2021年の上智TEAP利用の問題でリード文に選ばれたのはロシアのユーラシア内陸部(中央アジア)における南下とイギリスとの対立、いわゆるグレートゲームを扱った文章でした。このテーマについては、東大がかなり真正面から取り扱った設問が2014年に出題されていますので、こちらの解説が参考になるかと思います。また、ロシアの南下政策や東方問題についてもこちらで解説しています。もっとも、上智のこの年の設問で問われている内容はロシアの南下政策とイギリスとの対立そのものではありません。ただ、小問の方ではそれに関連して身につく知識で解けるものが多く出題されておりますし、最後の論述問題についても英露の対立の状況を理解している方が書きやすいかなと思います。いずれにしても、ロシアの南下は19世紀史の一大テーマなので、他大の受験を併願することを考えても、うろ覚えにすることなくしっかりと確認しておくにこしたことはないでしょう。

この年の設問として非常に興味深かったことは、最後の論述問題が世界史の知識と本文、設問をベースとしつつも、基本的には受験生自身の言葉で書かせることを目的として出題されているという点でしょう。この点については、上智大学の2020年TEAP利用型世界史で出題された「香料と霊魂」について「解答者自身の考えを述べよ」とした設問と同じ流れをひいているかと思います。ただ、2021年の設問では、ある文章の段落末尾の文章を受験生に作らせるという形式であり、さらにこの文章に加えて「冒頭の問題文(リード文)の論旨を踏まえよ」となっていますから、受験生自身が文章を作る反面、その内容については完全な自由回答ではなく、一定の基準の中で解答を作成することが要求されています。この点、ほぼ解答者の自由回答となっていた2020年の論述問題とは大きく異なります。(2020年問題は「香料と霊魂」といった受け止められ方が一般になされているのはなぜか、という点については暗黙のうちにリード文等を参考にすることが求められていますが、その後の「解答者自身がそのような受け止め方に対してどのように考えるか」という部分については特に問題文を参照にしろなどの指示は出ておりませんので完全な自由回答です。) 2020年と違い、2021年の問題では解答作成のための基準・指針が示してあることになりますので、ある意味安心して解答を作成できることになります。いずれにしても、大学側としては「受験生自身の情報整理能力と文章作成能力」を見たいと考えていることは明らかで、そのための出題が2年連続で続いたことになります。まだ2年しか続いていないので、2022年の問題もそうなるかは未知数ですが、同じ形式の出題が出てきたときに戸惑わないようにしておく必要はあると思います。

その他の形式には大きな変更はなく、小問が5題、200字論述が1題、300字論述が1題の90分試験でした(2020年は小問6、200字論述1,350字論述1の90分試験)。 小問の内容は2020年の問題と比べるとかなり易化しているように思いますので、1問の取りこぼしもないようにしたい設問です。論述問題のうち、200字論述についてはすでに何度か他大でも出題されているもので目新しいものではありませんし、テーマとしても難しいものではない標準的な設問です。受験生の間で差がついたとすれば、やはり最後の300字論述でしょう。こちらの論述は単なる英露対立ではなく、カフカースやトルキスタンといった中央アジア地域における地域秩序の本来の姿がいかなるものであったかを、同地域における少数勢力の抵抗運動を参照しながら説明する必要があり、高校世界史で通常学習する知識に加えて、リード文や設問の説明文など色々な情報を取り入れ、整理する必要のある設問です。あまり抽象的になってしまうととりとめのない文章になってしまうので、適度に具体例なども示す必要があり、要求されている内容は(知識面というよりは文章を作る力という面で)かなり高いと思います。こうした設問に対応するためには、普段から論述問題や、その他文章を書くことに慣れておく必要があるでしょう。

 

【小問(設問1、⑴~⑸)】

設問1

問⑴ a

:クリミア半島がロシアの支配下に入るのはエカチェリーナ2世(在:1762-1796)の時で、ピョートル1世(在:1682-1725)の時ではありません。ピョートル1世の時にはたしかにロシアの南下政策の端緒が開かれますが、この時の進出は黒海北岸のアゾフ海まででした。

