世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

カテゴリ: 一橋大学対策

(2022.3.2、一橋2012年の大問Ⅱ、大問Ⅲの解説を追記しました。)

一橋2012 Ⅰ
 
 今回は、一橋2012年のⅠ、ナントの勅令(王令)公布をめぐる問題について解説していきたいと思います。一橋では頻出の宗教と国家の関係を答えさせる問題です。この前年の2011年にもフス戦争をめぐる問題が出ましたが、フス戦争と比べるとナントの王令が公布されるまでの経緯、つまりユグノー戦争の経過について書くことは当時の受験生にとってもそう難しくない内容だったのではないかと思います。一方、そのディテールということになると細かい内容まで書ける人と書けない人で多少の差がつく問題だったのではないでしょうか。概要についてはみんながよく知っている内容である反面、情報の総量としては世界史の教科書や参考書に記載されている内容はそれほど多くはありません。

ためしに、現在の『詳説世界史B』(山川)と『世界史B』(東京書籍)の2016年版でユグノー戦争の箇所を見てみましたが、いわゆる3アンリの対立(ギーズ公アンリ、アンリ3世、ナヴァル王アンリ[アンリ4])などについては一切記述がなく、新旧両派の人物として名前が挙がっていたのは国王シャルル9世、摂政カトリーヌ=ド=メディシスとアンリ4世くらいのものでした。

一方、最新の『詳説世界史研究』(山川、2017年版)の方にはさすがにかなり詳しく載っています。シャルル9世やカトリーヌ=ド=メディシスはもちろん、ギーズ公フランソワとアンリの父子、コンデ公ルイ(アンリ4世のおじ)、アンリ3世(シャルル9世の弟、ヴァロワ朝最後の王)などの名前や、ユグノー戦争中の彼らの行動についても書かれていますので、ここに書いてある知識があるとかなり文章を作るのは楽になったのではないかと思います。これらはそこまで特別な知識というわけではなく、少なくとも高校生の頃の私は『詳説世界史研究』をベースに勉強していたこともあってコンデ公ルイ以外の名前は当時から知っていたというか、覚えておりました。また、ここには載っておりませんが、当時は確か載っていたコリニー提督(プロテスタント側の人物としてサン=バルテルミの虐殺で殺されてしまった人)も覚えてましたね。ホンマに、世界史だけはよく頑張っておりました。もうちょっと別の科目に力を振り分ければよかったのに…。

それでは、試験当時の2012年はどうだったのかなと思いましたので、旧版の『詳説世界史研究』(山川、2008年版)を確認してみましたところ、以下のような文章になっていました。

 

 「…ユグノーは、人口のうえでは少数であったが、王権による中央集権化に対抗する中小貴族、指導者としてブルボン家のナヴァル王アンリなど有力貴族も含み、社会的・政治的に無視できない勢力となった。カトリックの指導者である有力な貴族にはギーズ公がいて、ユグノーに強硬な姿勢をとった。ギーズ公は、国民の多数派のカトリック教徒に大きな影響力をもっただけに、王室にとっては警戒すべき存在であった。シャルル9世が幼少で即位して以来、宮廷ではメディチ家出身の母后カトリーヌ=ド=メディシスが実権を握っていたが、彼女は新旧両教徒を対立させたバランスのうえに王権の伸長をはかろうとした。

 1562年、新旧教派の流血事件を契機にユグノー戦争と呼ばれる宗教内乱が始まった。ギーズ公ら旧教派による新教派の大量虐殺がおこなわれたことで有名な1572年のサン=バルテルミの虐殺では、コリニー提督をはじめ、多数のユグノーが犠牲になった。

 この事件に関する死者は全国で3000人をこえたといわれる。この事件は、カトリーヌ=ド=メディシスの謀略とされ、対立をいっそう激化させた。旧教派はローマ教皇・スペインなどと結び、ユグノーはイギリス・スイス・ドイツ新教諸侯の支持をえ、国外からの影響も加わった。国王アンリ3世によるギーズ公の暗殺がおこなわれ、今度はそのアンリ3世が暗殺されるなどの混乱が続いた。

 アンリ3世が暗殺されてヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世がフランス国王位に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの王令(勅令)を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。こうして、内乱はようやく収拾され、フランスの王権は急速に強化された。」

(『詳説世界史研究』山川出版社、2016[2008年版第11]pp.306-307、人名や事件名の英語訳並びに人物の生没年、在位年等については省略)

 

 …もうこれが答えでよくないですかw? つまり、当時の受験生にとっても勉強の仕方によってはこちらの設問は十分に対処しうる設問であったことは間違いありません。(書いてあるのだから。)もちろん、これだけの情報を用意できない場合には、フランスでユグノーが拡大する前段階としてのドイツならびにスイスの宗教改革の詳細を書くという手もあるにはあると思います。(実際、私の解答例でもドイツ、スイスの宗教改革については言及しました。少なくともフランスでユグノー[カルヴァン派]が広がった背景としては示す必要があると思います。) ただ…、設問を見る限りどこにも「ヨーロッパの」政治状況及び宗教問題に焦点をあてろ、とは書いていませんし、設問の「当時の」が指す内容は「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」であることは明らかですから、やはりドイツ、スイスの内容でおなか一杯にしてしまう解答の書き方はどちらかといえば逃げの解答(悪いとは言いません。書けないときにはそうした逃げや不時着大切という)ではないかなと思います。


 
【1、設問確認】

 ・ナント勅令(王令)[設問原文ママ]公布に至るまでの経緯と目的を説明せよ。

 ・当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てよ。

 

:非常にすっきりとした要求です。リード文も短く、ここにいう「当時の」が「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」の時期のという意味であることは明らかですので、設問を読みかえると「ユグノー戦争の背景と経過を当時の政治状況と宗教問題に焦点をあてて説明し、ナントの王令公布の目的を合わせて説明せよ」ということになります。

 

【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】

 それでは、16世紀後半のフランスの政治状況、宗教問題に注目しつつ、ナント勅令(王令)が出されるまでの経緯についてポイントは何かを確認していきましょう。

 

①ドイツ、スイスの宗教改革

:ルターによる宗教改革開始と、カルヴァンによるスイス宗教改革におけるカルヴァン派の広がりについては前提条件として示しておいた方が良いと思います。また、カルヴァンの示した予定説と蓄財の肯定という教義はヨーロッパの北西部、商工業者を中心に支持者を急拡大していくことになります。(もっとも、フランスではむしろカルヴァン派[ユグノー]はフランス南部からフランス西部にかけて多く存在していました。)

Huguenot_in_17c
Wikipedia「ユグノー」より)

 

②フランスにおけるカルヴァン派(ユグノー)の拡大

 

③カトリックとユグノーの対立

:フランスではすでに16世紀の前半からユグノー人口が増え始めておりましたが、16世紀の中頃になるとブルボン家やコンデ家などの大貴族にユグノーが増えてきます。これは、当時彼らの政敵であったギーズ家に対抗するという政治的な事情からとも見られますが、こうした貴族間対立が生じ始めていたころ、アンリ2世がイタリア戦争終結(カトー=カンブレジ条約)に関連する祝宴での馬上試合で事故死してしまいます。(1559年) その後、長男フランソワがフランソワ2世として即位しますが、病弱であった彼はわずか即位後わずか1年、16歳で亡くなります。残されたアンリ2世妃、フランソワ2世母のカトリーヌ=ド=メディシスは幼少のシャルル9世を抱えて、フランスの大貴族がひしめく中難しいかじ取りを迫られます。摂政となった彼女が選んだのは、新旧両派が相争う中で調停者としてふるまい、両派に影響力を行使することで王室の権力を維持するという方法でしたが、これにより新教旧教両派の争いはさらに激しさを増していきます。

 

④ユグノー戦争の勃発(ヴァシーの虐殺、1562

:カトリックとユグノーが対立する中、カトリーヌ=ド=メディシスはユグノーに一定の条件下での信仰と礼拝を許可します。ところが、この条件を破る形でユグノーが礼拝していたことに憤慨したカトリック派の首領、ギーズ公フランソワはフランス北東部の町ヴァシーで多数のユグノーを虐殺しました。このヴァシーの虐殺に驚いたユグノー側の大貴族コンデ公ルイはカトリック側との戦端を開きます。これがユグノー戦争の開始です。

 

⑤サン=バルテルミの虐殺(1572

:その後、ギーズ公フランソワの暗殺(1563)やコンデ公ルイの戦死(1569)など、カトリック・ユグノー両派ともに多くの犠牲を出しつつ、ユグノー戦争は断続的に続いていきます。こうした中、カトリーヌ=ド=メディシスは国内をまとめるためにユグノーとの和解を模索し、自分の娘であった王女マルグリットとユグノーの盟主であったブルボン家のナヴァル王アンリとの結婚にこぎつけます。ところが、その婚礼祝いのために集まったカトリック・ユグノー両派の間で対立が生じ、最終的にはカトリック側(ギーズ公アンリ)によるユグノーの大量虐殺が発生します。(きっかけはユグノー派のコリニー提督暗殺未遂事件でした。この事件を聞いたカトリック側は、ユグノーからの報復を恐れて先手をとってコリニー提督を殺害してしまい、そこから大虐殺へ発展します。)これがサン=バルテルミの虐殺です。

san
Wikipedia「サン=バルテルミの虐殺」)

 

この虐殺事件により、新旧両派の対立は解決が困難な状態となり、内戦が泥沼化していきます。また、ユグノーの側には周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)が肩入れし、カトリックの側にはカトリック勢力(特にスペインなど)が支援したことで国外勢力の動向も一定の影響を与えました。

 

⑥「3アンリ」の対立

:サン=バルテルミの虐殺以降、フランスは病死したシャルル9世に代わって即位した弟のアンリ3世(ヴァロワ家)、カトリックの指導者のギーズ公アンリ、ユグノーの指導者のナヴァル王アンリ(後のアンリ4世、ブルボン家)による三すくみの状態が続いていきます。しかし、ギーズ家の勢力拡大を嫌ったアンリ3世はギーズ公アンリを暗殺します。(1588年) 

Guise-Henri
Wikipedia「アンリ1世(ギーズ公)」)

 

どうでもいいことではあるのですが、ギーズ公の肖像画はどれ見ても意外にイケメンなんですよね…。神経質そうな顔はしてますが。アンリ4世がいかにもおっさん風で、日本史で言うと徳川家康風味なのと比べるとずいぶん違います。

Henry_IV
Wikipedia「アンリ4世(フランス王)」)

 

脱線してしまいましたが、このこととユグノー勢力との協調関係に入ったことがカトリック勢力から激しく糾弾され、アンリ3世自身もドミニコ会修道士ジャック=クレマンによって殺害されてしまいました。これにより、ヴァロワ朝は断絶しますが、死の床についたアンリ3世はナヴァル王アンリを呼び、後事を託しました。これにより、ブルボン家のナヴァル王アンリはアンリ4世としてブルボン朝を創始します。

 

⑦ナヴァル王アンリの国王即位(アンリ4世、ブルボン朝の開始)とカトリック改宗

:アンリ3世の遺言により国王に即したアンリ4世でしたが、アンリ3世自身がカトリックから敵視されていたこともあり、フランスの多数派であるカトリックはアンリ4世を国王として承認しませんでした。また、カトリックの側にはローマ教皇やスペインの支援などがなされていました。特に、カトリックが圧倒的多数であったパリは、新国王の入城を拒み続けていました。このような状況を見たアンリ4世は、カトリックに改宗します。(1593年)これを好感したフランス人たちは、長く続く戦争に疲弊していたこともあってアンリ4世の改宗を歓迎します。そしてアンリ4世は翌年ついにパリに入城します。その後、アンリ4世はスペインと結んで抵抗する残党を平定します。

 

⑧ナントの勅令(1598

:国内を安定化させることに成功したアンリ4世は、1598年にナントの勅令(王令)を公布し、一定の条件の下でユグノーに個人単位の信仰の自由を与えました。(ユグノーはカトリック教会への十分の一税の支払いが必要) また、あくまでもカトリックがフランスの国家的宗教であることを明示したため、これ以降フランス国内では目立った宗教対立は起こらず、ユグノー戦争は終結します。

 

    ナントの勅令については、本設問とは関係がありません(答えに書く必要は全くない)が1685年のルイ14世によるフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令廃止)と、商工業者の亡命までセットでおさえておくとよいと思います。

 

【3、ナント勅令の目的】

 ①国内の融和と内戦の終結

 ②商工業者の懐柔

:ナント勅令の目的としては、上記2点ほどをおさえておけばよいと思います。

 

【4、政治状況および宗教問題】

:上記の【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】をご覧いただければおおむねお分かりになるかと思いますが、ポイントだけ下にまとめてみたいと思います。

 

(政治)

 ・フランスはイタリア戦争で神聖ローマ皇帝と対立→ルター派諸侯との結びつき

 ・カトリーヌ=ド=メディシスのユグノーに対する融和姿勢と、ギーズ家に対する警戒

 ・王家、カトリック(ギーズ家)、ユグノー(ナヴァル王アンリ)の三すくみに

 ・周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)やカトリック勢力(スペインなど)の介入 

 

(宗教)

 ・宗教改革の影響を受けたユグノー勢力の拡大

・カトリックvsユグノー(多数派はカトリック)

 ・ブルボン家、コンデ家の改宗(改革派に)

 ・1562年 ギーズ公フランソワによるユグノー虐殺(ヴァシー虐殺)

  →ユグノーのコンデ公ルイ(ブルボン家)による軍事行動

 ・サン=バルテルミの虐殺(1572年)

 ・内乱終結後、ガリカニスムの傾向強まる

 

【解答例】

 ルターの影響を受けてカルヴァンが予定説と蓄財の肯定を説くと、商工業者が共感し北西欧を中心にカルヴァン派の勢力が拡大した。フランスでもユグノーと呼ばれるカルヴァン派が改革派を形成した。フランスの多数派はカトリックで大貴族ギーズ家がその中心であったが、神聖ローマ皇帝と対立するフランスでは改革派への理解もあり、ギーズ家の政敵ブルボン家やコンデ家が改宗すると対立が深まりユグノー戦争へ発展した。カトリーヌ=ド=メディシスは調停を試みたがサン=バルテルミの虐殺が発生し失敗した。ギーズ公アンリと国王アンリ3世が相次いで暗殺されると、ユグノーのナヴァル王がアンリ4世として即位し、ヴァロワ朝に代わりブルボン朝を開いたが、パリ市やスペインに支援された旧教派がユグノーの新王を認めず抵抗したため、アンリ4世はカトリックに改宗し、さらに両派の融和を狙ってユグノーに個人単位の信仰の自由を与えるナントの勅令を発布した。(400字)

 

 解答例の方はできるだけ細かい知識を並べ立てるよりも、当時の政治状況や宗教問題、ユグノー戦争の展開、周辺諸国との関係などがつかめるような文章にしてみました。書き方次第では教科書レベルの知識でも十分に及第点の解答を書くことはできるとおもいますので、「知らない」で終わるのではなく、「16世紀後半の新旧両派の対立となるとフランス以外との関係はどうなるかな…」など頭を使ってみるのもアリなのではないかと思います。

一橋2012 Ⅱ


2問では、モスクワ宣言をもとに、20世紀に設立された「国際的な平和と安全維持のため」の国際機構、すなわち国際連盟と国際連合について、これらが直面した問題を20世紀の国際関係を踏まえて論ぜよというものでした。一橋の第2問は第1問、第3問と比べると多少出題の対象を絞りづらく、当日の受験生は虚を突かれたかもしれません。もっとも、この年以前の数年間は近現代史からの出題が目立っておりましたし、近現代史が出題された場合、第2問ではアメリカが絡む設問が多かったことなども考えると、そこまでは驚かなかったかもしれません。また、この年の受験生は知る由もありませんが、国際機構同士の比較については2015年にECASEANの歴史的役割を比較させる設問が出題されています。

 

【1、設問確認】

・この宣言の名称を答えよ(モスクワ宣言)

・モスクワ宣言が示す目的実現のためにどのような国際機構が設立されたか(二度)

・その国際機構はどのような問題に直面したか

20世紀の国際関係を踏まえよ

・指定語句:総力戦 / 安全保障理事会 / イタリア / 冷戦 / PKO

400字以内

 

【2、モスクワ宣言】

:モスクワ宣言は当時の受験生に問うレベルの設問ではありません。難問です。山川の用語集の方には一応出ています。(旧版では②、新版では①) 詳しく書かれている方の旧版の用語集には以下のように書かれています。

 

1943年、アメリカ・イギリス・ソ連・中国の4カ国外相会談でまとめられた宣言。「国際安全保障機構の早期設立」が表明され、ダンバートン=オークス会議につながった。」

(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史B用語集』山川出版社、2008年版)

 

上記の通り、モスクワ宣言はハル=ノートで知られるアメリカのコーデル=ハル国務長官とソ連外相モロトフ、イギリス外相イーデンの会議で合意された内容に中国大使が同意して出されたもので、国際安全保障機構の早期設立に向けて行動することが表明されており、1941年の大西洋憲章やこれに諸国が同意した1942年の連合国共同宣言の内容をさらに進めたものになっています。ただ、少なくともこの設問が出題された2012年の段階でこのモスクワ宣言を答えられる受験生は圧倒的少数派だと思われますので、史料として出すだけであればともかく、その名称を答えさせるというのは無理があると思います。逆に言えば、ほとんどの受験生は正答を答えられなかったわけで、モスクワ宣言が答えられたか否かは当時の合否にほとんど影響を及ぼさなかったと思われますので、大威張り絶頂で間違えてやれば良いのではないかと思います。書けなかったとしても全く問題はありません。

 

【3、国際連盟・国際連合と問題点 / 20世紀の国際関係】

:設問では、「20世紀には、この宣言で打ち出された目的を実現するための国際機構を作る試みが二度行われている。」とあります。この宣言で打ち出された目的は「国際安全保障機構の早期設立」ですから、この「二度の試み」というのが「国際連盟の設立」と「国際連合の設立」であることは自明です。つまり、「モスクワ宣言」が書けようが書けまいが、設問の要求が国際連盟と国際連合の比較にあることは明らかなので、あとは設問が要求する両機構が直面した問題を、当時の国際関係を踏まえて示してやれば良いかと思います。もっとも、ここで設問が言う「問題」というのが個別の事案なのかそれとも両機構が抱える構造的問題なのかは設問だけからは判断がつきません。ここでは、政治・経済や世界史で国際連盟・国際連合が扱われるときによく指摘される構造上の問題の方に焦点を絞って表にまとめてみたいと思います。

