帝国とロシア帝国のはざまで闘争をつづけた。
・なかでも、チェチェン人の指導者シャミールはロシアに抵抗しつつ、オスマン帝国のスルタンやイギリスの女王(ヴィクトリア)に働きかけ、軍事支援を求めた。
<第2段落(チェチェン人シャミールの活動)>
・シャミールの勢力はグルジアにあるロシア拠点に対抗できるほどになった。
・当初イギリスはシャミールを支援していたが、深入りを避けた。
・その結果、ロシアがカフカ―ス全域を制圧し、シャミールは降伏した。
・シャミールは投降後、ロシア貴族や軍人と交流しつつ、カフカ―スのムスリムを懐柔する役割を負った。
<第3段落(トルキスタンの諸部族の抵抗と服従)>
・メルヴ一帯の抵抗運動はロシアを苦しめたが、最終的に族長たちはサンクトぺテルブルクへ連行され、アレクサンドル3世の即位式典に参列した。
これら3つの段落を受けて、最終第4段落は以下のように続きます。
「このように、大国の動きだけを見ていてはユーラシアの地域秩序の本来の姿を把握することはできないだろう。カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は、 」
【2、空欄 に入る文章の方向性を見定める】
:以上を踏まえて空欄 に入る文章を書くことになるわけですが、当然のことながら、文脈を踏まえる必要があります。設問3の文章Bでは、大部分がカフカ―スのシャミールの活動についてであり、一部トルキスタンの諸部族について言及がありますので、基本的にはカフカ―スとトルキスタンの状況について書けばよいことになります。一方で、第4段落からは、大国の動き(つまり、英露対立やオスマン帝国など)だけでは「地域秩序の本来の姿」を把握することはできないとありますので、大国の動きに加えてカフカース、トルキスタンの諸勢力の活動の実態を示すことで「地域秩序の本来の姿」を描き出すことが要求されていると考えるべきです。
そこで大切になってくるのが上記文章Aの概要でまとめた①~⑤までのカフカ―ス地方やトルキスタンにおける少数民族の情報と、文章Bの概要でまとめた少数民族の活動です。文章Bをまとめると分かる通り、基本の路線は「現地ムスリムの大国の動向も交えての抵抗→ロシアの同地制圧と少数民族の服従→ムスリム支配者を厚遇してロシア支配に利用」という流れになります。
【3、全体の流れに具体的事例を肉付けする】
:上記の2で示した「現地ムスリムの大国の動向も交えての抵抗→ロシアの同地制圧と少数民族の服従→ムスリム支配者を厚遇してロシア支配に利用」という流れに、文章Aや世界史の知識で知っている具体的事例を肉付けしていきます。すると、以下のような話の筋が出来上がってくるかと思います。
① カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は、ロシアの進出をムスリムとしての生活や信仰が制約する可能性のあるものととらえて抵抗した。
② 事実、ムスリムが退いた土地にはコサックが定住して、ロシア帝国進出の尖兵となった。
③ カフカ―スのシャミールは19世紀前半から対ロシア闘争を行い、ムスリムとしての立場からオスマン帝国の支援を、ロシアとの対抗関係からイギリスの支援を得るなど、大国間の対立を利用して抵抗したが、イギリスの関心が中央アジアから離れるにしたがってロシアに制圧された。
④ また、クリミア戦争におけるロシアの敗北と南北戦争による綿花供給の激減はロシアの関心をトルキスタンへと向けたが、同地におけるロシア臣民の拉致、拘束はかえってロシアに進出のための口実を与えることとなった。
⑤ 19世紀後半には、ウズベク3ハン国(ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国)の制圧やイリ事件など、中央アジア方面におけるロシアの活動が活発化し、鉄道の敷設は同地の支配を強固なものとした。
⑥ カフカ―スやトルキスタンの現地諸勢力指導者を厚遇することで、ロシアは同地の抵抗勢力の懐柔と支配の安定化を図った。
