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カテゴリ: 早稲田大学「世界史」論述対策

2025年の早稲田大学法学部の世界史論述問題のテーマは、現在のインド・パキスタン両国が分離独立するまでの過程において、両地域で展開された支配政策と宗教間の対立と融和の関係を問うものでした。ワセ法では、2010年代まではいわゆる王道の主要国の歴史からの出題が中心でしたが、2020年に入るころから主要国の歴史からはやや外れた、ラテンアメリカ・アジア・アフリカなどからの出題が多くなっています。

 

2020年 メキシコ(独立から20世紀末)

2021年 仏・墺に対する英の外交政策の変遷(18世紀)

2022年 中央アジア・北アジアのトルコ系民族集団(6世紀~10世紀)

2023年 南アフリカのアパルトヘイトをめぐる歴史的経緯

2024年 フィリピン独立の歴史的経緯(16世紀以降)

 

中には受験生には対処しにくい設問もありましたが、2025年の設問はごく基本的な内容です。ただし、ムガル帝国成立以降となっていますので、イギリスによる植民地政策だけでなく、ムガル帝国における宗教政策の変遷もあわせて書けるかがポイントとなります。もっとも、こちらもアクバルによるジズヤの廃止とアウラングゼーブによるジズヤの復活というありふれた内容をつけ足せばよいだけですので、全体的に平易な内容かつ点数のもらいやすい論述問題であったように思います。

 

【1、設問確認】

・時期:1526年のムガル帝国成立~1940年頃まで

・インド・パキスタン両国が分離独立するまでの過程において、両地域で展開された支配政策が宗教間の対立と融和に与えた影響について説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

ジズヤ / インド大反乱 / ベンガル分割令 / 新インド統治法

 

【2、全体のフレームワークの確認】

問題が難しかったり、手掛かりに乏しい時には指定語句をヒントに話を広げていくのが定石ですが、本設問のテーマであるインドにおける宗教政策は超ド定番の内容なので、ワセ法受けるレベルの人であれば、ある程度は話の内容を知っていることが多いのではないかと思います。ですから、時間短縮のためにも自分でいきなりフレームワークを作るところから始めてよいと思います。

 

<ムガル帝国の支配政策>

① ムガル帝国の建国(イスラーム王朝)

:まずは、ムガル帝国がイスラーム王朝であることはおさえておく。

 

② 3代アクバルによるジズヤの廃止とヒンドゥー教徒との融和

:アクバルは、インドのヒンドゥー教諸侯であるラージプート族との融和による王朝の安定化を図ります。その中で、妻にラージプート族出身の女性を迎え、ジズヤを廃止します。また、彼は神秘主義に影響を受けた独特の宗教観を持っていたらしく、これは「ディーネ=イラーヒー」(神の宗教)として知られています。従来はこれをアクバルが創始しようとして失敗した新宗教と説明されていましたが、実際には必ずしもイスラームの枠組みを超えた新宗教を創始したものではなく、あくまでも国家統治に寄与させるために従来の宗教をアクバル独自の観点からとらえなおしたものととらえる見方もあるようです。(小名康之「S. A. A. リズヴィー著『アクバル治世におけるムスリムの宗教と思想の歴史とくにアブール=ファズルに関して(一五五六-一六〇五)』」『東洋学報』第58号、1977年) もっとも、ここではこうした細かい点については不要で、「ジズヤの廃止とヒンドゥー教徒との融和」をしっかりおさえてあれば十分でしょう。

 

③ 6代アウラングゼーブによるジズヤの復活とヒンドゥー教徒弾圧

:アウラングゼーブによるジズヤの復活は、アクバルのジズヤの廃止とセットにして覚えるべき超重要事項です。また、アウラングゼーブは熱心なスンナ派ムスリムとしてヒンドゥー教に限らずイスラーム以外の宗教寺院の破壊など、かなり強硬な宗教政策を展開します。このことが、各地の非ムスリムの反感を買い、シク教徒のパンジャーブ地方やヒンドゥー教徒主体のマラーター王国の分離など、後のムガル帝国の分裂につながることになります。

ムガル帝国の分裂

 

(イギリスによるインド支配の拡大と植民地政策)

① イギリス東インド会社による支配の開始と拡大

:イギリス東インド会社は、1757年のプラッシーの戦いや、1763年のパリ条約でインドにおける活動からフランス勢力を駆逐すると、1764年のブクサールの戦いでムガル皇帝とベンガル太守の連合軍を破って、翌1765年にはベンガル・ビハール・オリッサにおけるディーワーニー(州財務長官権限)を獲得します。これにより、イギリス東インド会社はそれまでのインド物産をヨーロッパに運んで利益を得る商社としての立場から、インドにおける地方行政権(徴税権・司法権など)を有した支配機構としての性格を帯びることになります。

 

② イギリス東インド会社に対する本国監督の強化

:一方で、東インド会社は当時かなりの財政難に陥っており(不慣れな行政・売り上げ不振・防衛費の増額・飢饉による徴税不振などに起因)、また会社組織内の腐敗(非効率な運営・密輸・着服など)もあったため、1773年には規制法が定められ、ベンガル総督にヘースティングズをあてられて本国による東インド会社の監督が強化されることとなりました。

その後、イギリスにおける産業資本家の台頭と自由主義的な風潮の高まりもあって東インド会社の諸特権は徐々に失われ、1813年にはインド貿易独占権が廃止され、さらに1833年には商業活動を停止しますが、行政機構としての役割はその後も続いていきます。

 

