たびたび「東大の世界史では」とか、「東大が受験生に求めているのは」と申し上げることがありますが、これは何も東大の過去問だけを見て当てずっぽうに推測で述べているわけではありません。歴史学の近年の動向ももちろんのことですが、それ以上に東大に所属する研究者などの諸研究や執筆した書物などから読み取れることを口にしているに過ぎません。ちなみに、歴史学の近年の動向を一般の方が簡単につかみたいと思うなら、財団法人史学会(ちなみに本部は東京大学文学部内)が発行している『史学雑誌』から毎年出される第5号がその前年の歴史学会の「回顧と展望」の号となっているので、これが参考になるでしょう。ただし、書かれている内容は極めて専門的な内容(少なくとも、大学の史学部学生がある程度勉強してから理解できる内容)になるので、高校生がちょっと見ただけで全貌をつかむのは難しいと思います。もし大学生になって史学系の学問を志す気になった場合は、おそらく最初に触れる学術雑誌になると思うので心にとめておいて下さい。

 

 ところで、東大の研究者の中でも世界史の現状について何を考えているかが見えてくる研究者が、たびたび言及している東大副学長(かつての国際本部長)である羽田正です。羽田先生はかねてから大学で行われている歴史学と高校教育における世界史の現状があまりにもかけ離れていること、さらに一般の人に歴史学の成果が十分に伝わっていないことを憂慮しており、いかにすれば歴史学をさらに有意義な学問として発展させていけるか、またどうすれば歴史学と一般の人々との間にある乖離をなくしていくことができるかを考えていらっしゃいました。そうした考えは、たとえば羽田先生の代表的著作である『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005年)にも示されています。あるご縁でこの著作を題材に現在の歴史学について検討するゼミに参加させていただいたことがありますが、そこでも羽田先生は「歴史学と高校世界史、または歴史学と一般的な歴史との乖離」に危機感をお持ちでした。この『イスラーム世界』の創造は著作自体が「アジア・太平洋特別賞」や「ファラービー国際賞」などの賞を受賞し、「イスラーム世界」という概念の曖昧さを指摘した当時としては画期的な書であったわけですが、この著作には「イスラーム世界」に対する考え方や「世界史」に対する危機感が随所に示されています。本書の内容の紹介は機会があれば別稿で紹介する予定でおりますが、本書の要点を示せば以下のようになると思います。

 

・「イスラーム世界」というのは一種の「イデオロギー」であって、ある地域の歴史の実態をとらえるための枠組みとしては極めて曖昧なものであるから、こうした枠組みはすでに不要のものである。

・「イスラーム世界」という概念が特にヨーロッパの知識人たちを中心に想像されてきた概念だとすれば、そこには「ヨーロッパ」という対概念が存在し、これもきわめてイデオロギー的かつ曖昧な枠組みであるから再考を要する。

 

つまり、羽田先生は「イスラーム世界」という概念は実際に存在する地理的要素、気候、風土、政治体制、民族、経済的なつながり、文化などの諸要素とその相違を全く考慮することなく、「宗教的にイスラームが主要に信じられている地域であるから」とか「イスラーム法が通用する世界であるから」などといった乱暴なくくりで一つの世界としてまとめてしまう概念であり、こうした曖昧な概念では各地域の歴史的実態を真に把握することはできない、ということを主張しています。さらに、こうした「イスラーム世界」という概念が近代歴史学の基礎を作り出した19世紀ヨーロッパ知識人による「ヨーロッパに対するイスラーム」という視点、イデオロギーによるものであることを問題視しています。わかりづらいかもしれませんが、極端な例をあげれば、仏教が信じられる地域を全て「仏教世界」として規定し、かつそこに存在する都市を「仏教都市」として類型化することは果たして可能かどうかを考えればその問題点は明らかになるはずです。また、タイが仏教国だからといって、タイが文化的にインドやイランよりも日本と類似性が強い、という議論が成り立たないことも明白だと思います。にもかかわらず、現在の歴史はこれと同じことを「イスラーム世界」においてしてしまっている。「イスラーム世界」であるからカラ=ハン朝とムワッヒド朝は「同じようなイスラーム王朝」と言えるのだろうか。「イスラーム世界」に存在する都市は全て「イスラーム都市」としての性質を有しているといえるのだろうか。羽田先生はこれを明確に否定しています。

 

 「イスラーム世界」には独特の形態と生活様式を持った「イスラーム都市」が存在するという命題が破綻していることを、私はこの本の出版以前にすでに仲間とともに指摘していた。(同書P.289

 

