さて、ここからはすでに紹介した「通貨・産業・金融史①」について、理解や把握のポイントとなる部分を示していきたいと思います。
まず、商業が発展してくると次第に貨幣の重要性が増してくるわけですが、そうなるとそれまでは実用の取引に用いられるというよりは、一種の儀礼的なもの、もしくは贈答用や権威の象徴として用いられてきた「貨幣(というよりはこの段階では「おたから」)」に、実用としての機能が必要になってきます。
よく、最古の貨幣はタカラガイ(子安貝)であった、という記述があります。これは間違いではないようですが、実際には貝貨は取引に使われたというよりは地方権力者に対する贈与用や埋葬品として用いられたようです。確かに、あれを実際の取引に使用すると破損したりで使い勝手が悪いと思われます。青銅貨幣も最初のうちは当時としては貴重な「青銅器(鋤・刀など)」を物々交換の手段として用いていたところ、後にそれを模した青銅の塊を通貨として用いるようになったようです(布貨、刀貨など)。ただ、これも実際の取引に使用すればごつごつしていて使い勝手が悪いため、その後の中国では環銭(円銭)が用いられるようになっていきます(さらに、保管の際に銭がすれて摩耗することを防止するために穴は円ではなく方形が採用されるようになったという説もあります)。
戦国期にはおなじみの青銅貨が各地で使用されることになるわけです。センターや私大などではこうした青銅貨の写真を示した上で、これが用いられた国を問う問題が良く出題されますが、これも覚えられない人はまず戦国の七雄の位置を把握しましょう。その上で、「東北部は刀貨、中央部は布貨、秦は円銭、楚は蟻鼻銭」と視覚的に覚えた方が覚えやすいと思います。
戦国の七雄が覚えられない、という人はまず「斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙」の順で唱えて覚えることを徹底しましょう。そして、これが山東半島からぐるりと中国全土を東→南→西→(東)北と一周した後で中央部を南から北に三国ならぶイメージを持つと全体の位置が把握しやすく、二度と迷わないと思います。
複数のものを一度に覚えるときのコツですが、必ずその順番を変えないようにセットで覚えることが大切です。思い出すたびに順番を変えたり、別々に思いだそうとすると混乱の元となるので注意しましょう。(たとえば、高校生の頃バルト三国などは頭文字一つずつ取って北から順に「エラリーさん(三)」と覚えました。[エストニア・ラトヴィア・リトアニア])
その後の貨幣は軽量化が進み、特に各王朝の中央集権が進んだ際に私鋳銭の防止のために統一通貨が出されることが多いようです。実際の取引の際にはこうした通貨が使われつつ、混乱期にはこれらに加えて私鋳銭が混じって使用されるような状態だったようです。ただ、やはり取引の都合上、円形のものが用いられたようで、そのため王莽の行った復古政策にともなって古代の布貨・刀貨などを復活させた政策はすこぶる評判が悪かったと言われています。(実際に王莽銭を見てみたい、という人はhttp://www.geocities.jp/hiranocolt/page008.htmlの「中国古銭」というサイトに実際に王莽銭の写真がたくさん載っています。)よく、「王莽は周代の政治を理想とし…」みたいなことが言われますが、よくよく考えてみれば王莽の時代に青銅貨が周代のものなのか戦国期のものなのかといった区別はおそらくつかない(どっちにしても当時からすれば古代なので)わけで、こうしたこともあわせてイメージしておくと、漢代の途中にヒョイと顔を出す程度で覚えにくかった王莽にも一定のイメージがわいてきます。
宋銭の鋳造量がそれまでの貨幣流通量と比べてはるかに多くなる、というのも北宋の都開封の繁栄など、商業の発達を考えればわかりやすいと思います。唐代の交易は主に西方のムスリム・ソグド人たちとの交易であり、こうした人々との交易には当然銅銭よりは物々交換や金銀による決済が行われます。彼らにしてみれば中国でだけ通用する銅銭を持って帰ったところでたいした利益にはなりません。ところが、宋代は中国人がジャンク船などを用いて沿岸交易に乗り出した時代で、さらに内地の地方経済圏も拡大しはじめます。たとえば、元々は唐代末から登場する城外の無認可市場であった草市が次第に各大都市を結ぶ中継点(日本で言えば宿場のようなもの)として機能し始めた結果、それ自体が地方都市としての機能を有する鎮・市・店などとして発展するのが宋代です。よく言われる区別ですが、北魏~唐までの都市が「政治都市(政治的に管理され、営業時間や場所なども厳格に管理されている)」としての性格を有しているのに対し、宋代以降の都市は「商業都市(自然発生的に都市が拡大)」としての性格が強いです。このような内地経済の発展があるから当然そこで用いられる鋳造貨幣の量も増大します。