③ インド大反乱と東インド会社の解散

:その後、1857年~1859年にかけて発生したインド大反乱を機に、イギリス東インド会社は1858年に解散が決定し、会社が有するインド統治の権限は全てイギリス本国が持つことになりました。インド大反乱の契機としては豚や牛の獣脂を使用した弾薬包を問題視したムスリムやヒンドゥー教徒のシパーヒーによる反乱がクローズアップされるので、宗教が無関係というわけではないのですが、本設問は「支配政策が宗教間の対立と融和に与えた影響」となりますので、設問の主旨とは無関係ですので、あまり触れる必要はありません。

 

④ イギリスによる「分割統治」

:イギリスは、その後インドにおける反英感情が集まって一つの力とならないように、いわゆる「分割統治」政策を展開します。高校世界史ではヒンドゥー教徒とムスリムの対立を煽るという宗教面の分断が強調されがちですが、イギリスによる分割統治は宗教に限らず、身分、カースト、財産、生活文化など多岐にわたる分野を区別して、インドの人々のコミュニティを細分化するものでした。ディヴィッド=キャナダインの『虚飾の帝国』(平田雅博・細川道久訳、日本経済評論社、2004)には、従来からインドに存在した伝統的な階層構造を、さらにイギリスが国勢調査等を通して把握し、インドにおける支配階層をイギリスの貴族階級になぞらえて体制側に包摂していくことなどが示されています。ただし、本設問ではごく単純にこのイギリスの分割統治が宗教対立を煽ったことと、その具体例を示してあげればよいかと思います。具体的な例として挙げられるのは以下の通りです。指定語句と重なりますね。

 

 ・1905年 ベンガル分割令(カーゾン法

  →ヒンドゥー教徒を中心とするインド国民会議派の急進化

  (ティラクによる1906年のラホール大会と四大綱領)

  →全インド=ムスリム連盟の結成(イギリスが後押し)

 1935年 新インド統治法

  →1937年地方選挙におけるインド国民会議派の圧勝とムスリムの危機感

  →ヒンドゥー教徒とムスリムの対立激化

  (1940年のムスリム連盟ラホール大会における分離独立決議の採択)

 

このあたりのインド近現代史については、以前の記事でもご紹介していますので詳しくはこちらもご参照ください。[→インド近代史(インド大反乱~分離独立)] 


ベンガル分割令_人口比入

さて、細々と書いてきましたが、流れとしては概ね以下の流れを示せば十分かと思われます。あとは、必要に応じて情報を取捨選択します。300字しか書けないので、書きながら設問のテーマである「支配政策が宗教の対立と融和に与えた影響」に焦点をあてて内容を吟味する必要があります。

 

① イスラーム王朝としてのムガル帝国

② アクバルによるジズヤの廃止とヒンドゥー教徒(ラージプート族)との融和

③ アウラングゼーブによるジズヤの復活と異教徒弾圧

④ ムガル帝国の分裂(シク王国・マラーター王国・マイソール王国など)

⑤ イギリス支配の開始(東インド会社から本国統治へ)

⑥ インド大反乱を契機とする分割統治の徹底

⑦ ベンガル分割令による国民会議派の急進化と全インド=ムスリム連盟の成立

⑧ 新インド統治法後の選挙によるヒンドゥーとムスリムの対立激化

⑨ ジンナーが指導する全インド=ムスリム連盟大会での分離独立決議採択

 

設問では「1940年代」ではなく「1940年頃」とありますので、おそらくインド総督マウントバッテンによる分離独立裁定(1947年)ではなく、1940年の全インド=ムスリム連盟のラホール大会における分離独立決議を意識していると思います。ですから、実際に両国が分離独立するところまで書く必要はありません。ただし、1940年ラホール大会については高校世界史の教科書にははっきりわかる形では出てこないので、「新インド統治法以降、ヒンドゥー教徒とムスリムが別国家建設に向けて動くことになった」くらいの表現でよいのではないかと思います。

 

cf.) ちなみに、山川出版社の『詳説世界史:世界史探求』には「こうしたなか、ジンナーを指導者とする全インド=ムスリム連盟は、40年、新たにイスラーム国家パキスタンの建設を目標に掲げた。」(p.296)と書かれています。

 

【3、指定語句との整合性チェック】

すでに上記【2】の手順で概ね解答は作成できる状態になっているかと思いますが、一応指定語句をこの流れの中でどう使うのかをチェックすることになります。ただ、与えられている指定語句が「ジズヤ / インド大反乱 / ベンガル分割令 / 新インド統治法」ですので、全く抵抗なく使用できるかと思います。本設問については、指定語句にこだわりすぎるとかえって大きな流れをとらえ損ねてしまう可能性があるので、全体像の構築の際には指定語句は参考程度に見るにとどめて、大枠ができてから忘れずに組み込むくらいでよいかもしれません。

 

【解答例】

イスラーム王朝のムガル帝国では、アクバルがジズヤを廃止しヒンドゥー教徒との融和と体制の安定を図ったが、アウラングゼーブはジズヤを復活し、異教徒の弾圧を行ったため、パンジャーブのシク教徒やデカンのマラーター王国などが分離して帝国は分裂し、これに乗じたイギリスの支配を許した。イギリスは、インド大反乱を機に東インド会社を解散し、本国による直接統治に乗り出して分割統治を強化し、ベンガル分割令後に反英化したインド国民会議に全インド=ムスリム連盟を対抗させるなど、宗教対立を煽った。新インド統治法後の地方選挙での国民会議派圧勝で危機感を高まらせたジンナーはムスリム国家パキスタン建設による分離独立を目指した。(300字)

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過去問解説の作成をしばらくさぼっておりますが、解いてないわけではありません。(そらそうだ。)今年は東大と一橋と早稲田法と東京外語と上智TEAPあたりは頑張ってそろえよう!と思っています。(あんまりあてにはなりませんが…。)

