世界史受験では、イギリスの選挙法改正は必須の内容です。最近は昔と比べるとやや出題頻度は落ちてきたような気もしますが、その分細かいところまで出題されるようになった気がします。20年前まではせいぜい第3回選挙法改正まで抑えておけばよかったところが、最近は女性の権利についての視点が重視されるようになったせいか第4回選挙法改正(女性参政権)や、第5回選挙法改正(男女の平等化)まで出題されるようになってきましたし、グレイやダービーといった改正時の首相の名前までかなり細かく出題されるようになりました。選挙法改正についての一覧はこちらをご覧ください。

イギリスの選挙法改正については、第6回のウィルソン労働党内閣による選挙法改正までが参考書等で書かれていますが、このうちの最初、第1回の選挙法改正がなされたのは1832年のグレイ内閣でのことです。

グレイ

Wikipedia「チャールズ・グレイ」より)

この1830年代というのは、イギリスにおいて産業資本家が台頭し、自由主義の風潮が高まって様々な諸改革が進められた時期であることを意識しておく必要があります。ざっと例を挙げるだけでも、奴隷制の廃止、東インド会社の中国貿易独占権廃止と商業活動の停止、工場法の制定などは1833年のことです。「あ、教科書で並んでるの見たことある」という人も多いのではないでしょうか。これらの諸改革が進められた時の首相であったグレイはノーサンバーランドに拠点を持つ伯爵でしたが、フランス革命のような過激な変化によってイギリスの体制が崩壊することを恐れ、むしろ積極的に一定の限度での改革を進めることでイギリスの立憲君主制を維持しようとした人物でした。また、ベルガモットで柑橘系の香りをつけた紅茶であるアールグレイは彼に由来すると言われます。(Earl=英語で「伯爵」の意。もっとも、名前の由来とされるいくつかのエピソードは必ずしも事実に基づくものではないようですが。)

 さて、そんなグレイが首相を務めた時期に行われた第1回選挙法改正では、産業資本家に選挙権が与えられました。(実際には、一定の財産を有する者に選挙権が与えられたのですが、こうした財産を保有していた層が主として産業資本家だったわけです。)それと同時に、腐敗選挙区が廃止をされます。この腐敗選挙区は、選挙における1票の格差を是正するための重要な変化だったのですが、世界史の教科書の中では「腐敗選挙区とは何か」についてはあまり語られません。そのため、授業をする先生がこのことに触れてくれない場合、「腐敗選挙区が廃止された」と言われても何のことやらイメージできず、受験生はただオウム返しのように「フハイセンキョクガハイシサレタ」と覚えるのみ、という何とも不毛な知識の吸収で終わってしまいがちです。そこで、ここでは腐敗選挙区とは具体的にどのようなもので、腐敗選挙区の廃止とはどういうことなのかをイメージできるようにご説明したいと思います。

 腐敗選挙区というのは、様々な事情によって、極端に少ない有権者により議員が選出される選挙区のことです。イギリスでは古くから議会制度が発達する中で、一定の発展を見せた町などに対し、王家が特許状(royal charter)を出すことで2名の庶民院議員を選出する権利を与えました。ところが、この特許の内容が数百年たっても変化しないんですね。そのため、地域によっては人口変動によってまったく町としての体をなしていないにもかかわらず議員を選出できたり、逆に急激に人口が増加したにもかかわらず議員を選出する権利を有しない都市などが出てきます。

 前者の代表格は南西イングランドのウィルトシャーにあるオールド=サラム(Old Sarum)です。近くにはストーン=ヘンジなどの古代遺跡もあるこの土地は、かつては城壁都市で大聖堂などもあったのですが、後に放棄されます。そして、新たに大聖堂が建設された現在のソールズベリーの周辺に人々が居住するにしたがって、かつてのオールド=サラムの建物は新しい街の建材に利用されるなどしてすっかり衰退し、14世紀頃には実質的に無人となります。ですが、オールド=サラムが城壁都市だった時代に得ていた2名の議員の選出権は残り続けます。17世紀には同地の住民はおらず、1831年の時点でも有権者は11名にすぎず、それも同地に居住実態のない地主であったそうです。はっきりいってド田舎もいいところですw ちなみに、こちらが現在のオールド=サラムです。「跡地」って感じですね。

 OS
(Wikipedia UK, 'Old Sarum'より)

 

このような選挙区では、当然のことながら有権者同士は顔見知り、かつ利害関係を有していることが多く、公然とした買収や談合が行われます。10名程度の人間に「次の議員、〇〇にすっから、よろしく~♪」と言えば議員を選出できるわけですから、これほど楽なことはありません。このような選挙区が腐敗選挙区ですが、こうした選挙区はオールド=サラムに限ったことではなく、当時の記録によれば400人強の選出者のうち、150名ほどが100人未満の有権者から選ばれ、90名近くが50人未満の有権者から選ばれていたそうです。[Carpenter, William, The People's Book; Comprising their Chartered Rights and Practical Wrongs, (London: Palala Press, 2016)] 当然のことながら、こうした「古くからの」選挙区の恩恵にあずかっていたのは広大な土地を有する地主や貴族たちでした。特に、イングランドと比べて土地価格が安いうえに、土地所有権に一定の制限が存在したスコットランドの選挙区では、有権者の数が少なく、一部の有力者に牛耳られた選挙区が多く存在しました。18世紀イギリスの選挙の状況について、WA・スペックは以下のように述べています。

 

18世紀イギリスの各州における権力の所在を目に見える形で示したのが選挙だった。州社会のリーダーだった貴族(訳注=狭義には、公・侯・伯・子・男の5段階の爵位保持者)や有力なジェントリ(訳注=爵位はないが、バロネット以下、ナイト・エスクワイア・ジェントルマンの4段階に分かれ、有爵貴族とともに土地所有を基盤とした支配層を形成した)は、巡回裁判や四季裁判所、あるいは特別に招集された集会で、次期議会で州選出議員となるべき候補者の一本化を図った。そこで全員の意見が一致すれば、選挙戦とはならなかった。州の有権者の大多数を構成する年価値40シリング(2ポンド)以上の自由土地保有者には、州の実力者たちが指名した候補に対立候補を立てることなど考えもおよばなかった。 

(WA・スペック著、月森左知、水戸尚子訳『ケンブリッジ版世界各国史:イギリスの歴史』創土社、2004年、pp.12-13. [文中、縦書きのため漢数字だった部分はアラビア数字に改めた。])

 

 一方で、新しい都市は発展しているにもかかわらず、議員選出のための特許状を得られないところが少なくありません。こうした矛盾が急激に顕在化したのが産業革命の本格化した18世紀末から19世紀初めごろでした。それまでせいぜい数千人程度の人口だった町が数万、数十万の都市に発展していくのに議員を選ぶことができないにもかかわらず、一方で田園地帯を拠点とする地主や貴族たちは自分たちの自由になる選挙区をいくつも持っていて国政に影響力を行使できるという事実は、新興の都市を基盤としている産業資本家をいらだたせます。このような行き過ぎた不公正が、1832年の第1回選挙法改正では改められます。腐敗選挙区は廃止され、選挙区の再編が行われたわけです。

世界史の単なる「暗記事項」として読み飛ばしてしまうとあまりイメージできない事柄も、より深く理解すると、「それがどのようなことなのか」、「なぜそのようなことが起こるのか」といったことが動きをもって生き生きとイメージできるようになり、むしろ記憶として定着すると思います。