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カテゴリ: 早稲田大学「世界史」論述対策

2024年の早稲田大学法学部の大論述は、前年に引き続きある国や地域について、長期にわたるタテの流れを意識した設問となりました。(2014年中国の外交関係の展開、2016年の19世紀ドイツ史、2020年のメキシコ近現代史、2023年の南アフリカとアパルトヘイトなど。) 16世紀ごろの貿易拠点としての働きにせよ、19世紀末から20世紀にかけての独立をめぐる動きにせよ、受験世界史では頻出事項なので、早稲田の法学部を受けるレベルの受験生であれば「全く書くことが無くて困った」ということはなかったのではないかと思います。ただし、高校世界史では、この両時期の間の期間についてはあまり記載がなく、すっぽりと穴になっているため、そこに不安を感じたり、バランスの悪さを感じる人はいたかもしれません。ですが、そもそも記載されていないことは書けませんので、両時期のつながりを無理に意識する必要はなく、本設問については単純にそれぞれの時期で起こった出来事を併記すればまずそれなりの点数は来ます。頻出事項であることを考えれば、内容的にそう難しいものではありません。もし点差がつくとすると、米西戦争前後の動きをどこまで正確に書けるかということと、最終的にフィリピンの独立はアメリカ合衆国による法整備の下で達成されたことがきちんと示せるかというところではないかと思いますが、とは言え指定語句に「アメリカ=スペイン戦争」と「独立の約束」がありますので、これについても特に問題なく引き出せるのではないかと思います。

蛇足ですが、東京大学2021年世界史の第2問⑵はこのフィリピンの独立に関する小論述が、同じく⑶では2023年の早稲田法学部で出題されたのと同じアパルトヘイト撤廃までの流れが出題されています。まぁ、たまたまだと思いますが、大学にこだわらず色々な問題に手を出しておくといいことがあるかもしれないっていうことですね。

 

【1、設問確認】

・時期:16世紀~第二次世界大戦直後

・①フィリピンが16世紀以来アメリカ大陸と深い交易関係を持ったこと

 ②そうでありながら第二次世界大戦直後に独立を果たしたこと

 →これらについての政治的経緯ならびに経済的経緯を説明せよ。

・その際、17世紀半ば以降の歴史的経緯をともに説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

/ アギナルド / アメリカ=スペイン戦争 / 独立の約束

 

:本設問については、「16世紀にフィリピンのマニラがアカプルコ貿易の拠点となると同時に、アジア交易の拠点としての役割を果たしたこと」と、「米西戦争を機に支配者がスペインからアメリカに変わり、この時に展開された独立運動が鎮められたこと」、そして「20世紀に入りアメリカがフィリピンの独立を認め、法整備を通して独立が達成されたこと」の3点がきちんとおさえてあれば大きな問題はありません。また、指定語句もこれらをまとめる中で自然に使用できると思います。その上で、できれば19世紀のマニラ開港による商品作物の生産基地としてのフィリピンに目を向けられればそれに越したことはないと思いますが、これについては目立った事件や用語などがあるわけでもないので、少々ハードルが高い気がします。解説する側としてはいささか面白みに欠けるのですが、以下ではこれらに関連する事柄をまとめてみたいと思います。

 

【2、時期ごとのフィリピンをめぐる出来事の整理】

① 16世紀フィリピンとアカプルコ貿易・アジア交易

・マニラの建設(1571年)

:総督レガスピによるマニラ市の建設と市政の開始

・アカプルコ貿易の拠点

:メキシコのアカプルコ港からガレオン船によって運ばれたラテンアメリカの銀(メキシコ銀)をもとに中国の絹織物や陶磁器などと交易

・アジア貿易における重要拠点

:国際的な交易都市として発展し、中国人などが活躍した。また、小規模ながらも一時期日本人町なども形成された。

 

② スペインによる支配とマニラの開港

・スペインはフィリピンにおいてもラテンアメリカと同様の支配を行い、次第に白人による大土地所有支配が拡大された。また、こうした支配層にはカトリック教会や修道院も含まれており、大きな影響力を持った。

・本国スペインの衰退や、英・蘭などの進出にともない、アカプルコ貿易は衰退へと向かい、19世紀にはマニラは諸外国に港を開き、その結果フィリピンはイギリスやアメリカなどの国々へ砂糖やマニラ麻、タバコなどを輸出する生産基地へと性格を変化させた。

 

③ フィリピンの独立運動と米西戦争

・開港により諸外国の船が入ってきたことも一つの要因となって、フィリピンでは19世紀後半から自由主義的な動きや独立運動などが活発化。特に、ホセ=リサールによる活動の中でこれらの動きが本格化した。

19世紀末から20世紀にかけてのフィリピンの主な独立運動家

〇ホセ=リサール

:小説『ノリ=メ=タンヘレ』などの文筆活動や「フィリピン民族同盟」の結成などを通し、スペインの圧政や地主・教会の支配を批判した。その後、秘密結社カティプーナンの蜂起にともない関与を疑われて処刑された。

〇ボニファシオ

:秘密結社カティプーナンを結成し、1896年に蜂起。(フィリピン独立革命の開始)

