2017年のTEAP利用型世界史の試験は、これまでに出題されたTEAP利用型世界史問題の中でも、受験生にとって一番きつい試験だったのではないかなと思います。テーマ自体が難解でしたし、史料の読解もかなりの力を必要とします。試験時間が十分に確保されていれば論述問題自体は難しくともどうにか問題として成立するのではないか(むしろ、論述の一つ目、設問2は良問ではないか)と思うのですが、一番あり得ないと思ったのは試験時間です。この問題を60分で解けというのは正直ピーの所業なのではないかと思います。日常生活でもたまにいますね、そういう無茶ぶりをする人。本人全く悪気がないのに「うそぉ!?」っていうフリをする人がいます。昔、サークルの先輩に寝ている間にすね毛にライターで火をつけられたことがありまして、「痛ぇっ!」と思ってガバ起きしたら足元に先輩がジッポ構えて座ってました。「何してるんすか!?」と言ったら「いや、燃えるかと思って…」と悪びれもせず言ってましたが、上智の問題を見てるとたまにそういうムードを感じます。
論述問題は時間の制約がなければまだ分かるのですが、私がおおいに疑問を感じたのはむしろ小問の方です。後述しますが、何を対象として聞いているのか判然としない部分があるために、正答が選びにくい、下手すると選べないのです。回答者全員が正解となった今年(2020年)のセンター問5なんかよりよっぽど判断がつきづらいですよ。私、試験会場でこの問題の正解を導く自信あんまりありません。まぁ、色々な意味でこの年のTEAP利用問題は実は悪問なのではないかと密かに考えているのですが、単に私の理解力が足りないだけなのかもしれませんので、「うーん?悪問かもなぁ?」くらいで留めておきます。でもやっぱり悪問だと思う。
ちょっとこの年の受験生はかわいそうですね。そのせい?か、翌年からは同じ字数で90分に試験時間が変更になりました。問題形式等についてはすでにこちらでご紹介しています。
設問1-1 (c)
:下線部周辺は「(あの)世界を震撼させた野蛮な遊牧民(が、ヨーロッパを襲う前にわれわれの住む土地を横切らなかったら)」とある。この「われわれの住む土地」は著者がチャアダーエフ(ロシア人)なのでロシア。ロシアを横切りヨーロッパを襲った民族であるので解答はモンゴル人である。
設問1-2 ⒟
:下線部の「偉大な人物」は「われわれを文明化しようと試み」、「啓蒙に対する興味を喚起させ」たが、ロシア人は「啓蒙に少しも触れることはなかった」とあります。文明化(西欧化・近代化)をロシアで進めた君主と言えばピョートル1世とエカチェリーナ2世がまず思い浮かびますが、これらのうちロシア人が「啓蒙に少しも触れることがない」と評価されるとすれば時期的にもピョートル1世でしょう。もっとも、選択肢がピョートルの他は
・イヴァン4世(16世紀半ば~後半、雷帝)
・ウラディミル1世(10世紀末~11世紀のキエフ大公、ギリシア正教に改宗)
・ストルイピン(第一次ロシア革命後にミールの解体などを進める一方、革命運動を弾圧した首相)
ですので、選ぶことはそう難しくありません。
設問1-3 ⒜
:下線部の「偉大な君主」は、「われわれを勝利者としてヨーロッパの端から端まで導き」ましたが、凱旋後のロシアは「もろもろの愚かな思想と致命的な誤り」により「われわれを半世紀も後ろへ放り投げてしま」ったとあります。ヨーロッパの端から端まで軍を展開することができたのはナポレオン戦争時のアレクサンドル1世ですし、その後の反動体制(ウィーン体制、「ヨーロッパの憲兵」)を思い浮かべれば内容も合致します。「反動化」ということばは世界史では頻出しますが、進歩的変革やそれを行う諸勢力の動きに反対し、既存の体制の維持や旧体制の復活などの保守的行動に出ることを指します。
設問1-4 ⒟
:設問としてはアバウトで、どの地域・時代のことを指しているか明確ではないのであまり良い問題とは言えません。下線部は「農民を土地つきで解放する」とあり、この文章を書いているのはロシアの作家ドストエフスキーなので、おそらくロシアのことを指すのだろうと類推することは可能ですが、選択肢には「西ヨーロッパに」など異なる地域についての言及もあり、設問の指示にも「ロシアで」などの明示がないためにロシアのことを指しているのかどうか、またいつ頃の話をしているのかどうかをはっきりさせる確証のない設問です。
