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カテゴリ: 一橋大学対策

 2013年、一橋の第2問は、フランス革命の「革命」の解釈をめぐる歴史家の見解について比較させる問題でした。こちらに紹介されている歴史家たちは、史学、中でも西洋近代史を学ぶ大学生が必ずと言ってよいほど耳にする人々です。といっても現役の先生方ではなく、もう古典と言ってもよいくらいの方々ですから、もしかして今世代の大学生からは「それはお前が古いからだ!」とおしかりをいただくかもしれません。どの方もばっちりWikipediaに載ってる有名人です。(もっとも、これを見ただけだとよくわからないかもしれません)。

 ただ、本設問を説くにあたってこれらの歴史家を知っている必要はありませんし、ご存知であるという受験生もほぼいないと思います。(おそらく、一般に受験生に知られている歴史家または学者としては、ピレンヌとウォーラーステインくらいではないでしょうか。私の場合、口が滑らかになるとジャック=ル=ゴフとかブルクハルト、ホイジンガ、ジャネット=アブー=ルゴド、柴田三千雄や二宮宏之、ジョン=ブリュアあたりの名前を出すことはあるかなと思います。専門近代イギリス史のくせに微妙にフランスに偏ってるのは多分指導教員のせいですw) 大切なことはリード文を読み取ることです。この設問では、知識ではなく明らかに読解力が求められています。ですから、「受験生の知らない知識ばかりであるから」という理由で「悪問である」とは言えないと思います。

一時期、一橋ではかなりの率でこうした史資料読解を要求する設問が出題されておりましたし、今でも程度は軽くなったとはいえ、いくらかの史資料読解を要求する設問は出題されます。ですから、そうした問題の練習だととらえて解いてみても良いかと思います。古い出題傾向になりますが、以前このあたりの点についてはご紹介しています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_211752.html、ここ数年はまた出題傾向の変化が見られますので、古い分析はあまりあてになりません。最近は前からお話しているように、一橋の出題テーマが妙に東大臭くなってきています。) 

 

【1、設問確認】

・リード文中にある1787年の名士会の動きについて

①「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱」とみなされるか

②「革命」をどのようなものと考えると同じものが「革命」と見なされるか

 

(参考にすべきもの)

①絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化

②フランス革命の際のスローガン など

 

【2、名士会の動き】

:出題当時(2013年)、「名士会」という用語は高校世界史では一般的な語ではありませんでした。ですから、1787年に名士会が開かれたことやその意義などは、当時の受験生は全く知らなかったと思います。ですが、一橋入試ではそこでひるんではいけないのです。知らないことがあってもアッテンボローばりに「それがどうした!」といえる気概を持たなければとてもではないですが太刀打ちできません。「それがどうした!」と叫んだあとで、リード文をよく読んでみると、以下のことが読み取れます。

① 貴族への課税を中心とする改革案を作成した国王政府が1787年に召集

② 主として大貴族から構成される(会議)

③ 名士会は貴族が課税されることよりも、臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制そのものを批判

④ 全国三部会の開催を要求

 

 ぶっちゃけ、これだけ情報があれば十分じゃないですか?名士会。「習ってないから」というのが言い訳にしかならない、ということがよくわかる設問だと思います。けなしているわけではないですよ。人のやることや技術を見て覚えたり、習っていないことを自分の頭で考えて読み取る、ということがいかに学習をすすめる上で大切かと個人的には思いますので、強調しています。下手をすると大学院でも、大学や教授は知識を授けてくれる存在だと思っている人に出くわすことがあるのですが(多分本人に悪気はなく気づいていないだけなので責めるつもりはないのですが、時々話がかみ合わなくてイライラするのは一方的にこちら側なので困ります。でも、もしかすると向こうは「ものを知らないやつだなー」とこちらにイラついているかもしれません。)、大切なのは知識以上にどのような手法で調べ、分析し、考えるかという技術や作法の方なんです。知識なんて今どきネットで調べれば出てきますし、昔であっても調べれば誰でもわかる知識は、きちんとした手順を踏んで調べればわかりました。(もっとも、一定の作法をしらないと調べられない知識、というものはあります。現在でも、たとえばネットで情報を検索しようとするときに、お目当ての情報にすぐアクセスできる人と、そうでない人がいますが、これは「調べる」という行為に関しての技術と認識に差があるわけですね。)

 ちなみに、一橋で出題されたせいかは分かりませんが、最新の『詳説世界史研究』には名士会についての記述も載っています。一応、その部分についての文章も引用してみましょう。

 

ようやく1876年(原文ママ、1786年の誤り)、財務総監カロンヌは、すべての身分を対象とする新税「土地上納金」の設置を中心とする改革案をまとめ、翌年、臨時諮問機関である名士会に提出した。しかし土地上納金は第一・第二身分の免税特権を侵し、したがって身分制社会そのものの根幹にかかわる「国制問題」と受け止められて議論は紛糾し、名士会の解散とカロンヌの罷免に終わった。(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.313

 

こちらの文章で読みますと、上にあげた③の部分が「国制問題」としてとらえられていることがわかります。もっとも、一橋の設問では、課税よりも「臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制」が問題とされていたとなっていますが、いずれにしても国制の根幹にかかわる事柄であったことには間違いがありません。

 

    ちなみに、「国制」というのは国の仕組みや成り立ち、制度、一定の政治原理に基づく国家の秩序のことを言います。

 

【3、各歴史家の説】

 リード文に書かれている各歴史家の説を比較して図示すると以下のようになります。

画像2 - コピー

 どの説においても、1787年の名士会をめぐる動きを「ブルジョワ革命(市民革命)」とはしていない点には注意が必要です。これをもとに、どのように見ると「反乱」でどのように見ると「革命」かを考えていくことになります。

 

【4、革命と反乱】

 ここで、革命と反乱とは何なのか、まず一般的な意味を考えてみましょう。

 

(革命)

・国家体制の転覆と新体制樹立

・社会システムの根本的改革

 

(反乱)

・政治体制、方針に対する不満表明と現実の抵抗

 

つまり、「革命」とは何らかの国家的・社会的基盤の変革をともなわないといけないわけですね。「反乱」の結果として「革命」につながることはあっても、何の変革もともなわない「革命」はあり得ません。たとえば、大塩平八郎の乱や米騒動を「反乱・暴動」とは言っても「革命」とは言わないでしょう。

 この議論・視点は実はとても重要で、たとえば「イギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)」は「市民革命」といえるのかという問題とも絡んできます。ピューリタン革命は確かに王制を打倒して共和政を樹立したし、名誉革命はそれまでイギリスでは確立していなかった立憲君主制確立のきっかけをつくりしました。さらに、各種特権の廃止によって経済活動の自由がかなりの部分、保障されました。このような視点からみればイギリス革命はたしかに「市民革命」としての要素を持っていたといえます。一方で、コモンウェルスによる支配はほんの一時期であり、その中心は上層のジェントリたちでした。また、すぐに1660年の王政復古で覆ってしまいます。さらに、名誉革命はたしかに立憲君主制の基礎を作りましたけれども、実際に議会を牛耳っていたのは大貴族やそれらと一体化していくジェントルマンたち社会の一部上層だけでした。また、「君臨すれども統治せず」というのは高校世界史ではよく出てくる言葉ですけれども、実際には名誉革命後も国王は官職に関する人事や外交などに非常に大きな影響力を持ち続けたことが知られています。このように考えると、二度の「イギリス革命」を経ても社会構造の基本的な部分はほとんど変化がない、つまり「市民革命」ではないという見方も成り立ちうるわけです。

本設問はフランス革命をめぐる問題ですが、こうした「一つの現実(事実、または史料が示している事柄)」に対し、「複数の見方」が成り立ちうるという、歴史家として大切な視点をよく示した良問ではないかと思います。

 

【5、絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化】

:ただ、さすがにこの反乱と革命の説明だけで400字終わらせるわけにはいきませんので、設問が「参考にせよ」と言っている事柄との関連について検討していきたいと思います。絶対王政成立によって、国王と貴族の関係がどのように変化したのか、ポイントをしめすと以下のようになるかと思います。

 

① 貴族の廷臣化(封建領主→宮廷を中心とする官僚へ)

② 貴族の国政に対する発言権が失われる

cf.) 1615 三部会の招集停止(ルイ13世期)

    1648-53  フロンドの乱→高等法院の力が弱まる

③ 貴族の免税特権など封建的諸特権は維持

   =貴族に対する課税は封建的諸特権に対する侵害

④ 1787年時点における三部会の開催要求は中世以来の慣習の復活

   =絶対王政期におけるアンシャン=レジーム自体の変革ととらえるべきか否か

 

【6、フランス革命期のスローガン】

最後に、フランス革命期のスローガンとの関係について考えてみましょう。フランス革命のスローガンとは何ぞ?となるかもしれませんが、一般的には「自由・平等・友愛(博愛)」がフランス革命の理念(スローガン)とされています。ただ、高校世界史で考えた場合(というか私の個人的な好みの問題もあるのですが)、フランス革命初期の段階で重要な理念というのは「自由・平等」に加えて「所有権(財産権)の不可侵」ではないかと思います。というのも、フランス革命の理念に「友愛(博愛)」の精神が加わるのは革命が進んで少し後になってからのことだからと言われているからです。例えば、1789年に国民議会(憲法制定国民議会)が定めた「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」には、「友愛」に関する事柄は一切見られません。『詳説世界史研究』(2017年版、p.314)では、人権宣言が定めた基本的人権を「自由・所有・安全・抵抗などの基本的人権」としています。これは、人権宣言の第2条が「すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。(Le but de toute association politique est la conservation des droits naturels et imprescriptibles de l'homme. Ces droits sont la liberté, la propriété, la sûreté, et la résistance à l'oppression.)」とあるところからでしょう。また、「平等」については第1条などによって保障されています。最後の第17条が「所有権の不可侵」となっていることも印象的です。

これは、人権宣言の出された時期にフランス全土に「大恐怖」と呼ばれる農民たちの暴動が広がっていたことがあります。当時の国民議会の代表者たちはたしかに第三身分の代弁者であることを自認していましたが、どちらかといえば社会の上層に属する人々でした。そもそも、パリくんだりまでやってきて何か月も会議に参加できる時点で間違いなくアッパークラスです。働きもせず、何か月もひたすらネットカフェで豪遊しつつアニメ談議に花を咲かせるナイスガイを想像してみましょう。どう考えても金持ちのドラ息子です。そうした人々が全土で貴族や金持ちの館が農民に襲われる様子を見て、安閑としていられるはずがないわけですね。「おれん家や親戚が襲われたりしたらどうしよう…」、これですよ。ですから、国民議会の議員たちは「おれたちは第三身分の味方ですよー」という姿勢を崩さないまま、全土の「大恐怖」を落ち着かせる極めて困難なかじ取りを要求されます。これは難しいですよ。流されやすい大衆によって構成されているクラスなんかを想像してみるといいですよ。クラス全体が誰かをいじめているときに「やめろよ!」っていうことがいかに危険か。まず間違いなく、「なんだよ、お前〇〇の味方すんのかよ」という感じで、明らかにマンガだったら嫌な奴キャラになってしまっていることに気づかない奴が、いじめを止めた人間を「〇〇の味方」扱いしてきます。つまり、当時「暴動や略奪はやめよー(うちが襲われると困るから)」と国民議会が声を発することは、「んだよ、おまえら貴族の味方かよ…。やっちまえ!」となる危険性をはらんでいるわけです。

そこで国民議会が出したものが「封建的諸特権の一部廃止」と「(フランス)人権宣言」です。つまり、「君たちを苦しめていた貴族の特権はなくなったんだよ!君たちは自由だ!」ということを打ち出して第三身分の不満の原因を解消するとともに、「これをみんなに保障した国民議会は第三身分の味方!」というアピールを行うわけですね。ところが、貴族の土地については有償でしか入手できませんでしたので、実際に17898月の時点で土地持ちに慣れたのは、土地の代償を払うことができる一定の財産を持ったものだけでした(当時土地の入手に必要とされたのは20年分程度の税にあたる金額が必要)。そして、人権宣言ではところどころに「所有権!所有権!所有ケンケンケケンケン!Let’s Go!」と所有権の不可侵性を示します。

これは、「みんな誰かにものを奪われるのは嫌な気分だよね?だって、所有権は自然権で、基本的人権なんだ!だから人のものを奪うことは悪いことなんだよ!」→「貴族の土地は代々彼らが持っていた所有物だよね?もちろん、彼らだけが土地を持っているのは不公平だから譲ってもらうべきだけど、その分の代償を払わないのは泥棒だよね!」という形で、当時全土に広がっていた暴動・略奪を鎮めようとしているわけです。彼ら(国民議会)の究極の目的は「農民が過激化してうちまで襲われたらたまらんから、おれらの所有物はしっかり保護しないと!」です。

以上、歴史学的に厳密で正しくはないかもしれませんが、革命初期の雰囲気はこのように理解するとわかりやすいかと思います。革命の理念についてポイントをまとめるなら、以下のようになるのではないかと思います。

 

① 自由・平等

cf.)  自然権思想、ルソーなどの啓蒙思想家、『人間不平等起源論』(ルソー)

    シェイエス『第三身分とは何か』

② 所有権の不可侵

→当初は「自由、平等、財産」が問題となっていた

 

