[UP当初は大問ごとに分けて投稿しておりましたが、統合しました。(2021.8.3)]

ずいぶん長いことほったらかしておりましたが、ぼちぼち一橋の2020年問題の解説をしていきたいと思います。とはいっても、やはりいっぺんにUPするのは難しいので、とりあえず大問1からで勘弁してください。できれば今年中に間に合えばなぁとは思っています。

 

まずは、全体を概観したいと思います。

 

大問1については、近年の一橋の良さが良く出た設問で、私としては良問ではないかと思います。高校受験生の世界史知識をベースに、史料の読解を通して考えさせ、正解を導くというスタイルの設問で、近年ですと2016年や2014年の大問1が似たようなスタイルの設問ではないかと思います。世界史の問題の多くがこのような形で作れるのであればそれはとても良いことですが、生徒の知識量と扱える史資料のバランスを考えたとき、こうした設問を用意するのはなかなか難しいので、一橋の先生方も本当によく工夫されているなぁと思います。西洋史を学ぶ、ということは単に知識を詰め込むという作業ではありません。総合的に各種情報を整理・分析する能力が必須なんですね。本気で取り組もうと思った場合、かなりハードに情報収集・分析・整理を行って、その上に想像力を活用しなくてはならない、極めて高度な知的作業だと思います。だから、欧米だとわりと歴史本格的に勉強した人は尊敬されるというか、民間企業でもわりと良い扱い受けたりするみたいですね。日本だけじゃないでしょうか、ここまで冷遇されているのはw

 

脱線しましたが、続いて大問2についてです。テーマとしてはよくあるスタイルの設問で、新しさのあるテーマではありません。イギリスからアメリカへの覇権交代に関する論述問題で、他大学や模試などでもなどではわりと良く見られるテーマではないかと思います。では、簡単かというとそれがそうでもないんですよねぇ。難しくはないのですが、いかんせん要求されている範囲が広すぎます。19世紀後半以降から第二次世界大戦・冷戦・脱植民地化ですからね。もちろん、重点をおくのは後半部分なわけですが、この内容を400字に詰め込もうとするとひたすら用語の羅列になってしまって何を言っているのだかわからない文章が出来上がってしまいそうで怖いですね。必要以上に怖がる必要はないですが、注意の必要な設問だったかと思います。

 

大問3については、いわゆる朝鮮王朝における小中華思想と、朝鮮王朝末期の大院君統治期の攘夷思想との関係性を問う設問ですね。奇しくも、同じ年の東大でもこの小中華思想を扱っています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_394128.html) 大院君については通常の受験生ですとやや厳しい(知識が身についていない)のかもしれませんが、一橋を受験する受験生にとっては必須のテーマで、以前にも何度か大院君以降の朝鮮政治史については取り扱っています。おそらく、この大問3は普段から一橋の過去問に触れて周辺を勉強している受験生にとっては一番取り組みやすかったのではないでしょうか。

 

全体を見ると、大問2、大問3については平均的な一橋受験生であればそこそこ書けそうです。ですから、実質的に差がついたのは大問1できちんと設問の要求に沿った解答が書けたかどうかにあったのではないかと思います。

 

2020 Ⅰ

 

【1、設問確認】

:本設問は、1524年に発生したドイツ農民戦争に関してルターが述べた著作を史料としています。もっとも、設問中ではルターがこの著作を「1525年に書いた」ことと、「その前年に起こった農民反乱」について語っていることしか示されていませんが、これらからこの農民反乱をドイツ農民戦争であると確定するのは基本事項ではないかと思います。その上で、以下の問1、問2を合わせて400字で書きなさい、というのが本設問の要求です。

 

問1 

・下線部は具体的にどのような要求であったか

(下線部は以下の通り)

 「農民たちが創世記1章、2章を引き合いに出して、いっさいの事物は、自由にそして[すべての人びとの]共有物として創造せられたものであると言い、また私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称してみても」

 

問2

・「農民たち」が考える「聖書のみ」と、資料中で「ルターが」表明している「意見」の相違はどのようなものか

・上記の相違はどのような理由で生じたと考えられるか

 

【2、下線部の要求(問1)】

:それでは、まず「下線部の要求」の具体的な内容から確認していきたいと思います。

この史料で語られているのはドイツ農民戦争についてですので、まずはドイツ農民戦争についてのディテールを確認しておいた方が史料(下線部)の読み取りが楽になります。

 

(ドイツ農民戦争[1524-25])

指導者:トマス=ミュンツァー

内容:①ルターの宗教改革に影響を受けたドイツの農民反乱。

   ②農民たちは1525年に「十二か条要求」を掲げた(後述)

   ③ルターは当初農民に同情的だったが、反乱の過激化とともに態度を硬化させた

 

以上の内容を確認したうえで、下線部を分析していきます。

 

(下線部の分析)

・農民たちが使用している根拠:創世記1章、2章

:このことは、農民たちが自分たちの主張は「聖書」に書かれているので正しいと考えていることが分かります。ルターの聖書主義の影響です。

 

