冷戦の展開の話をするときには、とかくマーシャル=プランとか、コメコンとか、NATOとかワルシャワ条約機構とか、分裂国家とかいうテーマに目が行きがちです。もちろんそれらも大切なのですが、そうした燦然ときらめく重要事項の中に一人ぽつんとたたずんでいるかのように見えるヤツがいます。そう、チェコスロヴァキアクーデタ(1948)です。ですが、このチェコスロヴァキアのクーデタは実は結構な重要事項、冷戦構造を形作っていくきっかけの一つであり、いろいろなことと結びついています。何より、出題頻度が高い。早慶などの難関校では、特に正誤問題や並べ替え問題などの常連さんです。ここをしっかりおさえているかで点数に差がつくことも少なくない。
第二次世界大戦期には、ミュンヘン会談(1938)だの、その後のドイツの支配だのでけちょんけちょんにされたチェコスロヴァキアですが、戦後にはミュンヘン会談後に亡命していた大統領ベネシュの下、再度議会制民主主義が復活し、非共産党系政党と共産党との連立政権が成立します。ところが、アメリカの出した欧州復興計画であるマーシャル=プランが打ち出されると、この受け入れをめぐって共産党が反発し、他勢力との対立が起こります。ソ連の後押しを受けた共産党は大衆を動員してデモ活動を行い、政府に圧力をかけます。共産党の様々な圧力に抗議した連立内閣の非共産党系政党の閣僚12名は、抗議の意思を示すため、ベネシュが受理しないであろうことを想定して辞表を提出しますが、国内の分裂と内戦、またソ連の介入を恐れたベネシュはこの辞表を受理してしまうんですね。これにより共産党勢力からなる政権が成立し、さらにその後の総選挙で共産党系の諸政党が圧倒的多数の得票を獲得したことを受けて、ベネシュは大統領を辞任しました。ベネシュはその数か月後に亡くなります。ベネシュはすでに1947年に脳卒中を患っており、その後も高血圧等の持病に悩まされて健康状態は非常に悪かったと言われています。どうもミュンヘン会談を含めていまいち根性入ってないように見えるベネシュですが、チェコスロヴァキアクーデタ当時にはこうした健康状態も影響していたのではないかと言われます。
いずれにしても、一時はマーシャル=プランを受け入れるかに見られていた議会制民主主義国家チェコスロヴァキアが、急転直下共産化してソ連の影響下に入ることとなったことは、チャーチルをはじめとする西側首脳にとってはとんでもない衝撃でした。このことが、英・仏・ベネルクス三国による西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約:1948)という集団安全保障を結ぶにいたります。これがのちにアメリカを巻き込んで拡大すると北大西洋条約機構(NATO:1949)になるわけです。
ですから、このチェコスロヴァキアクーデタは、①マーシャル=プランをきっかけとし、②東西冷戦が避けられないと西側諸国に明確に知らしめ、③西ヨーロッパ連合条約締結のきっかけとなる、とかなり重要な位置を占める出来事になっています。ところが、これがストーリーとして理解できていないと並べ替え問題などには太刀打ちできないんですね。チェコスロヴァキアクーデタも西ヨーロッパ連合条約も1948年ですから、年号で覚えようとしてもどうにもなりません。現代史は情報量が多くそれぞれの出来事の間も詰まっていますから、現代史ほど年号ではなくストーリーで前後関係を把握することが大切です。チェコスロヴァキアクーデタをめぐる出来事の流れとして、少なくとも以下の流れはしっかりと確認しておくとよいでしょう。
①マーシャル=プラン
②チェコスロヴァキアクーデタ(共産党独裁の成立)
③西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)
④さらにNATOに拡大
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