【解答例】

1787年に貴族が招集されて開催された名士会は国王に対して全国三部会の招集を要求したが、これを免税特権などの既得特権を守るために貴族が国王の政策に対して示した反抗と考えれば、マチエや柴田のように「反乱」ととらえられる。一方で、三部会停止やフロンドの乱鎮圧以降、絶対王政期に廷臣の地位に甘んじて臨時にしか国政に発言できなかった貴族が、アンシャン=レジーム下における政治体制そのものの変革と、中世以来の貴族の政治特権の回復を求めたものと考えた場合、名士会の動きはルフェーブルのように「貴族革命」ととらえることができる。フランス革命の理念である自由・平等はこの段階では見られず、シェイエスが『第三身分とは何か』で示した第三身分を国の根幹とする発想はないため、ルフェーブルの場合においても名士会の動きは「ブルジョワ革命」とはとらえられず、柴田においても革命の開始は国民議会が成立し、人権宣言の出された1789年とされた。(400字)

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以前からお話していることではありますが、従来、ややマニアックな出題分野からかなり深い内容について問うスタイルの出題がなされていた一橋大学の設問の雰囲気が少しずつ変わってきています。大きな変化を感じたのは2014年の問題でしたが、それよりも少し前からも含めて、「ただ歴史的事実を整理し、まとめさせるだけの問題」から「与えられた史資料を活用して自分の頭で考えるスタイルの出題」が見られるようになりました。さらに、出題のテーマや、設問のレベルも「マニアックで、深い」ものから「一般的で、基本的な」内容のものが目立つようになりました。個人的な感覚でいうと、妙にテーマが東大臭い問題が見られるようになり、「もはや従来型の一橋の出題傾向分析は役に立たない」と言っても過言ではなくなってきました。

そこで、2014年問題以降の出題された問題をまとめ直してみました。今回、分析の対象にしたのは2014年~2020年に出題された問題で、大問ごとに「テーマ」、「地域」、「史資料重要度」に分けて整理してみました。正直なところ、「分析」というほどたいそうなものではありませんが、こちらに整理したものを見てみるとそれまでの一橋の出題傾向とは異なるいくつかの特徴が見えてきます。

 

(大問Ⅰ)

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:大問1については、従来は神聖ローマ帝国もしくはドイツ周辺地域からの出題が多かったのですが、近年は英仏を中心とする西欧からの出題が目立ちます。範囲・テーマも王道からの出題が多くなりました。また、史資料読解の力を必要とする出題もかなり多いかともいます。

 

(大問Ⅱ)

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:大問2については、従来からアメリカ史、フランス史からの出題が多かったのですが、近年はより広域における歴史上の変化を問う設問が増えてきています。史資料読解については示されない年もありますが、示された年では深い史資料読解の力を要求され、テーマも理論や事柄についての深い理解を問う、重い設問となりがちです。逆に、史資料があまり問題とならない年はシンプルですっきりとした、比較的平易な設問が多いように感じます。

 

(大問Ⅲ)

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:大問3については、従来は清朝を中心とする中国史が多かったのですが、近年はより現代史の方にかたよって来ている印象があります。また、単純に中国だけのことがらを聞くのではなく、周辺諸地域(朝鮮や台湾)との関係性を問うようになってきました。

 

 その他、近年の出題についていくつか目に付くところを示しますと、「政治史・経済史・社会史・宗教史が中心。(文化史の出題頻度は低い)」、「政治史の出題頻度は総じて高い」、「西洋中世・近世史では近年宗教に関連する出題が増加している」、「近現代史では、ヨーロッパの大きな変化・国際関係・民族問題が頻出」といったことが言えるかと思います。

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[UP当初は大問ごとに分けて投稿しておりましたが、統合しました。(2021.8.3)]

ずいぶん長いことほったらかしておりましたが、ぼちぼち一橋の2020年問題の解説をしていきたいと思います。とはいっても、やはりいっぺんにUPするのは難しいので、とりあえず大問1からで勘弁してください。できれば今年中に間に合えばなぁとは思っています。

 

まずは、全体を概観したいと思います。

 

大問1については、近年の一橋の良さが良く出た設問で、私としては良問ではないかと思います。高校受験生の世界史知識をベースに、史料の読解を通して考えさせ、正解を導くというスタイルの設問で、近年ですと2016年や2014年の大問1が似たようなスタイルの設問ではないかと思います。世界史の問題の多くがこのような形で作れるのであればそれはとても良いことですが、生徒の知識量と扱える史資料のバランスを考えたとき、こうした設問を用意するのはなかなか難しいので、一橋の先生方も本当によく工夫されているなぁと思います。西洋史を学ぶ、ということは単に知識を詰め込むという作業ではありません。総合的に各種情報を整理・分析する能力が必須なんですね。本気で取り組もうと思った場合、かなりハードに情報収集・分析・整理を行って、その上に想像力を活用しなくてはならない、極めて高度な知的作業だと思います。だから、欧米だとわりと歴史本格的に勉強した人は尊敬されるというか、民間企業でもわりと良い扱い受けたりするみたいですね。日本だけじゃないでしょうか、ここまで冷遇されているのはw

 

脱線しましたが、続いて大問2についてです。テーマとしてはよくあるスタイルの設問で、新しさのあるテーマではありません。イギリスからアメリカへの覇権交代に関する論述問題で、他大学や模試などでもなどではわりと良く見られるテーマではないかと思います。では、簡単かというとそれがそうでもないんですよねぇ。難しくはないのですが、いかんせん要求されている範囲が広すぎます。19世紀後半以降から第二次世界大戦・冷戦・脱植民地化ですからね。もちろん、重点をおくのは後半部分なわけですが、この内容を400字に詰め込もうとするとひたすら用語の羅列になってしまって何を言っているのだかわからない文章が出来上がってしまいそうで怖いですね。必要以上に怖がる必要はないですが、注意の必要な設問だったかと思います。

 

大問3については、いわゆる朝鮮王朝における小中華思想と、朝鮮王朝末期の大院君統治期の攘夷思想との関係性を問う設問ですね。奇しくも、同じ年の東大でもこの小中華思想を扱っています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_394128.html) 大院君については通常の受験生ですとやや厳しい(知識が身についていない)のかもしれませんが、一橋を受験する受験生にとっては必須のテーマで、以前にも何度か大院君以降の朝鮮政治史については取り扱っています。おそらく、この大問3は普段から一橋の過去問に触れて周辺を勉強している受験生にとっては一番取り組みやすかったのではないでしょうか。

 

全体を見ると、大問2、大問3については平均的な一橋受験生であればそこそこ書けそうです。ですから、実質的に差がついたのは大問1できちんと設問の要求に沿った解答が書けたかどうかにあったのではないかと思います。

 

2020 Ⅰ

 

【1、設問確認】

:本設問は、1524年に発生したドイツ農民戦争に関してルターが述べた著作を史料としています。もっとも、設問中ではルターがこの著作を「1525年に書いた」ことと、「その前年に起こった農民反乱」について語っていることしか示されていませんが、これらからこの農民反乱をドイツ農民戦争であると確定するのは基本事項ではないかと思います。その上で、以下の問1、問2を合わせて400字で書きなさい、というのが本設問の要求です。

 

問1 

・下線部は具体的にどのような要求であったか

(下線部は以下の通り)

 「農民たちが創世記1章、2章を引き合いに出して、いっさいの事物は、自由にそして[すべての人びとの]共有物として創造せられたものであると言い、また私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称してみても」

 

問2

・「農民たち」が考える「聖書のみ」と、資料中で「ルターが」表明している「意見」の相違はどのようなものか

・上記の相違はどのような理由で生じたと考えられるか

 

【2、下線部の要求(問1)】

:それでは、まず「下線部の要求」の具体的な内容から確認していきたいと思います。

この史料で語られているのはドイツ農民戦争についてですので、まずはドイツ農民戦争についてのディテールを確認しておいた方が史料(下線部)の読み取りが楽になります。

 

(ドイツ農民戦争[1524-25])

指導者:トマス=ミュンツァー

内容:①ルターの宗教改革に影響を受けたドイツの農民反乱。

   ②農民たちは1525年に「十二か条要求」を掲げた(後述)

   ③ルターは当初農民に同情的だったが、反乱の過激化とともに態度を硬化させた

 

以上の内容を確認したうえで、下線部を分析していきます。

 

(下線部の分析)

・農民たちが使用している根拠:創世記1章、2章

:このことは、農民たちが自分たちの主張は「聖書」に書かれているので正しいと考えていることが分かります。ルターの聖書主義の影響です。

 

・いっさいの事物は自由にそして[すべての人びとの]共有物として創造せられた

:文章をそのまま読めば、「すべてのものは自由に使える共有物として神がつくった」ということですから、この文章からは「地代の軽減・廃止」や、「共有物の適切な仕様(入会地の共有や狩猟の自由など)」などの内容を想定することができます。また、こうした要求は農民たちの掲げた「十二か条要求」の一部でもありました。

 

・わたしたちはみなひとしく洗礼を受けた

:これは、キリスト教信徒の神の前の平等のことを言っています。ここからは例えば「身分制の否定(農奴制の廃止)」や「万人祭司主義」などを論点として想定することができます。

 

(聖書主義について)

:ここで、聖書主義について少し説明しておきましょう。聖書主義というのは、神の言葉や権威は教会や聖職者に存在するのではなく、聖書の中の文言にこそそれが示されているという考え方で、すでに14世紀イギリスのウィクリフやその影響を受けたフスに聖書主義の考え方が見られます。その背景には、当時の教会の堕落がありました。当時の人びとの大多数は文字、特にラテン語についての素養がありませんでしたから、「神様が何を言ったか」とか「キリストが何をしたか」などは教会のミサで司祭が行う説教を通して知ることになります。ところが、その説教がピンキリなんですね。司祭によってはまともな学識がなかったり、自分たちに都合のいいように話を盛ってしまったりということは普通にあるわけです。それでも、その司祭や教会が人格高潔で清貧に耐えて人々のために働く、というのであればよかったのでしょうが、当時の教会はすっかり世俗権力とも仲良し、教会は分裂や対立を繰り返して(教皇のバビロン捕囚や大シスマ)、一般民衆からは搾り取れるだけ搾り取っていきます。中でも世俗権力の分立傾向が強く、多くの教会領を抱えていたドイツ地域の農民たちは「ローマの牝牛」という言葉が生まれるほどに搾取されていました。こうなると、教会による支配に対する不満や疑問が強くなってきます。

 こうした中で、ルターの宗教改革が始まると「聖書主義」はプロテスタントがカトリック教会に対抗する中心的な考え方の一つになっていきます。ただ、この聖書主義にはいくつか問題がありました。「聖書に神の言葉が書かれているから教会は必要ない、聖書を読めばいい」とはいっても、①民衆の多くはラテン語を読めないし、知りません。②本の値段はべらぼうに高いです。そこで、これらを解決する方法が必要でした。①の問題については、「聖書の口語訳」という形で解決されていきます。ウィクリフやルターが聖書の英語訳、ドイツ語訳を作ったこと、フスがチェコ語での大学講義や説教を求めたことなどはこのような文脈の中で理解する必要があります。また、②についてはグーテンベルクの活版印刷術の実用化による書籍の低価格化が聖書普及に貢献していきます。これによって、めちゃくちゃな金持ちでないと手に入らなかった書籍が、ちょっとした小金持ちであれば買えるくらいの値段におさまるようになりました。(イメージで言うと、高級外車買うor一戸建て建てるぐらいの価値だったものが、高級家電を買うくらいまでは落ちてきたようです。) それでも、一般の農民には夢のまた夢、聖書を買うなんてできないし、字も読めません。では、どうして農民は聖書の内容が分かるのか。想像してみましょう。ある村の小金持ちのおっさん。これまで買うことができなかった高級品、「聖書」が安くなったので買うことができました。自慢したくて仕方ありません。そこで、自分の土地で働いている小作人を呼びつけて「おい、そこのお前。いいものを見せてやろう。Ta-da! これが聖書だ!お前みたいな教養のない奴は見たことがないだろう。何?字が読めない?仕方ないなぁ、読んで聞かせてやろうではないか。心して耳を澄まして聞けよ。『光あれ!』」 とまぁ、こんなことが本当にあったかどうかは知りませんが、ありそうな話ではありますw 要は、「回し読み」や口伝えによるわけですね。カラーテレビが初めて出たころに、ご近所さんが見に来るみたいなイメージでしょうか。それでも、活版印刷術の普及によって、グーテンベルクが印刷した42行聖書(15世紀半ば)が20~50グルデンであったのに対し、ルターのドイツ語訳聖書は1~2グルデンほどであったそうなので、かなり聖書を持つ人口自体は増加します。当然、聖書の「生の」情報に触れる人口もそれに伴って増えることになります。

少し話はそれますが、当時のカトリックのミサでは当然のことながらラテン語が使用されていました。ですが、ラテン語というのは一般ピーポーにとってはちんぷんかんぷんの魔法の言葉みたいなものです。だから、内容がわからないわけですけれど、でも「そこがいい」という部分もあります。 

 どういうことかといいますと、ラテン語によるミサというのは「それ自体がある種の魔法的、呪術的な雰囲気を醸し出していて、そこに価値を見出す部分もある」ということです。例えば、われわれはお葬式などの際に仏教徒であればお坊さんを呼んでお経をあげてもらうわけですが、お坊さんが何やら「にゃむにゃむ」言いながら「おーんあーぼきゃーべーろーしゃーのーまーかーぼだーだーらーまーにーはんどーまーじーんばーらはーらーはーりたーやウーン」とか言われても「なんのこっちゃねん」と思いつつ、立派な袈裟を着た坊さんの洗練された所作、香のにおい、お経や真言などの舞台装置によって「なんとなーく」、「ありがたそーうな」雰囲気を感じて、故人を偲ぶわけです。