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 これに対し、クリミア半島を支配下に置いたのがエカチェリーナ2世でした。同地の領有を目指したエカチェリーナ2世はトルコに宣戦を布告して勝利をおさめ、1774年にはキュチュク=カイナルジャ条約(キュチュク=カイナルジ条約)で講和し、オスマン帝国はクリミア半島に存在した属国クリム=ハン国に対する宗主権を喪失します。この結果、クリム=ハン国に対するロシアの影響力は急速に高まり、エカチェリーナ2世の愛人であったグリゴリー=ポチョムキンの進言によってクリミア半島併合(ロシアによる直接統治)が決定・実行されました(1783)。

 

問⑵ b

:アレクサンドル2世(在:18551881)は1861年の農奴解放令で良く知られています。クリミア戦争(18531856)中に亡くなったニコライ1世にかわって皇帝となったアレクサンドル2世は、クリミア戦争の敗北でロシアの後進性が明らかとなると、ロシアの近代化を目指した諸改革を進めます。内容的には不十分であったものの、農奴解放令はロシアで産業革命が始まる原動力となりましたし、地方の自治機関であるゼムストヴォの設置によって地方レベルではより広い範囲の人びとが政治に参加することになりました。しかし、こうした諸改革は1863年に起こったポーランドの反乱(一月蜂起)をきっかけに後退し、アレクサンドル2世の政策は反動化したというのが一般的な理解となっています。(もっとも、これについては諸説あります。)

ですから、bの文章の「一貫して自由主義的であった。」の部分が誤りとなります。念のため、山川の用語集と『詳説世界史研究』(山川出版社)の該当箇所のみ引用します。

 

 「アレクサンドル2世」の項目より

 …63年のポーランド反乱鎮圧後も改革は進められたが、次第に反動化した…

  (全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集:改訂版』山川出版社、2018年版)

 

  …631月、革命派の主導で武装蜂起が始まり…ロシアは軍を派遣して蜂起を制圧する一方、…1866年、革命派の青年カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件が起こると、政府は反動的姿勢を強めた。

  (木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.334

 

実は、このアレクサンドル2世の改革とポーランド蜂起に関するくだりは、以前の詳説世界史研究と比べて大幅に加筆・修正が加えられたところです。19世紀の東欧各国の状況についてはかなり詳しい解説が加えられており、これまでの画一的な理解に対して最新の研究動向を踏まえての記述となっているので注意が必要です。ロシアのこの部分についても、アレクサンドル2世の改革を単に「反動化した」で片付けていいのかという視点から、多角的に丁寧に述べられているように思います。ただ、こうした微妙な記述の変化が教員や受験生の間に浸透するには時間がかかりますし、アレクサンドル2世の改革が一定のレベルで後退したことも事実です。また、用語集にもある通り基本的には反動化したと考えられていますので、本設問ではbを誤り(正解)として選ぶのが妥当かと思います。

 

問⑶ c

:インド大反乱(18571859)中の1858年にムガル帝国が滅亡したことならびに東インド会社が解散させられたことは基本事項です。そのため、cの文の「イギリス東インド会社は従来の活動を継続した」は誤りです。

 

問⑷ b

:イギリスは19世紀の2度にわたるアフガン戦争でアフガニスタンを保護国としますが、当時のアフガニスタンはイギリスの進行にかなり激しく抵抗し、一部においては勝利を収めるなどしており、イギリスがアフガニスタンを保護国化できたのは外交交渉の部分も大きいものでした。そのため、イギリスによるアフガニスタン支配の基盤はかなり弱く、第一次世界大戦でイギリスの余力が失われるとアフガニスタンは1919年にイギリス領東インドに逆侵攻を開始し、戦闘の末、イギリスとの交渉によって外交権を回復し独立を達成します。つまり、アフガニスタンは1919年の段階ですでに独立国となっておりますので、二次大戦後までイギリスやロシアの勢力争いの舞台になる理由が(本当はないことはないのですが)ありません。

 また、第二次世界大戦後のイギリスは国力を大きく衰退させ、中東やアジア方面への支配力を失っていきます。たとえば、アメリカ合衆国がギリシア・トルコへの支援表明を行ったトルーマン=ドクトリンは、同地域への影響力行使をイギリスが放棄したことがきっかけでした。(英の支援が途切れたことで同地域が共産化することを防ごうとしたもの) また、イギリスはパレスティナ地域についても手に余って国連に丸投げ(国連のパレスティナ分割案)しますし、インド・パキスタンの独立も認めていきます。こうした文脈が理解できていれば、直接アフガニスタンの状況を世界史で習っていないにしても、「イギリスとロシア(ソ連)の間でアフガニスタンへの支援競争が続いた」という文章が極めて不自然であるということには気づけるはずです。