〇アギナルド

:フィリピン民族同盟やカティプーナンに参加して独立闘争を展開していたが、米西戦争(1898)が始まるとアメリカ軍と共闘してスペイン軍を撃退し、フィリピン共和国(マロロス共和国)の独立を宣言した。(1898) しかし、米西戦争後のパリ条約でグアムやプエルトリコとともにフィリピンのスペインからアメリカへの割譲が決定すると、1899年からアメリカ=フィリピン戦争(米比戦争)が開始され、これに敗れた。

・米西戦争(1898)とアメリカ合衆国支配の開始

:キューバの独立運動をきっかけに開始された米西戦争に勝利したアメリカは、パリ条約でスペインからグアム・フィリピン・プエルトリコを獲得し、さらにアギナルドの抵抗を排してスペインの支配を開始した。

 

④ アメリカ合衆国によるフィリピン独立準備と独立

・アメリカ側の事情

:アメリカでは、フィリピンで続く抵抗や米国内での革新主義の広がりなどから、フィリピンへの自治を容認する声が次第に広がる。こうした中、1916年にはジョーンズ法が制定され、フィリピンに大幅な自治が認められた。さらに、1929年に世界恐慌が発生すると、米国内ではフィリピンからの安価な作物・労働力の流入を懸念する声も広がり始め、こうした声を受けてフランクリン=ローズヴェルトは1934年にフィリピン独立法(タイディングズ=マクダフィー法)を制定して10年後のフィリピン独立を認めた。(当時のアメリカ外交が善隣外交の流れの中にあった点にも注意。) これにより、フィリピンには独立準備政府が発足した。

・日本軍の支配

1941年に太平洋戦争が始まり、日本はフィリピンも占領して軍政下においた。日本は大東亜共栄圏を掲げてフィリピンに形式的独立を認めたが、実質的な日本軍政下におかれたフィリピンでは、フクバラハップ(フィリピン共産党が組織した抗日武装組織)が抗日闘争を続けた。

・フィリピンの独立(1946

:フィリピン独立法に基づき、アメリカ合衆国とフィリピン間で条約が取り交わされ(マニラ条約)、フィリピンが独立を達成した。一方で、アメリカへの経済依存や米軍基地は残存した。

 

【解答例】

16世紀にスペインが植民地化を開始したフィリピンにはマニラが建設され、メキシコと中国の絹織物や陶磁器を交換するアカプルコ貿易の拠点となった。19世紀のマニラ開港により英米に輸出する砂糖などを生産するためのプランテーションが拡大する一方で自由主義思想も拡大し、地主や教会の大土地支配を批判したホセ=リサールの活動に影響を受けてフィリピン革命が開始された。アギナルドアメリカ=スペイン戦争に乗じ共和国樹立を宣言したが、パリ条約で同地を領有したアメリカに敗れた。世界恐慌を機にアメリカがフィリピン独立法により独立の約束を示すと独立準備政府が作られたが、太平洋戦争時に日本に占領され、終戦後に独立を達成した。

 

設問の要求が「アメリカ大陸と(の)深い交易関係」を中心とするものでしたので、マニラのアジア交易の拠点としての役割の説明は削り、アメリカ大陸との関係性が極力前面に出るように書いてみました。また、基本は教科書や用語集に載っている内容をベースに組み上げています。(多分、パリ条約だけは載っていません。「新たに同地を領有した~」とかでもいいんじゃないでしょうか。)

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2023年の早稲田大学法学部の大論述は、南アフリカのアパルトヘイトをテーマとした設問でした。早稲田の法学部では時々ある国のタテの流れと特定のテーマを意識した設問が出されています。(2014年中国の外交関係の展開、2016年の19世紀ドイツ史、2020年のメキシコ近現代史など。) 南アフリカというのは300字近い論述問題では比較的珍しいものですが、それほど入り組んだ難しい内容ではありません。ごく常識的なラインをきちんとおさえてあれば一定レベルの得点は得られる設問だと思います。

ただ、当日の受験生の中には、意外にこの「ごく常識的なラインをおさえる」ということが難しかった人も多かったのではないかと推測します。あまりにも普通の内容過ぎて、逆に書ける内容がないということがあり得たのではないかと。色々と関係が入り組んでいたり、情報量にあふれたテーマであれば、情報の取捨選択が重要で、「書く内容がない」ということはあまりないのですが、アパルトヘイトということになると、「あー、南アフリカね。うんうん。アパルトヘイトね。人種隔離ね。うんうん。…あと何書けばいいんだ(汗)?」となってしまった受験生が意外にいたんじゃないかなぁという気がします。重箱の隅をつついたような知識を用意する必要はないのですが、その分自分が持っている知識を丁寧に整理していく必要のあった問題という気がします。

 

【1、設問確認】

・時期:17世紀半ば~1990年代初頭

1990年代初頭に南アフリカで行われた大きな社会変革について説明せよ。

・その際、17世紀半ば以降の歴史的経緯をともに説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

ケープ植民地 / 南アフリカ戦争 / 白人少数者 / アフリカ民族会議

 

:本設問では、何と言っても「1990年代初頭に南アフリカで行われた大きな社会変革」というのがアパルトヘイトの撤廃であるということをしっかりつかむことが大切です。その上で、17世紀半ば以降の南アフリカの歴史的経緯を示す必要があるのですが、出発点が17世紀半ばに設定されているところから、「オランダによるケープ植民地建設(1652)」が意識されていることに気づく必要があります。この2つを思いつけば、基本的には「ケープ植民地(南アフリカ)の支配の変遷→南ア戦争と南アフリカ連邦の形成→アパルトヘイトとアフリカ民族会議(ANC)の抵抗→アパルトヘイトの撤廃」という流れは想像がつくので、あとは肉付けをしていくだけです。