ところが、「聖書を口語訳する」というのはこの舞台装置をぶっ壊してしまうわけですね。想像してみましょう。葬式に呼んだ坊さんが、ロン毛に茶髪、アロハ着て「ハーイ、皆の衆、元気?これから仏様のありがたーいお話、聞かせてやるから聞けよ、ロッケンロールだぜぇえ~!ヤー、ハー!」とかやりだしたら「ふざけんな」って言ってたたき出されると思いませんか?ちょっと前に「般若心経を現代語訳した」みたいなネタが流行っていましたが、あれも近いものがありますね(https://grapee.jp/97528)。ハリーポッターだって、かっこよく呪文唱えてますけど、ほとんどラテン語由来の造語で、日本語訳しちゃったら雰囲気もへったくれもないわけです。ですから、カトリックの側が当時のルター派やカルヴァン派などのプロテスタントを異端として忌み嫌ったのは、単に自分たちに逆らっているからというだけではなくて、こうした感覚的な嫌悪感というものもあったのではないかなぁと想像してみたりします。その理解が正しいかどうかはともかくとして、そういうイメージを持つとより「聖書主義」というかたい言葉を柔らかく理解することができるようになります。

 

【3、「農民たち」と「ルター」の見解の相違とは何か】

:大問1の要求の肝になる部分です。ここを取り違えてしまったり、関係のないことを書いてしまったりすると加点されないことになるので、丁寧に確認する必要があるでしょう。

 

(農民たち)

①教会の権威に意味はなく、神の言葉は「聖書のみ」に示されており、その聖書の創世記に事物の共有とキリスト教徒の平等が示されているのであるから、富の偏在や現行の教会制度、教会による財物の搾取、身分制などには誤りがあるとしています。つまり、聖書主義に基づいて自分たちの主張の正当化を試みているわけです。

 

ドイツ農民戦争(1524年)の「十二か条」要求

:トマス=ミュンツァーが指導するドイツ農民戦争は以下の「十二か条」を掲げました。最新版(2017年版)の山川出版社『詳説世界史研究』には、「十二か条」全ては出ていませんが、以下の内容は示されています。

・農奴制廃止

・地代の軽減

・農村共同体による聖職者の選出

・聖職者を養うための十分の一税の適正使用

(ちなみに、山川出版社『詳説世界史B』には「農奴制の廃止」、東京書籍『世界史B』には「領主制の廃止」や「土地の共用」が示されていました。)

 

(ルター)

:ルターが史料中で述べている意見をそのまま解釈すると以下のようになります。

①農民が根拠にしている『創世記』は『旧約聖書』中のものであり、キリストが誕生して以降の『新約聖書』においては意味をなさない。(『新約聖書』の記述が優先される)

②『新約聖書』ではキリストの言葉において、人々の身体も財産も、皇帝とこの世の法に従わせている

=身分制など、現行(当時)の社会秩序の肯定

③パウロもローマ13章において、洗礼を受けたすべてのキリスト者に「だれでも上に立つ権威に従うべきである」と言っている

 =領主などの世俗権力の権威の肯定

④農民反乱の鎮圧は農民にとっての「救済」であり、その義務を果たす中で落命する騎士は祝福される

 

【4、農民とルターの意見の相違はどのような原因で生じたか】

①聖書解釈の違い

:まず一つに、農民の聖書解釈とルターの聖書解釈に差があることが挙げられます。これについてはルターが史料中で「なぜなら、モーセは新約聖書においては発言権を持たないからである」や「そこ(新約聖書)には、私たちの主キリストが立ちたもうて…」などと述べていますので、そこから推測して検討すればよいと思います。

②農民反乱の過激化や秩序破壊に対するルターの危惧

③ルター自身がザクセン選帝侯フリードリヒによって庇護されていたこと

④ルター派の教義を根付かせるためにルター派諸侯の協力が必要であったこと

:②~④については、いろいろな教科書・参考書等で目にすることもありますし、ちょっと気の利いた先生であれば一言加えてくれるのではないかと思います。

 

はっきり言ってしまうと、農民とルターの意見の相違が「なぜ」生じたかの本質的・根本的な部分は内面的な問題になりますので、当時のルターにインタビューでもしない限り分かりません。もしかすると「気分で」と言われるかもしれませんw また、学説的に「正しい」見解も、ルターの研究書を全て高校受験生が読めるはずもないので、高校受験生には知りようがありません。ですから、この設問では受験生が知りうる世界史の知識をベースにして「ありそうな」原因を検討して示せばそれで十分だと思います。大切なことは、ルターの「意見」だけを書いて「原因」を書いた気にならないということ。これが重要です。「原因」というのは「ルターがなぜ、農民とは違うルターの意見(身分制の肯定や農民反乱の鎮圧支持など)を持つにいたったかということ」を示すことですので、そこをはき違えないようにする必要があると思います。

 

【解答例】

問1、地代の廃止、共有物の適正使用、農奴制の廃止、農村共同体による聖職者の選出など。問2、トマス=ミュンツァーに率いられた農民たちは、信仰の根拠を聖書のみに求めて教会の権威を否定し、創世記中の記述を根拠に地代や農奴制の廃止、農村共同体による聖職者選出や十分の一税の適正使用を訴え、ローマ教皇を頂点とする当時の教会制度や領主が農奴を支配する封建的社会秩序を否定し、教会や領主による農奴からの搾取を批判した。これに対しルターは、新約聖書の記述が旧約聖書中の創世記に優越することを主張し、社会秩序の維持や世俗権力の権威の尊重を説き、農民反乱鎮圧は反乱者にとっての救済であると主張した。これらの相違の背景には、聖書解釈の相違に加えてルターが農民反乱の過激化や秩序破壊に危機感を抱いたことや、ルター自身がザクセン公の庇護下にあり、ルター派教義の普及のためにルター派諸侯の協力を必要としていたことなどがあった。(合わせて400字)

【2020.11.5:模範解答の「世俗権力の」の部分が「皇帝・教皇」になっていましたので、訂正しました。(ルターは当時、ローマ教皇と対立関係にありますので、教皇はまずいと思います。史料中の文言が「皇帝」となっておりますので、皇帝・領主とすればアリかとも思いますが、当時のカール5世との対立等を考えますと「世俗権力」としておくのが良いでしょう。)

2020 Ⅱ
 2020年一橋の第2問についてですが、シンプルな設問でした。覇権(ヘゲモニー)の変遷については近年高校世界史でもよく言及されるものになってきましたので、受験生にとっても目新しいものではなかったと思います。一橋の第2問ではたびたびアメリカを中心とした国際関係が出題されますので、そのあたりでも当日の受験生が「?」となってしまう設問ではなかったと思います。ただし、設問の文章がシンプルで指定語などもない分、設問の意図や言葉の意味を取り違えてしまうと解答があらぬ方向へ行ってしまう危険性がありますので、その点については注意を要する問題であったかと思います。また、平均的な一橋の受験生であれば「ある程度は書ける」と思わせる設問ですので、その中で一つ抜きんでる解答を書くためには、言及すべき内容を丁寧に追っていく必要があったかと思います。あまり面白味のある問題ではありませんが、近現代の国際関係史を復習するには良い設問だと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:19世紀後半~20世紀中葉

・資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程を論ぜよ

・第二次世界大戦、冷戦、脱植民地化との関係に言及せよ。

 

【2、覇権国家】

:実は、「覇権」や「覇権国家」について共通する明確な定義があるわけではありません。研究分野や研究者によってややアバウトにとらえられている語だと考えてよいでしょう。本設問のテーマにそって「覇権(覇権国家)」をとらえるとすれば、概ね以下のような内容になるかと思います。

① 他を圧倒する経済力、政治力を有する

② 強大な軍事力を有し、自国の安全を安定的に確保することができる

③ 文化力、技術力について他をリードする分野を持つ

④ 他国に対してリーダーシップを発揮し、国際システムに安定性をもたらす

 

【3、パクス=ブリタニカ】

:資本主義世界の覇権が英から米に「移行した」とありますので、まずはイギリスが有していた覇権とはどのようなものであったかを把握する必要があります。設問の時期が19世紀半ばごろからとなっていることからも、これについては「パクス=ブリタニカ」を思い浮かべるのが良いでしょう。これについては東大などでも頻出のテーマで、たとえば1996年の東大大論述で出題された「19世紀中ごろから20世紀中ごろまでの<パクス=ブリタニカ>の展開と衰退」や、2008年に出題された「1850年頃から1870年代までのパクス=ブリタニカと世界諸地域の関係」などが参考になるのではないかと思います。パクス=ブリタニカの時期にイギリスが優位に立ち、覇権を握ることになった要素をまとめると以下の4つになるかと思います。

 

① 「世界の工場」→「世界の銀行」へ

 :いち早く産業革命を達成したイギリスは、19世紀半ばには「世界の工場」としての地位を築きます。かつては、この「世界の工場」としての役割を終えて米・独にその座を明け渡す19世紀後半ごろからイギリスの優位が脅かされるような論も見られましたが、近年では米・独などの新興工業国が台頭してきた19世紀後半に、イギリスは「世界の銀行」として世界の金融を握って非常に大きな経済的影響力を行使していたことが明らかになっています。例えば、すでに1850年代後半にはイギリスはアメリカ合衆国の鉄道債権をかなりの額、有していたことが明らかになっていますし、その後もインドをはじめとする各植民地に莫大な額の資本投下を行ってその利権を得ていました。こうした金融世界の支配力を背景に19世紀末には19世紀初めに自国で成立した金本位制を国際的な基準として拡大することに成功し、国際金本位制(ポンド体制)が成立しますが、このこともイギリスのシティが世界金融の中心であったことを示しています。

 

② 海軍の圧倒的優位

  :イギリス海軍は19世紀後半において二国標準主義(two power standard)をとりました。二国標準主義とは、イギリスの海軍力を世界第二位の国と第三位の国の海軍力合計を上回る状態にする国防方針のことです。そしてこの方針は1889年の海軍防衛法(Naval Defence Act)によって立法化され、イギリスは同法に基づいて海軍の強化を行います(1889年当時の世界第二位と三位はフランスとロシア)。

 

③ 海路の支配(要所に海軍・通商の拠点)

  :イギリス海軍の行動は、イギリスがおさえていた海上拠点によっても支えられていました。イギリスは、1713年のユトレヒト条約によってジブラルタルとミノルカ島を獲得しましたが、このことはイギリスが地中海への入り口を確保したことを示していました。18世紀後半には北米植民地を失ったものの、カリブ海のジャマイカをはじめとしてアメリカ方面にも拠点を構えていました。さらにイギリスはウィーン会議で地中海中部のマルタ島領有を確定し、1878年のベルリン会議では東地中海に浮かぶキプロス島を領有して、地中海全域に海上拠点を設けました。また、アフリカの南端にはケープ植民地、インド全域とセイロン、マレー半島にはマラッカやシンガポールを領有してアジア方面への海路を確保しただけでなく、1875年にはスエズ運河株を買収したことにより、長大なアジアルートを地中海と結ぶことに成功します。これらの海上拠点は他国を圧倒する海軍力の支えになっただけでなく、通商や植民地支配の支えとしても機能し、大英帝国の繁栄を支えることとなります。

 

④  広大な植民地(アジア、アフリカ)

  :アジア、アフリカに存在したイギリスの広大な植民地、中でもインドはイギリスの原料供給地、市場、投資の場として機能し、ヨーロッパ市場においてはやや行き詰った感のあったイギリス経済の持続的な成長の原動力となりました。

画像1
(イギリス帝国の版図[1921]Wikipedia「イギリス帝国」より)


 

【4、イギリスの相対的優位の崩壊】

:イギリスの覇権は19世紀後半から徐々に揺らいでいきますが、はっきりとその動揺が見られたのは第一次世界大戦の後です。第一次世界大戦で莫大な戦費を費やし、債務国へと転落したことや、ワシントン体制の成立により太平洋地域の主導権をアメリカに奪われたことなどがそのあらわれとして示せるのではないかともいます。いずれにしても、イギリスからアメリカへという覇権の移行はある時点において急に起こったのではなく、時間をかけて徐々に進行したものでした。イギリスの相対的優位の崩壊について、ポイントを示すとすれば以下の通りになります。

 

 ① 後発国の台頭(工業生産について米、独の追随)

 ② ドイツの挑戦(建艦競争をきっかけに海軍優位が次第に消滅)

 ③ 第一次世界大戦によるアメリカの台頭

 ④ 第一次世界大戦をきっかけとする債務国への転落(金融上の優位の消失)

 ⑤ 民族運動の激化(植民地の安定支配が困難に)

 ⑥ 植民地政策の転換(自治領の誕生、イギリス連邦の成立)

 

