2001年東大の問題は、エジプト5000年の歴史をわずか540字で書け、という設問でした。最近はあまり見ていませんが、東大は時々こうした「ある特定の地域の歴史的発展」について書きなさいという設問を出題していました。たとえば、1995年の「ローマ帝国成立からビザンツ帝国滅亡までの地中海世界」や1999年に出題された「紀元前3世紀~紀元15世紀にかけてのイベリア半島史」などがあります。また、少し毛並みは違いますが、イスラーム世界をテーマにかなり長い期間を設定してその歴史的展開を問う設問などもたびたび出題されています。

注意しておきたい点は、これらの設問のどれもが「世界史的視点」からその歴史的発展を問うものであって、ある特定の地域がテーマとなっているからと言って決して一国史的な視点から問われているものではない、ということです。本設問でも、周辺の政治勢力との関係が非常に重要な視点であることが明確に示されており、広域にわたって諸文明や異なる民族同士が交流や対立を繰り広げる中で、どのように歴史が展開されてきたのかという世界史のダイナミズムを問う東大の出題スタンスについては、近年の出題と比較しても大きなブレはありません。

エジプト史は、高校世界史でも比較的情報量が多い分野で、かつ複数の民族が入り交じる地理的な要地でもあります。ですから、相当に情報の取捨選択を行わないと、5000年の歴史的展開をわずか540字でまとめることは不可能だと思います。幸い、設問は「政治勢力の侵入」に対してエジプト側がどのような対処をしたのかと、テーマをかなり限定してきていますので、経済・社会・文化史的要素はかなりの部分省略することができます(政治的勢力の変遷にかかわる部分はその限りではありませんが)が、それでも、何がテーマとなっているのかを見落とすとただの情報の羅列になってしまったり、的外れな解答を書き上げてしまう危険性がありますので、論述を書き始める前に全体像をある程度は見定めておきたい設問かと思います。

 

【1、設問確認】

・エジプト文明発祥以来の歴史的展開を概観せよ

・エジプトに到来した政治勢力の関心や進出にいたった背景を考慮せよ

・進出をうけたエジプト側がとった政策や行動を考慮せよ

・指定語句(一度は用いて下線を付せ)

:アクティウムの海戦 / イスラム教 / オスマン帝国 / サラディン / ナイル川 / ナセル / ナポレオン / ムハンマド・アリー

18行(540字)以内

 

(ヒント)

・エジプトに到来した政治勢力=エジプトに深い刻印を残した勢力

 

【2、指定語句の整理(時代的な)】

:冒頭でもご紹介した通り、エジプト5000年の歴史をイチから全て描き出すことは容易ではありません。そこで、本設問については、指定語句をヒントにしてこれらを整序し、おおよその流れを組み立てた上で、どの分が抜けているかを検討するという方法が一番時間的なロスも少なく解答を仕上げられるのではないかと思います。時代順に並べ替えてみると、おおよそ以下のような形になるのではないでしょうか。

東大2001_エジプト史整理 - コピー

さて、この表を見てみると、次の①~⑤の点に気づきます。

 

①紀元前がすっぽり抜け落ちていること【重要】

②ローマ帝国~イスラームによる占領までが抜け落ちていること

③オスマン帝国によるマムルーク朝滅亡からナポレオンのエジプト遠征までが抜けていること

④近現代史がやや手厚いこと【わりと重要】

⑤ナセル以降のエジプト現代史が抜けていること(ただし、出題は2001年当時)

 

以上の点を考慮すると、大まかではありますが時代的なくくりは以下のようなものが必要になります。

 

A、エジプトの文明発祥~プトレマイオス朝の滅亡まで

B、ローマ帝国支配下~イスラームによる占領まで

C、イスラームによる占領~アイユーブ朝・マムルーク朝の統治まで

D、オスマン帝国による占領~ナポレオンのエジプト遠征まで

E、ムハンマド=アリーの自立~イギリスによる植民地化(保護国化)まで

F、イギリス支配~独立運動やナセルによるスエズ運河国有化まで

G、ナセル以降

 