ところで、今回は早稲田法学部で必ず出題されている大問5の論述問題について、出題傾向分析を行いたいと思います。前回までの分析から5年ほどたちましたので、そろそろいい頃かなと思いましたので。まず、下の表が早稲田の法学部で1996年~2025年にかけて出題された問題テーマの一覧です。
スクリーンショット 2025-05-08 221040
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一応、私が早稲田の推薦とれたにもかかわらず、身の程を知らずに一般でワセ法受験して落っこちた1996年(翌年リベンジしたよ!w)の問題からご用意しましたが、昔のワセ法の論述って設定がかなり雑だったりするので、あくまで参考程度な気がします。字数を除いて試験形式は2009年以降ほぼ統一されているので、私がワセ法を分析するときは2009年以降を主体に考えることが多いですね。論述問題は2009年以降、必ず大問5に設置されています。(それ以前も全て最終問題に設置されています。)また、2009年以降は必ず4語の指定語句が示されています。(2008年以前は年によって指定語句の数が異なります。)
字数については、2004年から2015年までは「200字以上250字以内」という字数指定でしたが、2016年以降は全て「250字以上300字以内」となっています。近年は以前と違って、設問の要求が比較的明確に提示されるようになってきていますが、それでも指定語句がないと設問の意図が正確にくみ取れない部分もありますので、早稲田法学部の論述を解く上ではこの指定語句の分析と整理は極めて重要になります。

【出題テーマについて】
2019年ごろまでは時々あるイレギュラーな問題を除いて、ヨーロッパ近現代史と中国近現代史から出題されていました。特に2010年代にはその傾向が顕著でしたが、その後2020年代に入ると、主要国の歴史からはやや外れたところにあるアジア・アフリカ・アメリカ史などが主に出題されています。今後もこの傾向が続くかは不明ですが、2020年以降はほとんどこうしたアジア・アフリカ・アメリカなどからの出題となっているので、次年度は少し目先が変わって来る可能性も否定できません。ただ、昨年から今年にかけて、地政学上の諸問題が立て続けに発生しているので、そうした時事的な視点にも注意したいところです。特に、中東問題についてはベタなテーマではありますが、早稲田の法学部論述では1999年に一度出たきりですので、少し注意した方が良い気がします。

【出題される時期について】
以下は、早稲田法学部論述がテーマとした時代を一覧表にしたものです。
スクリーンショット 2025-05-08 220922

こちらを見ると、2010年代までは一部のイレギュラーを除いて圧倒的に近現代史からの出題が多く、また時代的にも比較的短い期間の問題を問われることが多かったことが分かります。特に19世紀~20世紀からの出題が非常に多いです。
一方で、近年はこれまでの傾向に明確な変化が見られます。以前と比べると明らかに、要求される時代のスパンが拡大しています。これは、特に2019年以降の出題で、ある地域や「何らかの関係性における「変遷」・「経緯」を問う問題が増えてきており、その結果として数世紀にわたる長いスパンから解答を作成することを求められることが増えてきているためです。ただし、近現代史からの出題が多いことに変わりはありません。(2022年のトルコ系民族の興亡史[6世紀~10世紀]などは目立っているように見えますが、過去にも古代ローマ史などからの出題など、イレギュラーなものもあることを考えると、「近現代史中心の出題」という全体傾向が変化したとまでは現時点では言えないと思います。)

【対策など】
対策等については、過去にも早稲田大学法学部論述の出題傾向についての記事がありますので、そちらも参考にしてもらえればと思います。ワセ法論述の問題レベルはそう難しいものではありませんが、もし設問を読んで「これは〇〇について聞かれている!」というアンテナが「ピコーン」とはらないとすれば、基本的な知識がまだ不足しています。その場合には、近現代史を中心にしっかり基礎知識を復習するところから始めましょう。
基礎固めが済んだのちは過去問演習を中心に進めるべきです。以前もお話ししましたが、近現代史からの出題が多い分、東大で出題された問題との親和性が比較的高いように思われますので、「早稲田の法学部論述の過去問はあらかた解いてしまって、練習材料がなくなってしまった」ということがもしあれば、その時は東大の論述対策用テキスト(ベタですが、『東大の世界史25カ年』とか、『テーマ別東大世界史論述問題集(駿台受験シリーズ)』など)のうち、近現代史を重点的に練習しておくとよい練習になると思います。
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2024年の早稲田大学法学部の大論述は、前年に引き続きある国や地域について、長期にわたるタテの流れを意識した設問となりました。(2014年中国の外交関係の展開、2016年の19世紀ドイツ史、2020年のメキシコ近現代史、2023年の南アフリカとアパルトヘイトなど。) 16世紀ごろの貿易拠点としての働きにせよ、19世紀末から20世紀にかけての独立をめぐる動きにせよ、受験世界史では頻出事項なので、早稲田の法学部を受けるレベルの受験生であれば「全く書くことが無くて困った」ということはなかったのではないかと思います。ただし、高校世界史では、この両時期の間の期間についてはあまり記載がなく、すっぽりと穴になっているため、そこに不安を感じたり、バランスの悪さを感じる人はいたかもしれません。ですが、そもそも記載されていないことは書けませんので、両時期のつながりを無理に意識する必要はなく、本設問については単純にそれぞれの時期で起こった出来事を併記すればまずそれなりの点数は来ます。頻出事項であることを考えれば、内容的にそう難しいものではありません。もし点差がつくとすると、米西戦争前後の動きをどこまで正確に書けるかということと、最終的にフィリピンの独立はアメリカ合衆国による法整備の下で達成されたことがきちんと示せるかというところではないかと思いますが、とは言え指定語句に「アメリカ=スペイン戦争」と「独立の約束」がありますので、これについても特に問題なく引き出せるのではないかと思います。