【5、アメリカの台頭と覇権】

:一方のアメリカは、南北戦争終結により南北の経済圏を統一したことや、1869年の大陸横断鉄道開通、西部開拓の急速な進展などにより第二次産業革命を達成し工業生産額を急速に拡大します。イギリスとは違い広大な植民地こそなかったものの、それを補って余りある広大な国土はアメリカに豊富な資源を提供しました。また、両岸を太平洋と大西洋に挟まれたことや、建国以来の外交的孤立主義はヨーロッパ列強間との争いから距離を置かせることを可能にし、国防上で有利な条件を備えていました。こうした中、ヨーロッパ列強が第一次世界大戦で疲弊するのを尻目に、アメリカは世界最大の工業国にして債権国としての地位を築き上げ、金融の中心地はイギリスのシティ(ロンバード街)からアメリカのウォール街へと移っていきます。ただし、この段階では依然としてヨーロッパやアフリカ・中東地域の主導権はイギリスが握っており、イギリスの覇権が完全にアメリカに移ったわけではありませんでした。しかし、第二次世界大戦後には、国際連合の設立やブレトンウッズ体制の構築などでアメリカは指導的立場を演じ、さらに冷戦がはじまる頃には資本主義世界の盟主としての地位を確固たるものとしていきます。イギリスが放棄したギリシア、トルコの共産化阻止をアメリカが買って出たこと(トルーマン=ドクトリン)や、マーシャル=プランを西欧各国が受け入れたことなどがこれを示しています。アメリカの台頭と、イギリスからの覇権の移行についてのポイントを示すと以下のようになります。

 

 ① 世界一の工業生産国に(1880年代~)

 ② 国土の拡大(フロンティアの消滅)

 ③ ラテンアメリカへの影響力拡大(パン=アメリカ会議、カリブ海政策)

 ④ 第一次世界大戦後に債権国へ

 ⑤ 太平洋秩序の再構築(ワシントン体制[九か国条約、四か国条約、海軍軍縮など)

 ⑥ 1920年代の国際秩序構築を主導(ケロッグ=ブリアン条約、ドイツ賠償問題など)

 ⑦ 大量生産、大量消費、大衆文化の拡大

 ⑧ 第二次世界大戦と戦後国際秩序

   (国際連合、ブレトン=ウッズ体制、自由貿易体制[GATT]など)

 ⑨ 冷戦における資本主義陣営の盟主

(マーシャル=プラン、NATO、防共圏の構築など)

 

【6、第二次世界大戦、冷戦、脱植民地化との関係】

:以上の要素を踏まえて、設問は「第二次世界大戦」、「冷戦」、「脱植民地化」との関係に必ず言及せよ、と言っています。ただ単に20世紀史の部分をあつく書くというのではなく、それぞれの要素が覇権の移行とどのように関わっているのかを丁寧に考えていく必要があるでしょう。受験生にとって難しいのは「脱植民地化」という言葉をどう理解し、扱うかでしょう。脱植民地化というのは、言葉だけでいえば植民地が宗主国の支配から抜け出して独立を獲得していくことですが、時代や文脈によって脱植民地化をどのような視点から見るかということが変わってきます。その意味で、短い問題文の中で「脱植民地化」という言葉をポンと投げかける本設問の問い方はやや不親切というか、アバウトな印象を受けます。脱植民地化が大きく問題になるのは広大な植民地を有していたイギリスの方でしょう。イギリスは第二次世界大戦後にインド帝国の分離独立を許し、中東地域についても支配権を失っていきます。例えば、先に述べた1996年の東大大論述の解答としてはエジプトのナセルとの間で起きたスエズ戦争(第二次中東戦争)によるスエズ運河利権の喪失あたりまでが解答として要求されていました(指定語に「スエズ運河国有化」があった)。ただ、本設問ではアメリカが「資本主義世界の覇権」を握るまでが要求されていますし、時期も「20世紀中葉」とだけありますので、スエズ戦争まで書く必要はないと思います。イギリスが植民地帝国を喪失したことを、具体例をいくつか挙げて示すだけで十分でしょう。むしろ重要なのはアメリカとの対比ではないでしょうか。民族自決の風潮が高まる中、各地で民族運動が巻き起こりイギリスは多くの植民地を手放すことになったわけですが、一方のアメリカは植民地依存型の国家運営ではなかったことや、広大な国土と資源を有していたことなどから脱植民地化の影響は軽微ですみました。たとえば、アジアではアメリカからフィリピンが独立していきますが、これも1934年に制定されたタイディングス=マクダフィー法で決まっていた既定路線で、当時のアメリカ議会が決めたことでしたし、独立後もフィリピンは防共圏の一部として機能することになります(1951、米比相互防衛条約)。

 

(第二次世界大戦)

  ・イギリスを始めとする列強の荒廃とアメリカの圧倒的経済力・工業力

  ・戦後国際秩序のアメリカ主導による再構築

 

 (冷戦)

  ・米ソの二極構造の形成(パクス=ルッソ=アメリカーナ)

  ・アメリカによる資本主義陣営の指導的立場

 

 (脱植民地化)

  ・イギリス植民地帝国の崩壊(民族自決、民族運動の展開)

   cf.) インド、パキスタン、中東、スエズ戦争etc.

  ・対して、アメリカは広大な植民地を元来持たず、脱植民地化の影響が軽微

   (自国内に広大な領土、原材料、市場が存在)

【解答例】
 19世紀半ばに世界の工場となった英は、第二次産業革命を達成した米・独に工業生産で抜かれながらも、金本位制のもとで圧倒的な金融資本を持つ世界の銀行として世界経済をリードした。しかし、建艦競争で次第に海軍の優位を失い、第一次世界大戦後には債務国へ転落、民族運動の高揚で植民地経営も困難さを増し、欧州での指導的地位は維持したものの、新たに金融の中心となった米に太平洋地域などの指導的地位を明け渡した。第二次世界大戦後には圧倒的な経済・軍事力を持つ米が、国際連合やブレトン=ウッズ体制などの新秩序建設をリードした。冷戦構造が顕在化すると、米はマーシャル=プランによる西欧経済再建やNATOANZUS、アジア諸国との同盟による防共圏構築で西側諸国の指導者となった。脱植民地化の中で英がインドなど広大な植民地を喪失したのに対し、広大な国土、資源、市場を有して影響が軽微であった米が資本主義世界の覇権国家としての地位を確立した。(400字)


2020 Ⅲ
 一橋の2020年第3問については、奇しくも東大2020年大論述と同じく小中華思想がテーマでした。もっとも、東大の方は小中華思想を東アジアの伝統的な国際関係のあり方の一部として取り扱っているのに対し、一橋の方はむしろ朝鮮の小中華思想自体に焦点を合わせて、その上で1860年代から1870年代の限られた期間における国際関係との関連を考えるというもので、東大がマクロな視点からの出題だとすれば一橋の方はややミクロな視点からの出題でした。いずれにしても、19世紀末の朝鮮情勢については一橋では頻出の問題で、近いところでは2008年第3問の「日露戦争後の日本による朝鮮支配」2013年第3問の「19世紀末朝鮮の開化派(独立党)による改革(甲申政変~甲午改革)」などが出題されています。また、2009年には「1920年代~第二次世界大戦ごろの日本による朝鮮支配(皇民化政策など)」も出題されていますので、近現代朝鮮史についてはかなり手厚く学習しておく必要があると思います。19世紀末の朝鮮情勢については、以前当ブログの「あると便利な地域史」の方でもご紹介しておりますので、参考にしてみてください。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_213698.html

 

【1、設問確認】

問1   ①  に入る言葉を答えよ。

 (リード文)  

「西洋諸国を夷狄、禽獣と視るのは、  ①  意識によるものであった。」

 (設問文)

 「17世紀の国際関係変化を受けて高揚した、自国に対する朝鮮の支配層の意識を示す」

 

→解答は「小中華」(山川用語集には「小中華」として記載、教科書や参考書などでは「小中華思想」、「小中華意識」など。本設問の論述内ではリード文にならい小中華意識として用いる方が無難。

 

問2 ・小中華思想(意識)はいかなるものであったか

   ・小中華思想(意識)にはどのような背景があったか

   ・18601870年代にどのような役割をはたしたか

   ・それぞれ、国際関係の変化と関連付けて述べよ

 

 (史資料)

  A1860年代における奇正鎮、李恒老による攘夷論

   ・「衛正斥邪」

   ・西洋諸国=夷狄、禽獣

   ・儒教道徳・礼制、それに支えられた支配体制の維持擁護

  B1876年、崔益鉉の開国反対上疏

   (私の見た問題では「上流」となっていましたが、「上疏:事情や意見を書いた書状を主君・上官などに差し出すこと、またその書状」ではないかと思います。もっとも、原文史料の方では「流」の字をあてているのかもしれませんので、間違いかどうかは分かりません。私、中国史や朝鮮史は専門外ですので。)

   ・日本との交易を通じて、『邪学』が広まり、人類は禽獣となる

   ・日本人による財貨・婦女の略奪、殺人、放火が横行する

   ・人理は地を払い、『生霊(じんみん)』の生活は脅かされる

   ・人と『禽獣』の日本人とが和約して、憂いがないということはない

 

『生霊』と書いて「じんみん」って読むこともあるんですね。こんなもん、世界史の知識だけではどうにもなりませんよ。また、奇正鎮、李恒老、崔益鉉などの人々も通常、高校世界史では出てきません。ですから、史料を読むときにはできるだけ柔らか頭で読みましょう。史料を読んでわかることは、この文章中で「人類や生霊(じんみん)」とされているのは朝鮮の人々であり、『禽獣』とされているのが西洋人と日本人だということです。1860年代の攘夷論と1870年代の攘夷論で特に大きな違いは見られません。しいて言えば、江華島事件で開国要求を突き付けて日朝修好条規を締結した日本を西洋と同一視していることが変化として見えるだけで、論の大略に変化はないと思ってよいでしょう。

 

【2、小中華思想(意識)】

:小中華思想がどのようなものか、という点については概ね以下のような説明がなされています。

 

・「朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承しているという思想。」(山川用語集)

・「朝鮮こそ明を継ぐ正当な中国文化の後継者であるという(「小中華の」)意識…」

(『詳説世界史研究』山川出版社)

・政治的な事大(強いものに従う)と、文化的な慕華(中華を慕う)

 

【3、小中華思想成立の背景】

:小中華思想成立の背景ですが、これは設問にも「17世紀の国際関係変化を受けて高揚した」とありますので、17世紀東アジアの国際関係変化を考える必要があります。よく勉強を進めている人であればご存じの知識かもしれませんが、ここで問題となる国際関係変化というのは明の滅亡(1644)と清による中国大陸支配、そして朝鮮王朝の清への服属です。明は、李自成の乱によって最後の皇帝崇禎帝が側室と娘を手にかけた上で自害し、滅亡します。この時、明の武将呉三桂は要衝、山海関を守り、北から攻め寄せる清軍と対峙しておりましたが、農民反乱(李自成の乱)を鎮圧すべく都に引き返しておりました。しかし、都北京が農民反乱によって落とされたことと、皇帝をはじめ皇族が自害を遂げたことを知り、身の振り方を迫られます。最終的に、呉三桂は清の睿親王ドルコン(順治帝の摂政、幼い順治帝にかわって軍を率いていた)に降伏し、山海関を開いて都への先導を務めた功績により、藩王(平西王)に封ぜられます。このあたりのテーマについては2014年の第3問で出題され、「山海関」の名称も空欄補充で出題されました。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_211847.html) ちなみに、私は山海関についても呉三桂についても本宮ひろ志『夢幻の如く』で初めて知った気がします。ヌルハチと信長が取っ組み合いするマンガはこれだけではないでしょうかw マンガは偉大。

 さて、結果として中国大陸はそれまで漢民族や朝鮮の人々が「夷狄」とみなしてきた女真族によって支配されることになりました。朝鮮王朝はすでに清のホンタイジの時に服属を強制されておりましたが、このことは、朝鮮を中華文明の一部であり、その真の継承者であると考える小中華思想を形成していくことになります。小中華思想形成にかんして、ポイントを挙げるとすれば以下のようなものになります。

 

① 女真族の清による明の征服

② 女真族の清への服属と冊封(朝鮮王朝が清の朝貢国となる)

③ 「女真族=夷狄」という意識(女真が漢民族と異なる風習を持っていたため)

   cf.) 辮髪など

④ 夷狄化した中国にかわって明以降の正統な中国文化の後継者であると自負

⑤ 朝鮮王朝が朱子学をそれまでの仏教にかわる統治理念として国教化していたこと

→両班を通した民衆の教化進む

 

 意外に見落としがちなのは朝鮮国内の状況でしょう。朝鮮王朝では、朱子学が国教化しており、統治理念であり支配階層両班の道徳理念でもありました。朱子学を大成した南宋の朱熹は、北宋の司馬光が著した『資治通鑑』の中にある大義名分論や華夷の別を受け入れ、重視することになりますから、こうしたことも朝鮮王朝が小中華思想を形成する一助になっていました。

画像2 - コピー
(小中華思想における華夷秩序、Wikipedia「小中華思想」より)

 