・いっさいの事物は自由にそして[すべての人びとの]共有物として創造せられた

:文章をそのまま読めば、「すべてのものは自由に使える共有物として神がつくった」ということですから、この文章からは「地代の軽減・廃止」や、「共有物の適切な仕様(入会地の共有や狩猟の自由など)」などの内容を想定することができます。また、こうした要求は農民たちの掲げた「十二か条要求」の一部でもありました。

 

・わたしたちはみなひとしく洗礼を受けた

:これは、キリスト教信徒の神の前の平等のことを言っています。ここからは例えば「身分制の否定(農奴制の廃止)」や「万人祭司主義」などを論点として想定することができます。

 

(聖書主義について)

:ここで、聖書主義について少し説明しておきましょう。聖書主義というのは、神の言葉や権威は教会や聖職者に存在するのではなく、聖書の中の文言にこそそれが示されているという考え方で、すでに14世紀イギリスのウィクリフやその影響を受けたフスに聖書主義の考え方が見られます。その背景には、当時の教会の堕落がありました。当時の人びとの大多数は文字、特にラテン語についての素養がありませんでしたから、「神様が何を言ったか」とか「キリストが何をしたか」などは教会のミサで司祭が行う説教を通して知ることになります。ところが、その説教がピンキリなんですね。司祭によってはまともな学識がなかったり、自分たちに都合のいいように話を盛ってしまったりということは普通にあるわけです。それでも、その司祭や教会が人格高潔で清貧に耐えて人々のために働く、というのであればよかったのでしょうが、当時の教会はすっかり世俗権力とも仲良し、教会は分裂や対立を繰り返して(教皇のバビロン捕囚や大シスマ)、一般民衆からは搾り取れるだけ搾り取っていきます。中でも世俗権力の分立傾向が強く、多くの教会領を抱えていたドイツ地域の農民たちは「ローマの牝牛」という言葉が生まれるほどに搾取されていました。こうなると、教会による支配に対する不満や疑問が強くなってきます。

 こうした中で、ルターの宗教改革が始まると「聖書主義」はプロテスタントがカトリック教会に対抗する中心的な考え方の一つになっていきます。ただ、この聖書主義にはいくつか問題がありました。「聖書に神の言葉が書かれているから教会は必要ない、聖書を読めばいい」とはいっても、①民衆の多くはラテン語を読めないし、知りません。②本の値段はべらぼうに高いです。そこで、これらを解決する方法が必要でした。①の問題については、「聖書の口語訳」という形で解決されていきます。ウィクリフやルターが聖書の英語訳、ドイツ語訳を作ったこと、フスがチェコ語での大学講義や説教を求めたことなどはこのような文脈の中で理解する必要があります。また、②についてはグーテンベルクの活版印刷術の実用化による書籍の低価格化が聖書普及に貢献していきます。これによって、めちゃくちゃな金持ちでないと手に入らなかった書籍が、ちょっとした小金持ちであれば買えるくらいの値段におさまるようになりました。(イメージで言うと、高級外車買うor一戸建て建てるぐらいの価値だったものが、高級家電を買うくらいまでは落ちてきたようです。) それでも、一般の農民には夢のまた夢、聖書を買うなんてできないし、字も読めません。では、どうして農民は聖書の内容が分かるのか。想像してみましょう。ある村の小金持ちのおっさん。これまで買うことができなかった高級品、「聖書」が安くなったので買うことができました。自慢したくて仕方ありません。そこで、自分の土地で働いている小作人を呼びつけて「おい、そこのお前。いいものを見せてやろう。Ta-da! これが聖書だ!お前みたいな教養のない奴は見たことがないだろう。何?字が読めない?仕方ないなぁ、読んで聞かせてやろうではないか。心して耳を澄まして聞けよ。『光あれ!』」 とまぁ、こんなことが本当にあったかどうかは知りませんが、ありそうな話ではありますw 要は、「回し読み」や口伝えによるわけですね。カラーテレビが初めて出たころに、ご近所さんが見に来るみたいなイメージでしょうか。それでも、活版印刷術の普及によって、グーテンベルクが印刷した42行聖書(15世紀半ば)が20~50グルデンであったのに対し、ルターのドイツ語訳聖書は1~2グルデンほどであったそうなので、かなり聖書を持つ人口自体は増加します。当然、聖書の「生の」情報に触れる人口もそれに伴って増えることになります。

少し話はそれますが、当時のカトリックのミサでは当然のことながらラテン語が使用されていました。ですが、ラテン語というのは一般ピーポーにとってはちんぷんかんぷんの魔法の言葉みたいなものです。だから、内容がわからないわけですけれど、でも「そこがいい」という部分もあります。 

