19世紀、産業革命による資本主義の発展にともない、労働者の貧困や長時間労働、経済格差などが大きな社会問題となりました。こうした問題をどのように解決するかをめぐって、さまざまな社会主義思想が形成されました。

 

社会主義思想は一つの統一された思想ではありません。理想的な共同社会を構想した空想的社会主義、資本主義社会を歴史的・経済的に分析したマルクス主義、国家そのものの廃止を目指した無政府主義などに分かれ、さらに各国の政治状況に応じて社会民主主義、修正主義、サンディカリズム、農民社会主義など多様な潮流へ発展していきました。

 

ここでは、なかなか全体像を把握しにくい社会主義について、テーマごとに整理してみたいと思います。

 

【空想的社会主義・科学的社会主義・無政府主義】

社会主義思想を理解するうえでは、まず空想的社会主義・科学的社会主義・無政府主義の違いを整理する必要があります。

 

① 空想的社会主義

資本主義社会の問題を批判し、それに代わる理想的な社会の具体像を構想した初期の社会主義思想です。「空想的社会主義」という名称は、後にマルクスやエンゲルスが自分たちの「科学的社会主義」と区別するために用いたものであり、彼ら自身がこの名称を名乗ったわけではありません。

 

ロバート=オーウェン(イギリス)

労働者の生活改善と、労働者と資本家が協力して作る協同的な共同社会の建設を目指しました。スコットランドのニュー=ラナークでは工場経営者として労働時間の短縮や教育の充実などを実践しました。さらにアメリカにニュー=ハーモニーを建設し、協同生活にもとづく理想社会を実現しようとしました。

 

サン=シモン(フランス)

貴族や聖職者などの特権階級を批判し、実際に生産や社会の発展に貢献する人々が社会運営の中心となるべきだと考えました。科学者・技術者・産業経営者・労働者などを広い意味での生産者と捉え、科学と産業によって合理的に運営される社会を構想しました。後のテクノクラシー(テクノクラート[技術官僚]が政治・経済・行政を支配し管理すること)につながる発想の先駆けとも見ることができます。

 

フーリエ(フランス)

人間の欲求や個性を無理に抑えるのではなく、それぞれの性格や能力に適した仕事を行うことによって調和ある社会を実現しようとしました。「ファランジュ」と呼ばれる共同体を構想し、生産と生活を共同で行うことを考えました。その共同生活施設を「ファランステール」と呼びます。彼が想像したファランジュの規模はだいたい1600人程度だったと言われています。

 

ルイ=ブラン(フランス)

国家の援助によって労働者の協同的な生産組織をつくることを主張しました。国家が資金を提供して「社会作業場」を設け、最終的には労働者自身がこれを運営することを構想しました。

彼は1848年のフランス二月革命後に臨時政府に参加したことでも知られています。革命後に設置された「国立作業場」は、ルイ=ブランが構想した社会作業場そのものではなく、実際には別の制度です。

 

② 科学的社会主義

マルクスとエンゲルスは、理想的な社会を設計するだけではなく、資本主義社会がどのような構造をもち、どのような歴史的変化によって別の社会へ移行するのかを分析しようとしました。これが後に「科学的社会主義」と呼ばれました。

 

マルクス(ドイツ)

資本主義社会の経済構造や階級関係を分析し、社会の歴史的変化を物質的な生産活動との関係から説明しました。エンゲルスとともに1848年に『共産党宣言』を発表し、のちに『資本論』によって資本主義経済の仕組みを分析しました。

 

エンゲルス(ドイツ)

『イギリスにおける労働者階級の状態』を著し、産業革命後の労働者の生活・労働実態を分析しました。マルクスとともに『共産党宣言』を発表し、後にマルクス主義と呼ばれる思想体系の形成に大きな役割を果たしました。

 

③ 無政府主義(アナーキズム)

社会主義者の中でも、国家を利用して社会を変革すること自体に反対し、国家権力そのものを廃止すべきだと考えた思想です。ただし、国家権力によって人びとが上から管理・支配されることを批判はしたものの、「法律も秩序もない無法状態」を目指したわけではありません。多くのアナーキストは、国家に代わって、人びとの自発的な協力や自治、相互扶助によって社会の秩序をつくることを理想としました。

 

プルードン(フランス)

国家や巨大資本による中央集権的な社会管理を批判し、独立した生産者どうしが相互に協力・交換する分権的社会を構想しました。他人の労働を利用して地代・利子などを得るような所有を批判し、「所有とは盗みである」という言葉を残しました。

 

バクーニン(ロシア)