国際連盟と国際連合

 また、20世紀の国際関係を踏まえよという点についても、基本的には国際連盟や国際連合が設立された背景や、両組織の問題点を明らかにしたような事例を踏まえれば良いかと思います。国際連盟については第一次世界大戦(総力戦)を経験したことが国際連盟設立につながったことや、世界恐慌をきっかけに国際協調が崩壊し、日・独・伊などのファシズム国家の暴走を抑えられず、戦争を防げなかったことなどが示せればよいかと思います。国際連合については冷戦構造が構築され米ソ両大国が対立する中で、拒否権の発動が国連の実行力を削いだこと、国際紛争の当事国または利害関係国に五大国が含まれる場合、合意形成が阻まれたことなどを示せばよいと思います。モスクワ宣言を答えることが難しいこと以外は基本的な設問かと思います。

 

【解答例】

 モスクワ宣言。総力戦を経験した列強は国際対立を回避すべく国際連盟を設立し、総会を最高機関とし、英・仏・伊・日を常任理事国としたが、米の不参加や独、ソが当初不参加であったことから指導力に欠けた。また、イタリアのエチオピア侵略に課したように経済制裁は可能であったが実効力に乏しく、全会一致制による決定力不足、軍事制裁権の不保持により日・独・伊などファシズム国家の行動を抑えきれず、第二次世界大戦勃発を防げなかった。その後設立された国際連合は、主要機関に軍事制裁権を持つ安全保障理事会を加えて米・英・仏・ソ・中の五大国が指導し、総会でも多数決制をとるなど組織改善が図られて迅速な意思決定が可能となり、人権問題やPKOに力を発揮した。しかし、大国間の利害が対立すると拒否権発動により機能不全に陥り、冷戦下では朝鮮戦争やベトナム戦争などの地域紛争を防ぐことができず、軍縮や核廃絶を達成できないなど問題も残した。(400字)

 

一橋2012 Ⅲ

:第3問は史料にシンガポールを建設したイギリスの行政官僚ラッフルズの行いについて書かれた『ラッフルズ伝』をもとにイギリスの東南アジアにおける活動と、同時期の清とヨーロッパ諸国の交易体制について問う設問です。

StamfordRaffles

Wikipedia「トーマス=ラッフルズ」より)

 

設問が二つに分けられているため、各200字以内となり、内容的にもそこまで難しい内容が要求されているわけではありません。また、引用されている史料の読み取りも過度に高度だったり、読み取れないと解答することができないという類のものではないので、標準的な問題、むしろ一橋の設問としては平易な部類に入る問題ではないかと思います。ただし、(A.  )に入る地名がシンガポールであるというのは、ほぼ一問一答形式の知識問題になりますので、知らないと書けないでしょう。これが本設問の冒頭に来ているので、配点としてはたいしたことがないかもしれませんが、書けないことで精神的な動揺があり、配点以上にダメージを負うかもしれません。一橋は時々この手の設問を設定しますが、受験生の忍耐力や精神力を試す意図でないのであればやめた方が無難な気がします。

 

問1

【1、設問確認】

・文中の(A.  )に入る地名を答えよ。[解答はシンガポール]

・ラッフルズの思想(シンガポールにおける交易の自由がアジアの物流を一変させるという考え)との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治・経済的活動の展開を述べよ

 

【2、ラッフルズの思想】

:「ラッフルズの思想との対比において」と設問が要求しておりますので、まずはラッフルズがどのようなことを考えているかをしっかりと把握する必要があります。一言で示してしまえば、設問が言うように「(A.   )[シンガポール]における交易の自由がアジアの物流を一変させる」という考えなのですが、これだけではその真意が十分につかめませんし、何より(A.   )にシンガポールを入れられない受験生もいるかと思いますので、そうした場合には史料の読み取りや、もともと持っている世界史の知識が大切になります。

 

(史料から読み取れる内容[地名などは原文ママ、カッコ内は筆者による]

・ラッフルズがシンガポールを建設して以来、200人に満たなかった人口は1万人を超え、その多くはシナ人(中国人)である

・シンガポールが重要な商業港となることは、イギリスにシャム・カムボヂャ・コーチシナ(タイ、カンボジア、ベトナム南部)その他とともにシナおよび日本に対する支配を与える。

・イギリスはインドよりも安く綿製品を生産できる

・(貿易の障害さえなければ)シナ人がイギリス製綿製品を買わない理由は見いだせない。

・イギリスにおける東インド会社、シナにおける行(ホン)商人(公行)の独占さえなければ公正な競争が可能となる

・シンガポールを自由港とすることでヨーロッパ・アジア・中国を結ぶ集積港となる(中国各地の総督は秘密裏に外国貿易に従事しているため)

 

上記をまとめると、ラッフルズはシンガポールを自由港とすることでイギリス綿製品の輸出拡大と、アジア諸地域への影響力拡大が可能になると考えており、その障害となっているのは東インド会社の中国貿易独占権と中国における公行による貿易独占だと考えています。こうした考え方が、当時イギリスで台頭しつつあった産業資本家の考え方や、自由貿易要求と同じ路線のものであることには注意を払う必要があります。産業資本家は、貴族・地主・東インド会社などが有していた諸特権は自由な経済活動を阻害し、ひいてはイギリスの国益を損なうものとして批判しました。

産業資本家と貴族地主東インド会社

このような背景から、1813年に東インド会社のインド貿易独占権が廃止され、1833年には中国貿易独占権廃止と商業活動の停止が決まります。また、1846年には穀物法が廃止され、1849年の航海法廃止により、イギリスでは自由貿易体制が確立していきます。(このあたりの話は、以前早稲田大学法学部の2017年論述などでも少しお話をしました。)本史料はラッフルズが1820年代初頭にのこしたものとされておりますので、まさにイギリスでこうした自由貿易の利益が説かれていたころのものでした。

 

【3、イギリスの東南アジア支配】

:さて、「シンガポールを自由港にすること(自由貿易)こそがイギリスのアジア支配を可能にする」というラッフルズの思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べよというのが設問要求ですので、ラッフルズよりも後の時代にイギリスがどのような政治経済支配を東南アジアで展開したかを確認する必要があります。大枠でいえば、イギリスの東南アジア支配はラッフルズが思い描いたような形では展開しませんでした。東南アジアの諸地域は、「自由貿易の拠点」としてではなく、むしろ「原材料の供給地」として植民地経営がなされていくことになります。

 

(マレー半島)

・錫採掘(河スズ:河床に沈着)

:華僑が華人労働者(苦力)から安く買いたたく

・ゴムプランテーション(1895~)

20世紀に入り自動車のタイヤ需要から拡大、印僑

<展開>

1786 ペナン獲得

1819 シンガポール獲得

   :ラッフルズがジョホール王の許可で商館建設

1824 英蘭協定

    :マレー半島がイギリスの勢力圏に(オランダはスマトラ島)

1826 海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)成立→1867 直轄化

1895 マレー連合州成立(1870年代から介入していたマレー人の4小国を保護国化)

19世紀末 その他の地域に圧力、実質的支配下に

→英領マラヤの成立(直轄植民地、マレー連合州、その他の地域)

 

(ボルネオ島)

<展開>

 1841 ジェームズ=ブルックがサラワクの藩王に任ぜられる(1846 ブルネイから独立)

 1888 サラワク王国がイギリスの保護領に(北ボルネオ[サバ]も)

 

(ビルマ)

・木材、石油などの天然資源

・穀倉地帯(米のプランテーション)

<展開>

イギリス=ビルマ戦争(18241826185218851886

:コンバウン朝(アラウンパヤー朝)の滅亡

1886 インド帝国の一州に編入(イギリス領ビルマ)

 

【4、ラッフルズの思想と現実のイギリス支配の対比】

:すでに3でも述べましたが、ラッフルズの思想と現実のイギリス支配を対比させると以下のようになります。

 

(ラッフルズ)

:古典派経済学的な自由競争・自由貿易の考えに基づいてシンガポールを自由港(関税をとらない)とし、ヨーロッパとアジアを結ぶ集積港とする

(イギリスの東南アジア支配)

:典型的な植民地経営(原料供給地、市場としての活用)

 

【解答例】

シンガポール。ラッフルズはシンガポールを自由港とし、古典派経済学と同様に自由競争と自由貿易を保障して貿易を活性化させ、ヨーロッパとアジアを結ぶ集積港に発展できると考えたが、イギリスはシンガポール、ペナン、マラッカを海峡植民地とし、マレー連合州と合わせて英領マラヤを形成、ゴムのプランテーションや錫鉱山を華僑と印僑を使って経営し、ビルマやボルネオ北部を含む東南アジアを原料供給化し植民地経営を展開した。(200字)

 

問2

【1、設問確認】

・この時期(1820年代初頭の)ヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制について説明せよ。

・その後の同国の交易体制の変化について述べよ。

 

:問1で自由貿易や公行による貿易独占などが問題とされていることから考えても、ここでいう清朝の交易体制とは乾隆帝以降の外国貿易の広州1港限定であると考えて問題はないでしょう。となれば、この清の貿易制限がどのような変化を遂げたのかを示せばよいということになります。頻出の基本問題です。

 

【2、(1820年代初頭の)清朝の対外交易体制】

:これについては、基本的には以下の2点を抑えていれば良いと思います。

 

・広州1港に対外貿易を限定(1757、乾隆帝の時期から)

・公行による対外貿易独占

 

ただし、近年の『詳説世界史研究』などの叙述を見ると、上記の2点以上に当時ヨーロッパがどのように貿易を展開していたのかという実態面の記述や、広州におけるヨーロッパ船が「互市の国」として従来の朝貢・冊封体制の枠をはみ出した性質を持っていた点などを指摘する記述が随所に見られるようになってきました。これは、従来の「典礼問題→広州一港限定→イギリスの自由貿易要求」というやや直線的な叙述と比べると、より当時の状況がわかる内容となっています。そうした意味で、現時点(2022年時点)での受験生は、清と諸外国との貿易をより多角的に広い視野で把握する必要性が増してきているのかもしれません。雰囲気をつかむために、『詳説世界史研究』で広州貿易について書かれた部分を旧版・新版双方を引用して比較してみたいと思います。(引用個所はどちらも「清代の社会経済と文化」という節からになります。)

 

<旧版>

1644年の明滅亡後に北京に入り中国支配を進める清は、台湾に根拠地を移して反清運動を続ける鄭成功に対し、中国船の渡航を厳禁する政策をとり(遷界令)、大陸との交通を断ち孤立させようとした。この政策は鄭氏一族を滅ぼした1684年に解除された。さらに85年には広東・福建などに海関(税関)を設け、海外貿易を統制した。当初の貿易相手国は、すでに明末から来航していたポルトガル・スペイン、さらにその後に来航してきたオランダ・イギリスなどであった。イギリスは18世紀になるとポルトガル・スペインなどを圧倒して、中国貿易を独占した。そして東インド会社をとおして中国の生糸や陶磁器・茶などを輸入したが、その代価は銀で支払われ、その額は巨額にのぼった。こため銀がいっそう中国内に流入した。

乾隆帝は、康煕帝時代の典礼問題などもあって、1757年ヨーロッパ人との貿易を広州(広東)の1港に限定し、藩属国の朝貢貿易と同じように品目。数量・来航数などを一方的に制限し、さらに公行と呼ばれる少数の特許商人に貿易管理のいっさいを任せた。こうした制限された交易や公行による貿易の独占に対してイギリスは、18世紀末から19世紀前期にかけてマカートニー(17371806)やアマースト(17731857)を派遣して、制限貿易の撤廃を求めたが失敗し、こうした体制はアヘン戦争後の南京条約(1842)まで続けられた。

(木下康彦ほか編『改訂版詳説世界史研究』山川出版社、2008年版、pp.259-260

 

<新版>

清朝の統治のもと、中国では、辺境での戦争や反乱を除き、17世紀末から100年ほどの間、安定した平和な時期が続いた。対外貿易についてみると、清朝統治下では、鄭氏勢力の制圧をめざした初期の政策を除いて貿易の禁止はおこなわれず、中国船が日本や東南アジアに出かけたり、東南アジアやヨーロッパの船が中国に来航したりして、民間の交易が盛んにおこなわれた。清朝の規定では、海外渡航してそのまま相手国に住みつくことは許されていなかったが、東南アジアとの貿易をおこなう商人たちのなかには、禁令を犯して東南アジアに住みつき、農村と国際市場を結ぶ商業網を握って経済力を蓄える人々もでてきた。

18世紀の半ばには、それまで広州に来航していたイギリス船がより条件のよい貿易港を求めて北上して寧波にいたる事件が起こり、それをきっかけに清朝は治安の維持を理由としてヨーロッパ船の来航を広州のみに限定した。また広東十三行(公行)という特定の商人を通じてのみ貿易が許され、ヨーロッパ人の行動にも厳しい制限が加えられた。このような制度はヨーロッパ人からは「カントン=システム」とよばれ、評判の悪いものであった。しかし、ヨーロッパ船の貿易量は、来航地が広州に限定されてからも増加しつづけ、19世紀の初めにいたるまで、中国から輸出される茶・生糸・陶磁器などの対価として海外から大量の銀が年々流入したのである。

(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、pp.238

 

 10年でこんなに変わるものか、と正直驚かされます。先生泣かせですねw

 

【3、その後の交易体制の変化】

:では、こうした清朝の交易体制はどのように変化していったのかということですが、基本的には南京条約(1842)による実質的な開国までを見ておけば良いと思います。本設問では書く必要はないかと思いますが、視点としてはその後のアロー戦争(1856-60)と北京条約(1860)での開港地の増加と中国人の海外渡航の解禁などまで見ておくとよいでしょう。変化の過程としては概ね、以下のようなものになります。

 

・イギリスの自由貿易要求(マカートニー、アマーストなどの派遣)

・アヘン戦争(18401842)と南京条約(1842

5港開港、公行の廃止、清の関税自主権の放棄

・五港通商章程(1843

:清が領事裁判権の承認

・虎門寨追加条約(1843

:清が片務的最恵国待遇を承認

・望厦条約[対アメリカ]・黄埔条約[対フランス]1844

 

【解答例】

乾隆帝の時代以降、清は広州を唯一の対ヨーロッパ貿易港とし、公行に独占させていた。自由貿易要求に失敗したイギリス商人が密輸したアヘンの蔓延と林則徐による取り締まりからアヘン戦争が勃発し、南京条約が締結されると清は5港開港、公行の廃止、関税自主権の放棄などを承認し、虎門寨追加条約で片務的最恵国待遇を認めるなど不平等な状態での自由貿易を強いられ、望厦条約と黄埔条約で米や仏にも同様の条件を認めて開国した。(200字)


12a0">
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

一橋2011年の問題です。2011年っていうと、ちょうど私がエディンバラの大学院に通っている時期に出された設問なので、リアルタイムでは見ていません。リアルタイムで見ていないといえば、私がリーズに行っていたあたりでAKBが出始めて、帰ってきてから「これってアキバって読む感じ?」と友達に聞いたら、微妙な顔をされて「まぁ、ある意味間違ってはいない」と返されました。エディンバラにいる頃はたしか金爆の女々しくてが流行りまくっていたころで、PVを見た私が「日本大丈夫か?」と言ったら、「それは熱を感じることができない外部の人間の感想だ」と言って怒られました。怒らなくたっていいじゃないか( ゚Д゚)

この年の設問についてですが、テーマとしてはいかにも一橋らしい設問です。特に、大問Ⅰのフス戦争なんかは一橋らしさが全開でハァハァしちゃいます。また、中世の農民反乱を資料から読み解かせるという点では、2014年のワット=タイラーの乱を題材とした設問とも通じるものがありますね。

フス戦争については、マンガなんですけど『乙女戦争(ディーヴチー=ヴァールカ)』が出てますね。「フス戦争をテーマにしたマンガなんて、コアすぎて続くのかな?」と思っていたら、がっつり12巻まで続いて全巻買ってしまいましたw 少々エログロ表現きついので、そういうのが苦手すぎる方は向いてないかもしれませんが、中世の戦争ってそういうものかもしれません。大問Ⅲも、この頃の一橋は清の歴史をよく取り扱っておりましたので、おそらくこの年の受験生にとってはそれほど大変さを感じるものではなかったように思います。大問Ⅱのみ、少し考えさせる設問になっていますね。多分、差がつくとすれば大問Ⅰか大問Ⅱなのではないかと思いますが、設問が小分けになっているので、しっかりと小さい設問を拾った上でじっくり取り組めれば、まったく解けないという類の設問ではないです。標準的な設問かと思います。

 

2011 一橋 Ⅰ

【設問概要】

・フス戦争へと至った経緯を踏まえよ

・フス派が何に対して戦っていたかに重点を置け

・フス戦争の結果と歴史的意義を論ぜよ 

 

:設問は非常にシンプルで、フス戦争に至る経緯、結果、歴史的意義を問う設問です。ただし、注意したいのは史料(プラハの四か条)を示した上で、「フス派が何に対して戦っていたか」という、単純な世界史知識だけでは十分に答えようがない問いを発しているところでしょう。また、フス派やフス戦争については通り一遍の知識で済ませている受験生も多数いると思われますので、それなりに手ごたえのある設問だったように思います。

 

【手順1、史料の読解】

手順としては、本当は先に解答の全体像というか、大きな流れを考えるべきかもしれませんが、受験生にとってフス戦争の全体像はその他の王道を行くテーマと比べるとすんなりとは作れないことが予想されますので、まずは史料の読解を行ってみたいと思います。史料の引用されている『西洋中世史料集』ですが、東京大学出版会から出されています。というか、手元にありますw 史料問題なんかを作るのに便利なのでわりと重宝します。

image0 (2) - コピー

「そんなに値の張るものではないので…」と言おうと思って今アマゾンで調べてみたら、「単行本6,722/ 6,630円より中古品14」。…は?たっかw ちなみに、私が買った時は2300円でした。定価は…3200円。価格崩壊してないかw この手の史料を自腹で買わなきゃいけない環境ってどうかしていると思いますけどね…。史資料にいくら自腹切っとるんじゃ、わし。

 さて、本設問では、同史料のうち「チェコの共同体(と、神のもとに忠実なキリスト教徒たち)」がこの4か条以外には求めず、何もなさないことを示す冒頭の文章と、第4条のみが示されています。この史料からは、以下の内容が読み取れれば十分でしょう。

