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カテゴリ: 早稲田大学「世界史」論述対策

2022年の早稲田法学部の論述問題は「北アジアおよび中央アジアのトルコ系民族集団の興亡」について問う問題でした。中央アジア史は一般的な受験生は十分に理解を進めるのが遅くなりがちな分野で、これが20年前に出題されたのであれば「エグイなぁ」と感じる設問だったかと思います。しかし、中央アジアに対する関心は年々高まってきています。同地域には石油・天然ガス・ウラン・レアメタルなど豊富な天然資源があることでもしられていますし、地政学上も重要な地域で、ヨーロッパへのエネルギー供給のためのパイプラインも通っているため、欧州の安定にも深くかかわっています。おそらく、こうした関心の高まりと、同地域の歴史研究の進展という双方の要因から、近年では中央アジアとその周辺を論述問題で出題する大学が増えてきています。何より、2022年は東大でも「トルキスタンの歴史的展開」が大論述で出題されましたので、今後中央アジア史をより丁寧に学習することが、難関大を受験する受験生には必要なことになってくると思われます。

また、2022年早稲田法学部の論述問題は、トルコ系民族をテーマとした出題でもありました。トルコ系民族やトルキスタンについては、2019年や2022年の東京大学大論述のテーマともなるなど、近年出題が増えている分野でもあります。時間が許せばですが、以前に早稲田法学部の出題傾向などでもお話した通り、早稲田法学部の論述の練習材料として東大の過去問に挑戦する(または問題と解答を見てどんなテーマがありうるのか確認しておく)ということも有用かなと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:6世紀から10世紀末(501年~1000年)

・北アジアおよび中央アジアのトルコ系民族集団の興亡と移動について説明せよ。

250字以上300字以内。

・指定語句(要下線)

:唐の建国 / 安史の乱 / キルギス / パミール高原 / イスラーム王朝

 

本設問では、時期だけではなく「北アジアおよび中央アジア」と「トルコ系民族」という地域的な限定と民族的な限定がされている点に注意を払う必要があります。

 

(北アジア)…通常、アルタイ山脈以北のシベリア地域を言う

(中央アジア)…通常、東西トルキスタンを中心とする地域を言う

 

【2、指定語句の整理】

:通常の高校世界史でよく登場するトルコ系民族の流れと言えば、「突厥→ウイグル→キルギス」かなと思います。とりあえず、頭の中で「突厥→ウイグル→ウイグルがキルギスに敗れた後に中央アジアに定住して同地がトルコ化、ついでにイスラーム化の流れかなぁ」という漠然としたイメージが即座に作れるのであればこの問題はかなり取り組みやすかったのではないかと思います。この流れが浮かんだのであれば、これをもとに指定語句とからめて肉付けをしていきます。この流れが浮かばない場合でも、まずは指定語句を確認して周辺知識の洗い出しや、時代順の並べ替えを進めていくことになるでしょう。

 

・唐の建国(618

:唐が建国された7世紀前半に北アジア~中央アジアにかけて存在したのは突厥です。ただし、この突厥はすでに東西に分裂(583)した後でした。設問は時期を「6世紀から」としていますので、もう少し前から突厥の様子を探る必要があります。また、上記の通り、突厥以降は「突厥→ウイグル→キルギス」(全てトルコ系民族)という形でうつり変わっていきます。これらのトルコ系民族の興亡についての簡単なまとめは以下の通りです。

 

(突厥以前)

 ・アルタイ山脈付近を起源とする遊牧民族

 ・丁零、高車などと呼ばれ、匈奴や柔然の支配下に置かれていた

 

(突厥)

 ①柔然(モンゴル系)から独立して建国[552、突厥第一帝国]

 ②エフタルを滅ぼしてパミール高原まで勢力を拡大
 ③建国当時、中国は南北朝時代

→隋が文帝[楊堅]によって中国を統一する過程で突厥は圧迫される。(東西に分裂)

 ④隋の滅亡による勢力回復と、唐の建国への協力

 ⑤唐の太宗[李世民]の時代に東突厥が平定される(630、天可汗の称号)

→唐は羈縻政策を導入

 ⑥唐の高宗の時代に西突厥滅亡(657

 ⑦世紀後半に唐に服属していた東突厥が自立化[682、突厥第二帝国]

 ⑧ウイグルによって滅亡(744
 
(ウイグル)

 ①744年に自立化、東突厥(突厥第二帝国)を滅ぼす

 ②安史の乱で唐に協力

 ③マニ教の信仰

 ④ソグド商人の保護

 ⑤キルギスによって滅ぶ(840

 ⑥以降、タリム盆地方面に移住、ソグド人と混血(中央アジアのトルコ化)

 

(キルギス)

 ウイグルを滅ぼす。その後は小部族が乱立、13世紀にモンゴル帝国の支配下に入る

 

・安史の乱(755763 

・キルギス

:これら二つの指定語句については、上述した箇所で使用すればOKです。

 

パミール高原

:東西トルキスタンを分ける地域です。

 

・イスラーム王朝

:中央アジアのイスラーム化は、ウマイヤ朝・アッバース朝やサーマーン朝の流入によって進んでいきます。サーマーン朝はイラン系の王朝ですが、サーマーン朝と言えば、よく「中央アジア初のイスラーム王朝」という形で紹介されることが多く、今でもよくフレーズとしては出てきます。これは、「初めて中央アジアを拠点として誕生(または自立化)したイスラーム王朝」という意味で、それまでに中央アジアにイスラーム王朝の支配や影響力が及んでいなかったというわけではありません。(もしそうであれば、「何でタラス河畔の戦い[751]が起こるんだ」ということになってしまいます。)最近は、教科書の記述もこの辺丁寧になってきていて、サーマーン朝について「中央アジア初のイスラーム王朝」という記述は減ってきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(2016年版、2022年印刷)では、「ソグド人」についてのコラムの中で、ソグド人の故地(サマルカンドとその一帯[西トルキスタン])についての記述で以下のように示されています。

 

 なお、ソグド人の故地では8世紀からウマイヤ朝のもとでイスラーム化がはじまり、サーマーン朝のもとでイスラーム教への改宗が進んだ。さらに10世紀のカラ=ハン朝以降トルコ化がすすみ、今日西トルキスタンと呼ばれる地域の一部となった。(東京書籍『世界史B2016年版、p.101

 