 

【2、南アフリカ連邦形成までの歴史的経緯を概観する】

:最初に、オランダによるケープ植民地建設から、イギリスの自治領である南アフリカ連邦形成までの流れを確認する必要があります。意外にウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領になっていることを把握していなかったりすることがあるので注意が必要です。基本的な流れは以下の通りとなります。

 

1652 オランダによるケープ植民地建設

1815 ウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領に

(ナポレオン戦争中に英が占領していたため、実質的には1806年から領有)

19世紀半ば トランスヴァール共和国、オレンジ自由国建国

      (圧迫されたオランダ系白人[ブール人]が北上したことによる)

19世紀後半 トランスヴァール共和国やオレンジ自由国で金・ダイヤモンドが発見される

       →ケープ植民地首相セシル=ローズの北上策(ローデシアの建設)

18991902  南アフリカ戦争

       →英植民地相ジョゼフ=チェンバレンの主導によるブール人国家の制圧

1910 南アフリカ連邦の形成(イギリスの自治領)

 

ただし、本設問においてはあくまで設問の中心はアパルトヘイトをめぐる動きです。ですから、こうしたケープ植民地(または南アフリカ連邦)をめぐる領有権の変遷については最小限にとどめ、これらの地域にオランダ系白人(ブール人/またはアフリカーナー)とイギリス系白人が住むようになったという事実を、本設問の指定語句にもある「白人少数者」である彼らが多数派の黒人を支配するにあたって人種隔離政策をとったことにつなげるように意識することが大切です。


南アフリカ連邦_名称つき

 

【3、アパルトヘイトとアフリカ民族会議】

:アパルトヘイトについて、受験生は「南アフリカで展開された人種隔離政策」ということまでは把握していると思いますが、意外にそのディテールまでは把握していなかったりします。アパルトヘイトが本格的に国の体制として整備されるのは第二次世界大戦後ですが、南アフリカ連邦が成立する頃からすでに実態としては白人の優越と黒人の隔離政策は始まっていました。人口比で言えば1割強ほどであったイギリス系・オランダ系の白人たちが支配階層となり、それ以外の有色人種(大半は黒人、一部インドなどのイギリス植民地からの移住者あり)を差別する形は、南アフリカ社会の様々な面で、長い時間をかけて作られていくことになります。

 

(アパルトヘイト)

:アパルトヘイトの具体的な差別・隔離の態様としては、

 

・黒人に対する経済的搾取(低賃金労働など)

・選挙権の制限、剥奪

・居住地の制限や隔離

・人種差別的な教育

・白人と非白人の性交渉・婚姻の禁止

 

などが挙げられます。

 また、黒人の居住区は次第に大規模に部族ごとに制限され、黒人居住区と白人居住区が分離されていきます。最終的には、黒人は部族ごとにホームランドと呼ばれる非常に狭い自治区に押し込められることになります。

 

(アフリカ民族会議[ANC]などによる抵抗運動)

:南アフリカの黒人たちは、こうした自治領政府の人種隔離政策に早くから反対し、1912年には南アフリカ先住民会議を組織し、その後これが1923年にアフリカ民族会議(ANCAfrican National Congress)に改称されました。当初は、インドのガンディーによる非暴力・不服従運動の影響を受けた非暴力主義的運動を展開しますが、第二次世界大戦後にアパルトヘイトの本格的な制度化が進むと性格を変えはじめ、ネルソン=マンデラなど若手の指導者を中心に1960年代ごろには武力闘争へと方針を転換していきます。これがきっかけでマンデラは逮捕され、その後30年近くにわたって獄中にとらわれました。

 もっとも、本設問ではこうした細かい内容は不要で、ANCがアパルトヘイトに対する抵抗運動を行ったことと、その指導者にマンデラがいたことが示されていれば十分だと思います。

 

(アパルトヘイトへの国際的な非難と撤廃まで)

① 国際的な批判と南アフリカ共和国の成立

:戦後にアパルトヘイトの本格的な制度化に乗り出した南アフリカ連邦に対し、国際社会は批判の目を向けていきます。特に、イギリス連邦はこれを強く非難したため、南アフリカ連邦は共和政に移行して南アフリカ共和国となり、1961年にイギリス連邦を離脱します。

 

② ソウェト蜂起(1976

:南アフリカでは1960年代から黒人の学生運動を中心とした権利要求運動が高まっていましたが、こうした南アフリカ政府がアフリカーンス語(オランダ系白人などの言語)を学校教育に導入することを決定すると、これに反発した黒人学生の抵抗運動とこれを弾圧する警察隊の間で衝突が生じ、暴動が拡大しました。この結果、多くの人々が死傷したため、南アフリカに対する国際社会の目は一層厳しいものになり、たびたび経済制裁などが課せられました。

 

