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カテゴリ: 早稲田大学「世界史」論述対策

今年度の早稲田法学部問題を見た時の感想は、一言でいうと「普通」です。何だか突然よく見たことのある問題が出されました。(批判しているわけではありません。頻出ということは、その分、何度も使われるくらい良い問題だということでもあります。)ただ、過去9年間で近代よりも前の時代をテーマにした出題は一度もありませんでしたので、今回の中世という時代設定は意表を突いたものではあります。もしかするとそれもあって、問題の内容自体を過度に難しくすることは避けたのかもしれません。早稲田の論述については試験時間についての制約もありますので。

 ただ、それにしてもワセ法の受験生にとっては基本的に解ける「よっしゃ来た」問題だったかもしれません。逆に差がつかない分世界史で点を稼ぎたい人は「何だと―!」という気分だったかもしれないです。たとえば、今手元にある『段階式世界史論述のトレーニング』の問題の中には京都府立大の過去問が載っていますが、この問題概要は以下のようなものです。

 

・中世ヨーロッパにおける教皇権の確立の過程について200

・指示語:インノケンティウス3世、ヴォルムス協約、カノッサ

 

まぁ、こんな感じでそのものズバリではなくても、中世ヨーロッパにおける教皇権の確立や神聖ローマ帝国における帝国教会制などはあちこちの問題集に転がっている問題だと思います。ただ、早稲田の問題について注意しておきたいのは、聖俗関係の「変遷」を聞いているところです。指示語にオットー1世が入っていることも、この「変遷」に注意を払うように警告していますね。叙任権闘争ばかりに目が行ってしまうとこの「変遷」の部分は見逃しがちです。やはり、早稲田も物事の変化や関係性といったものを重視する姿勢は変わっていないようで、世界史のメインテーマの一つを問題として持ってくるところなどを見ても、以前に書いた出題傾向から大きく外れて、ガラッと出題の本質が変わった感じはありません。個人的には2017年の時みたいには萌えませんでした。

 また、この聖と俗との関係や叙任権闘争については、2010年の一橋大問1でも出題されています。こちらの問題は単に叙任権闘争や聖俗関係の変遷を問うものではなく、この争いが「現実の政治・社会生活に持った意義とは何か」を問う問題となっていて、より突っ込んだ難しい内容になっています(時期は11世紀~13世紀)。今回の問題の発展形として練習してみるのも良いかもしれません。

 

【問題概要】

・時期:10世紀~12世紀(901-1200

・中世ドイツにおける「聖(教皇権)」と「俗(世俗権力)」の関係の歴史的変遷

・指示語:オットー1世、グレゴリウス7世、カノッサの屈辱、ヴォルムス協約

250字~300

 

【解答手順1:全体の流れの確認】

:今回のように、歴史のメインテーマで大きな枠組みをすぐに思い浮かべることができるものについては、まずは全体の流れを把握してしまうことから入りましょう。と言っても、今回確認すべき大枠は下に示したもの程度で十分です。

 

①神聖ローマ帝国の成立と帝国教会制

②叙任権闘争の展開とその結果

 

【解答手順2:聖俗の関係性の変遷とは何かに注目する】

:これについては、解答手順1に沿って聖俗関係を整理すれば足ります。

 

①帝国教会政策の下では、聖職者の任免権(叙任権)は神聖ローマ帝国に属し、神聖ローマ皇帝は叙任権を通して帝国内の教会勢力を支配することによってその権力基盤を強化していたこと。

②グレゴリウス7世の教会改革において、教皇が叙任権を自らが持つことを主張したことから神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との間に対立が起き、「カノッサの屈辱」では皇帝ハインリヒ4世が一時的にではあっても膝を屈して教皇の至上性が示されたこと。

③その後も教皇と皇帝の対立は続いたが、最終的には1122年にカリストゥス2世とハインリヒ5世の間でヴォルムス協約が結ばれて、叙任権は教皇が持つ一方で、世俗権力の授与やドイツ地域内の教会支配権を保持することで両者の妥協が図られた。

 

【解答手順3:細かい部分に注意する】

:解答手順1と2でほとんど解答の大枠は用意できるのですが、十分に注意を払って書かなくてはならない場所や、手順1と2では拾い切れていない細かい部分がありますので、そうした部分をきちんと詰めていきます。

 

①帝国教会政策

:レヒフェルトの戦い(955)に勝利してマジャール人を撃退し、962年に教皇ヨハネス12世から皇帝冠を授けられたオットー1世は神聖ローマ帝国の基礎を形作っていきます。その際、オットー以下歴代の神聖ローマ皇帝が聖職者の叙任権を利用して中央集権を進めた背景には以下のようなものがありました。

 

・各部族勢力に対抗するため、聖職者とそれに付随する教会領の力を利用する

 ‐レヒフェルトの戦い前の東フランクは、各部族の対立が深刻で国王オットーの指導力も十分に確立されてはいませんでした。異民族マジャールの侵入が対立していた各部族の結束を強める方向に働きました。

・ゲルマン社会において、教会はその建設に貢献したものに属するという考え方が一般的であったこと

・キリスト教を国教にしたのは古代ローマの皇帝テオドシウスであり、皇帝には教会関連の事柄に対する決定権があるという考えが存在したこと

10世紀頃の教会が腐敗の温床となっていたこと

 

このような背景の中で神聖ローマ皇帝が帝国教会政策を進めることは、皇帝に近い者を聖職者として叙任することによる勢力の拡大、聖職者を中心とする官僚制の整備と世襲化の防止、腐敗した教会の立て直しなど、統治に必要な様々な効果が得られることになりました。よく、神聖ローマ帝国と聞くと「分裂している」とか、「皇帝の権力が弱い」などのイメージが先行しがちですが、帝国教会政策が展開している頃の神聖ローマ帝国は、もちろん各部族勢力は強い力を有していましたがそれなりに帝権の強化が進んだ時期でもありました。

