普段仕事をしていますと、やはりいろいろなサイトにお世話になります。雨温図を作るためのフリーサイトやら、白地図サイトやら。人によってはそうしたサイトの情報が有用であるという方もいらっしゃるかと思いますので、こちらの方では私が普段お世話になっているサイトのご紹介や使い方のご説明を簡単にしていきたいと思います。
おそらく、世界史をちょっと真面目に勉強した人なら一度はご覧になったことがある「世界史の窓」さんです。私もしょっちゅうお世話になっております。なかでも使えるのは用語解説で、山川用語集のめっちゃ詳しいバージョンを想像していただければよいのではないでしょうか。管理人の方は元先生だった方とのことで、さまざまな本を読まれて最近の学説なども適宜取り入れて解説されていますので大変使い勝手の良いサイトです。また、解説が詳しすぎず、高校世界史+αのあたりで止まっているあたりも良いところだと思います。詳しいのも善し悪しで、あまりに詳しすぎて情報量が膨大になってしまうと読み手が整理しきれず「ちょっと調べてみる」という用途には適わなくなってしまうのですが、そういった心配もこちらのサイトはないと思います。
ただ、「世界史の窓」さんは使いこなすのにはちょっとした工夫がいります。何も知らない人がいきなり「世界史の窓」さんのトップページに行ってしまうと、さてこれからどうしようという感じでサイト内をさまようことになってしまいそうです。
わたしは、こちらのサイトを上述の通り「ちょっと詳しい山川用語集」的な使い方をしているのですが、そういう使い方をしたい人はyahooなどの検索サイトから「自分の調べたい用語+世界史」と入れて検索してみてください。すると、もし「世界史の窓」さんにその用語があるのであれば、ほぼ必ずと言っていいほど検索の最上位に出てくるはずです。打ち込めばいいだけなので、用語集よりもスピーディーに調べられます。スマホよりはPC作業が中心の方向けのサイトかもしれません。問題作成や自分の知らない事柄については後で何らかのかたちで裏をとることになりますが、それを含めても大変便利なサイトであると思います。今後ともお世話になります。
コメント
コメント一覧 (16)
立憲革命や立憲運動、憲法制定など憲法をテーマとした私大の長めのリード文や
論述問題をご存知でしたらうかがいたいです!
すずさん、いつもありがとうございます!
お返事差し上げるのに2,3日いただくかと思いますが、少しお待ちいただければおそらくお答えできるかと思います。よろしくお願いいたします。
先生のおかげで世界史が大好きになりました!
楽しんで勉強が進められるということであれば何よりだと思います!ぜひ頑張ってください。いただいていたご質問は、立憲革命等も含めて憲法全般についてとのことでしたので、代表的な設問をいくつかご紹介していきます。
①イギリス憲政史を中心とした議会形成史
:ジョンのマグナ=カルタからエドワード3世期のイギリス二院制の成立までを中心に、フランス三部会など議会の発展を問う設問です。マグナ=カルタは「法の支配」の出発点であり、憲法の原型と考えられています。また、たびたび開かれて慣例として形式が整えられていった議会は結果的に法の支配の一部を担保するシステムとなりました。
具体的な出題としては、一橋大学2019年の大問1、2005年の大問1をはじめとして各種問題集にも出題されている定番問題です。一橋の昔の過去問がご覧になりたい場合には某予備校の先生が書かれている「世界史教室」というサイトを訪ねてみるとよいと思います。
②名誉革命以降のイギリス立憲政治を問う問題
:かつて新潟大など(年度不明)国公立でも出題されたことのある問題です。権利の章典、ウォルポールによる責任内閣制の確立などを問うものですね。イギリスの立憲政治についてはその後も選挙法改正やアスキス内閣の時に出された議会法(1911)など、問題として作ろうと思えば作れる箇所は多数あるかと思います。
③(欧米の)個々の国における憲法制定や類似の箇所を問う問題
:昔北大で出た問題ではアメリカ合衆国の建国期に連邦派と反連邦派の対立を問う形で合衆国憲法の内容に触れる設問がありました。また、憲法にかんするという視点ではないかもしれませんが、フランス革命がらみの設問についてはフランスにおける共和国成立の経過について問う問題が良く見られます。人権宣言や1791年憲法、1793年憲法など、憲法と絡めて出題しようと思えばこれも作りやすいとは思います。また、ロシアの立憲革命もありますね。
④中国の変法運動、光緒新政、辛亥革命
:変法運動が目指していたのは立憲君主制だったわけですが、このあたりの詳細を問う設問も良く見られます。一橋大学の2003年大問3のA、2008年大問3の問2などはそうですね。
⑤オスマン帝国末期の改革とミドハト憲法、青年トルコ革命
:これも最近出題が増えているものですね。2019年の東大第1問などがこれに当たりますが、国公立では東京学芸大などでも出題されているものです。
ざっとみるとこんなところではないでしょうか。東大では最近ですと2015年の小論述で13世紀以降の英仏身分制議会と、20世紀の帝政ロシアにおける立憲運動などを出題しています。
先生、いくつかうかがいたいことがございます!