【4、1860s1870sに果たした役割】

:こちらについては大院君による鎖国政策と結び付ければ良いでしょう。大院君は「日本=倭夷、西洋=洋夷」ととらえ、「衛正斥邪」(えいせいせきじゃ:正[朱子学]をまもり、邪教[西洋]を排斥する)の考えに基づいて西洋のみならず日本をも排斥していきます。これに対して、大院君に対抗する閔氏一族は、1870年代初めに国内で近代化を目指す一派の力を集めて大院君に対するクーデタを行い、大院君を失脚させます。こうした中で、江華島事件(1875、英のスエズ運河買収と同じ年なんですよね…)をきっかけとした日本の開国圧力が強まると、閔氏政権は開国(日朝修好条規、1876)による近代化によって外圧を排除するという日本と似た道を選択することになります。しかし、壬午軍乱(1882)によって改革が政権自体を揺るがすことを危惧した閔氏政権は、それまでの改革姿勢を緩め、むしろ清との協調(事大)によって政権の維持を図ろうとするようになります(事大党の形成)。こうした改革の後退と清への服属に不満を感じた開化派(独立党)は、1884年に甲申政変を引き起こすことになります。このあたりのことは上述した通り「あると便利な地域史」の方に詳述してありますので、ご覧ください。もっとも、本設問では1870年代までが対象ですので、壬午軍乱などについては言及の必要はありません。また、設問のメインテーマは「小中華思想が果たした役割」になりますので、開化派云々について詳述するよりは、閔氏のクーデタや開国に対して小中華思想に基づく攘夷論者がどのような反応を示したかをリード文を頼りに示してあげる方が良いのではないでしょうか。(原則として、すでに設問に書いてあることを書いても加点要素にはなりませんが、本設問のような問題の場合、「史資料を正しく読み取れるかどうか」も問われていますので、自分は「挙げられた史資料の示す意味が分かってますよー」とアピールできるような文脈で使用する分には良いのではないかと思います。(史資料の丸写しではだめです。)

 

【解答例】

問1、小中華 問2、小中華思想とは、朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承するという思想で、夷荻とみなしていた女真族の清が中国全土を支配し、朝鮮王朝を従えて冊封国としたことが成立の背景にある。14世紀ごろから朝鮮では仏教にかえて、大義名分論や華夷の別を強調する朱子学を統治理念とし、国教化した。官吏任用制度の科挙と結びついて、朱子学は朝鮮王朝の支配階層である両班の基本的教養や道徳として根付いた。1860年代から朝鮮王朝の実権を握った大院君は宗主国の清が西欧の通商・外交関係に組み込まれる中でも鎖国政策を展開したが、背景には奇正鎮や李恒老のように西洋諸国を夷荻・禽獣とし、朱子学を正学として重んずる「衛正斥邪」の攘夷思想があった。1870年代に大院君と対立した閔氏がクーデタで実権を握ると、開国を迫る日本が起こした江華島事件を機に日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国へと方針を転換したが、崔益鉉などの攘夷論者はこれを批判した。(問1、問2含めて400字)

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 しばらくさぼっておりました一橋の問題解説を進めていきたいと思います。ぶっちゃけ、一橋の過去問は何度も何度も解いておりまして、一応解説も昔作ったもののストックがあるにはあるのですが、過去問というのは面白いもので、時間がたってもう一度解いててみようかなと思うとまた違った見方ができたりしていくつかの解答が出来上がったりします。特に古い問題の場合には、最近の歴史学の研究動向の変化や新説などの登場によって、当時正解であった解答が現在も最適解かというと、必ずしもそうでなかったりするのですね。

そんなわけで、執筆するとなると再度検討して書き直すことになるのですが、最近少々忙しいもので、一度に同じ年度の大問1~大問3の解説を執筆しようとすると「いつまでたってもやらない(めんどくさがりなもので)」ことになります。昔オカンに「あんた、いつになったら勉強するの!」と怒鳴られた中高時代から全く変わっておりません。まぁ、そんなわけですので、しばらくの間は時間のある時に大問ごとに解説を執筆していきたいと思います。

 

一橋2013 Ⅰ

 

【1、設問確認】

①中世ドイツの東方植民の経緯を述べよ。

 (送り出した地域の当時の社会状況をふまえよ)

②植民を受け入れた地域が近代にいたるまでのヨーロッパ世界で果たした経済史的意義について論ぜよ。(その地域の社会状況の変化に言及せよ)

 

:設問の要求は非常にシンプルです。要は、東方植民の経緯とエルベ川以東の地域が世界史上果たした経済史的意義について書きなさい、ということです。

 

【2、東方植民の経緯】

:それではまず、東方植民の経緯について考えてみましょう。東方植民とは、11世紀~14世紀にかけて展開されたエルベ川以東を中心とするヨーロッパ北東部へのドイツ人の植民活動のことです。この経緯を書かなくてはならないのですが、「経緯」とは物事の筋道やいきさつ、顛末のことですから、通常は「どのようにして始まり、どのようにして展開し、最終的にどうなったか」を示すことになります。これを東方植民について示すのであればおおよそ以下のような内容になると思います。

 

ドイツの諸侯・騎士・修道会を中心にエルベ川以東のスラヴ人地域に植民を開始

(シュタウフェン朝時代が中心)

②シトー修道会などの修道会の開墾運動

③ドイツ騎士団の活動と布教

:ポーランドの招聘による。バルト海沿岸に進出、周辺のスラヴ系住民に布教

④この過程で新たなドイツ諸侯領が形成される

Ex.) ブランデンブルク辺境伯領、ドイツ騎士団領

以上のような内容を、「送り出した地域の当時の社会状況」と結びつけるような形で示す必要があるわけです。

 

<ドイツ騎士団領ならびにプロイセンについて>

余談ですが、ドイツ騎士団領とプロイセンの関係については受験生には見えづらい部分になりますので追加で説明しておきます。(ただし、本設問では送り出した地域、受け入れた地域双方の「社会状況」を踏まえた経緯説明を求められておりますので、政治史の一環としてのドイツ騎士団領形成は設問解答には一切含む必要はありません。もっとも、「経緯について述べよ」の部分には「社会状況を踏まえて」とはありますが、「社会状況のみを述べよ」とは書いてありませんので、物事の顛末としてのドイツ諸侯領形成を示すこと自体は問題ないと思います。(後に示しますが、諸侯領の形成自体がエルベ川以東の社会状況変化にかかわってくる部分もありますので、その限りにおいては問題ないということです。政治的な出来事としてのみ示すのはイケてないとおもいます。少なくとも、加点はされないのではないでしょうか。)

さて、ドイツ騎士団領は同地域のプロテスタント勢力が拡大するにしたがってカトリックの騎士修道会としての体裁を保つことが困難となりました。そのため、当時の騎士団総長アルブレヒト=フォン=ブランデンブルク=アンスバッハは騎士団総長を辞し、その配下の騎士たちとともにポーランド王からの授封を受けて世俗の領主となり、プロイセン公となりました(1525)。これにより、それまで騎士修道会領であったドイツ騎士団領はプロイセン公国という世俗君主領となります。

その後、17世紀の初めに初代プロイセン公アルブレヒトの男系血統が途絶えると、アルブレヒトの孫娘であったアンナの夫であるブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公国を継承することが認められ、この時点でブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国は同君連合となりました(1618、ブランデンブルク=プロイセンの成立)。ですが、この段階ではブランデンブルク選帝侯国は神聖ローマ帝国に属し、プロイセン公国はポーランド王の封土でした。

このような状況を変化させたのがフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯(位16401688です。フリードリヒ=ヴィルヘルムは世界史の教科書や参考書にも登場しますが、ブランデンブルク=プロイセンの時期の君主であり、後に成立するプロイセン王国の君主としては数えられないので注意が必要です。(ご先祖ではありますが。)2020年の早稲田の政経の問題にも登場していましたね。彼の時代に、ポーランドとスウェーデン間の争いから、プロイセン公国は一時スウェーデン王の封臣の地位に置かれます。ですが、その後スウェーデンへの軍事奉仕を提供する中で存在感を増したフリードリヒ=ヴィルヘルムは、当時のスウェーデン王カール10世に独立国としての地位を認めさせることに成功します(1656、ラビアウ条約)。さらに、その後同様の内容をポーランドにも承認させたプロイセン公国はポーランドの臣下でもスウェーデンの臣下でもない、独立した地歩を築くことに成功しました。フリードリヒ=ヴィルヘルムの子であるフリードリヒの時代にスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国を支援する見返りとして、当時の神聖ローマ皇帝レオポルト1世はフリードリヒに対してプロイセンにおける王号の使用を認めます(1701)。この時点で、高校世界史では「プロイセン王国」が成立したと考え、ザクセン選帝侯にしてプロイセン公であったフリードリヒは、プロイセン王フリードリヒ1世(位17011713)として即位します。彼の息子がプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位17131740:兵隊王、軍隊王)であり、孫が啓蒙専制君主のフリードリヒ2世(位:17401786)となります。

 

【3、当時の西欧、ドイツ(送り出した地域)の社会状況】

:さて、続いて東方植民を「送り出した地域」の社会状況についてです。問いの冒頭で「中世ドイツの」と言っているにもかかわらず、わざわざ「送り出した地域」という表現を用いているところに注目したいと思います。もし単純に送り出した地域をドイツとするのであれば、わざわざこうした表現はとらないのではないでしょうか。教科書的にも、東方植民は十字軍やレコンキスタ、東方貿易などと同様に西欧の膨張の一つとしてとらえられていますから、ここはやはり送り出した地域はドイツのみに限定するのではなく西ヨーロッパ世界全体としてとらえたいところかと思います。ただ、一方でよりミクロな視点、ドイツの実情に即した視点なども必要でしょう。以上を踏まえて当時の西欧・ドイツの社会状況をまとめると以下のようにまとめられるかと思います。

 

① 西欧の膨張(11c~ 十字軍、レコンキスタ、東方貿易etc.

(背景)

・農業技術の進歩(三圃制、重量有輪犂、繋駕法や水車の改良など)

・気候の温暖化

生産力の向上と人口増加

・宗教的な熱情の高まりと巡礼熱

Ex.)ドイツ騎士団、シトー修道会と大開墾   

② 人口増と西欧の膨張にともなう植民運動の発生

・人口増(困窮)、賦役貢納厳しい

土地の相続から排除された農民の子弟を中心に植民運動が発生

③ 領国開発を目指す諸侯による植民活動支援

・各地の諸侯が植民請負人に委託して入植者を招致

→入植者には開墾後の一定期間貢租を免除するなどの植民法が適用

 

 ほとんどは教科書や参考書に書いてある基本的な事柄ですから、全てをおさえられないにしてもある程度のレベルでまとめることは可能だと思います。

 

【4、エルベ川以東(受け入れた側)の社会状況の変化】

 つづいて、エルベ川以東の社会状況の変化についてまとめてみましょう。その前に、そもそもエルベ川とはどのように流れていて、「エルベ川以東」とはどのあたりのことを指すのか正確に把握しておきましょう。

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 正確に、と言っておきながらだいぶ大雑把な線ですみません。ただ、世界史では正確な地図よりも位置関係を把握することが大切です。よく、道に迷わない人は地図を見るのではなく、目印になるものを把握するのだと言われます。道順や形を覚えるのではなく、「目的地に向かうには郵便局のある角を右にまがる」という把握の仕方ですね。世界史は地図を書く科目でも正確で精緻な地理的知識を問う科目でもありませんから、自分がイメージできる程度にだいたいの地理を把握することが大切です。

 そのような把握の仕方ですと、エルベ川の把握の仕方は「ユトランド半島の付け根、西の方に河口があり、ドイツを袈裟懸けにバサーッとぶった切ったように流れる川で、河口にはハンブルク、上流にはドレスデンが位置している」という把握の仕方ができれば十分なのではないかと思います。この川以東、ということですから、東方植民に従事した人々が移住したのはドイツの北東部の肩のあたりからポーランド、バルト海方面にかけてということになります。

 それでは、東方植民の結果、これらの地域はどのように変化したのでしょうか。

 解答としてイケてないのは、「東方植民の結果、エルベ川以東にはブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの諸侯領が成立した。」でしょう。これは政治的な変化を示したものにすぎず、社会的な変化、つまり人々の生活の仕組みや価値観の変化には一切言及していません。むしろ、当たり前のことではありますが、農村や都市の発展などにより同地域の経済活動が活性化されたことを示してはどうでしょう。これであれば十分に人々の生活のしくみ、つまり社会状況の一面を示したことになります。また、同じ諸侯領について語る場合でも「ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定は周辺地域の経済活動の活発化や都市の発展につながった」とすれば、先ほどまでは「役立たず」であった諸侯領を、社会状況変化の原因の一つとして活用することができます。ちなみに、以下はドイツ騎士団領と騎士団の拠点分布を示したものです。

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Wikipedia「ドイツ騎士団」:1300年、バルト海沿岸の薄い青色が騎士団領)

 

また、設問がエルベ川以東の地域の「世界の中で果たした経済史的意義とその地域の社会状況の変化」を聞いていることから、教科書的にはすぐ「再版農奴制とグーツヘルシャフトの形成」や「東西ヨーロッパの国際分業体制」を思いつきますが、果たしてそれだけで良いものでしょうか。もちろん、それだけでも十分に立派な解答になりますし、おそらく出題者も究極的にはそこを求めているのだとは思います。ですが、東方植民の開始は11世紀後から、再版農奴制やグーツヘルシャフト、国際分業体制の成立は16世紀頃~17世紀にかけてで、いかにも離れすぎてしまう感があります。そのあたりのことを考えても、東方植民がバルト海沿岸地域を活性化させ、商業の復活の一翼を担ったことは示しても良いのではないかと思います。以上のことをまとめると以下のような内容になるかと思います。

 

① 東方植民の進展による農村や都市の発展

  Ex.) ダンツィヒなど

:ハンザ諸都市の通商網の中に組み込まれる

 日用品の取引(穀物、木材、毛皮、毛織物、ニシンなどの魚加工品)

② 再版農奴制

  ・農奴解放が進んだ西欧と対照的に領主による農奴の支配が続く

  ・16世紀以降、プロイセンなどの領主(グーツヘル)たちがグーツヘルシャフト(農場領主制またはそれによる大農園)を形成

   土地貴族(ユンカーの形成)

 

