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カテゴリ: あると便利な地域史

 インド史は、情報量自体は少ないにもかかわらず、馴染みがないせいか受験生にとってはとっつきにくい分野のようです。ですが、このインド史はとてもコスパが良い!何と言ってもわずかプリント数枚分の情報量なのに、各模試では下手すりゃ大問1個分ドカンと出たりします。受験でも特に近現代史については頻出の箇所だったりします。ただ、近現代史については、教科書でもプリントでも情報が断片的に出てくることが多く、特にムガル帝国衰退以降のインド史、なかでも民族運動の全体像がつかめないという受験生は多いようです。

 そこで、今回はアウラングゼーブの死以降からインドとパキスタンの分離独立のあたりまでを一つの流れとして示してみたいと思います。私の頭の中で、ムガル以降のインド史は下のような形でまとめられています。

 

① バーブル~アウラングゼーブまでを君主ごとに特徴まとめ(16世紀~18世紀初)

② アウラングゼーブの死以降のムガル帝国分裂とイギリスの進出(18世紀初~19世紀)

③ 東インド会社の変容(18世紀後半~19世紀前半)

④ インド大反乱とムガル帝国滅亡(1857-59)からインド帝国の成立(1877

⑤ 民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開(19世紀後半)

  A、国民会議派の形成期(1880s

  B、国民会議派の急進化とヒンドゥーとムスリムの対立(1905~)

  C、第一次世界大戦と第一次サティヤー=グラハ(1910s半ば~1920s初)

  D、インド独立運動の再燃(1920s後半~)

⑥ インド・パキスタンの分離独立(1947

 

 ある地域の通史を効率よく思い出すには、こうした特定の時代ごとにいくつかのブロックにわけて整理するやり方が効果的です。(もっとも、本当の意味で歴史を理解するためには重層的な理解が必要になるので、過度のモデル化や単純化は避けた方が良いのですが。)

今回は、この区分けに従って②~⑤の流れを示してみたいと思います。

 

(アウラングゼーブの死以降)

 アウラングゼーブが亡くなるのは1707年、ちょうどイギリスでグレートブリテン王国が成立(スコットランドとの合同)した年のことです。アウラングゼーブは、かつて3代皇帝アクバルが進めたヒンドゥー教徒(ラージプート諸侯)との融和政策を転換し、ジズヤの復活やヒンドゥー寺院の破壊やモスクへの建て替えを進めたため、ラージプート諸侯の反発を買い、帝国は分裂を始めます。「ラージプート」というのは、ムガル帝国進出前からインドにいたヒンドゥー教を信仰する支配階層カーストのことです。彼らからすれば、ヒンドゥー教を信仰している限り「上位カースト=えらい」が生まれながらに保障されるわけですから、ヒンドゥー教信仰はとても大事なわけです。

 さて、ムガル帝国が分裂に向かう頃、インドではイギリスとフランスが勢力争いを展開していました。当初、両国は貿易のため沿岸地域に拠点を構えました。イギリスはカルカッタ、マドラス、ボンベイに、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルにです。

 インド英仏拠点

 

ところが、ムガル帝国の分裂が進み、各地に小諸侯が事実上の独立国として乱立し始めると様子が変わってきます。特に、イギリスの拠点マドラスとフランス拠点ポンディシェリがあったインドの東南岸(カーナティック[カルナータカ])地方では、地元の諸侯の内紛や対立が発生して政治的に極めて不安定で、英仏の活動の余地が拡大していきます。こうした中で、ヨーロッパにおいてオーストリア継承戦争が1740年から開始されたことで、インドにおける英仏両拠点間の緊張も高まっていきました。この緊張の中でイギリス側がフランス船を拿捕したことがきっかけでカーナティック戦争(1744-4850-5458-61)がはじまります。

 このカーナティック戦争を皮切りに、イギリスはフランス勢力をインドから排除していきます。プラッシーの戦い(1757)でフランスと同盟したベンガル太守軍を打ち破ったのち、ブクサールの戦い(1764)でムガル皇帝やベンガル太守などの連合軍を打ち破って、ベンガル・オリッサ・ビハールのディーワーニー(徴税権)を手に入れます。ディーワーニーとは、帝国財務大臣または各州の財務長官(ディーワーン)の持つ権限のことで、主に徴税権などのことでした。イギリスは形式上、ムガル帝国のベンガル・オリッサ・ビハールの州財務長官となり、その権限を行使しますが、さらにこれを拡大して各州の行政権を手に入れ、実質的な太守の座を獲得します。

 ここで重要なことは、それまでは商取引による収入の拡大とそのための拠点づくりが主な目的であった東インド会社の業務の中に、土地管理・行政が加わったという点です。そして、これ以降イギリスはマイソール戦争(1767-6980-8490-92:南インド)、マラータ戦争(1775-821803-051817-18:デカン高原)、シク戦争(1845-4648-49:パンジャーブ地方)などを通して各地方勢力を撃破し、その支配領域に勢力を拡大していくことになります。世界史で押さえておくべきこの時期のインドのイメージは3点でしょうか。

 

① ムガル帝国の衰退と諸侯の分立

② イギリスが商取引中心の活動から土地支配にも乗り出す

③ 東南から西北に北上するような形で支配領域を拡大。

  (カーナティック戦争、プラッシーの戦い以降)

 インド戦争

 

 上がその地図です。アバウトですが。赤が一部カシミールにかかっちゃってますね。でもまぁ、いつも申し上げるように世界史では正確な地図より位置関係の把握の方が重要ですので、この程度の把握でも十分ですw もうちょっと正確な位置関係にするとこんな感じです。

ムガル帝国の分裂
(ムガル帝国の分裂)

 

(東インド会社の変容)

 上述のように、イギリス東インド会社は次第にインドの土地支配を拡大していきます。その中で成立していく制度がザミンダーリー制とライヤットワーリー制です。この両制度は近年の東大の問題でも出題されるなど、だんだんと受験生の間でも周知されるようになってきました。この両制度の違いは、イギリスと民衆の中間にザミンダール(地主)をはさむかどうかということです。地主を介するのがザミンダーリー制、そうでなく農民(ライヤット)から直接イギリスが租税を徴収するシステムがライヤットワーリー制です。 

ザミンダーリー制、ライヤットワーリー制

 ザミンダーリー制が1793年にベンガルで初めて導入されて以降、ベンガル地方を中心に展開されたのに対して、ライヤットワーリー制は19世紀初めからイギリスが併合していく中部~南インドにかけて導入されたという地理的な違いにも一応注意を向けておくと良いかと思います。