それでも、正しいのは⒟で、農民は多くの場合、身分的に解放されても土地を有償で買い取る必要がありました。この文章は「どこで」という指定がないので、ヨーロッパ全般を指すのかロシアの状況を指すのか不明ですが、ヨーロッパ全般で考えたとしてもフランス革命後の封建的諸特権の有償廃止や、プロイセン改革における農奴解放を考えた場合、間違いではありませんし、ロシアの場合だとしても1861年のアレクサンドル2世による農奴解放令は土地の有償分与とミールへの帰属が示されましたから問題ありません。
⒜:エカチェリーナ2世はプガチョフの乱以降反動化し、農奴に対する締め付けを強化します。
⒝:上記にあるようにロシアで農奴解放令が出されたのはクリミア戦争(1853-1856)後の1861年です。もっとも、クリミア戦争に参加したのは英・仏・伊・オスマン帝国などの諸国も同様なので、ここでいう「解放令」がどの国の解放令なのかは上記の類推と、「ああ、多分1861のロシアの農奴解放令のことを聞きたいんだろうなぁ」という回答者側が気を利かせること以外にロシアであると判断する方法はありません。
⒞:西ヨーロッパ全土に当初から独立自営農民がいたわけではありませんし、独立自営農民(イギリスではヨーマン)が比較的多かったイギリスにおいても、農民全てがヨーマンだったわけではありません。ただ、これも時期と地域によっては異なる判断が出る余地があるため、あまり良い問題ではありません。
設問1-5 ⒝
:この設問は本当にどうなのかと思います。下線部は「正教」で、たしかにロシア正教会の総主教座はモスクワに置かれました。ですが、そもそも正教会は東ローマ帝国の国教であるギリシア正教から発展してくるものであり、総主教座はコンスタンティノープルなどに、しかも複数置かれていました。モスクワに総主教座がおかれるのは16世紀末のことですし、そもそもロシア正教の出発点がどこにあるのかといったことが曖昧です。さらに、設問では「正教」がそもそもロシア正教のことを指すのかギリシア正教のことを指すのか、他の定義で使っているのかはっきりしません。そのため、この⒝の文章は見方によって正しいとも誤っているとも取れてしまう文章です。
⒜:グラゴール文字を考案したのはキリル文字の名前の由来ともなったキュリロスという人物です。「グラゴール」というのは人名ではなく、当初文字自体に名称はついていなかったようですが、後に古スラヴ語の「話すこと、言葉」といった意味から名づけられたものです。また、キュリロスが当初布教の目的地としたのはモラヴィア王国(現在のチェコ周辺)ですから、南スラヴではなく西スラヴです。
⒞:微妙な文章です。「モスクワ大公国の時に正教がロシアの国教となった」とあります。何が微妙かと言いますと、そもそも「ロシアとは何か」が曖昧です。文章自体が曖昧というより、厳密な意味を考えた時に「ロシア」が何を指すかはっきりさせようがないのですね。そもそも、モスクワ大公国は「ロシア」という国家なのか(イヴァン4世自身はそれを自称しましたが)、また仮にこれを「ロシア地域」だと考えた場合、そもそもロシア地域とはどこを指すのか、そしてモスクワ大公国は「ロシア地域」全土を支配していたのか、それはいつの時期か、などまぁ、キリがありません。また、「キエフ公国とモスクワ大公国との間に<ロシア>としてのまたは一つの国家としての連続性を見出すことができるか」ということになるともっと曖昧です。また、そもそもこの「正教」は何を指しているのか以下略(上記の説明をご覧ください)。 たしかに、ロシア地域に存在した国家としてはキエフ公国の方が先で、そのキエフ公国はギリシア正教を国教として受容していますから、キエフ公国とモスクワ大公国にロシアとしての一体性を見出すのであればモスクワ大公国の時にはじめて正教がロシアの国教となったという表現は誤りを含むものです。(もっとも、設問の方には「はじめて」という表現もありません。おそらく「なった」という表現に「はじめて」のニュアンスがあるから読み取れということなのだと思いますが、もし、モスクワ大公国がキエフ公国から独立した存在だと考えた場合、モスクワ大公国のとき[にも]、正教はロシア[地域]の国教になっていますから、正しい文として読むこともできてしまいます。)あまり良い選択肢ではないと思います。もし、選択肢として用意するなら「モスクワ大公国の時に、正教がはじめてロシア地域において国教として導入された。」くらいにしないと間違いとして選べません。