一方、上記の引用にも登場しますが、カラ=ハン朝の場合には「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」というフレーズでよく紹介されますし、多分今後もそのような形で出てくることになると思います。今回はトルコ系民族が求められている主題ですので、これはおさえておきたいですね。カラ=ハン朝は最近「カラハン朝」の表記も見られるようになってきましたが、まだ安定しません。(東京書籍版『世界史B』ではカラ=ハン朝ですが、山川の世界史用語集ではカラハン朝となっています。)まぁ、習ったときの表記で良いのではないでしょうか。

他に中央アジアと関係するイスラーム王朝というと、もし中央アジアにアフガニスタンを含めて考えるのであればガズナ朝を視野に入れても良いかもしれません。本設問では10世紀までとなっていますので、同じトルコ系でも11世紀以降に成立するセルジューク朝やゴール朝は含みません。

 すると、本設問に関係してきそうなイスラーム王朝はウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝・カラ=ハン朝・ガズナ朝あたりということになります。

 

【3、中央アジアのイスラーム王朝の整理】

:上記の通り、本設問に関連しそうなイスラーム王朝はウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝・カラ=ハン朝・ガズナ朝あたりということになります。もっとも、ウマイヤ朝については高校世界史ではほとんど中央アジアに関係する出来事の記述は出てきませんので、実質的にはアッバース朝の進出、つまりタラス河畔の戦いから考える形で良いと思います。また、トルコ系のイスラーム王朝が始まるのはカラ=ハン朝からです。そこで、これらのイスラーム王朝について、中央アジア(または北アジア)に関係する事柄を簡単にまとめてみたいと思います。

 

(アッバース朝)

751 タラス河畔の戦い

:西域に駐屯していた唐の高仙芝の圧力に対し、これに抵抗した西トルキスタンの部族が西に存在していたイスラーム勢力に援助を要請。これに応えたアッバース朝の総督が軍を派遣して唐の軍隊と交戦した戦い。製紙法西伝のきっかけとなった戦いとして有名だが、これ以降、特に西トルキスタン地域へのアッバース朝の影響力は拡大したが、実態としては現地の土着部族が同地を統治していた。

 

(サーマーン朝)

・「中央アジア初のイスラーム王朝」(イラン系)

:イスラームに改宗したイランの土着貴族がアッバース朝の総督(アミール)であったターヒル朝の下で勢力を拡大し、875年にアッバース朝から事実上独立。アッバース朝やサーマーン朝の頃からトルコ人軍人奴隷をマムルークとして導入することが増える。

 

(カラ=ハン朝)

・「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」

10世紀半ばに成立し、イスラームに改宗。サーマーン朝を滅ぼす。(999

 

(ガズナ朝)

:サーマーン朝のマムルーク出身であるアルプテギンが、10世紀後半(962)にアフガニスタンのガズナに建てた独立政権から発展したイスラーム王朝。 

 

【解答例】

モンゴル系柔然に支配されていたトルコ系民族の突厥は、6世紀に自立し、エフタルを滅ぼしてパミール高原まで勢力を拡大したが、東西に分裂し、唐の建国後は押され、東突厥は太宗に制圧され羈縻政策下に入り、西突厥は高宗により滅んだ。その後台頭したマニ教を奉ずるトルコ系ウイグルは、安史の乱鎮圧に協力し唐と友好を保ったが、キルギスに敗れて以降はタリム盆地周辺に定住してソグド人と混血し、同地のトルコ化が進んだ。同地では、タラス河畔の戦い以降、イラン系サーマーン朝などの進出が進み、トルコ人は軍人奴隷マムルークとしてイスラーム世界に導入された。10世紀には初のトルコ系イスラーム王朝カラハン朝がサーマーン朝を滅ぼした。(300字)

 

上記の解答にはガズナ朝は入れませんでした。要素としては中途半端かなぁと思ったので、バランス重視で削りましたけど、書いても別に間違いではないかなと思います。解答はえらい前に作ったのでほんのちょっぴり自信ないですが、自分で作ったはずw たしかw

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2021年の早稲田大学法学部の大論述は、テーマとしては極めてオーソドックスなものでした。18世紀の英仏対立や、オーストリアをめぐる問題は受験では頻出の箇所なので、ワセ法を受験するレベルの受験生であれば「知識として全く知らない」ということはおそらくなかったのではないかと思います。また、類題としては一橋大学の2019年Ⅱがかなり近い内容の出題をしておりますので、そちらも参考になるかと思います。今回のワセ法の問題と一橋2019Ⅱの問題の違いとしては、一橋が第二次百年戦争の開始[ファルツ継承戦争]やその背景からであるのに対して、ワセ法が1701[スペイン継承戦争]からであること、一橋の方は「英仏関係」や「世界史への影響」を問うているのに対し、ワセ法の方が英仏関係のみならず「英墺関係」も問うていること、(戦争を通しての)英仏関係、英墺関係の「変遷」について問うていることでしょう。ほぼ同一の内容を扱いつつも視点が異なりますので、それぞれでどういったアプローチをするべきか考えてみるのも良い練習になるかと思います。

注目すべき点としては、早稲田法学部の大論述で何よりもまず関係性の「変遷」を問う設問が2019年から3年続けて出題された点でしょう。(早稲田大学法学部の出題傾向についてはこちら。)こうした関係性の「変遷」を問う設問は従来から東京大学が好んで出題してきたスタイルですが、以前からお話している通り、ワセ法でもここ10年くらいで積極的に取り入れられるようになりました。そのため、授業で習った知識をただ羅列すればよいというスタイルの論述ではなく、設問の意図・指示にそって自分の頭の中で適切に情報を整理して書くことが要求されるものになっています。そうした意味で、ワセ法の論述の難度は確実に上がっていると思います。ただ、テーマ自体は多くの場合基本的なものを要求されています。字数は300字と東京大学などの600字論述と比べるとかなりコンパクトなので、冗長に書いてしまうと字数を簡単にオーバーしてしまいます。必要な情報は何かをしっかり確認して、できるだけ多く加点要素を文章の中に織り込む技術が必要になるでしょう。

また、時代的には18世紀史ということで、やはり近現代史は多く出題される傾向にあります。(2010年~2022年では、17世紀以降の歴史からの出題が全13回中11回(ただし、17世紀以前の歴史からの出題があった2回は2019年と2022年と、直近では近現代史以外からの出題も増えていることには注意が必要です。)

 

【1、設問確認】

・時期:17011763

・フランスおよびオーストリアに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

スペイン / プロイセン / 外交革命 / フレンチ=インディアン戦争

 