だいたい、こんなところではないでしょうか。ウズベク3ハン国がロシア支配下に入ることや、イリ事件については通常の世界史の学習で身に着く知識なので、盛り込んでも問題ないと思います。
【4、アフガニスタンには言及するべきか】
:先にばらしちゃいます。上智の模範解答はアフガニスタンについて言及しています。(「ただし、アフガニスタンのように20世紀に独立を勝ち得た国もあった。」→上智大学公開の標準的な解答例より)
ですが、それでもあえて言わせてください。なぜ、この設問設定でアフガニスタンについて言及しなくてはならないのか。もしこれが必須の加点要素となっているようであれば、それはどうなのかと思います。(「標準的な解答例」なので、別に必須の加点要素でない可能性もあります。)
たしかに、文章Aでは後半にアフガニスタンについての言及がありますが、上述のように、アフガニスタンはロシアとの関係よりはイギリスとの関係の中でのみ語られており、かつ本設問の重要な要素である少数民族についての言及が全くなされていません。また、文章Bの中にはアフガニスタンの影も形も見えません。ためしに、文章Bに上智の「標準的な解答例」をくっつけてみるとしましょう。ざっと2000字前後の文章の中に、アフガニスタンについて言及する文章は一番最後に唐突に出てくる数十字のみ。蛇足もいいところになってしまいます。
設問では以下の文は「カフカースや中央アジアにいる少数勢力の立場について叙述したものである」とあります。「アフガニスタンは中央アジアなのだから当然言及すべきだ」とする理屈もあるかもしれませんが、そもそもアフガニスタンを中央アジアに分類するか南アジアに分類するかというのは非常に曖昧です。たとえば、国際連合による地理区分では、アフガニスタンは南アジアの国として分類されています。(対して、ユネスコの区分ではアフガニスタンの大部分は中央アジアに分類されます。)
(Wikipedia「国連による世界地理区分」より)
だとすれば、受験生にアフガニスタンを記述することを要求するためには、アフガニスタンに言及する必然性がリード文や設問の指示から読み取れなくてはなりません。ところが、文章A、文章Bともに主要なテーマは一貫してロシアに対抗する少数勢力、少数民族であり、空欄の直前には「大国の動きだけを見ていてはユーラシアの地域秩序を把握することはできない」とあった上で「カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は 」とくるわけですから、空欄の中にロシアとの関係、少数勢力の実態に言及されていないアフガニスタンが入る余地はありません。以上の理由から、私としてはアフガニスタンに言及せずに解答例を作成したいと思います。(アフガニスタンを書いたらいかん、というわけではありませんが、少なくとも採点者の立場からはアフガニスタンを必須の要素として加点要素とすべきではないと考えます。)
【解答例】(「カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は」に続けて)
ロシアの進出をムスリムの生活や信仰の脅威ととらえて抵抗した。カフカ―スのシャミールはイスラーム国家であるオスマン帝国やロシアの南下政策に危機感を抱くイギリスのヴィクトリア女王に支援を仰いで抵抗したがロシアに制圧された。クリミア戦争敗北と南北戦争による綿花供給の減少はロシアをトルキスタンへ向かわせ、ロシア臣民保護を口実に綿花生産地フェルガナのコーカンド=ハン国をはじめとするウズベク3ハン国を破り、鉄道敷設でその支配を強化し、新疆ではイリ事件を引き起こすなど積極的に中央アジアへ進出した。さらに、ロシアはカフカ―スやトルキスタンの現地諸勢力指導者を厚遇し、同地の抵抗勢力の懐柔と支配の安定化を図った。(300字)