⒟:ローマ=カトリック教会とギリシア正教会の完全分裂は1054年で11世紀ですので誤っています。この選択肢で「ギリシア正教会」なんて書くからますます「正教」が何を指すのか曖昧になるんですよね…。
設問2(論述1)
【設問概要】
・チャアダーエフとドストエフスキーの考えの相違点について説明せよ。
・19世紀のロシアの国内の現実とロシアをめぐる国際関係に即して説明せよ。
・指示語は「西欧化政策 / 農奴制 / 農村共同体(ミール) / 帝国主義 / 東方問題」で、初出の場合には下線を付せ。
・250字以上300字以内
【手順1:チャアダーエフとドストエフスキーの考えの整理】
(チャアダーエフ:時期は1836)
・冒頭の文章に「ロシアにおける西欧の自由主義的な価値を範とする思想の先駆け」とあります。
・「われわれ(=ロシア)」の思想的現状に極めて悲観的です。
①社会的意識にどのような痕跡も留めなかった
②自らの思想が拠り所とすべき固有のものは何もない
③人類の伝統的思想も受容しなかった
④われわれの賢者や思想家はいったいどこにいるのか(反語。つまり、どこにもいない)
⑤科学の領域でさえも、ロシアの歴史は何物にも結び付かず、説明せず、証明しない。
⑥歴史的にも、偉大な君主が文明の光をたびたび投げかけるが、ロシアはそれを受容しない。
→つまり、ロシアは思想的に重要なものは何も持っていない。
・これに対し、彼はロシア以外のヨーロッパが不完全ながらも文明的で個性や歴史、思想的遺産を持つと考えます。
①ロシアと異なり他の諸民族は文明的で個性を持つ
②諸民族は、ロシアが持たない思想を礎石とし、これから未来が現れ、精神的発展が生じる
③ヨーロッパの(ロシア以外の)諸民族には共通の相貌や家族的類似性(一般的性格)があるが、この他にも固有の性格、つまり歴史と伝統を持ち、これが諸民族の思想的遺産をなす。
④その思想的遺産とは、義務・正義・権利・秩序に関する考え方のことである。
⑤こうした思想的遺産が、これらを持つ国々の社会体制の不可欠な要素を形作っている。
⑥今日のヨーロッパ社会には不完全・欠点・とがめるべきものがあるが、それでも神の王国が実現している。
⑦ヨーロッパは、自らのなかに無限の進歩という原理や、しっかりした生に不可欠な要素を内包している。
つまりチャアダーエフは、ヨーロッパが持つ思想的遺産(歴史と伝統)は、人々が進歩し、根を下ろした生を営むにあたって不可欠な要素であるにもかかわらず、ロシアはこれを持っていないと考えています。ですから、ロシアが「他の文明的な諸民族のように個性を持ちたいなら、人類が受けた全教育を何らかの方法で再度施すことが不可欠」なのであり、東洋と西洋が持つ想像力と理性という知的本質、偉大な原理を「自らの中で融合し、われわれの歴史の中に結合させるべき」であると考えます。
(ドストエフスキー:時期は1873-81)
・冒頭の文章に「ロシアの伝統に根ざした発展を志向する思想へとつなが」るものであるとあります。
・また、設問からチャアダーエフの考え方とは対極にある考え方であることは明白です。
・ロシア以外のヨーロッパの思想や現状に対しては批判的または懐疑的です。
①ヨーロッパの農奴解放は、有償であったり、暴力や流血を伴う不十分なもの、または人格的には解放されても経済的には搾取されたもの(「プロレタリアの原理に基づいて、完全に奴隷の姿で解放された」もの)にすぎず、そもそもわれわれ(=ロシア)が学ぶようなものではない
②ヨーロッパはロシアがこれを愛そうと努めたにもかかわらず、一度もロシアを愛したことがなく、そもそも愛するつもりがない
③ロシアにとってヨーロッパは、「決定的な衝突」をする相手であると同時に「新しく、強力で、実り多い原理に立った最終的な団結」をなす相手でもある
・一方で、ロシアの歴史的な遺産と、近年達成された視野の拡大に対しては極めて肯定的です。
①「世界のいかなる国民にも前例のない、視野の拡大という結果を得た」
②18世紀以前のロシアは、活動的で堅固であり、統一を成し遂げて辺境を固め、「他にまたとない宝物たる正教」を持ち、キリストの真理の守護者であることを「ただひとり」理解していた
③ロシアが数世紀の遺産として受け継ぎ、遵守してきた偉大な理念(スラヴ民族の大同団結)は裏切ることのできないものである
④また、スラヴ民族の大同団結は「侵略でも暴力でもない、全人類への奉仕のためのもの」
