今年度もさっそく「大学入学共通テスト」の世界史Bを解いてみました。今年度からこれまでの「センター試験」から「大学入学共通テスト」になったわけですが、さすがに問題の形式・内容は大幅に変わったようです。予備校の分析の方ははっきりと「難化した」、「平均点は下がるだろう」としているようですし、私自身が解いてみた感想も「そりゃ、平均点は下がるだろうな」という感触です。ただ、確かに難しくはなっているのですが、要求される知識などがこれまでと変わっていますかと言われると「そんなことはないね」というのが印象です。結局、要求される「世界史の知識や理解」については変わりがなく、学習の仕方も特に変更の必要はないと考えています。
今回の問題の長所と短所について考えてみたのですが、長所については何といっても「①史資料問題が豊富に出ている」、「②解く人間にアタマを使わせる設問になっている」という点でしょう。史資料問題がたくさん出ている点については、世界史の知識をきちんと活用して理解するところまでできているかを問う上で非常に有用だと思いますし、多くの情報を整理したり、推測したりして正解を導き出すという作業は、その人の情報処理能力をはかる上で有益だと思います。一方で、短所についてですが「①結局、思考力というよりは読解力を問うだけの問題になっていないか(世界史の問題ではなく、国語力の問題ではないか)」という点と「②設問自体が煩雑になっていないか」という2点について強く感じました。①についてですが、文章の読解能力についてはすでに受験生は「現代文」という科目で問われているわけで、世界史でさらにその能力を問うのはいかがなものか、という気がしないわけではありません。ただ、一方で大学生になる(あるいは社会人になる)と、きちんと文章や情報を読み取り正確に理解することがとても、とても、とても、とても大切になります。本をきちんと読めないと(理解できないと)高等教育を受けることはできません。(というより、教授や「分かっている奴」と話がかみ合いません。)ですが、実際にはそれが「大学生でもできない」ということがよくあるわけですので、そういった能力を求める、ということは(「世界史」という科目でそれを図る必要があるかどうかは別として)妥当な気もします。ただ、人間の能力は様々あるわけでして、「人の言ってることはよく理解してくれないけどやたらたくさんのことを覚えることができて知識が豊富な奴」もいれば「人の言うことはよく理解できるけどさっぱりものを覚えられない奴」もいるわけです。その辺のことを考えたときに、今回のテストはちょっと偏ってないか?と感じる部分もありますが、変革の時期なので仕方ない部分もあるのかもしれません。①については一長一短という部分もあるのかな、という気がします。②についてですが、あちこちに空欄があって、かつあちこちに(下手をすると前のページに)参考にするべき文章やらグラフがあったりして、設問自体がボコボコのパズルのようになってしまっています。もちろん、アタマを使わせるためだというのはわかるのですが、あまりに煩雑で「アタマを使わせる以前に無駄な労力を使わせてやしませんか?」と感じました。正直、もう少し洗練してほしかったなぁという気がします。ですが、全体としては高いレベルにまとめられた問題だったのではないかと思います。解く方は大変だったかと思いますが、結果に差が出る問題だったのではないでしょうか。
今年も解いたうえで、解答を導くのに必要な知識、考え方についてまとめてみましたので、参考にしてみてください。(ただし、急いで解いたこともあり[というか、眠いです。現在AM3:30]、チェックが行き届いていない部分もあるかと思います。書いてある内容に間違い・勘違い・見落としなどあるかもしれませんが、そのあたりのところには責任を負えませんので自己責任でお願いいたします。)今年度は本当にたくさんのイレギュラーがあって受験生のみなさんは大変なのではないかと思いますが、からだにだけは気をつけて頑張ってください。
1 ‐③
