2002年の東大の大論述は、19世紀から20世紀にかけて海外に移住した中国系移民が増加した背景と、移住した人々の本国への政治的影響を問う設問でした。ちょうどこの21世紀に入る頃から、冷戦後の世界は冷戦終結直後に人々が思い描いたようなバラ色の平和な世界ではなく、民族紛争をはじめとして新たな諸問題に直面する時期なのだということがはっきりと意識され、それにともなって、民族問題のほかにこの移民・ディアスポラの問題が歴史学や社会学の分野でクローズアップされるようになったように思います。(もちろん、それ以前から研究はされていました。実際、私のエディンバラでのお師匠さんは移民史が専門の一つでした。ただ、一種の「トレンド」になって研究者の話題やメディアに登場する機会が増加してきたのは、ちょうど世紀の移り変わりの時期であったように思います。) 

さらに、2001年はいわゆる「9.11」の同時多発テロが発生した年でもありますので、その傾向はこれ以降加速したように思います。そうした影響か、最近では教科書や参考書、あるいは教員の意識なども「移民」というテーマには敏感になってきているので、おそらく現在の受験生でしっかりとした世界史の勉強をしてきた人がこちらの設問に取り組む場合、もちろん難しくはあるのでしょうが「さっぱりわからない」という感想を抱くことはあまりないはずです。ですが、2002年時点の受験生にとってこちらの設問はかなり解くのに苦労した設問だったのではないかと思います。後述しますが、指定語句からだけではストーリーを明確に描くことができないため、自分自身の知識と力である程度のストーリーや大枠を作ることが必要になるのですが、当時の受験生でこうしたストーリーを作れた人は稀だったのではないかと感じます。同一の問題でも出題された時期や解く人間によって難易度が変化する一つの良い例ではないでしょうか。

 

【1、設問内容確認】

・時期:19世紀から20世紀はじめ(1801-190?

・中国からの移民が南北アメリカで急増した背景

・中国からの移民が東南アジアで急増した背景

・海外移住者が中国本国の政治的動きにどのように影響を与えたのか
・15行以内(450字)
・指定語句
 植民地奴隷制の廃止 / サトウキビ・プランテーション / ゴールド・ラッシュ / 海禁 / アヘン戦争 / 海峡植民地 / 利権回収運動 / 孫文

 

:「はじめ」という表現はいささかアバウトです。「前半」であれば50年なのですが、「はじめ」といった場合、どこまでなのかはっきりしません。ただ、1950年により近くなる1930年代や40年代まで入るとすれば、「前半」や「半ば」といった表現が妥当となりますので、長くとも20年代に入るか入らないかくらいまでと考えてよいでしょう。指定語句に「孫文」があることや「中国本国の政治的動き」などが設問に示されていることから、おそらく辛亥革命の前後あたりまでになるかと想定しておくとよいかと思います。

 

【2、整理(移民のpush要因とpull要因を意識する)】

:さて、指定語句自体には時系列をはっきり示すものやストーリーを示すものはあまりありません。やや散文的といってよい指定語句ですから、指定語句をベースにしただけでは全体像はつかみにくいかと思います。そこで、ここでは南北アメリカならびに東南アジアへ移民が増えた原因として、移民側が中国から移住したがった理由(Push要因)と、移住先が移民をひきつけた理由(Pull要因)に分けて検討してみるのが良いかと思います。

 

① 共通の背景

・アヘン戦争後の開国(海禁の崩壊)と中国人の海外渡航の自由化

・アヘン戦争後の政情不安や経済混乱

・買弁をはじめとするブローカーによる移民契約

 

:清の海禁は、基本的には鄭氏台湾の平定された翌年に遷海令が解除されたことでなくなりましたが、民間人の海外渡航は厳重に管理されており、渡航する乗員の身元や数、渡航期間などはチェックされ、自由に海外に渡航できたわけではありませんでした。また、18世紀には人口流出を防ぐ目的から東南アジアへの渡航が禁止(南洋海禁)され、ヨーロッパとの交易も乾隆帝の時代に広州一港に限定されました。しかし、アヘン戦争とその講和条約である南京条約で5港が開かれたことで、中国人の海外渡航を阻む制限は実質的になくなりました。(清政府は中国人の海外移住を禁止していましたが、南京条約、虎門寨追加条約、望厦条約、黄埔条約などで欧米の諸特権が認められ、特に領事裁判権が承認されたことで、外国商人が中国人を拐かす行為を取り締まることは難しくなりました。)

南京条約の開港場

(赤い文字が開港場、青い文字の香港は割譲地)

 