国家そのものを、人間を抑圧する存在と考え、その廃止を主張しました。プルードンよりも革命的・急進的な無政府主義を展開しました。革命後に労働者階級が政治権力を掌握することを認めるマルクスに対し、国家を残せば新たな支配者が生まれるとして批判しました。

 

【マルクス主義(マルキシズム)】

マルクスが主張し、その後発展したマルクス主義は、単なる「平等を目指す思想」ではありません。社会がどのような構造をもち、なぜ歴史が変化していくのかを説明しようとする体系的な社会理論でもあります。ここでは、その基本的な考え方を、①上部構造と下部構造、②唯物史観、③剰余価値説の3点に分けて整理します。

 

① 上部構造と下部構造

マルクス(ドイツ)は、社会の仕組みを考える際に、経済的な構造と、政治・法律・思想などとの関係を重視しました。彼が重視した社会の経済的な基礎を、「下部構造」(経済的土台)といいます。下部構造の中心となるのが、生産活動をめぐる人間関係である生産関係です。

 

たとえば、

 

・土地や工場を誰が所有するのか
・誰がそこで働くのか
・生産されたものをどのように分配するのか

 

といった関係がこれにあたります。

 

これに対して、政治制度・法律・国家・宗教・思想などを「上部構造」といいます。

 

マルクス主義では、基本的に、「下部構造(経済)→上部構造(政治・法律・思想など)」という関係を重視します。つまり、経済的な仕組みが、政治制度や法律、思想などのあり方を強く規定すると考えました。

 

ただし、これは「経済がすべてを一方的に決定する」という意味ではありません。エンゲルスも後に、政治・法律・思想などの上部構造が歴史の展開に影響を与えることを認めています。

 

したがって、下部構造が上部構造の重要な基礎となる一方で、上部構造も社会の変化に作用すると考えたと理解するとよいでしょう。

 

② 唯物史観

マルクス(ドイツ)は、歴史を王や政治家の意志、宗教や思想だけによって説明するのではなく、人間がどのように生産活動を行っているかという物質的・経済的条件から捉えようとしました。この歴史観を唯物史観といいます。

 

ここで重要になるのが、「生産力」と「生産関係」です。生産力とは、道具・機械・技術・労働力など、生産を行うための能力をいいます。生産関係とは、生産手段を誰が所有し、誰が働き、生産物をどのように分配するかという人間関係です。この生産力と生産関係を組み合わせた生産の仕組みを、「生産様式」といいます。

 

生産力が発展すると、それまでの生産関係が新しい生産力に合わなくなり、両者の間に矛盾が生じることがあります。その矛盾が社会内部の対立を強め、やがて社会の仕組みそのものを変化させるとマルクスは考えました。

 

たとえば、封建社会から資本主義社会への移行が典型的です。

 

中世ヨーロッパでは、土地を基礎に領主が農民を支配する封建的な生産関係が成り立っていました。ところが、商業の発達や手工業の拡大、さらに工場制生産の発展によって、生産力が大きく高まっていきます。

 

すると、土地に人びとをしばりつける封建的な仕組みや、身分による制約、同業組合による生産規制などが、新しい商工業の発展を妨げるようになります。

 

つまり、「商業・工業の発展という新しい生産力」と「封建的な身分制度や土地支配という古い生産関係」との間に矛盾が生じた、と考えるわけです。

 

こうした矛盾が高まったことにより、市民革命や資本主義社会への以降が起こった、とマルクスは考えました。

 

そのためマルクス主義では、歴史を「古代的社会→封建社会→資本主義社会」といった生産様式の変化として捉えようとしました。

 

また、社会には生産手段を所有する階級と、それを所有しない階級が存在し、その利害対立が歴史変化の重要な原動力になると考えました。これが階級闘争です。

 

たとえば、封建社会であれば「領主と農民」の関係、資本主義社会であれば「資本家と労働者」の関係という対立です。『共産党宣言』では、これまでの社会の歴史を階級闘争の歴史として捉える考え方が強く打ち出されました。

 

③ 剰余価値説

マルクス(ドイツ)は、資本主義社会において、なぜ資本家が利潤を得ることができるのかを分析しました。資本主義社会では、資本家は工場・機械・資本などの生産手段を所有します。一方の労働者は、生産手段を所有せず、自分の労働力を資本家に売り、その対価として賃金を受け取ります。

 

マルクスは、労働者が労働によって生み出す価値と、労働者に支払われる賃金との間に差が生じることに注目しました。労働者が新たに生み出した価値のうち、労働力の価値として賃金などの形で労働者に対応する部分を超えて生み出される価値を、剰余価値といいます。

 