:史料(資料)より、空欄アに入れる人物が「始皇帝が亡くなった時の大臣(宰相)」であることは明らかですので、このヒントからだけでも李斯(う)であることは導けます。また、李斯は法家として知られていますので、「統治のために重視したこと」は「法律による秩序維持」について示してあるZが正解となります。(う)とZの組み合わせですから、解答は③となります。
ちなみに、孟子は性善説を唱えた儒家であり、張儀は各国に秦との同盟(連衡)を唱えた縦横家です。また、Xは儒家の思想、Yは墨家の思想(兼愛)です。
2 ‐③(消去法)
①:始皇帝の思想弾圧(焚書)では医薬・占い・農業書以外の書物が焼かれた。
②:エフェソス公会議(431)はネストリウス派キリスト教を異端とした公会議。この時期にはまだ教皇権は強くない。また、禁書目録などが定められて異端審問が強化されるのは16世紀の対抗宗教改革の時期。(cf. トリエント公会議[1545-63])
④:マッカーシズムの語源となった上院議員マッカーシーはアメリカの人物。
3 ‐②(やや難)
:武帝の時期の政策は②と③。これらのうち、司馬遷が批判の対象としている政策は設問より「商人・経済活動の自由を奪うような政策」であることが読み取れるので、正解は②。
①:呉楚七国の乱が起こったのは景帝の時で、武帝の即位より前。
②:武帝の経済政策としては、均輸法・平準法や塩・鉄・酒の専売制などが有名。
③:董仲舒は武帝に五経博士の設置などを進言して儒学の官学化を達成した人物。
④:三長制や均田制は北魏の孝文帝の政策で導入された。(5世紀)
4 ‐③
:世界史の知識というよりは半分は文章読解の問題です。
(前提としたと思われる歴史上の出来事)-「あ」が正解
:「1790年以降、聖職者市民法の適用によって、一連の文書は領地と同様に、没収されたに違いないでしょう」とあるので、文書が没収されたのは1790年以降と分かる。1790年当時は国民議会の時代。(次の立法議会になるのは1791年憲法に基づく制限選挙の後)
:また、「い」の総裁政府の時代に国王が処刑されたという文章は明確な誤り。ルイ16世の処刑は国民公会の時代(1793年1月)であるというのは頻出。
(文書資料についてのブロックの説明)―「Z」
:「最も望ましいのは第1の場合」とあり、それは「領主の所領が教会に属していた場合」であり、「亡命した者(俗人)に属していた」という場合も「悪くない」、一番まずいのは「きわめて厄介」である「俗人だけれども…亡命しなかった者に属していた場合」とあるので、使いやすい資料の順に「教会に属していた場合>俗人で亡命した者に属していた場合>俗人で亡命しなかった者に属していた場合」なのは明らか。文章読解により正解はZ。
→「あ」と「Z」の組み合わせなので③が答え。
5 ‐④
:「せいぜい、嫌われた体制の遺物として、意図的に破壊されたことが危惧される程度でしょう。」という文章があるが、文書を「破壊する」のは文書を没収した革命政府(国民議会)またはその支持者であると考えられるので、それらが「嫌う体制」は「アンシャン=レジーム(旧体制)」であることがわかる。
①:産業資本家の社会的地位の向上が起こるのは産業革命後だが、フランス革命当時のフランスではまだ産業革命は進展していない。
②:ヘイロータイは古代ギリシアのスパルタにおける隷属民。
③:強制栽培制度はジャワ島で1830年からファン=デン=ボスが行った制度。
6 ‐②
:初めて500万ポンドに達したのはグラフより1776年頃と読み取れる。
①:イダルゴの蜂起からメキシコの独立への一連の動きは1810s~1820s。
②:茶法制定とボストン茶会事件は1773年。
③:トルコマンチャーイ条約は1828年。
④:アレクサンドル1世の神聖同盟提唱はウィーン会議(1814~1815)において。
7 ‐③
:やや設問の説明自体が分かりづらい問題。内容は平易。
① グラフ1より、金貨鋳造量が10年以上にわたって100万ポンドを下回った時期は1799年から1813年の時期しかない(他の時期は10年に達する前にどこかで100万ポンドを上回っている)。
② さらに、グラフ2でその時期を見てみると、紙幣発行量は一貫して増加している。
以上の読み取りから「ア」はフランス(対仏大同盟やナポレオン戦争を思い浮かべればよい)、「イ」は紙幣を大量に発行するとなるので、正解は③.