そこで、次の手順ではこの抜けている箇所も含めて時代順に何を書くべきか、情報の取捨選択について検討していきたいと思います。

 

【3、時代ごとに書くべき内容を検討】

(A、エジプトの文明発祥~プトレマイオス朝の滅亡まで)

:この時期のエジプトについての大きな流れは「文明発祥」→「古王国・中王国・新王国」→「海の民の侵入」→「アッシリアによるオリエント統一」→「四国分立(メディア・リディア・新バビロニア・エジプト)→「アケメネス朝によるエジプト征服」→「アレクサンドロスの遠征」→「ヘレニズム時代とプトレマイオス朝」となります。東大受験を目指すのであれば、できればこれくらいの流れは頭の中で出せるようにはしておきたいところです。全部が難しくても8割くらいは思い浮かべられるようにしておくべきかと思います。

もっとも、これらをただ並べればよい、ということではなく、外部の政治勢力の関心や進出に注目してまとめるとすれば、以下のような内容になるでしょう。

 

① ナイルの恵みによる文明の発生

cf.)「エジプトはナイルの賜物」(ヘロドトス)

② 古代王朝の発生 

cf.) 都市国家(ノモス)の統一、ファラオ

③ ヒクソスの侵入 

cf.) 中王国の末期、騎馬と戦車を伝える

④ 新王国とヒッタイトの抗争 

cf.) カデシュの戦い、鉄器

⑤ 海の民の侵入

⑥ クシュ王国の侵入 

cf.) ヌビア(スーダン)の黒人王国、第25王朝

⑦ アッシリアのオリエント統一

⑧ アケメネス朝のエジプト征服 

cf.) カンビュセス2

⑨ アレクサンドロスの遠征 

cf.) アレクサンドリアの建設

⑩ プトレマイオス朝 

cf.) ヘレニズム文化、ムセイオン

⑪ ローマ(オクタウィアヌス)によるプトレマイオス朝の滅亡

cf.) アクティウムの海戦

 

(B、ローマ帝国支配下~イスラームによる占領まで)

:オクタウィアヌス(アウグストゥス)以降、エジプトはローマの属州となります。ここでおさえておきたいことは、エジプトが重要な穀倉地帯(小麦の生産地)となっていくことです。その後、395年にローマは東西に分裂しますが、その頃にはすでにローマ帝国の中心地は西のローマから東のコンスタンティノープルにうつっていました。476年に西ローマ帝国はオドアケルに滅ぼされますが、エジプトはそのまま東ローマ帝国の統治下にとどまります。この時代に書くべきことは、以下のような内容で十分でしょう。

 

① ローマ(オクタウィアヌス)によるプトレマイオス朝滅亡とヘレニズム時代の終焉

cf.) アクティウムの海戦、クレオパトラ

② ローマの属州

cf.) 穀倉地帯化(小麦の生産地)

③ 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下

 

(C、イスラームによる占領~アイユーブ朝・マムルーク朝の統治まで)

:エジプトに新たな支配者がやってくるのは7世紀の正統カリフ時代で、第2代ウマルの時にエジプトはアラブ人たちイスラーム勢力に占領されました。イスラーム勢力はジハードに際して各地に軍営都市(ミスル)を築きましたが、そのうちの一つがフスタート(後のカイロ)です。

その後、エジプトの支配者はウマイヤ朝、アッバース朝、さらにアッバース朝から一時独立したトゥールーン朝と続きますが、カイロを中心としたその後のエジプト支配の基礎が築き上げられるのはファーティマ朝がエジプトに侵入してからのことです。シーア派を信奉していたファーティマ朝は、自王朝の正当性を確保するためにカイロにアズハル学院を建設します。しかし、ファーティマ朝が11世紀頃から衰退を始めると、かわってスンナ派のアイユーブ朝がエジプトの支配者となります。この頃、その世界を膨張させ始めていた西ヨーロッパは第3回十字軍を派遣しますが、これはアイユーブ朝を建てたサラディンによって撃退されました。その後、アイユーブ朝からマムルーク朝へと王朝が引き継がれる頃にイル=ハン国のフラグ率いるモンゴル勢力がシリア、パレスティナあたりまで迫りますが、これをアイン=ジャールートの戦い(1260)で退け、その後はモンゴルを撃退した5代スルタンのバイバルスの下でまとめられていきます。アイユーブ朝、マムルーク朝の頃にはカイロを拠点として紅海からインド洋にかけて交易したムスリムのカーリミー商人たちが保護され、彼らはこの頃からエジプトの特産となった砂糖(サトウキビ)などを交易品として扱い、カイロはアッバース朝時代のバグダードに代わって政治・経済・文化の中心地となっていきます。また、彼らが扱う東方からの香辛料や絹織物、陶磁器などは北イタリア商人たちの東方貿易によってヨーロッパにももたらされました。