東アジアの中心であった中国でこうした動きがあれば、いまだに貨幣経済自体が未成熟でかつ鋳造技術の未熟な周辺諸国は、この宋銭を中国との交易のためや国内の通貨の代用として入手し始めることになります。平清盛が始める日宋貿易などはそうした流れの中に組み込まれるわけです。(日本において、和同開珎以降、基本的に[たとえば天皇または朝廷が]自ら貨幣を鋳造するという動きがないことに注意すべきです。日本においてはまだ貨幣経済・鋳造技術ともに未熟で自前の鋳造貨幣を用いようということにはならなかったからです。実際、和同開珎などは寺院の基壇などに用いられていたことがわかっており、実際の取引以外に儀礼用としての性格が強かったのではないかという説もあります。
こうした商業圏がさらに拡大していったのは明代に入ってからです。詳しくは「通貨・産業・金融史①」の「3、経済活動の拡大と銀経済の浸透」を参照して下さい。宋代に発展した華北・江南・四川の各地方都市圏は客商とよばれる遠隔地商人たちによって結びつき始めます。ところが、こうした商人たちが別の土地で商売を行うには様々な困難がつきまといます。たとえば、現在ですら地方によって全く言葉が異なると言われる中国ですから、当時はるか遠くの地方に向かえば言語も相当に違ったはずで、まず言葉が通じません。さらに、商品の輸送をどうするか、運んだ品はどこに置くか、さらにそれらを保管する場所はどこか、現地での情報収集をどうしようか…など、商売を進めるにあたって突き当たる困難は数多くあります。読者のみなさんがこれから突然「イスラーム圏にいってモノ売ってこい」と言われた時の困難を想像すれば概ねオッケーです。そうすると、これらを何とかするために現地にいる同業者や同郷者同士が次第に集まり、相談したり、商品を一括で管理する場所が発展することになります。これが「公館・会所」です。
そして、こうした遠隔地商人の代表格が「新安商人」と「山西商人」です。彼らは明代~清代にかけて現われた商人ですが、その特徴や区別を具体的にイメージできずに一括で覚えている人が大半ではないでしょうか。まず、「新安商人」はもともと下の安徽省を拠点として活動した客商です。
(Wikipedia「安徽省」より引用)
これを見ると、江南の沿岸部(南京など)に近く、さらに内陸の運河の南北を結ぶ結節点に位置していることがわかります。このような立地条件から、新安商人は当初は江浙地方の塩を扱っていましたが、その富と、江南沿岸部の都市化にともなって沿岸交易にも乗り出していきます。
※ 余談ではありますが、「塩」は古来から貨幣に信用価値がなくなってきた際の代替手段に用いられることが多いです。なぜなら、「塩」は生活必需品である(日本にも武田信玄と上杉謙信の間の「敵に塩を送る」のエピソードが有名ではある)にもかかわらず、中国はその大半が内陸部にあるため、「塩」は交換手段としての信用性が非常に高く、たとえば政治混乱や財政混乱などで紙幣の信用が大幅に下落してしまった時には国家が塩を専売制にすることでその通貨の信用を保とうとしました。
さて、一方の山西商人はその名の通り山西省を拠点とした客商です。(山西省は山東半島の西と考えれば位置はわかりやすい。)
山西商人が北方の防衛軍に対する物資供給を請け負ったことは書きましたが、この頃「北虜」に悩まされていた明ではこの防衛費の出費がバカになりませんでした。防衛費の決済は膨大な額にのぼることから、当時決済は銀で行われたわけですが、この銀がどんどん消費されるために北方では銀は不足しがちで、他地域よりも交換比率が良くなっていました。こうした中、明には日本銀やメキシコ銀が大量に流れ込んでくるという現象が起こるわけです。また、山西商人は北方防衛の見返りとして商売として外れの少ない塩の専売権を手に入れ、これにより莫大な富を得ます。さらに、都からも地理的に近い位置にいる山西商人は清代にかけて政商としての側面を強く併せ持っていくことになります。とまぁ、こんな感じでイメージすると理解しやすいのではないでしょうか。どこまでが史実かというのは研究書にあたってみないと怪しいところもありますが、何も中国史を専門に研究するわけではないので、とりあえず受験用「世界史」の大枠をイメージするという意味ではこれで十分だと思います。大切なことは、個々の用語や意味を当時の政治・経済・文化などや環境と結びつけて考えることです。そうすることによってみなさんの世界史に対する理解は動きをともなわない静かなものではなく、よりダイナミックなものとしてイメージされることになるでしょう。そしてそのことは東大などが求める世界史像ともつながってきます。