こんな感じでしょうか。フェルガナに位置していたのがコーカンド=ハン国であったなどは受験生には多分書けませんので、ウズベク3ハン国についての言及があれば十分かと思います。また、上智の模範解答のように「ユーラシアの地域秩序の本来の姿」を少数勢力の英露関係の対立の中で翻弄されたものととらえるやり方もあると思います。ですが、文章Bは「ロシア‐少数勢力」の関係を軸として書かれておりますので、たとえば「地域秩序の本来の姿」を、かつて抵抗した現地指導者を厚遇して懐柔の道具として使うロシアという文脈でとらえることも可能な気がします。実際、このように現地の支配層を取り込むことによって、地域支配の土台とする統治のあり方はイギリスのインド支配や、フランスのアルジェリア支配などの中でも見られます。なにより、「標準的な解答例」の方は結局「英露が進出して、対立した」以上のことは何も言ってないように見えます。もっとも、それくらいのことが読み取れれば採点基準としては十分ということなのかもしれません。実際の採点基準がどうなっているかはやや気になるものの、文章や世界史の知識をもとにかなり自由度の高い解答を受験生に書かせるスタイルの設問は、受験生にとっては対策がしにくく、かつかなり高い能力が求められることになります。新しいことに挑戦する非常に攻めた出題だと思いますが、次も似たような問題が出るとすれば受験生は大変ですね(汗
2003年の東大大論述は、運輸・通信手段の発達がどのように世界各地の植民地化やそれに抵抗する民族運動に影響を与えたかという、いかにも東大らしい設問でした。広域、ダイナミズム、民族運動、帝国主義と東大が好きそうなテーマが盛りだくさんであるだけでなく、2003年当時というのはインターネットの普及とグローバル化に伴う情報革命が進展していた最中であったこともあり、現代の問題を受験生に考えさせる意味でも非常に意欲的な設問であったかと思います。この手の設問を高校世界史の知識の範囲で作ろうとすると、時としてバランスの悪い設問や、焦点がぼやけた設問になりがちなのですが、本設問についてはそうしたこともなく、十分に当時の受験生の知識で取り組める内容となっていますし、指定語句も適切で受験生がストーリーを組み立てやすいものになっている良問かと思います。また、この前の年(2002年)の問題が同時代の中国人移民についての設問だったので、当時の東大受験生にとっては比較的イメージしやすい問題でもあったかと思います。ですが、要求されているハードルはかなり高いので、よくできる受験生と全く書けない受験生の差が明確に出るタイプの問題ではないでしょうか。東大では、現代的な意味での運輸・通信を扱った設問は大論述ではその後出題されていませんが、情報の伝達や交通といったテーマは時折出てくるものですので、確認しておきましょう。
【解答手順1:設問内容確認】
・運輸・通信手段の発展が,アジア・アフリカの植民地化を促したことについて論述せよ
・運輸・通信手段の発展が,各地の民族意識を高めたことについて論述せよ
・指定語句
:スエズ運河 / 汽 船 / バグダード鉄道 / モールス信号 /
マルコ一ニ / 義和団 / 日露戦争 / イラン立憲革命 / ガンディー
・17行(510字)以内
:設問の主要な要求が二つあることには注意が必要です。運輸・通信が発達したことによってどのように植民地化が進んだのかに加えて、運輸・通信が発達したことによってどのように各地で民族意識が高まったのかを示す必要がありますので、両者をしっかりと区別して整理する必要があるでしょう。イメージがしにくい場合には具体例をいくつか用意するといいですね。前者の例としては鉄道の敷設が植民地支配拡大や周辺の経済支配につながったことをイメージすればよいと思います。イギリスによるインドの鉄道敷設、ドイツのバグダード鉄道、ロシアや日本の満州地域における鉄道経営(東清鉄道、南満州鉄道)が具体例ですね。後者の例としては、日露戦争の勝利のニュースがアジア各地の民族運動に影響を与えた例、たとえばイラン立憲革命やドンズー(東遊)運動などを想定すると分かりやすいかと思います。