 どういうことかといいますと、ラテン語によるミサというのは「それ自体がある種の魔法的、呪術的な雰囲気を醸し出していて、そこに価値を見出す部分もある」ということです。例えば、われわれはお葬式などの際に仏教徒であればお坊さんを呼んでお経をあげてもらうわけですが、お坊さんが何やら「にゃむにゃむ」言いながら「おーんあーぼきゃーべーろーしゃーのーまーかーぼだーだーらーまーにーはんどーまーじーんばーらはーらーはーりたーやウーン」とか言われても「なんのこっちゃねん」と思いつつ、立派な袈裟を着た坊さんの洗練された所作、香のにおい、お経や真言などの舞台装置によって「なんとなーく」、「ありがたそーうな」雰囲気を感じて、故人を偲ぶわけです。

ところが、「聖書を口語訳する」というのはこの舞台装置をぶっ壊してしまうわけですね。想像してみましょう。葬式に呼んだ坊さんが、ロン毛に茶髪、アロハ着て「ハーイ、皆の衆、元気?これから仏様のありがたーいお話、聞かせてやるから聞けよ、ロッケンロールだぜぇえ~!ヤー、ハー!」とかやりだしたら「ふざけんな」って言ってたたき出されると思いませんか?ちょっと前に「般若心経を現代語訳した」みたいなネタが流行っていましたが、あれも近いものがありますね(https://grapee.jp/97528)。ハリーポッターだって、かっこよく呪文唱えてますけど、ほとんどラテン語由来の造語で、日本語訳しちゃったら雰囲気もへったくれもないわけです。ですから、カトリックの側が当時のルター派やカルヴァン派などのプロテスタントを異端として忌み嫌ったのは、単に自分たちに逆らっているからというだけではなくて、こうした感覚的な嫌悪感というものもあったのではないかなぁと想像してみたりします。その理解が正しいかどうかはともかくとして、そういうイメージを持つとより「聖書主義」というかたい言葉を柔らかく理解することができるようになります。

 

【3、「農民たち」と「ルター」の見解の相違とは何か】

:大問1の要求の肝になる部分です。ここを取り違えてしまったり、関係のないことを書いてしまったりすると加点されないことになるので、丁寧に確認する必要があるでしょう。

 

(農民たち)

①教会の権威に意味はなく、神の言葉は「聖書のみ」に示されており、その聖書の創世記に事物の共有とキリスト教徒の平等が示されているのであるから、富の偏在や現行の教会制度、教会による財物の搾取、身分制などには誤りがあるとしています。つまり、聖書主義に基づいて自分たちの主張の正当化を試みているわけです。

 

ドイツ農民戦争(1524年)の「十二か条」要求

:トマス=ミュンツァーが指導するドイツ農民戦争は以下の「十二か条」を掲げました。最新版(2017年版)の山川出版社『詳説世界史研究』には、「十二か条」全ては出ていませんが、以下の内容は示されています。

・農奴制廃止

・地代の軽減

・農村共同体による聖職者の選出

・聖職者を養うための十分の一税の適正使用

(ちなみに、山川出版社『詳説世界史B』には「農奴制の廃止」、東京書籍『世界史B』には「領主制の廃止」や「土地の共用」が示されていました。)

 

(ルター)

:ルターが史料中で述べている意見をそのまま解釈すると以下のようになります。

①農民が根拠にしている『創世記』は『旧約聖書』中のものであり、キリストが誕生して以降の『新約聖書』においては意味をなさない。(『新約聖書』の記述が優先される)

②『新約聖書』ではキリストの言葉において、人々の身体も財産も、皇帝とこの世の法に従わせている

=身分制など、現行(当時)の社会秩序の肯定

③パウロもローマ13章において、洗礼を受けたすべてのキリスト者に「だれでも上に立つ権威に従うべきである」と言っている

 =領主などの世俗権力の権威の肯定

④農民反乱の鎮圧は農民にとっての「救済」であり、その義務を果たす中で落命する騎士は祝福される

 

【4、農民とルターの意見の相違はどのような原因で生じたか】

①聖書解釈の違い

:まず一つに、農民の聖書解釈とルターの聖書解釈に差があることが挙げられます。これについてはルターが史料中で「なぜなら、モーセは新約聖書においては発言権を持たないからである」や「そこ(新約聖書)には、私たちの主キリストが立ちたもうて…」などと述べていますので、そこから推測して検討すればよいと思います。

②農民反乱の過激化や秩序破壊に対するルターの危惧

③ルター自身がザクセン選帝侯フリードリヒによって庇護されていたこと

④ルター派の教義を根付かせるためにルター派諸侯の協力が必要であったこと

:②~④については、いろいろな教科書・参考書等で目にすることもありますし、ちょっと気の利いた先生であれば一言加えてくれるのではないかと思います。

 

はっきり言ってしまうと、農民とルターの意見の相違が「なぜ」生じたかの本質的・根本的な部分は内面的な問題になりますので、当時のルターにインタビューでもしない限り分かりません。もしかすると「気分で」と言われるかもしれませんw また、学説的に「正しい」見解も、ルターの研究書を全て高校受験生が読めるはずもないので、高校受験生には知りようがありません。ですから、この設問では受験生が知りうる世界史の知識をベースにして「ありそうな」原因を検討して示せばそれで十分だと思います。大切なことは、ルターの「意見」だけを書いて「原因」を書いた気にならないということ。これが重要です。「原因」というのは「ルターがなぜ、農民とは違うルターの意見(身分制の肯定や農民反乱の鎮圧支持など)を持つにいたったかということ」を示すことですので、そこをはき違えないようにする必要があると思います。