蛇足ですが、東京大学2021年世界史の第2問⑵はこのフィリピンの独立に関する小論述が、同じく⑶では2023年の早稲田法学部で出題されたのと同じアパルトヘイト撤廃までの流れが出題されています。まぁ、たまたまだと思いますが、大学にこだわらず色々な問題に手を出しておくといいことがあるかもしれないっていうことですね。

 

【1、設問確認】

・時期:16世紀~第二次世界大戦直後

・①フィリピンが16世紀以来アメリカ大陸と深い交易関係を持ったこと

 ②そうでありながら第二次世界大戦直後に独立を果たしたこと

 →これらについての政治的経緯ならびに経済的経緯を説明せよ。

・その際、17世紀半ば以降の歴史的経緯をともに説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

/ アギナルド / アメリカ=スペイン戦争 / 独立の約束

 

:本設問については、「16世紀にフィリピンのマニラがアカプルコ貿易の拠点となると同時に、アジア交易の拠点としての役割を果たしたこと」と、「米西戦争を機に支配者がスペインからアメリカに変わり、この時に展開された独立運動が鎮められたこと」、そして「20世紀に入りアメリカがフィリピンの独立を認め、法整備を通して独立が達成されたこと」の3点がきちんとおさえてあれば大きな問題はありません。また、指定語句もこれらをまとめる中で自然に使用できると思います。その上で、できれば19世紀のマニラ開港による商品作物の生産基地としてのフィリピンに目を向けられればそれに越したことはないと思いますが、これについては目立った事件や用語などがあるわけでもないので、少々ハードルが高い気がします。解説する側としてはいささか面白みに欠けるのですが、以下ではこれらに関連する事柄をまとめてみたいと思います。

 

【2、時期ごとのフィリピンをめぐる出来事の整理】

① 16世紀フィリピンとアカプルコ貿易・アジア交易

・マニラの建設(1571年)

:総督レガスピによるマニラ市の建設と市政の開始

・アカプルコ貿易の拠点

:メキシコのアカプルコ港からガレオン船によって運ばれたラテンアメリカの銀(メキシコ銀)をもとに中国の絹織物や陶磁器などと交易

・アジア貿易における重要拠点

:国際的な交易都市として発展し、中国人などが活躍した。また、小規模ながらも一時期日本人町なども形成された。

 

② スペインによる支配とマニラの開港

・スペインはフィリピンにおいてもラテンアメリカと同様の支配を行い、次第に白人による大土地所有支配が拡大された。また、こうした支配層にはカトリック教会や修道院も含まれており、大きな影響力を持った。

・本国スペインの衰退や、英・蘭などの進出にともない、アカプルコ貿易は衰退へと向かい、19世紀にはマニラは諸外国に港を開き、その結果フィリピンはイギリスやアメリカなどの国々へ砂糖やマニラ麻、タバコなどを輸出する生産基地へと性格を変化させた。

 

③ フィリピンの独立運動と米西戦争

・開港により諸外国の船が入ってきたことも一つの要因となって、フィリピンでは19世紀後半から自由主義的な動きや独立運動などが活発化。特に、ホセ=リサールによる活動の中でこれらの動きが本格化した。

19世紀末から20世紀にかけてのフィリピンの主な独立運動家

〇ホセ=リサール

:小説『ノリ=メ=タンヘレ』などの文筆活動や「フィリピン民族同盟」の結成などを通し、スペインの圧政や地主・教会の支配を批判した。その後、秘密結社カティプーナンの蜂起にともない関与を疑われて処刑された。

〇ボニファシオ

:秘密結社カティプーナンを結成し、1896年に蜂起。(フィリピン独立革命の開始)

〇アギナルド

:フィリピン民族同盟やカティプーナンに参加して独立闘争を展開していたが、米西戦争(1898)が始まるとアメリカ軍と共闘してスペイン軍を撃退し、フィリピン共和国(マロロス共和国)の独立を宣言した。(1898) しかし、米西戦争後のパリ条約でグアムやプエルトリコとともにフィリピンのスペインからアメリカへの割譲が決定すると、1899年からアメリカ=フィリピン戦争(米比戦争)が開始され、これに敗れた。

・米西戦争(1898)とアメリカ合衆国支配の開始

:キューバの独立運動をきっかけに開始された米西戦争に勝利したアメリカは、パリ条約でスペインからグアム・フィリピン・プエルトリコを獲得し、さらにアギナルドの抵抗を排してスペインの支配を開始した。

 

④ アメリカ合衆国によるフィリピン独立準備と独立

・アメリカ側の事情

:アメリカでは、フィリピンで続く抵抗や米国内での革新主義の広がりなどから、フィリピンへの自治を容認する声が次第に広がる。こうした中、1916年にはジョーンズ法が制定され、フィリピンに大幅な自治が認められた。さらに、1929年に世界恐慌が発生すると、米国内ではフィリピンからの安価な作物・労働力の流入を懸念する声も広がり始め、こうした声を受けてフランクリン=ローズヴェルトは1934年にフィリピン独立法(タイディングズ=マクダフィー法)を制定して10年後のフィリピン独立を認めた。(当時のアメリカ外交が善隣外交の流れの中にあった点にも注意。) これにより、フィリピンには独立準備政府が発足した。

・日本軍の支配

1941年に太平洋戦争が始まり、日本はフィリピンも占領して軍政下においた。日本は大東亜共栄圏を掲げてフィリピンに形式的独立を認めたが、実質的な日本軍政下におかれたフィリピンでは、フクバラハップ(フィリピン共産党が組織した抗日武装組織)が抗日闘争を続けた。