また、主要な要求を確認した上で、リード文をヒントに、いつぐらいの時期について、どのようなストーリーで書けばよいのか、全体のフレームワークを思い描いておくと良いと思います。主なヒントは以下の通りです。
(ヒント1)
:19世紀半ばから20世紀初頭にかけて,有線・無線の電信,電話,写真機,映画などの実用化がもたらされ,視聴覚メディアの革命も起こった
→時期は19世紀半ばから20世紀初頭
→視聴覚メディアの革命とは?=時期的にラジオ・新聞までか
(映像の送受信は19世紀末に実験成功、1925には英でテレビの実用的発明)
(ヒント2)
:これらの技術革新は,欧米諸国がアジア・アフリカに侵略の手を伸ばしていく背景としても注目される。例えば,ロイター通信社は,世界の情報をイギリスに集め,大英帝国の海外発展を支えることになった
(ヒント3)
:世界中で共有される情報や,交通手段の発展によって加速された人の移動は,各地の民族意識を刺激する要因ともなった。
【解答手順2:3つのテーマに合わせて指定語句を整理】
:お定まりの教科書的な流れがない部分なので、設問の要求する3つのテーマに沿ってどのような事柄があったのかを分析していきます。3つのテーマとは以下の通りです。また、下線が引いてあるのは指定語句になります。(もっとも、この年の設問の指示ではなぜか「指定語句に下線を付せ」という例年の指示がつけられておりません。指示がない場合にはその指示に従い、自己判断で下線を付けないようにするべきです。[指示通りにした場合にペナルティが課せられることはありませんが、指示外のことをした場合にはペナルティの対象になる可能性があるため])
① 運輸・通信手段の発展
② ①によってどのようにアジア・アフリカの植民地化が促進されたか
(欧米諸国の帝国主義的拡大)
③ ①によってどのように各地の民族運動が高揚したか
<運輸手段の発展>
Ⓐ 鉄道
:鉄道が実用化されるのはスティーブンソンによってです。ストックトン ~ ダーリントン間の実験走行(1825)を経て、当時の綿工業の中心地マンチェスターと、かつては奴隷貿易で栄え、産業革命本格化後はイギリス綿製品の重要な輸出港となったリヴァプールを結んだ営業運転(1830)が開始されて以降、イギリスには急速に鉄道網が整備されていきます。
また、鉄道は各地の植民地支配にとっても極めて重要でした。官僚や軍隊の迅速な移動、周辺地域の経済的支配、鉄道会社自体の経営権など、鉄道敷設によって植民地支配が安定し、経済が活性化したからです。鉄道が敷かれるということは複合的な産業発展が進むことを意味していました。輸送量の増大は、より多くの需要に応える能力を生み、製造業は生産を拡大して発展します。また、蒸気機関車の燃料となる石炭需要が高まることは、炭鉱開発の進展をもたらします。炭鉱の開発は重工業の発展へとつながり、物資や製品を輸出入するための港湾の重要性が増大するとともに、造船業も発達しました。「鉄道は植民地支配の道具となった」と述べることは簡単ですが、できれば上記のような、より具体的な例をいくらかは示しておきたいところです。
(年次ごとの大陸別鉄道延長距離[単位:1000キロメートル]、Wikipediaより)
【植民地支配と鉄道】
:植民地支配や帝国主義的拡大、各地の民族運動に鉄道が重要な役割を果たした例としては以下のようなものが挙げられます。多くは教科書レベルの知識で十分に導き出せるものです。
・[英]インドの鉄道(最初は1853年、ボンベイの近郊)
・[独]バグダード鉄道と3B政策
(アブデュル=ハミト2世から敷設権を得る)
・[露]シベリア鉄道と極東進出
(露仏同盟によるフランス資本の導入、当時の財務大臣はウィッテ)
・中国各地の鉄道(東清鉄道など)
→義和団による鉄道・電信の破壊と「扶清滅洋」
:義和団は明確に欧州列強を敵と認識し、鉄道や電信はその攻撃対象となります。また、義和団は「扶清滅洋」を唱えて清朝を支え、欧州列強に対抗する姿勢を鮮明にします。
→利権回収運動と鉄道国有令、辛亥革命