 また、東インド会社がディーワーニーを獲得し、土地と人民の支配を開始したことでイギリス本国政府は東インド会社に対する監督を強めていきます。従来から、イギリスはボンベイ、マドラス、カルカッタの3都市に商館を置いていました。プラッシーの戦いの後、イギリスはカルカッタ周辺の一部の土地支配権を獲得します。それぞれの商館が獲得した支配地域は管区としてそれぞれに知事が置かれることになりました。プラッシーの戦いで活躍したクライヴは、初代のベンガル知事に就任しています(1758年)。中でも、重要性を増したベンガル知事は、1773年にベンガル総督に昇格され、インドの全ての管区はこのベンガル総督の監督下におかれることになりました。その初代ベンガル総督に就任したのがヘースティングズです。(参考書によっては「ベンガル総督」ではなく後に改称される「インド総督」とされています。)

 当初、こうした知事職または総督職はイギリス東インド会社の役員会によって決められていましたが、1784年にイギリス本国政府がインド庁を発足させると、東インド会社に対するインド庁の発言権が次第に増大し、実質的にベンガル総督の人事も本国政府の意向によって決定されるようになります。また、東インド会社の商業活動にも次第に制限が課せられるようになりました。その背景には、本国イギリスで本格化した産業革命と、産業資本家の台頭により、一部の特権商人が商取引で利益を上げる東インド会社のような特許会社の存在よりも、イギリスで製造した綿織物をはじめとする工業製品を他国に輸出することで利益を上げるための自由貿易の方が重視されたことがありました。1813年には東インド会社のインドにおける貿易独占権が廃止され、さらに1833年には中国の貿易独占権が廃止されたことで、商業活動が停止されます。この商業活動が停止された1833年の特許法において、ベンガル総督はインド総督と改称されます。世界史においておさえておくべきこの時期の知識としては、

 

① ザミンダーリー制とライヤットワーリー制

② 東インド会社の活動内容の変容(商取引から土地支配へ)

③ 東インド会社の特権の廃止と本国の自由貿易体制への移行、その背景

④ 初代ベンガル(インド)総督がヘースティングズであること

 

などを押さえておけば十分だと思います。

 

(インド大反乱とムガル帝国滅亡)

 東インド会社の諸特権が廃止され、イギリス本国の監督が強化されるに従い、インドにはイギリスからの綿製品が大量に流入することとなりました。

インド産綿布、イギリス産綿布

(東京書籍『世界史Bp.324

 その結果、インドの重要な産業であった手作業に依存した綿織物業は安価なイギリスの工場で生産された綿織物によって駆逐され、壊滅的な打撃を受けることになりました。その結果、職人たちが失業し、イギリスへの綿花の供給地へと転落したインド経済は低迷を続けます。さらに、イギリスはマイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などを通してインド支配を拡大する際に、各地方の小勢力を根絶やしにするのではなく、イギリスに協力的な勢力には一定の条件の下で自治を認める政策をとりました。このように、イギリスのインド支配下で一定の自治を与えられた諸侯のことを藩王国といいます。

これらの藩王国は、インド大反乱(1857-1859)の後にはインドにおける貴族として扱われ、保護される対象となります。イギリスは、本国において成立していた社会的ヒエラルキー(庶民ジェントルマン・貴族etc)に類似のヒエラルキーをインドにもおいても式典や儀礼などを通して可視化し、それを統治に利用していきます。イギリスのインド統治に関しては「分割統治(分割して統治せよ)」が有名ですが、これは様々な面に及んでいて、各藩王国同士を分断して競わせるだけではなく、身分・社会的地位・財産などによる分断、宗派による分断などを通して、インドに住む人々が一致団結してイギリスに反抗しないようにするという発想が根幹にあり、カースト制度の利用や、ヒンドゥー・ムスリム間の対立を煽ることなども行われました。(このあたりの事情のうち、イギリスによる藩王国統治が大英帝国内の装飾的秩序の中でどのように位置づけられていたのかについては、デイヴィッド=キャナダイン著、平田雅博・細川道久訳『虚飾の帝国オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』などを見ると面白いと思います。)

ただ、藩王国の保護とヒエラルキー的な諸秩序が形成されていくのは、インド大反乱の後、インド帝国が形成されていく中でのことで、インド大反乱前の藩王国はイギリスからかなり厳しい扱いを受けていました。中でも諸侯から恨みを買うことになった政策が「失権の原則」で、藩王国の君主に嫡子がいない場合にはその藩王国の自治を取り上げてイギリスの支配下に置く(要は「お家お取り潰し」)というものです。これにより、多数の没落した旧支配層が発生していました(江戸時代でいえば浪人ですね。)。さらに、インドの領土拡大が完成を見たことで、かねてから東インド会社が軍事力として活用してきたシパーヒーの解雇が進んだことで、ここでも多くの失業者が発生します。つまり、インド大反乱前夜のインドでは、以下のような食い詰めた人々、そして人々の不満がたまっていました。

 

・インド綿産業の壊滅にともなう大量の失業者と経済の低迷

・藩王国の取り潰しによる没落した支配層の増加

・不要となり、解雇され始めたシパーヒー

 

 インド大反乱ことシパーヒーの乱では、従来はそのきっかけとなった弾薬包に獣脂が染み込まされているという噂が広まったこと(豚であればムスリムにとって不浄で、牛であればヒンドゥーにとっては神聖なので、薬包を口に含むことが禁忌となる)がクローズアップされてきましたが、反乱の背景となる要因が多数存在したこと、実際の反乱に参加した人々がシパーヒーだけではなく、多様な階層にわたったことなどから、最近ではインド大反乱の呼称が使われているようです。(平成30年度版の東京書籍『世界史B』はインド大反乱、最新版の『詳説世界史研究』では索引でシパーヒーの大反乱が使われ、本文では<インド人傭兵(シパーヒー)による大反乱>とされています)

 この反乱に際して、すでに力を失っていたムガル皇帝バハードゥル=シャー2世は反乱軍の最高指導者として祭り上げられます。とはいっても、生年が1775年なので、当時は御年80歳を超えていますので、完全に名目上の指導者でした。ですが、反乱鎮圧後はその罪を問われてビルマへの流刑となり、ここにムガル帝国は滅亡(1858)します。さらに、東インド会社はインド統治が不十分であったことの責任を負って解散(1858)となりました。この時からイギリスによるインドの直轄支配がはじまることになります。

バハードゥルシャー
流刑前のバハードゥル=シャー2世(Wikipedia

 