 補足しますと、ダンツィヒは14世紀にドイツ騎士団支配下で都市として成長し、国家建設にいそしんでいたドイツ騎士団が必要としていた木材や穀物などの取引に積極的にかかわり、それが安定すると今度はポーランド各地から集まるの品物の輸出なども展開します。

 また、東欧では農奴解放が進んだ西欧と違い再版農奴制が進みますが、ポーランドをはじめとした東欧各地では、西欧において農奴解放の原因の一つとされる14世紀のペストの発生率が比較的低かったことも指摘されています。

Pestilence_spreading_Japane
Wikipedia「ペストの歴史」より)

 

最後に、本設問とは直接関係はないのですが、再版農奴制の法的廃棄の開始は18世紀末か、19世紀に入ってからになります。

(オーストリア) 1781 農奴解放令(ヨーゼフ2世)

 (プロイセン)  1807~ シュタイン・ハルデンベルクの自由主義改革の時

 (ロシア)    1861 農奴解放令(アレクサンドル2世)

[クリミア戦争敗北が契機]

 

【5、エルベ川以東が近代にいたるまでのヨーロッパ史で果たした経済史的意義】

 最後に、すでに「4」である程度述べてしまっていますが、エルベ川以東の東方植民の対象となった地域が世界の中で果たした経済史的意義についてまとめておきます。

 

① 商業ルネサンス(商業の復活)の一翼を形成(12世紀以降)

 ・北海、バルト海交易の活発化 ex.)ダンツィヒの繁栄

  ドイツ騎士団領成立による政治的安定

 ・ハンザ同盟の通商網と連結、日用品の取引(魚加工品、穀物、毛皮、木材)

② 国際分業体制の形成

 ・商業革命を達成した西欧に対して穀物を輸出する農場領主制(グーツヘルシャフト)

 

 リード文が長く、思わせぶりな設問であるわりに設問の要求自体はシンプルで、聞かれている事柄も基本的な事柄、わかりやすい事柄であったのではないかと思います。一方で、基本的である分、どの程度まで細部を丁寧に示せるかは受験生の理解度が試される部分でもあったのではないでしょうか。一橋ではたびたび北海・バルト海沿岸地域や東欧地域の社会経済について問う問題が出題されますので、注意が必要かと思います。

 

【解答例】

11世紀頃から西欧では三圃制や重量有輪犂などの農業技術進歩と気候温暖化により、農業生産力が向上し人口が増加した。厳しい賦役貢納と土地不足により、余剰人口はエルベ川以東など周辺地域への植民活動を開始し、諸侯は植民請負人による入植者招致や、開墾後の一定期間貢租を免除する植民法の適用などでこれを奨励した。同時期の西欧における巡礼熱や宗教的熱情はシトー修道会の開墾運動やドイツ騎士団の入植運動を活発化させた。ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定と、植民者・開墾地の増加は周辺地域の経済活動を活発化させ、ダンツィヒなどの都市が発展し、バルト海沿岸は商業ルネサンスの一翼を担い、穀物や木材などの日用品取引でハンザ同盟の通商網と連結された。16世紀以降は再版農奴制により農奴支配を強化した領主がグーツヘルシャフトを形成し、商工業の発展した西欧へ東欧が穀物を輸出する国際分業体制を支えた。(400字)

 

【補足:(「ハンザ同盟」について)】

 ハンザ同盟についてですが、近年記述の見直しが進んでいます。昔は比較的結びつきの強い同盟のように描かれていて、共通の商取引の取り決めや、共通の軍隊を保有していたと書かれていることもありました。しかし、近年では各都市が自己の利益のために行動することがあったこと、あくまでも商業目的の各都市のゆるやかな連携にすぎず、自警力や都市の代表会議は持っていたけれども、常設・共有の軍隊は保持していなかったこと、「同盟」という語はその実態に比してやや響きが強すぎることなどが指摘されるようになりました。そのせいか、直近の『詳説世界史研究』ではハンザ同盟についてかなり記述量が減ってきています。また、山川の用語集の記述もかなりマイルドになってきています。

 

(例) 「13世紀~17世紀まで北ヨーロッパに存続した通商同盟ハンザ同盟は14世紀に最盛期を迎えた。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2019[3]p.175

    …ちなみに、ハンザと結びつけない形でリューベック・ハンブルクなどの北ドイツ諸都市や北海・バルト海沿岸諸都市が行った木材・海産物・塩・毛皮・穀物・鉄・毛織物などの取引については別途示されています。

 

 一方で、教科書の方の記述は依然として内容をぼかしているもの、またははっきりと軍隊を保有していると書いているものなど様々で、まだ過渡期にあるようです。

 

(例2) 「とくにリューベックを盟主とするハンザ同盟は14世紀に北ヨーロッパ商業圏を支配し、共同で武力をもちいるなどして大きな政治勢力になった。」

(『改訂版詳説世界史B』山川出版社、2016年版、2020年発行)

(例3) 「北ドイツの諸都市は、リューベックを盟主とするハンザ同盟を結成して、君侯とならぶ政治勢力となった。」

     「(※ハンザ同盟の注として)→13世紀半ばにはじまり、最盛期には100以上の都市が加盟した。ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドなどに商館を置き、共同の海軍も保有した。」

(『世界史B』東京書籍、平成28年版、平成31年発行)

 

 この辺りの事情について、「世界史の窓」さん(いつも大変お世話になっておりますw)では高橋理先生の研究の影響などを指摘されています。また、ハンザ同盟の項目については同氏の『ハンザ「同盟」の歴史』創元社、2013年を参照されています(https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-070.html)。Wikipediaの方の記述もいつの間にかいやに詳細になっておりまして、そちらも出典はこちらの本のみに依拠しているようです。(Wikipediaハンザ同盟」) ちなみに、高橋理先生は弘前大、山梨大、立正大などで教鞭をとられていた歴史学教授です(2003年に退官されています)。

 では、受験生はどちらで覚えなくてはならないのだろうかということなのですが、歴史学会で出てくる新説を高校生が常に把握するなどということは到底不可能ですから、基本的には各教科書の記述に従って良いと思います。おそらく、「軍隊を持っていた」と書いたからと言って不正解にするような狭量なことは大学側もしないと思いますし、できないと思います。(教科書を持ってこられて「ほら、ここに書いてあるじゃないですか」と言われたらどうにもなりませんし、その主張を否定すれば公平性の観点から行っても問題があります。)ただ、こうした新しい視点を知っておくと理解が深まりますし、イメージも厚くなります。また、こうした新しい視点というのが往々にして大学入試のテーマの一つとして盛り込まれることもありますので、「最近はこういう風に変わってきているんだなぁ」くらいのイメージ・理解はしておいて損はないと思います。

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[2020.11.5.大問1解答例訂正:問1と問2合わせて400字でしたが、問1の解答が含まれていなかったので問1を含めて400字の形に訂正しました]

前年(2018)の問題がかなり史資料読解の力を要求するとともに、テーマも主流からやや外れた一般の受験生には難しい内容であった(http://history-link-bottega.com/archives/cat_384107.html)のに対し、2019年の問題は設問の内容、テーマともにそれほど難しいと感じる内容ではありませんでした。テーマは「身分制議会の中世から近代にかけての変化」、「1763年のパリ条約までの英仏植民地戦争の背景・経緯・影響」、「中国共産党(ならびにソ連)と中国国民党との関係と1949年にいたる変遷」と、世界史の中でもメインテーマと呼べるものが問われています。一橋の過去問でも、ほとんどの設問で似たような問題が何度か出されています。にもかかわらず、全ての問題に一橋特有のクセがなく、平易な内容になっているために、一橋よりはどちらかというと東大くさい匂い(または早稲田の法とか)がします。「東大くさい」点はテーマだけでなく、東大の大好きな「変化」であるとか「変遷」といった言葉がやたら使われているところからも見て取れます。  

もっとも、一橋では変化や変遷を問わないわけではありません。直近の2018年にもありますが、ほかにも2013年の大問1などにも見られますし、物事の推移を追うことで実質的には変化を述べさせているに等しい設問も出てきます。ただ、2019年の問題はテーマが王道ということもあってやたらと「一橋っぽくない感じ」がします。最近の一橋はこうした王道の東大くさい設問が出る年と、いかにも一橋っぽい「うわー、そんなことそんな聞き方しちゃうの?」みたいな設問を出す年がコロコロと変わるので狙いが本当に絞りにくいです。絞りにくいなりに出題傾向の分析や出題予想(というほどのものでもない当てずっぽう)は時々やっていますが、ためしに昔書いた出題傾向を見てみたら2年前の記述に大問1では「議会制の発達」、大問3に「国民党と共産党」ってしっかり書いてますね。(http://history-link-bottega.com/archives/11929768.html) 2年前に出て欲しいなぁw

まぁ、それなりの情報量を持ったテーマをしっかり書かせるということになれば、選べるテーマも限られてくるということなのでしょう。

 

2019 Ⅰ

 

【設問概要】

問1 

10世紀にカトリックに改宗して国家形成した東ヨーロッパの王国を三つ答えよ

 

問2 

13世紀後半から14世紀にかけて現れた、君主と諸身分が合議して国を統治する仕組みについて、以下の①~③について説明せよ。

 ① この仕組みは何か。

 ② 複数の具体的事例を挙げよ。

 ③ 中世から近代にかけての変化を視野に入れよ。

 

(問1、問2合わせて400字)

 

【リード文概要】

 今回、リード文自体は短いものでした。内容も、直接設問に関連するものではなく、史料読解の重要度は低かったと思います。史料として引用された『彩色年代記(Chronicon Pictum)』は、14世紀後半に成立したとされるハンガリー王国の挿絵入り年代記です。150近いミニアチュールがあり、これらの絵からは当時のハンガリー文化や宮廷生活、人々の衣装や装飾などを読み取ることができる史料です。東欧史は専門外ですので、あまり詳しいことを知らなかったので簡単に調べてみたところ、英語版のWikipediaの方にハンガリー王ラヨシュ1世から、フランス王シャルル5世の手に渡ったとの記述がありました。(娘カタリンがシャルル5世の子、オルレアン公ルイと婚約した際のことです。当時のカタリナは4歳、そして7歳には没しておりますので、この婚儀は実際には行われませんでした。)

 

chronicon pictum
Chronicon Pictumの表紙 Wikipedia[英語版]Chronicon Pictumより)

 

【設問分析】

問1 

答えはハンガリー王国、ベーメン王国、ポーランド王国、クロアティア王国の中から三つ。カトリックを受容した東ヨーロッパの国としてはチェコからスロヴァキアにかけて栄えたモラヴィア王国もありますが、モラヴィア王国は建国が9世紀ごろで、10世紀初頭には滅亡しますので設問の要求に合致しません。

東ヨーロッパの国々とカトリックの受容を問うことは難しく見えますが、一橋ではたびたび東欧史が出題されていることや、2014年の大問2が非常に目立つ設問で同じく西スラブをテーマとした設問であったことなどを考えると(http://history-link-bottega.com/archives/cat_211847.html)、一橋受験者は比較的しっかりと押さえてきている部分からの設問ですので、基本問題だったかと思います。   

 

問2

 まず、設問の一つ目の要求である「この仕組み」ですが、これは「身分制議会」ということで問題はないかと思います。最初「議会」という風に思いついた人でも、書いていくうちに「身分制議会」として示す方が良いことに気が付くのではないでしょうか。設問にも「君主と諸身分が合議」って書いてありますしね。身分制議会についての設問は一橋でも過去に出題がありますし、他校の過去問でも頻出の問題です。設問が示す13世紀後半から14世紀にかけてということになれば、やはり受験生がすぐ思い浮かべるのはイギリスの議会とフランスの三部会でしょう。また、イベリア半島のキリスト教国家の多くもこの時期に身分制議会(コルテス)を成立させています。神聖ローマ帝国ではかなり早く(場合によってはカール大帝の頃から)から王とその側近による会議が開かれていましたが、12世紀のシュタウフェン朝の頃から次第に形式が整い、14世紀のカール4世による金印勅書(1356)で明文化され、帝国議会が成立します。

 とりあえず、イギリスとフランスの身分制議会を中心に議会制の発展について下に簡単にまとめてみます。

 

<イギリス身分制議会の発展>

イギリス身分制議会


 

<フランス身分制議会の発展>

フランス身分制議会

 

<イベリア半島諸国の身分制議会>

12世紀末  レオン王国で身分制議会(コルテス)成立

13世紀初  ポルトガルで成立

13世紀半ば カスティーリャ、アラゴンで成立

 

<神聖ローマ帝国>

1356年 金印勅書で帝国議会が明文化

 

<東欧諸国>

16世紀頃から身分制議会が本格的に形成される(ポーランドのセイムなど)

 

 議会制の発展というものは、特に中世については慣習的なものから立ち上がってくるものであって、「○○年に××が決まったから、ハイ、議会!」と言えるものではないので、上に書いてあるものもあくまで参考程度にというものです。ただ、英仏の議会発展については概ね教科書等でモデル化されています。ですから、本設問の要求する「具体的な事例と変化」についてはこの英仏身分制議会制の発展をまとめれば良いでしょう。あとは、「近代にかけて」がどのあたりまでかという問題ですが、少なくともルネサンス以降までは見ることになりますので、両国の絶対王政期くらいまでを見ておけばよいのではないでしょうか。設問の対象はあくまで「身分制議会」ですし、国民主権の下で選挙によって選ばれた議員が立法にたずさわる近代の議会制度とは内容の異なるものです。イギリスではピューリタン革命の頃から次第に議会の権能・機能が変化していきますし、フランスではフランス革命の頃に三部会が開かれるまでざっと150年ほどの断絶がありますから、やはり英仏の絶対王政期あたりまで、長く見積もってもイギリスでは政党政治が始まる頃まで、フランスではフランス革命まででしょう。