③ 冷戦の終結とアパルトヘイト諸法の撤廃

:アパルトヘイト撤廃に大きな力となったのは、冷戦の終結でした。実は、南アフリカは様々な希少金属が産出される国なのですが、こうした希少金属の中にはソ連などの共産圏でしかまとまった量が産出されないものもあり、冷戦が展開されている中で南アフリカを完全に排除することは西側諸国にとって望ましいことではありませんでした。しかし、1980年代の後半に入り、冷戦終結への道筋がはっきりしてくると、国際社会の南アフリカに対する風当たりや経済制裁はさらに厳しいものとなりました。

 こうした中で、1989年に大統領となったデクラーク(白人)は従来の方針を転換し、アパルトヘイトの撤廃に向けて動き始めます。1990年には長らく獄中にいたマンデラを釈放し、さらに翌1991年にはアパルトヘイト関連諸法が廃止されてアパルトヘイトは法的に撤廃されました。その後、1994年には選挙権を取り戻した黒人たちなどの全人種参加による選挙が実施されて、マンデラが大統領となりました。このあたりの事情を知っていると映画『インビクタス』はより面白く見ることができます。

 

 さて、アパルトヘイトの撤廃までの流れは上記①~③までなのですが、当然これらを全て本設問に盛り込む必要はありません。もし書くとすれば、「南アフリカ共和国のイギリス連邦からの離脱」、「冷戦終結への動きとアパルトヘイトに対する国際批判の高まり」、「デクラークによるアパルトヘイト関連諸法の撤廃」あたりを考えると良いでしょう。本設問は「1990年代初頭の…大きな社会変革」とありますので、このアパルトヘイトの撤廃までで十分で、マンデラの大統領就任は基本的には不要だと思います。(書いても多分大きな差支えはない気がしますが。)

 

【補足:教科書・用語集などのアパルトヘイト関連記述】

:アパルトヘイトがらみの話というのは、世界史探究に限らず歴史総合などでも出て来ますし、中学高校生活をしていれば何らかの社会科科目で目にすることもあると思いますし、ちょっと問題意識を持っている人であれば、映画やら書籍やらマンガやらで関連するものを目にしたことのある方もいらっしゃるかと思いますので、別に厳密に教科書に従う必要もないとは思うのですが、一応教科書にはどの程度の記載があるのか確認してみたいと思います。

 

 また、第2次世界大戦後に南アフリカは、多数派である黒人を隔離するアパルトヘイト政策をとり、アフリカ民族会議(ANC)の抵抗や国際連合の経済制裁を受けてきたが、1980年代末に白人のデクラーク政権が政策の見直しを始めた。91年に差別法を全廃し、94年には平等な選挙権を認めた結果、アフリカ民族会議が過半数を制して、その指導者であるマンデラが大統領に当選した。

(『詳説世界史探究』、山川出版社、2023年、p.347

 

他にもp.3303行ほど記述がありますが、南アフリカでアパルトヘイトやってた程度の記述しかありません。用語集はもう少し記述がありましたが、用語などの情報量という面では大差ありません。

 

【解答例】

17世紀半ばに成立したオランダのケープ植民地がウィーン議定書で英領になると、オランダ系白人のブール人は北部にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国した。金やダイヤモンドの発見に伴い、イギリスはジョゼフ=チェンバレンが主導する南アフリカ戦争で両国を併合して自治領南アフリカ連邦を形成した。ブール人を含む白人少数者は黒人差別を強化し、第二次世界大戦後にアパルトヘイトとして本格化される人種隔離政策を進めた。これに批判的な英連邦を離脱して南アフリカ共和国を建国し、マンデラ率いるアフリカ民族会議を弾圧したが、冷戦が終結に向かう中で国際的批判が厳しくなると、デクラークはアパルトヘイト関連諸法を廃止した。(300字)

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2022年の早稲田法学部の論述問題は「北アジアおよび中央アジアのトルコ系民族集団の興亡」について問う問題でした。中央アジア史は一般的な受験生は十分に理解を進めるのが遅くなりがちな分野で、これが20年前に出題されたのであれば「エグイなぁ」と感じる設問だったかと思います。しかし、中央アジアに対する関心は年々高まってきています。同地域には石油・天然ガス・ウラン・レアメタルなど豊富な天然資源があることでもしられていますし、地政学上も重要な地域で、ヨーロッパへのエネルギー供給のためのパイプラインも通っているため、欧州の安定にも深くかかわっています。おそらく、こうした関心の高まりと、同地域の歴史研究の進展という双方の要因から、近年では中央アジアとその周辺を論述問題で出題する大学が増えてきています。何より、2022年は東大でも「トルキスタンの歴史的展開」が大論述で出題されましたので、今後中央アジア史をより丁寧に学習することが、難関大を受験する受験生には必要なことになってくると思われます。

また、2022年早稲田法学部の論述問題は、トルコ系民族をテーマとした出題でもありました。トルコ系民族やトルキスタンについては、2019年や2022年の東京大学大論述のテーマともなるなど、近年出題が増えている分野でもあります。時間が許せばですが、以前に早稲田法学部の出題傾向などでもお話した通り、早稲田法学部の論述の練習材料として東大の過去問に挑戦する(または問題と解答を見てどんなテーマがありうるのか確認しておく)ということも有用かなと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:6世紀から10世紀末(501年~1000年)

・北アジアおよび中央アジアのトルコ系民族集団の興亡と移動について説明せよ。

250字以上300字以内。

・指定語句(要下線)

:唐の建国 / 安史の乱 / キルギス / パミール高原 / イスラーム王朝

 