 その後、インドでは上述のような藩王国の保護と秩序の再編が進んでいきます。そして1877年、ディズレーリ内閣はヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させ、形の上では同君連合ですが実質的な植民地としてインドをイギリスの完全な支配下におさめました。世界史における知識としては、

 

イギリス産綿製品の流入とインド綿産業の壊滅

インド大反乱とその背景

ムガル帝国の滅亡(1858

イギリス東インド会社の解散(1858

インド帝国の成立(皇帝:ヴィクトリア、ディズレーリ内閣の時)

 

あたりを押さえておけば十分かと思います。

 

 

(民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開)

[A、国民会議派の形成期(1880s]

 イギリスによるインド支配は、もともと住んでいたインド人に対して非常に差別的で、政治的な諸権利も認められていませんでした。具体的には、英語の強制や土着言語での出版の禁止、司法制度の不平等などです。こうした諸政策に対する反発から、バネルジーは1876年にインド人協会を、1883年には全インド国民協議会を結成します。一方、イギリスはこうした動きを牽制するために、1885年にインド人の上層階層やイギリスに協力的な知識人からなる親英組織であるインド国民会議を結成させます(第1回会議はボンベイ)。バネルジーの運動はまもなくこのインド国民会議に吸収されます。(1886年に全インド国民協議会がインド国民会議に合流。) そして、インド国民会議と彼らに同調して行動する政治集団は、インド国民会議派と呼ばれる一派を形成することになります。こうした政治団体が作られるようになった背景には、イギリスの英語教育や、分割統治によるインド人上流階級の保護と形成、民族資本家の成長などにより、西欧式の教育を受け、西欧の思想に触れる人々が増加してきたことがありました。

 

[B、国民会議派の急進化とヒンドゥーとムスリムの対立(1905~)]

 インド国民会議は当初親英団体でしたが、その性格を大きく帰る事件が起こります。これが1905年に制定されたベンガル分割令(カーゾン法)です。当時のインド総督カーゾンは、親英団体インド国民会議の中でも次第に台頭してきた反英的な急進派や、その他の民族運動に神経をとがらせていましたが、行政の効率化と民族運動牽制のために、当時民族運動が盛んであったベンガル地方の行政区画の再編を行います。その結果、新しい行政区画では各行政区における人口比が激変し、従来の行政区であれば多数派であったヒンドゥー教徒の意見が、新行政区ではムスリム住民の比重が増し、ムスリムの意見が反映されやすい状態になってしまいます。

ベンガル分割令_人口比入
(ベンガル分割令)

これに怒ったヒンドゥー教徒中心のインド国民会議では、急速にティラク率いる急進派の発言力が増大します。その結果、彼らは穏健派のバネルジーなどを批判しつつ、1906年の国民会議カルカッタ大会において、「スワラージ(自治)、スワデーシ(国産品愛用)、ボイコット(英貨排斥)、民族教育」からなる反英的な四大綱領を採択しました。こうして、国民会議の親英的ムードは吹き飛び、その後は反英運動の中心になっていきます。ただし、この段階では穏健派と急進派の分裂やティラクの投獄などもあって、これ以上運動が拡大することはありませんでした。一方、イギリスはこれに対抗させるために1906年に全インド=ムスリム連盟を結成させ、宗教対立を利用してイギリスへの攻撃でインドの人々が団結しないように画策します。

 

[C、第一次世界大戦と第一次サティヤー=グラハ(1910s半ば~1920s初)]

 その後、第一次世界大戦がはじまると、ムスリムの立場に微妙な変化が生まれます。その原因は、イスラームの宗教的権威の象徴であるカリフとカリフ制を擁護するヒラーファト(キラーファト)運動がインドで高揚したことによります。当時、カリフはオスマン帝国のスルタンが兼任するスルタン=カリフ制がとられていました。そして、第一次世界大戦においてオスマン帝国はイギリスの敵国でした。それまではヒンドゥー教徒との対抗上、親英団体としての性格を有していた全インド=ムスリム連盟でしたが、カリフと敵対するイギリスに対する立場は徐々に変化していきます。

 このように、ムスリムとイギリスの間に距離ができ始めていた頃に、インドの自治をめぐる諸問題が持ち上がります。イギリスは、第一次世界大戦中にインドを戦争に協力させるためにイギリス本国のインド担当大臣モンタギューがインドの自治を推進する方針を示したことから、自治獲得への期待が高まっていました。また、第一次世界大戦の末期には、ソヴィエト政権の「平和に関する布告」やウィルソンの発した「十四ヵ条の平和原則」において民族自決の理念が示されたこともあり、戦争に協力したインドの人々が期待するのも無理からぬものがありました。しかし、イギリスは1919年にきわめて形式的で限定的なインド人の政治参加を認めるインド統治法(「インド統治法」と名の付く法律はこれだけではなく、複数回出されていることに注意)を制定します。このインド統治法は中央政府にはインド人に決定権を与えず、地方自治に参加を限定した上で、その地方行政においても保健行政や教育などにインド人を関わらせる一方で、より重要な徴税・司法・治安維持などについては原則としてイギリス人が管理する内容でした。このインド統治法は当然インド人の期待を裏切るものでしたが、さらにインド人の怒りに火をつけたのがローラット法と呼ばれる弾圧立法で、この法律ではインド人に対する令状なしの逮捕、裁判なしの投獄が認められていました。こうしたイギリスのごまかしに憤りを感じたインド人は抗議行動を激化させていきますが、アムリットサルに集まった一万数千ともいわれる群衆にイギリス軍准将率いる一個大隊が発砲し、数千名に及ぶ死傷者が出るアムリットサル事件が発生します。この段階において、インド人の反英感情は急激に高まっていきます。

 こうした中で現れた民族指導者ガンディーは、暴力ではなく非暴力・不服従を貫くことを通しての反英運動であるサティヤー=グラハ(真理の要求)と称される運動を展開していきます(第一次非暴力・不服従運動)。ガンディーは本来敵対関係にあったムスリムにも協力を呼び掛けて、運動は急速に発展していきました。しかし、運動の急進化・暴力化を危惧したガンディーが運動の停止を宣言したことや、ムスリムのヒラーファト運動がトルコ共和国におけるカリフ制の廃止(1924)によって意味をなくしてしまったことなどから、インドの民族運動は一時的に落ち着きを取り戻します。

 

 [D、インド独立運動の再燃(1920s後半~)]