8 ‐①
:設問やイギリスの金本位制導入が19世紀であるという知識などから、19世紀の事柄を選べばよい。ちなみに、肖像はヴィクトリア女王。インド帝国成立(1877)によりインド皇帝となった。(ディズレーリ内閣の時)
②:グレートブリテン王国成立はスコットランドを併合した1707年(アンの時)。
③:統一法は1559年でエリザベス1世の時。
④:ハノーヴァー朝が始まったのはジョージ1世の時。(1714~)
9 ‐③
:「16世紀に」とあるので、消去法でも解ける。
①:銀は中国に「日本銀やメキシコ銀」が流入したのであり、中国から日本へ流入したわけではない。
②:地丁銀制の導入は清の康煕帝の頃から。(18世紀前半)
③:正解。書かれているのは張居正が導入した一条鞭法(頻出)で、明末の万暦帝の頃。16世紀後半の出来事なので問題なし。
④:アヘンの密貿易が問題になるのは19世紀前半。(cf. アヘン戦争1840-42)
10 ‐③
:半両銭は秦の始皇帝がつくった統一貨幣で、青銅製。また、元の交鈔は紙幣なので材料は紙。
11 ‐④
:「キ」の人物はムスタファ=ケマルで、「アタテュルク(トルコの父)」の称号を持つ。アンカラで国民議会を率いてギリシア軍を撃退し、セーヴル条約を破棄して対等なローザンヌ条約を締結し、トルコ共和国を建国した彼は、カリフ制の廃止などの世俗化政策を進め、ラテン文字(ローマ字)の採用などの近代化策を展開した。(アラビア文字は廃止された。)
12 ‐④
:史料中に出てくる「ア」の病はペスト。『デカメロン』はペストを逃れて非難した人々が様々なエピソードを語るという筋書きの話で、作者はボッカチオ。ボッカチオはルネサンス期の人物なので、人文主義(ヒューマニズム)の影響を受けていると考えられる。該当する答えは、「イ」と「T」の組み合わせなので、正解は④。
ちなみに、ペトラルカは『叙情詩集』で知られる人物で、エラスムスは『愚神礼賛(讃)』などで教会批判を展開し、ルターの宗教改革に影響を与えた人物。(どちらもルネサンス期の人物。)
13 ‐⑤
:ペストは、東西交流が進む中でアジアからもたらされたと考えられている。(起源は諸説あり。) ここで示されているペストの流行は14世紀半ばの流行なので、まだヨーロッパ人のアメリカ大陸進出は始まっていない。また、資料より症状が様々であったことは明らかである。
14 ‐②
①:モンテ=カッシーノに修道院をつくったのはベネディクトゥスで、6世紀のこと。
③:クローヴィスはアタナシウス派に改宗したフランク王で、5世紀の人物。クリュニー修道院設立は10世紀はじめなので時期が数百年単位で違う。
④:修道院を解散したのはヘンリ8世。
15 ‐④
:隋・唐の科挙は儒学の理解を問う内容。
(cf. 『五経正義』孔穎達・顔師古の編纂→科挙の試験で解釈の基準に)
16 ‐②
「イ」-農民の覚醒を促す
「ウ」-農民の覚醒を防遏する(防止する)
→これがはっきりと分かれば、19世紀の半ば以降農民の覚醒を促したのはナロードニキと呼ばれた革命家であったことと結びつけて解くことができる。
17 ‐③
:ロシアの農奴解放令(1861)はアレクサンドル2世による。クリミア戦争(1853~1856)での敗北後に近代化を目指す中で出された。彼の統治下での出来事なので樺太・千島交換条約(1875)。
:クリミア半島がロシア領となるのは、キュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約[1774]でクリム=ハン国に対するオスマン帝国の宗主権が否定された後の1783年で、エカチェリーナ2世の時期。
18 ‐①
:「作者(オーウェル)は、トロツキーの影響を受けた組織の一員としてスペイン内戦に参加したが、ソ連からの影響を受けた共産党と対立し、弾圧された」とあることから、オーウェルが批判の対象としていたのはトロツキーと対立していたソ連共産党の指導者(スターリン)であったことがわかる。該当するのは①のみ。
19 ‐②(やや難)
:18世紀の中国の朝廷なので、清朝であることを確認する。
(図書の名称)
:清代に編纂されたのは『四庫全書』のみ。
(『永楽大典』は明の永楽帝の時期、『資治通鑑』は北宋の司馬光によるもの)
(史料の改竄)
「皮衣を着て禄を食み」→「遼朝の禄を食み」
「左前の服を脱ぎたい」→「中国に身を投じたい」
「漢人の衣装を着て」→「先祖の墳墓に参り」
=中国とは異なる遼の習俗を下に見る、または漢人の習俗を上に見る表現から、当たりさわりのない表現に変更されている。
20 ‐②
:「結ばれた後に破棄された」という条件からも、露土戦争の後に結ばれたロシア・トルコ間で結ばれたサン=ステファノ条約が、その後のベルリン会議によって破棄されたことを想起することができる。また、条約の内容からもそれが分かる。
(サン=ステファノ条約の主な内容)
・セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立(オスマン帝国から)
・ロシアが黒海沿岸に領地を拡大
・ブルガリアの自治(実質的にはロシアの保護下)
サン=ステファノ条約とベルリン会議の関係については過去の記事を参照してください。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_253756.html)
