2026年の慶應義塾大学法学部の世界史では、2025年に続いて一定の字数で記述させる論述問題が2題出題されました。ひとつは200字論述、もう一つは240字論述となりました。
2025年の出題から、慶應の法学部では地理歴史の試験時間が60分から90分に延長され、配点も100点から150点へ引き上げられました。同時に、従来のマークシート中心の形式から「マークシートによる解答+記述式による解答」へ変更することが大学から事前に発表されていました。世界史の出題範囲も新課程に対応して「歴史総合・世界史探究」とされました。
事前の告知通り、2025年には300字論述が2題出題され、それまでの細かな知識を選択肢から判別する問題を中心とした形式から大きく変化しました。小問数は前年より減少し、その分、まとまった文章で歴史を説明する能力が問われるようになりました。
この背景としては、新学習指導要領で「歴史総合」と「世界史探究」が導入され、単なる用語知識だけでなく、歴史的な因果関係・比較・時代や地域をまたぐ関連性を説明する力が重視されるようになったことが大きいと推測されます。また、もしかすると論述問題を導入することで国公立(特に東大など)を併願する層に優位性を持たせることにより、こうした層を取り込もうという意識もいくらかあるのかもしれません。
これはすでに、早稲田(特に政治経済学部など)の入試改革を通して言われていることでもあります。(早稲田の政経は、一般選抜で大学入学共通テストを課し、英語・国語・数学Ⅰ・Aを必須とした、個別試験では日英両言語の長文を素材とする「総合問題」を課すことで、従来型の「英語+国語+世界史」のような私大専願型とは性格が異なる、国公立型の幅広い科目を勉強している受験生ほど負担が小さい仕組みを作っています。)
2026年に出題された論述は200字+240字と2025年よりも次数自体はやや短くなりましたが、論述問題そのものは継続しました。したがって、この変化は一時的なものではなく、与えられた条件に従って歴史を整理し、文章化できるかを測る論述問題が2題程度出題される形式が今後も続くと見るのが妥当かと思われます。
練習としては、東大の小論述のほか、早稲田法学部の300字論述などは相性が良いように思われます。特に、「法学部」という共通のくくりがありますので、早稲田法と慶應法の両方を受験したい人にとっては対策が立てやすく、他の受験生よりも優位性が確保しやすくなったという面はあるかもしれません。
○ 問題Ⅲ:設問5(200字論述)
【設問概要】
① 時期:14世紀~16世紀末
② オスマン軍の主力となった2種類の兵は何か
③ それら2種類の兵の特徴は何か、説明せよ
④ 同じく、それら2種類の兵はどのような制度に基づいて軍役についていたかを説明せよ
⑤ これら2種類の兵のうちの一方が16世紀末頃から衰退したことを説明せよ
⑥ 一方の兵が衰退した理由を「軍事上の変化」と結びつけて説明せよ
⑦ 200字以内
指定語句などはありませんが、設問の文章が丁寧で、要求がはっきりしています。きちんと知識が入っている人にとっては、「ああ、シパーヒーとイェニチェリの違いについて述べろってことね」とすぐにアタリがつく設問で、内容的には基本問題に類するものです。すでに2025年の問題で論述問題が出題されるであろうことは予想できていたと思いますので、慶應法の受験者層にとって特別難しい問題とは感じません。
【1、シパーヒーとイェニチェリの違いを整理する】
・シパーヒー
:オスマン帝国の「騎兵」です。騎士と訳されることもあります。彼らについては、オスマン帝国におけるティマール制と結び付けて理解しておくことが大切です。オスマン帝国では、スルタンが軍人に一定地域から税を徴収する権利(この徴税権をティマールと呼びます)を与え、その代わりに軍役を負わせるティマール制がとられていました。ブワイフ朝以降イスラーム世界に導入されたイクター制と類似のシステムと理解すると整理がしやすくなります。
ある種、封建的なシステムではありますが、実際に与えられたのは土地の所有権ではなく、「土地の管理権・徴税権(ティマール)」でした。論述問題では、こうしたところでの正確性を問われることもありますので、不用意に「土地が与えられ」などとは書かずに、「土地の徴税権であるティマールが与えられ」などと教科書通りの表記に徹した方が良いでしょう。