 

① イスラームによる占領

cf.) 正統カリフ時代(ウマル)、フスタートの建設

② カイロの繁栄

cf.) ファーティマ朝(シーア派)、アズハル学院、バグダードにかわる中心地

③ アイユーブ朝、マムルーク朝

cf.1) 第3回十字軍の撃退、アイユーブ朝(サラディン)、スンナ派

cf.2) モンゴルの撃退(ただし、モンゴルはエジプトまでは到達していない)

cf.3) カーリミー商人の活躍とカイロの繁栄、サトウキビの栽培、東方貿易

 

(D、オスマン帝国による占領~ナポレオンのエジプト遠征まで)

:マムルーク朝は16世紀の初めにオスマン帝国のセリム1世によって滅ぼされます。その後、エジプトはオスマン帝国の支配下に入ることになり、この地にはエジプト総督が置かれました。18世紀に入り、オスマン帝国の衰退がすすむ中で地方の自立が進みつつありました。こうした中で18世紀末に発生したナポレオンによるエジプト遠征はエジプト人の民族意識を刺激することになります。

 

① セリム1世によるマムルーク朝滅亡とオスマン帝国支配

② ナポレオンのエジプト遠征とエジプト民族意識の覚醒

 

(E、ムハンマド=アリーの自立~イギリスによる植民地化[保護国化]まで)

:ナポレオンのエジプト遠征が起こったころ、アルバニア人の傭兵隊長としてこれに対処して台頭したムハンマド=アリーは、カイロ市民の支持を背景に1805年にエジプト総督の地位につくと、独自の近代化策を打ち出します。それまでエジプトの統治を担っていたマムルークの一掃に成功した彼は、アラビア半島のワッハーブ王国を滅ぼし、スーダンにも遠征するなど、その勢力を拡大しました。ギリシア独立戦争ではオスマン帝国側について戦いましたが、その見返りとしてシリアを要求し、一時は支配下に入れるなど独立傾向を強め、最終的には第二次エジプト=トルコ戦争後のロンドン会議でエジプトとスーダンの総督世襲権を手に入れてオスマン帝国から独立し、ムハンマド=アリー朝が開かれました。

 その後、領内の近代化やインフラ整備が進み、フランスのレセップスの提案と支援により1869年にスエズ運河も開通しますが、こうした開発のためには外国資本が導入され、外債が積みあがっていきました。1860年代はアメリカの南北戦争の影響で綿花価格の乱高下など、コモディティの国際価格は不安定で、小麦、綿花、砂糖といった一次産品に依存する形の経済であったエジプトは、同様の経済体制であったオスマン帝国とともに1870年代に財政破綻します。この結果、1875年にイギリスはスエズ運河会社株を買収することに成功し、エジプトに対するイギリスの経済進出が進んでいくことになりました。

 

① ナポレオンのエジプト遠征とエジプトの民族意識の覚醒

② ムハンマド=アリーの台頭と自立化

③ エジプト=トルコ戦争とムハンマド=アリー朝の開始

④ スエズ運河の開通

⑤ 英によるスエズ運河会社株買収とエジプトの財政破綻

 

(F、イギリス支配~独立運動やナセルによるスエズ運河国有化まで)

