【難関大】

 中国史は多くの王朝が交代するために受験生にはなかなかまとめにくい部分かと思いますが、なかでも魏晋南北朝時代は多くの王朝が入り乱れているわりに一つ一つの事柄についてのイメージがしにくく、受験生は手薄になりがちな箇所です。ですが、この時代の中でも北魏の歴代皇帝とその事績、中でも太武帝孝文帝については色々な私大の設問で出題される隠れた頻出箇所ですので、ここをおさえておくと他の受験生に一歩差をつけることができると思います。

太武帝については華北統一(439年)と道教国教化、孝文帝については漢化政策と均田制あたりを軸に肉付けしていくと良いでしょう。元々は鮮卑という北方遊牧民だった北魏が、孝文帝の頃には漢化して北方の拠点平城を捨て漢民族の政治の中心地洛陽に都を移し(494年)、農耕民族の支配を円滑に進めるために均田制や三長制を導入したというようなイメージ、ストーリーを描いておくと記憶に残りやすいかと思います。

また、北魏は文化面においてもよく出てくる部分です。以前ご紹介した敦煌・雲崗・竜門の石窟寺院のうち、雲崗と竜門はそれぞれ北魏の頃に造営が開始され、平城・洛陽の郊外にあります。さらに、酈道元の著した『水経注』(中国各地の河川についての注釈書)、賈思勰の著した『斉民要術』(現存する中国最古の農業技術書)も頻出ですが、これも「遊牧民だから慣れない土地の水利や、農業技術についての実用書が必要だったのかなぁ」というようにイメージしておけば北魏と結びつけやすくなります。(実際にそうだったのかは別として)

画像1

北魏の主な皇帝一覧