教科書などの表記には、必ず理由があります。高校生からすると同じような表現に見えても、実際には細かい違いを丁寧におさえた表記になっていることがほとんどです。ですから、理解するにあたって難しい表現を自分なりの言葉に変化させて分かりやすく解釈することは問題ありませんが、論述問題などで表現として使用する時には不用意に自分の言葉で書かずに、教科書的な定型表現で書けるようにしておくことも大切です。
そして、このティマール制に基づいて軍役についた者がシパーヒーでした。彼らは、与えられたティマールに対して軍役奉仕することが義務付けられていました。彼らは、特に初期にはトルコ系の人々が多数を占めていました。オスマン帝国はもともとアナトリア北西部のトルコ系遊牧集団を主要な軍事基盤として発展した国でした。さらに、その前段階のセルジューク朝以来、イスラーム世界ではトルコ系集団が高度な騎馬戦闘能力を持つ軍事勢力として重要な役割を果たしていました。こうした背景から、オスマン帝国のシパーヒーも基本的にはトルコ系の人々が多かったのですが、全てがトルコ系だったわけではありません。ですから、トルコ系であることをことさらに強調する必要はないように思います。
・イェニチェリ
:スルタン直属に組織された常備「歩兵」軍です。イェニチェリというとまずはスルタン直属ということがイメージされがちですが、同時にシパーヒーが「騎士」であったのに対し、イェニチェリは「歩兵」であったという対比は意識しておくと良いでしょう。
イェニチェリについては、オスマン帝国においてキリスト教徒の少年を徴集し、イスラーム教徒として教育して官僚や軍人に登用した「デウシルメ」という制度と関連付けて理解しておくことが大切です。特に、オスマン帝国がバルカン半島を支配下に置くと、これらの地域のキリスト教徒の少年を徴集して、イスラーム教へ改宗させたうえで宮廷や軍隊に仕えさせていきます。こうした少年たちの中からスルタン直属の歩兵軍として組織されたのがイェニチェリです。
受験生の中には時々イェニチェリとデウシルメの区別がついていない人が見受けられますが、
イェニチェリ=スルタン直属の歩兵部隊
デウシルメ=徴用制度
という基本的な区別をしっかりつけておくと整理しやすくなると思います。ここでも、論述問題の解答を作るのに必要な知識の正確性が問われることになりますので、注意しておきましょう。
本設問では、上記の「シパーヒー」(騎兵)と「イェニチェリ」(歩兵)の対比を、「ティマール制」と「デウシルメ(制)」という二つの制度と結び付けて示すことが求められています。逆に言えば、これらをしっかり示せれば、きちんと点数は入ってくるということです。
【2、衰退した「兵」はどちらで、その原因は何か】
これについては、ヨーロッパでも似たような動きがありますので、説明は比較的容易かと思います。ヨーロッパでは、中国で発達した火薬・火器技術が伝わり、14世紀前半には大砲などの火器が戦場や攻城戦で使用され始めたと考えられています。文献・図像上でも1320〜30年代にはすでに火砲の存在が確認できます。火器が登場すると、それまでは攻略が困難だった攻城などが可能となるなど、火器を取り扱う歩兵の重要度が増し、それにともなって相対的に騎士の地位が低下します。これは、ヨーロッパ封建社会の変化の一つとして極めて重要かつ基本的な知識です。
これと類似の変化がオスマン帝国でも起こります。オスマン帝国では、1380年代には火器を使用していたことが確認されています。その後15世紀に大砲の製造・運用を本格化させたため、歩兵軍団であるイェニチェリにも携帯火器が徐々に普及していきました。
歴史学的に注目すべきであるのは、1453年のコンスタンティノープル征服です。メフメト2世は大型の大砲を用いてテオドシウス城壁を攻撃しており、このことからは15世紀半ばには、オスマン帝国が火砲を大規模な攻城戦に組み込める段階に達していたことがわかります。対して、騎兵であるシパーヒーは火器を使用するには適さないため、こうした変化からは取り残されていきます。
このような変化の中で、火器を扱う歩兵(イェニチェリ)の軍事的重要性が増す一方、これを扱えない騎兵(シパーヒー)の重要性は相対的に低下していきます。そのため、シパーヒーの勢力はオスマン帝国内において徐々に衰退していくことになりました。
本設問に合わせてポイントをおさえるのであれば、
イェニチェリ(歩兵)=火器の使用で軍事的重要性が増す
シパーヒー(騎兵)=相対的地位を低下させ、衰退
という対比が示してあれば十分ではないかと思います。
【3、答案作成に必要な要素を整理】