 

【解答例】

問1、ハンガリー、ベーメン、ポーランド。問2、身分制議会。聖職者・貴族・都市代表などから構成され、臨時課税など国内の同意が必要な時に召集された。英では、大憲章を守らないヘンリ3世に反抗したシモン=ド=モンフォールらが開いた議会から始まり、エドワード1世期には聖職者・貴族・州、都市代表が集う模範議会が召集され、14世紀には貴族院と庶民院の原型が作られた。仏では、ボニファティウス8世と対立したフィリップ4世が聖職者・貴族・平民の三身分からなる三部会を開催したことを皮切りに、聖職者に対する課税、テンプル騎士団の廃止、戦費の徴収などが話し合われた。また、神聖ローマ帝国では帝国議会、イベリア半島では各国にコルテスが成立した。これらの身分制議会は国王に対する諮問機関として機能し、仏における三部会の停止のように政治状況に左右されることも多かったが、市民層の台頭とともに王権に対抗する手段となることもあった。(400字)

 

 さて、本設問の解説を書くにあたって指摘しておいた方が良いことが何点かありましたので、以下に示しておきたいと思います。

 

(召集と招集)

 召集と招集のどっち使ったらいいのだろうと迷ってしまうという人ももしかするといらっしゃるのではないかなぁと思います。私も最初は「国会が召集なんだから召集でよくね?」と思っていたのですが、そもそもヨーロッパの身分制議会成立期の議会は「国会」なのか?とかいろいろ考えていくと「うーむ」という気分にもなります。とりあえず、手元にある電子辞書にあります『三省堂スーパー大辞林3.0』によりますと、

 

・召集 

①大勢の人を呼び出して集めること。

②国会を開会するため…集合することを命ずること。[地方議会の場合は招集と表記する]

③旧憲法下において…軍隊に編入するために呼び集めること。

・招集

①人を招き集めること。

②地方議会、社団法人の社員総会…などの合議体の構成員に対し集合を要求する行為。

 

となっておりますが、辞書によっては色々と違うことなども書いてあります。仕方ないので手元の教科書や参考書を見てみましたが、『世界史B』(東京書籍、平成31年度版)は「召集(模範議会について)」、『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)は「招集(模範議会について)」、または「召集(三部会について)」、『世界史用語集』(山川出版社、20018年度版)は「招集(模範議会と三部会について)」となっておりました。…もうどっちでもよくねw 原語日本語じゃないしw ただまぁ、日本語で地方議会と国会で招集と召集を使い分けているのは間違いのないところなので、模範議会とか三部会レベルであれば召集でいいんじゃないかなぁと思ったので、解答例はこちらで書いています。

 

(アナーニ事件)

 アナーニ事件については、これまでは「聖職者に対する課税をめぐり、教皇と対立して…」という説明がなされることがほとんどでしたが、最近このあたりの記述に変化が見られます。『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)のp.181には以下のように記されています。

 

[…ボニファティウスは教皇だけが聖職者への課税を許可できると主張し、国王の課税に従わないよう聖職者に求めた。それに対抗して、フィリップはフランスからの貴金属や貨幣の持ち出しを禁じた。収入が減少したためボニファティウスは譲歩し、国王は緊急の場合には聖職者に課税することが許された。1301年にフィリップは国王を中傷したパミエ司教を逮捕することでボニファティウスを挑発し、翌年には自らの立場を正当化し宣伝するために、聖職者・貴族・都市住民をパリに召集し、のちの三部会の起源となる集会を開催した。]

 

 一方、『世界史B』(東京書籍、平成31年度版)の方では[教皇と対立したフィリップ4世は、1302年に聖職者・貴族・平民の3身分代表からなる三部会を召集し、王権の基盤の強化に成功した。]p.161)となっており、『世界史用語集』(山川出版社、20018年度版)では[フィリップ4世が国内世論を味方につけるために招集したものが最初。](「三部会」)となっていて、聖職者への課税云々のところは示されていないんですね。どうも、当時の状況がやや入り組んでいるので「教皇と対立した国王が国内の支持を取り付けるために開いた」という部分だけ示せれば良い(それはそれで良いことだと思いますが)と、情報の取捨選択をしているところなのかもしれません。どこに示されていたかは忘れましたが、以前は「ウナム・サンクタム」(三部会に対抗して出された教皇権の至上性を主張したボニファティウス8世による教皇勅書)なども参考書等には載っていたように思いますが、必要以上に情報量を増やすとその整理に手間取りますから、今の記述の方がすっきりしていてよいのかもしれません。

 

 

2019 Ⅱ

 

【設問概要】

・第二次百年戦争について

 ①両国の対立の背景

 ②1763年までの戦いの経緯

 ③この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響

 について述べよ。

 

【設問分析】

 非常にすっきりとした内容の設問だと思います。英仏植民地争いは一橋以外の受験でも頻出の箇所ですから、王道路線ですね。かつて一橋が出していた問題からすると面白味がない設問ではありますが、知識量や情報の整理・処理能力を問う設問としては良い問題だと思いますし、受験生の方も比較的解きやすい問題で、勉強した量と身につけている内容がそのまま点数に反映される問題なのではないかと思います。

 第二次百年戦争は、基本的には17世紀末から19世紀初めにかけて展開された英仏間の植民地ならびにヨーロッパにおける争いの総称です。通常、その開始はファルツ継承戦争(1688-97)ならびにウィリアム王戦争(1689-1697)であり、ナポレオン戦争の終わり(1815)をもってこれが終結したと考えます。設問では1763年までとなっておりますので、七年戦争(1756-63)ならびにフレンチ=インディアン戦争(1755-63)までと考えられますが、問題は設問が要求している三つ目の「この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響」の中にある「この争い」をどのようにとらえるかです。「この争い」を第二次百年戦争ととれば、当然その後の影響は1815年以降でなくてはなりませんが、「この争い」を1763年にいたるまでの戦いととらえれば、その後の影響は1763年以降、つまり18世紀後半からを見ればよいことになります。

 ここでは、英による産業革命の進展やアメリカ独立革命、フランス革命などを影響として示す方が自然で、内容的にも豊かになると考えましたので、「この争い」は1763年までにいたるまでの戦いとして考えてみたいと思います。

 

(①両国の対立の背景)

 示しておきたいことはやはり両国の重商主義政策かと思います。争いの初期には宗教上の理由や両国の国防上の問題なども密接に関わってくる(※1)のですが、その後の植民地争いまで視野に入れた場合、やはり対立の背景は重商主義政策の展開、なかでも北米とインドをめぐる覇権争いに求めるべきでしょう。北米について、フランスは17世紀初めにカナダにケベック市を建設し、その後の進出の拠点としていくのに対し、イギリスは17世紀のはじめにヴァージニア植民地を建設するなどして進出を始めます。イギリスが東インド会社の活動により早くからインド各地に拠点(マドラス[1639]・ボンベイ[1661]・カルカッタ[1690]、ボンベイについては東インド会社ではなく、チャールズ1世と結婚したポルトガル王女カタリナの持参金として獲得)を建設していったのに対し、フランスがアジア方面に進出を本格化するのはコルベールによって東インド会社を復活させた1664年以降でした(※2)。フランスは、インドにシャンデルナゴル(1673)やポンディシェリ(1674)を建設してイギリスに対抗しようともくろみます。また、ラ=サールがミシシッピ川河口に到達してその流域一帯を国王ルイ14世にちなんでルイジアナと名付けました。北米とインドをめぐる両国の争いの芽はこの頃から育ち始めたと考えてよいでしょう。そして、かねてからルイ14世と争いを繰り広げていたプロテスタントのオランダ総督ウィレム3世がイギリス国王ウィリアム3世として即位した頃から英仏両国は北米・インドをめぐる長い戦いの中に入っていくことになります。

 

インド拠点
(青がイギリス拠点、赤がフランス拠点)

(スラトはイギリスが1608年に寄港して1612年に商館を立てた初期の拠点)

 

ルイジアナ
Wikipedia「フランス領ルイジアナ」より)

 

※1 イギリスはプロテスタント国家、フランスはカトリック国家ですが、両国の対立図式は実際にはそこまで単純ではありません。イギリスでは、1660年に王政復古があり、フランスに亡命していたチャールズ2世が国王となります。王政復古後の議会は王党派が中心ではありましたが、フランスの台頭やカトリック信仰に対しては厳しい目を向けていました。こうした中、次第に王室費の管理(要は、議会が承認しないと王様のお小遣いが出ない)によって議会が王権に一定の制限をかけるシステムが成立していきます。一方、国王チャールズ2世は隠れカトリック、その後継者とされた王弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)は思いっきりカトリックでした。ピューリタンに父親を殺された上に亡命中はフランスにお世話になっているわけですから無理からぬことではありますが。

   ですから、1660年から名誉革命までの英仏関係を、単純に新教・旧教国同士敵対していると考えるのは誤りです。そうでないとドーヴァーの密約(1670年)の説明がつきません。この密約は、お小遣い支払いを議会によってしぶられていたチャールズ2世が、ルイ14世からの資金援助を得る代わりに、当時ルイ14世が対立していたオランダとの戦いの際にはイギリスがフランス側に立って参戦するという内容の密約で、国王が独断で結んだものであり、外部には内緒でした。ただ、当時議会は重商主義政策の下、すでに二度の英蘭戦争を戦っておりましたので、議会はフランスが起こしたオランダ侵略戦争(167278)に乗っかって第3次英蘭戦争(167274)を起こします。ですが、戦局が思わしくないことや、フランスの脅威拡大に対して議会が危機感を高めたことから戦争を離脱します。その後、国王の親仏路線や公然たるカトリックの王弟ジェームズの後継問題に端を発したトーリとウィッグ(ホイッグ)の争いなど、国内の不満を抑える必要があったことなどから、王弟ジェームズの娘メアリ(後のメアリ2世)とオランダ総督ウィレム3世(後の英王ウィリアム3世)の政略結婚が進められました。(この時期に公職をイギリス国教徒に限定してカトリックへの寛容を否定する審査法[1673]、や臣民の理由なき逮捕・投獄を禁じた人身保護法[1679]などが成立しているのは、国王の親仏路線、後継問題、カトリックへの寛容問題などをめぐる議会と国王との対立を反映しています。)

   こうした背景がある中で、1688年から1689年にかけて名誉革命が起こったことは、英仏関係にとって大きな転機でした。それまで内心は親仏・親カトリックであった国王が追放され、新たに国王として招かれたのは長年フランスと争いを繰り広げてきた(南ネーデルラント継承戦争:1667-68、オランダ侵略戦争:1672-78)プロテスタント国家オランダの総督であったウィレム3世だったわけですから、英仏両国の対立は、「宗教問題」・「国防上の問題」・「植民地をめぐる対立」と決定的なものになります。世界史の教科書や参考書には出てきませんが、第二次英仏百年戦争が名誉革命と同じ時期に発生したことにはこのような背景があったわけです。

 

※2 フランス東インド会社は1604年にアンリ4世のもとで設立されていますが、当時のフランス東インド会社は有期限(15年)の特許状によって設立されたもので、オランダ東インド会社とは異なり株式会社の形態をとらず、資金力においても脆弱なものであったため、フランスにおいて東インド会社によるアジア交易を開拓しようとする努力は一時立ち消えになってしまいます。重商主義政策を採る財務総監コルベールによって再組織されて国営の貿易会社として再出発するのはルイ14世統治下の1664年でした。

 

(②1763年までの戦いの経緯)

 これについては、「ヨーロッパにおける戦争、北米における戦争、インドにおける戦争と、それぞれがどのように連動しているか」、「戦争の講和条約は何か」、「講和条件は何か」などを一度自分で表にしてみると良いでしょう。私自身も高校生の頃に全体像がつかめなくて教科書や史料集をひっくり返しながら表を書き上げました。

 

英仏百年戦争
 

上の表のうち、ピンクで示したところは超頻出箇所なので、知らないということがないようにしておいた方が良いと思います。各地の戦争に対する主要な講和条約とその内容については、ユトレヒト条約、ラシュタット条約、パリ条約を押さえておけば十分だとは思いますが、念のため一通り示しておきたいと思います。

 

・ライスワイク条約(1697

:ファルツ継承戦争の講和条約。戦争が痛み分け的な内容のため、細かい領土変更はあるものの世界史で記憶しなくてはならないような内容はそれほどありません。覚えておいた方が良いのは、サン=ドマング(後のハイチ)がフランス領となったこと、ウィリアム3世の英国王即位をルイ14世が認めたことくらいでしょう。

 

・ユトレヒト条約(1713

:スペイン継承戦争ならびにアン女王戦争の講和条約。締結国は仏・西に対して英・蘭・プロイセンなどで、内容としては圧倒的にイギリスに有利な内容での条約となります。本条約とその内容は受験生必須の内容で、1763年のパリ条約同様、必ず頭に入れておく方が良いものです。領土の割譲は覚えにくいのですが、フランスからはケベックとルイジアナを除く北米植民地をイギリスが獲得して北米への進出を本格化させ、スペインからは地中海への入り口をイギリスが確保したと考えておくと覚えやすいと思います。

 

1.フェリペ5世(ルイ14世孫)のスペイン王位継承承認(仏・西の合邦は禁止)

