【概観】

 今回は、2021年の東京外国語大学の問題解説を進めたいと思います。大問1は、冷戦体制下における核兵器開発をめぐる史料3つ(ニュージーランド、ソ連、アメリカ合衆国)を参考に関連する問題を解くというものでした。小問数は6でしたが、答えるべき箇所は7なので5点×735点で例年と変わりません。また、論述問題が1で、25点というのも変更はありません。文字数は500字以内で、2019年以降の形式を踏襲しています。

 設問の内容についてですが、小問についてはごく基本的な内容です。ある程度世界史をしっかり勉強している受験生であれば十分全問正解できる内容かと思いますので、この35点はしっかりとキープしておきたいところです。論述問題についても内容としては基本的な内容ではあるのですが、特に現役の受験生は現代史、中でも核や環境についての設問は後回しになりがちな分野でもあります。こうした中で、核をめぐる国際関係とがっぷり四つで向き合わねばならない本設問には抵抗感を持つ受験生も少なくなかったのではないでしょうか。また、人によっては核関連の知識が年代別に整理されていないこともあるかもしれませんので、時期が「1960年代半ばまで」と区切られていることも、障害の一つとなったかもしれません。ただ、核関連の知識を完全に放棄してしまったなどがなければ、丁寧に自分の知っている知識を整理していけば、多少の誤りや勘違いがあったとしても得点が入らないということはなかったのではないかと思います。また、東京外国語大学では、2018年の災害史に関する設問中で核を扱った設問が出ていますから、過去問に触れたことのある受験生にとっては全くノータッチで出てくる知識でもなかったと思います。そういう意味でもこの論述問題はごく標準的な設問であったように思います。

 大問2は、歴史学の分野ではよく知られた「長い19世紀」論についての文章を読んで、設問に答えるというものです。小問数は6なので5点×6=30点、これに40字の論述(10点)が加わって計40点。2019年以降のスタイルと同じです。「長い19世紀」論は『創られた伝統』で知られるホブズボームというイギリスの歴史学者が提唱した考え方で、1801年から1900年までという機械的に区切られた19世紀ではその時代の特徴や連続性を十分に説明することができないという考え方から、時代区分についてもそれぞれの実態に即した区分を考えるべきであり、このような考え方に沿えばフランス革命から第一次世界大戦の開始までは一定の連続性と特徴を持った「長い19世紀」ととらえることができるという考え方です。私が大学院生だった頃に専門としていた分野は17世紀末から18世紀のイギリスでしたが、ここでは「長い18世紀」(たとえば、17世紀末の名誉革命の頃から、19世紀に向けての展開までの流れ[ナポレオン支配の終わりとウィーン体制の成立頃まで]を一連の時代ととらえる)という見方がかなり意識されていたように思います。よく、地理的な概念についても「一国史」という機械的に限定された空間で歴史をとらえるのではなく、より広域で、「国家」という概念にとらわれない世界で考えなくてはならない(たとえば、「地中海世界」のような)という話が出てきますが、「長い〇〇世紀」、「短い〇〇世紀」論というのは、その時代区分バージョンだと考えることができます。
 もっとも、本設問においてこの「長い〇〇世紀」論についての知識は不要で、基本的には紹介されているユルゲン=オースタハメルの文章を読めば時代区分を機械的にではなく、その内容に応じて行うべきであるという議論は理解できるはずですし、その見方自体が設問を解く上で必要になるのも設問740字論述のみとなりますので、全体に大きな影響を与えるものではありません。(読み物としては面白いですが。) 大問1、2ともに標準的な問題で、東京外語の問題としてはむしろ、比較的平易な設問と言えるのではないでしょうか。

 

【小問概要と解説】

(大問1-1)

概要:日本の漁船が被爆した水爆実験をアメリカが行った環礁はどこか。

解答:ビキニ環礁

 

:設問では色々とぼかした形で聞いてきていますが、日本の漁船が核実験で被爆したと言えば第五福竜丸事件(1954)のことだということはピンときます。この原因となったアメリカ合衆国の水爆実験(キャッスル作戦のブラボー実験)がビキニ環礁で行われたというのは基本知識です。

 

(大問1-2)

概要:文章の空欄に入る形で( A )・( B )の適語を答える・

( A )のヒント…サハラ / 7年に及ぶフランスからの独立戦争の末、建国

( B )のヒント…フランス大統領 / 独自外交の展開 / ( A )独立に対処

解答:A‐アルジェリア B‐ド=ゴール

 