200字以内ですので、書ける要素は限られます。その中でも特に必須と思われる加点要素を整理すると以下のようになります。
(シパーヒー)
・騎兵[トルコ系が多い]
・ティマール制[徴税権と軍役奉仕]
(イェニチェリ)
・歩兵[スルタン直属]
・デヴシルメ[キリスト教徒の徴用、イスラーム教に改宗]
(衰退した兵とその原因)
・衰退=シパーヒー
・原因=火器の重要性増大
【解答例】
オスマン軍主力には、徴税権付与に応じて軍役奉仕を義務付けるティマール制に基づき組織された騎兵であるシパーヒーと、キリスト教徒の子弟を徴用してイスラーム教に改宗させるデウシルメ制により組織されたスルタン直属の歩兵軍団イェニチェリが存在した。16世紀末までに軍事面で火器の重要性が増大すると、火器を扱う歩兵であるイェニチェリの重要性は増したが、騎兵であるシパーヒーの重要性は相対的に低下し、次第に衰退した。(200字)
こんな形でまとめることになるかと思います。
○ 問題Ⅳ:設問6(240字論述)
【設問概要】
① 17世紀前半のアジアにおけるオランダとイギリスの競合について説明せよ。
② 17世紀後半のヨーロッパにおけるオランダとイギリスの関係について説明せよ。
③ 地図中のA~Dに言及せよ。
④ 1651年と1689年のそれぞれに起きた出来事に、その年号とともに言及せよ。
⑤ 240字で述べよ。
続いての設問では、地図の問題が出題されました。著作権の問題もあるので問題の地図をそのままではないですが、だいたいの概要を示したものを下に示します。
こちらの設問も、内容的にはごく基本的な問題です。オランダやイギリスによる17世紀頃からのアジア進出をめぐる動きについては通常の設問でも頻出箇所かと思います。また、このテーマは早稲田法学部の300字論述(2012年当時は250字論述)でも、実は頻出のテーマです。
2012年:「17世紀におけるイギリスとオランダの友好関係・敵対関係」についての論述
2017年:「17世紀半ばの航海法制定と19世紀半ばの廃止」を政治・経済状況と関連づけ論述
(2017年の解説については、以前の解説記事があります→こちら)
法学部つながりで早稲田法学部の論述対策をしていた人や、慶應の論述対策として早稲田法学部の論述を練習用に使っていた人にとっては、さらに書きやすい内容だったかもしれません。
【1、地図中のA~Dを確認】
まずは、地図中のA~Dが何を指しているのかを確認します。その際、本設問でどのような使い方をするのか、どのような意味を持つのかを簡単にメモしておくとなお良いでしょう。
A-バタヴィア
:17世紀初頭にオランダが商館を設置
B-アンボイナ島
:1623年 アンボイナ(虐殺)事件
C-モルッカ諸島(マルク諸島)
:香辛料(丁子・ナツメグ)の原産地
:16世紀前半にポルトガルが拠点を設置していたが、17世紀前半にオランダが進出
D-台湾
:1624年にオランダが進出、ゼーランディア城(安平城)を築く
【2、1651年と1689年の出来事の確認】
続いて、1651年1689年の出来事とは何かを確認します。年号を覚えるのは大変、という人もいるかもしれませんが、さすがにこの2つの年号は覚えておくべき基本事項です。ただし、1689年の出来事(1688-1689年にかけての名誉革命)を本設問でどのように用いるのかについては、やや深い理解と注意が必要になるかと思います。
・1651年の出来事=航海法
:オランダの中継貿易を妨害し、第1次英蘭戦争のきっかけに
・1689年の出来事=名誉革命(1688-1689)
:オランダ総督ウィレム3世が権利の宣言を受け入れ、イギリス国王ウィリアム3世に
(メアリ2世との共同統治により、オランダとの同君連合が成立)
これはまさに、早稲田法学部の2012年論述でも問われた中心的な話題でした。通常の縦割りの各国史や通史授業ですと見過ごしがちな視点ですが、複合的な見方をする授業を展開する先生であれば、きちんと基本事項としておさえてくれる視点だと思います。
【3、17世紀前半のオランダとの競合関係について】
上記の関係をおさえた上で、17世紀前半から半ばまでのオランダとの競合関係について述べるのであれば、それは貿易・海上覇権をめぐる競合であったことを押さえておくべきかと思います。同時期の重要な出来事をならべると以下のようになります。
・両国で東インド会社の設立(英-1600年、蘭-1602年、仏-1604年)
・香辛料を目当てに東南アジアのモルッカ諸島(C)へ進出し、競合
・1623年 アンボイナ事件