 

②「世俗権力」とは何か

:「世俗権力」と聞くとすぐに教皇に対比して皇帝を思い浮かべます。それはそれでよいのですが、「世俗権力」といった場合には皇帝に限らず、各地の諸侯をも内包している点には注意が必要かと思います。

 

③カノッサの屈辱の意義

:教科書的にはカノッサの屈辱は教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を屈服させ、皇帝権に対して教皇権が優越した事件として説明されることがあります。ただ、ことはそう単純ではありません。この時ハインリヒが膝を屈した背景には当時の神聖ローマ帝国の国内事情など、複雑な事情が絡み合った結果であり、「教皇権VS皇帝権」で教皇権が強かった、という単純な対立構図では説明できないものです。現に、カノッサでは「勝利」したはずのグレゴリウス7世は、国内のまとまりを強化した後のハインリヒ4世が率いる軍によってローマからサレルノへ追放されてしまいますし、叙任権闘争自体もその後数十年にわたって解決されませんでした。この辺の事情は惣領冬美『チェーザレ』の中でとてもイメージ豊かに描かれています。

 

④ヴォルムス協約の正確な理解

:ヴォルムス協約についての正確な理解ができている受験生はそう多くはありません。これはなぜかというと、教科書や参考書がこれまであまりヴォルムス協約の内容や叙任権闘争の終結について正確な記述を行ってこなかったからです。ただこれは、別にそうした教科書や参考書が劣っているというわけではなく、高校生に教えるにあたっては正確さよりもある程度の単純さを追い求めた方が分かりやすいと判断した結果なのではないかと思います。例を挙げますと、「ヴォルムス協約で政教分離の妥協が成立し、皇帝は聖職者の任命権を失った。」(東京書籍『世界史B』平成30年度版、p.152)、「1122年、司教杖での司教叙任と王笏での封土授与とを区別するヴォルムス協約によって一応の解決を見た。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年度版、p.165)などとなっています。この点について比較的正確に説明されていたのは山川の『改訂版世界史Ⓑ用語集』(ちなみに私が見たのは手元にあった2012年度版)で、「聖職叙任権について、教皇カリクトゥス2世と皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた協約。叙任権そのものは教皇が持つが、ドイツ領内では皇帝が教会・修道院の領地の承認権を持つという内容の妥協案で、これにより叙任権闘争は一応終結した。」とあります。

 ヴォルムス協約についてのポイントは以下のようになります。

 

・叙任権は教皇が持つ

・授封権(封土支配権などの世俗的諸権利の付与)は皇帝が持つ

・ただし、ドイツにおける叙任に際しては、それに先んじて皇帝が授封する

 (つまり、皇帝が認めた者しか教皇は叙任することができない)

・神聖ローマ帝国内のドイツ以外の地域(イタリアなど)については教皇が叙階し、叙階されたものはその後速やかに皇帝により授封される

 

つまり、このヴォルムス協約では、たしかに教皇は叙任権を有し、特にイタリア地域については教皇の叙任権が皇帝に優越することを互いに確認しましたが、一方でドイツ国内の叙任は皇帝が授封した者に限られたため、叙任にあたっては実質的に皇帝の承認が必要なシステムになっていました。ですから、ヴォルムス協約によって皇帝のドイツ教会に対する影響力が教皇に完全に奪われたと考えるのは誤りです。むしろドイツについては皇帝が実質的な叙任権を保持し、イタリアなどその他の地域については教皇の叙任権が優先するという一種の住み分けがなされたということです。

 

⑤ヴォルムス協約以降はどうか

 ヴォルムス協約は1122年で、12世紀の前半です。12世紀、という設問の時代設定ですと、その後丸々80年近くは残っているわけですが、この間の聖俗両権の関係はどのようなものだったのでしょうか。少なくとも、ヴォルムス協約は完全な決着ではありませんでしたし、12世紀のイタリアはシュタウフェン朝のイタリア政策に頭を悩ませることになります。また、その過程でゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)の対立なども発生します。

 一方で、ヴォルムス協約以降、長らく開かれていなかった公会議(宗教会議)が開かれることとなり、公会議において決定されたカノン(教会法など)は教会内部や信徒の生活などを規定し、それは各地域の教会にも採用されて徐々に教会組織のヒエラルキーが確固としたものになると同時に、教皇権も強化されていきます。教皇権の絶頂期と言われるインノケンティウス3世が教皇に選出されたのは1198年のことです。ただ、それまでの間は、ヴォルムス協約によって叙任権をめぐる問題に決着がついたとはいっても、聖俗両権のせめぎ合いは12世紀を通じて長く続いていたと考えていいと思います。

 

【解答例】

オットー1が創始した神聖ローマ帝国では、皇帝が帝国内の聖職者を任命する帝国教会政策により皇帝権を強化したが、教会改革を進める教皇グレゴリウス7は聖職叙任権が教皇に属すると主張し皇帝と対立した。ハインリヒ4世が教皇に膝を屈したカノッサの屈辱は教皇権の世俗権に対する優越を印象付けたが、叙任権闘争は続いた。カリストゥス2世とハインリヒ5世によるヴォルムス協約では、叙任権は教皇が持つとされて皇帝は帝国教会政策を放棄したが、帝国内のドイツ地域では実質的な教会支配権を保持したため、聖俗両権のせめぎ合いが続いた。その後、公会議や教会法を通して教会の組織化と民衆支配の浸透が進み、次第に教皇権が強化された。(300字)

 