・フィリピンの独立(1946

:フィリピン独立法に基づき、アメリカ合衆国とフィリピン間で条約が取り交わされ(マニラ条約)、フィリピンが独立を達成した。一方で、アメリカへの経済依存や米軍基地は残存した。

 

【解答例】

16世紀にスペインが植民地化を開始したフィリピンにはマニラが建設され、メキシコと中国の絹織物や陶磁器を交換するアカプルコ貿易の拠点となった。19世紀のマニラ開港により英米に輸出する砂糖などを生産するためのプランテーションが拡大する一方で自由主義思想も拡大し、地主や教会の大土地支配を批判したホセ=リサールの活動に影響を受けてフィリピン革命が開始された。アギナルドアメリカ=スペイン戦争に乗じ共和国樹立を宣言したが、パリ条約で同地を領有したアメリカに敗れた。世界恐慌を機にアメリカがフィリピン独立法により独立の約束を示すと独立準備政府が作られたが、太平洋戦争時に日本に占領され、終戦後に独立を達成した。

 

設問の要求が「アメリカ大陸と(の)深い交易関係」を中心とするものでしたので、マニラのアジア交易の拠点としての役割の説明は削り、アメリカ大陸との関係性が極力前面に出るように書いてみました。また、基本は教科書や用語集に載っている内容をベースに組み上げています。(多分、パリ条約だけは載っていません。「新たに同地を領有した~」とかでもいいんじゃないでしょうか。)

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2023年の早稲田大学法学部の大論述は、南アフリカのアパルトヘイトをテーマとした設問でした。早稲田の法学部では時々ある国のタテの流れと特定のテーマを意識した設問が出されています。(2014年中国の外交関係の展開、2016年の19世紀ドイツ史、2020年のメキシコ近現代史など。) 南アフリカというのは300字近い論述問題では比較的珍しいものですが、それほど入り組んだ難しい内容ではありません。ごく常識的なラインをきちんとおさえてあれば一定レベルの得点は得られる設問だと思います。

ただ、当日の受験生の中には、意外にこの「ごく常識的なラインをおさえる」ということが難しかった人も多かったのではないかと推測します。あまりにも普通の内容過ぎて、逆に書ける内容がないということがあり得たのではないかと。色々と関係が入り組んでいたり、情報量にあふれたテーマであれば、情報の取捨選択が重要で、「書く内容がない」ということはあまりないのですが、アパルトヘイトということになると、「あー、南アフリカね。うんうん。アパルトヘイトね。人種隔離ね。うんうん。…あと何書けばいいんだ(汗)?」となってしまった受験生が意外にいたんじゃないかなぁという気がします。重箱の隅をつついたような知識を用意する必要はないのですが、その分自分が持っている知識を丁寧に整理していく必要のあった問題という気がします。

 

【1、設問確認】

・時期:17世紀半ば~1990年代初頭

1990年代初頭に南アフリカで行われた大きな社会変革について説明せよ。

・その際、17世紀半ば以降の歴史的経緯をともに説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

ケープ植民地 / 南アフリカ戦争 / 白人少数者 / アフリカ民族会議

 

:本設問では、何と言っても「1990年代初頭に南アフリカで行われた大きな社会変革」というのがアパルトヘイトの撤廃であるということをしっかりつかむことが大切です。その上で、17世紀半ば以降の南アフリカの歴史的経緯を示す必要があるのですが、出発点が17世紀半ばに設定されているところから、「オランダによるケープ植民地建設(1652)」が意識されていることに気づく必要があります。この2つを思いつけば、基本的には「ケープ植民地(南アフリカ)の支配の変遷→南ア戦争と南アフリカ連邦の形成→アパルトヘイトとアフリカ民族会議(ANC)の抵抗→アパルトヘイトの撤廃」という流れは想像がつくので、あとは肉付けをしていくだけです。

 

【2、南アフリカ連邦形成までの歴史的経緯を概観する】

:最初に、オランダによるケープ植民地建設から、イギリスの自治領である南アフリカ連邦形成までの流れを確認する必要があります。意外にウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領になっていることを把握していなかったりすることがあるので注意が必要です。基本的な流れは以下の通りとなります。

 

1652 オランダによるケープ植民地建設

1815 ウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領に

(ナポレオン戦争中に英が占領していたため、実質的には1806年から領有)

19世紀半ば トランスヴァール共和国、オレンジ自由国建国

      (圧迫されたオランダ系白人[ブール人]が北上したことによる)

19世紀後半 トランスヴァール共和国やオレンジ自由国で金・ダイヤモンドが発見される

       →ケープ植民地首相セシル=ローズの北上策(ローデシアの建設)

18991902  南アフリカ戦争

       →英植民地相ジョゼフ=チェンバレンの主導によるブール人国家の制圧

1910 南アフリカ連邦の形成(イギリスの自治領)

 

ただし、本設問においてはあくまで設問の中心はアパルトヘイトをめぐる動きです。ですから、こうしたケープ植民地(または南アフリカ連邦)をめぐる領有権の変遷については最小限にとどめ、これらの地域にオランダ系白人(ブール人/またはアフリカーナー)とイギリス系白人が住むようになったという事実を、本設問の指定語句にもある「白人少数者」である彼らが多数派の黒人を支配するにあたって人種隔離政策をとったことにつなげるように意識することが大切です。


南アフリカ連邦_名称つき

 