 

【解答例】

問1、地代の廃止、共有物の適正使用、農奴制の廃止、農村共同体による聖職者の選出など。問2、トマス=ミュンツァーに率いられた農民たちは、信仰の根拠を聖書のみに求めて教会の権威を否定し、創世記中の記述を根拠に地代や農奴制の廃止、農村共同体による聖職者選出や十分の一税の適正使用を訴え、ローマ教皇を頂点とする当時の教会制度や領主が農奴を支配する封建的社会秩序を否定し、教会や領主による農奴からの搾取を批判した。これに対しルターは、新約聖書の記述が旧約聖書中の創世記に優越することを主張し、社会秩序の維持や世俗権力の権威の尊重を説き、農民反乱鎮圧は反乱者にとっての救済であると主張した。これらの相違の背景には、聖書解釈の相違に加えてルターが農民反乱の過激化や秩序破壊に危機感を抱いたことや、ルター自身がザクセン公の庇護下にあり、ルター派教義の普及のためにルター派諸侯の協力を必要としていたことなどがあった。(合わせて400字)

【2020.11.5:模範解答の「世俗権力の」の部分が「皇帝・教皇」になっていましたので、訂正しました。(ルターは当時、ローマ教皇と対立関係にありますので、教皇はまずいと思います。史料中の文言が「皇帝」となっておりますので、皇帝・領主とすればアリかとも思いますが、当時のカール5世との対立等を考えますと「世俗権力」としておくのが良いでしょう。)

2020 Ⅱ
 2020年一橋の第2問についてですが、シンプルな設問でした。覇権(ヘゲモニー)の変遷については近年高校世界史でもよく言及されるものになってきましたので、受験生にとっても目新しいものではなかったと思います。一橋の第2問ではたびたびアメリカを中心とした国際関係が出題されますので、そのあたりでも当日の受験生が「?」となってしまう設問ではなかったと思います。ただし、設問の文章がシンプルで指定語などもない分、設問の意図や言葉の意味を取り違えてしまうと解答があらぬ方向へ行ってしまう危険性がありますので、その点については注意を要する問題であったかと思います。また、平均的な一橋の受験生であれば「ある程度は書ける」と思わせる設問ですので、その中で一つ抜きんでる解答を書くためには、言及すべき内容を丁寧に追っていく必要があったかと思います。あまり面白味のある問題ではありませんが、近現代の国際関係史を復習するには良い設問だと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:19世紀後半~20世紀中葉

・資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程を論ぜよ

・第二次世界大戦、冷戦、脱植民地化との関係に言及せよ。

 

【2、覇権国家】

:実は、「覇権」や「覇権国家」について共通する明確な定義があるわけではありません。研究分野や研究者によってややアバウトにとらえられている語だと考えてよいでしょう。本設問のテーマにそって「覇権(覇権国家)」をとらえるとすれば、概ね以下のような内容になるかと思います。

① 他を圧倒する経済力、政治力を有する

② 強大な軍事力を有し、自国の安全を安定的に確保することができる

③ 文化力、技術力について他をリードする分野を持つ

④ 他国に対してリーダーシップを発揮し、国際システムに安定性をもたらす

 

【3、パクス=ブリタニカ】

:資本主義世界の覇権が英から米に「移行した」とありますので、まずはイギリスが有していた覇権とはどのようなものであったかを把握する必要があります。設問の時期が19世紀半ばごろからとなっていることからも、これについては「パクス=ブリタニカ」を思い浮かべるのが良いでしょう。これについては東大などでも頻出のテーマで、たとえば1996年の東大大論述で出題された「19世紀中ごろから20世紀中ごろまでの<パクス=ブリタニカ>の展開と衰退」や、2008年に出題された「1850年頃から1870年代までのパクス=ブリタニカと世界諸地域の関係」などが参考になるのではないかと思います。パクス=ブリタニカの時期にイギリスが優位に立ち、覇権を握ることになった要素をまとめると以下の4つになるかと思います。

 

① 「世界の工場」→「世界の銀行」へ

 :いち早く産業革命を達成したイギリスは、19世紀半ばには「世界の工場」としての地位を築きます。かつては、この「世界の工場」としての役割を終えて米・独にその座を明け渡す19世紀後半ごろからイギリスの優位が脅かされるような論も見られましたが、近年では米・独などの新興工業国が台頭してきた19世紀後半に、イギリスは「世界の銀行」として世界の金融を握って非常に大きな経済的影響力を行使していたことが明らかになっています。例えば、すでに1850年代後半にはイギリスはアメリカ合衆国の鉄道債権をかなりの額、有していたことが明らかになっていますし、その後もインドをはじめとする各植民地に莫大な額の資本投下を行ってその利権を得ていました。こうした金融世界の支配力を背景に19世紀末には19世紀初めに自国で成立した金本位制を国際的な基準として拡大することに成功し、国際金本位制(ポンド体制)が成立しますが、このこともイギリスのシティが世界金融の中心であったことを示しています。