:モルッカ諸島(C)のアンボイナ(B)でイギリスの商館員がオランダの商館員に殺される
→オランダによる香辛料貿易の独占
→イギリスはインド方面に進出先を変える(インド産綿織物の取引など)
・オランダが台湾に進出
→日中間の中継貿易に乗り出す
・1651年 航海法制定
:イギリスがオランダの中継貿易を妨害
(イギリスに商品を運ぶ船をイギリス船または商品の原産国の船に限定)
→英蘭戦争へ(①1652-54、②1665-67、③1672-74)
【4、17世紀後半のオランダとイギリスの関係について】
一方、17世紀後半のオランダとイギリスの関係は、フランスとの対立が激化する中で徐々に変化していきます。この変化は、ドーヴァーの密約を結ぶなど心情的にフランスに近かったチャールズ2世やジェームズ2世が国王だったうちは表に出てきませんでしたが、カトリックを危険視するイギリス議会のプロテスタントたちが政治の主導権を握った名誉革命によって大きな変化を見せます。そして、ウィレム3世がイギリス王ウィリアム3世として即位すると、イギリスとオランダはフランスに対抗する協力関係へと大きくその関係を変化させていきます。
・17世紀後半からルイ14世統治下のフランスとオランダとの争いが激化
(例)
南ネーデルラント継承戦争[1667-68]
オランダ侵略戦争[1672-78]
ファルツ継承戦争[1688-97])
・1688~89 名誉革命
:ジェームズ2世が追放されてオランダとの協力関係に
→オランダとは、それまでの競合関係からフランスに対し協力して対処する関係に変化
※ 高校世界史レベルであれば、この関係を「同君連合」と表現しても差し支えはないかと思いますが、厳密には当時のオランダは連邦共和国であり、王国ではありません。そのため、総督のウィレム3世も厳密にはオランダの「君主」ではありませんから、同君連合よりは協力関係の方がより正確です。ただし、歴史学の分野でもウィレム3世がオランダ総督でありながらイングランド王ウィリアム3世になったことを指して、広い意味で「同君連合(personal union)」と表現する研究は存在します。
【解答例】
イギリス・オランダ両国は東インド会社を設立しCモルッカ諸島の香辛料貿易への参入を図った。Aバタヴィアに進出したオランダに、Bアンボイナ島で商館員が処刑されるとイギリスは撤退した。オランダはさらにD台湾に進出し日中間の中継貿易にも乗り出した。イギリスは1651年の航海法により、中継貿易で利益を得るオランダを妨害して対抗したため英蘭戦争に発展したが、ルイ14世の拡張政策が脅威となっていたことから、1689年の名誉革命に際してウィレム3世が英国王になると、フランスに対抗する協力関係が構築された。(240字)
こうした感じにまとめることになるかと思います。
【補足:17世紀後半の英・仏・蘭関係】
本設問の解答作成に際して、必ずしも必要ではないのですが、当時の国際関係に対する理解を深めるためにいくつか補足しておきましょう。
1660年に王政復古でイギリス国王となったチャールズ2世は、ピューリタン革命後の亡命生活のなかでフランス宮廷とも深い関係を持っており、王政復古後もルイ14世のフランスに比較的好意的な姿勢をとっていました。一方、当時のイギリス議会を構成していた中心勢力は、イギリス国教会を支持するプロテスタントでした。彼らはピューリタン革命において示された宗教的な急進化については警戒していましたが、それと同時に、国王がカトリック寄りの政策を進めることについても強い不安を抱いていました。
また、王政復古後の国王は、戦争などで多額の資金を必要とする場合、議会の協力なしには十分な財源を確保しにくい状況にありました。そのため、国王が完全に政治の主導権を握ることも、逆に議会が完全に国王を統制することもできず、王権と議会が互いに牽制し合う状態が続いていました。
こうしたなかで、1670年にチャールズ2世とルイ14世の間で結ばれたのがドーヴァーの密約です。ルイ14世はチャールズ2世に資金援助を行い、その見返りとして、イギリスがフランスと協力してオランダと戦うことなどを約束させました。チャールズ2世にとって、フランスからの資金援助は、議会への財政的依存を弱める意味も持っていました。(Ronald Hutton, “The Making of the Secret Treaty of Dover,
1668–1670,” The Historical Journal, Vol. 29, No. 2 (June 1986), pp.