:空欄の(  A  )が独立したことでサハラにおける核実験ができなくなったとあるので、アルジェリアであると分かります。第二次世界大戦後のフランス植民地の独立については、インドシナ戦争(1946-1954)とアルジェリア戦争(1954-1962)がよく出てきます。東京外語ではありませんが、東大の2012年問題の大論述はこの二つについての知識がないと書けない問題でした。また、フランスの戦後「独自外交」と言えばド=ゴールですね。これも基本知識だと思いますが、第五共和政の開始とド=ゴール政権の成立がアルジェリア戦争と密接に関係していることはよく勉強していないと見落としがちな部分なので注意が必要です。

 

(大問1-3)

概要:1956年のソ連共産党大会で批判された人物は誰か。

解答:スターリン

 

:フルシチョフによるスターリン批判は超重要な基本事項です。また、スターリン批判はその影響が各方面に波及したことでも知られていますので、簡単にではありますが以下にまとめておきます。

 

✤ スターリン批判の影響

・「雪解け」

:ソ連国内での言論抑圧が弱まり、東西冷戦の緩和と平和共存路線の模索へとつながる。

・反ソ暴動の発生(1956

:ポーランドとハンガリーで発生。ポーランドについてはゴムウカが事態を収拾。ハンガリーではソ連の軍事介入を招き、首相のナジ=イムレが処刑された。

・中ソ対立の開始

:平和共存路線をとるフルシチョフに対し、中国が批判的姿勢をとり始める(1962年頃から公開論争の開始)

 

(大問1-4)

概要:1963年に米・ソ・英が締結した調印した核実験をめぐる条約は何か。

解答:部分的核実験禁止条約(PTBT

 

:基本問題。1962年のキューバ危機との関係も含めて受験に際しては必須の知識。

 

(大問1-5)

概要:史料[]の史料中にある「私」とは誰か。

ヒント:史料のタイトルに「アメリカ合衆国大統領からソヴィエト連邦指導部への書簡」とあり、その日付が19621022日とある。また、内容がキューバにおけるミサイル基地配備の問題についてソ連側に適切な対処を求める内容。

解答:ケネディ

 

1962年のキューバ危機が思い浮かべば答えられる基本問題。

 

(大問1-6)

概要:史料[]の史料が出された当時のキューバの首相は誰か。

解答:カストロ

 

1959年のキューバ革命でカストロがバティスタ親米政権を倒したことがキューバとアメリカの緊張激化の原因。カストロはその後キューバの指導者となった。基本問題。

 

(大問2―1)

概要:米西戦争時のアメリカ合衆国大統領は誰か

解答:マッキンリー

 

:砲艦外交で知られる人物です。ハワイの併合や門戸開放宣言などもこの大統領の統治した時期に起こった出来事です。米西戦争はどの大学でも意外なほど出題頻度が高いので、注意が必要です。

 

(大問2-2)

概要:1917年のロシア革命勃発時のロシア皇帝は誰か

解答:ニコライ2

 

:基本問題です。

 

(大問2-3)

概要:インドで「非暴力・不服従」運動を指導した人物は誰か

解答:ガンディー

 

:基本問題です。

 

(大問2-4)

概要:フランス革命後に導入された度量衡法は何か。

解答:メートル法

 

:基本問題です

 

(大問2-5)

概要:1802年にヴェトナムを統一し、皇帝になったのは誰か

解答:阮福暎(嘉隆帝)

 

(大問2-6) 

概要:南京条約(1842)で清がイギリスに割譲した島はどこか

解答:香港島

 

:基本問題です

 

【小論述解説(40字、大問2-7)】

(設問概要)

:内容的に19世紀をとらえた場合に、1842年の南京条約締結を中国近代史の始まり(同時に帝国主義的侵略の始まり)とし、1919年の反帝国主義闘争の始まりを「現代史」ととらえることができるため、中国史については「長い19世紀」は当てはまらない(「短い19世紀」となる)が、同様のことは日本史にも言える。なぜ日本史に「長い19世紀」論が当てはまらないかを述べよ。

(解答)

:日本では1868年の明治維新の開始が近世史の終わりと近代史の始まりととらえられるため。(40字)

 

:あまりなじみのない設問かと思いますが、本文の内容と設問の内容がしっかり確認できれば難しい問題ではありません。ただ、意外に設問の意味が取りづらい可能性はあります。(上記の「設問概要」は設問を要約したもので、実際の設問は下線部⑦「これによれば、内容的に規定される19世紀は1840年代に始まることになる」を受けて、中国史同様、日本史に「長い19世紀」論が当てはまらない理由を述べよというものでした。) 解答については明治維新が日本近代史の始まりであることを示せば十分ですが、「短い19世紀」であることを示す必要がありますので、明治維新の開始時期を明示する必要はあると思います。