 

問⑸ c

:ソ連の承認が最も遅かった主要国はアメリカ合衆国です(1933年に承認)。イギリスのソ連承認はマクドナルド労働党政権が成立した1924年、日本のソ連承認は日ソ基本条約の締結された1925年です。当時日本では大正デモクラシーが盛り上がりを見せて政党内閣が続いていた時期であり、関東大震災後の不況やアメリカにおける排日移民法制定(1924)を受けて経済回復を図る必要のある時期でした。こうしたことが日本のソ連承認を認めた背景にありましたが、同時に共産主義の高まりを恐れる当局は同年に治安維持法を制定(加藤高明内閣)して、国内の共産主義者の取り締まりを強化していきます。

 

設問2(論述問題、150字~200字)

【1、設問概要】

・二重波線部(綿花)について、

① 1860年代のロシアにおける供給不足の原因を含めて論述せよ

② 19世紀を通じての国際的な綿花生産・供給の事情を論述せよ

・指定語句

 アメリカ / インド / 産業革命 / 南北戦争

 

【2、ロシアにおける供給不足の原因】

:ロシアにおける綿花の供給不足の原因を直接的に世界史の教科書や授業の中で学習することはありませんが、1860年代の綿花不足がアメリカの南北戦争にあったことは近年よく出題されるようになりました。また、南北戦争がアメリカ南部の綿花生産に打撃を与えたことによって、インドやエジプトがそれにかわる綿花供給地となったこと、南北戦争の開始と終結が綿花国際価格の乱高下につながったことなどについても参考書等で言及されるようになっています。

 

 …南北戦争がアメリカでの綿花生産に大きな打撃を与えたことから、インドでは空前の綿花ブームが生じた。ブームは短期間で終わり、その後深刻な不況がおそったが、ブーム中に商人たちによって蓄えられた資金が工場制の綿製品生産にも向けられることになった…

(前掲『詳説世界史研究』、p.376、インド製造業の発展に関する文章で) 

 

【3、19世紀を通じての国際的な綿花生産・供給の事情】

19世紀前半における綿花の主要な供給地はアメリカ合衆国南部です。ホイットニーの綿繰り機発明(18世紀後半)以来、アメリカ南部では綿花プランテーションが拡大し、同地域はコットン=ベルトを形成していきます。一方、1813年に東インド会社のインド貿易独占権が廃止をされたことを機に、インドには産業革命で機械化された安価なイギリス制綿布が大量に流入し、手作業で作られるインド綿工業は壊滅的な打撃を受けます。これにより、インドは綿織物の生産地ではなく、原料となる綿花の供給地へと変貌を遂げていきます。

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(『世界史B』東京書籍、2016年版、p.324より引用)

 インドへのイギリス産綿布輸出が拡大していった背景には、それまでイギリス産綿布を輸入していた欧米諸国で産業革命が進み、自国で綿製品を生産し始めたことなども影響しています。アメリカ合衆国は1812年~1814年の米英戦争をきっかけに北部の工業化が進んで英経済から自立していきますし、ヨーロッパでも1830年ごろからベルギーやフランスなどで産業革命が進んでいきます。下の表を見ると、イギリスの綿布輸出先が欧米諸国から「低開発地域」へと急激にシフトしていく様子がわかります。この場合の「低開発地域」というのはインドをはじめとするアジア地域などでした。

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1861年に南北戦争が発生すると、綿花供給地であるアメリカ合衆国南部の生産・輸出が打撃を受けたことから国際的な綿花価格が急騰し、南部にかわる綿花の安定供給地が必要となりました。これを主に担ったのはインドでしたが、さらにエジプトも合衆国南部にかわる綿花供給地としての役割を果たしていきます。(下の表の「地中海地域」の割合が60年代後半に急上昇しているのはエジプトからの輸出が急増したためです。)

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(※ただし、なぜか1806-10に限り、合計が100%を超えてしまう。)

 

ですから、19世紀の国際的な綿花生産・供給の事情について押さえておくべきことは以下の点になります。

① アメリカ南部の綿花プランテーションが最重要の供給地であったこと

② 19世紀前半頃からインドが重要な綿花供給地となっていたこと

③ 南北戦争で南部からの綿花供給が急減したことが綿花の国際市場を動揺させたこと

④ ③により、インドやエジプトなどの綿花供給地としての重要性が増したこと

 