 

① 「チェコの共同体」とは何かを考察する

:フス派は、農民など庶民のみに波及した宗教勢力ではなく、チェコの貴族を巻き込んだ大規模なものでした。また、ベーメン(チェコ)の「ドイツ化」にともなって貴族・庶民の広い層が一定の「民族意識」と言えるものを醸成していたことにも注意が必要です。これについては後述します。

 

② 「死に値する罪」

:このプラハの4か条では、第4条で「死に値する罪」とは何かを列挙しています。それは聖職者による聖職売買、サクラメント(秘跡:洗礼、堅身、告解、聖体拝領、結婚など)やその他の儀式にあたっての金銭の徴収(金銭の徴収が繰り返し示される点に注意)などとされています。このことからは、当時のチェコ(ベーメン)において、これらのことが横行しており、フス派はこれら聖職者の堕落行為については取り締まられるべき行為であると考え、カトリック教会を批判していたことがうかがえます。

 

【手順2、フス戦争にいたった経緯の確認】

:つづいて、フス戦争にいたった経緯ですが、これについては政治的な側面と宗教的な側面の両方を確認する必要があります。もっとも、この頃の政治と宗教って厳密には分けられないものなのだと思いますが、高校生にはきっとその方がまとめやすいかと思いますので。

 

① 政治面

14世紀)

ベーメン王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の統治

‐チェック人としてのアイデンティティを強く持つ

   ‐ルクセンブルク家

   ‐プラハ大学設立、金印勅書の制定、教皇のローマ帰還に尽力(教皇のバビロン捕囚終結)

 =非常に強い力を有していたがゆえに、ベーメンの君主としての性格を損ねずに皇帝位を利用

 

15世紀)

同じルクセンブルク家の統治だが、強い指導力を発揮できず

→ベーメンの‘ドイツ化’の進展(ドイツ系貴族や聖職者の影響力拡大)

→ドイツやカトリック教会による抑圧への反発、チェック人の「民族意識」醸成

 

② 宗教面

A 教会の分裂と腐敗に対する不満

130977 教皇のバビロン捕囚

:カール4世(カレル1世)は教皇がアヴィニョンからローマに帰還するよう尽力

13781418 大シスマ

・教会、聖職者の豪奢な生活

 

B ウィクリフによる教会財産の否定と聖書主義

 

C ウィクリフの影響を受けたフスの改革とフス派の形成

・プラハ大学でウィクリフ支持・不支持の論争

→フス派の優勢、チェコ語による説教、フスのプラハ大学学長就任

(教会の世俗化批判、聖書主義、平信徒もパンとワインによる聖餐)

     ※当時のカトリックの聖餐はワインのみ

→フスのことは貴族も支持

 

D コンスタンツ公会議(14141418)とフスの火刑(1415

:公会議主義と教皇権の衰退もあるが、フス戦争の展開と直接的な関係はない

 

【手順3、フス戦争の展開(本設問では戦争の詳細については不要)】

:続いて、フス戦争の展開について簡単にまとめてみたいと思います。もっとも、本設問では戦争に「至った経緯」と「結果」だけ聞いているので、戦争の詳細については不要です。ただ、フス戦争の簡単な流れを知っておくと、「経緯」や「結果」についての理解も深まると思いますので、示しておきたいと思います。

 神聖ローマ皇帝ジギスムントが会議中の身の安全を保障したにもかかわらず、コンスタンツ公会議でフスが異端とされ火刑に処せられたことに憤激したベーメンのフス派たちは、1419年にプラハ窓外投擲事件(第1回、プラハ城を襲った民衆によって王の使者5名が城3階の窓から投げ落とされた事件)を引き起こしてフス戦争を開始します。ちなみに、この「プラハ窓外投擲(放出)事件」は世界史の教科書には出てきませんが、三十年戦争開始の発端となったベーメンの新教徒反乱(1618)開始の際にも発生しています。これは、1618年に反旗を翻したベーメンの新教徒たちが、1419年の事件を意識して行ったことは想像に難くありません。この第2回の事件の時にはなぜか下に干し草が積んであって、投げ落とされた使者たちは一命をとりとめたそうです。

Defenestration-prague-1618

Wikipedia「プラハ窓外放出事件」より)

 

その後、フス派はフス戦争の英雄で傭兵上がりのヤン=ジシュカによる新戦法(銃・弩・装甲馬車の使用、軍紀の徹底)を導入して、神聖ローマ皇帝ジギスムントの率いる十字軍と対決することになります。当初は、チェコのフス派貴族と庶民も協力し、ジシュカの新兵器と新戦術、強い信仰心によって非常に強力な軍隊となり、神聖ローマ皇帝ジギスムントの十字軍をたびたび破りました。このあたりのことをイメージしたいと思ったら、上述した大西巷一『乙女戦争/ディーヴチー・ヴァールカ』(双葉社)がおすすめです。たしかに、フィクション的要素も多く、また描写にどぎつい部分(拷問、処刑、性暴力、性奴隷などの描写が多く登場します)も多くあり、評価の分かれる作品かと思います。ところどころ歴史的題材についての描写が丁寧に描かれていますし、何よりフス戦争を事細かに描いたサブカルチャーが限られている中で、フス派の内紛やジギスムント配下の貴族の力関係までマンガで描かれているというのは希少かと思います。

otomesennsou - コピー

ⓒ 大西巷一『乙女戦争/ディーヴチー・ヴァールカ』(双葉社)

 

さて、当初は快進撃を続けたフス派でしたが、次第にフス派内部の急進派(ターボル派)・穏健派(ウトラキスト)の対立やジギスムントの調略工作によって内部分裂が激しくなってきます。その結果、フス派は急進派と穏健派に分かれることになりました。

 

  急進派:厳格な信仰、財産共有制などの社会変革と徹底抗戦を主張

  穏健派:戦争の終結を望む、貴族や都市上層、商人層など

 

こうした中、1434年のリパニの戦いでは、カトリックとフス派穏健派が手を結んで作られた連合軍がフス派急進派を打ち破ります。これによってフス戦争は実質的には終結し、その後のバーゼルの誓約(1436)が結ばれて、フス派穏健派の聖餐が承認されたことによって講和が成立します。また、フス派穏健派に対する異端認定も、その後しばらくして解除されることになりました。重要なことは、フス戦争の終結はフス派の根絶を意味しなかったということです。上述の通り、フス派穏健派は神聖ローマ皇帝やカトリック勢力と妥協することで、フス派式聖餐を承認され、かつ異端認定を取り消されます。つまり、1618年に三十年戦争のきっかけを作る「ベーメンの新教徒」というのは、このフス派穏健派の流れをくんでいるわけです。

Hussites

ベーメンにおけるフス派支配領域の変遷(Wikipedia「ウトラキスト」より)

 

【手順4、フス派が戦った対象】

:では、フス派が戦った対象とは、何だったのでしょうか。これについては、世界史の知識や史料の読み取りなどから以下のことを導くことが可能です。

 

①教会の腐敗、堕落(史料より)

:フス自身は教皇の権威を否定していませんでしたが、フス派はカトリック教会を否定、批判します。

 

②ドイツ化からの脱却、チェコ人の民族意識と自由(vs神聖ローマ皇帝)

:フス派は、当初ベーメンへの影響力を強めようとする神聖ローマ皇帝ならびにドイツ系諸侯と対立していました。また、宗教・文化的にもたとえば「大学におけるチェコ語の使用」などが求められたことは、後の宗教改革にもつながる聖書主義的要素が認められるだけではなく、チェコ(ベーメン)人としての民族意識を垣間見ることができます。ただ、フス派穏健派は最終的にはカトリックとの妥協の中でジギスムントのベーメン王即位を認めることとなりました。

 

③封建社会の変革を求める

:これは、たとえば急進派による共有財産制の主張などにはっきりと認めることができます。後のドイツにおいて発生するドイツ農民戦争で掲げられた「12か条」に見られるような諸要求が、フス戦争の最中にも見られた点については確認しておくべきかと思います。

 

【手順5、フス戦争の結果と歴史的意義】

:以上を踏まえた上で、フス戦争の結果と歴史的意義をまとめると以下のようになるかと思います。結果については十分に書けない受験生が多い気がします。せいぜい「フス派は鎮圧された」くらいで終わってしまうのではないでしょうか。もともと与えられている情報が少ないので、それはそれで問題ないかと思いますが、その分、歴史的意義については後の三十年戦争へとつながる宗派対立の残存について、しっかりと示しておきたいところです。

 

(結果)

 ・ベーメンにおけるフス派穏健派ならびに神聖ローマ皇帝との妥協

 ・フス派の聖餐承認と異端認定の解除(一定の信仰の自由)

 ・ベーメンの国土荒廃

 

(歴史的意義)

 ・カトリックとの宗派対立の残存

 ・支配権をめぐる神聖ローマ帝国とチェコ貴族とのせめぎあい

 1618年のベーメン新教徒反乱(第2回プラハ窓外投擲事件)と三十年戦争へ

 (1620年の白山[ビーラー=ホラ]の戦いでフス派壊滅後はカトリック化)

 

【解答例】

 14世紀にベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝となって以降進展したドイツ化と、聖職者の堕落や大シスマで混乱するカトリックによる支配にチェック人は不満を募らせた。英のウィクリフの影響を受けたプラハ大学のフスは、聖書主義やチェコ語の使用、パンとワインによる聖餐などを訴えたが、神聖ローマ皇帝ジギスムントが主催したコンスタンツ公会議でウィクリフとともに異端とされ、火刑に処せられた。憤慨したフス派信徒はフス戦争を起こし、聖職者の堕落を批判してローマ教会の権威を否定し、チェック人としての民族意識を高めてジギスムントに反抗した。フス派の一部急進派は財産共有や信徒の平等などの社会変革を求めたが次第に穏健派との対立が高まり、穏健派を懐柔したジギスムントが急進派を壊滅させてフス戦争は終結した。ベーメンではフス派穏健派の信仰が認められ、チェコ貴族の勢力も維持されたため、後の三十年戦争へ続く火種を残すこととなった。(400字)

上の解答について補足しますと、「フスは…コンスタンツ公会議でウィクリフとともに異端とされ、火刑に処せられた。」とありますが、これは「異端とされた」部分のみが「ウィクリフとともに」のかかっている部分として読んでください。なぜかと言いますと、ウィクリフはコンスタンツ公会議時点ではすでに死んでおり、火刑とされたのはフスのみだからです。ただ、異端とされたウィクリフの墓も暴かれ、遺体は掘り起こされて焼かれ、その灰は川に流されたと伝えられています。

Wycliffe_bones_Foxe
遺体を焼かれ、灰を川に流されるウィクリフ
Wikipedia「ウィクリフ」より)
 

2011 一橋 Ⅱ

:大問Ⅱでは、『特命全権大使米欧回覧実記』からうかがえる岩倉使節団の様子が示されています。私は専門ではないので通り一遍の情報しか知らず、手に取ったこともありませんが、あちこちの入試で引用される史料なのでよほど魅力的な史料なのでしょうか。「歴史総合」の新設で日本史と世界史の融合的要素が増えてくることになると思いますので、その意味からも今後も良く出題される史料になると思われます。

 

【1-1、設問確認[問1]

大問Ⅱは、問1(50字以内)と問2(350字以内)に分かれています。

(問1)

・明治6年の2年足らず前にパリを舞台にして起こった出来事について説明せよ。

 

【大問Ⅱ、問1の解答例】 

問1、普仏戦争後にパリ市民が樹立した世界初の社会主義政権パリ=コミューンは、ティエールに鎮圧された。(「問1、」の部分を含めて50字)

 

(ポイント)

・まずは、年代を確認します。明治4年は1871年です。

・さらに、ヒントとして「大規模な戦闘」が行われたことや、マルクスが『フランスにおける内乱』で議論したことなどが紹介されています。これだけでもパリ=コミューンのことが問題となっていることは明らかで、基本問題かと思います。マルクスはパリ=コミューンを主導していたのが労働者たちであり、史上初めて「プロレタリア独裁」を宣言した政府であったこととの関係を想起すれば良いかと思います。

 

【1-2、設問確認[問2]

(問2)

・明治6年(1873年)に先立つ十数年間におけるヨーロッパの国際関係の変化について

①「この変化」を説明せよ

②「この変化」が準備し、この世紀の末(19世紀末)に顕著になる国際関係上の趨勢を視野に入れよ

 

後述しますが、設問の意図が非常にとらえにくい設問です。読みようによってどうとでも取れてしまう部分があり、もう少し丁寧に設問の指示を出してほしいなぁというのが正直な感想になります。「この変化」、「この世紀」などの表現も、もうちょっとどうにかしてほしいですね。読みにくいです。素直に読み取れば、19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢を準備した、1873年に先立つ十数年間におけるヨーロッパの国際関係の変化について説明せよ。」となります。

 

【2、1860年代~1870年代前半の国際関係の変化】

・時期:意外に時期の特定が難しいです。1873年に先立つ「十数年間」ということで、20年はありません。とすれば、11年前~19年前だとして1862年~1854年あたりが本設問の開始時期となり、想定されている時期は[1854-1862]1873ということになります。

・時期を特定しても設問の意図が読めないので、とりあえずこの時期に起こった世界史上の大きな出来事を列挙してみると、世界史の教科書的には以下のような内容が想像できるかと思います。

 

クリミア戦争(185356

ビスマルクの主導によるドイツ統一

サルディニアの主導によるイタリアの統一

フランス第二帝政の展開

パクス=ブリタニカの展開

ロシアの改革とその後の反動化

(南北戦争とアメリカの発展):設問では「ヨーロッパの」とされているので、アメリカは念のため

 

・この時期にヨーロッパの国際関係が「変化」したのであるから、「変化前」と「変化後」があると考えるべきです。ただし、これも1854年が始点なのか1862年が始点なのかでかなり様子が変わります。

 

1854年が始点の場合)

 ウィーン体制の崩壊とそれにともなう変化

1862年が始点の場合)

 独・伊による「上からの統一」とヨーロッパにおける国民国家形成の進展

 

→すぐには特定できないので、やや広く時期を取った上で、特に「19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢」と関連しそうな事柄を整理していくことにします。

 

【3、19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢とはなにか】

:これについては、各国の帝国主義と植民地獲得競争を想定すれば良いかと思います。1880年代まではいわゆる「公式帝国主義」の時代で、欧米先進国による領土の単独・直接支配が進められていきます。また、外交的にはビスマルクによる外交調整が展開して、ヨーロッパの国際関係は一応の安定を保っていきます。

しかし、1890年代に入ると「非公式帝国主義」の時代に入り、資本投下を通じた間接的支配が拡大していきます。また、外交的にはビスマルクの引退とヴィルヘルム2世の世界政策の展開によって、欧米先進諸国間の緊張が急速に高まっていきます。こうした中で、英・露・仏などの先進帝国主義間では支配権の調整が進められ、独・伊などの後発帝国主義諸国は植民地の再分割要求を行い、軍事衝突の危機が拡大していきます。

また、世界の一体化の「実質化」が進展し、アジア・アフリカなどの従属地域にヨーロッパなどの支配地域の価値基準が導入されて、伝統的な社会構造や、文化体系の破壊・再編が進んでいく点にも注意が必要です。日本の「文明開化」などはその例の一つですし、東大の2020年の問題が「東アジアの伝統的な国際関係の変化」というテーマで示したものも広くとればこの例として見ることもできるかと思います。

 

【4、指定語句の確認】

:設問の意図が、どうやら19世紀末の帝国主義(政策)拡大と、各国間の緊張の高まりを準備した「ある変化」にあるらしい、ということは見えてきましたが、肝心の「ある変化」とは何か、がいまいち見えてこないので、試しに指定語句と関連する知識を整理してみます。

 

・教皇

:おそらく、普仏戦争時の教皇領併合(1870年)とイタリア統一の完成の文脈で用いる

 

・ヴェルサイユ

:ヴェルサイユ宮殿鏡の間におけるドイツ皇帝の戴冠式(ドイツ帝国成立)

 

・資本

:植民地への資本投下、独占資本の形成など(各国の帝国主義政策の拡大と関連付ける)

 

・バルカン

:スラヴ系諸民族の独立や、パン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立など

 

・アフリカ

:ベルリン会議(18841885)とアフリカ分割、ビスマルクの主導

1890年代~、ヴィルヘルム2世の世界政策と緊張の高まり

 

【5、3と4を踏まえた「変化」の再確認】

:ここまで来て、ようやく「1873年に先立つ十数年間に起こったヨーロッパの国際関係の変化とは何か」が見えてきます。予想の範囲内ではありましたが、これはやはり、ウィーン体制の崩壊にともなって国際協調が崩れ、各国の利害対立が前面に出やすくなり、争いへと発展しやすくなる環境が出現したことを言っているのだと考えてよいでしょう。教科書的には、1848年革命によってウィーン体制は崩壊したとされることが多く、それは必ずしも間違いではないのですが、より正確に言えば、「正統主義」に基づく各国の専制支配が1848年革命によって大きく変化したのに対し、「勢力均衡」が完全に崩壊するのはクリミア戦争によってです。クリミア戦争前までは、まだウィーン体制の屋台骨となってきた露・墺の対立が顕在化することはありませんでした。しかし、この戦争では、ロシアの後進性が明らかとなったことや、オーストリアが外交的調整力を発揮できなかったことから、両国の国際的地位が大きく低下します。また、クリミア戦争の終戦間際にオーストリアが連合国側(英・仏・サルディニア側)で参戦する用意があると表明したことや、その後のバルカン半島をめぐるパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立が高まったことなどから、墺露関係は急速に冷え込んでいくことになりました。つまり、ウィーン体制の二大原則のうちの「勢力均衡」はオーストリアとロシアの協調関係が完全に崩壊したクリミア戦争で消え去ったと、とらえることもできるわけです。

 以上のことを踏まえて、1854年以前と以降の世界の違いを表にすると以下のようになります。

画像1 - コピー


わかりにくいところもあるかと思いますので補足しますと、たとえば、正統主義に基づく各国の君主による専制支配は、1848年革命を境に大きく変わりますが、どの国でも一気に変化したのかといえばそうではなく、地域によっては緩慢な、時として反動化をともないながら諸改革が進められていきます。その一つの例がオーストリアの状況です。『詳説世界史研究』(山川出版社)の2017年版に書かれている、この時期のオーストリアの状況を引用してみましょう。