 

【大論述解説(500字、大問1-7)】

(設問概要)

・時期:第二次世界大戦中から1960年代半ばまで

・核軍備の増強、反発、均衡の歴史を具体的に説明せよ

・史料[][]と問1~問6の設問文をふまえること

・指定語句(使用箇所には下線)

:原子爆弾 / 北大西洋条約機構 / 放射能汚染 / 原水爆禁止運動 / フルシチョフ / 中華人民共和国

500字以内

 

<史料A:ニュージーランド元首相デービッド=ロンギの回想>

:史料自体は高校世界史では見慣れないものです。また、デービッド=ロンギの名前を聞くこともありません。内容はいたって平易なもので、ニュージーランドのオークランド近郊にいた若き日のロンギが、1962年に米国が遠く太平洋上のジョンストン島で行った核実験の残光を見て、非核への思いを強くした、というものです。また、ロンギは同年にフランスが核実験場をサハラから仏領南太平洋の島に移すことに対する反発についても語っています。

 本史料で注目すべき点としては、以下のような内容があげられます。

 

① 米国の太平洋上における核実験と、それに対する批判

 (特に、問1の第五福竜丸事件とその後の非核運動と絡めること)

② 1962年がキューバ危機の年であり、翌年の部分的核実験禁止条約へとつながること

 (問46や史料[]とも関係している点に注意)

③ 1962年はアルジェリアの独立年であり、仏の核実験場移転の背景となっていること

 (特に問2との関係が深い)

 

 また、解答作成と直接の関係はありませんが、ANZUS(太平洋安全保障条約)に当初加盟していたニュージーランドは、本史料の書き手であるデービッド=ロンギが首相に在任していた頃にニュージーランドの非核化を進めたため、ANZUSから実質的に離脱しています。現在は、オーストラリア・ニュージーランド間の防衛相会合(The Australia-New Zealand Defence Ministers' Meeting [ANZDMM])や、米国・ニュージーランド間の安全保障協力によってその関係の再構築が進んでいますが、ニュージーランドの非核化は継続しています。こうしたことが、本史料が提示されたことに背景にあるのだということを知っておくとより深い読みができるかと思いますが、設問は1960年代半ばまでが対象ですから、ニュージーランドのANZUS離脱までは書く必要はありません。(余談ですが、ANZUSはなぜか日本語では太平洋安全保障条約と訳されますが、正式名称はAustralia, New Zealand, United States Security Treaty[オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国安全保障条約]です。Aがオーストラリア、NZがニュージーランド、USがアメリカ合衆国ですから、参加国を記憶するのは簡単ですね。)

 

<史料B:サハロフの回想>

:サハロフはソ連の物理学者で、水爆の父とも称される人物です。一方で、後に反核運動に従事し、その平和活動や人権擁護活動が評価されて1975年にノーベル平和賞を受賞しましたが、ソ連内部ではこうしたサハロフの活動は冷ややかな目で受け止められました。ブレジネフの指導下で起こったアフガニスタン侵攻に反対したことから一時流刑とされましたが、ゴルバチョフの指導体制にかわると流刑が解除され、ペレストロイカに協力したため「ペレストロイカの父」とも称された人物です。

本史料はそんなサハロフの回想録で、「原水爆の開発に従事」→「第20回党大会をきっかけとする平和・反核運動への方針転換」→「核実験をめぐる自身の提言と1963年の米ソによるモスクワ協定の締結」という内容になっています。冷戦史や核関連の歴史について基本的知識が備わっていれば、この回想録の内容を理解することは難しいことではありません。ソ連の原爆開発が1949年、水爆開発が1953年ですから、サハロフがこれらの開発に関わっていたことは読み取れますし、1956年の第20回(共産)党大会はフルシチョフがスターリン批判を行い、平和共存を唱えた年です。また、1962年は上述の通りキューバ危機の発生した年であり、翌1963年には米・英・ソの間で部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結されますから、資料中の「モスクワ協定」がこれのことを指しているのだろうということもわかるはずです。本史料の大切な部分をまとめると以下のようになります。

 