:四川地方を中心に中国の民族資本家によって展開されていた利権回収運動(資金を出し合ってヨーロッパ諸国に奪われた利権を買い戻す運動)が高揚していましたが、清は資金調達のために鉄道国有令を発し、民族資本家たちが苦労して「回収」した鉄道利権を没収することを宣言しました。このことは人々の強い反発を買い、結果的には辛亥革命へとつながっていきます。
・[日]南満州鉄道と満州
(植民地以外の鉄道)
・大陸横断鉄道
・リストと鉄道、ドイツ関税同盟、1835には最初の鉄道、モルトケと軍事
Ⓑ 汽船
:フルトンが発明(1807)した汽船は、それまでの帆船に代わる輸送手段として急速に普及します。軍事面では、海戦における帆船の役割はナヴァリノの海戦(1827)を最後に終わります。また、としての石炭の重要性と補給地の必要性が増していきます。
【汽船と航路開拓、列強資本の進出】
・スエズ運河
:建設は1869(レセップス)、株買収は1875(イギリス、ディズレーリ)
→ウラービーの反乱(1881~1882)鎮圧と事実上のエジプト保護国化
→3C政策の展開
・パナマ運河
:1903年、アメリカによるパナマ独立支援、運河地域の支配権獲得
(パナマ運河条約でパナマの主権排除)
:セオドア=ローズヴェルトの棍棒外交、1914年完成
→従来は門戸開放宣言でとどまっていたアメリカのアジア進出が進展
※ 鉄道・汽船を利用する際のインフラ整備などの近代化に際して、イギリスをはじめとする諸国の資本導入が行われ、それをきっかけに経済支配がはじまることがあった点にも注意するべきでしょう。
(例)トルコやエジプト
※ 製品市場化、原料供給地化という植民地支配が各地で加速していきます。
※ 汽船の発達は人の移動を容易にし、移民の増加、留学や海外渡航の増加による民族運動への影響、メッカ巡礼増加によるイスラームの連帯感の醸成(パン=イスラーム主義)などにもつながりました。
(例)ガンディー、中国同盟会など
Ⓒ 自動車
:大量生産方式の導入により、アメリカ社会を一変させます。(1920年代~、フォードの大量生産方式)ですが、本設問が想定している19世紀半ばから20世紀初頭という時期を考えると、自動車については考慮しなくて良いと思われます。大衆にとって自動車が生活必需品となっていくいわゆるモータリゼーションが起こるのは最も早いアメリカ合衆国でも1920年代に入ってからのことで、ヨーロッパはそれよりも遅れてのことです。
<通信手段の発展>
ⓐ モールス信号(1837に電信が発明された翌年に考案される)
:モールスが電信(有線電信)を発明し、40年代に実用化されると、1851年にはドーヴァー海峡に海底通信ケーブルが設置され、世界各地に通信網が築かれていきます。ロンドン~ボンベイ間には1870年に開通し、1880年代の後半には世界の通信網はほぼ完成していきます。
ⓑ 電話機(1876)
・ベルによる発明
ⓒ 無線電信(1895)
・マルコーニによる発明
ⓓ 新聞
:1851年にロイター通信社が設立され、情報の伝達が容易に行われるようになると、植民地支配に利用される一方で民族運動の活発化にもつながっていきます。主な例は以下の通り。
・義和団:山東省の通信・鉄道設備破壊、「扶清滅洋」
・日露戦争勝利の報道によるアジアの民族運動
(例)
‐中国同盟会の結成(1905、@東京)
‐ファン=ボイ=チャウの東遊運動(1905‐1907)
‐東京義塾の設立(1907:ファン=チュー=チンによる)
‐インド国民会議派カルカッタ大会(1906)
:ティラクの指導
:スワラージ、スワデーシ、ボイコット(英貨排斥)、民族教育
‐青年トルコ革命(1908)
‐イラン立憲革命(1905-11)
※ サレカット=イスラームはそもそもの起源の質が違うので不要
・パン=イスラーム主義の拡大
:情報伝達と汽船によるメッカ巡礼がイスラームの連帯を導く
・アフガーニー
‐イスラーム世界の団結による西欧列強への対抗を説く
‐バーブ教徒の反乱を体験
‐ウラービー運動に影響
‐タバコ=ボイコットを指導
‐オスマン=トルコのアブデュル=ハミト2世による専制に利用される