【3、アパルトヘイトとアフリカ民族会議】

:アパルトヘイトについて、受験生は「南アフリカで展開された人種隔離政策」ということまでは把握していると思いますが、意外にそのディテールまでは把握していなかったりします。アパルトヘイトが本格的に国の体制として整備されるのは第二次世界大戦後ですが、南アフリカ連邦が成立する頃からすでに実態としては白人の優越と黒人の隔離政策は始まっていました。人口比で言えば1割強ほどであったイギリス系・オランダ系の白人たちが支配階層となり、それ以外の有色人種(大半は黒人、一部インドなどのイギリス植民地からの移住者あり)を差別する形は、南アフリカ社会の様々な面で、長い時間をかけて作られていくことになります。

 

(アパルトヘイト)

:アパルトヘイトの具体的な差別・隔離の態様としては、

 

・黒人に対する経済的搾取(低賃金労働など)

・選挙権の制限、剥奪

・居住地の制限や隔離

・人種差別的な教育

・白人と非白人の性交渉・婚姻の禁止

 

などが挙げられます。

 また、黒人の居住区は次第に大規模に部族ごとに制限され、黒人居住区と白人居住区が分離されていきます。最終的には、黒人は部族ごとにホームランドと呼ばれる非常に狭い自治区に押し込められることになります。

 

(アフリカ民族会議[ANC]などによる抵抗運動)

:南アフリカの黒人たちは、こうした自治領政府の人種隔離政策に早くから反対し、1912年には南アフリカ先住民会議を組織し、その後これが1923年にアフリカ民族会議(ANCAfrican National Congress)に改称されました。当初は、インドのガンディーによる非暴力・不服従運動の影響を受けた非暴力主義的運動を展開しますが、第二次世界大戦後にアパルトヘイトの本格的な制度化が進むと性格を変えはじめ、ネルソン=マンデラなど若手の指導者を中心に1960年代ごろには武力闘争へと方針を転換していきます。これがきっかけでマンデラは逮捕され、その後30年近くにわたって獄中にとらわれました。

 もっとも、本設問ではこうした細かい内容は不要で、ANCがアパルトヘイトに対する抵抗運動を行ったことと、その指導者にマンデラがいたことが示されていれば十分だと思います。

 

(アパルトヘイトへの国際的な非難と撤廃まで)

① 国際的な批判と南アフリカ共和国の成立

:戦後にアパルトヘイトの本格的な制度化に乗り出した南アフリカ連邦に対し、国際社会は批判の目を向けていきます。特に、イギリス連邦はこれを強く非難したため、南アフリカ連邦は共和政に移行して南アフリカ共和国となり、1961年にイギリス連邦を離脱します。

 

② ソウェト蜂起(1976

:南アフリカでは1960年代から黒人の学生運動を中心とした権利要求運動が高まっていましたが、こうした南アフリカ政府がアフリカーンス語(オランダ系白人などの言語)を学校教育に導入することを決定すると、これに反発した黒人学生の抵抗運動とこれを弾圧する警察隊の間で衝突が生じ、暴動が拡大しました。この結果、多くの人々が死傷したため、南アフリカに対する国際社会の目は一層厳しいものになり、たびたび経済制裁などが課せられました。

 

③ 冷戦の終結とアパルトヘイト諸法の撤廃

:アパルトヘイト撤廃に大きな力となったのは、冷戦の終結でした。実は、南アフリカは様々な希少金属が産出される国なのですが、こうした希少金属の中にはソ連などの共産圏でしかまとまった量が産出されないものもあり、冷戦が展開されている中で南アフリカを完全に排除することは西側諸国にとって望ましいことではありませんでした。しかし、1980年代の後半に入り、冷戦終結への道筋がはっきりしてくると、国際社会の南アフリカに対する風当たりや経済制裁はさらに厳しいものとなりました。

 こうした中で、1989年に大統領となったデクラーク(白人)は従来の方針を転換し、アパルトヘイトの撤廃に向けて動き始めます。1990年には長らく獄中にいたマンデラを釈放し、さらに翌1991年にはアパルトヘイト関連諸法が廃止されてアパルトヘイトは法的に撤廃されました。その後、1994年には選挙権を取り戻した黒人たちなどの全人種参加による選挙が実施されて、マンデラが大統領となりました。このあたりの事情を知っていると映画『インビクタス』はより面白く見ることができます。

 

 さて、アパルトヘイトの撤廃までの流れは上記①~③までなのですが、当然これらを全て本設問に盛り込む必要はありません。もし書くとすれば、「南アフリカ共和国のイギリス連邦からの離脱」、「冷戦終結への動きとアパルトヘイトに対する国際批判の高まり」、「デクラークによるアパルトヘイト関連諸法の撤廃」あたりを考えると良いでしょう。本設問は「1990年代初頭の…大きな社会変革」とありますので、このアパルトヘイトの撤廃までで十分で、マンデラの大統領就任は基本的には不要だと思います。(書いても多分大きな差支えはない気がしますが。)

 

【補足:教科書・用語集などのアパルトヘイト関連記述】

:アパルトヘイトがらみの話というのは、世界史探究に限らず歴史総合などでも出て来ますし、中学高校生活をしていれば何らかの社会科科目で目にすることもあると思いますし、ちょっと問題意識を持っている人であれば、映画やら書籍やらマンガやらで関連するものを目にしたことのある方もいらっしゃるかと思いますので、別に厳密に教科書に従う必要もないとは思うのですが、一応教科書にはどの程度の記載があるのか確認してみたいと思います。

 

 また、第2次世界大戦後に南アフリカは、多数派である黒人を隔離するアパルトヘイト政策をとり、アフリカ民族会議(ANC)の抵抗や国際連合の経済制裁を受けてきたが、1980年代末に白人のデクラーク政権が政策の見直しを始めた。91年に差別法を全廃し、94年には平等な選挙権を認めた結果、アフリカ民族会議が過半数を制して、その指導者であるマンデラが大統領に当選した。