本設問では、時期だけではなく「北アジアおよび中央アジア」と「トルコ系民族」という地域的な限定と民族的な限定がされている点に注意を払う必要があります。

 

(北アジア)…通常、アルタイ山脈以北のシベリア地域を言う

(中央アジア)…通常、東西トルキスタンを中心とする地域を言う

 

【2、指定語句の整理】

:通常の高校世界史でよく登場するトルコ系民族の流れと言えば、「突厥→ウイグル→キルギス」かなと思います。とりあえず、頭の中で「突厥→ウイグル→ウイグルがキルギスに敗れた後に中央アジアに定住して同地がトルコ化、ついでにイスラーム化の流れかなぁ」という漠然としたイメージが即座に作れるのであればこの問題はかなり取り組みやすかったのではないかと思います。この流れが浮かんだのであれば、これをもとに指定語句とからめて肉付けをしていきます。この流れが浮かばない場合でも、まずは指定語句を確認して周辺知識の洗い出しや、時代順の並べ替えを進めていくことになるでしょう。

 

・唐の建国(618

:唐が建国された7世紀前半に北アジア~中央アジアにかけて存在したのは突厥です。ただし、この突厥はすでに東西に分裂(583)した後でした。設問は時期を「6世紀から」としていますので、もう少し前から突厥の様子を探る必要があります。また、上記の通り、突厥以降は「突厥→ウイグル→キルギス」(全てトルコ系民族)という形でうつり変わっていきます。これらのトルコ系民族の興亡についての簡単なまとめは以下の通りです。

 

(突厥以前)

 ・アルタイ山脈付近を起源とする遊牧民族

 ・丁零、高車などと呼ばれ、匈奴や柔然の支配下に置かれていた

 

(突厥)

 ①柔然(モンゴル系)から独立して建国[552、突厥第一帝国]

 ②エフタルを滅ぼしてパミール高原まで勢力を拡大
 ③建国当時、中国は南北朝時代

→隋が文帝[楊堅]によって中国を統一する過程で突厥は圧迫される。(東西に分裂)

 ④隋の滅亡による勢力回復と、唐の建国への協力

 ⑤唐の太宗[李世民]の時代に東突厥が平定される(630、天可汗の称号)

→唐は羈縻政策を導入

 ⑥唐の高宗の時代に西突厥滅亡(657

 ⑦世紀後半に唐に服属していた東突厥が自立化[682、突厥第二帝国]

 ⑧ウイグルによって滅亡(744
 
(ウイグル)

 ①744年に自立化、東突厥(突厥第二帝国)を滅ぼす

 ②安史の乱で唐に協力

 ③マニ教の信仰

 ④ソグド商人の保護

 ⑤キルギスによって滅ぶ(840

 ⑥以降、タリム盆地方面に移住、ソグド人と混血(中央アジアのトルコ化)

 

(キルギス)

 ウイグルを滅ぼす。その後は小部族が乱立、13世紀にモンゴル帝国の支配下に入る

 

・安史の乱(755763 

・キルギス

:これら二つの指定語句については、上述した箇所で使用すればOKです。

 

パミール高原

:東西トルキスタンを分ける地域です。

 

・イスラーム王朝

:中央アジアのイスラーム化は、ウマイヤ朝・アッバース朝やサーマーン朝の流入によって進んでいきます。サーマーン朝はイラン系の王朝ですが、サーマーン朝と言えば、よく「中央アジア初のイスラーム王朝」という形で紹介されることが多く、今でもよくフレーズとしては出てきます。これは、「初めて中央アジアを拠点として誕生(または自立化)したイスラーム王朝」という意味で、それまでに中央アジアにイスラーム王朝の支配や影響力が及んでいなかったというわけではありません。(もしそうであれば、「何でタラス河畔の戦い[751]が起こるんだ」ということになってしまいます。)最近は、教科書の記述もこの辺丁寧になってきていて、サーマーン朝について「中央アジア初のイスラーム王朝」という記述は減ってきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(2016年版、2022年印刷)では、「ソグド人」についてのコラムの中で、ソグド人の故地(サマルカンドとその一帯[西トルキスタン])についての記述で以下のように示されています。

 

 なお、ソグド人の故地では8世紀からウマイヤ朝のもとでイスラーム化がはじまり、サーマーン朝のもとでイスラーム教への改宗が進んだ。さらに10世紀のカラ=ハン朝以降トルコ化がすすみ、今日西トルキスタンと呼ばれる地域の一部となった。(東京書籍『世界史B2016年版、p.101

 

一方、上記の引用にも登場しますが、カラ=ハン朝の場合には「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」というフレーズでよく紹介されますし、多分今後もそのような形で出てくることになると思います。今回はトルコ系民族が求められている主題ですので、これはおさえておきたいですね。カラ=ハン朝は最近「カラハン朝」の表記も見られるようになってきましたが、まだ安定しません。(東京書籍版『世界史B』ではカラ=ハン朝ですが、山川の世界史用語集ではカラハン朝となっています。)まぁ、習ったときの表記で良いのではないでしょうか。

他に中央アジアと関係するイスラーム王朝というと、もし中央アジアにアフガニスタンを含めて考えるのであればガズナ朝を視野に入れても良いかもしれません。本設問では10世紀までとなっていますので、同じトルコ系でも11世紀以降に成立するセルジューク朝やゴール朝は含みません。