:本設問の解答を作成するにあたって重要な点は、二つのことが答えとして求められていることをしっかりと把握することです。すなわち、

 ① フランスに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

 ② オーストリアに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

2点です。つまり、単なる英仏対立や植民地戦争、またはオーストリアとプロイセンの対立といった「ありがちな」18世紀国際政治史ではなく、イギリスがフランスとオーストリアに対して、どのような外交的姿勢を取り、それらがどのように「変化」したのかを示せ、と言っているわけです。いつも申し上げることではありますが、設問の求めているものをしっかりと確認して、そこから外れないようにすることが一番大切です。

 

【2、該当時期のヨーロッパの戦争、外交を整理】

:求められているのはイギリスのフランス・オーストリアに対する立場の変遷ですが、対外的立場というのは二国間のみの関係によって成立するものではありません。また、18世紀の国際政治は多くの戦争とそれにともなう関係の調整がたびたび起こった時代でもありますから、まずは18世紀の国際関係を大きく変動させたいくつかの戦争に注目することが必要です。

 この点、設問が1701年~1763年を時期として指定していることは非常に示唆的です。なぜかと言えば、1701年はスペイン継承戦争(17011713/14)の始まった年ですし、七年戦争が終わった年でもあります。いわゆる「第二次英仏百年戦争」の前半部分を中心とした時期ですので、方針としては「スペイン継承戦争」、「オーストリア継承戦争」、「七年戦争」とこれらと連動した植民地戦争についてまずは情報を整理した上で、その中から特にイギリス・フランス関係ならびにイギリス・オーストリア関係についてどのような「変遷」があったのかを確認するというのが良いかと思います。どの戦争も受験頻出のよく出てくるテーマではありますが、どのくらいしっかりと把握できているかということが、解答の出来の差に直結してくる気がします。要求されている知識は頻出の基本的知識ばかりですが、それらを正確に出して整序するとなるとそれなりの力が要求されます。受験生の力量をはっきりと見定められる良問ではないでしょうか。

 では、以下では「スペイン継承戦争」、「オーストリア継承戦争」、「七年戦争」とそれに関連する情報を整理しておきたいと思います。表中、ピンクで示してあるところは本設問にかかわらず受験で良く出題される内容で、基本事項です。まずはこちらがきちんと頭の中で整理できているかどうかを確認しておくと良いかと思います。

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A、スペイン継承戦争(17011713/1714

[基本的な構図]

  英(+墺、普など) vs 仏・西

[連動していた植民地戦争など] 

アン女王戦争(@北米)

[講和条約]

 ① 1713年 ユトレヒト条約

(主な内容)

・アカディア・ニューファンドランド・ハドソン湾地方割譲(仏→英)

・ジブラルタル・ミノルカ島割譲(西→英)

   ・アシエント特権を認める(西→英)

   ・スペインのフェリペ5世即位承認(スペイン=ブルボン朝成立)

   ・スペインとフランスの合邦禁止

・プロイセン公国が王号を承認される

② 1714年 ラシュタット条約

(主な内容)

・南ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルディニアなどを墺へ

 (旧スペイン=ハプスブルク領の多くがオーストリアへ)

 

:ユトレヒト条約については過去にもあちこちで書いています。(「一橋2019Ⅱ」「ユトレヒト条約は中身まで覚える!」など。) 内容も含めて頻出ですが、ストーリーを確認しておさえれば思い出しやすくなりますので、過去記事も参考にしてみてください。イギリスとフランス(+スペイン)の間の戦争はこの条約で終結します。

:ラシュタット条約はハプスブルク家とフランスの間で締結された条約です。この条約により、スペイン=ハプスブルク家が所有していたヨーロッパ各地の所領は、オーストリア=ハプスブルク家が所有することが確認されました。このあたりをしっかり把握できていると「なぜかつてスペイン領だった南ネーデルラント(オランダ独立戦争を思い出してみてください。)が、ウィーン会議においてはオーストリアからオランダに譲られることになるのか」や、「なぜリソルジメント(イタリア統一運動)において、ロンバルディア(ミラノ)がオーストリアとサルディニアの係争地となるのか」などについて、より深みのある理解をすることができます。

 

B、オーストリア継承戦争(174048

[基本的な構図]

 墺・英 vs 普・仏

[連動していた植民地戦争など]

 ・ジェンキンズの耳の戦争(@西インド諸島)

・ジョージ王戦争(@北米)

・第1次カーナティック戦争(@インド)

cf.) マドラスとポンディシェリ / デュプレクス

[講和条約]

 1748年 アーヘンの和約

(主な内容)

・シュレジェンの割譲(墺→普)

   ・プラグマティシュ=ザンクティオン(王位継承法)承認

    →マリア=テレジアのハプスブルク家の家督相続を承認

    (皇帝位は夫のフランツ1世)

   ・植民地については占領地の相互交換

 

:オーストリア継承戦争では植民地の移動などは起こりませんでした。主な内容はオーストリアからプロイセンへのシュレジェン割譲やマリア=テレジアのハプスブルク家継承確認などとなります。本設問では、戦後の処理よりはむしろ戦争中の対立・協力関係を確認しておくことの方が重要です。

 

C、七年戦争(175663

[基本的な構図]

墺・仏 vs 普・英 (外交革命)

[連動していた植民地戦争など]

 ・フレンチ=インディアン戦争(@北米)

 ・プラッシーの戦い(@インド)

・第3次カーナティック戦争(@インド)

・ブクサールの戦い(@インド)

[講和条約]

 ① 1763年 フベルトゥスブルク条約(墺・普)

(主な内容)

・シュレジェンをプロイセンが維持

② 1763年 パリ条約(英・仏)

(主な内容)

・カナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ割譲(仏→英)

   ・フロリダ割譲(西→英)

   ・ミシシッピ以西のルイジアナ割譲(仏→西)

   ・インドにおけるイギリスの優越権

 

:七年戦争では、重要な国際関係上の変化として「外交革命」があります。これにより、フランスがヴァロワ家であったころから続いていたハプスブルク家との対立は解消され、同盟関係へと変化していきます。これにともない、フランスと対立していたイギリスも立ち位置を変え、それまで協力関係にあったオーストリアと敵対し、プロイセンと協力することになります。対外関係の変遷を問う本設問ではこの部分が最重要項目だと思います。

七年戦争後は、フランスの勢力が北米から一掃されます。また、インドについてもイギリスがフランスに対する優勢を決定づけることになりました。本設問ではこの部分も強調しておくべき点ですね。