こうして明代には国内の経済圏の結びつきが進むとともに、海外諸国との交易も拡大しました。この過程において、日本と新大陸からの銀を加えた交易圏の拡大によって、13世紀にすでに現れ始めていたユーラシア大陸全体を結ぶ交易圏(13世紀世界システム)は真の意味でグローバルなものに変化したと言えます。結果として、世界の銀はヨーロッパの西部~北部にかけてと、東アジアの中国へと集中することになります(『リオリエント』)。このあたりのところは「東大への世界史①」で述べたとおりです。
もっとも、明の建国者である洪武帝は、当初こうした交易の拡大には消極的というよりむしろ否定的で、明ははじめ海禁策(私貿易の禁止。倭寇討伐が目的のため、朝貢貿易は可。)をとっていたと言われます。(前期)倭寇に対抗するための措置です。ただ、洪武帝自身が貧しい階層の出身(一説によれば乞食から寺の小僧となった後に元末の紅巾の乱に身を投じて頭角をあらわしたとされる)であり、経済に明るくなかったことから、農業重視の政策をしていたこともその背景にはあるのかもしれません。(洪武帝の政策の多くが農村統治に関するものである[賦役黄冊・魚鱗図冊・六諭etc.]) もっとも、明は民間貿易については禁止しましたが、朝貢貿易は禁止していません。これには、崩壊してしまった冊封体制の再編という意味もあったのかもしれません。また、洪武帝が貿易に積極的でなかったのは、単に国内問題が落ち着いていなかったために対外貿易に注力する余裕がなかったからだという説もあります。
いずれにせよ、永楽帝の時代にムスリム宦官であった鄭和による南海遠征で周辺諸国の朝貢貿易が促進されたことから、明周辺の交易の規模は拡大していきます。この中で、「自分もこの貿易のおこぼれにあやかりたい」と思いつつも、朝貢という国の正式な使節に随伴することが許されなかった中小の商人や沿岸部の有力者たちは次第に密貿易に手を染めることになります。後期倭寇の発生です。想像してみてください。真っ暗な夜、今から数百年前の中国沿岸部で数隻の船が出港したとしてそれを誰が見とがめることができるでしょうか。こうして、後期倭寇による私貿易の拡大は半ば公然のものとなり、統制がきかなくなってきました。こうなると、むしろこれを取り締まるよりも管理してその利益を吸い上げた方が良いという議論が説得力を持つことになります。最終的に1567年には海禁が緩和され、明の商人たちは呂宋(ルソン)、暹羅(タイ)、旧港(パレンバン)、柬埔寨(カンボジア)などの港に出航することが許されることとなりましたが、日本と明をダイレクトにつなぐ交易は認められていませんでした。そのため、日本の堺や博多の商人たちはルソンをはじめとする各地へ出向いていき、ここで「出会い交易」と呼ばれる形式の交易で中国の物産を持ち帰るのです。16世紀という時期が戦国末期~安土桃山期であったことを思い出して、この時期には千利休やら古田織部やらが中国からやってきた茶器に「ハァハァ、天目萌え~」とか、信長が「九十九髪茄子にシビれる!あこがれるゥ~!」と言っていたことを考えると結びつきやすいと思います。もう完全に「へうげもの」の世界ですねw
※ さらに余談ですが、日本と明との交易は正式には当初足利義満による勘合貿易の形で進められました。日本における南北朝の争乱が収まり、西日本の武士団に対する統制もある程度とれるようになったことで、明の要求する倭寇討伐の目途もたったためです。しかし、しばらくするとこの勘合貿易は、応仁の乱以降は幕府自体が行うものというよりも西国の有力守護、中でも大内氏と細川氏が取り仕切るようになっていきます。下は、応仁年間における細川、大内の所領ですが、細川の所領に堺が、大内の所領に山口・博多といった重要な港町があるのが見て取れます。
(http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/50362065.htmlより引用)
こうした両氏の勘合貿易をめぐる利権争いが高じて中国、寧波でおこった武力衝突事件が寧波の乱(1523)です。この事件では大内方が細川方もろともに明の役人を殺害し、一時日明貿易は停止されますが、当時倭寇の取り締まりを行っていた大内氏に対する配慮から1536年には日明貿易が大内義隆により再開されました。この事件がおこった寧波は実は明代における日本の朝貢貿易の指定港でした。
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