 

② 海軍の圧倒的優位

  :イギリス海軍は19世紀後半において二国標準主義(two power standard)をとりました。二国標準主義とは、イギリスの海軍力を世界第二位の国と第三位の国の海軍力合計を上回る状態にする国防方針のことです。そしてこの方針は1889年の海軍防衛法(Naval Defence Act)によって立法化され、イギリスは同法に基づいて海軍の強化を行います(1889年当時の世界第二位と三位はフランスとロシア)。

 

③ 海路の支配(要所に海軍・通商の拠点)

  :イギリス海軍の行動は、イギリスがおさえていた海上拠点によっても支えられていました。イギリスは、1713年のユトレヒト条約によってジブラルタルとミノルカ島を獲得しましたが、このことはイギリスが地中海への入り口を確保したことを示していました。18世紀後半には北米植民地を失ったものの、カリブ海のジャマイカをはじめとしてアメリカ方面にも拠点を構えていました。さらにイギリスはウィーン会議で地中海中部のマルタ島領有を確定し、1878年のベルリン会議では東地中海に浮かぶキプロス島を領有して、地中海全域に海上拠点を設けました。また、アフリカの南端にはケープ植民地、インド全域とセイロン、マレー半島にはマラッカやシンガポールを領有してアジア方面への海路を確保しただけでなく、1875年にはスエズ運河株を買収したことにより、長大なアジアルートを地中海と結ぶことに成功します。これらの海上拠点は他国を圧倒する海軍力の支えになっただけでなく、通商や植民地支配の支えとしても機能し、大英帝国の繁栄を支えることとなります。

 

④  広大な植民地(アジア、アフリカ)

  :アジア、アフリカに存在したイギリスの広大な植民地、中でもインドはイギリスの原料供給地、市場、投資の場として機能し、ヨーロッパ市場においてはやや行き詰った感のあったイギリス経済の持続的な成長の原動力となりました。

画像1
(イギリス帝国の版図[1921]Wikipedia「イギリス帝国」より)


 

【4、イギリスの相対的優位の崩壊】

:イギリスの覇権は19世紀後半から徐々に揺らいでいきますが、はっきりとその動揺が見られたのは第一次世界大戦の後です。第一次世界大戦で莫大な戦費を費やし、債務国へと転落したことや、ワシントン体制の成立により太平洋地域の主導権をアメリカに奪われたことなどがそのあらわれとして示せるのではないかともいます。いずれにしても、イギリスからアメリカへという覇権の移行はある時点において急に起こったのではなく、時間をかけて徐々に進行したものでした。イギリスの相対的優位の崩壊について、ポイントを示すとすれば以下の通りになります。

 

 ① 後発国の台頭(工業生産について米、独の追随)

 ② ドイツの挑戦(建艦競争をきっかけに海軍優位が次第に消滅)

 ③ 第一次世界大戦によるアメリカの台頭

 ④ 第一次世界大戦をきっかけとする債務国への転落(金融上の優位の消失)

 ⑤ 民族運動の激化(植民地の安定支配が困難に)

 ⑥ 植民地政策の転換(自治領の誕生、イギリス連邦の成立)

 

【5、アメリカの台頭と覇権】

:一方のアメリカは、南北戦争終結により南北の経済圏を統一したことや、1869年の大陸横断鉄道開通、西部開拓の急速な進展などにより第二次産業革命を達成し工業生産額を急速に拡大します。イギリスとは違い広大な植民地こそなかったものの、それを補って余りある広大な国土はアメリカに豊富な資源を提供しました。また、両岸を太平洋と大西洋に挟まれたことや、建国以来の外交的孤立主義はヨーロッパ列強間との争いから距離を置かせることを可能にし、国防上で有利な条件を備えていました。こうした中、ヨーロッパ列強が第一次世界大戦で疲弊するのを尻目に、アメリカは世界最大の工業国にして債権国としての地位を築き上げ、金融の中心地はイギリスのシティ(ロンバード街)からアメリカのウォール街へと移っていきます。ただし、この段階では依然としてヨーロッパやアフリカ・中東地域の主導権はイギリスが握っており、イギリスの覇権が完全にアメリカに移ったわけではありませんでした。しかし、第二次世界大戦後には、国際連合の設立やブレトンウッズ体制の構築などでアメリカは指導的立場を演じ、さらに冷戦がはじまる頃には資本主義世界の盟主としての地位を確固たるものとしていきます。イギリスが放棄したギリシア、トルコの共産化阻止をアメリカが買って出たこと(トルーマン=ドクトリン)や、マーシャル=プランを西欧各国が受け入れたことなどがこれを示しています。アメリカの台頭と、イギリスからの覇権の移行についてのポイントを示すと以下のようになります。