解説のところで公会議云々の話をしたので、解答に盛り込んでみましたが、高校世界史の知識では公会議がどうの、ということを知ることは難しいと思います。ですから、もし書くのだとすればゲルフとかギベリンなどを入れつつ、「その後も北イタリアではゲルフやギベリンの対立が続くなど聖俗両権のせめぎあいは続いたが、次第に教皇がその権威を高めた。」なんて書き方もできるのではないでしょうか。

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 今年度の早稲田の法学部論述も300字(250字以上)となりました。2016年の入試以降、3年連続で300字論述が出題されたことになりますので、この形式はほぼ定着したと言っても良いかと思います。

 また、今回の論述もかなり「東大くさい」出題となりました。いわゆるロシアの「南下政策」については、東大ではたびたび出題される頻出問題です。つい最近でも、2014年の「ロシアの対外政策とユーラシアの国際情勢」が記憶に新しいところかと思います。以前、早稲田の法学部の出題傾向でもお話ししましたが、東大の問題をマイナーチェンジしたような出題がされることが多いので、東大の過去問(特に大論述)に目を通しておくことはわりと役に立つ気がします。また、2017年の問題解説で「今回はイギリスを中心に複数の要素を抱えるテーマについて説明するという形のものでしたが、場合によってはむしろ地理的に広い範囲のもの同士の関係を問う(いわゆるグローバルな展開の)設問が出題される可能性もあると思います」とお話ししていましたが、今回の設問はまさにその通りの形になりました。同じ「南下政策」でもバルカン方面に視点を集中させるのではなく、東アジア方面に目を向けろ、と言うことですね。ただ、それ以外の部分では特に大きな注意点はないかと思います。ロシアの南下政策の基本をおさえた上で、東アジア方面でのポイントを示せれば良いわけですね。「東アジア」ですので、字数的にも2014年の東大で要求されていた「中央アジア」の部分については(原則)示す必要がありません。ロシアの「南下政策」のような言葉は使われる文脈によって何を意味するかが変わってくるので、注意が必要です。

難度で言えば昨年の問題の方が難しかったかと思います。

 

 ちなみに、「東アジア」というのはユーラシア大陸の東部にあたるモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾などの「極東」と呼ばれる地域とほぼ同義です。私が世界史で説明するときにはおおまかに「東アジア=日中韓」で説明します。地理的には以下の地域です。


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Wikipedia「東アジア」より)

 

 もっとも、地理的な概念も同じく幅や揺れのあるものですから、使われる文脈によっては変化します。例えば、外務省のHPでは東アジアとして以下の地図が示されていたりします。これはつまり、日中韓を含む極東地域を「北東アジア」、その南にあるインドシナ半島やマレー半島、フィリピン、スマトラ、ジャワなどを含む地域を「東南アジア」として全体を「東アジア」としてとらえているということです。


2

(外務省HPより)

 

 もっとも、世界史で東アジアをこうした形で認識することはまれですので、みなさんは「東アジア≒日中韓(+台湾・モンゴル)」で理解してもらってそれほど差し支えありません。いずれにしても、論述を解く際には「設問の要求にこたえる」ことが最優先になりますので、個々の言葉・用語がどういう意味をもっているかをとらえるということはとても重要です。時代だけでなく、「東アジア」、「中央アジア」、「南アジア」などの地理概念が世界史ではどのような意味で使われているかということには普段から注意を向けておく必要があると思います。

 

早稲田大学法学部世界史2018年論述問題

(問題概要・解説とポイント)

 

【問題概要】

・時期は18世紀から19世紀末(17011900

・同時期のロシアの「南下政策」の経緯を示せ

・同じく、ロシアの「東アジア進出」について示せ

・指定語句を全て用いよ(クリミア戦争/サン=ステファノ条約/ベルリン条約/北京条約)

・指定字数は250字から300

・指定語句には下線を付せ。句読点、数字は1字に数える。

 

問題の全文は早稲田大学の入学センターのHPにもありますし、各予備校が公開していますので、そちらも参照してください。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

 設問の要求

:設問の要求は明快です。ただし、時期には注意した方が良いでしょう。問題文を正確におこすと、<18世紀から19世紀末までの時期におけるロシアの「南下政策」の経緯と「東アジア進出」について>説明せよとなっています。ですので、よく出てくる19世紀のロシアの「東方問題」だけではなく、18世紀の進出についても言及しなくてはならない点はきちんとおさえておきましょう。

 

【解答手順2:南下政策の経緯をまとめる】

 ロシアの南下政策については、大枠をしっかりとらえておくことが良いかと思います。18世紀以降ということになると、その大枠は以下の通りです。

 

① 18世紀

 エカチェリーナ2世のときにクリミア半島に進出(キュチュク=カイナルジャ条約)

② 19世紀

  不凍港と地中海への出口を求めて、

  A:ウンキャル=スケレッシ条約でボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡の独占通行権を得た、かと思いきや

  B:その後のロンドン会議、クリミア戦争後のパリ条約で挫折し、

  C:露土戦争後のベルリン会議で再度挫折した

 

ものすごく単純化すると以上のようになります。ロシアの南下政策と東方問題の詳細については「2014年東大の問題解説」と、「あると便利なテーマ史⑦(東方問題とロシアの南下政策)」に述べてありますので、こちらをご参照ください。

 

ちなみに、地理的な情報としてクリミア半島を示しておきます。


3

 
  
赤い丸で囲まれた部分がクリミア半島です。青い丸で囲まれている部分は問題の中で言及されていたアゾフ海になります。また、オレンジ色で囲んだ部分にあるのがボスフォラス海峡、緑色で囲んだ部分がダーダネルス海峡になります。ギリシア独立戦争でロシア・トルコが締結したアドリアノープル条約や、同じくロシア・トルコが締結した相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約などで通行に関する諸権利を得た部分です。見ての通り、黒海からエーゲ海(地中海方面)に抜けるための超重要な海峡です。