こうした考え方に基づくと、最近の世界史の記述の中に、または東大の設問中に「アラブ=イスラーム文化圏(2011年東大第1問)」であるとか、「トルコ=イスラーム」といった用語が用いられるようになってきている理由が良くわかります。羽田先生は、イスラームという要素のみならず、その時代、各地域における特徴を踏まえた上でその歴史的実態をとらえようとしており、少なくとも現在の歴史学界の潮流としてそうした考え方は一定の支持を得ています。また、羽田先生は世界史の記述に関してこのようにも述べている。

 

 私は別稿で、国や民族などある一つのまとまりを設定し、そのまとまりの内の出来事を時系列に沿って整理し、解釈しようとする現在の歴史研究の限界を指摘し、「不連続の歴史」という考え方と現代の地域研究から示唆を得た「歴史的地域」という概念を提唱した。未だ萌芽的な研究ではあるが、これは、過去のある時代に一つの地域を設定し、その全体像を地域研究的手法によって明らかにしたうえで、現代世界をそのような歴史的地域がいくつも積み重なったうえに成立したものとして理解しようとするものである。

また、歴史的地域を考える際には、環境や生態が十分に考慮されるべきだということも強調した。(中略)必要とされる世界史とは人間と環境や生態の関わり方の歴史を説明するものでなければならない。(同書P.298

 

 こうした世界史像からは、羽田先生が詳細かつ緻密な地域史研究に基づいたある時代、ある地域の歴史的実態をもとに、それらが複層的に折り重なって形成される世界史像を求めていることがわかります。「東大の出題では各地域の関連が重視される」ということを繰り返し指摘していますが、これは単なる過去問分析からだけではなく、こうした東大研究者の歴史観、歴史学会の流れなどをふまえた上で指摘していることです。

 

 もっとも、羽田先生が現在でも同じような歴史観を抱いているかはわかりません。ですが、つい最近、羽田先生をはじめとする歴史学者たちが興味深い書物を出版しました。それが『世界史の世界史』(ミネルバ書房、2016年)という著作です。内容については『イスラーム世界の創造』と同様、高度に専門的な内容がほとんどで高校生には難しすぎるため、また別稿を設けて紹介するつもりですが、この著作のタイトルからも見てわかる通り現在の「世界史」をいかにすべきか、という視点が多分に盛り込まれていて、羽田先生をはじめとする歴史学者が現在の世界史をどのような目で見ているのかということをうかがい知ることができます。

 同書の終章にあたる「総論」は「われわれが目指す世界史」というタイトルになっていて、この本の編集委員会を構成する秋田茂、永原陽子、羽田正、南塚信吾、三宅明正、桃木至朗らによる議論の中でまとめられた、彼らが目指すこれからの世界史像の概要を知ることができます。ここには編集委員会のうち桃木至朗・秋田茂・市大樹らが大阪大学で担当する授業のために作成した「現代歴史学を理解するキーワード一覧」が示されています。この中には受験生にはやや難解な用語も含まれますが、高校教員や大学で史学を志す学部生などにとってはある意味ではなじみのある、またある意味では再度歴史学の問題関心を見直す上で非常に便利な用語や事象がのせられた表であると思われますので、下に引用します。

 

 世界史の世界史

(同書P.400より引用)

 

さらに、この総論ではこの編集委員会の目指す方向性とその可能性や問題点についての検討がなされています。各節の見出しを見るだけでも、その目指す方向の大枠はつかめるので、同じく下に示したいとおもいます。

 

・国民国家を超える / 疑う

・欧米中心主義と闘う

・「反近代」、「超近代」、「ポスト近代」

・脱中心化

・人間中心主義から離れる

・「世界史の見取り図」の必要性

・「全体像」と「個別研究」の関係

・人文学の限界を方法、組織面で突破する世界史

 

編集委員会はこれらの方向性について、その意義を強調すると同時にどのような問題点があるかを詳細に検討しています。たとえば、「国民国家を超える」ことは必ずしも万能ではなく、『「多様性のなかの統一」「多元一体」などをうたう柔らかいタイプ』のナショナリズムへつながる可能性などを指摘するなど、ナショナル・ヒストリーの超克とグローバル・ヒストリーの叙述が常に喜ばしい、望ましい方向へ向かうわけではないことなどを指摘しています。いずれにせよ、この「総論」で挙げられている問題関心を見る限り、先に紹介した『イスラーム世界の創造』が執筆された時期(2005年当時)と比較しても、現在(同書は20169月の発行である)の問題関心とその方向性や軸が大きくずれているようには感じられません。こうした歴史観を羽田先生とその周辺の歴史家たちが共有しているということを知ったうえで、東大をはじめとするいわゆる難関校と呼ばれる大学の、ここ数年、あるいは今後数年の出題傾向を見ていくと、なかなか面白いものが見えてくるのではないかと思います。