今年度の早稲田法学部問題を見た時の感想は、一言でいうと「普通」です。何だか突然よく見たことのある問題が出されました。(批判しているわけではありません。頻出ということは、その分、何度も使われるくらい良い問題だということでもあります。)ただ、過去9年間で近代よりも前の時代をテーマにした出題は一度もありませんでしたので、今回の中世という時代設定は意表を突いたものではあります。もしかするとそれもあって、問題の内容自体を過度に難しくすることは避けたのかもしれません。早稲田の論述については試験時間についての制約もありますので。
ただ、それにしてもワセ法の受験生にとっては基本的に解ける「よっしゃ来た」問題だったかもしれません。逆に差がつかない分世界史で点を稼ぎたい人は「何だと―!」という気分だったかもしれないです。たとえば、今手元にある『段階式世界史論述のトレーニング』の問題の中には京都府立大の過去問が載っていますが、この問題概要は以下のようなものです。
・中世ヨーロッパにおける教皇権の確立の過程について200字
・指示語:インノケンティウス3世、ヴォルムス協約、カノッサ
まぁ、こんな感じでそのものズバリではなくても、中世ヨーロッパにおける教皇権の確立や神聖ローマ帝国における帝国教会制などはあちこちの問題集に転がっている問題だと思います。ただ、早稲田の問題について注意しておきたいのは、聖俗関係の「変遷」を聞いているところです。指示語にオットー1世が入っていることも、この「変遷」に注意を払うように警告していますね。叙任権闘争ばかりに目が行ってしまうとこの「変遷」の部分は見逃しがちです。やはり、早稲田も物事の変化や関係性といったものを重視する姿勢は変わっていないようで、世界史のメインテーマの一つを問題として持ってくるところなどを見ても、以前に書いた出題傾向から大きく外れて、ガラッと出題の本質が変わった感じはありません。個人的には2017年の時みたいには萌えませんでした。
また、この聖と俗との関係や叙任権闘争については、2010年の一橋大問1でも出題されています。こちらの問題は単に叙任権闘争や聖俗関係の変遷を問うものではなく、この争いが「現実の政治・社会生活に持った意義とは何か」を問う問題となっていて、より突っ込んだ難しい内容になっています(時期は11世紀~13世紀)。今回の問題の発展形として練習してみるのも良いかもしれません。
【問題概要】
・時期:10世紀~12世紀(901-1200)
・中世ドイツにおける「聖(教皇権)」と「俗(世俗権力)」の関係の歴史的変遷
・指示語:オットー1世、グレゴリウス7世、カノッサの屈辱、ヴォルムス協約
・250字~300字
【解答手順1:全体の流れの確認】
:今回のように、歴史のメインテーマで大きな枠組みをすぐに思い浮かべることができるものについては、まずは全体の流れを把握してしまうことから入りましょう。と言っても、今回確認すべき大枠は下に示したもの程度で十分です。
①神聖ローマ帝国の成立と帝国教会制
②叙任権闘争の展開とその結果
【解答手順2:聖俗の関係性の変遷とは何かに注目する】
:これについては、解答手順1に沿って聖俗関係を整理すれば足ります。
①帝国教会政策の下では、聖職者の任免権(叙任権)は神聖ローマ帝国に属し、神聖ローマ皇帝は叙任権を通して帝国内の教会勢力を支配することによってその権力基盤を強化していたこと。
②グレゴリウス7世の教会改革において、教皇が叙任権を自らが持つことを主張したことから神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との間に対立が起き、「カノッサの屈辱」では皇帝ハインリヒ4世が一時的にではあっても膝を屈して教皇の至上性が示されたこと。
③その後も教皇と皇帝の対立は続いたが、最終的には1122年にカリストゥス2世とハインリヒ5世の間でヴォルムス協約が結ばれて、叙任権は教皇が持つ一方で、世俗権力の授与やドイツ地域内の教会支配権を保持することで両者の妥協が図られた。