 一時的にやや沈静化していたインドの民族運動でしたが、1920年代後半に再度激しさを増します。そのきっかけになったのは、1919年のインド統治法の見直しのために組織された憲政改革委員会(サイモン委員会)の委員にインド人が一人も含まれていなかったことでした。これをきっかけに国民会議派や全インド=ムスリム連盟などの政治団体はその活動を活発化させていきます。国民会議派は1929年に開かれたラホール大会で、指導者のネルーが中心となり、「プールナ=スワラージ(完全独立)」を決議して運動の理念としましたが、ヒンドゥーとムスリムは選挙制度などをめぐる対立が再燃して足並みはそろいませんでした。一方、ガンディーは大衆を指導する第二次非暴力・不服従運動を展開し、イギリスに対する不服従の象徴として、イギリスによる塩の専売に抵抗する「塩の行進」運動を展開します(1930年)。

 こうしたインドにおける民族運動の再燃を受けて、イギリスは(英印)円卓会議の開催を提案し、ガンディーをはじめとする民族運動指導者をロンドンに集め、3度にわたる会議を開きます(ガンディーはこのうち第二回の会議に参加します)。ところが、この会議にはガンディーだけではなく、数多くの少数派の代表が招かれていたことから、ガンディーの主張は各派の対立の中で埋もれてしまい、各代表は自分の利害のみを主張することに終始して、会議は成果を上げることができず、帰国して運動を再開しようとしたガンディーは逮捕・投獄されます。しかし、憲政改革委員会と3度の円卓会議を経て、1935年には新インド統治法が制定されます。この統治法では相変わらずインド人は中央政府の政治には関与できませんでしたが、インド人は州の政治において州議会と州政府を選挙によって構成することが可能となりました。ただ、これも最終決定権はインド総督が任命するイギリス人州知事が握っているという不完全な自治でした。この法に基づいて行われた選挙において、多数派を占めたのはヒンドゥー教徒中心の国民会議派でした。これは人口比から考えて当然の結果でしたが、国民会議派が地方選挙で圧勝したことに対し、かねてから選挙制度をめぐってヒンドゥーと対立していたムスリムは危機感を高め、次第に宗派対立が激化をしていきます。

 

 このように、インドにおける民族運動は、19世紀後半から開始され、いくつかの波を経ながら第二次世界大戦の時期を迎えることになります。このあたりが模試や受験では頻出の箇所なのですが、教科書や参考書の記述があちこちに飛んでいたり、一部省略されていることもあって、全体像がとらえられない人が多いようです。この時期の出来事で世界史において必要な部分をまとめると以下のようになります。

 

1880s
 バネルジーによる民族運動の展開

 インド国民会議ボンベイ大会の開催(1885、親英団体として)


1905~)
 ベンガル分割令(カーゾン法)の制定

 インド国民会議カルカッタ大会の開催と四大綱領の採択
 (ティラク、急進化)

  全インドムスリム連盟の結成


(第一次大戦~) 
 ヒラーファト運動の高揚


1919~)
 インド統治法ならびにローラット法の制定

 アムリットサル事件の発生

 第一次非暴力・不服従運動の展開(ガンディー)


1920s後半~) 
 サイモン委員会(憲政改革委員会)に対するインド人による批判

 国民会議派ラホール大会(ネルー、プールナ=スワラージ)

 第二次非暴力・不服従運動

 英印円卓会議


1935~) 
 新インド統治法

 ヒンドゥーVSムスリムの対立激化

         

 今回も書いてみてエライ後悔しましたが、とりあえず簡単にまとめてみました。(話すのは楽なんですが、文章に書き起こすとなるとかなり厄介です。)内容が入り組んでいてまとめにくく、かつ試験によく出てくる部分は冒頭の分けですと民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開(19世紀後半)」の部分だと思います。一問一答形式の設問もなくはないですが、正誤問題や並べ替えの問題が良く出てくると思いますので、よく確認してみてください。

 

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トルキスタン史というものは常に受験生の悩みの種であるようです。そもそも、高校生の段階で「トルキスタン」というものを理論的かつ感覚的に理解できるとしたら、それはかなり熟練の学習マニアか、熱狂的なトルキスタンオタクか、親戚がトルキスタンの出身かでしょう。これは別に、受験生のことを侮って言っているわけではありません。人間の「理解」にはまず知識として体得する「知る」という段階と、その知識をイメージし、感覚として染み込ませる「実感」する段階があるわけですが、一般的な高校生がこうした実感をともなってトルキスタンを理解するには、あまりにも時間が足りなすぎるし、身近でもありません。現に、私が高校の頃はトルキスタンとは何かと問われた時、正確なことを1語る間にウソや見当はずれのことを5つは語ったかもしれません。いや、そもそも「トルキスタンを正確に理解せねばならない」などとは思ってもみませんでした。

ですが、志望校として現在東大を目指す受験生にはそれが求められます。なぜなら、東大は近年明確にユーラシアという領域を意識しているからです。ユーラシアを意識してその中央に位置する中央アジア、トルキスタンが問題にならないなどということがあるでしょうか。誠に不条理な世の中です。ですが、ある一定のレベルを超えて正しく必要な情報を整理してインプットすることができれば、比較的早期にこの実感をともなうレベルの理解をすることも十分に可能です。そこで、今回はトルキスタンとその歴史についてある程度イメージとして保持できるようなトルキスタン史の整理を、世界史の枠組みの中で行ってみたいと思います。

 

[トルキスタン史1:トルキスタンの地理的理解]

 

 トルキスタンのような我々がなじみのない地域についてのイメージを確固たるものにする手段として有効な方法が二つあります。それは、

 

・正確な地理情報を把握する

・その土地の風土、風俗についての追加情報を得る(映像が望ましい)

 

この二つです。世界史についての理解がもう一つ進まない場合、この手の地理情報がきちんと把握できていないことが多いです。具体的な例をあげるのであれば、イリ事件でいうイリ地方とはどこか、沿海州とはどこか、ホラーサーンとはどのあたりか、ライン川はどこを流れているか…etc.