 

【解答手順3:ロシアの東アジア進出についてまとめる】

続いて、ロシアの「東アジア進出」についてまとめます。厳密にいえば、ロシアの東方への進出はすでに17世紀のピョートル1世の頃(ネルチンスク条約)から始まっています。18世紀には、1727年のキャフタ条約やベーリングのカムチャッカ・オホーツク探検などもありますが、字数や設問の意図を考えても、本設問では省いてしまって良いと思います。

「東アジア進出」の中心になるのは指示語にも見られる「北京条約」と「旅順」でしょう。ここでいう北京条約は1860年にロシアがアロー戦争の仲介を行ったことで清との間に締結した露清間での北京条約のことです。また、「旅順」については日清戦争後の三国干渉と、その後のロシアによる租借を思い浮かべればよいかと思います。ですから、この設問での「東アジア進出」は、教科書や参考書でよく出てくる(露清)北京条約締結にいたるまでのロシアの動きと、日清戦争後のロシアの南下についてまとめれば十分、ということになります。

 

<露清北京条約締結までの流れ>

1847 ムラヴィヨフの東シベリア総督就任

1858 アイグン条約:アロー戦争(1856-1860)に乗じて結ぶ

 ‐アムール川(黒竜江)以北をロシア領に

 ‐沿海州が清とロシアの共同管理に

1860 (露清)北京条約:アロー戦争の講和を調停した見返り

 ‐沿海州がロシア領に→ウラジヴォストークの建設開始

 

<三国干渉とロシアの南下>

 1895 三国干渉:ロシア・フランス・ドイツの圧力により日本が遼東半島を清に返還

    乙未事変:ロシアを背景に権力奪回を図ろうとした閔妃を日本が暗殺

 1896 東清鉄道の敷設権獲得→露仏同盟以降建設が進められていたシベリア鉄道と連結

 1898 遼東半島の旅順・大連を租借

 

 それぞれ、地理情報を掲載しておきます。まず、したの赤丸で囲まれた部分が沿海州です。現在はロシア領となっています。「海沿いの州」なので、ある意味わかりやすいネーミングです。ちなみに、この沿海州の西の境にはウスリー川(ウスリー江)が流れていて、現在の中国とロシアの国境となっています。1969年に発生した中ソ国境紛争の舞台となったダマンスキー島(珍宝島)はこのウスリー江の中州です。

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(沿海州)

 
また、下の地図はロシアが敷設権を獲得した東清鉄道の本線と支線を簡略化した図です。青い色の支線のうち、長春‐旅順間は日露戦争後のポーツマス条約で日本へと譲渡され、これが南満州鉄道(満鉄)になります。

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(東清鉄道)

 
ロシアは17世紀末から日本にも進出しています。日本も「東アジア」ですから、もし字数に余裕があったり、上記の内容が思い出せないようでしたら、以下のことに言及するのも手ではあります。ただ、指示語からうかがえる設問の意図は明らかに上に書いた「北京条約」や「三国干渉」だと思われますので、下に挙げたものは何も書けないときの緊急避難的なものだと思ってください。

 

<日本周辺へのロシアの進出>

1792 ラクスマンの根室来航と大黒屋光太夫の帰国

1804 レザノフの長崎来航

1855 日露和親条約

1875 樺太千島交換条約  など

 

【解答例】

 18世紀にトルコに勝利したエカチェリーナ2世は、キュチュク=カイナルジャ条約でクリミア半島を奪った。19世紀には、ギリシア独立戦争やエジプト・トルコ戦争に介入し、ボスフォラス・ダーダネルス海峡を通る地中海への出口を確保したが、ロンドン会議やクリミア戦争の敗北で妨げられた。その後、露土戦争に勝利しサン=ステファノ条約で再度南下を図ったが、列強とのベルリン条約で挫折した。東アジアでは、アロー戦争に乗じた北京条約で沿海州を獲得し、ウラジヴォストーク建設に着手した。日本の開国後、樺太にも進出し、三国干渉の見返りとして旅順・大連を租借し、東清鉄道の敷設権を得て、露仏同盟後に建設したシベリア鉄道と連結させた。(300字)

 

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 さて、本日はこれまでも当ブログで解説してまいりました早稲田大学法学部の2017年「世界史」のうち、大問5の論述問題について焦点を当てたいと思います。問題はすでに各予備校HPで公開されていますので、そちらをご覧ください。

 今回の問題を見た第一印象ですが、「お、ワセ法もちょっと洗練されてきたぞ」というのが私の印象です。私の早稲田法学部論述に対するこれまでの印象は一言で言うと「無骨」です。「直球どストレート工夫なし!」という雰囲気であったわけで、イメージ的にはモブ化した後のタイガーショットであり、鳳翼天翔です。  

 今回の問題ではその雰囲気が少し変わりました。たしかに、航海法は「ベタ」な設問で頻出の箇所です。これまでの設問では、この航海法は主に17世紀イギリスの重商主義政策の典型、または英蘭戦争の原因という流れの中で出題されることが多かったものです。ところが、今回の設問では、まずイギリスの国内事情への視点が追加されました。つまり、重商主義政策から自由貿易主義への転換という視点です。(これが近年一橋などでは頻出のテーマであることはすでにご紹介しました) さらに、ここでは19世紀前半の反穀物運動や選挙法改正という別視点も加わってきます。また、制定された17世紀の状況から19世紀半ばまでという時期的な長さも確保されています。つまり、これは航海法をテーマとした設問というよりは、イギリスの通商政策の変化とその背景として存在した工業化の進展と産業資本家の台頭という社会構成の変化を説明せよ、という設問なわけで非常に複合的な設問です。