⑤ロシアは、全東方キリスト教や地上における未来の正教の運命全体と団結のためになくてはならない存在
⑥東方問題には、ロシアの課題がすべて含まれ、この解決こそが「歴史の完全さにつながる唯一の出口」につながる
⑦ロシア、またはロシア人はヨーロッパの矛盾に最終的和解をもたらすよう努めるべきであり、それは「全人類的な、すべてを結合させる」ロシア的精神のなかにヨーロッパを包摂し、「兄弟愛をもって」スラヴ民族、最終的にはすべての民族を「キリストの福音による掟にしたがって」完全に和合させることによって達成される
つまり、ドストエフスキーはヨーロッパの思想よりもロシアの伝統、歴史、宗教(正教)といった遺産こそがキリスト教的な真理を体現するものであると考えています。一方で、彼にとって長らくロシアでもてはやされてきたヨーロッパの進歩的思想、自由や平等の理念などは見せかけだけのものに過ぎず、参考に値するものではありませんでした。彼は、「ヨーロッパの矛盾」、つまり普遍的であることを装いつつ、その実自己の利益を追求する姿勢はロシアの精神によって解決されるべきであり、最終的には広い視野を獲得し、すべてを結合させる愛と真理を持ち合わせたロシアこそがスラヴ民族をはじめ全ての民族を包摂すべきなのであり、それはスラヴ民族の大同団結と同じく「侵略でも暴力でもない、全人類への奉仕のためのもの」と考えています。
【手順2:チャアダーエフとドストエフスキーの考え方の相違点を整理】
(異なっている点)
チャアダーエフが、西洋の自由主義的価値観を模範とすることで、ロシアが持てなかった個性や歴史を持つことができ、文明化が可能となると考えるのに対し、ドストエフスキーはロシアの伝統、歴史、正教という遺産こそがキリスト教的真理を唯一保持するものであり、スラヴ民族の大同団結やその後の諸民族の和合のために欠かせない要素であると考えています。
(共通する点)
どちらも、ロシアは現状の諸問題は将来においてロシアが解決すべきまたは解決しうるという未来志向型の考えを持っています。ロシア独自の個性を「いつか持たなくてはならないvsすでに持っている」という点では対立していますが、個性それ自体を重視する姿勢は同じです。
【手順3:手順1、2で整理した両者の考えを、ロシアの国内問題、国際関係に即して考える】
・指定語句には注意しましょう。
「西欧化政策 /
農奴制 / 農村共同体(ミール) / 帝国主義 / 東方問題」
①西欧化政策
:これについては両者ともに関係づけることが可能です。ロシアの西欧化はピョートル1世の頃やエカチェリーナ2世の頃などに進められますが、反発や反動化が起こるなどして必ずしも十分なものではありませんでした。これを不十分なものだからさらに進めるべきだというのがチャアダーエフで、逆にそれまでの西欧化の努力は無駄とまでは言えないが間違った方向性であるとするのがドストエフスキーなので、彼らの主張に絡めて述べればよいと思います。
②農奴制
:農奴制についてはロシアの農奴解放令についての言及は必須。ロシアではクリミア戦争の敗北などを受けてアレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を出します。これにより農奴は身分的自由を得ましたが、土地の取得は有償で地代の十数倍に及ぶ対価を支払う必要がありました。多くの場合、一度に対価を支払うことができないため、政府が年賦で資金の貸し付けを行うなどの方法で支払われましたが、取得した土地は取得費用を連帯保証したミールに帰属するために個人は依然としてミールに行動を制約されることになりました。
③農村共同体(ミール)
:ロシアの地縁的共同体である農村共同体(ミール)は、租税や賦役の連帯責任を負う農民の自治・連帯基盤ですが、農民個人の生活を縛るものでもありました。上記の通り、ミールは土地取得の連帯保証を行うことで農民個人の解放の実質的な障害となっていたため、ロシアの農奴解放は十分に進展しません。第一次ロシア革命(1905)以降、近代化・工業化を進めるために農奴解放のさらなる進展を必要としたロシアはストルイピンの指導のもと、ミールの解体を進めることになります。
④帝国主義