21 ‐②
: 20 の解説にも示した通り、「ア」に入るのはブルガリア。
22 ‐③
:ボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を得て、1908年の青年トルコ革命時の混乱に乗じて併合したのはオーストリアであってイタリアではない。
23 ‐①
:別に資料を参考にしなくても「イ」はアメリカで「ウ」はソ連であるということはわかる。
24 ‐③
(資料について)
資料X:アメリカのニクソンによる米中接近の時期の資料
→1970年代前半(ニクソン訪中が1972年)
資料Y:中ソが友好関係(資料を特定する必要はない)
→少なくとも、「中ソ論争(中ソ対立)」が起こる前(cf. スターリン批判[1956])
資料Z:日中共同声明(1972)はニクソン訪中と同年だが、米中接近を受けて日本が中国との関係を改善するので、順番としてはX→Z
25 ‐②
:サンフランススコ講和会議は1951年のこと。
①:第一次国共合作は1924年で第二次世界大戦前の出来事。
③:中華人民共和国が支援したのは大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)。
④:中国の民主化運動弾圧には天安門事件などがあるが、サンフランシスコ講和会議の時期ではない。
26 ‐①
:「エ」は古代インドで文学作品が多く書かれたとあることからもサンスクリット語であることがわかる。(cf. サンスクリット文学[グプタ朝期])
(文学作品)―「あ」
:「あ」の『シャクンタラー』はカーリダーサによるサンスクリット文学。「い」のルバイヤートはイランのウマル=ハイヤームによる詩集。
(資料から読み取れる事柄)―「W」
:文章読解問題(世界史の知識は不要)。
「残りの半数はアラビア語…を推しています」=アラビア語を有用と考える委員はいる。
「西洋の図書館のたったひと棚分が、インドやアラビアの言語で書かれたすべての文献に相当することを」委員たちは誰も否定しなかった。→「否定する者がいる」という文と矛盾
27 ‐③
(英語教育導入の動機)-「え」
:史料によらなくても、「う」の「(英語が)ペルシア語とともにイギリス統治以前の諸王朝で用いられていた」ことが誤りであることはわかる。(この文章の主語が英語でないなら「英語教育導入の動機」にはなりえない。)
(インドにおける植民地政策の特徴)-「Y」
:「Z」のベンガル分割令(1905、カーゾン法)は、ムスリムとヒンドゥーを対立させる内容で、仏教徒が対象ではない。
28 ‐②
①:タミル語は南インドのドラヴィダ系言語であり、起源も古いため、ペルシア語は基になっていない。
③:ワヤンはジャワ島の民俗芸能(影絵芝居)。
④:ウルグ=ベクはティムール朝の君主。
29 ‐①
:「地域1」は、ガリバルディの名前があることからシチリア島とわかる。シチリア島でラテン語がトルコ語に翻訳され、盛んとなった事実はない。
30 ‐①
:「地域2」は、ヨーロッパの島国であることや万国博覧会などからイギリスであると分かる。ゆえに、14世紀から15世紀までの戦争は百年戦争のことであるため、「ア」はフランスであると分かる。
(「ア」の国の歴史)-「あ」
・「あ」のルール占領は1923年。問題なし。
・「い」のカルマル同盟を結成したのはデンマーク・スウェーデン・ノルウェー。
(「イ」にいれる文)-「X」
:ノルマン朝成立は1066年で、百年戦争とは無関係。
31 ‐②
:「地域3」はオリンピックなどの記述からアテネであるとわかる。
(「地域1」=シチリア、「地域2」=イギリス[ブリテン島]、「地域3」=アテネ)
(時期確定のポイント)
① ローマ最初の属州はシチリア(第一次ポエニ戦争時、頻出)
② ギリシアがローマの支配下に入るのは第三次ポエニ戦争の頃(BC2世紀)
③ カエサルの頃にようやくガリア遠征→おそらく、ブリテン進出が一番遅い
32 ‐④
:朝鮮の大院君による鎖国政策と攘夷論は、昨年の東大・一橋でも出題された近年の頻出問題。詳しくは以下を参照。
・一橋2020年解説(http://history-link-bottega.com/archives/cat_399056.html)
・朝鮮史(http://history-link-bottega.com/archives/cat_213698.html)
(「ウ」に入る人物)-「い」
:西太后は中国の人物なので×。
(「エ」にいれる文)-「Y」
:文の内容から攘夷思想について述べられていることはわかる。
33 ‐②
:「オ」は朱子学(詳しくは上記「一橋2020年解説」を参照)。王守仁(王陽明)は「心即理」を唱えて朱子学の「性即理」を批判する陽明学のもとを作った。
①:寇謙之は北魏の太武帝の頃に新天師道(道教)を国教化した人物。
③:義浄は唐の時代の仏僧。
④:王重陽は金の支配下で全真教(道教の一派)を起こした人物。
34 ‐①
「う」-壬午軍乱(1882):大院君による閔氏に対するクーデタ事件
「え」-甲申政変(1884):開化派(独立党)による閔氏に対するクーデタ事件
「お」-甲午農民戦争(1894):日清戦争の契機となった朝鮮の農民反乱(東学党の乱)
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