:イギリスの経済支配が進むと、これに抵抗するエジプト人の民族運動が高まります。その結果、エジプトでは「エジプト人のためのエジプト」を掲げるウラービーの反乱(18811882)が発生しますが、これはイギリスによって鎮圧され、エジプトにイギリス軍が展開した結果、エジプトは事実上イギリスの保護国となりました。同時期には、スーダンでマフディーの乱(18811899)が発生していますが、本設問の対象は「エジプト」ですから、本設問では書かなくても良いかと思います。

 その後、第一次世界大戦の終わるころからエジプトではワフド党の民族運動が展開されます。こうした運動に対して、イギリスは1922年には条件付きでエジプトの独立を認め、1936年にはエジプトの完全主権を認めるエジプト=イギリス同盟条約を締結するなど、段階的なエジプトの独立を認めつつ、スエズ運河ならびにスーダンの駐兵権を維持して実利を維持しようと試みました。

1024px-Cairo-Demonstrations1919

Wikipedia「エジプト革命(1919年)」より、カイロでのデモ行動)

 

第二次世界大戦中にも、エジプトは基本的にはイギリスの拠点として機能しましたが、戦後のパレスティナ戦争(第一次中東戦争)でのアラブ諸国のイスラエルに対する敗北が強い衝撃となって、旧態依然とした王政に対する批判が高まり、エジプトではナギブ、ナセルらの率いる自由将校団によるエジプト革命が発生します。その後、ナギブとの関係が悪化したナセルはナギブを失脚させて軟禁し、ナセルが首相、次いで大統領に就任します。大統領に就任したナセルは、かねてから計画されていたアスワン=ハイ=ダムの建設費用のための融資が撤回された(イスラエルとの対立に加えて、当時、非同盟主義にたって第三勢力の一角となりつつあったエジプトは、武器供与に関する問題で西側諸国の一部と対立していた)ことをきっかけに、スエズ運河の国有化宣言を行いました。これを契機として発生したスエズ戦争(第二次中東戦争、1956-57)では、英・仏・イスラエルがエジプトを攻撃したものの、国際世論の批判に加えてソ連の介入と強硬姿勢を危惧したアメリカのアイゼンハウアーが国連を介して英・仏・イスラエルを批判して撤退を迫ったため、三国は撤退します。これによりスエズ運河国有化を実現して実質的勝利を収めたナセルの声望は増し、ナセルを中心とするアラブ民族主義の高揚がこのしばらく続くことになります。

 

① ウラービーの反乱

cf.) 「エジプト人のためのエジプト」、事実上の保護国化、マフディーの乱

② ワフド党の民族運動と段階的独立

cf.) 条件付き独立(1922)、エジプト=イギリス同盟条約(1936

cf.) ムスリム同胞団

③ 英のスエズ運河利権確保

④ 第1次中東戦争とエジプト革命

cf.) ナギブ、ナセル、自由将校団

⑤ ナセルのスエズ運河国有化と第2次中東戦争

cf.) アラブ民族主義の高揚

 

(G、ナセル以降)

:ナセルを中心に高まったアラブ民族主義でしたが、早くも1960年代には挫折に直面することになります。ナセルは、1958年にシリアと合同してアラブ連合共和国を成立させましたが、エジプト寄りの政策に失望したシリアが1961年にはこれを離脱し、合同は解消されていきます。また、1967年に発生した第3次中東戦争ではイスラエルの奇襲に敗れ、シナイ半島を失うなど、その領土を大きく減らすことになり、ナセルの名声は失墜します。

 ナセル死後、シナイ半島奪還を目指したサダト大統領でしたが、1973年の第4次中東戦争でもこれを果たせず、うち続く戦争によりエジプトの経済は疲弊しました。これを解決するためにサダトはアメリカへの接近と、それを通した外交交渉によるシナイ半島の回復を考えます。最終的にはアメリカのカーター大統領の仲介により、1978年のキャンプ=デーヴィッド合意がサダトとイスラエルのベギン首相との間でなされ、これに基づいて翌1979年にエジプト=イスラエル平和条約が締結されてシナイ半島の返還が約束され、順次返還されました。サダトは、この条約に反発したイスラーム主義組織によって暗殺されますが、その後成立したムバラク政権でも、アメリカ、イスラエル寄りの外交政策は維持されることになります。