 

 1850年代はドイツ・オーストリアとも政治的反動期になった。とりわけ、オーストリアでは1848年革命のさなかに即位したフランツ=ヨーゼフ皇帝(位18481916)のもとで、先の欽定憲法すら撤回され、カトリック教会の復権、出版の規制などの露骨な反革命政策がとられ、「新絶対主義」とよばれた。しかし、新絶対主義はたんなる反動ではなく、上からの近代化が推進された時期でもあり、身分制特権の廃止、パリにならったウィーンの都市改造・行政改革も実施された。一方、オーストリアは対外的にはクリミア戦争で友好関係にあったロシアを支持しなかったため、以後両国関係が冷却化し、サルデーニャ王国との戦争で北イタリアを失うなど、国際的地位を低下させた。(前掲書、p.342

 

実は、このくだりは、これまでの教科書や参考書ではあまり詳しく書かれてこなかった部分です。お読みいただければ、上で述べたこととの整合性も確認でき、ご納得いただけるのではないかと思います。

また、これとは別に、19世紀後半のパクス=ブリタニカの下でも、イギリスの自由貿易政策に対抗して保護関税政策を進める独・米のような国がある点には注意が必要です。

19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢」は各国の帝国主義政策の拡大と、緊張の高まりを示していると考えられるので、それを準備するような「変化」を示すのが良いでしょう。「変化」として考えることができるのは以下のような内容としてまとめることができます。

 

①ウィーン体制の完全崩壊と国際協調の崩壊(ただし、1870年代からビスマルクが一時再構築)

②各国の国内改革と近代化の進展

③独・伊の統一によるヨーロッパにおける国民国家体制の成立

④第二次産業革命の進展と産業構造の変化、資本主義の発展と独占資本の形成

 →原料供給地・市場・投資の場としての植民地を獲得するための各国の競争が激化

 →イギリス1強(パクス=ブリタニカ)に対抗する新興勢力の出現(ドイツなど)

 

【大問Ⅱ、問2の解答例】

問2、1848年革命でウィーン体制が崩壊し、クリミア戦争で列強体制が消滅すると、ヨーロッパ諸国は国内改革や経済発展に専念した。英仏がアジア進出、露が南下政策で勢力拡大を図る一方、普仏戦争に勝利したヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を行い、イタリア王国は教皇領併合で統一を完成して国民国家形成に成功した。ビスマルクがヨーロッパの列強体制を再構築したものの、バルカンをめぐるパン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義の対立は高まりつつあり、第二次産業革命の進展と独占資本の形成は、原料供給地・市場・投資先としての植民地拡大圧力を強めたため、帝国主義政策を採用した列強はアジア・アフリカへと進出した。さらに、後発国ドイツのヴィルヘルム2世の世界政策は植民地獲得競争を激化させ列強の緊張関係を高めた。(「問2、」の部分を含めて350字)

 

こんな感じではないでしょうか。この設問は、設問自体が読み取りにくい上、教科書や参考書からも読み取りにくい内容がテーマとして設定されているため、非常に難しい設問です。ただ、どちらかといえば意地悪な設問に属する問題であるため、いわゆる「できる人とできない人で差のつく問題」ではありません。つまり、世界史のできる人も、あまり世界が得意でない人も、おそらく最大限欠ける内容にあまり差がでないタイプの設問ではないかと思います。以前から申し上げている通り、この手の設問では「設問の指示をしっかり守り」、「自分の可能な限りの知識を整理して」、「他の受験生と差のつかない」、不時着的な解答を作成できれば十分だと思います。そういう意味で、大問Ⅱは確かに苦労させられる設問ではありますが、全体として障害になるほどの設問ではないかと思います。

2011年 一橋 Ⅲ

2011年の第3問は、基本的には清とその周辺史で、この時期の一橋では頻出の箇所で受験生も十分な準備をしてきたところではないかと思います。また、設問自体も空欄補充を含む200字論述が二つと小ぶりで、頭をつかって複雑な組み立てを必要とする設問ではありませんでした。おそらく、この年の一橋対策をしてきた受験生でこちらの設問が「めちゃくちゃ難しい」と感じた人はあまり多くなかったのではないでしょうか。清朝史については、過去記事にも掲載しておりますので、細かい解説はそちらに譲り、ここではポイントだけ示していきたいと思います。

 

問1

【1、設問確認】

:空欄補充は以下の通りです。鄭芝竜のみ、少し難しいかなと感じる設問で、あとは基本問題です。

 

A 鄭芝竜

2行目の「息子の(B  )は…」という部分で判断可能です。

 

B 鄭成功

:国姓爺とも呼ばれますね。1662没で、息子は鄭経です。(1681没、その後は鄭克[こくそう]

近松門左衛門の人形浄瑠璃は『国性爺合戦』と、少し字が違うのは「史実とは異なる」話だからだそうで。

 

C 遷界令

 

D オランダ

:Dがオランダになりますので、問1の残りの論述は「オランダが17世紀アジアにおいて展開した活動について述べよ」という要求だと分かります。このDを埋められないと問1が丸々解けないことになるので、そういう意味ではきついですね。

 

【2、オランダとアジア進出】

:設問の要求にしたがって、オランダのアジアでの活動を地域ごとに簡単にまとめてみます。

 

(東アジア~南アジア)

1602 連合東インド会社(VOC)設立

1619 バタヴィア(ジャワ島)

1623 アンボイナ事件 

   :モルッカ諸島の香辛料貿易独占

1624 台湾(ゼーランディア城)

1641 マラッカ 1656 セイロン:ポルトガルから奪う

1652 ケープ植民地を建設

 

(対日貿易)

1609 平戸:生糸、銀を中心に取引(1639の「鎖国」以降はヨーロッパ貿易を独占)

1641~ 長崎(出島)

 

(西アジア)

・オスマン帝国のカピチュレーションを得る(1613

・サファヴィー朝とも交易(イスファハーンの建設は1597

    余談ですが、イスファハーンでのオランダの活動について言及した史料を用いた設問が2014年の東京外国語大学の設問で出題されています。こちらの東京外語の問題は結構手ごたえのある問題です。

 

【解答例】

A鄭芝竜B鄭成功C遷界令Dオランダ:オランダは連合東インド会社を設立し、ジャワ島のバタヴィアに総督府をおき、アンボイナ事件で英を駆逐し香辛料貿易を独占した。日本の鎖国完成後は平戸から長崎の出島へ移り、欧州諸国として唯一貿易を許されて生糸と銀の取引で利益をあげた。アジア東部への中継点として台湾にゼーランディア城を築き、ポルトガルからマラッカやセイロンを奪い、オスマン帝国やサファヴィー朝とも交易した。(全て含め、200字)

 

問2 

【1、設問確認】

・三藩の乱(反乱名自体も設問の対象)の経緯と清朝史において有した意味

 

【2、三藩の乱(1673-81)】

:三藩の乱については、清朝史の前半における基本です。鄭氏台湾の平定と、この三藩の乱の鎮圧によって、ついに清は中国全土の完全支配を達成します。三藩の乱では、基本的には呉三桂をおさえておけば十分なのですが、参考書によってはその他の藩王たちも紹介されていることがありますので、一応データだけ示しておきます。解答に尚可喜だの耿精忠だのを盛り込む必要はないと思います。

 

・呉三桂(雲南、平西王)

・尚可喜(広東、平南王)  

[尚可喜(老いて引退を申請したところ廃藩を言い渡される)→尚之信(反乱の中心)]

・耿精忠(福建、靖南王)  

[耿仲明(初代)→耿継茂(1671没)→耿精忠(反乱時)]

 

・康煕帝の即位後、三藩の廃止が決定されたために反乱

・台湾の鄭氏(鄭経)と連動

・フェルビースト(南懐仁)による清への協力と大砲の製造

 

【3、清朝史において有した意味】

・長江以南の制圧による中国大陸の完全支配

・台湾の制圧

→中国全土の直轄化の完成 

→海禁の終了(遷界令の解除1684、海関の設置1685

 

【解答例(オリジナル)】

三藩の乱。李自成の乱鎮圧に際し山海関を開いて功をあげた明の降将呉三桂は、平西王として雲南に封ぜられたが、康煕帝即位後に三藩廃止が決定されると興明討虜を掲げ、尚之信や耿精忠ら他の藩王と三藩の乱を起こした。反清復明を目指す台湾の鄭経とも連動して清打倒を図ったが、フェルビーストの大砲なども用いた清軍により鎮圧され、長江以南と台湾を制圧した清は中国全土の直轄支配を完成し、遷界令を解除して海禁を終わらせた。(200字)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2021年の一橋の問題です。結論から申し上げますと、これまでの一橋の問題と比べて特別難しいと感じさせる設問ではありませんでした。かなり「手ごたえがある」と感じたのは第2問でしたが、これも例の「一橋の無茶ぶり」っぷりからいえばまだかわいい方で、文化史をしっかり理解している受験生であれば「とっかかりもない」ような設問ではなかったように感じます。難しいですけどねw 第1問、第3問についても標準的な問題の範囲内ではありますが、ところどころに細かい注意を払うべき点や、細かな知識が必要となる部分がありました。全体としては、普段からの勉強と知識量の差・丁寧な理解・丁寧な設問の読み解きが少しずつ積み重なってかなり大きな差となる設問であったように感じます。選抜試験という意味では良問の類に入るのではないでしょうか。逆に、取り組む側からすれば、個々の設問の難度はそこまで高いものではないにもかかわらず、総合すればかなりの注意力と集中力を必要とした設問だと思います。

 

2021 一橋Ⅰ

 

1、設問確認】

・アヤ=ソフィア=モスク(ハギア=ソフィア聖堂)建造の時代背景を説明せよ。

・モザイク(聖母子像)の銘文設置の政治的、社会的背景を説明せよ。

・複数回にわたる転用がなぜ起こったのかを念頭におけ。

・この建物の意味の歴史的変化を論ぜよ。

400字以内

 

【2、建造の時代背景】

:現在のアヤ=ソフィアはユスティニアヌスによって再建されたものです。山川用語集などにも「6世紀にユスティニアヌス大帝が再建したもの」(2018年版)となっていますので、再建前のものについては気に留める必要はありません。ですから、時代背景についてはユスティニアヌス時代のビザンツ帝国を取り巻く背景をまとめておけば問題ありません。

 

(まとめるべき事項)

・ユスティニアヌスが再建

・コンスタンティノープルはギリシア正教の中心地に(総主教座の設置)

・ビザンツ様式

 

【3,モザイク銘文設置の政治的・社会的背景】

:これについてはレオン3世による聖像禁止令(726)にかんする内容がしっかり頭に入っていればそれほど問題なかったかと思います。ビザンツ皇帝レオン3世が発した聖像禁止令によってビザンツ帝国各地で聖像(イコン)の破壊運動(イコノクラスム)が発生しました。このことがローマ教会との対立の一因となったことは模試や大学入試では頻出事項です。また、イコン崇拝の正統性は787年に皇后エイレーネーによって一時確認されたものの、815年には再度発令され、843年には皇太后テオドラによって撤回され、それ以降ビザンツ帝国ではイコン崇拝が復活します。

テオドラとエイレーネーについては、私の確認した限りでは『詳説世界史B』(山川出版社、平成28年度版)、『世界史B』(東京書籍、平成28年度版)ともに記載がありませんでした。聖像禁止令の撤回については東京書籍版『世界史B』には「聖像崇拝をめぐる論争ののちに843年に聖像崇拝禁止令が解除されると、神や聖人を描いた聖像画(イコン)がさかんに制作された。」(p.141)とあります。また、『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)の方には「イコノクラスム」についてのコラムがあり、そこに「ときの皇帝が主導し、2度にわたったイコンに対する制限は、それぞれテオドラとエイレーネーという2人の女帝が解除した。」(p.167)とありますので、上記に示した情報の概要は確認することができます。[ちなみに、旧版の『詳説世界史研究』(2008年版)では「8世紀の末、女帝イレーネ(797-802)は聖像崇拝を復活し、その後、一時論争が再燃したものの、843年には聖像崇拝が正統と認められ論争は終わった。」]とあります。ですから、かなり突っ込んで学習している人であればエイレーネー(イレーネ)やテオドラの名前まで出すことも可能であったかもしれません。もっとも、ここでは二人の名前はまったく重要ではなく、大切なことは「レオン3世の聖像禁止令で聖像破壊運動が起こったが、その後聖像崇拝は復活した」ということを示せるかどうかです。そもそも、ビザンツでイコノクラスム(聖像破壊運動)が維持されたままであるならばモザイク画などのビザンツ美術の発展が見られるわけがありません。そのあたりのところを丁寧に確認できているかどうかは大切な要素であったと思います。

 また、そもそもレオン3世がなぜ聖像禁止令を出したのかということについては、いろいろと議論は出されていますが、結論は出されていません。この点について、『詳説世界史B』は「…偶像崇拝を禁ずるキリスト教の初期の教理に反すると考えられたこと、また偶像をきびしく否定するイスラーム教と対抗する必要にせまられたことから…(中略)…聖像禁止令を発布した。」(p.125)と、わりと言い切っちゃってますw 『詳説世界史研究』(2017年版)の方では「イコノクラスムの動機については、偶像崇拝を強く拒否するイスラームの影響や、イコンや聖遺物を用いる教会・修道院の影響力や経済力の拡大を制限しようとしたものとする見解が並び、結論は出ていない。」としています。

ただ、本設問では「政治、社会的背景を説明せよ」とありますので、何らかの説明はしておきたいものです。まず、事実として間違いなくあるのは、この聖像禁止令が修道院(聖像作成などに深くかかわっていた)からの反発を受けたことと、修道院が弾圧の対象となってその没収された領地が皇帝領とされたことです。また、聖像禁止令がすでに悪化しつつあった東西教会の対立をさらに悪化させ、いわゆる「カールの戴冠」へとつながっていく要因の一つとなったことも定説となっています。また、当時ビザンツ帝国がイスラームの脅威にさらされていたことも間違いのないところです。ですから、たとえば「イスラームの圧迫を受け宗教の統制を図ったレオン3世が聖像禁止令を出し、修道院を弾圧して集権化を進めたが、ローマ教会との対立を招いた。」くらいの内容であれば、事実に反することを書くことなく、学説上議論のある部分にも触れずにまとめられるかと思います。

もっとも、山川教科書にあるように「偶像崇拝を禁ずるキリスト教の初期の教理に反すると考えられたこと、また偶像をきびしく否定するイスラーム教と対抗する必要にせまられたことから」って書いちゃってもいいですけどね。学説的に議論があろうがなかろうが、何といっても教科書に書いてあるわけですからw 「受験生が学説上の議論まで気にしていられるか」ってことですもんねw ただ、私は歴史畑の出身のせいか、どうしてもその辺はこだわりたいのですよ。となると、与えられた材料の中での落としどころを探すことになります。

 

(まとめるべき事項)

・レオン3世の聖像禁止令(726

・聖像禁止令によってイコノクラスム(聖像破壊運動)が起こった

・聖像禁止は東西教会の対立を招いた

・聖像禁止令が出された当時はイスラームの圧迫にさらされていた

・ビザンツ帝国の修道院勢力が弾圧され、皇帝権力の強化が図られた

・聖像禁止令は9世紀半ばに撤回され、イコン崇拝が復活した

 

【4、複数回にわたる転用】

:続いて、「複数回にわたる転用」とは何を指すかを確認します。ハギア=ソフィア聖堂がアヤ=ソフィア=モスクに転用されたことはよく知られていますが、「複数回」ということになればこれだけでは不十分です。ハギア=ソフィアの「転用」については、以下の②・③は最低限必要な内容で、その詳細についても記述する必要のある部分です。

 

① 第4回十字軍後のカトリックによる接収(1204年~1261年)

② メフメト2世によるモスクへの転用(1453年)

③ トルコ共和国建国後の博物館への転用(1935年)

④ エルドアン政権下でのモスクへの転用(2020年)

 

 これらのうち、第4回十字軍についてはキリスト教のカトリックが接収するものになるので、考え方によっては記述する必要はないかもしれません。(これを「転用」と言ってよいのか、ということですね。カトリックとギリシア正教は儀式等についてかなりの違いがありますので、「転用」に含めて問題ないかとは思いますが。) 13世紀はじめに始まった第4回十字軍は教皇インノケンティウス3世の提唱で始まりましたが、実際の運用面についてはヴェネツィアが行っており、実利を追い求めた諸侯とヴェネツィアが本来の十字軍の目的から逸脱し始めます。そうしたところにビザンツ帝国で帝位継承争いに敗れた皇子がやってきて、十字軍に助力を乞うたことがきっかけとなり、この十字軍はビザンツ帝国の帝位継承問題に首を突っ込むこととなりました。最終的にビザンツ帝国の都コンスタンティノープルは陥落し、略奪の限りを尽くされた上で、この地には十字軍諸侯の一人であったフランドル伯ボードゥアンを皇帝に、財政・軍事部門をヴェネツィアが実質的に担当するラテン帝国が成立します。この時、都を追われたビザンツ勢力は小アジアにニケーア(ニカイア)帝国やトレビゾンド帝国、バルカン半島西岸にエピロス専制侯国などの亡命政権が成立します。最終的に、これらのうちのニケーア帝国が1261年にコンスタンティノープルを奪回してラテン帝国を滅ぼした結果、ビザンツ帝国最後の王朝であるパラエオロゴス朝がミカエル8世によって復興されます。これによってハギア=ソフィアは再びギリシア正教によって回復されることになります。(このあたりの事情も、一応新版『詳説世界史研究』には簡潔ではありますが示されています。)

1ニケーア帝国

Wikipedia「ニカイア帝国」より)

 

続くメフメト2世によるコンスタンティノープル占領とビザンツ帝国の滅亡、モスクへの転用などは基本事項になります。基本的な事柄ではありますが、重要事項ですので書き漏れのないようにしましょう。また、ミナレットの増設などにも言及しておくとよいと思います。