① ソ連による原水爆開発

② サハロフなど、科学者による反核運動

③ キューバ危機をきっかけとした部分的核実験禁止条約(PTBT)の締結

  PTBTというのは、Partial Test Ban Treatyの略です。(「部分的=Partial」ですね。Partが部分なので分かりやすいです。Testは試験とか実験、Banが禁止、Treatyが条約です。これに対して、1996年の包括的核実験禁止条約は「包括的=Comprehensive」ですので、CTBTとなります。世界史や政経などで出てくる略称は英語の正式名も知っておくと意外に英語なんかで役に立ったりします。

 

<史料C:米大統領からソ連指導部への書簡[19621022]

:本史料は一人称が「私」で、これは問5の内容にもなっていますが、1962年当時の米国大統領なのでケネディです。資料の内容もキューバ危機当時における米国の立場を示すもので、読み取り自体は平易です。本史料は資料の読み取りを要求するために示されたというよりは、これを示すことによって史料としては読み取りにくい史料A・Bの意味や方向性に気付かせるためのものと考えた方がいいでしょう。

 

(解答手順1:核開発と反核運動に関連する歴史を概観)

:核の歴史は教科書や参考書などではぶつ切りで出てくるので、なかなか全体像を把握しにくいのですが、少なくとも一度は何らかの形で全体の流れを知っておく方が良いと思います。おおよその流れは以下のようになります。また、これらの流れは自然に設問の要求する「核軍備の増強、反発、均衡の歴史」にも対応するものとなっています。

 

① 冷戦の拡大と核開発の進展[核軍備の増強の歴史]

:トリニティ実験(1945.7)で原爆の実験に成功したアメリカが広島に続いて長崎にも原爆を投下し(1945.8)、第二次世界大戦は終結しましたが、その後米ソ両大国の対立が先鋭化して冷戦構造が構築されていく中で、ソ連をはじめとする大国が核兵器の開発を進めていきます。各国の核兵器開発に成功した時期は以下の表の通りです。

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② 反核平和運動の拡大[核軍備への反発の歴史]

:アメリカに次いでソ連が1949年に原爆の保有宣言を出し、これに対抗したアメリカが水爆製造を開始すると、大国間の核開発・軍拡競争を危惧した人々から反核の声が上がり始めます。1950年にストックホルム(スウェーデン)で開催された平和擁護世界大会は、核兵器の禁止を訴えるいわゆる「ストックホルムアピール」を表明します。その後、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験(キャッスル=ブラボー実験)に巻き込まれて被爆した第五福竜丸事件などもあり、反核運動は勢いを増していきました。広島では1955年に第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。また、同年、哲学者のバートランド=ラッセルと物理学者アルベルト=アインシュタインが中心となってラッセル=アインシュタイン宣言が出され、科学者や第一級の知識人により核兵器の廃絶が訴えられました。さらに、1957年にはこれに刺激を受けてカナダでパグウォッシュ会議が開かれ、日本からも湯川秀樹や朝永振一郎らが参加して核兵器の使用に反対しました。

 

③ 核軍縮の進展[核軍備の均衡の歴史]

:多くの人が危惧していた核戦争の危険は、1960年代に入ってにわかに現実味を帯びてきます。1950年代半ば以降、フルシチョフの平和共存提唱から次第に関係が改善され、1959年にはフルシチョフの訪米が実現したものの、翌1960年に発生したU2型機撃墜事件(アメリカの偵察機U2型機が撃墜された事件)をきっかけに米ソ関係が緊張し、1961年のベルリンの壁構築、1962年のキューバ危機などを通して米ソ関係、東西関係は緊張の度を一気に増すこととなりました。なかでもキューバ危機において明らかになったキューバでの長距離ミサイル基地建設は、その射程にアメリカ東海岸が入ることが明白なことから当時の合衆国大統領ケネディにとっては看過し得ない事態でした。史料Cを見ると、当時のケネディの緊張感が伝わってくるのではないかと思います。このキューバ危機において、米ソ両国は核戦争の危機に直面したのですが、最終的には米ソ首脳の歩み寄りによって事態は収束へと向かっていきます。しかし、一歩間違えれば世界を巻き込む核戦争に突入しかねない状況にあることを再認識した両国は、首脳同士の直接対話回線(ホットライン)の設置に合意し、さらに核開発競争に一定の歯止めをかけるために1963年には部分的核実験禁止条約(PTBT)の締結にこぎつけました。これにより、条約に調印した米・ソ・英は地下以外(宇宙空間・大気圏・水中)での核実験を停止することとなりました。