また、リード文中にはロシアのフェルガナ地方への進出が綿花不足を補うことを目的としていたことが示されていますので(本文第8段落を参照)、高校世界史の学習内容を越えてくる内容ではありますが、これについても言及してよいかと思います。フェルガナ地方には当時コーカンド=ハン国がありましたが、これが隣接していたブハラ=ハン国やヒヴァ=ハン国とともにロシアの支配下に置かれるのは1860年代後半から1870年代にかけてのことでした。

フェルガナ - コピー

フェルガナ地方の位置

 

【解答例】

英の産業革命の本格化で綿花需要が高まると、アメリカ合衆国南部は奴隷制に依拠した綿花プランテーションにより主要な綿花供給地となった。その後、東インド会社のインド貿易独占権廃止で英産綿布が大量に流入し、綿工業が壊滅したインドも生産を拡大した。南北戦争で合衆国南部が打撃を受けるとインドやエジプトなどがシェアを拡大したが、国際価格が乱高下し露への供給は滞ったため、露は綿花生産地のフェルガナ地方へ進出した。200字)

 

設問3(論述問題、250字~300字)

【1、設問概要】

・冒頭の問題文と以下の文の論旨を踏まえ、「このように」で始まる段落の末尾の空欄に入る文章を完成させなさい。

250字から300

 

(「冒頭の問題文(以下、リード文または文章Aとする)」の概要)

:本設問のリード文については、その冒頭で「ロシアからの視点を中心に、19世紀の国際関係の動向やユーラシア内陸部における大国と少数勢力との関係についてまとめたもの」となっていますが、実際にはその内容の半分近くはロシアの南下政策とこれに対立するイギリスの対応について書かれたものです。これについてはいわゆる世界史の勉強で学習する内容ですので、ここでは言及しません。一方、本設問でより重要なのは、後に示します通りカフカ―ス地方やトルキスタンにおける少数勢力の活動の実態の方です。そこで、このリード文(文章A)で示されている少数民族に関連する情報をまとめると以下のようになります。

 

① 18世紀以降のロシアのカフカ―ス地方への進出は、オスマン帝国支配下で同地に住むイスラームを信奉する様々なエスニック集団(民族集団)にとって、自分たちの従来の生活や信仰が制約される可能性があることだった。

② ムスリムが退いた土地にはロシア帝国拡張の尖兵としてコサックが定住した。

③ クリミア戦争敗北はロシアの関心をユーラシア内陸部(トルキスタン)へと向けたが、ロシアの出身者がトルキスタンの諸勢力に拉致、拘束される事例がたびたび見られたことはロシアの同地への勢力拡張を正当化する論拠となった。

④ ロシアのトルキスタンへの進出はムスリムの抵抗や過酷な自然環境に妨げられたが、鉄道の敷設などを通して19世紀後半には同地の支配が確実なものとなった。

⑤ ロシアのトルキスタン進出の背景には、綿花の供給不足を補うため一大生産地であったフェルガナ地方をおさえる実利的目的が存在した。

(⑥ アフガニスタンでもイギリスからの自立を目指す動きが続き、20世紀に入ってようやく独立した。)

 

ここで、アフガニスタンをカッコつきにしてある理由は二つあります。一つは、それまでの話がロシアとの関係を中心に語られているのに対し、アフガニスタンは主としてイギリスとの関係の中で語られていること。また、カフカ―スやトルキスタンについては少数民族の実態について言及されているのに対し、アフガニスタンではそれが見られず、基本的に英露関係のみが示されていることです。

 

(設問3で示された「以下の文(以下、文章Bとする)」の概要)

:設問3の方では、「カフカ―スや中央アジアにいる少数勢力の立場について叙述したもの」という説明書きがあり、基本的にはその通りに話が進んでいきます。文章Bの概要と構成は以下の通り。

 