マルクスは、この剰余価値を資本家が取得することを、資本主義における利潤形成と搾取を理解するうえでの核心と考えました。つまり、「労働者が生み出す価値-労働力の価値=剰余価値」という関係です。

 

マルクスは、資本主義が発展すると資本の集中が進み、資本家と労働者との階級対立も強まると考えました。そして、労働者階級が政治的に組織され、資本主義社会を変革することによって、社会主義社会へ移行すると考えました。

 

【社会主義と共産主義】

よくある質問に、「社会主義と共産主義って何が違うんですか」というものがあります。正直なところ、この二つの語は、使われた時期や、使われ方によって様々な意味が重なり合う言葉なので、単純化することが必ずしも正しいわけではありません。ただ、強いて分けるのであれば、以下のような区分けになるかと思います。

 

〇 社会主義

:生産手段の社会的所有・管理などを通して、格差や階級対立の縮小・解消を目指す思想の総称

 

〇 共産主義

:階級対立が消滅し、最終的には階級支配のための国家も不要となった社会を目指す考え

 

また、次第に時代が進み、考え方が整理されるにつれ、「資本主義段階から社会主義革命を経て社会主義段階に進み、最終的には共産主義社会へといたる」という形で説明されることが多くなりました。

 

ただしマルクス自身は、「社会主義」と「共産主義」を常にこの意味で明確に区別していたわけではありません。

 

【第1インターナショナルと第2インターナショナル】

社会主義運動が各国へ広がると、労働者や社会主義者を国際的に結びつける組織が形成されました。これが第1インターナショナルと第2インターナショナルです。

 

① 第1インターナショナル

正式名称は国際労働者協会です。1864年、ロンドンで結成されました。

マルクス(ドイツ)が重要な役割を果たしましたが、マルクス主義者だけの組織ではありませんでした。参加勢力には、

 

・マルクス派
・プルードン派
・バクーニン派
・労働組合主義者

 

など、多様な潮流が存在しました。

 

この組織の中で、最大の対立となったのがマルクスとバクーニンの対立でした。マルクスが労働者階級の政治的組織化と政治権力の獲得を重視したのに対し、バクーニンは国家権力そのものを否定し、中央集権的組織にも反対しました。

 

つまり、マルクスは労働者を中心とする国家による管理を重視したのに対し、バクーニンは国家による管理が個人の自由や尊厳を侵害するもので、国家自体は不要と考えたわけです。

 

1872年のハーグ大会でバクーニンは除名され、その後組織は衰退し、1876年に解散しました。第1インターナショナルは、社会主義内部に存在したマルクス主義と無政府主義の違いを明確にした組織でもありました。

 

② 第2インターナショナル

1889年、パリで結成されました。

第1インターナショナルとは異なり、19世紀後半に各国で成長した社会主義政党や社会民主主義政党が中心となり、ドイツ社会民主党などが大きな影響力を持ちました。

 

主な課題として、

 

・労働時間の短縮
・労働者の権利拡大
・普通選挙
・国際的な労働者の連帯
・戦争への反対

 

などを掲げました。

 

しかし内部では、「革命による社会変革」か「議会を通じた改革」かという対立が存在しました。マルクス主義に忠実である勢力は社会主義革命を志向しましたが、ベルンシュタインなどに代表される修正主義(現行の制度の中での社会改革を目指す考え方)を主張する人々はこれに対抗しました。

 

さらに重大な対立を招いたのが第一次世界大戦でした。社会主義者は国境を越えた労働者の連帯を優先するのか、それとも戦争になれば自国を支持するのかという問題に直面します。1914年に第一次世界大戦が始まると、多くの社会主義政党が自国政府を支持したため、第2インターナショナルは事実上機能不全に陥り、崩壊しました。

 

【各国の社会主義政党と関係する諸政党】

19世紀後半から20世紀初頭にかけては、各国で社会主義が勢力を拡大し、様々な政治団体が組織された時代でもありました。ここでは、各国ごとの社会主義の政治勢力についてまとめてみます。

 

① イギリス

イギリスでは、マルクス主義一色になるのではなく、労働組合・社会主義知識人・議会改革派が合流して労働党へ発展しました。

 

社会民主連盟(SDF)

ハインドマンを中心として成立しました。マルクス主義の影響を強く受けた社会主義団体です。

 

フェビアン協会

1884年に成立しました。ウェッブ夫妻(イギリス)、バーナード=ショー(アイルランド出身・イギリスで活動)ら知識人が中心となりました。革命ではなく、議会・行政・社会政策を利用して徐々に社会を改革する漸進主義を唱えました。

 

独立労働党(ILP)

1893年、ケア=ハーディ(イギリス)らを中心に成立しました。労働者を独立した政治勢力として組織し、議会政治を通じた社会改革を目指しました。

 