1. イタリア戦争は欧州に軍事革命をもたらし傭兵への依存度が増したという記述を見かけたことがあるのですが、多くの国が絶対王政下で常備軍を持つなか、傭兵への依存度というのは実際にはどれくらいだったのでしょうか。
2. カピチュレーションについて、ハプスブルクを挟撃するためにフランスに与えたとする考えもあるようですが、実際にはそうした思惑で創設し付与したのでしょうか
3. 論述問題で「19世紀以降、多民族国家としての矛盾が深まるようになった」と書いても良いのでしょうか。多民族国家としての問題があまりに多いので、このようにまとめて書くのはどうなのだろうかと悩んでおります..
4. ハプスブルク帝国は一般に領邦国家・分権的な性格が強いと(特にドイツ方面)言われますが、中央集権的な側面はなかったのでしょうか
5. オーストリア派とスペイン派に分かれてからは、ハプスブルク家としての括りよりも、神聖ローマ帝国とスペイン王国といったように別物になったと考えるべきなのでしょうか
6. 神聖ローマ帝国の崩壊は、オーストリアとプロイセンにとってプラス・マイナスのどちらに働いたのでしょうか
7.東大世界史でムガル帝国はインド統一という役割を果たしたという記述を見かけたことがあるのですが、実際には北インドくらいなのかなと思ってしまいました。仮に統一したと考えますとアクバルよりはアウラングゼーブの時と考えるべきでしょうか
お忙しいところ、たくさんごめんなさい。いつもありがとうございます!
また例によってお待たせしますが、しばらくお待ちくださいw
お忙しいところ、本当にありがとうございます!
おはようございます^_^
週末にプチ入院するかもです(T_T) もしお返事をその前にいただけるとすごく助かります。急かしてしまい、ごめんなさい...
すみません、現在本業の方が繁忙期でして。
努力してみますが間に合わなかったらすみません。
お大事になさってください!
お心遣いありがとうございます!感謝の思いでいっぱいです^_^
1. イタリア戦争は欧州に軍事革命をもたらし傭兵への依存度が増したという記述を見かけたことがあるのですが、多くの国が絶対王政下で常備軍を持つなか、傭兵への依存度というのは実際にはどれくらいだったのでしょうか。
:イタリア戦争時は1494~1559ですので、まだ各国で典型的な絶対王政が展開していると言えるような状態ではなかったと思います。(小規模のものはあったようです。) 近代的な常備軍に近いものとなると、16世紀後半のロシアや、17世紀前半のグスタフ=アドルフの軍などではないかと思います。また、常備軍も当初は「一時雇いの傭兵を常雇いにした」という程度のものですので、最初のうちはどこからどこまで傭兵で常備軍なのかという線引きも難しいかと思います。
2. カピチュレーションについて、ハプスブルクを挟撃するためにフランスに与えたとする考えもあるようですが、実際にはそうした思惑で創設し付与したのでしょうか
:カピチュレーションについては、正式にそれがいつ与えられたのかというところから議論があるようです。スレイマン1世の頃からとも、セリム2世の頃からとも言われますが、『詳説世界史研究』ではスレイマンの頃にフランソワに与えられたものがセリム2世の時期に公認されたというような書き方をしています。仮に、カピチュレーションをスレイマンが与えたものとした場合に、スレイマンがどのような意図で与えたのかまでは私の方では確認できませんが、もしかすると専門の研究があるかもしれません。ただ、当時スレイマンはカール5世と敵対しておりましたので、その関係上フランソワと友好的関係を築いていたのは事実のようです。
3. 論述問題で「19世紀以降、多民族国家としての矛盾が深まるようになった」と書いても良いのでしょうか。多民族国家としての問題があまりに多いので、このようにまとめて書くのはどうなのだろうかと悩んでおります..