 すると、本設問に関係してきそうなイスラーム王朝はウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝・カラ=ハン朝・ガズナ朝あたりということになります。

 

【3、中央アジアのイスラーム王朝の整理】

:上記の通り、本設問に関連しそうなイスラーム王朝はウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝・カラ=ハン朝・ガズナ朝あたりということになります。もっとも、ウマイヤ朝については高校世界史ではほとんど中央アジアに関係する出来事の記述は出てきませんので、実質的にはアッバース朝の進出、つまりタラス河畔の戦いから考える形で良いと思います。また、トルコ系のイスラーム王朝が始まるのはカラ=ハン朝からです。そこで、これらのイスラーム王朝について、中央アジア(または北アジア)に関係する事柄を簡単にまとめてみたいと思います。

 

(アッバース朝)

751 タラス河畔の戦い

:西域に駐屯していた唐の高仙芝の圧力に対し、これに抵抗した西トルキスタンの部族が西に存在していたイスラーム勢力に援助を要請。これに応えたアッバース朝の総督が軍を派遣して唐の軍隊と交戦した戦い。製紙法西伝のきっかけとなった戦いとして有名だが、これ以降、特に西トルキスタン地域へのアッバース朝の影響力は拡大したが、実態としては現地の土着部族が同地を統治していた。

 

(サーマーン朝)

・「中央アジア初のイスラーム王朝」(イラン系)

:イスラームに改宗したイランの土着貴族がアッバース朝の総督(アミール)であったターヒル朝の下で勢力を拡大し、875年にアッバース朝から事実上独立。アッバース朝やサーマーン朝の頃からトルコ人軍人奴隷をマムルークとして導入することが増える。

 

(カラ=ハン朝)

・「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」

10世紀半ばに成立し、イスラームに改宗。サーマーン朝を滅ぼす。(999

 

(ガズナ朝)

:サーマーン朝のマムルーク出身であるアルプテギンが、10世紀後半(962)にアフガニスタンのガズナに建てた独立政権から発展したイスラーム王朝。 

 

【解答例】

モンゴル系柔然に支配されていたトルコ系民族の突厥は、6世紀に自立し、エフタルを滅ぼしてパミール高原まで勢力を拡大したが、東西に分裂し、唐の建国後は押され、東突厥は太宗に制圧され羈縻政策下に入り、西突厥は高宗により滅んだ。その後台頭したマニ教を奉ずるトルコ系ウイグルは、安史の乱鎮圧に協力し唐と友好を保ったが、キルギスに敗れて以降はタリム盆地周辺に定住してソグド人と混血し、同地のトルコ化が進んだ。同地では、タラス河畔の戦い以降、イラン系サーマーン朝などの進出が進み、トルコ人は軍人奴隷マムルークとしてイスラーム世界に導入された。10世紀には初のトルコ系イスラーム王朝カラハン朝がサーマーン朝を滅ぼした。(300字)

 

上記の解答にはガズナ朝は入れませんでした。要素としては中途半端かなぁと思ったので、バランス重視で削りましたけど、書いても別に間違いではないかなと思います。解答はえらい前に作ったのでほんのちょっぴり自信ないですが、自分で作ったはずw たしかw

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2021年の早稲田大学法学部の大論述は、テーマとしては極めてオーソドックスなものでした。18世紀の英仏対立や、オーストリアをめぐる問題は受験では頻出の箇所なので、ワセ法を受験するレベルの受験生であれば「知識として全く知らない」ということはおそらくなかったのではないかと思います。また、類題としては一橋大学の2019年Ⅱがかなり近い内容の出題をしておりますので、そちらも参考になるかと思います。今回のワセ法の問題と一橋2019Ⅱの問題の違いとしては、一橋が第二次百年戦争の開始[ファルツ継承戦争]やその背景からであるのに対して、ワセ法が1701[スペイン継承戦争]からであること、一橋の方は「英仏関係」や「世界史への影響」を問うているのに対し、ワセ法の方が英仏関係のみならず「英墺関係」も問うていること、(戦争を通しての)英仏関係、英墺関係の「変遷」について問うていることでしょう。ほぼ同一の内容を扱いつつも視点が異なりますので、それぞれでどういったアプローチをするべきか考えてみるのも良い練習になるかと思います。

注目すべき点としては、早稲田法学部の大論述で何よりもまず関係性の「変遷」を問う設問が2019年から3年続けて出題された点でしょう。(早稲田大学法学部の出題傾向についてはこちら。)こうした関係性の「変遷」を問う設問は従来から東京大学が好んで出題してきたスタイルですが、以前からお話している通り、ワセ法でもここ10年くらいで積極的に取り入れられるようになりました。そのため、授業で習った知識をただ羅列すればよいというスタイルの論述ではなく、設問の意図・指示にそって自分の頭の中で適切に情報を整理して書くことが要求されるものになっています。そうした意味で、ワセ法の論述の難度は確実に上がっていると思います。ただ、テーマ自体は多くの場合基本的なものを要求されています。字数は300字と東京大学などの600字論述と比べるとかなりコンパクトなので、冗長に書いてしまうと字数を簡単にオーバーしてしまいます。必要な情報は何かをしっかり確認して、できるだけ多く加点要素を文章の中に織り込む技術が必要になるでしょう。