一方、まだ十分に核実験を行えていなかったフランスや中国(上の表を参照)はこれに反発し、同条約への参加を見送ります。しかし、その後フランス、中国が水爆実験に成功すると、今度は米・英・仏・ソ・中以外の国が核兵器を持つことが懸念され始めました。こうした中、核の無秩序な拡大を嫌った核保有国は、核拡散防止条約(NPT)を締結し、核保有国(米・英・仏・ソ・中)以外の国が核兵器を持つことを禁止しました。



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Wikipedia「核拡散防止条約」より、投稿者Allstar86CC表示‐継承3.0

 

ですが、本設問では「1960年代半ばまで」となっておりますので、NPTについては解答に盛り込む必要はありません。(NPTの最初の調印は1968年ですが、「1960年代の半ば」といった場合、1965年頃までとなるはずで、1968年まで行ってしまうとさすがに「1960年代後半」になるかと思います。) ただ、設問要求にある「核軍備の均衡」ということを考えた場合、NPTまであった方がバランスはいいんだよな~、という気はします。(PTBTだと仏・中不参加で全然均衡してないじゃないか、となりますしね。) 核の不拡散については国連で採択されるのは1963年ですので、書いてあっても減点はされないかなぁという気もしますが、設問の設定時期は明確に「1960年代半ばまで」となっていますので、多少バランスの悪さを感じつつもPTBTで止めておくのが正解かと思います。

 

(解答手順2:指定語句の分析)

:問題概要でも書いた通り、指定語句は「原子爆弾」、「北大西洋条約機構」、「放射能汚染」、「原水爆禁止運動」、「フルシチョフ」、「中華人民共和国」です。解答手順1で示した流れのどの部分でも使える用語が多いですが、原爆については核開発の最初の部分で、北大西洋条約機構(NATO)については冷戦構造の形成の中で使うのが良いかと思います。また、「放射能汚染」や「原水爆禁止運動」については第五福竜丸事件などに絡めつつ反核平和運動の拡大の流れの中で述べれば良いですし、「フルシチョフ」についてはキューバ危機周辺の米ソ関係の中で使用すればOKです。問題は「中華人民共和国」ですが、定番の使い方はPTBT(部分的核実験禁止条約)への反対と不参加について述べることかと思いますが、書き方によっては中ソ間の技術協力とその後の関係破棄(中ソ技術協定の破棄)や、フランスや中国が核開発に成功したことによる核拡散への危惧について述べるというやり方もアリかなと思います。

 

(解答手順3:史料の分析)

:史料の分析についてはすでに上記の問題概要のところであげていますが、手順としては軽く史料の内容を確認したら、まずは「核関連史の概要把握」、そして「指定語句の確認」、最後に資料をより深く読解して、全体の中でどのように位置づけるかを検討するとバランス良く書き進めることができるように思います。

 

(解答例)

米国が第二次世界大戦中に広島と長崎に原子爆弾を投下すると、ソ連も続いて原爆を開発した。また、ソ連や東欧など共産圏の広がりを危惧した西側資本主義諸国が北大西洋条約機構を組織し、冷戦構造が作られたことは、核戦争や放射能汚染の拡大を危ぶむ人々に深い不安を与え、平和擁護世界大会でストックホルムアピールが表明されるなど、反核運動が強まった。さらに、米国がビキニ環礁で行った水爆実験により第五福竜丸事件が起こると、広島の原水爆禁止世界大会、ラッセル=アインシュタイン宣言に刺激を受けたパグウォッシュ会議など、原水爆禁止運動は勢いを増した。ソ連のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存提唱により、一時は関係改善に向かった米ソであったが、1962年のキューバ危機で核戦争の危機に直面した。米大統領ケネディとフルシチョフは危機を回避したが、核の扱いに脅威を覚えた両首脳は、ソ連のサハロフの提言もあり、英国も巻き込んで部分的核実験禁止条約を締結して地下以外の核実験を禁止し、核兵器の制御を試みた。また、核の不拡散も目指したが、依然として原水爆開発を進めていたフランスや中華人民共和国は反発し、同条約への不参加を表明した。(500字)

 

書き方は色々あろうかと思いますが、基本は設問の要求通り、核軍備の「増強、反発、均衡」というフェーズにそってまとめていき、それに具体例を示しながら肉付けしてくことになります。(増強→米ソの原水爆開発と保有、キューバ危機など、反発→ストックホルムアピール、原水爆禁止世界大会、ラッセル=アインシュタイン宣言、パグウォッシュ会議など、均衡→部分的核実験禁止条約) 史料については、無理に解答の中に盛り込まなくても良いですが、使えるものがあれば書き入れても良いかもしれません。