労働代表委員会(LRC)

1900年、労働組合を中心に、独立労働党・フェビアン協会・社会民主連盟などが参加して成立しました。労働者自身の代表を議会に送り込むことを目的としました。ただし、社会民主連盟は1901年にLRCから離脱しました。

 

労働党

1906年、労働代表委員会が労働党と呼ばれるようになりました。成立当初は統一されたマルクス主義政党というより、労働組合勢力と複数の社会主義勢力による連合体でした。

1918年の党規約第4条では生産・分配・交換手段の共同所有を掲げ、社会主義的性格をより明確にしました。 

 ChatGPT Image 2026年9月13日 22_00_37

② フランス

フランスでは、社会主義政党だけでなく、急進共和主義やサンディカリズムも大きな政治勢力となりました。

 

急進社会党

正式名称は「共和・急進・急進社会党」です。1901年に成立しました。名称に「社会党」が入りますが、マルクス主義的な社会主義政党ではありません。共和主義・議会主義・反教権主義を基本とし、私有財産や市場経済を基本的に認めながら社会改革を進める勢力でした。政治的には中道左派といったところです。

 

成立の背景としては、1890年代から進んでいた急進共和派の組織化に加えて、ドレフュス事件によって軍部・保守派・右派民族主義者・カトリック教会などへの警戒が強まったこと、さらに社会主義勢力が成長していたことが重要です。

 

労働総同盟(CGT)

1895年に成立しました。20世紀初頭には革命的サンディカリズムの影響が強まりました。サンディカリズムとは、政党や議会ではなく、労働組合を社会変革の主体と考える思想です。ストライキやゼネラル=ストライキなど労働者の直接行動を重視しました。

 

社会党(SFIO)

1905年に成立しました。正式名称は「労働者インターナショナル・フランス支部」です。ジャン=ジョレスらが中心人物となりました。急進社会党とは異なり、明確な社会主義政党です。

 

ただし党内には、革命を重視する立場と議会を利用した社会改革を重視する立場の双方が存在しました。

 

③ ドイツ

ドイツでは、19世紀後半に強力な組織的社会主義政党が形成されました。

 

ラサール派

ラサールを中心に1863年に全ドイツ労働者協会を結成しました。普通選挙の実現と、国家の援助による生産協同組合の設立を重視しました。国家を社会改革に利用しようとする点でマルクスとは異なりました。

 

アイゼナハ派

ベーベル、ヴィルヘルム=リープクネヒトらが1869年に社会民主労働者党を結成しました。マルクスやエンゲルスの影響を強く受けました。

 

ドイツ社会主義労働者党

1875年、ラサール派とアイゼナハ派が合同して成立し、ゴータ綱領を採択しました。綱領は両派の妥協的性格をもち、マルクス自身は『ゴータ綱領批判』でこれを批判しました。

 

ドイツ社会民主党(SPD)

1890年、社会主義者鎮圧法の失効後、ドイツ社会主義労働者党がドイツ社会民主党(SPD)へ改称しました。1891年のエルフルト綱領ではマルクス主義的な社会認識を強く打ち出しました。

 

また、ここに所属したベルンシュタインは、資本主義がマルクスの予想どおり急速に崩壊しているわけではないと考えました。そこで、現行の政治体制を倒す革命ではなく、現行の政治体制下において議会政治・選挙・労働組合・社会政策などを通して段階的に社会主義へ接近すべきだと主張しました。これを修正主義といいます。ただしSPD全体がただちに革命的な最終目標を放棄したわけではなかった点には注意が必要です。

 

④ ロシア

ロシアでは工業化が遅く農民人口が圧倒的に多かったため、農民を革命主体とするのか、労働者を革命主体とするのかが大きな争点となりました。ロシアについては、社会主義の広まる一方で、他にも様々な政治勢力が存在しました。そのあたりを整理するため、ここでは社会主義勢力以外についてもまとめていきます。

 

ナロードニキ

19世紀後半に活動した知識人を中心とする運動です。ロシアの農村共同体(ミール)を基礎として、西ヨーロッパ型の資本主義を経ずに社会主義へ移行できると考えました。1874年には「人民の中へ(ヴ=ナロード)」運動によって農民への啓蒙を試みました。

ところが、農村で彼らの考えが十分に受け入れられなかったことに失望すると一部が急進化し、こうした急進化した勢力はテロリズムなどに走りました。こうした中で、1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺されました。

 

社会革命党(SR・エスエル)