【解答手順3:細かい部分に注意する】
:解答手順1と2でほとんど解答の大枠は用意できるのですが、十分に注意を払って書かなくてはならない場所や、手順1と2では拾い切れていない細かい部分がありますので、そうした部分をきちんと詰めていきます。
①帝国教会政策
:レヒフェルトの戦い(955)に勝利してマジャール人を撃退し、962年に教皇ヨハネス12世から皇帝冠を授けられたオットー1世は神聖ローマ帝国の基礎を形作っていきます。その際、オットー以下歴代の神聖ローマ皇帝が聖職者の叙任権を利用して中央集権を進めた背景には以下のようなものがありました。
・各部族勢力に対抗するため、聖職者とそれに付随する教会領の力を利用する
‐レヒフェルトの戦い前の東フランクは、各部族の対立が深刻で国王オットーの指導力も十分に確立されてはいませんでした。異民族マジャールの侵入が対立していた各部族の結束を強める方向に働きました。
・ゲルマン社会において、教会はその建設に貢献したものに属するという考え方が一般的であったこと
・キリスト教を国教にしたのは古代ローマの皇帝テオドシウスであり、皇帝には教会関連の事柄に対する決定権があるという考えが存在したこと
・10世紀頃の教会が腐敗の温床となっていたこと
このような背景の中で神聖ローマ皇帝が帝国教会政策を進めることは、皇帝に近い者を聖職者として叙任することによる勢力の拡大、聖職者を中心とする官僚制の整備と世襲化の防止、腐敗した教会の立て直しなど、統治に必要な様々な効果が得られることになりました。よく、神聖ローマ帝国と聞くと「分裂している」とか、「皇帝の権力が弱い」などのイメージが先行しがちですが、帝国教会政策が展開している頃の神聖ローマ帝国は、もちろん各部族勢力は強い力を有していましたがそれなりに帝権の強化が進んだ時期でもありました。
②「世俗権力」とは何か
:「世俗権力」と聞くとすぐに教皇に対比して皇帝を思い浮かべます。それはそれでよいのですが、「世俗権力」といった場合には皇帝に限らず、各地の諸侯をも内包している点には注意が必要かと思います。
③カノッサの屈辱の意義
:教科書的にはカノッサの屈辱は教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を屈服させ、皇帝権に対して教皇権が優越した事件として説明されることがあります。ただ、ことはそう単純ではありません。この時ハインリヒが膝を屈した背景には当時の神聖ローマ帝国の国内事情など、複雑な事情が絡み合った結果であり、「教皇権VS皇帝権」で教皇権が強かった、という単純な対立構図では説明できないものです。現に、カノッサでは「勝利」したはずのグレゴリウス7世は、国内のまとまりを強化した後のハインリヒ4世が率いる軍によってローマからサレルノへ追放されてしまいますし、叙任権闘争自体もその後数十年にわたって解決されませんでした。この辺の事情は惣領冬美『チェーザレ』の中でとてもイメージ豊かに描かれています。
④ヴォルムス協約の正確な理解
:ヴォルムス協約についての正確な理解ができている受験生はそう多くはありません。これはなぜかというと、教科書や参考書がこれまであまりヴォルムス協約の内容や叙任権闘争の終結について正確な記述を行ってこなかったからです。ただこれは、別にそうした教科書や参考書が劣っているというわけではなく、高校生に教えるにあたっては正確さよりもある程度の単純さを追い求めた方が分かりやすいと判断した結果なのではないかと思います。例を挙げますと、「ヴォルムス協約で政教分離の妥協が成立し、皇帝は聖職者の任命権を失った。」(東京書籍『世界史B』平成30年度版、p.152)、「1122年、司教杖での司教叙任と王笏での封土授与とを区別するヴォルムス協約によって一応の解決を見た。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年度版、p.165)などとなっています。この点について比較的正確に説明されていたのは山川の『改訂版世界史Ⓑ用語集』(ちなみに私が見たのは手元にあった2012年度版)で、「聖職叙任権について、教皇カリクトゥス2世と皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた協約。叙任権そのものは教皇が持つが、ドイツ領内では皇帝が教会・修道院の領地の承認権を持つという内容の妥協案で、これにより叙任権闘争は一応終結した。」とあります。