また、アヘン戦争後には江南で太平天国の乱、華北では捻軍の乱が発生するなど政情不安が続き、さらに1856年にはアロー戦争が開始されます。こうした政情不安が続く中で当然経済も混乱し、生活苦にあえぐ農民たちは外国商人によって表向きは自由契約の契約移民などとして、労働力とされるために海外へと移住していきました。こうした苦力貿易には、ラッセル商会などの外国商人や、外国商人の手助けをする買弁とよばれる中国人商人の存在がありました。当時の苦力貿易が必ずしも「自由」契約でなかったことは、1852年に発生したロバート=バウン号事件(中国人を運ぶアメリカの奴隷貿易船で虐待された中国人が反乱を起こして石垣島に漂着した事件)や、1872年のマリア=ルス号事件(横浜に停泊中のペルー船マリア=ルス号から奴隷扱いされた中国人が逃亡し、日本側に保護された事件)などからもうかがい知ることができます。

OE_Taku

(マリア=ルス号事件で裁判長として清国人232名を解放した大江卓[Wikipediaより]

 

② 南北アメリカで急増した背景

(北アメリカ)

 ・ゴールドラッシュ

 ・南北戦争と奴隷制廃止

 ・南北戦争後の急速な経済発展と安価な労働力の需要

 

(カリブ海)

 ・英領植民地における奴隷制廃止

 ・サトウキビ=プランテーションにおける労働力不足

 

(南アメリカ)

 ・ラテンアメリカ諸国の独立と奴隷制の廃止

 ・鉱山やプランテーションの労働者として(ex.ボリビアの鉱山労働者など)

 

:北米のゴールド=ラッシュや大陸横断鉄道建設に際して、クーリー(苦力)の労働力としての需要が高まったことは世界史の教科書や参考書等でもよく言及されておりますので、そのあたりについては基本事項かと思いますが、設問では北米だけではなく「南北アメリカ」となっておりますので、北米の事情だけを書いたのでは不十分です。そのため、当然南アメリカ(または、この場合当然中米も含むと考えるのが妥当かと思いますので、中南米)の状況についても言及しなければならないのですが、意外に19世紀の中南米の状況について言及している教科書や参考書がないのですね。ですから、この部分についてはある程度の根拠に基づいた類推で書くことが必要になるかと思います。事実から言えば、イギリスが1807年に奴隷貿易を廃止し、1833年に奴隷制度を完全廃止したことにともない、カリブ海における英領植民地でも奴隷制度が廃止されます。その結果、ジャマイカをはじめとするサトウキビ=プランテーションの労働力としてアジア系労働者の数が増えていきます。また、ラテンアメリカ諸国でも、1888年まで奴隷制を継続するブラジルなどを除いて、多くの国で奴隷制が廃止されます。その結果、鉱山やプランテーションの労働力として中国人労働者が連れてこられるようになります。上述したマリア=ルス号事件の船もペルー船籍でした。(

この事件は日本政府が国際裁判の当事者となった初めての事例と言われており、ペルー政府との間で争われましたが、最終的にはロシア皇帝アレクサンドル2世の仲介による国際仲裁裁判が開催され、日本側の措置を妥当とする採決が下されました。)

 

③ 東南アジアで急増した理由

(英領植民地:海峡植民地から発展しつつあったマレー連合州[1895]

 ・植民地経営(錫やゴム)

 ・華僑資本の進出

 

(オランダ領東インド[インドネシア]

 ・植民地経営への転換

1830以降の強制栽培制度

19世紀後半にはプランテーション経営へ[コーヒー、サトウキビ、藍など]

 

(その他)

 ・米領(旧スペイン領)フィリピン、仏領インドシナなど

 

:東南アジアについても、世界史の教科書などでクーリーなどの移住について直接言及している箇所はほとんどないですが、これらの地域についてはマレー半島の英領植民地や、オランダ領東インドなど、プランテーションや鉱山採掘などの植民地経営がなされている地域がたくさんありますので、それらの地域の実態を書きつつ、移民が増加したことを指摘してあげればよいでしょう。特に、英領マレーの錫鉱山やゴムのプランテーションと、複合社会(イギリス人、中国人、インド人、マレージン)の形成や、蘭領東インド(ジャワ島)の強制栽培制度[政府栽培制度]からプランテーション経営への転換などは重要です。

注意しておきたいこととしては、ジャワ島でファン=デン=ボスが導入したとされる強制栽培制度は、「現地住民に指定の農作物(コーヒー、サトウキビ、藍など)を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げる」制度で、ここにクーリーの入りこむ余地は基本的にはありません。(実態面では、半ばプランテーション化した地域などへの移住者等はいたかと思いますが。)栽培の強制のされ方自体にはいろいろな形態があったようですが、おおよそ村落ごとに5分の1程度までの耕地がこれら商品作物の栽培のために利用されたと考えてよいようです。この制度は商品作物を安価に仕入れて転売することができたオランダ当局に大きな利益をもたらしはしましたが、非効率的で、かつ現地の食糧事情などを考慮せずに実施したことがもとで飢饉などを引き起こしたことから批判が高まり、1870年代には廃止され、新たに私企業がプランテーションを経営する方式に切り替えられていきます。実際には、この変化は1870年代に急に進んだのではなく、すでにそれ以前から徐々に進んでいた変化であろうとは思いますが、形式上は、プランテーション経営への切り替えがあって初めて中国からの労働力供給が問題となりますので、「強制栽培制度により中国人移民が増加した」と書くのは避けて、「強制栽培制度に代わりプランテーション経営がなされた結果、中国人労働者の需要が増した」とする方が、理屈の上ではすっきりします。