 

 ① 世界一の工業生産国に(1880年代~)

 ② 国土の拡大(フロンティアの消滅)

 ③ ラテンアメリカへの影響力拡大(パン=アメリカ会議、カリブ海政策)

 ④ 第一次世界大戦後に債権国へ

 ⑤ 太平洋秩序の再構築(ワシントン体制[九か国条約、四か国条約、海軍軍縮など)

 ⑥ 1920年代の国際秩序構築を主導(ケロッグ=ブリアン条約、ドイツ賠償問題など)

 ⑦ 大量生産、大量消費、大衆文化の拡大

 ⑧ 第二次世界大戦と戦後国際秩序

   (国際連合、ブレトン=ウッズ体制、自由貿易体制[GATT]など)

 ⑨ 冷戦における資本主義陣営の盟主

(マーシャル=プラン、NATO、防共圏の構築など)

 

【6、第二次世界大戦、冷戦、脱植民地化との関係】

:以上の要素を踏まえて、設問は「第二次世界大戦」、「冷戦」、「脱植民地化」との関係に必ず言及せよ、と言っています。ただ単に20世紀史の部分をあつく書くというのではなく、それぞれの要素が覇権の移行とどのように関わっているのかを丁寧に考えていく必要があるでしょう。受験生にとって難しいのは「脱植民地化」という言葉をどう理解し、扱うかでしょう。脱植民地化というのは、言葉だけでいえば植民地が宗主国の支配から抜け出して独立を獲得していくことですが、時代や文脈によって脱植民地化をどのような視点から見るかということが変わってきます。その意味で、短い問題文の中で「脱植民地化」という言葉をポンと投げかける本設問の問い方はやや不親切というか、アバウトな印象を受けます。脱植民地化が大きく問題になるのは広大な植民地を有していたイギリスの方でしょう。イギリスは第二次世界大戦後にインド帝国の分離独立を許し、中東地域についても支配権を失っていきます。例えば、先に述べた1996年の東大大論述の解答としてはエジプトのナセルとの間で起きたスエズ戦争(第二次中東戦争)によるスエズ運河利権の喪失あたりまでが解答として要求されていました(指定語に「スエズ運河国有化」があった)。ただ、本設問ではアメリカが「資本主義世界の覇権」を握るまでが要求されていますし、時期も「20世紀中葉」とだけありますので、スエズ戦争まで書く必要はないと思います。イギリスが植民地帝国を喪失したことを、具体例をいくつか挙げて示すだけで十分でしょう。むしろ重要なのはアメリカとの対比ではないでしょうか。民族自決の風潮が高まる中、各地で民族運動が巻き起こりイギリスは多くの植民地を手放すことになったわけですが、一方のアメリカは植民地依存型の国家運営ではなかったことや、広大な国土と資源を有していたことなどから脱植民地化の影響は軽微ですみました。たとえば、アジアではアメリカからフィリピンが独立していきますが、これも1934年に制定されたタイディングス=マクダフィー法で決まっていた既定路線で、当時のアメリカ議会が決めたことでしたし、独立後もフィリピンは防共圏の一部として機能することになります(1951、米比相互防衛条約)。

 

(第二次世界大戦)

  ・イギリスを始めとする列強の荒廃とアメリカの圧倒的経済力・工業力

  ・戦後国際秩序のアメリカ主導による再構築

 

 (冷戦)

  ・米ソの二極構造の形成(パクス=ルッソ=アメリカーナ)

  ・アメリカによる資本主義陣営の指導的立場

 

 (脱植民地化)

  ・イギリス植民地帝国の崩壊(民族自決、民族運動の展開)

   cf.) インド、パキスタン、中東、スエズ戦争etc.

  ・対して、アメリカは広大な植民地を元来持たず、脱植民地化の影響が軽微

   (自国内に広大な領土、原材料、市場が存在)

【解答例】
 19世紀半ばに世界の工場となった英は、第二次産業革命を達成した米・独に工業生産で抜かれながらも、金本位制のもとで圧倒的な金融資本を持つ世界の銀行として世界経済をリードした。しかし、建艦競争で次第に海軍の優位を失い、第一次世界大戦後には債務国へ転落、民族運動の高揚で植民地経営も困難さを増し、欧州での指導的地位は維持したものの、新たに金融の中心となった米に太平洋地域などの指導的地位を明け渡した。第二次世界大戦後には圧倒的な経済・軍事力を持つ米が、国際連合やブレトン=ウッズ体制などの新秩序建設をリードした。冷戦構造が顕在化すると、米はマーシャル=プランによる西欧経済再建やNATOANZUS、アジア諸国との同盟による防共圏構築で西側諸国の指導者となった。脱植民地化の中で英がインドなど広大な植民地を喪失したのに対し、広大な国土、資源、市場を有して影響が軽微であった米が資本主義世界の覇権国家としての地位を確立した。(400字)