<第1段落(カフカ―スのエスニック集団について)>

・クリミア戦争の最中、カフカ―スのエスニック集団はオスマン帝国とロシア帝国のはざまで闘争をつづけた。

・なかでも、チェチェン人の指導者シャミールはロシアに抵抗しつつ、オスマン帝国のスルタンやイギリスの女王(ヴィクトリア)に働きかけ、軍事支援を求めた。

<第2段落(チェチェン人シャミールの活動)>

・シャミールの勢力はグルジアにあるロシア拠点に対抗できるほどになった。

・当初イギリスはシャミールを支援していたが、深入りを避けた。

・その結果、ロシアがカフカ―ス全域を制圧し、シャミールは降伏した。

・シャミールは投降後、ロシア貴族や軍人と交流しつつ、カフカ―スのムスリムを懐柔する役割を負った。

<第3段落(トルキスタンの諸部族の抵抗と服従)>

・メルヴ一帯の抵抗運動はロシアを苦しめたが、最終的に族長たちはサンクトぺテルブルクへ連行され、アレクサンドル3世の即位式典に参列した。

 

これら3つの段落を受けて、最終第4段落は以下のように続きます。

 「このように、大国の動きだけを見ていてはユーラシアの地域秩序の本来の姿を把握することはできないだろう。カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は、        

 

【2、空欄       に入る文章の方向性を見定める】

:以上を踏まえて空欄       に入る文章を書くことになるわけですが、当然のことながら、文脈を踏まえる必要があります。設問3の文章Bでは、大部分がカフカ―スのシャミールの活動についてであり、一部トルキスタンの諸部族について言及がありますので、基本的にはカフカ―スとトルキスタンの状況について書けばよいことになります。一方で、第4段落からは、大国の動き(つまり、英露対立やオスマン帝国など)だけでは「地域秩序の本来の姿」を把握することはできないとありますので、大国の動きに加えてカフカース、トルキスタンの諸勢力の活動の実態を示すことで「地域秩序の本来の姿」を描き出すことが要求されていると考えるべきです。

 そこで大切になってくるのが上記文章Aの概要でまとめた①~⑤までのカフカ―ス地方やトルキスタンにおける少数民族の情報と、文章Bの概要でまとめた少数民族の活動です。文章Bをまとめると分かる通り、基本の路線は「現地ムスリムの大国の動向も交えての抵抗→ロシアの同地制圧と少数民族の服従→ムスリム支配者を厚遇してロシア支配に利用」という流れになります。

 

【3、全体の流れに具体的事例を肉付けする】

:上記の2で示した「現地ムスリムの大国の動向も交えての抵抗→ロシアの同地制圧と少数民族の服従→ムスリム支配者を厚遇してロシア支配に利用」という流れに、文章Aや世界史の知識で知っている具体的事例を肉付けしていきます。すると、以下のような話の筋が出来上がってくるかと思います。


① カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は、ロシアの進出をムスリムとしての生活や信仰が制約する可能性のあるものととらえて抵抗した。

② 事実、ムスリムが退いた土地にはコサックが定住して、ロシア帝国進出の尖兵となった。

③ カフカ―スのシャミールは19世紀前半から対ロシア闘争を行い、ムスリムとしての立場からオスマン帝国の支援を、ロシアとの対抗関係からイギリスの支援を得るなど、大国間の対立を利用して抵抗したが、イギリスの関心が中央アジアから離れるにしたがってロシアに制圧された。

④ また、クリミア戦争におけるロシアの敗北と南北戦争による綿花供給の激減はロシアの関心をトルキスタンへと向けたが、同地におけるロシア臣民の拉致、拘束はかえってロシアに進出のための口実を与えることとなった。

⑤ 19世紀後半には、ウズベク3ハン国(ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国)の制圧やイリ事件など、中央アジア方面におけるロシアの活動が活発化し、鉄道の敷設は同地の支配を強固なものとした。

⑥ カフカ―スやトルキスタンの現地諸勢力指導者を厚遇することで、ロシアは同地の抵抗勢力の懐柔と支配の安定化を図った。

 

だいたい、こんなところではないでしょうか。ウズベク3ハン国がロシア支配下に入ることや、イリ事件については通常の世界史の学習で身に着く知識なので、盛り込んでも問題ないと思います。

 

【4、アフガニスタンには言及するべきか】

:先にばらしちゃいます。上智の模範解答はアフガニスタンについて言及しています。(「ただし、アフガニスタンのように20世紀に独立を勝ち得た国もあった。」→上智大学公開の標準的な解答例より)