297–318.など)
その後、1672年に第三次英蘭戦争が始まります。これはイギリス単独の戦争ではなく、ルイ14世が始めたオランダ侵略戦争と連動しており、イギリスとフランスが協力してオランダを攻撃するという構図になっていました。イギリスにとっては、従来から続くオランダとの海上貿易をめぐる競争も背景にありました。(Herbert H. Rowen, John de Witt: Statesman of the “True Freedom”,
Cambridge: Cambridge University Press, 1986, ch.10.など)
しかし、イギリス議会では、戦争そのものへの負担に加えて、チャールズ2世の親仏的・親カトリック的な姿勢に対する反発が強まっていきます。1673年には審査法が制定され、カトリック教徒が公職に就くことが厳しく制限されました。チャールズ2世の弟で、後のジェームズ2世となるヨーク公ジェームズは、自らがカトリック教徒であることを公然と示していたため、この法律によって公職を辞任しています。ちなみに、この頃に王弟ヨーク公ジェームズの王位継承問題をめぐる議論から、王室に比較的理解を示すトーリと、王室に対して厳しいホイッグの両派が徐々に形成されていきました。
いささか脱線しましたが、こうした国内政治上の対立や戦費負担の問題から、イギリスはフランスと足並みをそろえてオランダとの戦争を続けることが難しくなり、1674年に第三次英蘭戦争から離脱しました。
その後、自らカトリックであることを公言していたジェームズが1685年にジェームズ2世として即位します。これに対し、プロテスタント中心の議会や国教会勢力は強い警戒を抱きます。さらにジェームズ2世は、1687年にカトリック教徒や非国教徒に対する制限を緩和する信仰寛容宣言を出しました。これは宗教的寛容を進める政策という面を持っていましたが、当時の議会側からは、国王が議会の制定した法律を大権によって停止し、最終的にはイギリスをカトリック化しようとしているのではないかと受け取られました。
さらに1688年、ジェームズ2世に男子が誕生したことが大きな転機となります。それまでは、ジェームズ2世が死去すれば、プロテスタントである娘メアリが王位を継承すると考えられていました。ところが男子が誕生したことで、カトリックの王統が今後も続く可能性が生まれたわけです。
そこでイギリスの有力者たちは、ジェームズ2世の娘メアリと結婚していたオランダ総督オラニエ公ウィレム3世に介入を求めました。ウィレム3世はプロテスタントであり、ジェームズ2世の娘婿であると同時に甥でもありました。1688年、ウィレム3世はイングランドに上陸し、ジェームズ2世はフランスへ逃亡します。これが名誉革命です。その後、ウィレム3世はウィリアム3世として、メアリ2世とともにイングランド王位につきました。
ここで重要なのは、イギリスとオランダの関係が大きく変化したことです。それまで両国は、海上貿易や植民地貿易をめぐって激しく競争し、三度にわたる英蘭戦争を戦ってきました。しかし、ルイ14世のフランスがヨーロッパで勢力を拡大するようになると、イギリスとオランダは次第に対立よりも対フランス協力を重視するようになります。
つまり、17世紀後半の英蘭関係は、
① 海上貿易をめぐる競争
② 英蘭戦争
③ フランスの台頭
④ イギリス国内での反カトリック・反フランス感情の高まり
⑤ 名誉革命
⑥ イギリスとオランダによる対フランス協調
という流れで捉えると理解しやすくなります。
このあたりの細かな政治過程まで高校世界史で問われることは多くありませんが、背景を知っておくと、なぜそれまで激しく争っていたイギリスとオランダが、17世紀末になると対フランスという共通の立場に立つようになったのかが理解しやすくなるはずです。