その後、20世紀に入ってオスマン帝国が滅亡します。オスマン帝国の滅亡については以前東大の2019年問題解説の方で簡単にではありますが言及しています。オスマン帝国滅亡後に建国されたトルコ共和国の下でアヤ=ソフィア=モスクは博物館へと転用されるわけですが、これについては単に「博物館に転用された」と書いても、すでに設問の方に示されている事実ですので、おそらく加点はされないと思います。(もっとも、「トルコ共和国」や「ムスタファ=ケマル」については加点対象かもしれません。) ここで大切なことは、トルコ共和国の初代大統領となったムスタファ=ケマルがトルコ民族主義に基づく世俗化と近代化を進めたことです。(なぜ、トルコ民族主義がイスラームと距離を置くことになったのかについては、以前オスマン帝国末期の「オスマン主義」、「パン=イスラーム主義」、「パン=トルコ主義(トルコ民族主義)」について言及した箇所でお話ししていますので、詳しくはそちらをご覧ください。) つまり、アヤ=ソフィア=モスクの博物館への転用は、ムスタファ=ケマル政権下のトルコ共和国における世俗化という文脈の中で起こった出来事になりますので、それを理解して明示しておく必要があるかと思います。

最後に、エルドアン政権下でのモスクへの転用(復帰)についてです。これについては、博物館へ転用された時とは逆の力が働いています。トルコでは建国以来、長らく政教分離の世俗主義が貫かれてきました。しかし、この20世紀の後半になると、この世俗主義がトルコ人口のほとんどを占めるムスリムの生活・社会を壊し、格差の拡大を助長していると考えられ、イスラームの教えに基づく社会への回帰をもとめる保守層や生活の安定を求める貧困層などを中心にエルドアンへの支持が拡大しました。(→このあたりの事情についてまとめた記事がありましたので紹介します。)このような背景から、2003年から首相、2014年から大統領を務めるエルドアンは、女性のスカーフ着用の解禁や酒類の販売制限など、イスラーム回帰的な政策を強く打ち出しています。こうした事柄についてはもちろん教科書等には出ていませんが、わりと頻繁にニュースでも出てきますし、多少気の利いた先生なら授業の合間に紹介してくれることもあるかもしれません。また、ものすごくよくできる受験生であれば、もしかするとこのあたりのことを解答に盛り込んだ受験生もいたかもしれません。

もっとも、本設問ではエルドアン政権下でのモスク回帰については書く必要はないと思います。(書いても問題ないですし、場合によっては加点されるかもしれません。)ただ、出題者が上記のトルコ情勢に関心をもって出題したことは明らかです。トルコについては2018年の京大、2019年の東大でも出題されましたし、今の歴史学界の学者たちがトルコ問題(に限ったことではないでしょうが)にかなりの関心を向けていることが感じられます。

 

【解答例】

 ビザンツ帝国のユスティニアヌスが建造したビザンツ様式のハギア=ソフィア聖堂には総主教座がおかれギリシア正教の中心地だった。イスラームに対抗して宗教統制を図るレオン3世の聖像禁止令はローマ教会との対立を招き、帝国内部でもイコノクラスムが起こったが、9世紀半ばに禁令が撤回されてイコン崇拝が復活し、モザイク画などの宗教芸術が発展した。第4回十字軍によるラテン帝国成立で一時カトリックの支配下に置かれたが、パラエオロゴス朝の下で奪還された。しかし、1453年にメフメト2世がコンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国が滅亡すると、聖堂はモスクに転用されミナレットが増設された。第一次世界大戦後にオスマン帝国が滅亡しトルコ共和国が成立すると、世俗化を進めるムスタファ=ケマルはアヤ=ソフィアを博物館に転用した。しかし、20世紀後半にイスラーム回帰を求める声が強まるとエルドアンは博物館をモスクにすることを決定した。(400字)

 

とりあえず、上記の解答例では最近のエルドアン政権によるモスク化の内容も含めて解答にしてみました。モスク化の決定は2020年の7月ですので、20213月の試験時点では解答に盛り込むことも可能です。もしエルドアンによるモスク化を書かないのであれば、それ以外の記述を充実させて、たとえば聖像禁止令後の修道院弾圧などを加えてあげるとよいでしょう。

 

2021 一橋Ⅱ

:第2問は、近年一橋で出題されるようになった、二つの時代の比較を提示した史資料から行わせるというものです。近年ですと2018年第2問の「歴史学派経済学と近代歴史学の相違」や2016年第1問の「聖トマスとアリストテレスの都市国家論の相違」などが挙げられます。このスタイルの設問では、単なる世界史の知識を示すことではなく、問題中の史資料を駆使して情報を拾い上げ、持っている世界史の知識と総合して解答を作ることが想定されていると思います。そのためか、このスタイルの設問では「述べよ」とか「説明せよ」ではなく、「考察せよ」という指示が使われています。また、2018年でもそうでしたが、「歴史的コンテクスト」(2016年では歴史的実態となっていましたが)や「社会的コンテクスト」に注目するように要求されています。単に、史資料に書かれていることをそのまま提示するのではなく、そこに書かれた事柄を世界史で学んだ歴史的・社会的コンテクストと照らし合わせて適切に解釈・解説せよということが要求されているわけです。このスタイルの設問はかなり難しいことが多いので、覚悟を決めて注意深く解くか、先にほかの二つの設問を仕上げてから取り組むか、最初に問題を見て判断するようにしておきましょう。

 

【1、設問確認】

・リード文中の「ゲーテの時代」と「レムブラント時代」の文化史的特性の差異を考察せよ。

・当該地域の社会的コンテクストを対比せよ。

400字以内

・史料1および史料2を参考にせよ。

(史料1):レンブラント作「織物商組合の幹部たち」

2レンブラント

Wikipedia「レンブラント」より)

 

(史料2):ゲーテ『詩と真実』より引用の一文[一部改]

 

【2、リード文と史料の分析(「ゲーテの時代」、「レムブラント時代」とは何か)】

:リード文では、「シェークスピーアのイングランド」や「ゲーテの時代」などの言葉が用いられた時、これらの言葉には人々に「ある特色によって内面的に統一された文化現象の全体的印象」を与える力がある、としています。そして、これらの言葉は後代の人々に「歴史的な最良の時代」を思い浮かべさせるのであって、より具体的に言えば、

 

・(後代には)すでに失われた青春の活力

・(後代の人々が僅かに感じることができる)当時における新しい指導価値

・これらが突然に国民の中に芽生え、それまでの伝統的・動脈硬化的生活を一新する

 

などの特徴を備えた時代として紹介されていて、「レムブラント[レンブラント]時代」という言葉も同様の時代として使われていると述べられています。

 「ちょっと何を言っているのだかわからない」と思う受験生も多いのではないかなぁと思うのですが、これについては国語力を磨いていただくしかありません(汗)。国語力、というより人とコミュニケーションをとる力というのは全ての学問・活動の基礎になるので磨いておいて損はありません。多分。

 もう少し簡潔に言えば、ドイツにもオランダにも、それまでの先入観や伝統に凝り固まった価値観(これがつまり「動脈硬化的」と表現されているわけですが)を一新して、新しい指導価値や青春の活力にあふれた時代、後代の人々からは歴史的に最良の時代ととらえられる一時期があったのであって、そうした時代はドイツでは「ゲーテの時代」、オランダでは「レムブラント時代」と端的に表現されることがあり、またこれらの言葉自体にその時代を想起させる力がある、ということを言っています。

 つまり、「ゲーテの時代」という言葉は、ハッピーでパワフルだったドイツの素敵な時代を示しているし、思い出させる力があるってことを言っとるわけです。それを踏まえて、史料を参考にしつつ、「ゲーテの時代」や「レムブラント時代」はどういう時代なのかを検討してみましょう。

 

(レムブラント時代)

:時代的にはレンブラントが活躍した時代の方が古いです。レンブラントが活躍したのは17世紀前半のオランダで、当時のオランダはスペインから独立を達成したばかりの新興国家であり、中継貿易によって栄えた商人貴族を中心とする連邦共和国でした。よく、17世紀前半はオランダが覇権を握った時代、とされますが、レンブラントが活躍したのはまさにそういう時代だったわけで、これは史料の「織物商組合の幹部たち」に商人が描かれていることからもわかります。

レンブラントはバロック期の画家に分類されますが、通常バロック画家は宗教画以外には王侯貴族や宮廷生活を描くことが多くありました。これは、当時のヨーロッパが絶対王政の時期であったためで、たとえば代表的なバロック画家であるルーベンス、ファン=ダイク、エル=グレコ、ベラスケスなどは、当時のフランス・イギリス・スペイン宮廷の様子を描いた絵画を多く製作しています。こうした中で、オランダで「商人たちの日常」が描かれたのは、当時のオランダが商人の支配する国家であることを示しています。

では、当時のオランダはどのような時代で、「レムブランント時代」はどのような文化史的特性を持っているといえるのでしょうか。以下にまとめてみましょう。

 

[A、レムブラント時代のオランダ]

・新興国(1568年から独立戦争、1581年にスペインから独立宣言)

・プロテスタント国家(カルヴァン派[ゴイセン]の主導により独立)

・連邦共和国(ただし、実質的には「商人貴族(レヘント)」による寡頭支配)

・世襲のオランダ総督が実質的な国家元首に

・スペイン、ポルトガルに代わり海洋覇権を握り、中継貿易で繁栄

 cf.) グロティウス『海洋自由論』

・首都アムステルダムは世界の中心に

 

[B.レムブラント時代の文化]

・バロック美術

:ルネサンス期の調和・均整から、強調・誇張・逸脱などドラマティック・ダイナミックな要素を取り入れる、豪華・華麗

・オランダでは、商人貴族などの都市富裕層が文化の担い手

・プロテスタント(カルヴァン派)の価値観を反映

 

このように見てくると、「レムブラント時代」が否定した「伝統的・動脈硬化的生活」が何かということも見えてきます。つまり、レムブラント時代のオランダにおいて否定された価値観とは、文化的には「ルネサンス的な調和と均整」であり、政治・社会的には「カトリック」や「封建領主・君主による支配」でした。これに対して、当時のオランダで新しく息づいていたのは、文化的にはドラマティックでダイナミックなバロック美術であり、政治・社会的には「プロテスタントの価値観」や「商人としての行動規範・進取の精神」であったといえるでしょう。

 

(ゲーテの時代)

:では、「ゲーテの時代」というのは、ドイツにとってどんな時代だったのでしょうか。また、その時代はオランダの「レムブラント時代」と比較したときにどのような対比ができるのでしょうか。

 ゲーテ(17491832)は、文化史的にはロマン主義の先駆けとなる古典主義の作家・詩人として知られる人物です。18世紀後半からのドイツにおける「疾風怒濤(シュトルム=ウント=ドランク)」を主導したことでも知られていて、古典主義からロマン主義への架け橋のような役割を果たした人物です。また、ヴァイマル公国の宰相としても活動しました。と、まぁ、ここまでが概ね高校世界史の教科書や参考書で書かれていることなのですが、本設問では「ゲーテの時代」としてどのようなことが要求されているのでしょうか。まずは史料を確認してみます。ゲーテにかんする史料は「史料2」の方で、こちらはゲーテの『詩と真実』の方から引用されています。設問の方には訳書の出典が示されていなかったので、おそらくドイツ語の原文から出題者が訳出したのだと思いますが、岩波文庫から訳書も出版されています。こちらの史料で注意すべき点は以下の内容です。

 

・ゲーテ自身は神聖ローマ帝国の体制の方がフランスの体制よりも優れていると考えているということ

・「フランス文化追従に熱心に王と同じく、ドイツ人全般に趣味が欠けているという、繰り返し述べられる無礼な主張」によって、われわれ(ドイツ人)はフランス人から遠ざかりたいと考えていること

・フランス文学は「努力する青年を引きつけるよりは反発」させるものであり、「年老い、高貴」であり、「生の享受と自由を求める青年を喜ばせるようなものではない」と、ゲーテは考えている

 

この史料の内容を簡単に図示するとこうなるかと思います。

3図1

では、ゲーテが史料中で以上のように評価している「ゲーテの時代」はどのような時代だったのか、簡単にまとめてみたいと思います。その際、史料ではフランスとの対比の中でドイツについて語られていますので、フランスの文化史的特徴も確認すると良いでしょう。

 

[A.ゲーテの時代のドイツとヨーロッパ]

・時期:18世紀後半~19世紀初頭

18世紀半ば~)

・プロイセン、オーストリアでは啓蒙専制君主の登場

 ex.) フリードリヒ2世、マリア=テレジア、ヨーゼフ2

・啓蒙思想の広まり

18世紀後半)

・アメリカ独立革命、フランス革命→自由・平等の理念

19世紀初頭)

・ナポレオン支配

 cf.) アウステルリッツの戦い

イエナの戦い、ティルジット条約

・ナショナリズムの高まり

 ex.) フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』

・プロイセン改革(1808~)

 cf,) シュタイン、ハルデンベルク

 

[B.ゲーテ時代の文化]

18世紀後半から19世紀前半

・疾風怒涛(シュトルム=ウント=ドランク

・古典主義→ロマン主義へ

・ナショナリズムの高揚

 

18世紀から19世紀初頭の文化史)

:さて、ここで18世紀から19世紀初頭にかけての文化史、特に「啓蒙思想」ならびに「古典主義とロマン主義の関係」について確認しておいた方が良いでしょう。特に、ゲーテは古典主義からロマン主義への橋渡しを行った人物で、ドイツ古典主義の代表的な詩人・作家でありながら、次代のロマン主義者たちに多大な影響を人物として知られています。ちなみに、古典主義とロマン主義については以前に東方問題について書いた記事と、一橋の2018年第2問「歴史主義経済学と近代歴史学」でも触れています。近年の一橋の出題を見ると、こうした文化史に対する深い理解が必要になる部分が出てくるかもしれません。(実際、文化史をよく理解できると、同時代の政治史・経済史・社会史の流れや変化が良く見えるようになります。歴史学界で社会史が重視されるようになって久しいですが、こうしたなかで文化史はもはや単語や用語を覚えるだけのおまけ的要素ではなくなりつつあります。)

 18世紀ヨーロッパにおいて、思想的に大きな影響をあたえたのが啓蒙思想であったことは疑いの余地がないでしょう。啓蒙思想は、西ヨーロッパではアメリカ独立革命やフランス革命といった市民革命を準備しますし、東ヨーロッパでは啓蒙専制君主の出現や近代化をもたらしました。この啓蒙思想をヨーロッパに広めた人物として有名なのがヴォルテールです。名誉革命後のイギリスに滞在したヴォルテールはその先進性に打たれるとともに、いまだにアンシャン=レジーム下にあったフランスの後進性に気付き、『哲学書簡(イギリス便り)』を通してフランスの政治・社会を批判します。

彼が広めた啓蒙思想の特徴はその合理性・普遍性・進歩的で楽観的な視点にありました。啓蒙思想が攻撃したのは非合理的な伝統や権威です。アンシャン=レジーム下にあって、フランスを支配していたのは貴族や教会でしたが、これらの力の源泉は彼らの伝統や権威でした。つまり、「どうして貴族に従わなければならないのか」という問いに対しては、「あの家は代々貴族なのだから」とか「あの家は、はるか昔、ご先祖の誰々が武功を挙げ…」とかが答えになるわけです。教会も同じで、「なぜ地球が世界の中心なのですか」という問いに対しては、(極論を言えば)「聖書に書いてあるのだから、だまって信じなさい」という答えになります。つまり、貴族や聖職者の力の源泉である伝統や権威というのは、実はかなり非合理的なのですね。理屈じゃないのです。ブラック校則みたいなもんですね。「何で野球部は丸坊主にしなければいけないの?」→「昔からの伝統で、決まりなんだから刈れ。嫌なら入るな。」という発想に近いです。こうした伝統や権威は、発生した当初はわりと合理的である場合も多いです。たとえば、武功をたてた本人が貴族として特権を享受する場合、これは非常に合理的です。「あの人は手柄を立てたのだから、その分ご褒美としていい思いをする。」というのは、分かりやすく、理にかなっています。逆に、手柄を立てた人や有能な人がいい思いをできないとしたら、それはすごく理不尽な感じがしますよね?ですが、当初は合理的理由から発生した出来事も、時代を経ていくとむしろ非合理的で理不尽な状態になってしまうことがあります。たとえば、「明らかに無能で下劣な貴族のドラ息子が、人格高潔で有能な平民の上司としてデカい面をしている」とうことが日常的にみられるようになった場合、合理的に考えれば「家柄ではなく、有能な人間が重要なポストを占めるべきだ」という発想になります。つまり、アンシャン=レジームと啓蒙思想の関係はこういう関係なわけです。

 啓蒙思想は合理的ですから、伝統や権威だからと安易には従いません。実験や観察を通して世界をとらえようとする、理性的で科学的な思考を基礎としています。ですから、聖書の世界観を鵜呑みにするのではなく、「実際に見た・確かめた」(実験と観察)ことに基づいて世界の事象を示そうとします。これが『百科全書』ですよね。ですから、いわゆる「百科全書派」は教会と対立します。また、啓蒙思想は楽観的で進歩的です。人間も社会も、様々な手段でより良くしていくことができると考えています。そういう考え方ですから、普遍的な世界の見方をします。つまり、人間を宗教・国籍や身分によって差別するようなことは「イケてない」と考えます。宗教に対しては寛容であるべきだし、文化人同士は国をまたいで文通するし、サロンでは身分にかかわらず自由に知的議論に花を咲かせます。(とはいっても、一定の制限や個々人によるとらえ方の差はありますが…) このような考え方が、最終的には人とは自由で平等であるという考え方につながっていきます。

ところが、啓蒙思想が理性と合理性を追求するあまり、おいてきてしまったものがありました。それが、歴史や伝統、感情などです。啓蒙思想の合理性や普遍性は、非合理的で特殊な特権身分の力の源泉を攻撃する時には非常に役に立ちましたが、一方で多くのものを普遍化・一般化してしまう傾向がありました。個々のことがらを、本質的な部分を抽出したり一般化することで、基本的には「みんな同じもの」として扱うようになるのですね。ところが、現実世界では「みんな同じ」では片付かないこともあります。実際には、一つ一つの物事には個性というものが存在します。そうした個性や特性を無視して、全て同じように「普遍的に」物事をとらえることは、アンシャンレジーム下で権威や伝統などの特殊性を強調しすぎたことと同様に歪みや軋轢を生むことにつながります。