 

【3、仏と墺に対する対外的立場の変遷を確認】

:上記の【2、該当時期のヨーロッパの戦争、外交を整理】で示した内容をもとに、イギリスのフランスに対する対外的立場の変遷、またイギリスのオーストリアに対する対外的立場の変遷を確認すると、概ね以下のようになるかと思います。

早稲田法学部2021_英仏墺関係図 - コピー

 当時の国際関係の変遷が本当にこれら3つの戦争だけで説明できるのか、と言われればまぁ、他にも考えるべきことはあるのかもしれませんが、少なくとも高校や大学受験で学習する「世界史B」の情報をもとにするのであればこの流れで書くのが妥当かと思います。一番大切なことは、戦争・講和条約やその内容を書き連ねただけでイギリスと仏・墺との関係に言及した気になってしまうことがないようにすることだと思います。

 

【解答例】

 スペイン継承戦争で、ブルボン家の勢力拡大を警戒する英・墺は協力して仏に対抗し、ユトレヒト条約でフェリペ5世のスペイン王即位を承認したものの、仏・西の合邦を禁止し、英は仏からアカディア・ニューファンドランド・ハドソン湾地方を獲得した。マリア=テレジア即位にプロイセンが反対したことで起こったオーストリア継承戦争でも、英は墺と協力し、仏とジョージ王戦争やカーナティック戦争を戦ったが、占領地はアーヘンの和約で返還された。仏・墺が外交革命で同盟した七年戦争では、英は墺と敵対し、仏とのフレンチ=インディアン戦争やプラッシーの戦いに勝利し、パリ条約で北米とインドの優越権を獲得して仏との植民地戦争に勝利した。(300字)

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以下が、2010年から2021年にかけて、早稲田大学法学部大問5の論述問題として出題された問題のテーマ・字数・時期の一覧になります。
2021_2010法学部論述出題 - コピー
出題傾向等については、過去の出題傾向に関する記事や、各年の過去問解説の方で言及しておりますので、そちらも併せてご覧ください。
前に出題傾向分析を行った時と大きな違いは今のところ見られませんが、気になる点があるとすれば以下の通りです。

 

2019年に珍しく中世をテーマとした設問が出題された

:早稲田では珍しく、この都市は中世をテーマにした設問が出題されました。2010年以降という長いスパンで見れば12年の中で1年だけなので、極めて珍しいと言えますが、過去5年であれば5分の1、過去3年で見れば3分の1ということになりますので、「近現代史以外は決して出ない」とは言えません。以前からあちこちでお話ししている通り、傾向はあくまで傾向であって、絶対にそうなるというものではないので注意が必要です。

 ただし、2019年の問題は中世からの出題ではありましたが、基本的には叙任権などをめぐる聖俗両権の争いという極めて基本的な内容の出題でしたので、過度に気にする必要はないかと思います。

 

2020年の「米墨関係の変遷」は受験生にはややなじみのないテーマであった

:早稲田法学部では、2017年ごろからやや東大チックな、近現代の国際関係を問う出題や、複数の要素を対比し、関係性を問おうとする出題がされ始めていますが、一方でテーマ自体は世界史の王道的テーマが多く、ほとんどの受験生が授業等で深く学習したことがあると思われる設問でしたが、この2020年の問題だけはややそうした傾向とは異質な感じのする出題でした。

 

以上の①・②についてやや気にかかるところではありますが、現状では2019年・2020年の出題がやや浮いている感じがします。全体的な出題傾向については大きな変化はなく、今後も近現代史を中心に国際関係や複数の要素の関係性・変遷を問う設問が出題されると考えて差し支えないのではないでしょうか。

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 2020年の早大法学部論述はかなり変化球を出してきたなという印象でした。過去11年間の出題を見ても、近現代ヨーロッパまたは中国史が中心です。2019年の設問は時代について従来の傾向から外れてきましたが、それでも王道の設問であったので対処できる受験生も多かったのではないかと思えますが、2020年の本設問では受験会場で目が点になった人、天を仰いで神を呪った人などかなりいたのではないかと思います。

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 ただ、メキシコ史については確かに細かいディテールまで抑えている受験生は少なかったのではないかと思いますが、指定語句とその周辺についてある程度まとめていくことで対処できた受験生も一定数いたのではないかと思います。特に、本設問は正確にはメキシコ史ではなく、「アメリカ合衆国との関係」を問う問題でしたので、むしろアメリカ合衆国の歴史を通して知識として身についていた部分も多かったのではないでしょうか。

 本設問について少し注意しておきたいところがあるとすれば、メキシコ革命あたりでしょうか。感覚的にですが、近年メキシコ革命のディテールを問う設問が以前よりも増えてきている印象があります。メキシコ革命については『詳説世界史研究』などでもかなり細かいところまで説明されてきていますので、情報量の拡大が出題の増加につながっている部分もあるのかもしれません。また、これまでと同様「変遷」というテーマでの出題になっています。ただ、本設問の「変遷」は少しとってつけた感がないこともありません。米墨関係については「AだったものがBになったよねー」という大きな関係で語れるものではなく、「Aになって、Bになって、Cになって…」というかなり複雑なものです。たとえば、戦後についてはアメリカからの経済援助を受ける一方で外交的にはややソ連寄りだったり、社会政策についても左派寄りの政策を展開したり、かと思えば第三世界の一員としてふるまったりと色々な性格を見せます。こうしたメキシコと合衆国の変遷を200年近くにわたって述べるのに、250字から300字はいかにも少なすぎますね。出題者の方は、「高校受験生はメキシコのことなどあまり知らないから300字でいいだろう」くらいのつもりで出したのかもしれませんが、しっかり勉強している受験生は意外に書ける量が多すぎて、情報の取捨選択に困ったのではないでしょうか。逆に、メキシコ史が書けない受験生は300字どころか100字も書けなくて困ったとなってしまうのではないでしょうか。そういう意味でも、悪い問題だとは言いませんが、やや設問としてのバランスに欠ける印象がありました。少なくとも、良問ではないと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:メキシコの独立(1821)~20世紀末(2000

メキシコとアメリカ合衆国の関係はどのように変遷したか

・指定語句:テキサス併合 / メキシコ革命 / キューバ革命 / 北米自由貿易協定

250字以上~300字以内

 

:上述しました通り、本設問でもっとも大切なのは「メキシコとアメリカ合衆国の関係の変遷」を問うているのであり、メキシコ史を概観すれば済む設問ではありません。字数も限られているので、かなりシビアに米墨関係に絞って書いていく必要があるでしょう。