(『詳説世界史探究』、山川出版社、2023年、p.347

 

他にもp.3303行ほど記述がありますが、南アフリカでアパルトヘイトやってた程度の記述しかありません。用語集はもう少し記述がありましたが、用語などの情報量という面では大差ありません。

 

【解答例】

17世紀半ばに成立したオランダのケープ植民地がウィーン議定書で英領になると、オランダ系白人のブール人は北部にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国した。金やダイヤモンドの発見に伴い、イギリスはジョゼフ=チェンバレンが主導する南アフリカ戦争で両国を併合して自治領南アフリカ連邦を形成した。ブール人を含む白人少数者は黒人差別を強化し、第二次世界大戦後にアパルトヘイトとして本格化される人種隔離政策を進めた。これに批判的な英連邦を離脱して南アフリカ共和国を建国し、マンデラ率いるアフリカ民族会議を弾圧したが、冷戦が終結に向かう中で国際的批判が厳しくなると、デクラークはアパルトヘイト関連諸法を廃止した。(300字)

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2022年の早稲田法学部の論述問題は「北アジアおよび中央アジアのトルコ系民族集団の興亡」について問う問題でした。中央アジア史は一般的な受験生は十分に理解を進めるのが遅くなりがちな分野で、これが20年前に出題されたのであれば「エグイなぁ」と感じる設問だったかと思います。しかし、中央アジアに対する関心は年々高まってきています。同地域には石油・天然ガス・ウラン・レアメタルなど豊富な天然資源があることでもしられていますし、地政学上も重要な地域で、ヨーロッパへのエネルギー供給のためのパイプラインも通っているため、欧州の安定にも深くかかわっています。おそらく、こうした関心の高まりと、同地域の歴史研究の進展という双方の要因から、近年では中央アジアとその周辺を論述問題で出題する大学が増えてきています。何より、2022年は東大でも「トルキスタンの歴史的展開」が大論述で出題されましたので、今後中央アジア史をより丁寧に学習することが、難関大を受験する受験生には必要なことになってくると思われます。

また、2022年早稲田法学部の論述問題は、トルコ系民族をテーマとした出題でもありました。トルコ系民族やトルキスタンについては、2019年や2022年の東京大学大論述のテーマともなるなど、近年出題が増えている分野でもあります。時間が許せばですが、以前に早稲田法学部の出題傾向などでもお話した通り、早稲田法学部の論述の練習材料として東大の過去問に挑戦する(または問題と解答を見てどんなテーマがありうるのか確認しておく)ということも有用かなと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:6世紀から10世紀末(501年~1000年)

・北アジアおよび中央アジアのトルコ系民族集団の興亡と移動について説明せよ。

250字以上300字以内。

・指定語句(要下線)

:唐の建国 / 安史の乱 / キルギス / パミール高原 / イスラーム王朝

 

本設問では、時期だけではなく「北アジアおよび中央アジア」と「トルコ系民族」という地域的な限定と民族的な限定がされている点に注意を払う必要があります。

 

(北アジア)…通常、アルタイ山脈以北のシベリア地域を言う

(中央アジア)…通常、東西トルキスタンを中心とする地域を言う

 

【2、指定語句の整理】

:通常の高校世界史でよく登場するトルコ系民族の流れと言えば、「突厥→ウイグル→キルギス」かなと思います。とりあえず、頭の中で「突厥→ウイグル→ウイグルがキルギスに敗れた後に中央アジアに定住して同地がトルコ化、ついでにイスラーム化の流れかなぁ」という漠然としたイメージが即座に作れるのであればこの問題はかなり取り組みやすかったのではないかと思います。この流れが浮かんだのであれば、これをもとに指定語句とからめて肉付けをしていきます。この流れが浮かばない場合でも、まずは指定語句を確認して周辺知識の洗い出しや、時代順の並べ替えを進めていくことになるでしょう。

 

・唐の建国(618

:唐が建国された7世紀前半に北アジア~中央アジアにかけて存在したのは突厥です。ただし、この突厥はすでに東西に分裂(583)した後でした。設問は時期を「6世紀から」としていますので、もう少し前から突厥の様子を探る必要があります。また、上記の通り、突厥以降は「突厥→ウイグル→キルギス」(全てトルコ系民族)という形でうつり変わっていきます。これらのトルコ系民族の興亡についての簡単なまとめは以下の通りです。

 

(突厥以前)

 ・アルタイ山脈付近を起源とする遊牧民族

 ・丁零、高車などと呼ばれ、匈奴や柔然の支配下に置かれていた

 

(突厥)

 ①柔然(モンゴル系)から独立して建国[552、突厥第一帝国]

 ②エフタルを滅ぼしてパミール高原まで勢力を拡大
 ③建国当時、中国は南北朝時代

→隋が文帝[楊堅]によって中国を統一する過程で突厥は圧迫される。(東西に分裂)

 ④隋の滅亡による勢力回復と、唐の建国への協力

 ⑤唐の太宗[李世民]の時代に東突厥が平定される(630、天可汗の称号)

→唐は羈縻政策を導入

 ⑥唐の高宗の時代に西突厥滅亡(657

 ⑦世紀後半に唐に服属していた東突厥が自立化[682、突厥第二帝国]

 ⑧ウイグルによって滅亡(744
 
(ウイグル)

 ①744年に自立化、東突厥(突厥第二帝国)を滅ぼす

 ②安史の乱で唐に協力

 ③マニ教の信仰

 ④ソグド商人の保護

 ⑤キルギスによって滅ぶ(840

 ⑥以降、タリム盆地方面に移住、ソグド人と混血(中央アジアのトルコ化)

 

(キルギス)