もっとも、ワセ法がこうした変化をする兆しを見せているということはすでに出題傾向の中でも指摘していました。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_231096.html)それまでの単線的な出題が、次第に多面的、多角的な設問になってきているという点には注意が必要だと述べたかと思いますが、今回の設問でこの傾向が今後も続いていく可能性がさらに高まったと思います。今回はイギリスを中心に複数の要素を抱えるテーマについて説明するという形のものでしたが、場合によってはむしろ地理的に広い範囲のもの同士の関係を問う(いわゆるグローバルな展開の)設問が出題される可能性もあると思います。いずれにしても、一つの物事を一つの側面からのみ理解するような勉強の仕方では今後のワセ法の論述を解くことは難しくなってきそうですね。レベル的には東大の方が高いと思いますが、東大の過去問演習などは役に立つかなぁと思います。

 また、形式的な点としては、昨年に続いて上限は300字となりました。どうやらこちらもこの変化で固定されるようです。

 

早稲田大学法学部「世界史」2017年論述問題(問題概要・解説とポイント)

 

【問題概要】

17世紀半ばに制定されたイギリスの航海法が制定された理由を答えよ。

19世紀半ばに航海法が廃止された理由を答えよ。

・当時の政治と経済の情勢に関連付けよ。

・指定語句を全て用いよ。(選挙法改正/重商主義/自由貿易/中継貿易)

・指定字数は250字から300字。

・指定語句には下線を付せ。句読点、数字は1字として数える。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

 設問の要求

:イギリスの航海法が制定・廃止された理由を当時の政治・経済と関連付けて説明せよという、きわめて明快な問題設定です。実は、類似の設問はすでに2012年早稲田大学法学部の論述問題で出題されています。(17世紀における英蘭両国の友好関係と敵対関係) ですから、過去問をしっかりやってから臨んだ受験生であれば、今回の設問の「制定の理由」を答えることはそう難しくなく、こちらの部分で差がつくことはなかったと思います。

 

【解答手順2、設問の二つの要素ごとに事実関係を整理】

:今回の設問のテーマは、問題設定自体も明確ですし、頻出の箇所ですから、大きなフレームワークを描くことはさほど困難ではありません。まずは、指定語句に頼ることなく、素直に設問の要求している「制定の理由」と「廃止の理由」、そして関連事項の整理をしてしまうのが解答作成への近道だと思います。

 

 もっとも、今回の要求のうち「廃止の理由」については漠然としか理解していなかった受験生も多いのではないでしょうか。「何となく穀物法廃止の3年後くらいに航海法が廃止されたことは覚えているけど…何でだ?」と固まってしまった受験生と、「よっしゃ、来た!自由貿易の流れね!」とすぐに判断のついた受験生で差がついたものと思われます。固まってしまった場合でも、半分は書けるわけですから、ここは焦らず半分+αを狙いましょう。どんなに頑張っても、人間の記憶には限界というものがあります。たまたま、自分の記憶からすっぽり抜け落ちてしまっている、というところから出題される可能性は常にゼロではありません。そうした時に大切なのは、周囲との差を最小限にすること。まずは不時着解答を作成するためにも、できる整理、「制定の理由」を整理することからしておくべきです。

 

1、制定の理由

 オランダの中継貿易を妨害するため。

(関連事項)

  航海法の内容:イギリスへの輸入をイギリスの船か原産国の船に限定すること。(正確には、アジア・アフリカ・アメリカからの輸入についてはイギリス船のみ、ヨーロッパからの輸入についてはイギリス船または生産国か最初の積載を行った国の船に限定する)

  制定の時期:クロムウェル統治下の1651年。議会に影響力を及ぼした貿易商の要望によるもの。

  政治的関連:クロムウェル、議会、重商主義、英蘭戦争

  経済的関連:貿易商、重商主義、中継貿易、海洋覇権

 

 制定の理由については上に書かれたようなことが盛り込まれていれば十分でしょう。注意しておきたいのは、航海法はたしかにクロムウェルの政権下で成立しましたが、クロムウェル自身は航海法制定に対しては否定的であった点です。クロムウェルは、同じプロテスタント国家であるオランダと積極的に敵対する政策には内心反対でした。貿易商の働きかけを受けた議会の要請で仕方なく、というのが本当のところであるようです。ですから、ここをはき違えてクロムウェルが積極的に航海法制定を行った、という風に書いてしまうと実態とのずれが生じてしまいます。

「そんな細かいこと知らないってw」と思うなかれ。実は、このクロムウェルの態度は17世紀イギリス史を研究している人間が読む基本の概説書にはきちんと載っています。ですから、おそらくこの設問を作成した先生はすぐにこうした点に違和感を持つと思います。

脱線ついでに書いておくと、独裁者のイメージが強いクロムウェルですが、この独裁自体もクロムウェルが望んだ形ではなかったようです。国王を殺害してしまった議会派でしたが、慣れない「共和政」なる政体に完全に戸惑ってしまい、意見がまとまりません。かれらは、自ら政策を立案決定などしたことがなかったので、それを任された時に途方に暮れてしまいます。何だかこのあたり、突然政権を担当することになった万年野党のようですね。そこで議会は強力なリーダーシップを持つ指導者を待望するようになります。そして議会は、あろうことかクロムウェルに「どうか僕たちの国王陛下になってください!」とお願いをします。せっかく苦労して王政を打倒したにもかかわらず、です。