「ゲーテの時代」のフランスとドイツの関係でいえば、フランスは革命を達成して自由と平等の理念を守り、ヨーロッパに広げるという考えのもと、ドイツ諸邦と争いを繰り返していました。それを実際に達成していくのがナポレオン=ボナパルトです。ナポレオンは、フランス革命の自由と平等の体現者を標榜しつつ、ヨーロッパ各地の支配を進めていきます。こうした中、各国で発生したのがナショナリズムの高揚でした。自由・平等を標榜するフランスの進出が、実際にはナポレオンによる強圧的な支配であった時、ヨーロッパの人々はフランスから広まり、かつてはヨーロッパを席巻した啓蒙思想に深い失望を抱きます。「おれたちはなぜ、フランス野郎に支配されなければならないのか…。」こうした思いは、自分たちの拠り所である祖国や民族のアイデンティティ、つまり歴史や伝統を大切にしようという動きにつながっていきます。これがナショナリズムの高揚です。

また、このナショナリズムはフランスの支配を脱し、自分たち自身の自由と誇りを回復するという目標を原動力として高まっていきます。そうした中で高められていったナショナリズムは、その目的に合致した国家像や歴史像を「生み出して」いきます。フランスに対抗するためには、各領邦の力を結集しなければならないのであって、その時彼らはバイエルン人やヴァイマル人であることを目指しません。つまり、「ドイツ人」としてまとまることを目指すのであって、だからこそ『ドイツ国民に告ぐ』は響くわけです。ですから、19世紀初頭から高まるナショナリズムは、実は歴史的実態を踏まえたものというよりは、かなり「創られたもの」なわけです。歴史的実態としては、ドイツの各領邦は宗教も、歴史的発展も、それぞれがかなり異なったものであったにもかかわらず、ナショナリズムを掲げる人々は「一つのドイツ民族・ドイツ国家」を目指すことになります。このあたり、黒船がやってきてからの日本に似てる部分があるなぁと思いますね。それまで「おいどんは薩摩でごわす」とか「こちとら江戸っ子でぇ」とか言っていて、お互いを別の国の人間だと考えていた人々は、外圧と明治維新を経て一つの「日本」と「日本人」という意識を形成していく、という展開を想像するとわかりやすいのではないかと思います。

さて、こうしたナショナリズムが高まっているドイツでは、かつて啓蒙思想によって攻撃された歴史・伝統は攻撃の対象ではなく、自分たちのルーツやアイデンティティを特定するための重要な要素になります。自分たちは誰を祖先としていて、どんな国を築き、(方言などの多少の違いはあれど)同じ言語を話し、同じ活動をしてきたという共通する要素、つまり歴史や伝統を共有する人々が「ドイツ人」なのであり、共有していない人々は「ドイツ人ではない」わけです。このようにして創られたナショナリズムは、内部に対しては強力な同化圧力を働かせる一方で、外部に対しては非常に排他的です。(これについては、以前書いた「想像の共同体」の記事についても参照していただくともう少しわかるかと思います。)つまり、啓蒙思想が大切にしていた普遍性は跡形もなく打ち砕かれます。啓蒙思想の行き過ぎた(と当時の人々が考えた)合理性・普遍性にかわって、ドイツであればドイツにおける「特殊性」が重視され、そこでは理性以上に情緒や感情といった要素が注目されるようになります。ナショナリズムとは、パッションの発露なのですw

 

 それでは、こうした啓蒙思想からナショナリズムへというドイツのみならず19世紀初頭のヨーロッパで広く見られた思潮の変化は、古典主義とロマン主義にはどうかかわってくるのでしょうか。古典主義は、それまでの甘ったるい、装飾主義的なロココ主義に対する反発からフランスで始まったもので、古代ギリシアやローマの文化を理想とし、調和や均整を重視した文芸思潮・様式のことを指します。「古代ギリシアやローマの文化を理想とする」というと、どこかで聞いたことがありますね。そうです、ルネサンスと似てるんですね、発想が。ルネサンスでも均整・調和が重視されましたが、それに飽きてくるとすこーしバランスを崩して強調や誇張、ダイナミックでドラマティックな要素を取り入れ始めます。これがバロック様式と呼ばれるもので、その豪華な雰囲気は当時の王侯貴族に流行り、各国で絶対王政が始まる17世紀に全盛を迎えます。その後、より装飾性の強いロココ様式がフランス発で広まりますが、こうしたものに反発して出てくるものが古典主義というものです。ですから、一種の揺り返しのようなものとしてとらえると分かりやすくなります。

 ところで、この古典主義は、当時ヨーロッパで流行りだしていた啓蒙思想と親和性が高いのですね。また、成金趣味的に思えるバロックや貴族の贅沢の象徴のようなロココに対して、落ち着いて、バランスの取れた古典主義は啓蒙思想や理性にかぶれ始めていた18世紀後半の文化人の心をとらえていきます。たとえば、フランスの(新)古典主義の画家としてダヴィドが良く知られていますが、こうした絵画は王政を打倒し、理性や啓蒙思想に基づく革命の理念を表現するには都合の良い表現様式なわけで、フランス革命の体現者を自認するナポレオンはダヴィドをお抱えの画家にしていきます。理屈でお話してもイメージがつかめないかと思いますので、実際に絵を並べて確認してみましょう。

 

まず、ルネサンス絵画より、ラファエロ「アテネの学堂」です。

左右の対称性なども含めて、非常に均整・調和が重視された画面構成になっています。

5アテネ

Wikipediaより)

 

バロック絵画からはルーベンスの「キリストの昇架」と、本設問のテーマにもなっているレンブラントの「夜警」です。題材自体がドラマティックであったり、画面の一部に強調・誇張がされていることが見て取れるかと思います。

 6キリスト

Wikipediaより)

 7夜警

Wikipediaより)

ロココからは、フラゴナールの「ぶらんこ」とブーシェの「ポンパドゥール夫人」です。ポンパドゥール夫人はルイ15世の愛人(公妾)ですが、彼女を中心とするサロンからこのロココ様式が最新の流行として広まっていったともいわれます。それは、フランスにとどまらず東欧へも伝わって、たとえばサン=スーシ宮殿(プロイセン)やシェーンブルン宮殿(オーストリア:外装がバロックで内装がロココ)にも取り入れられていきます。ロココ様式の絵画は何というか、お花シャラーン、リボンやレースふりっふり、くるくるくるー、きらきらきらーなイメージですw

 8ぶらんこ

Wikipediaより)

 9ポンパドゥール

Wikipediaより)

 

そして、古典主義からはダヴィドの「球戯場の誓い」に「ナポレオンの戴冠式」です。

10球戯場

Wikipediaより)

 11戴冠式

Wikipediaより)

 

いかがでしょう?なんとなーくそれぞれの文化の特徴や違いを感じていただけたでしょうか。

 

 さて、これまでのお話の中で、18世紀後半から19世紀初頭にかけて流行る古典主義がどういうものかということについてお話してきましたが、この古典主義に対する反発として出てくるのがロマン主義です。古典主義が啓蒙思想と親和性が高かったのに対して、ロマン主義はナショナリズムと非常に密接に結びついています。形式美や調和・均整を重視した古典主義に対し、ロマン主義は人間の個性や感情を重視し、また理性や普遍性ではなく歴史や民族文化の持つ固有性や特殊性に注目し、これを尊重します。これを、簡単に図示すると以下のようになります。

12図2

 

さて、この図ですが、最初にあげたゲーテのフランス文学ならびにドイツ文学の見方と比べてみると、似ていると思いませんか。もう一度出してみましょう。

3図1

つまり、ゲーテはフランス文学というものがあまりに理性的・合理的・普遍的であるけれども、それはどこか取り澄ましていて、お高くとまっていて、人間が本来持っている力強い感情を無視しがちだと考えているわけです。対して、ドイツ文学には生の力強さ、若々しい感情のエネルギー、理性から解き放たれた自由への衝動といったものを感じているわけで、そのことを史料の中で述べているわけですね。ちなみに、本設問で史料として引用されているゲーテの『詩と真実』は1811年のもので、当時のドイツはナポレオン支配の下でナショナリズムが高まりつつある時期でした。

 ここまでくると、ゲーテをただ単に「ドイツ古典主義の作家・詩人」としてしか覚えていない人には変な感じがするかもしれません。「古典主義ならゲーテは啓蒙思想とか、フランス文学の側なんじゃねーの?」と思いますよね。たしかに、ゲーテはドイツ古典主義文学を大成した作家・詩人として知られています。ですが、ゲーテ(17491832)が活躍したのは18世紀後半から19世紀前半にかけてです。そして、ゲーテはドイツにおいて「疾風怒濤(シュトルム=ウント=ドランク)」として知られる、人間性や感情を解放し自由に発展させるべきだとする1770年代のドイツで展開された文学運動を主導した人物でもありました。つまり、ゲーテは古典主義の精神・形式・作法をしっかりと踏まえた上でそれに飽き足らず、さらに先に進んで感情や人間性を重視する「ロマン主義の先駆」ともなった人物であって、古典主義にどっぷりつかって凝り固まっている作家たちとは一線を画したわけです。だからこそ、ゲーテは彼に続く多くのロマン主義作家から範とされただけでなく、ロマン派音楽家たちが彼の詩に音楽をつけることになりました。ゲーテの詩に音楽をつけたロマン派音楽家としては「おとーぅさん、おとーさん」の曲で知られる『魔王』を作曲したシューベルトが良く知られています。

 

【3、ゲーテの時代とレムブラント時代の文化史的対比】

:さて、長々と文化史について述べてきました。箇条書きとか図示をしてあっさり解説をするのも良いのですが、そういう解説による理解って底が浅いんですよね。物事を理解して、活用するためには、やはり言葉や知識が「実感」をともなって身体に染み入ってこないといけないのです。そうしないと使い物にならないんですね。ですから、ここではくどいくらい丁寧にお話をさせていただきました。

ところで、「ゲーテの時代」と「レムブラント時代」を文化史的に対比するとどのように整理できるのでしょうか。すでにご紹介したことではありますが、まとめてみましょう。

 

(レムブラント時代[17世紀]

・バロック美術

:ルネサンス期の調和・均整から、強調・誇張・逸脱などドラマティック・ダイナミックな要素を取り入れる、豪華・華麗

・オランダでは、商人貴族などの都市富裕層が文化の担い手

・プロテスタント(カルヴァン派)の価値観を反映

 

(ゲーテの時代[18世紀後半から19世紀前半]

・疾風怒涛(シュトルム=ウント=ドランク

・古典主義→ロマン主義へ

:合理・形式・普遍から感情・自由・特殊(歴史や伝統)へ

・ナショナリズムの高揚

 

おそらく、このような対比をすることができるかと思います。あとは、これらを当時の社会状況や、どのような文化史的コンテクストの中で出てきたのか、史料1・2から読み取れることなどと合わせて整理してあげれば解答が書けるかと思います。

 

【解答例】

 レンブラントが活躍した17世紀オランダはバロック美術の隆盛期であり、調和や均整を重視するルネサンス文化に対し、強調や誇張などドラマティックでダイナミックな要素を取り入れた、豪華で華麗な文化が流行した。各国では絶対王政のもとで宮廷文化が描かれたが、スペインから共和国として独立し、商人貴族が支配するオランダではカルヴァン派の価値観を反映させ、商人の生活を描いた絵画がよく描かれた。ゲーテの活躍した18世紀後半から19世紀のドイツは、調和や均整を重視する古典主義から感情や自由を重視するロマン主義への過渡期にあった。また、フランス革命後に自由・平等の理念が伝わったことや続くナポレオン支配からナショナリズムが高揚した。ゲーテは啓蒙思想や古典主義などのフランス文化の合理性・普遍性を「年老い、高貴」だと批判し、ドイツ文化に生を享受し自由と豊かな感情を取り入れるべく疾風怒濤運動を主導してロマン主義の先駆となった。(400字)

 

:解答の方は、設問の「対比しつつ」考察せよという指示を少し意識して、バロック以前ならびにロマン主義以前についても丁寧に示しました。(ルネサンスも古典主義も「調和・均整」を重視した点で共通しており、一方でそれらを克服しようとした点でバロックとロマン主義にも共通点があるため。)また、バロックの典型的な画家としてのレンブラントと、古典主義詩人でありながらロマン主義の先駆となったゲーテとの違いも見えるように工夫しています。政治史については、本設問では要求されていないので書く必要はありませんが、設問のリード文より「レムブラント時代」も「ゲーテの時代」も、従来の「動脈硬化的生活」を一新する、後代から憧れられる最良の時代であり、若々しい青春の活力の時代であると示されていることから、「古い価値観を克服して新しい価値観へ」という社会的コンテクストが見えるように気を付ける必要があると思います。「レムブラント時代」でいえば、スペイン支配やカトリックの価値観から独立・共和政やプロテスタントの価値観へというものがそれにあたるでしょうし、「ゲーテの時代」でいえば啓蒙思想や古典主義の合理・普遍性やフランスによる支配からロマン主義による感情・歴史の重視やナショナリズムの高揚がそれにあたるかと思います。

 

 もちろん、これまでにお話してきた文化史を、受験生が「がっつり深く把握している」ように要求するのは無理があると思います。たしかに、教科書や参考書にはそれらしいことがところどころに書かれているのですが、体系的にまとめてあるわけではありませんから、自分の力だけで今までお話した流れをきっちり把握するのは難しいと思います。おそらく、学校や塾の先生による解説によるところが大きいのではないでしょうか。きちんとお話してくださる先生に運よく当たれば理解できるかもしれませんが、いまいちな人にあたると多分アウトですw また、先生の良しあしにかかわらず、かなり熱心にかつ適切に勉強している受験生であれば、全てではなくても入口くらいは理解できていてもおかしくはないと思います。

 ただ、深いところまでは理解できなくても、世界史の基礎知識で賄える部分もあります。そうした基礎知識ならびにリード文や史料から読み取れば、それなりに書ける部分も多い設問なのではないかと思います。たとえば、上の解答例を例にとれば、以下の赤字で示した部分あたりは十分に書ける内容なのではないでしょうか。そういう意味では、この設問は確かに難しい問題ではありますが、個々の受験生が歴史のどのあたりまで理解しているか(言葉や上っ面を覚えるにとどまっているか、内容まで踏み込んで実感をともなって理解しているか)を図ることができる良問と言えるかと思います。できる人が極端に少ないでしょうから選抜用として適切かどうかは別ですがw

 

赤字は基礎的な知識や読み取りで書ける部分)

レンブラントが活躍した17世紀オランダはバロック美術の隆盛期であり、調和や均整を重視するルネサンス文化に対し、強調や誇張などドラマティックでダイナミックな要素を取り入れた、豪華で華麗な文化が流行した。各国では絶対王政のもとで宮廷文化が描かれたが、スペインから共和国として独立し、商人貴族が支配するオランダではカルヴァン派の価値観を反映させ、商人の生活を描いた絵画がよく描かれた。ゲーテの活躍した18世紀後半から19世紀のドイツは、調和や均整を重視する古典主義から感情や自由を重視するロマン主義への過渡期にあった。また、フランス革命後に自由・平等の理念が伝わったことや続くナポレオン支配からナショナリズムが高揚した。ゲーテは啓蒙思想や古典主義などのランス文化の合理性・普遍性を「年老い、高貴」だと批判し、ドイツ文化に生を享受し自由と豊かな感情を取り入れるべく疾風怒濤運動を主導してロマン主義の先駆となった。400字)

 

2021 一橋Ⅲ

:こちらの問題はいわゆる「プロレタリア文化大革命」と「4つの近代化」を問う設問でした。一橋の第3問では、昔から清朝以降の近代史が出題の中心で、最近ではその周辺(朝鮮など)についても問う問題が出題されていました。一方で、これまでの出題で概ね出題できるところはし尽してしまった感があるので、次第に内容やテーマが現代に近づいてきているという話は従来からしていました。(一橋大学「世界史」出題分析[2014-2020]参照)

ですから、辛亥革命や五四運動、戦間期や戦後中国史は気を付けた方が良いかもしれないと考えていましたが、いきなり「4つの近代化」(1970年代末~)まで現代に近づいてくるとは少し意外でした。一橋を受験する受験生にとっては「予測可能ではあったけれども、他と比べるとやや手薄かも」というテーマの出題だったかと思います。もっとも、内容的には文化大革命の経緯と4つの近代化の影響を述べればよいだけです。特に史資料を活用したり、知識として持っていない部分を読み取りや推測で補うなどの高度な情報処理能力・思考力は要求されないので、比較的平易な設問だったかと思います。

 

【1、設問確認】

・「第1次文化大革命」の経緯を述べよ。

・「4つの近代化建設」が1980年代の中国に与えた影響を説明せよ。

400字以内。

 

【2、第1次文化大革命】

:文化大革命は、一度は共産党の経済政策において主導権を失ってしまった毛沢東が仕掛けた中国における革命の徹底運動であり、同時に資本主義的な経済を導入した劉少奇や鄧小平などの実権派・走資派を一掃する粛清運動としての側面も持っていました。

 1950年代のいわゆる「大躍進」運動(第二次五か年計画)で壊滅的な失敗をおかした毛沢東は、党主席にはとどまったものの、1959年に国家主席の座を劉少奇に明け渡して、実質的な政策決定権を失います。その結果、国家主席の座についた劉少奇と事務方の責任者であった鄧小平は調整政策と呼ばれる一部資本主義を取り入れた経済政策(農家の部分的自主生産など)によって経済の立て直しを図り、一定の成果を上げていきます。しかし、資本主義を嫌う毛沢東は調整政策などの一連の新政策を自身が進めてきた革命の否定としてとらえ、劉少奇や鄧小平との対立を深めていきます。こうした中、中ソ論争が深まる中で中国独自の革命理論、つまりは毛沢東の革命理論が強調される(つまり、ソ連型の革命よりも中国型の革命が優れていると主張する中で毛沢東の理論がことさらに強調される)ようになると、毛沢東の革命理論や実践と相反する劉少奇や鄧小平に対する党内の批判が見られるようになりました。これを好機ととらえた毛沢東は彼らを「走資派(資本主義に走る連中)」、「実権派(権力を握り革命を否定する連中)」と批判して党内の反感を煽っていきます。

 

毛沢東(左)と劉少奇(右)
毛

Wikipediaより)

 