 

【キャンプ=デーヴィッド合意の後、記者会見を行うカーター、サダト、ベギン(Wikipedia「キャンプ=デーヴィッド合意」より)】

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?title=File%3APresident_Carter%27s_Remarks_on_Joint_Statement_at_Camp_David_Summit_(September_17%2C_1978)_Jimmy_Carter.ogv

 

 さて、本設問がもし現在(2021年時点)で出題されたとしたなら、かつ字数が現在の東大で出題されるように600字の論述であるならば、ムバラク政権下で発生したアラブの春あたりまでを視野に入れた解答作りをする必要があるかと思います。ですが、本設問が出題されたのは2001ですので、書いてもエジプト=イスラエル平和条約あたりまでを想定しておけば良いかと思います。外部の政治勢力の進出について書くことが想定されていること、シナイ半島を奪われたことなどを考えれば、できれば第3次中東戦争には言及しておきたいところで、ナセルのスエズ運河国有化で終わるのはどうかなぁ、と思います。ただ、いかんせん字数が540字とかなりタイトなので(もっとも、この年はそれまでと比べてやや増量されているのですが)、情報の取捨選択によってはスエズ運河国有化で終わってしまってもやむなし、という気もします。大切なことは満点解答を作成することではなく、合格点に至る解答を作成することですから、各自の状況に応じて検討し、必要な点数を確保しに行くべきかと思います。

 

① アラブ民族主義の高揚と衰退

cf.) アラブ連合共和国、第3次中東戦争

② 第3次中東戦争(1967)の敗北とシナイ半島の喪失

③ サダト政権下の方針転換

cf.) 4次中東戦争(1973

キャンプ=デーヴィッド合意(1978

エジプト=イスラエル平和条約(1979

シナイ半島返還、アラブ諸国内での孤立化

第3次中東戦争戦争後_地域名入り
(第3次中東戦争までのイスラエル領土の変遷)

 

【解答例】

ナイル川により農耕の発展したエジプトでは、ノモスを統一したファラオの下で王国が築かれ、ヒクソスやヒッタイトと抗争しつつ発展したが、海の民襲来で衰退した。アッシリアやアケメネス朝支配の後、アレクサンドロスの遠征で築かれたアレクサンドリアは、ヘレニズム世界の中心として栄えた。アクティウムの海戦で勝利したオクタウィアヌスがプトレマイオス朝を滅ぼすと、重要な穀倉地帯としてローマ、ビザンツ経済を支えた。イスラム教勢力進出以降は、アズハル学院を築いたファーティマ朝、十字軍を撃退したサラディンのアイユーブ朝、モンゴルを撃退したマムルーク朝がカイロを中心地とし、カーリミー商人を保護してヨーロッパとも交易した。セリム1世の征服以降はオスマン帝国支配下に入ったが、ナポレオンのエジプト遠征で台頭したムハンマド=アリーの下で自立化した。財政破綻でスエズ運河会社を英に買収され、ウラービーの反乱鎮圧後に事実上の保護国とされてからは英に搾取されたが、エジプト革命後に実権を握ったナセルのスエズ運河国有化宣言から発生したスエズ戦争で英は撤退した。第3次中東戦争の敗北でアラブ民族主義が勢いを失った後には、サダトがシナイ半島奪還のために米に接近してエジプト=イスラエル平和条約を締結し、これを達成した。(540字)

 

指定語句が「イスラム教」でしたので、そちらは指定のままにしてあります。今なら「イスラーム」でしょうね。それにしても、キッツキツですねw ちなみに、とりあえず全部入れてみようかなとおもって何も考えずに書いた最初の解答例は950字くらいありましたw そらそうだよー、エジプト5000年の歴史だもん。500字で書いたら「1字=10年分」よ?東大さんも無茶言ってるなってことに気づきましょうね?多分、素直な人ほど苦労するタイプの設問だったんじゃないかなぁと思います。思い切って大胆に省略しちゃうことも大切ですよ!「ソ連」みたいにw