これには、クロムウェルの方が面食らってしまいます。厳格なピューリタンで清貧と節制を良しとしたクロムウェルは、この要請を断ります。当然ですねw 自分で国王を殺しておいて自分が国王になってしまったら全く自己を正当化することができません。完全な簒奪者、弑逆者になってしまいます。まるでシェイクスピアのリチャード3世みたいな立ち位置になることはクロムウェルの本意ではありません。ところが、あきらめきれない議会は「それなら、国王陛下ではなくて、国を守るために僕らを導くリーダーになってください!」と要請します。これはさすがにクロムウェルも断るわけにはいかず、承諾します。これが「護国卿(Lord Protector)」というあの地位です。

ですから、クロムウェルの独裁というのは、絶対王政における国王による統治とは異なりますし、ヒトラー的な強権による独裁とも全く異なります。たしかに、クロムウェルは軍を握り強力なカリスマを持ってはいましたが、その権力は議会からの委任とその後の調停役としての力量によるものであって、彼自身が何でも自由にすることができた、というのとは根本的に違うのです。ですから、彼自身が望まなかった航海法が制定されたというのも、そうしたコンテクストの中で考える必要があります。このあたりのやや突っ込んだイギリス史の概説が読みたいという時には、色々な本がありますが、私のお勧めは17世紀についてはBarry Coward, The Stuart Age: England 1603-1714 (London: Longman, 2003)17世紀末から19世紀初頭についてはFrank OGorman, The Long Eighteenth Century: British Political & Social History 1688-1832 (London, Hodder Arnold, 1997)18世紀史を中心としてはH.T. Dickinson(ed.), A Companion to Eighteenth-Century Britain (Oxford, Blackwell, 2002)あたりがしっかりしていて面白いと思います。

 

だいぶ話がそれましたw 問題なのは廃止の理由ですね。これについては、かねてからお話ししていた19世紀初頭のイギリスの自由貿易体制、自由主義外交の動きをしっかり頭に入れてあるかがカギになります。すでに、当ブログの「あると便利なテーマ史③:近現代経済学の変遷」の「ここがポイント」のところで詳しく説明してありますし、一橋の問題解説の方でも似たようなことをお話しした記憶があります。

http://history-link-bottega.com/archives/cat_216372.html

 イギリスでは産業革命の進展に伴い、産業資本家が台頭してきます。その中で、既存の特権を持った集団との軋轢が生まれてくるわけです。

 
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  ですが、産業資本家は選挙法改正前には選挙権は持っていません。(昔、この時期について指摘して「19世紀の議会においては貴族などの旧来の支配階層による寡頭制は崩された」とする説を、図表などを駆使して批判せよ、という設問が慶応で出ましたねぇ。記憶曖昧ですが、たしか1994年でしたか。「ジェントルマン資本主義」論が流行ってたからですかね。)ですが、彼らは「圧力団体(Pressure Group)」として議会に対して効果的なロビー活動を行うことは可能でした。こうした中で、産業資本家が要求する自由貿易主義論が高まっていきますし、選挙法改正も達成されるわけです。産業資本家に選挙権がないからと言って議会に対して無力であったなら、いつまでたっても選挙法が改正されるわけがありませんからねw ですから、航海法廃止の理由も、基本の路線は「産業革命→産業資本家の台頭→自由貿易要求の高まり」で良いと思います。この動きに当時の穀物法廃止運動をからめて、選挙法改正による産業資本家の選挙権獲得がこうした自由貿易への動きを加速したとしておけばまずまずの解答が仕上がるでしょう。まとめると、以下のようになります。

 

2、廃止の理由

 産業資本家の台頭と自由貿易要求の高まり

(関連事項)

  産業資本家台頭の背景:産業革命

  自由貿易要求の背景:長年の保護貿易による物価高騰に対する労働者、産業資本家の反感

  廃止の時期:1849年、ラッセル内閣(ホイッグ党)の時

  政治的関連:19世紀初頭ヨーロッパの自由主義の波、第1回選挙法改正(1832

  経済的関連:反穀物法同盟(1838結成)、コブデン・ブライト、穀物法廃止

 

【解答例】

 オランダと海上交易の覇権を争っていた貿易商の要請を受け、クロムウェル統治下の議会はイギリスへの輸入をイギリス船または原産国の船に限定する航海法を制定し、オランダの中継貿易を妨害する重商主義政策を展開した。その後の英蘭戦争に勝利し海洋覇権を握ったイギリスであったが、産業革命による工業化が進み産業資本家が台頭すると、長年の保護貿易による物価高騰に対する不満から自由貿易要求が高まった。第1選挙法改正により産業資本家にまで選挙権が拡大されると運動は勢いを増し、コブデンやブライトが攻撃した穀物法とともに航海法も自由貿易の障害と批判され、1849年に航海法が廃止されたことでイギリスでは自由貿易体制が確立した。(300字)

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【問 題】

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

問題の概要は以下の通りです。

・中国をめぐる外交関係の展開を説明せよ。

 

ただし、設問導入部分の文章から以下の条件が想定できます。

・中華人民共和国の成立以降の話であること。

・その時々の国際関係による影響や、逆に中国が他国の外交政策に影響を及ぼしたことなどを考慮せよ。

・指定語句は「中ソ友好同盟相互援助条約 / 中ソ論争 / ニクソン・ドクトリン / 日華平和条約」の四語で、これらを「列記した順に用いて」解答することが求められています。(示した指定語句の順番は設問通り)

・指定字数は200字から250字です。

・所定の語句には下線を付せ。

 

早稲田はなんだかんだ言って中国好きそうですね。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

・設問の要求

:(中華人民共和国の成立以降の)中国をめぐる外交関係の展開を記せ

・留意点

:その時々の国際関係から中国の外交政策はどのような影響を受けたか。また、他国の外交政策にどのような影響を及ぼしたかに注目。

 