その結果起こったのがいわゆるプロレタリア文化大革命(19661976)で、この批判にさらされた劉少奇は失脚しただけでなく迫害され、軟禁され、悲惨な状態で「病死」を遂げます。また、鄧小平は左遷され、地方で強制労働に従事させられましたが、有能であったことから命を奪われるには至りませんでした。また、鄧小平に理解のあった周恩来の働きかけによって党の役職に復帰し、周恩来のサポート役に返り咲くことになります。一方、「走資派」を追い出した毛沢東は再度実権を回復し、これを毛沢東夫人である江青や姚文元・王洪文・張春橋などの四人組と紅衛兵が支持する体制が、毛沢東がなくなる1976年まで続いていきます。ただし、文革中も文革派一色だったわけではありません。1971年には林彪による毛沢東暗殺未遂事件が起こります。また、なんとかして紅衛兵をはじめとする極端な文革派をおさえて事態を収拾しようとする周恩来のような人たちも一定数存在していました。こうした周恩来の態度を良しとしない一派は、批林批孔運動などを通して間接的な周恩来批判を展開していきます。

 そして、1976年に党内の調整役として活動していた周恩来が亡くなり(ちなみに、この時に発生した第1次天安門事件[四五天安門事件]の責任を問われて鄧小平が失脚します)、続けて毛沢東が亡くなると、周恩来にかわって新しく首相となった華国鋒は党内の一部有力者の後押しを得て、脅威であった四人組を逮捕し、さらに党主席に就任して文化大革命を終結させます。

 設問の資料では1977年における華国鋒の報告が紹介されておりますので、「第一次文化大革命」は上記のプロレタリア文化大革命を指すと考えて問題ありません。世界史の知識としてまとめておいた方が良い情報は以下のようなものになるでしょう。

 

(まとめるべき事柄)

・大躍進の失敗と毛沢東の実権喪失

・劉少奇、鄧小平による調整政策とその内容(資本主義を一部復活)

・プロレタリア文化大革命の開始と劉少奇、鄧小平ら走資派の失脚

・林彪事件(1971

・批林批孔運動

・周恩来の死と第1次天安門事件、鄧小平の失脚

・毛沢東の死

・華国鋒による四人組逮捕と文革終結

 

【3、4つの近代化(現代化)】

:文化大革命が終わったとき、残されていたのは疲弊した中国の社会・経済でした。文革中の粛清などを通して分断された社会については、新たな共産党指導部によって政治犯への名誉回復が進められました。一方、疲弊した経済については鄧小平が党副主席に復帰して立て直しを図ることになりました。文革で強制労働に送られ、第一次天安門事件で失脚しながら「あいつ有能だから使おう」って呼び戻されるとか「一体どんだけ有能なんだ」と思いますw やはり実力のある人間は何をやらせても食うに困らないのでしょうか。うらやましい話ですw

 そして、華国鋒を党主席、首相とし(国家主席は劉少奇死後、1983年まで基本的に空席)、鄧小平を党副主席とする新体制が発足します。この体制が掲げた経済政策が「4つの近代化(現代化)」で、農業・工業・国防・科学技術の4つについて「近代化(現代化)」を進めていきます。(「4つの近代化」自体は劉少奇や周恩来の頃から出ていた概念ですが、それが実行に移されることになります。)また、並行して改革・開放政策が進められ、積極的な経済改革が進展しました。1979年には深圳・珠海・汕頭・厦門に経済特区を設置し、さらに1984年委は上海などに経済開発特区を設置して外資や技術の導入が進められます。また、人民公社が解体されて生産責任制が導入され、農産物価格の自由化が進められた結果、万元戸と呼ばれる裕福な農家が出現するなど、中国の社会経済は大きな変貌を遂げていくことになります。ところで、華国鋒と鄧小平についてですが、華国鋒の指導力は間もなく低下していきます。その理由として大きいのが、文革中に党の中心にいた華国鋒はどうしても「文革」臭が強く、新しい経済改革を進めるには適切ではないと周囲から見られたことがあります。このあたりは、本設問の資料の中でも「ここでの華国鋒の主張は、まさに彼が毛沢東の威信に依拠したために毛の遺産を背負いながら、同時に混乱した経済・社会、そしてむろん政治の混乱を建て直さねばならないというディレンマを物語っていたのである。」という部分で示されています。

かわって、経済再建を担うことになったのは鄧小平でした。劉少奇の調整政策から何度も失脚を味わいながらも経済政策を担った人物でしたので、華国鋒と違って「文革」後の中国を率いるには適切だったのでしょう。このことについても、本設問資料は「他方、鄧小平の戦略は極めて明確であった。政治闘争に明け暮れる雰囲気をいかに一掃して経済再建、経済発展に力を集中するかであった。」と示されていますし、「そのためには、文革路線、毛沢東路線さえ、事実上、否定してもかまわない。」と、華国鋒との政治的スタンスの違いが明示されています。

1980年代は基本的に「鄧小平による指導体制」と考えられていますが、注意しておきたいこととして、鄧小平は中国の代表的な地位(国家主席・党主席・国務院総理[首相])には一度もついていません。(ちなみに、これらの役職はたとえていうなら国家主席が大統領、党主席が共産党の党首、国務院総理が行政長官としての役割だと考えられます。) また、党内の序列1位になることもありませんでした。にもかかわらずなぜ、鄧小平が実質的な最高指導者として行動できたのかと言えば、それは鄧小平が共産党中央軍事委員会の主席として軍部をおさえ、自身に従う経済政策に明るい官僚を重要なポストにつけていったからです。(例えば、1982年~1987年まで党主席を務める胡耀邦や1980年から1987年まで首相を務める趙紫陽[1987-1989までは党主席]などです。)

 さて、鄧小平の改革・開放路線が進められた結果、中国には外資が導入され、経済特区などもおかれて、中国は政治的には人民民主主義(共産党による一党独裁)を堅持しながらも経済的にはかなりの部分で市場経済化(市場を通して財やサービスが提供される経済のこと、計画経済の対立概念)していきます。これは、鄧小平がはっきりと意識して行っていたことで、たとえば1990年代の初めには、鄧小平が「南巡講話」で積極的な改革推進を提唱したことが影響して、当時の党指導部が「社会主義市場経済(政治的には共産党独裁、政治的には市場経済)」の導入を本格的に進めることになります。中国の市場経済化が進むと、社会自体も大きく変わっていきます。貧富の差の拡大や資本主義諸国との関わりが増えるなどの変化がもたらされました。また、1980年代後半の党指導部では、共産党一党独裁を堅持しようと考える鄧小平に対し、硬直化した政治体制・国家運営を立て直すためには政治改革や言論の自由化が必要だと考える胡耀邦との意見のズレが目立つようになってきました。このことの背景には、当時のソ連でゴルバチョフが就任し、ペレストロイカを推進したことや、東欧諸国の民主化が進んでいったことが影響を与えています。某スポーツの祭典なんかもそうですが、案外その時代を生きる世界の人々はその時々の時代の空気に敏感で、簡単に影響されていくようです。当時の中国でも、「中国も民主化・自由化が進むのではないか」と期待感が増し、胡耀邦は民主化を導いてくれる指導者になると国民からの期待がよせられていました。こうした中、各地で学生デモなどが発生すると、この責任を問われて胡耀邦は1987年に失脚し、その後軟禁状態に置かれたまま1989年に亡くなります。これを追悼すべく、天安門広場に集まった学生たちが民主化を要求したことがきっかけとなって起こったのが第二次天安門事件(六四天安門事件)でした。市場経済の導入には積極的でありながらも、政治的には共産党独裁の堅持を考えた鄧小平をはじめとする党保守派は、民主化や自由化を求める学生たちの運動を危険なものとみなし、その意をうけた李鵬首相(在:19871998)によって運動は武力弾圧をうけました。また、この運動に同情的で、鄧小平からの戒厳令発令要請を拒否した趙紫陽は事件後に失脚します。

 以上が、鄧小平による4つの近代化が進められて以降の中国の大きな流れになりますが、ここで問題なのは、設問の解答として「第二次天安門事件を書くべきか」ということです。確かに、第二次天安門事件が発生した一つの背景として4つの近代化に始まる経済改革と社会の変動がありましたが、一方で上記の通り、共産党指導部における政治改革に対するスタンスの違いや、胡耀邦による自由化推進、なにより1980年代後半における共産主義諸国の変動と民主化が大きな影響を与えていました。第二次天安門事件はこうした複数の要因が組み合わさって起こった事件ですから、「4つの近代化建設によって第二次天安門事件が起こった」とすると、いくら何でも短絡的すぎますし、正確さを欠くといわざるを得ません。ですから、私の個人的な意見としては、本設問では第二次天安門事件の詳細を書く必要はないと思います。市場主義経済化や貧富差の拡大などの社会変動、またそれにともなう自由化要求、対して共産党指導部による人民民主主義(共産党一党独裁)の堅持あたりを示せば十分だと思います。一方で、上記の通り、第二次天安門事件へとつながる人々の民主化・自由化への期待の高まりの背景として、当時の社会変動や4つの近代化などの経済改革が少なからぬ影響を与えたのは確かです。また、出題者も「1980年代の」という時代の区切りにしておりますので、第二次天安門事件(1989)を書いても「差支えはない」と思います。おそらく、加点要素にもなると思います。ただ、胡耀邦だの趙紫陽だの李鵬だのゴルバチョフだのを書く必要は全くないです。(それらは主に政治的な影響・政治史であって、4つの近代化の影響からは遠いと思います。)4つの近代化以降の中国について、世界史の知識としてまとめておいた方が良い部分としては以下のようになると思います。

 

(まとめるべきこと)

・華国鋒失脚

・鄧小平による経済再建(改革・開放路線)

4つの近代化=農業・工業・国防・科学技術

・経済特区や経済開発区の設置(上海など)

・外資や技術の導入と市場経済化

・人民公社の解体と生産責任制の導入

・万元戸の出現

・政治的な共産党一党独裁の堅持

・民主化・自由化要求の高まり

・第二次天安門事件

 

【解答例】

 資本主義を一部導入する調整政策が反革命的と批判され始めると、大躍進政策失敗で実権を失っていた毛沢東と彼を支持する江青ら四人組、紅衛兵を中心に、調整政策を進める指導部を走資派と弾劾する「第一次文化大革命」が発生し、劉少奇や鄧小平は失脚した。文革中は政治闘争で経済が混乱し、社会は分断された。走資派に理解を示し、党内調整をしていた周恩来が死に、毛沢東も死ぬと、華国鋒が四人組を逮捕して文化大革命は終結した。経済再建のため農業・工業・国防・科学技術の4つの近代化が掲げられると、文革中のイメージが強く支持を得られなかった華国鋒に代わり、復権した鄧小平が指導者として改革・開放を進め、経済特区設置や人民公社解体などで、外資・技術導入と市場化を進めたが、万元戸の出現や貧富差拡大など社会は変動した。経済改革を進めつつも、政治的な共産党独裁を堅持する指導部に対し、民主化要求が強まると第二次天安門事件が発生した。(400字)

 

:本設問では、文化大革命については「経緯」、4つの近代化については「1980年代への影響」を聞いていますので、文革については文革が起こった背景も含めてその展開を、4つの近代化については、その内容と影響を中心に書きました。教科書や参考書を見ても、通常は第一次天安門事件以降の共産党内部における権力移譲や、事件の詳細について詳しく書いているものはないので、胡耀邦だの趙紫陽だのを書く必要はないかなと思いますし、「4つの近代化の影響」を問われているので、第二次天安門事件の詳細などを書く必要もないかともいます。ただ、華国鋒と鄧小平の違いについては、資料中からある程度読み取れる内容なので示しました。世界史の教科書や参考書に出てくる知識で十分に書けるという意味で平易な問題ではあるのですが、中国の現代史を受験生がどこまでしっかり把握できているかについては少し不安が残ります。出題者がどれくらいの年齢の先生かは知りませんが、私たち世代にとって、第二次天安門事件は子どもの頃に実際にニュースで触れたリアルタイムの出来事なので、わりと細かいところまで実感をともなって知っているというか、「このくらいのことは常識として知っているよね」感を、つい持ちがちです。ですが、現在の高校生はベルリンの壁崩壊どころか911テロですらリアルタイムではご存じない世代なので、そこには間違いなくジェネレーションギャップが存在しており、実際には受験生にとって我々や出題者側が感じる以上に「解きづらい」と感じさせる設問かもしれません。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 2013年一橋の大問3は、19世紀末から20世紀初頭ごろの中国・朝鮮における政治状況を問う設問で、一橋では頻出のテーマだったかと思います。一部、高校世界史には出てこない知識を要求される設問でしたが、全体としては史料の読解によって解答を導くことができる設問ですので、大問2と同様に悪問とまでは言えないかと思います。(ただし、空欄bの補充だけは、採点時に幅を持たせないのだとすればかなり極悪な問題です。) 同年の大問2と合わせてみると、当時の一橋の設問が史料の読解と情報分析にかなり重点を置いていることが見て取れるかと思います。

 

【A】

(1、設問確認)

・空欄( a )~( d )に適語を入れよ

・革命派と立憲派の論争について説明せよ

 

(2、空欄補充)

a:興中会 / b:梁啓超 / c:北洋軍閥 / d:国民党

 

acdについては特に問題はありません。リード文の情報で十分に解答を導くことは可能です。問題なのは、空欄bです。こちらの方は、高校生の受験知識で確定することはほぼ不可能かと思います。おそらく、まともに考えて解答に近づけた受験生の多くが「康有為」と解答したのではないかと思います。個人的には、これは出題側の落ち度だと思いますので「康有為」でも正解で良いのではないかと思いますが、実際の採点がどうなっていたのかまでは分かりません。

 では、なぜ康有為ではなく梁啓超なのかと言いますと、変法運動時点での中心人物は康有為なのですが、戊戌の政変以降の言論活動については、康有為は目立った活動をしておりません。対して、梁啓超については『新民叢報』をはじめとするいくつかの雑誌を創刊して啓蒙活動を展開し、活発な言論活動を行います。しかし、梁啓超の言論活動は、1905年に中国同盟会を結成した孫文をはじめとする革命派から批判されます。中国同盟会の機関誌『民報』などで、孫文は立憲君主制を目指す梁啓超ら立憲派を時代遅れの保皇派として批判します。孫文ら革命派が目指したのは四大綱領の中でも示された通り「創立民国」であって、清朝の打倒と共和政の樹立でした。つまり、変法運動時点では進歩的とみなされた立憲君主制は、わずか数年後には皇帝制維持のための方便に過ぎない、時代遅れの考え方だとみなされていたわけです。このあたり、攘夷論、開国論、公武合体論、倒幕論などが入り乱れた日本の幕末のムードを彷彿とさせるものがあります。

 さて、やや脱線してしまいましたが、以上の内容を考えますと、「1900年の義和団事件のあと、革命派の勢力が拡大し、1905年には多数の留学生がいた東京で中国同盟会が結成された。その後、革命派は、( b )ら立憲派と激しい論争を展開することとなる。」というリード文中の( b )にあてはめるとすれば、梁啓超が適切だろうということになります。ただ、上述しました通り、( b )のヒントになりうるのはこの文章だけで、他の場所には( b )を確定できる要素が見当たりません。私は、高校受験生に対する出題であるということを考えた場合、解答者が「立憲派とは何か。革命派とは何か。」が把握できたかどうかが重要であると思いますので、解答と背景については一通り示した上で、「康有為でもいいよ。」という風に伝えることにしています。

 

(3、革命派と立憲派の論争)

・革命派:孫文(リード文からもわかる)、章炳麟、黄興ら

・立憲派:康有為、梁啓超ら

・「革命派vs立憲派」の論争とは「共和政vs立憲君主政(制)」

 

:革命派と立憲派については、すでにご説明してきました。高校世界史では立憲派と革命派の間に論争が展開されたことはあまり紹介されませんが、リード文から「革命派=中国同盟会」であることは自明ですので、革命派=孫文であることは確定できます。そこまで確定できれば、あとは立憲派が何かを割り出せばよいわけです。「立憲派」という名称から「立憲制、または立憲君主制を目指している」ことは推測可能ですし、時期や孫文ら革命派と論争していることなどから「立憲派=変法運動の指導者たち」であることを導くのはそこまで無茶な要求ではないかと思います。(梁啓超を確定させるのはかなり無茶な要求ですが。) 

ちなみに、立憲君主制は変法運動だけでなく、20世紀初頭には光緒新政の中で現実のものとされていきます。光緒新政の中心人物は西太后の意図を受けて改革を推進した袁世凱や、かつて洋務運動でも活躍した張之洞などでした。

 革命派が孫文であることがわかれば本設問では十分ですが、中国同盟会結成に際しては孫文の興中会以外にも、章炳麟の光復会、黄興の華興会などが母体になったことが知られていますので、そうした人たちを思い浮かべても良いかと思います。『民報』を中心とした言論活動では彼らのうち章炳麟や、後に国民政府の首班となる汪兆銘らが高校世界史で出てくる人物としてはかかわっています。

 

【解答例】

A、a:興中会、b:梁啓超、c:北洋軍閥、d:国民党、共和政を目指す孫文ら革命派は、「民族独立、民権伸長、民生安定」の三民主義と「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」の四大綱領を掲げて民族資本家や知識人、留学生などの支援を受けながら清朝打倒を主張したが、変法運動を主導した康有為や梁啓超ら立憲派は中国における共和政は時期尚早と考えて立憲君主政を主張し、革命派からは保皇派と非難された。

(すべて含めて200字)

 

【B】

(1、設問確認)

・史料を参考にせよ。

18801890年代に開化派のめざした改革はどのようなものであったか

18801890年代の開化派による改革は朝鮮の社会と政治をどのように変えたのか

 

(2、18801890年代の朝鮮)

:本設問を考える上では19世紀後半の朝鮮史に対する理解が必須です。簡単な流れを以下に挙げておきます。また、この時期の朝鮮史については甲午改革の部分を除いて、過去の記事にも掲載されています。

http://history-link-bottega.com/archives/cat_213698.html

 

1882年 壬午軍乱:大院君の閔氏に対するクーデタ

1884年 甲申政変:開化派(独立党)の閔氏に対するクーデタ→袁世凱による鎮圧

1894年 甲午農民戦争

      →日本側の朝鮮に対する圧力

1894年~1895年 甲午改革:開化派(金弘集[キムホンジブ]、朴泳孝ら)

    金玉均は18943月に上海で暗殺されている

1895年 三国干渉→日本の影響力が低下、政権内部の対立で崩壊、親露派の台頭

 乙未事変:閔妃暗殺(朝鮮公使三浦梧楼の関与が通説)

      乙未改革:金弘集が内閣を組織し、急進的改革

          →守旧派の激しい反発、国王高宗の露館播遷

金弘集は群衆により殺害される

 

※甲午改革、乙未改革を合わせて甲午改革ともいう

 