:こちらは、時期的にも内容的にもドストエフスキーの論と絡めて書く方が良いでしょう。帝国主義は産業革命やその後の独占資本の形成が各国の植民地拡大政策と結びついていくものですから、その中心は19世紀の後半から20世紀の前半です。チャアダーエフの議論は1836年のものですから、こちらを帝国主義政策云々と結びつけるのは無理があるかと思います。対して、ドストエフスキーの論では東方問題や「ヨーロッパの矛盾」についての言及があります。文章中には、土地付きでの農奴解放を主張しながら歴史的にはそのような解放がなされるには暴力や流血に頼らざるを得なかったこと、カトリック(カトリックの語義はギリシア語の「普遍的」に由来)的な同胞愛を説きながらロシアを決して愛そうとはしなかったことなどの「矛盾」が示されていますから、ここでドストエフスキーが示したいのは普遍的であることを装いつつ、その実は自己の利益を追求するヨーロッパの偽善であり、これはそのまま「文明化」などを掲げつつ植民地支配を正当化するヨーロッパの帝国主義政策に通じるものがありますので、その点を指摘すればよいでしょう。
⑤東方問題
:東方問題については同じくドストエフスキーが言及しています。時期を考えればクリミア戦争後~露土戦争の時期を考えておけばよく、彼の議論からは東方問題にロシアが解決すべき課題があり、ヨーロッパの帝国主義政策はロシアの遺産によって形作られるスラヴ民族の大同団結によって打ち破られるべきであり、それがあってこそヨーロッパとの最終的な和合、つまりロシア的伝統によるヨーロッパの一体化が図れると考えていることがうかがえますので、そこを指摘しましょう。
【解答例】
西欧の自由主義的な価値に重きを置くチャアダーエフは、西欧化政策や啓蒙思想がロシアに根付かないことを嘆き、進歩にはヨーロッパの思想的遺産とこれが作る個性・歴史が不可欠と考えた。クリミア戦争敗北後、アレクサンドル2世は農奴解放令で農奴制を廃止したが、個人が農村共同体(ミール)に縛られる不十分なものだった。ドストエフスキーは自由・平等を謳う西欧諸国も当初は農奴解放が十分な形ではなく、普遍性を標榜しつつ帝国主義政策を進めるなど矛盾を抱えていることを指摘。堅固な伝統と歴史、キリスト教的真理を宿す正教を有する稀有な国であるロシアがパン=スラヴ主義を通して西欧列強を破り、東方問題を解決すべきであると考えた。(300字)
設問3(論述2)
【設問概要】
・チャアダーエフとドストエフスキーが書いた文章の持つ文明論的意味について、実例を挙げて論ぜよ
(ヒント[リード文から])
・両者のようなタイプの知識人、社会改革家が、近代以降は日本やトルコなどのアジア地域に現れて論争し、政治社会運動に加わっていた
【手順1:設問の意図を理解する】
まず、何よりも設問が言う「文明論的意味」とはどのようなことを聞いているのかを把握する必要があるのですが、おそらく多くの受験生がここで「?」となったことと思います。文明論という言葉自体があまり明確に定義されていないように思います。(検索すると福沢諭吉の『文明論之概略』がよく出てくるけれども、150年も前の著作の定義をそのまんま鵜呑みにするわけにもいかないでしょう)
「文明」を辞書で引きますと以下のように出てきます。(三省堂『スーパー大辞林3.0』)
①文字をもち、交通網が発達し、都市化が進み、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化を指す。
②人知がもたらした技術的・文化的所産。[「学問や教養があり立派なこと」の意で「書経」にある。明治期に英語civilizationの訳語となった。西周「百学連環」(1870~1871年)にある。「文明開化」という成語の流行により一般化]
また、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典」の「文明」の項目では以下のようにあります。
「文化と同義に用いられることが多いが,アメリカ,イギリスの人類学では,特にいわゆる「未開社会」との対比において,より複雑な社会の文化をさして差別的に用いられてきた。すなわち国家や法律が存在し,階層秩序,文字,芸術などが比較的発達している社会を文明社会とする。しかし今日では,都市化と文字の所有を文明の基本要素として区別し,無文字 (前文字) 社会には文化の語を用いる学者も多い。この立場では文明は文化の一形態,下位概念とされる。」
つまり、「文明」という言葉自体が時代や状況によって指す内容や使われ方、伝わるニュアンスが異なるものですので、本来は設問の方で「ここでいう文明論とはなんぞや」ということをある程度指し示してやる必要があると思うのですが、そこは上智のことですので「わかってんだろ?言わなくても」といった風に阿吽の呼吸を要求してきます。すげえ。