【解答手順2:指定語句分析】

・指定語句についてですが、「列記した順に用いて」とあるにもかかわらず、日華平和条約(1952)があるなど、起こった年代順ではないので注意が必要です。もっとも、このことが逆にヒントにもなっています。

 

・中ソ友好同盟相互援助条約(1950

:台湾の国民党政府がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」を狙うことに対抗。米ソ冷戦下での軍事同盟、「向ソ一辺倒」。本条約のもとに中国は朝鮮戦争に「義勇軍」を派遣。

アメリカはアジアにおける防共圏の形成に腐心(対中封じ込め)

アメリカによる太平洋集団安全保障構想に基づく反共同盟や、関連する条約などは以下の表の通りです。

 

1951

米比相互防衛条約

太平洋安全保障条約(ANZUS

日米安全保障条約

(サンフランシスコ講和条約とともに)

1952

日華平和条約(本設問での使いどころはここではない)

1953

米韓相互防衛条約

1954

米華相互防衛条約

東南アジア条約機構(SEATO

 

 ワンポイント

 一見すると脈絡がなくて覚えにくい反共同盟にも、背景があります。たとえば、1951年の諸同盟について言えば、アジアでの冷戦激化にともない、米英では対日早期講和論が台頭してこの実現に向けた動きが強まりましたが、これに対し日本の軍国主義の再度の台頭を恐れるオーストラリア・ニュージーランド・フィリピンは反対し、むしろ「対日防衛」圏構築の必要性を訴えました。アメリカとしても集団安全保障体制に基づいて講和後も米軍が日本に駐留できれば日本の防衛と日本における軍国主義の抑制の双方を達成しうると判断して、日本を含めたNATO型の集団安全保障体制を形成しようとしましたが、オーストラリアとニュージーランドは日本と同盟国になることを拒否しました。このため、アメリカは両国との間にANZUS(オーストラリアのA、ニュージーランドでNZ、アメリカ合衆国でUSですね)を、フィリピンとの間に米比相互防衛条約を締結の上で、日本と講和して日米安全保障条約を締結する、という形で個々に反共同盟を構築する流れになったわけです。

 1953年の米韓相互防衛条約は朝鮮戦争の影響ですね。実はこの太平洋集団安全保障構想は1949年初めにフィリピンの提案に賛同した朝鮮の李承晩や台湾(中華民国)の蒋介石から持ち込まれたものでした。ところが、アメリカは1949年の段階ではこれらの国が内政の安定化のためにアメリカを利用しようとしているのではないかと考えて消極的だったんですね。アメリカが対日講和に本腰をいれるのは1949年の後半からで、反共同盟構築が促進されたのは朝鮮戦争が開戦した後のことです。また、米華相互防衛条約は、当初台湾に対する軍事援助を打ち切っていたアメリカが、他の中国周辺事態が鎮静化(1953年朝鮮戦争終結、1954年第1次インドシナ戦争停戦)したことで、矛先が台湾に向かうことを懸念したから締結されたものです。教科書的には「反共防衛圏を形成した」の一言で片づけられてしまうのですが、背景にはその時々での国際関係の変化や国民感情、国家間の利害対立が複雑に作用していました。結局、アメリカはこの太平洋集団安全保障構想の実現に失敗し、個別の対応をとらざるをえなくなりました。

・中ソ論争[1950年代以降の中ソ対立(中ソ論争)と米ソ接近]

1953年のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存路線に毛沢東が反発

(中国の独自路線と米ソの接近)

1954 周・ネルー会談「平和五原則」

1955 バンドン会議「平和十原則」

1959 フルシチョフの訪米(アイゼンハウアーとの会談)

中ソ技術協定破棄(1959):ソ連技術者の中国からの引き上げ

中国は大躍進政策に失敗

 

 ・1960年代の中ソ対立激化

1962 キューバ危機:米ソ再対立とその解決

   中印国境紛争:ソ連がインドに武器支援

1963 部分的核実験停止条約

1969 中ソ国境紛争(ウスリー川のダマンスキー島での軍事衝突)

 

1970年代の米中接近(ニクソン=ドクトリン / 日華平和条約)

:ヴェトナム戦争の泥沼化とアメリカの財政赤字

アメリカが戦争を「ヴェトナム化」することを企図、中国への接近を図る

1969 ニクソン=ドクトリン

:ヴェトナムへの過度な軍事介入を避けることを言明中国に接近

1971 国連代表権が台湾から中華人民共和国へ

   1972 ニクソンの訪中:事実上の中国との国交正常化

日中共同声明と国交正常化

日華平和条約の失効、日本が台湾と断交

   1978 日中平和友好条約

   1979 米中国交樹立

 

【解答手順3:解答のポイント】

 設問の要求と指定語句を検討すれば、ここでは中国(中華人民共和国)をめぐる国際関係の大きな変化を示せばよいことがわかります。基本の流れは「当初は冷戦構造が成立する中でソ連に接近1950年代前半から中ソ論争中ソ論争の激化と軍事衝突(中ソ国境紛争)ヴェトナム戦争の泥沼化によるアメリカの方針転換と中国への接近1970年代に入り、日米中の平和共存」という流れになります。この流れ自体は早稲田の法学部を受験するのであれば作れるようにしておきたいですね。問題になるのは「日華平和条約」の使い方です。設問に「列記した順に用いて」とあるので、時系列で書いていくと締結時(1952)のタイミングでは使えません。やはりここは、日本と中国の関係改善にともなって本条約が失効した、という流れで話をまとめるべきでしょう。実際、これが論述の方向性のヒントにもなっているのですが、問題はかなりの数の受験生が「日華平和条約って何だ?」となってしまっていることですね。正直、試験会場でも日華平和条約に反応してきちんと内容も把握できた受験生は少数派で、世界史の得意な人たちでしょう。だとすれば、仮に日華平和条約の部分が書けなかったとしてもそれほど気にすることはありません。上述した大きな流れさえ外さずに書けていれば、きちんと7割~75分くらいは確保できるはずです。最悪でも6割を下回ることはありません。いつも申し上げていることですが、論述は満点解答を作成するよりも、大幅な点数の取りこぼしをしないことが重要です。まして、早稲田は他にも数多くの小問がありますから、全体として合格点にたどり着くことを重視してください。