 

 そこで、まずはトルキスタンとはどこかということを漠然とでもよいので把握しておきたいと思います。もちろん、トルキスタンという用語は歴史的なものでもあるため、時代によりその意味するところや地理的な範囲も異なりますが、おおよそのイメージを示しておきましょう。

東西トルキスタン
かなりアバウトな地図で申し訳ないですが、上の地図のうち東トルキスタンがおおよそ新疆ウイグル自治区のあたり、パミール高原を境にアラル海・カスピ海に至るあたりまでが西トルキスタンと呼ばれる地域です。このあたり一帯はいわゆるシルクロードの通る道としても有名なわけですが、それではこの東西トルキスタンをシルクロードという視点から把握しようとするとどうなるのか、別の地図で確認してみましょう。 

 スライド6

https://twitter.com/HistoryMinstrelより引用)

 

 上の地図中央にパミール高原があるので、その東、「タリム盆地」というのが東トルキスタンとほぼ同じ地域であることが確認できると思います。このタリム盆地の大部分はタクラマカン砂漠と呼ばれる砂漠地帯であり、この地域がよくシルクロードに関する設問で出てくるオアシス都市が点在する地域です。

800px-Wfm_tarim_basin
 Wikipedia「タリム盆地」より引用)

 

タリム盆地の南北には天山山脈と崑崙山脈があり、このうち天山山脈のふもとを南北に通るのが天山北路と天山南路、崑崙山脈の北側を通るのが西域南道です。

シルクロード_地名入

(シルクロード)

上の地図を見ると、中央のタクラマカン砂漠にいたる中国側の入り口が敦煌、パミール高原をまたいで西トルキスタン側の入り口がサマルカンドになっていることがわかると思います。このように、様々な方面から地理的情報を把握すると、無味乾燥な「敦煌」、「サマルカンド」「天山南路」などの用語は生きた知識として自身の身体に定着してきます。

 

[トルキスタン史2:トルキスタンの歴史的形成]

これまで紹介した地域がなぜトルキスタンと呼ばれるのかといえば、この地域にテュルク系民族が移住し、いわゆる「トルコ化」が進んだためです。トルキスタンとはすなわち、トルコ人(テュルク人)の住む土地を指すわけですが、このトルコ人たちは、元々はシベリア方面に居住していたモンゴロイドであったようです。これが、9世紀頃からのトルコ系民族であるウイグルの移住と定住によって現在のトルキスタン周辺に住みつき、イラン系ソグド人などとの混血を進めた結果、現在のような形になっていったとされています。下の地図は現在のテュルク系民族の分布を示したものです。

 スライド1

Wikipedia「テュルク系民族」より引用、一部改変)

 

こうしたテュルク系民族はかなり早い時期から歴史の中に登場してきます。中国の文献資料上に登場する丁零(紀元前3世紀頃)とか高車(5世紀頃)、鉄勒(6世紀頃)などはこのルーツです。この頃のトルコ系民族は隣接するモンゴル系民族の匈奴や柔然に従属する弱小民族でしかありませんでした。

 スライド2

Wikipedia「丁零」より引用、一部改変)

スライド3
 

Wikipedia「高車」より引用、一部改変)

  

しかし、こうしたテュルク系民族は6世紀の突厥の出現によってモンゴル高原の覇者としての地位を築き上げます。突厥は、柔然を滅ぼして建国し、さらにササン朝と結んで中央アジアに存在したエフタルを挟撃して滅ぼして強大化するのです。その後、突厥は東西に分裂の上、東に起こった唐に圧迫されたために次第に衰退しますが、この突厥にかわって起こったウイグルも同じくトルコ系民族でした。 

 ですが、突厥やウイグルは基本的に遊牧民族であり、決まった土地に定住するということはなくその活動域もモンゴル高原が主であったため、その広大な支配域に現在で言うトルキスタンが含まれていたにしても、この地域が「トルコ化」されることはありませんでした。状況に変化が生まれるのはこのウイグルが同じくトルコ系のキルギスによって滅ぼされてからです。モンゴル高原を追われたウイグルは西へと逃れ、9世紀頃に現在のトルキスタン方面に定住しました。その結果、それまで同地で交易の民として暮らしていたイラン系ソグド人との混血を繰り返す中で同地が次第にトルコ化されていき、現在のトルキスタンの原型が形成されていったのです(ソグド人はトルコ人と同化する中で民族としての独自性を失い、消滅していきます)。 

スライド11
 ソグド人はソグディアナ[またはトランスオクシアナ]と呼ばれる上の赤い地域を中心に活動していた。
(地図は
Wikipedia「ソグディアナ」より引用。)

 

 そして、このようにトルコ化が進んだ中央アジアにはもう一つの大きな変化が進行していました。それが同地域のイスラーム化です。すでに同地域には8世紀頃からアラブ人たちが侵入し始め、東方の唐との間でタラス河畔の戦い(751)を戦うなどしていましたが、本格的に同地の支配を始めるのはイラン系サーマーン朝の頃からです。サーマーン朝は支配したトルコ人を奴隷軍人として活用し始めます。これがマムルークです(実際には、マムルーク自体はすでにアッバース朝期から存在しました)。テュルク系民族(トルコ人)と境を接するサーマーン朝はさかんにマムルークを導入し、マムルークはイスラーム世界に定着していきましたが、一方でこうしたマムルークが軍事的に力を持ち始めると支配者であるイラン系のサーマーン朝に対抗しうる力を有するようになりました。その結果、中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝であるカラ=ハン朝の成立を見ることになり、これ以降トルキスタンにおいてはトルコ化とイスラーム化が促進されることになります。

 

[トルキスタン史3:中国史から見たトルキスタン]

それでは、トルキスタンとは何か、ということがある程度整理できたところで、高校世界史上で頻出の中国とトルキスタンとの関わりについて簡潔にその概要を示しておきたいと思います。


(前漢)

・武帝:匈奴遠征(タリム盆地獲得:住民はイラン系)

-天山南北路、西域南道(シルクロード・オアシスの道)

   前漢末に西域都護設置


(後漢)

・班超:甘英を大秦国派遣(条支国[シリア?]止まり)


(魏晋南北朝)

・仏図澄、鳩摩羅什などが亀茲から来訪

 ・6世紀に突厥が強大化(552に柔然を滅ぼして建国)

  隋の建国期に東西に分裂(583

   [東突厥]:唐に服属(7c自立(突厥第二帝国)ウイグルにより滅亡(8c

    [西突厥]:唐に服属(657滅亡(8c)


(唐)

 ・羈縻政策[唐に限らず類似の政策は歴代王朝でも]

  :都護を中央から派遣し、在地の族長を都督・刺史に任命

(自治を許す間接統治策)

六都護府設置

1、    安東(平壌)

2、    安南(ハノイ)

3、    安西(亀茲)

4、    安北(外モンゴル)

5、    単于(内モンゴル)

6、    北庭(新疆ウイグル自治区方面)

 ・8世紀にウイグルが東突厥を滅ぼして建国、唐とは同盟関係


(唐末)