(アフガーニー自身は立憲君主制の優位を確信)
‐弟子にムハンマド=アブドゥフ
‐現代のイスラーム原理主義へと継承される
ⓔ 映画などの映像メディア
:トーキー形式の映画が本格化するのは1920年代以降なので、本設問では不要です。ただし、メディアがプロパガンダとして用いられたのは世界史というよりは一般によく知られた話ではあるので、いくつかの例を挙げてみたいと思います。もし以下に挙げたもののうち高校世界史の範囲で視点として持っておいた方がいいものがあるとすればガンディーについてでしょうか。
(例)
・アメリカ『国民の創生』
:1915年に公開されたサイレント映画です。南北戦争後のアメリカの名家で起こる様々な事件を白人視点で描いた映画で、KKKを擁護する内容であるととらえられたため、多くの批判を受けます。多分に人種差別的な描写がされた内容でしたが、興行的には大成功をおさめました。
・ソ連のプロパガンダ映画
・ドイツのプロパガンダ
:プロパガンダの効果に注目するヒトラーは宣伝相にゲッベルスを起用し、1934年のナチス党大会の様子を記録した『意思の勝利』やベルリンオリンピックの記録映画である『オリンピア』など、数多くの記録映画が撮影・公開されました。
(Wikipedia「意志の勝利」より)
・ガンディーの映像メディアへの登場と利用
:サティヤー=グラハを展開したガンディーの様子は多くの写真・映像として残されています。また、ガンディー自身がインタビューに答えている様子も残されています(ガンディーの最初のインタビューは1931年にFox Movietone Newsによって行われました)。ガンディーが粗末な服を着て何も持たなかったことはインドの貧しい民衆に共感を呼びましたし、糸車で糸をつむぐ行為は、インドの伝統産業の尊重や、イギリス産製品の不使用とイギリスの経済支配への対抗を示す象徴的な行為でした(スワラージ[国産品愛用]、ボイコット[英貨排斥])。また、塩の行進であえて大々的に違法行為にのぞみ逮捕される行為は明白に大衆向けのパフォーマンスでした。ガンディーは、自身の行為が映像に記録され、多くの人に見られることが生み出す効果を理解し、利用していたと考えることができます。
(ガンディーのインタビュー)
https://www.youtube.com/watch?v=Zt_MmVBUv84
【解答例(オリジナル)】
スティーブンソンが実用化した鉄道は官僚・軍隊の移動や沿線の経済支配に利用され、英のインド支配や独のバグダード鉄道敷設による3B政策推進、露の東清鉄道敷設と南下政策など帝国主義列強進出の基盤となった。フルトンが発明した汽船は世界の一体化を促進し、植民地は製品市場や原料供給地とされ、スエズ運河やパナマ運河の開通は、ウラービーの乱を鎮圧した英のエジプト保護国化や米のパナマ支配と密接に関わっていた。留学生や移民の移動が容易となり、ガンディーのサティヤー=グラハや孫文による辛亥革命など、海外渡航者の活動は各地の民族運動に影響を与えた。メッカ巡礼が容易になると、アフガーニーのパン=イスラーム主義拡大にも影響した。モールス信号を用いた電信と海底ケーブルの設置は、ロイター通信社設立や新聞の発達をもたらした。ベルが電話、マルコーニが無線電信を開発すると情報網はさらに発展したが、運輸・通信の発展は植民地支配の象徴とも映り、義和団が「扶清滅洋」を掲げて鉄道・電信を破壊するなど反発も呼んだ。また、日露戦争における日本勝利の報は、イラン立憲革命や青年トルコ革命、ファン=ボイ=チャウの東遊運動などアジア各地の民族運動に影響を与えた。(510字:本年の設問では下線を付す指示は出されていないので、指定語句については赤字で示してあります。)
:事例は非常に多くのものがあるので、材料を用意することにはそれほど困らないと思います。その分、単なる出来事や単語の羅列ではなく、どれだけ個々の事例が持つ意味を理解し、整理できるかが、まとまった解答を作るために必要なことになると思います。