 

【2、メキシコ史(独立以後)の確認】

:設問を解く上では、米墨関係に的を絞って関連事項を列挙していくだけでもそれなりの解答が作れるのではないかと思いますが、メキシコ史についての復習をする機会というのもそう多くはありませんので、ここでは簡単にメキシコの独立以降の歴史を概観してみたいと思います。もちろん、これからお話しする内容をすべて覚えていなければならないとか、そういうことではありません。(ですから、これからお話しするメキシコ史の概観では、教科書や参考書に載っているレベルの人名・単語についてのみ青字で示しました。)そもそも、世界史の教科書や参考書に書かれているメキシコ関係の記述はそれほど多くなく、記述箇所もあちらこちらに散らばっています。ですが、近年はメキシコ関係の記述が増えてきていることも確かです。一例をあげますと、1995年版の『詳説世界史研究』(山川出版社)ではメキシコ革命についての記述は以下の通りでした。

 

 「1911年マデロによるメキシコ革命がアメリカのウィルソン大統領の支援のもとに初めて成功し、大統領は強力な権限を持ち、民主的な憲法が制定された。」(p.414

 

今読むと色々「おいっ」って突っ込みたくなる記述ではあるのですが、この程度しか書いていなかったのです。ですが、最新版(2017年版)の『詳説世界史研究』では、メキシコ革命についてかなり詳しく(と言っても10行程度ですが)書かれており、用語の面でもマデロに限らず、「サパタ / ウエルタ / カランサ / 1917年に制定された憲法とその内容」 など、かなりメキシコ革命の流れや実態がつかみやすい文章になっています。この辺の情報量の拡大が早稲田に「よし、メキシコ史出そう」と思わせた一つの原因かと思われますので、今後もメキシコ史についてはところどころで目にする機会が(劇的にではないにせよ)増えてくるのではないかと思います。

 

① (前史):神父イダルゴ、神父モレーロスの独立運動

:宗主国スペインにおいてナポレオン支配に抵抗する半島戦争(1808-1814)が発生すると、この混乱の中でクリオーリョの司祭(神父)であったイダルゴに率いられた独立運動が開始され、メキシコ独立戦争(1810-1821)がはじまります。イダルゴは独立闘争の開始後まもなく捕らえられて処刑されますが、その後はメスティーソの司祭であったモレーロスの起こした反乱などが拡大していきます。モレーロス自身もヨーロッパにおいてナポレオン戦争が終結し、スペイン本国が落ち着きを取り戻し始めると逮捕・処刑されます。その後、独立運動は次第に鎮静化していきますが、1820年にスペインで立憲革命が発生し、自由主義的な改革が進められたことがメキシコの保守派クリオーリョを刺激し、元々は王党派のクリオーリョとして反乱軍を鎮圧する側であった人物(アグスティン=デ=イトゥルビデ)が皇帝に即位して立憲君主国として独立を果たすことになります。

 

② 独立と合衆国のモンロー宣言

1821年に立憲君主国として独立を果たしたメキシコでしたが、皇帝アグスティン1世(アグスティン=デ=イトゥルビデ)は建国後まもなく議会と対立し、後に独裁権力を握ることになるサンタ=アナなどが反乱軍を組織して共和政を宣言し、共和国として再出発します。メキシコが独立したころのラテンアメリカは、他の諸国でも独立を宣言する国があいつぎ、これに対して旧宗主国スペインだけでなく、ヨーロッパ諸国の干渉が懸念されました。これについては、成立したばかりのウィーン体制が正統主義を掲げて自由主義やナショナリズムを抑圧する体制であったことも想起すると良いかと思います。そして、1823年にスペイン立憲革命(1820)の波及を恐れた神聖同盟諸国がスペインへの武力干渉を決定し、フランス軍がスペインに侵入して自由主義勢力を破ると、ヨーロッパによるラテンアメリカへの干渉はさらに現実味を帯びて懸念されるようになりました。こうした中、アメリカ合衆国第5代大統領ジェームズ=モンローはいわゆる「モンロー宣言」を発してヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を唱え、ラテンアメリカ諸国の独立を支持しました。

 

③ テキサスをめぐる対立と米墨戦争

 独立後まもなく共和政へと移行したメキシコでしたが、サンタ=アナによる独裁的中央集権体制が構築され始めると、これに反発する各地域で独立の機運が高まっていきます。中でも、アメリカ合衆国と境を接していたテキサスには、スペインが支配していた時代から土地の払い下げなどを受けてかなりの数の入植者が入り込んでいました。こうした中で、テキサスに住むアメリカ系住民とメキシコ政府の間に様々な対立が生まれていきます。(たとえば、宗教的自由を尊重するアメリカ系入植者に対してクリオーリョを中心とするメキシコ政府はカトリック信仰を押し付けましたし、奴隷制が依然として認められていたアメリカ南部から来た入植者に対し、メキシコをはじめとするラテンアメリカ諸国は奴隷制を廃止していきます。[メキシコでは1829年に廃止]

 こうした対立と独立闘争を経て、テキサスは1836年にテキサス共和国として独立します。そして、テキサス住民の意思に従って1845年にはアメリカ合衆国の28番目の州として併合されました。しかし、テキサス共和国の独立を認めていなかったメキシコはこれに反発し、翌1846年から米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)が始まります。この戦争に敗れたメキシコは、さらにカリフォルニアとニューメキシコなどを失うことになりました。

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(アメリカ合衆国の領土拡張:
Wikipediaより、一部改変)

 

④ 自由主義者の諸改革とナポレオン3世のメキシコ出兵(メキシコ内乱)

1850年代半ばにサンタ=アナの独裁が終わりを告げると、メキシコでは(ベニート=)フアレスら自由主義者の活動が活発化します。これに対し、保守派が抵抗を行った結果、メキシコは内戦へと突入します。アメリカはフアレスを支援し、この支援を受けて彼は先住民族から選出された初のメキシコ大統領に就任します。ところが、このフアレス政権が外債の利子の不払いを宣言したことを口実にフランスのナポレオン3世が軍事介入を行います。それまでフアレスの支援を行ってきた合衆国でしたが、当時は合衆国でも南北戦争(18611865)が開始されたばかりでしたので、このナポレオン3世の軍事介入に対しては効果的な手を打つことができませんでした。ナポレオン3世は、戦争を優位に進めるためにメキシコの保守層を取り込むことを画策し、メキシコの旧宗主国スペインの旧主であったハプスブルク家のマクシミリアン(当時のオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の弟)をメキシコ皇帝に据えた君主制国家をつくることを提案し、マクシミリアンもこれを受諾して1864年にはメキシコ皇帝の座につき、メキシコには二度目の帝政が成立します。