・キルギスにより、ウイグル国家が滅亡

ウイグル人[トルコ系]が現在のトルキスタンに移住

ソグド人などのイラン系住民と混血(トルコ化)

   =トルキスタンの形成

・サーマーン朝の侵入

 イスラーム化の進行


(宋)

 ・カラ=ハン朝:東西トルキスタンを支配した初のトルコ系王朝

 トルキスタンのイスラーム化を促進

→11世紀に東西に分裂

 (東は西遼、西はホラズムにより滅亡)

・カラ=キタイ(西遼:モンゴル系、仏教):遼の王族・耶律大石が建国

ナイマンに滅ぼされる

チンギス=ハンの征服(ホラズムに至る通り道である点に注目)

トルキスタンは後にチャガタイ=ハン国の支配下に

(明)

・ティムール帝国の勃興

・ティムール衰退後

[トルキスタン西部] チャガタイ=ハン国の残存勢力が割拠
           のちにウズベク人が台頭 

[トルキスタン東部] オイラートが勢力拡大

エセン=ハンの時に土木の変[1449]:正統帝捕虜に

エセン暗殺後に分裂・再統合

(ジュンガル部の形成[ガルダン=ハン]

[さらに東部(モンゴル)] タタールが勢力拡大

  

   上記のうち、オイラート・タタールが「北虜」となる


(清)

・乾隆帝によるジュンガル部平定[1758]

藩部に編入して「新疆」、理藩院による支配

1871 イリ事件

[流れ]

  太平天国の乱[1851-64]に乗じて新疆でコーカンド=ハン国のヤクブ=ベクほかイスラーム勢力の反乱が発生

  太平天国鎮圧後に左宗棠を派遣、鎮圧後に直轄化

  混乱に乗じてロシアが出兵、イリ地方占領[1871]

  左宗棠による再占領(ロシアが露土戦争で身動きできないうちに)

イリ条約(1881):事態の収拾[東西に分割]

 以前にイリ事件をテーマとした設問が出題されたことから、受験生向けに中国とトルキスタンとの関わり合いを考えるために作ったトルキ
スタン史を概観してみましたが、こうしたくくりだけでなく「トルコ民族史」としてのトルキスタン史を考えることももちろん可能です。トルコ民族というくくりで考えた場合には、地域的にはトルキスタンからは外れますが、ガズナ朝や奴隷王朝(アフガン~北インド)、セルジューク朝、ホラズム朝(イラン・西アジア)、マムルーク朝(エジプトなど)などのイスラーム王朝が名前としてあがることになるでしょう。その場合、まず中央アジア地域でイスラーム化したトルコ人勢力が各地に拡大していく過程としてとらえると全体像をより把握しやすくなると思います。

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今回の記事では、一橋などでも出題されそうな李朝末期から20世紀にかけての朝鮮史を扱ってまとめていきたいと思います。受験生が整理に苦労するところなんですよね、このあたり。世界史で整理に苦労するのは、覚えることが多いからじゃありません。このあたり勘違いされている方が多いのですが、「歴史は覚えることが多いから覚えられない」のではなく、「情報に対してストーリーが不足しているから覚えられない」のです。たとえば、「1882年に壬午軍乱が起こってその後1884年には甲申政変が起こったよ」って言われてもそりゃ覚えられませんよ。何の修行かと思います。そうではなくて、壬午軍乱とは何で、どんな登場人物がいたか、その人たちの関係はどうであったかなど、むしろ情報を増やしてやることで個々の事象のイメージ化が可能になります。個々の事象がイメージできれば、さらにそれを他の関連する事項と結びつけたり、比較することも可能になります。英単語なんかでも、「un-とかim-に否定の意味がある」など分かると覚えやすくなるとか、あるじゃないですか。これも、ただのアルファベットの羅列に過ぎないun-im-に意味が与えられたから(認識できたから)覚えやすくなるので、むしろ情報量としては増えているんですね。世界史は情報が多いから覚えられない、と思っている人はこうしたところに対する認識が不足しています。情報は、多い・少ないではなくて、意味を把握して整理しながら取り込むことでより分かるようになるのです。

最近とにかくこどもたちの負担を減らそうと情報量を減らそうという動きがありますが、よく考えずに情報を減らしてしまうと、前後のつながりがスッカスカの無味乾燥な情報の羅列となってしまい、かえって負担を増やしてしまいそうな気がします。ワンピースの登場人物は暗記できて鬼滅の刃はストーリーを暗唱できるのに世界史が覚え「られない」のは原理的に無理がありますよw 

 

 脱線してしまいましたが、李朝末期のお話を進めるにあたって、そもそも朝鮮王朝(李氏朝鮮)がいつ頃からか覚えていない人がいたりするので確認してみます。

 

1392 朝鮮王朝(李氏朝鮮)成立:倭寇討伐に功のあった李成桂が高麗を滅ぼして建国

   →両班による支配

 

・その後の李氏朝鮮は、世界史では秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱[1592-931597-98])と、清への服属(ホンタイジの時)のあたりで出てきます。

 

・世界史でその後李朝が問題になるのは19世紀後半に入ってからです。このあたりは大学受験でも頻出の箇所なので、注意しておくとよいでしょう。ただ、教科書や参考書だと時期ごとにぶつ切りになっていたり、情報が不足していてなかなか全体像をとらえることができません。そこでまず、当時の朝鮮で起こった事件を追いながら、朝鮮国内またはそれに与する外国の勢力図がどのように変化していくのか見ていくことにしましょう。

 

1863 大院君(国王高宗の父)が摂政として実権掌握

:鎖国政策

1873 閔妃政権の成立(大院君に対するクーデタ)

:開国政策への転換

1875 江華島事件

日朝修好条規(1876

  朝鮮の自主独立

  釜山・仁川・元山開港

  治外法権

  関税自主権喪失(双方無関税)

1882 壬午軍乱:大院君のクーデタ

・賃金未払いを不満とする兵士の暴動を利用

・日本公使館員も多数殺傷される

   清の袁世凱の支援で鎮圧

閔氏が親日から親清へ

(事大党の形成=清の勢力下で李朝の安全維持を図る)

   以降、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐留させる

    一方で、開化派の不満が高まる

急進改革による朝鮮の近代化を図る金玉均・朴泳孝らが独立党を形成

1884 甲申政変:独立党による対閔妃のクーデタ

・日本公使竹添進一郎と独立党が共謀、清仏戦争の隙をつく

    高宗を擁立、閔氏の要人を殺害

  閔妃を支援する清が鎮圧

(清仏戦争に敗北した清はメンツにかけても朝鮮へ出兵)