こういう場合、正確な定義を読み取ろうとする努力は徒労に終わってしまいますので、ひとまず、文明論というのは上記にあげた①の「文字をもち、交通網が発達し、都市化が進み、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化」それ自体や、そこに暮らす人々の共通の価値観について論ずること・またはその理論を指すと考えておきましょう。
【手順2:チャアダーエフとドストエフスキーの「タイプ」を考える】
両者を知識人や社会改革家として類型化した場合、どのような型にはまるかということを考える必要があります。一番整理しやすいのは、ヒントに日本やトルコが上がっているので、これらの地域において西洋思想を取り入れようとした論者とチャアダーエフもしくはドストエフスキーの共通点を探すことでしょう。このように考えると、チャアダーエフとドストエフスキーは以下の二つのタイプとして分類することができます。
①チャアダーエフ型
:自国の後進性を指摘し、西欧的価値観や思想の積極的導入による近代化を図ろうとする思想家
②ドストエフスキー型
:自国の文化・伝統・歴史を重視し、価値あるものと考えてそれをもとに西欧に打ち勝とうとする思想家
①のタイプについては枚挙にいとまがありません。日本でいえば幕末の開国派や蘭学者、明治維新以降の進歩的思想家や改革者は多かれ少なかれそういう要素を持っています。トルコでいえば実例はタンジマートでしょう。また、タンジマートのもとで西欧の教育を受けた新オスマン人などもそうです。一方、②の場合には水戸学や尊王攘夷論者、イスラーム圏ではアフガーニーのパン=イスラーム主義(その立憲主義などは範を西欧にとるわけですが)、中国なら洋務運動の「中体西用」の思想(もっとも、技術については西洋技術を積極的に導入)などに近いものを見ることができるかもしれません。
気をつけておきたいのは、②のタイプの論者であってもその中身は様々です。上にも書いたように、「中体西用」のような発想は、「体」つまり根幹となる部分については自国の伝統的制度・思想を重視しますが、西欧的なものを全て拒絶するわけではなく、技術面については積極的に西洋のものを導入します。こうした発想は「和魂洋才」のような言葉にも見ることができますが、19世紀末から20世紀前半にかけての時期に国家の近代化を図ろうとした場合、多かれ少なかれ西欧の何かを導入せざるを得ないケースが大半でしたから、「Aは西欧Love、Bは西欧拒絶」といった形で完全に区分けするのはなかなか難しいということには注意しておくべきでしょう。
①・②のいずれにせよ、自身が属する文明とそれとは異なる文明について、独自の考え方(文明論)を持っていたことは間違いありません。チャアダーエフのような見方は、後にロシアで西欧派と呼ばれる西欧市民社会を理想化し、個人の自由の実現を目指す一派を形成していきますし、ロマン主義の流れから生まれた国粋主義的な思想潮流を持つスラヴォフィル(スラヴ派)と呼ばれる一派は西欧派と対立し、のちのパン=スラヴ主義を形成する一つの要素となっていきます。ドストエフスキーはこの思想的潮流にあるわけですね。
設問は、チャアダーエフの文章とドストエフスキーの文章の持つ文明論的意味を、実例を挙げながら論ぜよとなっています。「実例をあげながら」となっておりますので、①と②に分類した上でアジア地域における実例を挙げればよいのではないかと思います。
【解答例】
西欧近代文明に直面したアジアでは、ロシアの論者と同様に対照的な二つの議論とそれに基づく改革が進められた。チャアダーエフのように自国の後進性を指摘し、西欧的価値観や思想の積極的導入を図ろうとする立場には、日本の開国派や明治維新期の進歩的思想家、トルコのタンジマートやミドハト憲法制定に尽力した新オスマン人などが挙げられる。ドストエフスキーのように自国の文化・伝統・歴史を重視し、保持する立場は日本の水戸学派や尊王攘夷論者、アフガーニーのパン=イスラーム主義、中国の洋務運動が掲げた「中体西用」などに見ることができる。どちらも、自己の属する文明に西洋文明を対置して直面する課題の克服を試みた点で共通する。(300字)
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