 ところが、1865年にアメリカ合衆国の南北戦争が終結すると、合衆国はフアレスら自由主義者への支援を再開し、モンロー主義に基づいてフランス軍の撤退を要求します。その結果、戦争はフアレスらに優位に展開し、フランス軍は撤退し、最終的には皇帝マクシリアンは捕縛され、諸国からの除名嘆願要求も無視されて処刑されました。この「マクシミリアンの処刑」を描いたエドゥアール=マネの絵画は非常に有名です。弟マクシミリアンの処刑の報を、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世はオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立にともなう祝賀式典に際して受け取り、弟を見捨てて撤兵したナポレオン3世に対し強い悪感情を抱いたと言われています。

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(「皇帝マクシリアンの処刑」Wikipediaより)

⑤ メキシコ革命

:フアレスが1872年に亡くなりしばらくすると、メスティーソの出身であったディアスが武装蜂起によって大統領に就任(在:1876-1911)し、その後数十年にわたって独裁を行います。ディアスは地主階級の指示と英米の資本に依存して鉄道・電信網の整備や銀行の設立、鉱工業をはじめとする経済の発展を達成し、国内の近代化を進めることに成功します。しかし、それらの発展は外債への依存度が高かったためその権益の多くが外国資本に握られることとなり、メキシコの経済発展の恩恵に浴することができたのはディアスと彼によって保護された一部の特権階級のみで、貧富の差は大きく拡大することとなりました。

 このような中で、貧富差の拡大やディアスの長期政権に反対する人々など、様々な層において不満が蓄積していきます。その結果、マデロカランサ、オブレゴンといった自由主義的で裕福な地主層から、サパタ、ビリャなどの貧しい農民層まで広範囲にわたる人々が参加する革命へとつながっていきます。

 

【メキシコ革命の流れ】

1910 革命の勃発

マデロを国外追放にしたディアスの強権政治に反対して全国で蜂起

1911 マデロ政権の成立

→農地改革をめぐりサパタと対立

サパタがゲリラ活動を展開し、ビリャが合流

1913 ウエルタ将軍のクーデタ

:公金の使い込み問題で対立し、クーデタを起こし、マデロを処刑し軍事独裁開始

アメリカ合衆国大統領ウィルソンはウエルタ政権を認めず

→反ウエルタ派がカランサを中心に反乱軍が形成され、ウエルタ政権を打倒

カランサ率いる自由主義的地主層とサパタ、ビリャ率いる農民層が対立

→自由主義的地主層のカランサ政権が成立1915

1917 1917年憲法の制定

   :大土地所有者の土地分配(農地改革)の実施に消極的なカランサに対し、オブレゴンなど周囲の将軍たちは農地改革や労働者の権利保護、信教の自由などの進歩的内容を盛り込んだ憲法制定を要求した結果できた憲法

   →憲法を無視して政治を行おうとするカランサの求心力が低下

   →サパタ・ビリャの暗殺(サパタ[1919]、ビリャ[1923]

   →オブレゴンと対立したカランサが殺害される(1920

 

 簡単に上記の通りまとめてみましたが、大切なところは「自由主義的地主層が大土地所有などに寛容で保守的であるのに対し、農民層は土地分配や旧来の制度の打破を目指して急進的であることから対立が絶えない」という点と、1917年憲法は当時の国の実態を知っていたカランサ側近によってカランサの意に反して民主的な憲法になったが、実態をともなって実施はされなかった」ということです。土地分配についてはこの後しばらくしてからカルデナス政権下で実施されていくことになります。

 

⑥ 内戦の終結とカルデナス政権の成立

:カランサが1920年に殺害されると、オブレゴンが大統領となりますが、その後も政治混乱は続きます。メキシコをはじめ、ラテンアメリカではカウディーリョと呼ばれる武力を背景に諸地域に支配力を及ぼす指導者が多数存在していました。19世紀初めに独裁権力を握ったサンタ=アナもカウディーリョの一人として数えられますし、農民指導者ビリャ、オブレゴンの後に大統領となったカリェスなどもそう考えられているようです。正直なところ、カウディーリョとは何かと言った場合にはっきりとした定義があるわけではなく、たとえば『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)では「農村部や地方都市を中心にカリスマ的権威と独自の武装集団を持つ」(p.349)とされていますし、コトバンク(日本大百科全書[小学館])では「独立後の旧スペイン領ラテンアメリカ諸国に輩出した強大なボス的政治指導者のこと」とされています。いずれにしても、カリスマ性を備えて雄弁さなどの個人的魅力や金、暴力などで多くの人間を従えた頭目、ボス的存在(ゴン蔵みたいですがw)であるカウディーリョがあちこちに存在していたラテンアメリカでは、独裁権力をめぐる争いが長く続くことになります。イタリアンじゃないけどゴッドファーザー的な世界ですねw

最終的に、メキシコに安定を取り戻したのは1934年に大統領となったカルデナスでした。カルデナスは大統領に就任すると、民主的な内容を定めながらも半ば空文化していた1917年憲法の中身を現実のものとしていきます。カルデナスの業績としては

・鉄道、石油産業の国有化

・中小企業の保護育成

・労働環境の整備

・教育改革

などが挙げられます。また、スペイン内戦に際して人民戦線政府を支援したり、内戦終結後の亡命者や、スターリンの粛清を逃れたトロツキーの亡命を受け入れた人物としても知られています(もっとも、それでもトロツキーはスターリンの刺客に襲われて殺されてしまうのですが)。全体としてやや左派寄りの印象を受ける政治姿勢ですが、共産主義者というわけではありません。ただ、カルデナスが実施した石油国有化は利権を有していたアメリカ合衆国などの反発を買い、両国関係は悪化します。

 