2.イギリスに、フランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方割譲

3.イギリスに、スペインからジブラルタル・ミノルカ島割譲

4.イギリスに、スペインからアシエント(奴隷供給特権)の譲渡

5.プロイセンが王国に昇格

 

ユトレヒト条約
(ユトレヒト条約でフランスからイギリスに割譲)

 ユトレヒト条約2
(ユトレヒト条約でスペインからイギリスに割譲)

 

・ラシュタット条約(1714

:スペイン継承戦争の講和のうち、フランスと神聖ローマ帝国間で結ばれた講和条約。細かい内容はいくつかありますが、重要なのはスペイン=ハプスブルク家の多くの所領がオーストリア=ハプスブルク家に継承されることが確認された点。(スペインは継承戦争後にスペイン=ブルボン家となることが確認されたため。) その結果、オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国、サルデーニャを獲得することとなります。

 

・アーヘンの和約(1748

:オーストリア継承戦争の講和条約。この条約で重要なのは何と言っても普墺間の関係で、シュレジェンが墺から普へと割譲、そしてマリア=テレジアによるハプスブルク家相続権の承認です。一方、英仏の植民地争いにおいては全体として痛み分けに終わったので、目立った内容はありません。

 

・パリ条約(1763

:フレンチ=インディアン戦争ならびにカーナティック戦争の講和条約で、英・仏・西の三国間で締結されました。七年戦争の講和条約は普・墺間で締結されたフベルトゥスブルク条約です。(世界史では、パリ条約が有名なものだけでも三つ出てくるので注意が必要です。[残り二つは1783年のアメリカ独立戦争の講和条約と1856年のクリミア戦争の講和条約]

 1763年のパリ条約は、北米・インドにおけるイギリスの優越を決定づけた条約として非常に重要な条約です。

 

1.フランスからイギリスへケベックなどを割譲(イギリスがカナダを獲得)

2.フランスからイギリスへミシシッピ以東のルイジアナを割譲

3.フランスからスペインへミシシッピ以西のルイジアナを割譲(フランスが北米撤退)

4.スペインからイギリスへフロリダを割譲

5.インドにおけるイギリスの優越の確立

6.その他、西インド諸島のドミニカ、アフリカ西岸のセネガルなどが仏から英へ

 

 戦いの経緯については以上になりますが、この争いの背景が重商主義政策の展開を背景とした植民地争いですから、その植民地争いの結果につながるような重要な戦い・講和条約とその内容をピックアップしてまとめていくのが良いと思います。最終的には「北米・インドともにイギリスが植民地争いに勝利し、イギリスによる第一次植民地帝国の完成を見た」というところでまとまるかと思います。

 

(③この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響)

上記に示しました通り、「北米・インドともにイギリスが植民地争いに勝利し、イギリスによる第一次植民地帝国の完成を見た」ことが世界史に及ぼした重要な意義の一つであることは間違いありません。ですが、「植民地争いの結果、イギリスが勝って、広大な植民地を獲得した」が結論ではあまりにも面白くありません。「世界史」に及ぼした意義というのですから、単純な戦争の帰結以外にも、長年にわたる英仏の争いがその後の歴史にどのような影響を及ぼしたのかについて立ち止まって考えてみる必要があると思います。

 

1.イギリスによる植民地帝国形成

1763年のパリ条約が締結されるまでに、イギリスは北米・インドを中心に広大な植民地を確保することに成功します。これらのうち、北米では13植民地が独立戦争の末に1783年のパリ条約で独立を果たしますが、合衆国以外の北米植民地は依然として残りました。特にインドはイギリスにとって重要な植民地となっていきます。

 

2.産業革命の進展

:広大な海外植民地は、イギリスに安価な原材料の供給地と製品の市場、のちには投資の場をもたらすこととなりました。これにより、イギリスは経済発展に必要な条件を確保し、すでに国内で始められていた経済上・技術上の創意工夫を支えるに足る資本が供給されることとなり、18世紀後半には産業革命が急速に進展していきます。

 

3.アメリカ合衆国の独立

:七年戦争と並行して北米で展開されたフレンチ=インディアン戦争の結果、フランスは北米大陸から撤兵し、イギリスにとっての脅威は取り除かれました。これにより、イギリスは従来どちらかと言えば放任してきた13植民地への統制を強め、重商主義政策と重税策を展開し始めます。実は、七年戦争以前にもイギリスは13植民地の経済活動を制限したり課税したりする諸法を制定していました。(羊毛品法[1699]・帽子法[1732]・糖蜜法[1733]・鉄法[1750]など)

 ですが、これらの法は制定されても運用面ではかなりのザル法だったと言われています。つまり、これらの法律に反しての輸出入は原則禁止なのですが‛密輸‘する者たちがたくさんいるんですね。そしてまた、取り締まりをする側もあまり本腰を入れてこれを追求しない。七年戦争以前は、13植民地を取り囲むようにしてフランスの植民地(ヌーベル=フランス)がありましたので、13植民地を敵に回すことは本国イギリスとしてもはばかられることであったわけです。

 ところが、七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)が終わってフランスの脅威がなくなれば、植民地に遠慮する必要はありません。それまでの法についても厳格な取り締まりが始まります。‛密輸‘を当然の権利であって、自分たちは「善良な商人」であり、‛密輸業者’ではないと感じていた植民地の人々は、それまでと同じ行動をしているにも関わらず取り締まりの対象とされていきます。このあたりの関係は駐車違反とか、軽微な法令違反に何だか近い感覚がありますね。人のいない田舎道で車来ないから赤信号をヒョイと渡ったら「ピピピピピー!」で、「2万円以下の罰金または科料だ―!」みたいな。これを毎度やられたら「エー!」ってなるのは分かる気がしなくもないです。

 さらに、イギリス本国からすれば、「13植民地をフランスの魔の手から守ってやったのはおれたちだ」という意識がありますから、「その戦費を13植民地が負担するのは当然だろう」という理屈になります。その結果、印紙法[1765]・タウンゼンド諸法[1767:植民地からの税収増や貿易統制に関して財務大臣タウンゼンドによって定められた諸法]・茶法[1773]といった諸法令が制定されていきます。これがアメリカ独立へとつながる契機となったことは有名です。つまり、「1763年までの英仏植民地争い」の結果は、「フランス勢力駆逐→植民地への本国の統制強化→アメリカ独立革命」という形でアメリカ合衆国の独立を招いたということは十分に可能です。

 

4.フランス革命(アンシャン=レジームの崩壊)

:「1763年までの争い」の影響というにはやや遠いかもしれませんが、17世紀末から18世紀半ばにかけてのイギリスとの植民地争いをはじめとする一連の戦争は、フランスの財政を傾けていきます。イギリスが徴税システムの刷新とイングランド銀行設立ならびに国債の発行によって、巨額の資金調達を行うことが可能となった(財政=軍事国家)のに対し、フランスの側は旧態依然とした徴税システムの中、富の集中した特権身分からは税を徴収することができませんでした。戦争のたびに平民に重税を課すことにも限界が来ており、オーストリア継承戦争・七年戦争を戦ったルイ15世の頃にフランスの国家財政は大きく傾いていきます。また、七年戦争とその講和条約であるパリ条約の結果、広大な植民地をイギリスに奪われたことも、フランスの財政悪化に拍車をかけることとなりました。さらに、その後のアメリカ独立革命に際して、ルイ16世はアメリカ合衆国側で参戦することを決定しますが、この戦費は悪化していたフランス財政にとどめを刺すこととなり、特権身分への課税という改革は、三部会の召集とフランス革命へとつながっていきます。

 

 「この争い」は英仏間の第二次百年戦争を指しますから、同時期に進行していた戦争の帰結とはいえ、プロイセンのシュレジェン獲得や、ドイツ地域におけるプロイセンの台頭などは特に示す必要はないと思います。焦点はあくまでも英仏間の戦争にあると考えてよいでしょう。

 

【解答例】

 仏王ルイ14世と蘭総督ウィレム3世は宗教や国防をめぐり争ってきたが、ウィレムが名誉革命で英王に即位すると次第に重商主義政策による植民地をめぐる対立も鮮明となり、ファルツ継承戦争がウィリアム王戦争として北米へ拡大するなど、ヨーロッパの戦いは北米やインドをめぐる戦争へ発展した。スペイン継承戦争と北米のアン女王戦争の講和条約であるユトレヒト条約で英は仏からハドソン湾地方などの北米諸地域を、西からジブラルタルなど地中海への入り口を確保し、七年戦争に際しては北米のフレンチ=インディアン戦争やインドのプラッシーの戦いに勝利して、パリ条約によりミシシッピ以東のルイジアナを奪って仏勢力を北米から駆逐し、インドにおける優位を確定させた。広大な植民地帝国を築き上げた英では産業革命が進展したが、戦費補填のため重税を課したことで北米13植民地は独立した。また、多大な戦費負担と財政の悪化は仏でも革命を招く一因となった。(400字)

 

400字だとこんなものでしょうかねぇ。もちろん、全ての戦争や獲得した植民地をひたすら列挙するというやり方もあるとは思うのですが、美しくないんですよね。採点基準にもよるのですが、仮に採点基準が「ユトレヒト条約で英が仏から獲得した土地で1ポイント」とかなっていると「ニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾地方」って書いても1ポイントですし。「ファルツ継承戦争と連動した北米のウィリアム墺戦争を戦った後に起こったスペイン継承戦争と連動した北米のアン女王戦争に勝利した英は、ユトレヒト条約で仏からニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を、西からジブラルタル・ミノルカ島とアシエント特権を獲得し…」なんて書くと「うわーっ(汗)」っていう感じになりませんかね? 「戦いの経緯」を書け、となっているわけですから、もう少しコンパクトにまとめてもいいと思うんですよね。ただ、あまりコンパクトにまとめ過ぎてしまうと「英は…北米に進出し…北米の支配権を確立し…」みたいにえらく漠然とした内容や同じ内容の繰り返しになって、肝心の歴史的用語や事象がおろそかになってしまって点数が伸びなくなってしまったりしますし、バランスが難しいところですね。

 

2019 Ⅲ

 

【設問概要】

・空欄  ①  に入る語句を記せ。(問1)

「…1949年には空前の大失敗。つまりソ連と  ①  は最も卑劣であくどい手段と、最も残暴な武力をもって中国大陸を占拠したのである。」

・文章中で対立する両勢力の関係についてまとめよ。また、1949年に至る両勢力の関係の変遷についてまとめよ。(問2)

 

【設問分析】

 史料を読解する問題ではありますが、その読み取りは比較的平易です。まず、引用されている史料が蒋経国の『わが父を語る』となっていること。蒋経国は蒋介石の後継者で、台湾における経済建設への大規模投資と、民主化への変化を打ち出すことになる指導者ですから、この文章が中国国民党(または中華民国)の立場から書かれていることは明らかです。このあたりのことは、蒋経国が孫文を「先生」や「国父」と呼んでいることからも読み取れます。その立場から空欄  ①  がソ連とともに「最も卑劣であくどい手段と、最も残暴な武力をもって中国大陸を占拠した」というわけですから、空欄  ①  に入るのは中国共産党または中華人民共和国であることが分かりますので、問1についてはそれほど難しいものではありません。問2では、中国国民党(または中華民国)と中国共産党(または中華人民共和国)の関係と1949年、つまり国民党が中国大陸を追われて台湾に逃れ、大陸で中華人民共和国が成立した年、にいたるまでの両勢力の関係の「変遷」についてまとめよと要求していますから、いわゆる「国共合作」について述べるべきであることは明白です。ですから、「両党の結成→二度にわたる国共合作→国共内戦と中華民国・中華人民共和国の成立」というのが解答に書くべき内容となります。内容的にも基本的な内容ですし、一橋の大問3で清朝末期以降の中国史・朝鮮史が出題されることは受験生にとって想定の範囲内でしょうから、この問題を落としてしまうようだとかなりのダメージになったのではないかと思います。しっかりと拾っておきたい設問です。

 

【解答例】

 五・四運動に刺激を受けて大衆政党中国国民党を結成した孫文は、カラハン宣言やヨッフェとの会談、コミンテルンの下で中国共産党を結成した陳独秀との接触などを通して「連ソ・容共・扶助工農」の新三民主義を掲げて第一次国共合作を成立させ、国民党への共産党員の加入を認め、軍閥勢力打倒による中国統一と帝国主義列強への対抗を目指した。しかし孫文が死ぬと浙江財閥とつながる蒋介石は国民党左派ならびに共産党との対立を深め、上海クーデタでこれらを弾圧したため連携は瓦解した。蒋介石は共産党への攻撃を続けたが、毛沢東は長征中に八・一宣言で抗日民族統一戦線の結成を呼び掛け、呼応した張学良は西安事件で蒋介石の説得にあたった。盧溝橋事件を契機に日中戦争が起こると蒋介石は第二次国共合作を決断して共産党と共闘した。しかし次第に両党は対立を深め、戦後の国共内戦に敗れた国民党は台湾に逃れ、共産党は中国本土で中華人民共和国を建国した。(400字)

 

※カラハン宣言

:ソヴィエト政権の外務人民委員であったカラハンが、帝政ロシア時代に獲得した利権の無償返還や秘密条約の破棄を約束した宣言で、1919年と1920年の二度にわたり出された。

 

※ヨッフェ

:ソヴィエト政権の全権代表として中国共産党の指導に当たり、1923年には孫文と会談してカラハン宣言の実施と中国の国民革命実現に向けての援助を約束した人物。

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