金玉均は亡命(1894年に亡命先で暗殺される)

    この事件をうけて日清両国は天津条約(1885)締結

:日清両国の朝鮮からの撤兵と出兵時の事前通告を規定   

1894 甲午農民戦争

:東学を中心とする農民反乱

(創始者:崔済愚[チェジェウ]、指導者:全琫準[チョンボンジュン]

   鎮圧に日清両軍が出兵、日清戦争

   朝鮮では日本軍が出兵して閔氏を追放

・大院君を中心とする開化派政権が成立

・甲午改革の実施

     [両班制・科挙廃止、奴婢・人身売買の禁止など発表]

       政権内部の対立

→三国干渉によるロシアの影響力を利用した閔氏派の巻き返しで失敗

1895 下関条約:朝鮮の完全独立承認(日本‐清間)

1896 乙未事変:日本の指揮下の訓練隊(朝鮮軍)と日本人士官が閔妃暗殺

(背景)ロシアの力を背景に巻き返しを図る閔妃と大院君が対立

 ・甲午改革を推進した金弘集内閣が再度近代化策を実施

 開化派を支持する大院君と高宗の対立が決定的に

(守旧派が担ぐ高宗はロシアに接近:露館播遷[1896-97]

1897 大韓帝国と国号を改称

1898 1896年以降、朝鮮の立憲君主制樹立を目指してきた独立協会が弾圧される

1904-1905 日露戦争日本の優勢によって朝鮮が日本の影響下に

1904 第1次日韓協約:日本からの財政・外交顧問の受け入れ

1905 ポーツマス条約:日本の韓国保護国化承認

2次日韓協約(1905

:韓国の外交権接収(保護国化)、統監府の設置(初代:伊藤博文)

      反日義兵闘争の高まり、愛国啓蒙運動が激化

1907 ハーグ密使事件

   3次日韓協約(1907):韓国軍の解散、内政権を失う

1909 伊藤博文暗殺(安重根による)

1910 韓国併合:朝鮮総督府(初代:寺内正毅)

武断政治、土地調査事業

 

【★ここがポイント:朝鮮内の勢力関係】

 朝鮮近代史を読み解く上で難しいのが朝鮮内における勢力関係ですね。たとえば、当初は保守派とされていた大院君が後になってなぜか開化派と仲良くしていたりとか、国王なのに高宗は開化派に担がれたり、後に対立したり「いったいどっちなんだ!」と思うこともあるかと思います。でも、日本も幕末期には「公武合体だー」とか「攘夷だー」とか「開国だー」とか、やってますよね。当時の朝鮮も、諸外国の圧力の中で将来をどういう方向へ持って行ったら良いか模索している時期です。その時々の立場や情勢によって各人の立場が変わっていったのだと考えれば、それほど変なことでもないのですね。

 ここでは、頭をすっきりさせるために、いくつかの時期についてその勢力図を図示してみたいと思います。

 

[初期(1860年代~1870年代)の対立関係]


地域史②(朝鮮史)

 初期の対立関係は意外にシンプルです。幼少であった国王高宗の父である大院君が実権を握ると、大院君は保守的な鎖国政策を実施します。ところが、大院君の独裁に対する反発や、日本でも起こったような進歩的な考え方を持つ開化派からの反発が高まっていくんですね。そうした中で、もともとは大院君のお声がかりで妃におさまった閔妃は、舅との折り合いが悪くなって次第に険悪になっていきます。閔妃とその一族(閔氏)は反大院君の勢力を結集してクーデタを決行、これにより大院君が失脚してしまうのが1873年です。

 

[1870年代~1880年代]

 

地域史②(朝鮮史)2
 

 ところが、閔氏政権のもとでの開化政策は必ずしもうまくはいきませんでした。おりしも、江華島事件以降、朝鮮では清朝の冊封国としての地位を維持すべきとする守旧派(後の事大党)と、日本の力を利用して近代化を達成しようとする開化派(後の独立党)の二派に分かれて争っていました。そんな中、開化派政策を推進する閔氏政権は大胆な軍制改革に着手し、旧式の軍隊とは異なる西洋式の新式軍隊「別技軍」を組織します。しかし、別技軍が好待遇を受ける一方でないがしろにされていると感じた旧軍の一派は、続いていた給与不払いをめぐる不満を暴発させて暴動を起こします。これに乗じて閔氏政権の転覆をはかったのが先に失脚させられていた大院君でした。これが壬午事変(壬午軍乱:1882)です。

 この事件に対して日本側は対応することができませんでした。反乱に巻き込まれた日本公使館員たちは何名かの死傷者を出しながら命からがら朝鮮を脱出します。これに対し、清国側は当時洋務運動によって増強していた軍隊を朝鮮に出動させ、これを率いた袁世凱が反乱を鎮圧し、大院君を軟禁しました。この結果、政権に復帰した閔氏一派は自分たちの政権維持を重視してそれまでの親日姿勢から親清姿勢へと鞍替えします(事大党の形成)。要は「開化政策の推進」と「政権と権力の維持」を天秤にかけた結果、後者を選択したわけです。


地域史②(朝鮮史)3
 
 

しかし、こうした閔氏政権の変節に不満を感じたのが親日派の開化派たちです。朝鮮でも日本式の近代化を実現しなくてはならないと考える開化派の金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)らは独立党を結成します。清への依存をはかる事大党に対して、朝鮮の自主独立を目指したわけですね。かれらのこの目標は当時開化派を支援していた日本政府の目的とも、最終的な利害はどうあれ合致します。そして、独立党は次第に閔氏政権との対立を深め、その中で同じく閔氏と対立する大院君と接近します。つまり、開化派(独立党)と大院君を結びつけたのは「敵の敵は味方」という構図です。

 そして、この両者は日本の力を借りて清が清仏戦争にかまけて朝鮮に目が向かない間隙をぬって、閔氏政権打倒のクーデタを敢行します。これが甲申政変です。

 ところが、この政変も清の軍隊によって鎮圧されてしまった結果、再度閔氏が政権に返り咲きます。そしてこれ以降、朝鮮国内では「閔氏政権vs開化派+大院君」と「清vs日本」という対立が深まっていきます。

 

[1890年代(日清戦争以降)]

 