⑦ 第二次世界大戦後の制度的革命党(1946~)支配と米国との関係改善

:カルデナスの所属政党であった国民革命党は、その後メキシコ革命党(1938)、さらに制度的革命党(PRI1946に名称を変えてその後半世紀以上にわたってメキシコを支配します。すでに、第二次世界大戦でメキシコが連合国側で参戦したことでアメリカとの関係改善が進んでいましたが、戦後についてもメキシコはアメリカからの資本を受け入れつつ、産油国として工業化を達成し、経済発展を続けていきます。外交的には、アメリカ主導の米州機構(OASへの参加や、キューバ革命後の「進歩のための同盟」への参加など、親米路線をとることもありましたが、一方で第三世界の一員としての行動をとったり、時にはラテンアメリカの社会主義政権に接近するなど、親米一辺倒の路線を取っていたわけではありませんでした。制度的革命党の政治と外交は、右派と左派、資本主義と社会主義の様々な側面を包括したものでしたので、イデオロギー的にどちらと定義できるようなものではありませんでした。

 

⑧ 1980年代以降のメキシコ経済と北米自由貿易協定

:産油国として工業化を達成していたメキシコでしたが、1970年代の第三世界外交の展開によるアメリカとの関係悪化や、経済が石油価格の変動に影響を受けやすい脆弱な構造であったことなどが災いして、1980年代には累積債務問題が表面化し、国民生活は窮乏します。こうした中で、制度的革命党は従来の社会改革路線よりも市場経済重視の路線に転換します。大雑把に言えば、人々の生活にセーフティネットを拡充するよりも、貧富の差は拡大しても国全体の経済が発展するような方向にシフトします。このような流れの中で、メキシコは1992年に北米自由貿易協定(NAFTAをアメリカ合衆国(締結時はブッシュ[パパの方]、発効はクリントンの時[1994])とカナダとの間に締結します。これにより、メキシコは北米との経済的結びつきを強めましたが、NAFTAによって生活基盤が破壊されると考えた貧しい先住民や農民たちはサパティスタ民族解放軍(名称はサパタにちなむ)を結成し、1994年には武装蜂起を行います。さらに、制度的革命党の大統領候補が選挙中に殺害されるなど、政情不安が高まる中で、メキシコ経済の将来に不安を感じた投資資金が一挙に海外に流出し、ペソの価値が暴落するメキシコ通貨危機(1994年末、テキーラ=ショック)が発生します。こうした中、もともとは制度的革命党から派生した団体に過ぎなかった国民行動党(PAN)が、1990年代を通して政治の腐敗を批判し、政治の民主化を掲げると急速に支持が高まり、2000年の大統領選挙に勝利を収めたことで半世紀以上にわたった制度的革命党の支配は幕を閉じました。

 

(⑨ ドナルド=トランプとメキシコの壁問題)

:本設問とは時期的に無関係なのですが、トランプ大統領の就任とともにメキシコの壁についてもクローズアップされましたので、補足的にこちらに書いておきたいと思います。(実際、トランプが「NAFTA見直すどー」と言いまくっていたこともあったので、「メキシコ、NAFTAくらいだったら出るかもわからんでー」と一部では言っておりましたが、実際にはそこまで目にしませんでしたね↓) アメリカとメキシコ国境に壁を建設する計画は1990年代からすでに進められていましたが、その目的は麻薬の密輸と不法移民対策にありました。壁の建設にはむしろ国境警備隊員の増員や、移民を受け入れる制度の整備などの対策に予算を使うべきであるとする反対意見などもありましたが、2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド=トランプが国境の壁建設を公約として掲げたことで大きな争点となりました。その後、壁の建設が完了することはなく、2020年にジョー=バイデンが大統領選挙に勝利したことで建設ならびに移民政策の見直しが打ち出されました。

 

【3、アメリカとの関係の変遷】

:これまで、メキシコ独立後の歴史について概観してきましたが、設問が要求しているのはあくまでも「メキシコとアメリカ合衆国の関係はどのように変遷したか」ですので、上記のメキシコ史の中から、特にアメリカ合衆国との関係の変化がわかるような部分を抜き出して整理する必要があります。いろいろな書き方がありうるかとは思いますが、重要なのは以下の内容でしょう。

 

① モンロー宣言によるラテンアメリカの独立支持

② メキシコ出兵におけるフアレス政権支持

③ メキシコ革命時の宣教師外交の失敗

④ カルデナス政権の石油国有化政策などによる米墨関係悪化

⑤ 第二次世界大戦による関係改善

⑥ 冷戦下での(原則としての)親米路線と米国資本の導入

⑦ 第三世界外交をはじめとする独自外交と経済の悪化

⑧ 北米自由貿易協定によるアメリカとの経済統合、諸問題の発生

 

【解答例】

米はモンロー宣言でメキシコ独立を支持したが、テキサス併合をめぐる対立から米墨戦争が起こると、メキシコはカリフォルニアなどを奪われた。メキシコ出兵では、米は南北戦争後にフアレス政権を支援しモンロー主義を堅持したが、パン=アメリカ会議を皮切りにラテンアメリカへ影響を拡大し、ウィルソンは宣教師外交でメキシコ革命に介入したが失敗した。カルデナス政権の石油国有化政策などで米墨関係は悪化したが、第二次世界大戦でメキシコが連合国として参戦すると関係が改善し、戦後の米州機構参加やキューバ革命後の進歩のための同盟を通して米からの経済援助を受け入れ、北米自由貿易協定の締結締結で米との経済的結びつきをさらに強めた。(300字)

 

    補足:メキシコ通貨危機(テキーラ=ショック)とは

 

本設問とは直接関係ないのですが、少しメキシコの通貨危機(1994)のお話をしてみたいと思います。近年、経済のグローバル化にともなってある国で発生した通貨危機が地域または世界全体へと波及する大規模な金融危機に拡大することが増えてきています。こうした世界規模の金融危機は特に冷戦後、経済のグローバル化や取引のIT化にともない、各国間の資金の流出入がより容易かつ迅速になったことと無関係ではありません。1994年に発生したメキシコの通貨危機(テキーラ=ショック)はそのような背景の下で起こった通貨危機でした。

大雑把な構造をお話ししますと、1990年代前半のアメリカでは景気の後退が見られたため、金利の引き下げ政策が展開されていました。1990年の段階で8%を超えていたFFレート(Federal funds rate:米国の政策金利)は、1993年までに3%まで引き下げられました。つまり、当時のアメリカでは銀行にお金を預けていても儲かりません。今の日本で銀行にお金を預けることを想像してもらえれば分かるかと思いますが、低金利のもとでは雀の涙程度の利息しかついてこないのです。こうした中で、アメリカのお金は有望な投資先を探し始めます。そのお眼鏡にかなったのが1992年に北米自由貿易協定を結び、アメリカとの経済的な結びつきを強めて経済の拡大が予想されたメキシコでした。実際のところ、当時のメキシコは貿易赤字が拡大し、財政状況も良くなかったのですが、それ以上に将来の経済的拡大と安い労働力を求めたアメリカ企業の投資資金がメキシコに勢いよく流れ込みます。つまり、アメリカに置いておいてもたいして儲からないお金を、新興国で高い成長が見込まれるメキシコにぶっこんだ方が高いリターンが得られると当時のアメリカの人びとは考えたわけです。