ヴォルムス協約についてのポイントは以下のようになります。
・叙任権は教皇が持つ
・授封権(封土支配権などの世俗的諸権利の付与)は皇帝が持つ
・ただし、ドイツにおける叙任に際しては、それに先んじて皇帝が授封する
(つまり、皇帝が認めた者しか教皇は叙任することができない)
・神聖ローマ帝国内のドイツ以外の地域(イタリアなど)については教皇が叙階し、叙階されたものはその後速やかに皇帝により授封される
つまり、このヴォルムス協約では、たしかに教皇は叙任権を有し、特にイタリア地域については教皇の叙任権が皇帝に優越することを互いに確認しましたが、一方でドイツ国内の叙任は皇帝が授封した者に限られたため、叙任にあたっては実質的に皇帝の承認が必要なシステムになっていました。ですから、ヴォルムス協約によって皇帝のドイツ教会に対する影響力が教皇に完全に奪われたと考えるのは誤りです。むしろドイツについては皇帝が実質的な叙任権を保持し、イタリアなどその他の地域については教皇の叙任権が優先するという一種の住み分けがなされたということです。
⑤ヴォルムス協約以降はどうか
ヴォルムス協約は1122年で、12世紀の前半です。12世紀、という設問の時代設定ですと、その後丸々80年近くは残っているわけですが、この間の聖俗両権の関係はどのようなものだったのでしょうか。少なくとも、ヴォルムス協約は完全な決着ではありませんでしたし、12世紀のイタリアはシュタウフェン朝のイタリア政策に頭を悩ませることになります。また、その過程でゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)の対立なども発生します。
一方で、ヴォルムス協約以降、長らく開かれていなかった公会議(宗教会議)が開かれることとなり、公会議において決定されたカノン(教会法など)は教会内部や信徒の生活などを規定し、それは各地域の教会にも採用されて徐々に教会組織のヒエラルキーが確固としたものになると同時に、教皇権も強化されていきます。教皇権の絶頂期と言われるインノケンティウス3世が教皇に選出されたのは1198年のことです。ただ、それまでの間は、ヴォルムス協約によって叙任権をめぐる問題に決着がついたとはいっても、聖俗両権のせめぎ合いは12世紀を通じて長く続いていたと考えていいと思います。
【解答例】
オットー1世が創始した神聖ローマ帝国では、皇帝が帝国内の聖職者を任命する帝国教会政策により皇帝権を強化したが、教会改革を進める教皇グレゴリウス7世は聖職叙任権が教皇に属すると主張し皇帝と対立した。ハインリヒ4世が教皇に膝を屈したカノッサの屈辱は教皇権の世俗権に対する優越を印象付けたが、叙任権闘争は続いた。カリストゥス2世とハインリヒ5世によるヴォルムス協約では、叙任権は教皇が持つとされて皇帝は帝国教会政策を放棄したが、帝国内のドイツ地域では実質的な教会支配権を保持したため、聖俗両権のせめぎ合いが続いた。その後、公会議や教会法を通して教会の組織化と民衆支配の浸透が進み、次第に教皇権が強化された。(300字)
解説のところで公会議云々の話をしたので、解答に盛り込んでみましたが、高校世界史の知識では公会議がどうの、ということを知ることは難しいと思います。ですから、もし書くのだとすればゲルフとかギベリンなどを入れつつ、「その後も北イタリアではゲルフやギベリンの対立が続くなど聖俗両権のせめぎあいは続いたが、次第に教皇がその権威を高めた。」なんて書き方もできるのではないでしょうか。
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