また、時代的には18世紀史ということで、やはり近現代史は多く出題される傾向にあります。(2010年~2022年では、17世紀以降の歴史からの出題が全13回中11回(ただし、17世紀以前の歴史からの出題があった2回は2019年と2022年と、直近では近現代史以外からの出題も増えていることには注意が必要です。)

 

【1、設問確認】

・時期:17011763

・フランスおよびオーストリアに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

スペイン / プロイセン / 外交革命 / フレンチ=インディアン戦争

 

:本設問の解答を作成するにあたって重要な点は、二つのことが答えとして求められていることをしっかりと把握することです。すなわち、

 ① フランスに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

 ② オーストリアに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

2点です。つまり、単なる英仏対立や植民地戦争、またはオーストリアとプロイセンの対立といった「ありがちな」18世紀国際政治史ではなく、イギリスがフランスとオーストリアに対して、どのような外交的姿勢を取り、それらがどのように「変化」したのかを示せ、と言っているわけです。いつも申し上げることではありますが、設問の求めているものをしっかりと確認して、そこから外れないようにすることが一番大切です。

 

【2、該当時期のヨーロッパの戦争、外交を整理】

:求められているのはイギリスのフランス・オーストリアに対する立場の変遷ですが、対外的立場というのは二国間のみの関係によって成立するものではありません。また、18世紀の国際政治は多くの戦争とそれにともなう関係の調整がたびたび起こった時代でもありますから、まずは18世紀の国際関係を大きく変動させたいくつかの戦争に注目することが必要です。

 この点、設問が1701年~1763年を時期として指定していることは非常に示唆的です。なぜかと言えば、1701年はスペイン継承戦争(17011713/14)の始まった年ですし、七年戦争が終わった年でもあります。いわゆる「第二次英仏百年戦争」の前半部分を中心とした時期ですので、方針としては「スペイン継承戦争」、「オーストリア継承戦争」、「七年戦争」とこれらと連動した植民地戦争についてまずは情報を整理した上で、その中から特にイギリス・フランス関係ならびにイギリス・オーストリア関係についてどのような「変遷」があったのかを確認するというのが良いかと思います。どの戦争も受験頻出のよく出てくるテーマではありますが、どのくらいしっかりと把握できているかということが、解答の出来の差に直結してくる気がします。要求されている知識は頻出の基本的知識ばかりですが、それらを正確に出して整序するとなるとそれなりの力が要求されます。受験生の力量をはっきりと見定められる良問ではないでしょうか。

 では、以下では「スペイン継承戦争」、「オーストリア継承戦争」、「七年戦争」とそれに関連する情報を整理しておきたいと思います。表中、ピンクで示してあるところは本設問にかかわらず受験で良く出題される内容で、基本事項です。まずはこちらがきちんと頭の中で整理できているかどうかを確認しておくと良いかと思います。

画像1 - コピー

A、スペイン継承戦争(17011713/1714

[基本的な構図]

  英(+墺、普など) vs 仏・西

[連動していた植民地戦争など] 

アン女王戦争(@北米)

[講和条約]

 ① 1713年 ユトレヒト条約

(主な内容)

・アカディア・ニューファンドランド・ハドソン湾地方割譲(仏→英)

・ジブラルタル・ミノルカ島割譲(西→英)

   ・アシエント特権を認める(西→英)

   ・スペインのフェリペ5世即位承認(スペイン=ブルボン朝成立)

   ・スペインとフランスの合邦禁止

・プロイセン公国が王号を承認される

② 1714年 ラシュタット条約

(主な内容)

・南ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルディニアなどを墺へ

 (旧スペイン=ハプスブルク領の多くがオーストリアへ)

 

:ユトレヒト条約については過去にもあちこちで書いています。(「一橋2019Ⅱ」「ユトレヒト条約は中身まで覚える!」など。) 内容も含めて頻出ですが、ストーリーを確認しておさえれば思い出しやすくなりますので、過去記事も参考にしてみてください。イギリスとフランス(+スペイン)の間の戦争はこの条約で終結します。

:ラシュタット条約はハプスブルク家とフランスの間で締結された条約です。この条約により、スペイン=ハプスブルク家が所有していたヨーロッパ各地の所領は、オーストリア=ハプスブルク家が所有することが確認されました。このあたりをしっかり把握できていると「なぜかつてスペイン領だった南ネーデルラント(オランダ独立戦争を思い出してみてください。)が、ウィーン会議においてはオーストリアからオランダに譲られることになるのか」や、「なぜリソルジメント(イタリア統一運動)において、ロンバルディア(ミラノ)がオーストリアとサルディニアの係争地となるのか」などについて、より深みのある理解をすることができます。

 

B、オーストリア継承戦争(174048

[基本的な構図]

 墺・英 vs 普・仏

[連動していた植民地戦争など]

 ・ジェンキンズの耳の戦争(@西インド諸島)

・ジョージ王戦争(@北米)

・第1次カーナティック戦争(@インド)

cf.) マドラスとポンディシェリ / デュプレクス

[講和条約]

 1748年 アーヘンの和約

(主な内容)

・シュレジェンの割譲(墺→普)

   ・プラグマティシュ=ザンクティオン(王位継承法)承認

    →マリア=テレジアのハプスブルク家の家督相続を承認

    (皇帝位は夫のフランツ1世)

   ・植民地については占領地の相互交換

 