2020 Ⅲ
 一橋の2020年第3問については、奇しくも東大2020年大論述と同じく小中華思想がテーマでした。もっとも、東大の方は小中華思想を東アジアの伝統的な国際関係のあり方の一部として取り扱っているのに対し、一橋の方はむしろ朝鮮の小中華思想自体に焦点を合わせて、その上で1860年代から1870年代の限られた期間における国際関係との関連を考えるというもので、東大がマクロな視点からの出題だとすれば一橋の方はややミクロな視点からの出題でした。いずれにしても、19世紀末の朝鮮情勢については一橋では頻出の問題で、近いところでは2008年第3問の「日露戦争後の日本による朝鮮支配」2013年第3問の「19世紀末朝鮮の開化派(独立党)による改革(甲申政変~甲午改革)」などが出題されています。また、2009年には「1920年代~第二次世界大戦ごろの日本による朝鮮支配(皇民化政策など)」も出題されていますので、近現代朝鮮史についてはかなり手厚く学習しておく必要があると思います。19世紀末の朝鮮情勢については、以前当ブログの「あると便利な地域史」の方でもご紹介しておりますので、参考にしてみてください。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_213698.html

 

【1、設問確認】

問1   ①  に入る言葉を答えよ。

 (リード文)  

「西洋諸国を夷狄、禽獣と視るのは、  ①  意識によるものであった。」

 (設問文)

 「17世紀の国際関係変化を受けて高揚した、自国に対する朝鮮の支配層の意識を示す」

 

→解答は「小中華」(山川用語集には「小中華」として記載、教科書や参考書などでは「小中華思想」、「小中華意識」など。本設問の論述内ではリード文にならい小中華意識として用いる方が無難。

 

問2 ・小中華思想(意識)はいかなるものであったか

   ・小中華思想(意識)にはどのような背景があったか

   ・18601870年代にどのような役割をはたしたか

   ・それぞれ、国際関係の変化と関連付けて述べよ

 

 (史資料)

  A1860年代における奇正鎮、李恒老による攘夷論

   ・「衛正斥邪」

   ・西洋諸国=夷狄、禽獣

   ・儒教道徳・礼制、それに支えられた支配体制の維持擁護

  B1876年、崔益鉉の開国反対上疏

   (私の見た問題では「上流」となっていましたが、「上疏:事情や意見を書いた書状を主君・上官などに差し出すこと、またその書状」ではないかと思います。もっとも、原文史料の方では「流」の字をあてているのかもしれませんので、間違いかどうかは分かりません。私、中国史や朝鮮史は専門外ですので。)

   ・日本との交易を通じて、『邪学』が広まり、人類は禽獣となる

   ・日本人による財貨・婦女の略奪、殺人、放火が横行する

   ・人理は地を払い、『生霊(じんみん)』の生活は脅かされる

   ・人と『禽獣』の日本人とが和約して、憂いがないということはない

 

『生霊』と書いて「じんみん」って読むこともあるんですね。こんなもん、世界史の知識だけではどうにもなりませんよ。また、奇正鎮、李恒老、崔益鉉などの人々も通常、高校世界史では出てきません。ですから、史料を読むときにはできるだけ柔らか頭で読みましょう。史料を読んでわかることは、この文章中で「人類や生霊(じんみん)」とされているのは朝鮮の人々であり、『禽獣』とされているのが西洋人と日本人だということです。1860年代の攘夷論と1870年代の攘夷論で特に大きな違いは見られません。しいて言えば、江華島事件で開国要求を突き付けて日朝修好条規を締結した日本を西洋と同一視していることが変化として見えるだけで、論の大略に変化はないと思ってよいでしょう。

 

【2、小中華思想(意識)】

:小中華思想がどのようなものか、という点については概ね以下のような説明がなされています。

 

・「朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承しているという思想。」(山川用語集)

・「朝鮮こそ明を継ぐ正当な中国文化の後継者であるという(「小中華の」)意識…」

(『詳説世界史研究』山川出版社)

・政治的な事大(強いものに従う)と、文化的な慕華(中華を慕う)

 

【3、小中華思想成立の背景】

:小中華思想成立の背景ですが、これは設問にも「17世紀の国際関係変化を受けて高揚した」とありますので、17世紀東アジアの国際関係変化を考える必要があります。よく勉強を進めている人であればご存じの知識かもしれませんが、ここで問題となる国際関係変化というのは明の滅亡(1644)と清による中国大陸支配、そして朝鮮王朝の清への服属です。明は、李自成の乱によって最後の皇帝崇禎帝が側室と娘を手にかけた上で自害し、滅亡します。この時、明の武将呉三桂は要衝、山海関を守り、北から攻め寄せる清軍と対峙しておりましたが、農民反乱(李自成の乱)を鎮圧すべく都に引き返しておりました。しかし、都北京が農民反乱によって落とされたことと、皇帝をはじめ皇族が自害を遂げたことを知り、身の振り方を迫られます。最終的に、呉三桂は清の睿親王ドルコン(順治帝の摂政、幼い順治帝にかわって軍を率いていた)に降伏し、山海関を開いて都への先導を務めた功績により、藩王(平西王)に封ぜられます。このあたりのテーマについては2014年の第3問で出題され、「山海関」の名称も空欄補充で出題されました。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_211847.html) ちなみに、私は山海関についても呉三桂についても本宮ひろ志『夢幻の如く』で初めて知った気がします。ヌルハチと信長が取っ組み合いするマンガはこれだけではないでしょうかw マンガは偉大。