 ウイグルを滅ぼす。その後は小部族が乱立、13世紀にモンゴル帝国の支配下に入る

 

・安史の乱(755763 

・キルギス

:これら二つの指定語句については、上述した箇所で使用すればOKです。

 

パミール高原

:東西トルキスタンを分ける地域です。

 

・イスラーム王朝

:中央アジアのイスラーム化は、ウマイヤ朝・アッバース朝やサーマーン朝の流入によって進んでいきます。サーマーン朝はイラン系の王朝ですが、サーマーン朝と言えば、よく「中央アジア初のイスラーム王朝」という形で紹介されることが多く、今でもよくフレーズとしては出てきます。これは、「初めて中央アジアを拠点として誕生(または自立化)したイスラーム王朝」という意味で、それまでに中央アジアにイスラーム王朝の支配や影響力が及んでいなかったというわけではありません。(もしそうであれば、「何でタラス河畔の戦い[751]が起こるんだ」ということになってしまいます。)最近は、教科書の記述もこの辺丁寧になってきていて、サーマーン朝について「中央アジア初のイスラーム王朝」という記述は減ってきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(2016年版、2022年印刷)では、「ソグド人」についてのコラムの中で、ソグド人の故地(サマルカンドとその一帯[西トルキスタン])についての記述で以下のように示されています。

 

 なお、ソグド人の故地では8世紀からウマイヤ朝のもとでイスラーム化がはじまり、サーマーン朝のもとでイスラーム教への改宗が進んだ。さらに10世紀のカラ=ハン朝以降トルコ化がすすみ、今日西トルキスタンと呼ばれる地域の一部となった。(東京書籍『世界史B2016年版、p.101

 

一方、上記の引用にも登場しますが、カラ=ハン朝の場合には「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」というフレーズでよく紹介されますし、多分今後もそのような形で出てくることになると思います。今回はトルコ系民族が求められている主題ですので、これはおさえておきたいですね。カラ=ハン朝は最近「カラハン朝」の表記も見られるようになってきましたが、まだ安定しません。(東京書籍版『世界史B』ではカラ=ハン朝ですが、山川の世界史用語集ではカラハン朝となっています。)まぁ、習ったときの表記で良いのではないでしょうか。

他に中央アジアと関係するイスラーム王朝というと、もし中央アジアにアフガニスタンを含めて考えるのであればガズナ朝を視野に入れても良いかもしれません。本設問では10世紀までとなっていますので、同じトルコ系でも11世紀以降に成立するセルジューク朝やゴール朝は含みません。

 すると、本設問に関係してきそうなイスラーム王朝はウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝・カラ=ハン朝・ガズナ朝あたりということになります。

 

【3、中央アジアのイスラーム王朝の整理】

:上記の通り、本設問に関連しそうなイスラーム王朝はウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝・カラ=ハン朝・ガズナ朝あたりということになります。もっとも、ウマイヤ朝については高校世界史ではほとんど中央アジアに関係する出来事の記述は出てきませんので、実質的にはアッバース朝の進出、つまりタラス河畔の戦いから考える形で良いと思います。また、トルコ系のイスラーム王朝が始まるのはカラ=ハン朝からです。そこで、これらのイスラーム王朝について、中央アジア(または北アジア)に関係する事柄を簡単にまとめてみたいと思います。

 

(アッバース朝)

751 タラス河畔の戦い

:西域に駐屯していた唐の高仙芝の圧力に対し、これに抵抗した西トルキスタンの部族が西に存在していたイスラーム勢力に援助を要請。これに応えたアッバース朝の総督が軍を派遣して唐の軍隊と交戦した戦い。製紙法西伝のきっかけとなった戦いとして有名だが、これ以降、特に西トルキスタン地域へのアッバース朝の影響力は拡大したが、実態としては現地の土着部族が同地を統治していた。

 

(サーマーン朝)

・「中央アジア初のイスラーム王朝」(イラン系)

:イスラームに改宗したイランの土着貴族がアッバース朝の総督(アミール)であったターヒル朝の下で勢力を拡大し、875年にアッバース朝から事実上独立。アッバース朝やサーマーン朝の頃からトルコ人軍人奴隷をマムルークとして導入することが増える。

 

(カラ=ハン朝)

・「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」

10世紀半ばに成立し、イスラームに改宗。サーマーン朝を滅ぼす。(999

 

(ガズナ朝)

:サーマーン朝のマムルーク出身であるアルプテギンが、10世紀後半(962)にアフガニスタンのガズナに建てた独立政権から発展したイスラーム王朝。 

 

【解答例】

モンゴル系柔然に支配されていたトルコ系民族の突厥は、6世紀に自立し、エフタルを滅ぼしてパミール高原まで勢力を拡大したが、東西に分裂し、唐の建国後は押され、東突厥は太宗に制圧され羈縻政策下に入り、西突厥は高宗により滅んだ。その後台頭したマニ教を奉ずるトルコ系ウイグルは、安史の乱鎮圧に協力し唐と友好を保ったが、キルギスに敗れて以降はタリム盆地周辺に定住してソグド人と混血し、同地のトルコ化が進んだ。同地では、タラス河畔の戦い以降、イラン系サーマーン朝などの進出が進み、トルコ人は軍人奴隷マムルークとしてイスラーム世界に導入された。10世紀には初のトルコ系イスラーム王朝カラハン朝がサーマーン朝を滅ぼした。(300字)

 

上記の解答にはガズナ朝は入れませんでした。要素としては中途半端かなぁと思ったので、バランス重視で削りましたけど、書いても別に間違いではないかなと思います。解答はえらい前に作ったのでほんのちょっぴり自信ないですが、自分で作ったはずw たしかw

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