また、マレーやジャワ以外の地域でということであれば、フィリピンやフランス領インドシナを想定するとよいかと思います。

 

④ 海外移住者の中国本国の政治的動きに対する影響

:この設問の一番の問題点がこの部分かと思います。出題者が意図しているのかどうかはわからないのですが、「海外に移住した中国の人々」は全く同じような立場だったわけではありません。当時、海外に移住していた中国人は大きく分ければ以下のように分類できるかと思います。

 

A、設問の指定時期以前からの海外移住者(南宋以降の南洋華僑[12-16世紀]

cf.) 「南洋」とは、浙江省以南の福建省や広東省を指す

(華北の北洋[遼東・直隷・山東]に対する語)

B、19世紀以降クーリー(労働者)として渡航したもの

C、19世紀以降海外(特に東南アジア)に進出した中国資本

 

これらのうち、Aについては、地縁、血縁を利用した交易活動に早くから従事していました。しかし、清朝の時代に入ると海禁が厳格化されたために対立の原因となり、反清傾向を強めていきます。本設問の「海外に移住した人々」がこれらの人々を含むかという問題ですが、その直前に「19世紀から20世紀はじめに中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景には」とありありますので、時期的に「含まない」と考えるのが妥当でしょう。

一方、Cはいわゆる民族資本家として成長していきます。通常、民族資本家とはその土地に住む土着資本のことを指しますが、この時期に東南アジアに移住した華僑については、完全に本国との関係を断つのではなく、本国にも多くの血縁、地縁に基づき密接な関係を残している資本家が多いため、民族資本家と表現しても差し支えはないかと思います。民族資本家と表現するのが気持ち悪い場合には「華僑」の語を用いても良いかと思いますが、上記のようにひとことで「華僑」と言っても、その内容は一様でないことには注意を払うべきでしょう。

さて、AやCは移住してきたBを吸収して現地社会におけるコミュニティを強化し、影響力を拡大していきます。AもCも経済活動の自由を求め、また当時の清の方針と対立していたことから様々な形で反清運動や反植民地運動に協力することになります。こうした中で、資金面や人的資源の面などから、孫文の率いる革命運動の支援や中国における利権回収運動などを支援していくことになります。これが、辛亥革命(1911)へとつながっていくことになります。

 また、「海外に移住した人々」は商売を目的としたり、労働力として移住した人々以外にも、日本などに留学した留学生が多数おりました。1905年に科挙制度が廃止されたこともあり、清では西欧式の教育を導入するとともに留学を奨励しました。1900年代の清国では日本に留学する人々があとを絶たず、辛亥革命直前には数万人が日本で留学していたとされています。こうした留学生の多くは、留学先で新しい思想に触れる中で革命思想に傾倒する人が増えていきます。中国同盟会成立時には、その会員の大部分が日本で学ぶ留学生でした。孫文だけでなく、華興会を作って中国同盟会に合流した黄興、後の国民党指導者である宋教仁、国民党左派として後に蒋介石と対立する汪兆銘など、辛亥革命に際して重要な役割を果たした指導者の多くは日本への留学経験者でした。ですから、海外に移住した人々が本国の政治に与えた影響としては、以下の2点を中心に具体例を交えて書けば良いかと思います。

 

・華僑による革命運動支援

:資金面、人脈面での革命組織支援、利権回収運動などへの資金提供

・留学生による革命運動の指導

:孫文による中国同盟会結成(1905)など

 

【解答例】

 アヘン戦争後の海禁崩壊で中国人の海外渡航が可能となり、太平天国の乱やアロー戦争で政治と経済の混乱が続き、買弁などの仲介者が移民契約を進めたことから、海外渡航者数が増加した。北米のゴールド・ラッシュ、南北戦争後の奴隷制廃止と急速な経済発展、大陸横断鉄道敷設などはクーリーと呼ばれた中国人労働者をひきつけた。中南米の旧スペイン領やカリブ海の英領植民地奴隷制の廃止によりサトウキビ・プランテーションや鉱山労働者の需要が増加した。東南アジアでも、当初強制栽培制度を実施したオランダが19世紀後半からコーヒー、サトウキビ、藍などのプランテーション経営に切り替えたことや、海峡植民地から発展したマレーの英領植民地でゴム栽培や錫採掘の進展したことから、増加した中国人労働者をすでに同地に居住していた南洋華僑が組み込みコミュニティを形成した。光緒新政が進む中で留学生も日本などに移住した。成長した華僑や留学生は、啓蒙運動や利権回収運動などを支援し、孫文の中国同盟会結成などの革命運動の力となり、辛亥革命の一因となった。(450字)