 さて、結果として中国大陸はそれまで漢民族や朝鮮の人々が「夷狄」とみなしてきた女真族によって支配されることになりました。朝鮮王朝はすでに清のホンタイジの時に服属を強制されておりましたが、このことは、朝鮮を中華文明の一部であり、その真の継承者であると考える小中華思想を形成していくことになります。小中華思想形成にかんして、ポイントを挙げるとすれば以下のようなものになります。

 

① 女真族の清による明の征服

② 女真族の清への服属と冊封(朝鮮王朝が清の朝貢国となる)

③ 「女真族=夷狄」という意識(女真が漢民族と異なる風習を持っていたため)

   cf.) 辮髪など

④ 夷狄化した中国にかわって明以降の正統な中国文化の後継者であると自負

⑤ 朝鮮王朝が朱子学をそれまでの仏教にかわる統治理念として国教化していたこと

→両班を通した民衆の教化進む

 

 意外に見落としがちなのは朝鮮国内の状況でしょう。朝鮮王朝では、朱子学が国教化しており、統治理念であり支配階層両班の道徳理念でもありました。朱子学を大成した南宋の朱熹は、北宋の司馬光が著した『資治通鑑』の中にある大義名分論や華夷の別を受け入れ、重視することになりますから、こうしたことも朝鮮王朝が小中華思想を形成する一助になっていました。

画像2 - コピー
(小中華思想における華夷秩序、Wikipedia「小中華思想」より)

 

【4、1860s1870sに果たした役割】

:こちらについては大院君による鎖国政策と結び付ければ良いでしょう。大院君は「日本=倭夷、西洋=洋夷」ととらえ、「衛正斥邪」(えいせいせきじゃ:正[朱子学]をまもり、邪教[西洋]を排斥する)の考えに基づいて西洋のみならず日本をも排斥していきます。これに対して、大院君に対抗する閔氏一族は、1870年代初めに国内で近代化を目指す一派の力を集めて大院君に対するクーデタを行い、大院君を失脚させます。こうした中で、江華島事件(1875、英のスエズ運河買収と同じ年なんですよね…)をきっかけとした日本の開国圧力が強まると、閔氏政権は開国(日朝修好条規、1876)による近代化によって外圧を排除するという日本と似た道を選択することになります。しかし、壬午軍乱(1882)によって改革が政権自体を揺るがすことを危惧した閔氏政権は、それまでの改革姿勢を緩め、むしろ清との協調(事大)によって政権の維持を図ろうとするようになります(事大党の形成)。こうした改革の後退と清への服属に不満を感じた開化派(独立党)は、1884年に甲申政変を引き起こすことになります。このあたりのことは上述した通り「あると便利な地域史」の方に詳述してありますので、ご覧ください。もっとも、本設問では1870年代までが対象ですので、壬午軍乱などについては言及の必要はありません。また、設問のメインテーマは「小中華思想が果たした役割」になりますので、開化派云々について詳述するよりは、閔氏のクーデタや開国に対して小中華思想に基づく攘夷論者がどのような反応を示したかをリード文を頼りに示してあげる方が良いのではないでしょうか。(原則として、すでに設問に書いてあることを書いても加点要素にはなりませんが、本設問のような問題の場合、「史資料を正しく読み取れるかどうか」も問われていますので、自分は「挙げられた史資料の示す意味が分かってますよー」とアピールできるような文脈で使用する分には良いのではないかと思います。(史資料の丸写しではだめです。)

 

【解答例】

問1、小中華 問2、小中華思想とは、朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承するという思想で、夷荻とみなしていた女真族の清が中国全土を支配し、朝鮮王朝を従えて冊封国としたことが成立の背景にある。14世紀ごろから朝鮮では仏教にかえて、大義名分論や華夷の別を強調する朱子学を統治理念とし、国教化した。官吏任用制度の科挙と結びついて、朱子学は朝鮮王朝の支配階層である両班の基本的教養や道徳として根付いた。1860年代から朝鮮王朝の実権を握った大院君は宗主国の清が西欧の通商・外交関係に組み込まれる中でも鎖国政策を展開したが、背景には奇正鎮や李恒老のように西洋諸国を夷荻・禽獣とし、朱子学を正学として重んずる「衛正斥邪」の攘夷思想があった。1870年代に大院君と対立した閔氏がクーデタで実権を握ると、開国を迫る日本が起こした江華島事件を機に日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国へと方針を転換したが、崔益鉉などの攘夷論者はこれを批判した。(問1、問2含めて400字)