 ですが、それでもあえて言わせてください。なぜ、この設問設定でアフガニスタンについて言及しなくてはならないのか。もしこれが必須の加点要素となっているようであれば、それはどうなのかと思います。(「標準的な解答例」なので、別に必須の加点要素でない可能性もあります。)
 たしかに、文章Aでは後半にアフガニスタンについての言及がありますが、上述のように、アフガニスタンはロシアとの関係よりはイギリスとの関係の中でのみ語られており、かつ本設問の重要な要素である少数民族についての言及が全くなされていません。また、文章Bの中にはアフガニスタンの影も形も見えません。ためしに、文章Bに上智の「標準的な解答例」をくっつけてみるとしましょう。ざっと2000字前後の文章の中に、アフガニスタンについて言及する文章は一番最後に唐突に出てくる数十字のみ。蛇足もいいところになってしまいます。

設問では以下の文は「カフカースや中央アジアにいる少数勢力の立場について叙述したものである」とあります。「アフガニスタンは中央アジアなのだから当然言及すべきだ」とする理屈もあるかもしれませんが、そもそもアフガニスタンを中央アジアに分類するか南アジアに分類するかというのは非常に曖昧です。たとえば、国際連合による地理区分では、アフガニスタンは南アジアの国として分類されています。(対して、ユネスコの区分ではアフガニスタンの大部分は中央アジアに分類されます。)

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Wikipedia「国連による世界地理区分」より)

だとすれば、受験生にアフガニスタンを記述することを要求するためには、アフガニスタンに言及する必然性がリード文や設問の指示から読み取れなくてはなりません。ところが、文章A、文章Bともに主要なテーマは一貫してロシアに対抗する少数勢力、少数民族であり、空欄の直前には「大国の動きだけを見ていてはユーラシアの地域秩序を把握することはできない」とあった上で「カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は       」とくるわけですから、空欄の中にロシアとの関係、少数勢力の実態に言及されていないアフガニスタンが入る余地はありません。以上の理由から、私としてはアフガニスタンに言及せずに解答例を作成したいと思います。(アフガニスタンを書いたらいかん、というわけではありませんが、少なくとも採点者の立場からはアフガニスタンを必須の要素として加点要素とすべきではないと考えます。)

 

【解答例】(「カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は」に続けて)

ロシアの進出をムスリムの生活や信仰の脅威ととらえて抵抗した。カフカ―スのシャミールはイスラーム国家であるオスマン帝国やロシアの南下政策に危機感を抱くイギリスのヴィクトリア女王に支援を仰いで抵抗したがロシアに制圧された。クリミア戦争敗北と南北戦争による綿花供給の減少はロシアをトルキスタンへ向かわせ、ロシア臣民保護を口実に綿花生産地フェルガナのコーカンド=ハン国をはじめとするウズベク3ハン国を破り、鉄道敷設でその支配を強化し、新疆ではイリ事件を引き起こすなど積極的に中央アジアへ進出した。さらに、ロシアはカフカ―スやトルキスタンの現地諸勢力指導者を厚遇し、同地の抵抗勢力の懐柔と支配の安定化を図った。(300字)

 

こんな感じでしょうか。フェルガナに位置していたのがコーカンド=ハン国であったなどは受験生には多分書けませんので、ウズベク3ハン国についての言及があれば十分かと思います。また、上智の模範解答のように「ユーラシアの地域秩序の本来の姿」を少数勢力の英露関係の対立の中で翻弄されたものととらえるやり方もあると思います。ですが、文章Bは「ロシア‐少数勢力」の関係を軸として書かれておりますので、たとえば「地域秩序の本来の姿」を、かつて抵抗した現地指導者を厚遇して懐柔の道具として使うロシアという文脈でとらえることも可能な気がします。実際、このように現地の支配層を取り込むことによって、地域支配の土台とする統治のあり方はイギリスのインド支配や、フランスのアルジェリア支配などの中でも見られます。なにより、「標準的な解答例」の方は結局「英露が進出して、対立した」以上のことは何も言ってないように見えます。もっとも、それくらいのことが読み取れれば採点基準としては十分ということなのかもしれません。実際の採点基準がどうなっているかはやや気になるものの、文章や世界史の知識をもとにかなり自由度の高い解答を受験生に書かせるスタイルの設問は、受験生にとっては対策がしにくく、かつかなり高い能力が求められることになります。新しいことに挑戦する非常に攻めた出題だと思いますが、次も似たような問題が出るとすれば受験生は大変ですね(汗