 こうした中で日清戦争が勃発し、日本の勝利に終わると開化派と大院君は勢いづき、甲午改革と呼ばれる近代化策を進めます。ところが、一度は日本の力を借りて閔氏一派を一掃したと思われたのですが、閔氏一派は新たに朝鮮進出を狙うロシアの力を借りて巻き返しをはかります。こうした両派の対立の中で発生したのが乙未事変(1896:いつびじへん)です。この事件で閔妃が暗殺されてしまったわけですが、これに激怒したのが妻を殺された国王高宗です。これまでも父と妻の一族の間の権力争いでどこか蚊帳の外に置かれてきた高宗は怒り心頭、開化派・大院君とは決別して守旧派とともにロシア公館に遷り、ここで政務を執りました。この期間のことを露館播遷(1896-97)と言っています。嫁さん殺されてムキーってことですね。こうした流れの中で、それまでの「清vs日本」という構図は「ロシアvs日本」という構図に置き換わってその後の朝鮮を巻き込んでいき、1904年からの日露戦争へとつながっていくのです。

 
地域史②(朝鮮史)4
 

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ここでは、教科書や参考書になかなかまとまった記述のないベーメン(ボヘミア)の歴史についてまとめていきたいと思います。教科書や参考書にあまり記述がないので、受験にも出ないと思われがちですが、このベーメンという地域はハプスブルク家との絡みで出題されることも多く、その際にぶつ切りの単語を覚えているだけよりは大きな流れを知っておく方が何倍も理解が深まり、実際の試験の場でも役に立つと思います。

 ベーメン、というと神聖ローマ皇帝やハプスブルク家という連想をしがちですが、神聖ローマ皇帝が常にベーメン王位を兼ねていたわけではないですし、ベーメン王位を常にハプスブルク家が継承していたわけでもありません。神聖ローマ皇帝位、オーストリア大公位やハンガリー王位と同様に、ベーメン王位は別に存在していたわけで、それを誰が継承したのかは時代によっても異なります。地域的に北方のポーランドなどとも以外に関わりの深い地域です。とはいっても、あまり深入りしてもきりがないので、簡単な通史を紹介した上で、注目すべきポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 

[ベーメン王国の王朝の変遷]

まず、ベーメンの王位については、大きく4王朝の交代があったことを確認しておきましょう。

  プシェミスル朝(10c-14c

:建国、シュタウフェン朝の弱体化に乗じた拡大、東方植民の受け入れ

  ルクセンブルク朝(14c-15c

:神聖ローマ皇帝カール4世(カレル1世)によるベーメン王兼任

:ジギスムント(ニコポリスの戦い・コンスタンツ公会議、フスの火刑)

  ヤゲヴォ朝(15c-16c初)

:モハーチの戦い(1526)におけるラヨシュ2世戦死
(ラヨシュ2世はハンガリー王位も兼ねた)

  ハプスブルク朝:(15c16c~)

:ジギスムントの死後にハプスブルク家のアルブレヒト2世が一時ベーメン王となるが、フス派の混乱の中でヤゲヴォ朝に交代。モハーチの戦い以降再度ハプスブルク家のフェルディナント1世がベーメン王となった。

 

[ベーメン王国史]

8c-9c:チェック人がモラヴィア王国(建国者:モイミール)の支配下に入る

→10c初めにモラヴィアがマジャール人によって衰退してチェック人が自立

10c:チェック人(プシェミスル家)によるベーメン国家の成立、ベーメン公を名乗る

→11c後半に「ベーメン王」号を認められ、神聖ローマ帝国を構成する一部に

13c半ば:神聖ローマ帝国のシュタウフェン朝が弱体化し、かわってベーメン王国が強大化

ドイツ人による東方植民の積極的受入れと領内の開拓

  →神聖ローマ帝国内の最有力諸侯に
    (大空位時代にハプスブルク家を擁する諸侯と対立)

  

神聖ローマ皇帝をうかがうベーメン王

(オタカル2世)

VS

これを阻止する諸侯の推すハプスブルク家

(ルドルフ1世)

   

1278   マルヒフェルトの戦い

:オタカル2世の戦死

ベーメン(プシェミスル朝)の弱体化

14c:プシェミスル朝断絶ルクセンブルク朝の成立

  ベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝に(カール4世)
   ・「金印勅書」でベーメン王を選帝侯に

・都プラハの繁栄、プラハ大学(カレル大学)の設立
   ・最盛期を迎えるも、ヨーロッパ全体としては戦乱・分裂期[百年戦争、大シスマ]

14c-15c:フス派の台頭

1414-1418:コンスタンツ公会議(神聖ローマ皇帝ジギスムントが主導して開催)

     ・大シスマの終了(1417

・ウィクリフ、フスの異端決定、フスの火刑

      ・フス戦争(1419-1436、フス派過激派 vs フス派穏健派 vs カトリック)

15c半ば:ハプスブルク家との対立の中でフス派のイジーがベーメン王に選出される

    フス派諸侯と教皇が対立する中で教皇派のハンガリー王マーチャーシュ1世(フニャディ朝)がベーメンの対立王に推されるが、急死

    ベーメン、ハンガリー地域の政治的混乱

1526:モハーチの戦い

   ・ベーメン王兼ハンガリー王ラヨシュ2世が戦死

(オスマン帝国のスレイマン1世に敗れる)

   後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(カール5世弟)がベーメン王に

=ハプスブルク朝の成立

16c半ば:兄であるカール5世の退位に伴い、オーストリア大公にしてハンガリー王、ベーメン王であったフェルディナントが神聖ローマ皇帝フェルディナント1世として即位

    ベーメンはオーストリア=ハプスブルク家の一部に

1618:三十年戦争開始(ベーメンで新教徒の反乱)

反乱は鎮圧されて、以降はハプスブルク家の支配力が強化された

 

 

 以上がベーメンの簡単な通史です。普通の教科書や参考書では一連の流れがなかなかとらえづらいのでまとめ直してみました。必要があれば参考にして下さい。ベーメン史は特に一橋の受験を考える受験生には必須の(2016年時点では)知識かと思われます。一橋2011年の大問1などは良い例でしょう。また、17世紀以降のベーメン史については一橋大学過去問「世界史」2014年(問題、解答、解説・解法と分析の大問2の解説中に示しておきました。

 やはり、ポイントになるのはジギスムントとフス派や三十年戦争あたりでしょうか。そういえば、フス戦争を題材にした『乙女戦争』なるマンガがあるらしいのですが、なぜか本屋に行くと常に最新刊しか置いていないので、大人買い派の私としては未だに食指が動きません。個人的には、厳密にはハンガリー史ではあるものの、ハンガリーの水戸黄門ことマーチャーシュ1世が好きです。ハンガリーでその手の番組をやってたりしないのでしょうか 

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