74戦後史③(戦後の世界経済)

 ところが、こうしたメキシコへの大量の資金流入は1994年に入ると急速に逆回転を始めていきます。まず、アメリカでは1994年ごろから低金利策が功を奏したのか景気の拡大がみられるようになっていました。クリントン政権のもと、多くのIT関連ベンチャー企業が設立され、いわゆるドットコム=バブルが本格化するのは1990年代の後半ですが、1994年はその端緒についた時期でした。

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(「NASDAQ総合指数の変遷」、Wikipediaより)

 景気の拡大局面においてそのまま低金利政策を続ければ極度のインフレやバブルを誘発することになってしまいますので、FRBFederal Reserve Board、連邦準備制度理事会、アメリカの中央銀行にあたる)は利上げを行います。当時のFRB議長のグリーンスパンは急な利上げが市場にダメージを与えることを避けるために緩やかに金利を引き上げましたが、それでも94年初頭に3%だったFFレートは95年初頭には6%に達しました。このように、アメリカ国内の金利が上がると、①まず資金の調達が難しくなります。(金利が上がれば銀行からの借り入れをした場合の返済利息も上がるから。) また、②国内に資金をとどめておいてもそれなりのリターンが見込めます。(極端な話、預金した場合の金利が上がるのであれば、安定して高いリターンが見込めるので、あえてリスクをとって高配当を求めに行くモチベーションは弱まります。) そのため、アメリカからメキシコに流れ込んでいた資金の流れは急速に弱まっていきます。

 また、1994年にはメキシコの政情不安が一気に顕在化します。NAFTAの発効に反対するサパティスタ民族解放軍の蜂起や、PRI(制度的革命党)の大統領候補の暗殺などが起こると、それまでアタマお花畑でメキシコにお金をつっこんできたアメリカの投資家は「はっ、おれは何をしてるんだ。こんなアブねー国に金突っ込むよりも大人しくアメリカの銀行に預金して高い利息つけてもらうか、景気の拡大し始めたアメリカの株式に金突っ込んだ方が良くないか。メキシコ投資とかハイリスクすぎるだろ。」と思い直します。その結果、ものすごい勢いでそれまでメキシコに突っ込まれていたお金がアメリカへと引き上げられていくわけです。

74戦後史③(戦後の世界経済)1

 メキシコ経済に対する信用の低下と資金の流出によってメキシコ=ペソは大暴落し、メキシコ政府はペソ買いによる為替介入を行いましたが暴落を止めることができず財政が破綻します。これがいわゆるメキシコ通貨危機(1994)です。この「外国から流入していた資金がカントリーリスクの顕在化によって急激に流出し、信用不安が止まらずに通貨危機が起こる」という構図は後のアジア通貨危機(1997)ともよく似ています。アジア通貨危機についてはポール=ブルースタイン著、東方雅美訳の『IMF』(楽工社、2013年)上・下巻を読むと、当時のIMF内部の動きや通貨危機を防ごうとする各国の対応や状況がよくわかります。ノンフィクションですがとても面白い本です。世界史の勉強というと、とかく暗記ものみたいなイメージがありますが、これからの歴史学を理解するためには簡単な経済のしくみを理解することは必須だと思います。

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2020年早稲田大学政治経済 Ⅳ-B-7(論述問題)】

 こちらの解説は早稲田大学政治経済2020の問題解説(http://history-link-bottega.com/archives/cat_397528.html)にも同じものを掲載しています。


(1、設問概要)

・世界恐慌時の米「大統領の実施した経済政策(ニューディール政策)」の具体的内容

・その政策は合衆国において支配的であった考え方とどのように異なるものであったか

・「大統領の名(フランクリン=ローズヴェルト)」を示す

160字以内

→問題より、経済政策がニューディール政策であることと、大統領がフランクリン=ローズヴェルトであることはすぐにわかるので、これらは明記しておきたい。

 

(2、ニューディール政策の「具体的内容」を整理)

①価格調整[デフレ対策=インフレ誘導]のための生産制限

  ・AAA(農業調整法)‐農業生産制限

  ・NIRA(全国産業復興法)‐工業生産制限

②労働者保護

 ・NIRA‐全国復興局(NRA)設立と、最低賃金、週40時間労働制を定める

     労働組合結成と団体交渉権を認める

③失業者対策

 ・TVA‐テネシー川流域開発公社

 (・NIRAも公共事業局を設立して道路、学校、病院などの公共事業を促進)

 

(3、合衆国において支配的だった考え方との相違)

①従来‐自由競争を進め、独占を禁止する(革新主義または自由主義的資本主義)

②ニューディール政策‐修正資本主義(ケインズ)

            ・国家の経済への介入

            ・自由競争の抑制

            ・不況下のカルテルの公認

 →世界恐慌までの従来の合衆国における支配的な考え方が正確に示せるかどうかで少し差がついたかもしれませんが、その他の要素は基本的なものなので全体としては受験生が高得点を狙える論述問題だったと思います。古典派経済学の自由放任などを書いても必ずしも誤りではないですが、19世紀末から20世紀初めのアメリカで独占資本に対する一定の制限がかけられたことや、シャーマン反トラスト法(1890)、クレイトン反トラスト法(1914)などの知識は高校世界史の知識でも出てくる内容なので、これについてはどこかで言及したいところです(独占を禁止するということは、完全な「自由放任」ではない)。また、よく勉強している受験生であればセオドア=ローズヴェルトからの「革新主義(または進歩主義:高度な資本主義発達により生じた弊害を抑えるために野放しの自由放任主義を改めて独占の制限や抑制、労働者の保護を進めようとした考え方)」などについての知識もあるかもしれません。

 

【解答例】

 フランクリン=ローズヴェルトのニューディール政策は、農業調整法や全国産業復興法で生産や価格を調整し、労働条件を規制して労働者の保護を進め、失業対策としてTVAなどの公共事業拡大を行うなど、修正資本主義の影響を受け国家が経済に強力に介入するもので、独占を禁止して自由競争を保障する従来の自由主義的資本主義を転換するものだった。(160字)


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