:その論述問題がどのような設問であるかや、自分の解答がどのような文脈にのっているかによるのではないでしょうか。また、どのような矛盾が深まるようになったのかについても具体的に述べた方が良いと思います。
4. ハプスブルク帝国は一般に領邦国家・分権的な性格が強いと(特にドイツ方面)言われますが、中央集権的な側面はなかったのでしょうか
:ハプスブルク帝国をどのようにとらえるかということと、どのレベルで集権的・分権的ととらえるかによると思います。ドイツ地域のハプスブルク領でない各領邦についていえば、主権が認められていますし、領邦教会制も成立していますから十分に分権的です。一方で、隣接する強国オーストリアの意向を完全に無視できたかどうかはその時の国力や国際情勢に左右されます。
5. オーストリア派とスペイン派に分かれてからは、ハプスブルク家としての括りよりも、神聖ローマ帝国とスペイン王国といったように別物になったと考えるべきなのでしょうか
:ハプスブルク家についていえば、完全に別のものと考えるのもどうかという気がします。近親婚の繰り返しで親戚ばかりでしょうし。ただ、スペインにはスペインの、オーストリアにはオーストリアの貴族や教会、その他利害関係を持つ人々がおりますので、単に「親戚だから」という理由だけで全く同じような行動をとることはできません。基本的には別個の国として考えた方が良いと思います。
6. 神聖ローマ帝国の崩壊は、オーストリアとプロイセンにとってプラス・マイナスのどちらに働いたのでしょうか
:ウェストファリア条約のことを指していらっしゃるのであれば、一応プロイセンに有利に働いたと考えてよいと思います。ハプスブルク家が強力な皇帝家という形で帝国に君臨していた場合、一領邦君主であるまたはブランデンブルク選帝侯には台頭する余地がありませんので。もっとも、プロイセン公国は17世紀前半においてはポーランドの宗主権下にありました。
7.東大世界史でムガル帝国はインド統一という役割を果たしたという記述を見かけたことがあるのですが、実際には北インドくらいなのかなと思ってしまいました。仮に統一したと考えますとアクバルよりはアウラングゼーブの時と考えるべきでしょうか
:ムガル帝国の最大領域です。
https://sekainorekisi.com/glossary/%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD/ (「世界の歴史まっぷ」さんより)
たしかに、インド南端には及んでいませんが、その支配領域は一時インドのほぼ全域に及んだと考えて差し支えないのではないかと思います。
先生!講習準備でお忙しい中、やさしさを本当にありがとうございました!感謝の思いでいっぱいです!!
もう1点だけうかがってもよろしいでしょうか。
エフタルを挟撃した理由はなんなのでしょうか。わざわざササン朝と突厥がタッグを組んでまで滅ぼす理由があるのかしっくりきません(T_T)
お返事が遅くなってしまいました。
ん~、エフタル挟撃の理由については不勉強のためわかりません。たしか、ホスロー1世の妻は突厥君主の娘だった気がしますが、これも「同盟関係を結んだことの証」であって、「なぜ同盟を結んだのか」の理由にはなりませんものね。ただ、隣国が自国の敵で、かつその敵を挟撃する機会があるのであれば、これを協力して滅ぼすのはごく自然な流れなのではないでしょうか。