(3、史料確認)

[史料1:金玉均らが樹立した政権による改革方針]

:設問より、本史料が1884年のものであるのは明らかですから、この史料は甲申政変時のものであるということがわかります。史料の内容を簡単にまとめると以下の内容が読み取れます。

 ① 大院君の帰国要請

 ② 朝貢の「虚礼」の廃止(清の宗主権に対する反対、「独立党」)

 ③ 門閥の廃止と人民の平等

 ④ 地租の改革(汚職の一掃と財政再建

 

[史料2:18947月から8月に開化派が決定した改革方針](甲午改革)

:こちらの史料は甲午改革とよばれる1894年~1895年にかけて進められた近代化改革です。この甲午改革については高校世界史では通常出てきませんが、1894年が日清戦争の開始年、つまり甲午農民戦争の起こった年だということはわかりますので、「日清戦争の開戦で日本の影響力が高まる→朝鮮で開化派による改革が進む」ということを推測することはそこまで無茶な要求ではありません。また、本設問のメインテーマは「改革の目指したもの」であって、改革の背景ではありませんから、丁寧に史料読解を進めていけば世界史の知識に頼らなくても正解を導くことは十分に可能です。史料を読み取ると以下の内容が読み取れます。

 ① 開国紀年の採用(朝鮮独自の暦[従来は清の暦を使用]

 ② 門閥、両班、常民の平等と人材登用

 ③ 奴隷制の廃止

 ④ 税制改革(銭納)

 甲午改革を進めたのは金弘集や朴泳孝たちでした。金弘集が高校世界史で出てくることはありませんが、朴泳孝は甲申政変(1884)で知られています。金玉均は当時すでに暗殺されておりましたので、この改革には参加しませんでした。改革の内容を見ると、開化派(独立党)の目指す「清朝からの自立」と「近代化の推進」が目指されていることが読み取れます。たとえば、「開国記年の採用」は、それまでの清の暦(時憲暦)にかわる独自の暦法を採用しようということで、独立した国家としての体裁を整えていこうという姿勢の表れです。また、身分制や奴隷制の改革、税制改革による財政再建などは近代化を目指す姿勢の表れです。ただ、この甲午改革は民衆の支持を得ることができず、最終的には挫折をしていきます。

 

[史料3:189811月「中枢院官制改正件」]

:中枢院も高校世界史では全く出てきません。ですから、これは史料から何が問題となっているのかを読み取らなくてはなりません。

 ① 中枢院の役割

・法律・勅令の制定・廃止・改変

・行政府から上奏する一切の事項の審査議定

・人民が建議した事項を審査議定

 ② 議官の半数は政府から、半数は人民協会で投票選挙

この内容からは明らかに、中枢院を通して民衆が国政の場に参加するヨーロッパ型の議会を目指していることが読み取れます。

 

(4、全体のフレームワークを確認)

:以上の内容をもとに、設問の要求している「開化派の目指したもの」と「朝鮮の社会と政治の変化」をまとめると以下のようになるかと思います。

 

[開化派の目指した改革] 

① 朝鮮王朝の独立(清の宗主権の否定)

② 人民の平等

③ 有能な人材の登用

④ 財政改革

 

[朝鮮の社会と政治の変化]

 ① 朝貢や清暦(時憲暦)の廃止

  :清への服属から独立・自立した近代国家へ

② 人民の平等

 :両班の支配する世界から身分差のない社会へ

 ③ 奴隷制の廃止

  :②に同じ

 ④ 税の銭納

  :現物納から銭納への転換と財政の安定

 ⑤ 人民の国政への関与(中枢院議官の選挙)

  :議会制への転換

 

【解答例】

金玉均や朴泳孝ら開化派は甲申政変後の改革で閔氏と対立する大院君を担ぎ、朝鮮の独立、人民の平等、人材の登用、汚職一掃や税制改革を目指したが、清の袁世凱の介入で挫折した。その後、甲午農民戦争が起きて日本の圧力が強まると開化派は再び改革に着手し、朝鮮独自の暦の採用による清の宗主権否定や人民の平等と奴隷制の廃止、税の銭納などを方針とし、中枢院の議官の一部が選挙で選ばれるなど、人民の国政への参加が拡大した。(200字)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 2013年、一橋の第2問は、フランス革命の「革命」の解釈をめぐる歴史家の見解について比較させる問題でした。こちらに紹介されている歴史家たちは、史学、中でも西洋近代史を学ぶ大学生が必ずと言ってよいほど耳にする(もし耳にしないのであれば不勉強か、研究の対象としている地域がよほど特殊かのどちらかだと思います。あ、でもマチエについては微妙かも)人々です。といっても現役の先生方ではなく、もう古典と言ってもよいくらいの方々ですから、もしかして今世代の大学生からは「それはお前が古いからだ!」とおしかりをいただくかもしれません。どの方もばっちりWikipediaに載ってる有名人です。(もっとも、これを見ただけだとよくわからないかもしれません)。

 ただ、本設問を説くにあたってこれらの歴史家を知っている必要はありませんし、ご存知であるという受験生もほぼいないと思います。(おそらく、一般に受験生に知られている歴史家または学者としては、ピレンヌとウォーラーステインくらいではないでしょうか。私の場合、口が滑らかになるとジャック=ル=ゴフとかブルクハルト、ホイジンガ、ジャネット=アブー=ルゴド、柴田三千雄や二宮宏之、ジョン=ブリュアあたりの名前を出すことはあるかなと思います。専門近代イギリス史のくせに微妙にフランスに偏ってるのは多分指導教員のせいですw) 大切なことはリード文を読み取ることです。この設問では、知識ではなく明らかに読解力が求められています。ですから、「受験生の知らない知識ばかりであるから」という理由で「悪問である」とは言えないと思います。

一時期、一橋ではかなりの率でこうした史資料読解を要求する設問が出題されておりましたし、今でも程度は軽くなったとはいえ、いくらかの史資料読解を要求する設問は出題されます。ですから、そうした問題の練習だととらえて解いてみても良いかと思います。古い出題傾向になりますが、以前このあたりの点についてはご紹介しています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_211752.html、ここ数年はまた出題傾向の変化が見られますので、古い分析はあまりあてになりません。最近は前からお話しているように、一橋の出題テーマが妙に東大臭くなってきています。) 

 

【1、設問確認】

・リード文中にある1787年の名士会の動きについて

①「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱」とみなされるか

②「革命」をどのようなものと考えると同じものが「革命」と見なされるか

 

(参考にすべきもの)

①絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化

②フランス革命の際のスローガン など

 

【2、名士会の動き】

:出題当時(2013年)、「名士会」という用語は高校世界史では一般的な語ではありませんでした。ですから、1787年に名士会が開かれたことやその意義などは、当時の受験生は全く知らなかったと思います。ですが、一橋入試ではそこでひるんではいけないのです。知らないことがあってもアッテンボローばりに「それがどうした!」といえる気概を持たなければとてもではないですが太刀打ちできません。「それがどうした!」と叫んだあとで、リード文をよく読んでみると、以下のことが読み取れます。

① 貴族への課税を中心とする改革案を作成した国王政府が1787年に召集

② 主として大貴族から構成される(会議)

③ 名士会は貴族が課税されることよりも、臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制そのものを批判

④ 全国三部会の開催を要求

 

 ぶっちゃけ、これだけ情報があれば十分じゃないですか?名士会。「習ってないから」というのが言い訳にしかならない、ということがよくわかる設問だと思います。けなしているわけではないですよ。人のやることや技術を見て覚えたり、習っていないことを自分の頭で考えて読み取る、ということがいかに学習をすすめる上で大切かと個人的には思いますので、強調しています。下手をすると大学院でも、大学や教授は知識を授けてくれる存在だと思っている人に出くわすことがあるのですが(多分本人に悪気はなく気づいていないだけなので責めるつもりはないのですが、時々話がかみ合わなくてイライラするのは一方的にこちら側なので困ります。でも、もしかすると向こうは「ものを知らないやつだなー」とこちらにイラついているかもしれません。)、大切なのは知識以上にどのような手法で調べ、分析し、考えるかという技術や作法の方なんです。知識なんて今どきネットで調べれば出てきますし、昔であっても調べれば誰でもわかる知識は、きちんとした手順を踏んで調べればわかりました。(もっとも、一定の作法をしらないと調べられない知識、というものはあります。現在でも、たとえばネットで情報を検索しようとするときに、お目当ての情報にすぐアクセスできる人と、そうでない人がいますが、これは「調べる」という行為に関しての技術と認識に差があるわけですね。)

 ちなみに、一橋で出題されたせいかは分かりませんが、最新の『詳説世界史研究』には名士会についての記述も載っています。一応、その部分についての文章も引用してみましょう。

 

ようやく1876年(原文ママ、1786年の誤り)、財務総監カロンヌは、すべての身分を対象とする新税「土地上納金」の設置を中心とする改革案をまとめ、翌年、臨時諮問機関である名士会に提出した。しかし土地上納金は第一・第二身分の免税特権を侵し、したがって身分制社会そのものの根幹にかかわる「国制問題」と受け止められて議論は紛糾し、名士会の解散とカロンヌの罷免に終わった。(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.313

 

こちらの文章で読みますと、上にあげた③の部分が「国制問題」としてとらえられていることがわかります。もっとも、一橋の設問では、課税よりも「臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制」が問題とされていたとなっていますが、いずれにしても国制の根幹にかかわる事柄であったことには間違いがありません。

 

    ちなみに、「国制」というのは国の仕組みや成り立ち、制度、一定の政治原理に基づく国家の秩序のことを言います。

 

【3、各歴史家の説】

 リード文に書かれている各歴史家の説を比較して図示すると以下のようになります。

画像2 - コピー

 どの説においても、1787年の名士会をめぐる動きを「ブルジョワ革命(市民革命)」とはしていない点には注意が必要です。これをもとに、どのように見ると「反乱」でどのように見ると「革命」かを考えていくことになります。

 

【4、革命と反乱】

 ここで、革命と反乱とは何なのか、まず一般的な意味を考えてみましょう。

 

(革命)

・国家体制の転覆と新体制樹立

・社会システムの根本的改革

 

(反乱)

・政治体制、方針に対する不満表明と現実の抵抗

 

つまり、「革命」とは何らかの国家的・社会的基盤の変革をともなわないといけないわけですね。「反乱」の結果として「革命」につながることはあっても、何の変革もともなわない「革命」はあり得ません。たとえば、大塩平八郎の乱や米騒動を「反乱・暴動」とは言っても「革命」とは言わないでしょう。

 この議論・視点は実はとても重要で、たとえば「イギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)」は「市民革命」といえるのかという問題とも絡んできます。ピューリタン革命は確かに王制を打倒して共和政を樹立したし、名誉革命はそれまでイギリスでは確立していなかった立憲君主制確立のきっかけをつくりしました。さらに、各種特権の廃止によって経済活動の自由がかなりの部分、保障されました。このような視点からみればイギリス革命はたしかに「市民革命」としての要素を持っていたといえます。一方で、コモンウェルスによる支配はほんの一時期であり、その中心は上層のジェントリたちでした。また、すぐに1660年の王政復古で覆ってしまいます。さらに、名誉革命はたしかに立憲君主制の基礎を作りましたけれども、実際に議会を牛耳っていたのは大貴族やそれらと一体化していくジェントルマンたち社会の一部上層だけでした。また、「君臨すれども統治せず」というのは高校世界史ではよく出てくる言葉ですけれども、実際には名誉革命後も国王は官職に関する人事や外交などに非常に大きな影響力を持ち続けたことが知られています。このように考えると、二度の「イギリス革命」を経ても社会構造の基本的な部分はほとんど変化がない、つまり「市民革命」ではないという見方も成り立ちうるわけです。

本設問はフランス革命をめぐる問題ですが、こうした「一つの現実(事実、または史料が示している事柄)」に対し、「複数の見方」が成り立ちうるという、歴史家として大切な視点をよく示した良問ではないかと思います。

 

【5、絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化】

:ただ、さすがにこの反乱と革命の説明だけで400字終わらせるわけにはいきませんので、設問が「参考にせよ」と言っている事柄との関連について検討していきたいと思います。絶対王政成立によって、国王と貴族の関係がどのように変化したのか、ポイントをしめすと以下のようになるかと思います。

 

① 貴族の廷臣化(封建領主→宮廷を中心とする官僚へ)

② 貴族の国政に対する発言権が失われる

cf.) 1615 三部会の招集停止(ルイ13世期)

    1648-5  フロンドの乱→高等法院の力が弱まる

③ 貴族の免税特権など封建的諸特権は維持

   =貴族に対する課税は封建的諸特権に対する侵害

④ 1787年時点における三部会の開催要求は中世以来の慣習の復活

   =絶対王政期におけるアンシャン=レジーム自体の変革ととらえるべきか否か

 

【6、フランス革命期のスローガン】

最後に、フランス革命期のスローガンとの関係について考えてみましょう。フランス革命のスローガンとは何ぞ?となるかもしれませんが、一般的には「自由・平等・友愛(博愛)」がフランス革命の理念(スローガン)とされています。ただ、高校世界史で考えた場合(というか私の個人的な好みの問題もあるのですが)、フランス革命初期の段階で重要な理念というのは「自由・平等」に加えて「所有権(財産権)の不可侵」ではないかと思います。というのも、フランス革命の理念に「友愛(博愛)」の精神が加わるのは革命が進んで少し後になってからのことだからと言われているからです。例えば、1789年に国民議会(憲法制定国民議会)が定めた「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」には、「友愛」に関する事柄は一切見られません。『詳説世界史研究』(2017年版、p.314)では、人権宣言が定めた基本的人権を「自由・所有・安全・抵抗などの基本的人権」としています。これは、人権宣言の第2条が「すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。(Le but de toute association politique est la conservation des droits naturels et imprescriptibles de l'homme. Ces droits sont la liberté, la propriété, la sûreté, et la résistance à l'oppression.」とあるところからでしょう。また、「平等」については第1条などによって保障されています。最後の第17条が「所有権の不可侵」となっていることも印象的です。

これは、人権宣言の出された時期にフランス全土に「大恐怖」と呼ばれる農民たちの暴動が広がっていたことがあります。当時の国民議会の代表者たちはたしかに第三身分の代弁者であることを自認していましたが、どちらかといえば社会の上層に属する人々でした。そもそも、パリくんだりまでやってきて何か月も会議に参加できる時点で間違いなくアッパークラスです。働きもせず、何か月もひたすらネットカフェで豪遊しつつアニメ談議に花を咲かせるナイスガイを想像してみましょう。どう考えても金持ちのドラ息子です。そうした人々が全土で貴族や金持ちの館が農民に襲われる様子を見て、安閑としていられるはずがないわけですね。「おれん家や親戚が襲われたりしたらどうしよう…」、これですよ。ですから、国民議会の議員たちは「おれたちは第三身分の味方ですよー」という姿勢を崩さないまま、全土の「大恐怖」を落ち着かせる極めて困難なかじ取りを要求されます。これは難しいですよ。流されやすい大衆によって構成されているクラスなんかを想像してみるといいですよ。クラス全体が誰かをいじめているときに「やめろよ!」っていうことがいかに危険か。まず間違いなく、「なんだよ、お前〇〇の味方すんのかよ」という感じで、明らかにマンガだったら嫌な奴キャラになってしまっていることに気づかない奴が、いじめを止めた人間を「〇〇の味方」扱いしてきます。つまり、当時「暴動や略奪はやめよー(うちが襲われると困るから)」と国民議会が声を発することは、「んだよ、おまえら貴族の味方かよ…。やっちまえ!」となる危険性をはらんでいるわけです。

そこで国民議会が出したものが「封建的諸特権の一部廃止」と「(フランス)人権宣言」です。つまり、「君たちを苦しめていた貴族の特権はなくなったんだよ!君たちは自由だ!」ということを打ち出して第三身分の不満の原因を解消するとともに、「これをみんなに保障した国民議会は第三身分の味方!」というアピールを行うわけですね。ところが、貴族の土地については有償でしか入手できませんでしたので、実際に17898月の時点で土地持ちに慣れたのは、土地の代償を払うことができる一定の財産を持ったものだけでした(当時土地の入手に必要とされたのは20年分程度の税にあたる金額が必要)。そして、人権宣言ではところどころに「所有権!所有権!所有ケンケンケケンケン!Let’s Go!」と所有権の不可侵性を示します。

これは、「みんな誰かにものを奪われるのは嫌な気分だよね?だって、所有権は自然権で、基本的人権なんだ!だから人のものを奪うことは悪いことなんだよ!」→「貴族の土地は代々彼らが持っていた所有物だよね?もちろん、彼らだけが土地を持っているのは不公平だから譲ってもらうべきだけど、その分の代償を払わないのは泥棒だよね!」という形で、当時全土に広がっていた暴動・略奪を鎮めようとしているわけです。彼ら(国民議会)の究極の目的は「農民が過激化してうちまで襲われたらたまらんから、おれらの所有物はしっかり保護しないと!」です。

以上、歴史学的に厳密で正しくはないかもしれませんが、革命初期の雰囲気はこのように理解するとわかりやすいかと思います。革命の理念についてポイントをまとめるなら、以下のようになるのではないかと思います。

 

① 自由・平等

cf.)  自然権思想、ルソーなどの啓蒙思想家、『人間不平等起源論』(ルソー)

    シェイエス『第三身分とは何か』

② 所有権の不可侵

→当初は「自由、平等、財産」が問題となっていた

 

【解答例】

1787年に貴族が招集されて開催された名士会は国王に対して全国三部会の招集を要求したが、これを免税特権などの既得特権を守るために貴族が国王の政策に対して示した反抗と考えれば、マチエや柴田のように「反乱」ととらえられる。一方で、三部会停止やフロンドの乱鎮圧以降、絶対王政期に廷臣の地位に甘んじて臨時にしか国政に発言できなかった貴族が、アンシャン=レジーム下における政治体制そのものの変革と、中世以来の貴族の政治特権の回復を求めたものと考えた場合、名士会の動きはルフェーブルのように「貴族革命」ととらえることができる。フランス革命の理念である自由・平等はこの段階では見られず、シェイエスが『第三身分とは何か』で示した第三身分を国の根幹とする発想はないため、ルフェーブルの場合においても名士会の動きは「ブルジョワ革命」とはとらえられず、柴田においても革命の開始は国民議会が成立し、人権宣言の出された1789年とされた。(400字)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