ナロードニキの伝統を受け継いだ社会主義政党です。工業労働者を中心とするマルクス主義とは異なり、農民を重要な革命主体と考えました。そのため、土地の社会化を重要な政策としました。また、一部にはテロ活動を行う戦闘団も存在しました。

 

ロシア社会民主労働党

1898年、各地のマルクス主義組織がミンスクに集まり、ロシア社会民主労働党が成立しました。ナロードニキからマルクス主義へ転じたプレハーノフはロシアにおけるマルクス主義の先駆者であり、レーニンはその後、党内の有力な指導者となりました。プレハーノフは、ロシアでも資本主義の発展によって労働者階級が成長した後に社会主義革命へ進むと考え、ナロードニキの農民社会主義を批判しました。

その後、1903年の第2回党大会を契機としてボリシェヴィキとメンシェヴィキの二派に分かれました。ただし、この時点ですぐ完全な別政党になったわけではなく、その後も再統合の試みなどがあり、1912年ごろに組織的分裂が決定的となりました。

 

ボリシェヴィキ

レーニンを中心とする勢力です。規律ある中央集権的な革命政党を重視しました。

 

メンシェヴィキ

マルトフらを中心とする勢力です。より広い党員参加と党内民主主義を重視しました。ロシアではまずブルジョワ民主主義革命を実現し、資本主義と労働者階級を発展させた後に社会主義革命へ進むべきだと考えました。

したがって、単なる穏健改革派ではなく、革命の段階論においてボリシェヴィキと異なっていました。

 

カデット(立憲民主党)

1905年革命を背景として成立した自由主義政党です。社会主義政党ではありません。ミリュコーフらを中心として、憲法制定、議会政治、市民的自由、法の支配などを求めました。

 

【社会主義思想の大きな流れ】

19世紀から20世紀初頭の社会主義思想は、単純に一つの思想が発展したものではありません。

大きく見ると、次のような問題をめぐって分岐していきました。これまでにご紹介したものも含めて、整理してみます。

 

① 理想社会をどのようにつくるか

オーウェン(イギリス)・サン=シモン(フランス)・フーリエ(フランス)
→
理想的な協同社会を具体的に構想しました。

 

マルクス(ドイツ)・エンゲルス(ドイツ)
→
資本主義の構造そのものを分析し、歴史的な社会変革として社会主義を捉えました。

 

② 国家を利用するか、廃止するか

マルクス主義
→
労働者階級による政治権力の獲得を重視しました。

 

無政府主義
→
国家そのものを廃止すべきだと主張しました。

 

この違いが第1インターナショナルにおけるマルクス(ドイツ)とバクーニン(ロシア)の対立につながりました。

 

③ 革命か議会改革か

革命的マルクス主義
→
資本主義社会そのものを革命によって変革しようとします。

 

ベルンシュタイン(ドイツ)の修正主義
→
選挙・議会・社会政策による漸進的改革を重視します。

 

フェビアン協会
→
革命的な労働者蜂起ではなく、議会・行政・社会政策を利用した漸進的改革を重視します。

 

フランスのサンディカリズム
→
議会ではなく、労働組合の直接行動を重視します。

 

④ 誰が社会変革の主体となるのか

マルクス主義
→
工業労働者、すなわちプロレタリアートを重視します。

 

ナロードニキ・社会革命党
→
ロシア農民を重要な主体と考えます。

 

⑤ 社会主義政党はどのように組織されるべきか

イギリス労働党
→
労働組合と複数の社会主義団体の連合として発展しました。

 

SPD
→
大規模な大衆社会主義政党として発展しました。

 

ボリシェヴィキ
→
規律ある中央集権的革命政党を重視しました。

 

メンシェヴィキ
→
より広い党員参加を認める大衆政党を重視しました。

 

⑥ 国際主義と国家の関係

社会主義思想は、本来、「万国の労働者よ、団結せよ」という国際主義を強く掲げました。第1インターナショナル、第2インターナショナルもその理念から成立しました。

 

しかし1914年の第一次世界大戦では、多くの社会主義政党が国際的な階級連帯よりも自国政府への支持を選択しました。ここに第2インターナショナルの大きな限界が現れました。

 

ここまでの流れをまとめると、19世紀から20世紀初頭の社会主義思想は、

 

理想的共同社会の構想
↓
資本主義そのものの理論的分析
↓
マルクス主義と無政府主義の分岐
↓
労働組合・社会主義政党の形成
↓
革命・議会改革・直接行動など戦略の分化
↓
各国の社会条件に応じた社会主義の多様化

 

という形で発展したと整理できます。

その核心にあったのは一貫して、「資本主義によって生じる格差や階級対立を、誰が、どのような方法で、どのような社会へ変えていくのか」という問いでした。