:オーストリア継承戦争では植民地の移動などは起こりませんでした。主な内容はオーストリアからプロイセンへのシュレジェン割譲やマリア=テレジアのハプスブルク家継承確認などとなります。本設問では、戦後の処理よりはむしろ戦争中の対立・協力関係を確認しておくことの方が重要です。

 

C、七年戦争(175663

[基本的な構図]

墺・仏 vs 普・英 (外交革命)

[連動していた植民地戦争など]

 ・フレンチ=インディアン戦争(@北米)

 ・プラッシーの戦い(@インド)

・第3次カーナティック戦争(@インド)

・ブクサールの戦い(@インド)

[講和条約]

 ① 1763年 フベルトゥスブルク条約(墺・普)

(主な内容)

・シュレジェンをプロイセンが維持

② 1763年 パリ条約(英・仏)

(主な内容)

・カナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ割譲(仏→英)

   ・フロリダ割譲(西→英)

   ・ミシシッピ以西のルイジアナ割譲(仏→西)

   ・インドにおけるイギリスの優越権

 

:七年戦争では、重要な国際関係上の変化として「外交革命」があります。これにより、フランスがヴァロワ家であったころから続いていたハプスブルク家との対立は解消され、同盟関係へと変化していきます。これにともない、フランスと対立していたイギリスも立ち位置を変え、それまで協力関係にあったオーストリアと敵対し、プロイセンと協力することになります。対外関係の変遷を問う本設問ではこの部分が最重要項目だと思います。

七年戦争後は、フランスの勢力が北米から一掃されます。また、インドについてもイギリスがフランスに対する優勢を決定づけることになりました。本設問ではこの部分も強調しておくべき点ですね。

 

【3、仏と墺に対する対外的立場の変遷を確認】

:上記の【2、該当時期のヨーロッパの戦争、外交を整理】で示した内容をもとに、イギリスのフランスに対する対外的立場の変遷、またイギリスのオーストリアに対する対外的立場の変遷を確認すると、概ね以下のようになるかと思います。

早稲田法学部2021_英仏墺関係図 - コピー

 当時の国際関係の変遷が本当にこれら3つの戦争だけで説明できるのか、と言われればまぁ、他にも考えるべきことはあるのかもしれませんが、少なくとも高校や大学受験で学習する「世界史B」の情報をもとにするのであればこの流れで書くのが妥当かと思います。一番大切なことは、戦争・講和条約やその内容を書き連ねただけでイギリスと仏・墺との関係に言及した気になってしまうことがないようにすることだと思います。

 

【解答例】

 スペイン継承戦争で、ブルボン家の勢力拡大を警戒する英・墺は協力して仏に対抗し、ユトレヒト条約でフェリペ5世のスペイン王即位を承認したものの、仏・西の合邦を禁止し、英は仏からアカディア・ニューファンドランド・ハドソン湾地方を獲得した。マリア=テレジア即位にプロイセンが反対したことで起こったオーストリア継承戦争でも、英は墺と協力し、仏とジョージ王戦争やカーナティック戦争を戦ったが、占領地はアーヘンの和約で返還された。仏・墺が外交革命で同盟した七年戦争では、英は墺と敵対し、仏とのフレンチ=インディアン戦争やプラッシーの戦いに勝利し、パリ条約で北米とインドの優越権を獲得して仏との植民地戦争に勝利した。(300字)

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以下が、2010年から2021年にかけて、早稲田大学法学部大問5の論述問題として出題された問題のテーマ・字数・時期の一覧になります。
2021_2010法学部論述出題 - コピー
出題傾向等については、過去の出題傾向に関する記事や、各年の過去問解説の方で言及しておりますので、そちらも併せてご覧ください。
前に出題傾向分析を行った時と大きな違いは今のところ見られませんが、気になる点があるとすれば以下の通りです。

 

2019年に珍しく中世をテーマとした設問が出題された

:早稲田では珍しく、この都市は中世をテーマにした設問が出題されました。2010年以降という長いスパンで見れば12年の中で1年だけなので、極めて珍しいと言えますが、過去5年であれば5分の1、過去3年で見れば3分の1ということになりますので、「近現代史以外は決して出ない」とは言えません。以前からあちこちでお話ししている通り、傾向はあくまで傾向であって、絶対にそうなるというものではないので注意が必要です。

 ただし、2019年の問題は中世からの出題ではありましたが、基本的には叙任権などをめぐる聖俗両権の争いという極めて基本的な内容の出題でしたので、過度に気にする必要はないかと思います。

 

2020年の「米墨関係の変遷」は受験生にはややなじみのないテーマであった

:早稲田法学部では、2017年ごろからやや東大チックな、近現代の国際関係を問う出題や、複数の要素を対比し、関係性を問おうとする出題がされ始めていますが、一方でテーマ自体は世界史の王道的テーマが多く、ほとんどの受験生が授業等で深く学習したことがあると思われる設問でしたが、この2020年の問題だけはややそうした傾向とは異質な感じのする出題でした。

 

以上の①・②についてやや気にかかるところではありますが、現状では2019年・2020年の出題がやや浮いている感じがします。全体的な出題傾向については大きな変化はなく、今後も近現代史を中心に国際関係や複数の要素の関係性・変遷を問う設問が出題されると考えて差し支えないのではないでしょうか。

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