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[問 題]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 概要を紹介すると以下のようになります。

・民族自決の考え方の世界への波及の仕方について述べなさい。

・時期は20世紀初頭から20世紀前半まで

 (表現としてどうかと思いますが、要は1901-1950まで)

・指定語句は「平和に関する布告 / 十四か条の平和原則 / 三・一独立運動 / 国際連合」の四語が示されています。(順番は設問通り)所定の語句に下線を付せという指示は例年通りです。 

・指定字数は200字から250字です。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

:設問の要求は「20世紀初頭から20世紀前半までにどのように民族自決という考え方が波及していったか」です。(期間は1901-1950年になります)

 

【解答手順2、指定語句分析】

 設問がややアバウトなので、まずは方向性を把握するために指定語句を精査します。正直なところ、「民族自決」について書こうと思えば東欧だろうとアジアだろうと中東だろうとあらゆるところをテーマに書けることが山ほどあるので、もう少し範囲や路線を絞って方向性を確認しないと書きようがありません。ですから、書き始める前に出題者が何を意図しているかを指定語句から推し量ることが必須です。

 逆に、指定語句の分析とその整理という作業さえ済んでしまえば、聞かれていることは基本的なことが多いのである程度は体裁を整えて書くことができると思います。

 

1 平和に関する布告(1917

:ロシア十一月革命(十月革命)を達成したボリシェヴィキが発布

:「無併合・無賠償・民族自決」の原則による講和の提唱

→1918 ブレスト=リトフスク条約によるドイツとの講和

 

2 十四か条の平和原則(1918

:ロシアの平和に関する布告に対抗してウィルソンが発表

[影響]

・第一次大戦後のパリ講和会議ならびにヴェルサイユ体制下において、フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年からユーゴスラヴィア)などの東欧諸国が独立

・アジア諸国やエジプトなどで民族自決を求める運動が激化

[問題点]

・一民族一国家の原則に基づいて東欧に国民国家が形成された結果、少数民族問題が発生

・民族自決の適用はヨーロッパのみであり、アジアには適用されなかった

 

 ワンポイント

 あまり世界史の教科書などでは言及されませんが、ウィルソンの十四か条の平和原則は、その前年にロシアのボリシェヴィキ(1918年からはロシア共産党)が発表した平和に関する布告に対抗する必要性から出された面があります。ボリシェヴィキが第一次世界大戦を帝国主義戦争と断罪し、その証拠としてロシア帝国時代に締結された秘密外交(サイクス=ピコ協定など)を次々に暴露したことで連合国側の戦争に対する大義名分は大きく揺らぎ、またロシアの戦争からの離脱によって東部戦線の維持が困難になり、協商国側は不利な立場に置かれることになりました。こうした中でウィルソンは新たな戦争目的として十四か条を示したのです。だから十四か条にも「秘密外交の禁止」という項目があるのですね。

 ですが、共産主義者であるレーニンが示した平和に関する布告と、英・仏などの植民地を多く抱えた協商国に配慮しなくてはならないウィルソンの十四か条では内容に大きな差がありました。本設問に関係する民族自決について言えば、平和に関する布告が民族自決を全面承認する内容になっていたのに対し、十四か条では「関係住民(植民地住民など)の利害が、法的権利を受けようとしている政府(支配国政府)の正当な請求と同等の重要性を有する」として、民族自決の重要性を認めながらも、それはあくまで本国政府が「正当」に有する権利と比較衡量された上で認められるべきものだとされています。さらに、その適用範囲も、第10条から第13条によって示されているように、基本的に敵対国の民族集団に適用されるものでした。

 ちなみに、第10条から第13条の内容をかいつまんで示すと以下のようになります。

 

 第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の自治

 第11条:バルカン諸国の回復

 第12条:トルコ少数民族の保護

 第13条:ポーランドの独立

 

 ね?もう何というか、そのまんまドイツ・オーストリア・オスマン帝国が利害を持っていた地域でしょ?ですから、民族自決がヨーロッパにのみ適用されたというのは、何のことはない、要はこれら敵対国の解体を進めたに過ぎなかったからなんです。ですから、民族自決がアジアなどに適用されなかったのも無理はありません。だって、これらの地域は戦勝国の支配地なんですから。

 いずれにしても、ヴェルサイユ条約によって東欧諸国は独立を果たしました。もっとも、これはロシア革命がヨーロッパに波及することを防ぐこともその目的としていました。以下の薄い黄色がついている国がこの時に独立した諸国です。

WWI後の東欧_国名入り
(第一次世界大戦後のヨーロッパ)

 「東欧の地図なんて覚えても」と思う人がいるかもしれませんが、多くの受験生が世界史を覚えられない原因の一つに「地図を把握していない」ということがあると考えています。「中央アジア」とか「イベリア半島」と言われた時に「パッ」とその地域が目に浮かぶようにするとイメージ付けも簡単ですが、知らない情報の上に知らない情報を重ねようとしてもうまくいきません。また、東欧は中世では神聖ローマ帝国、近現代ではオスマントルコ、ロシアの南下政策、ドイツ・オーストリアの進出や戦後の共産化など、様々な分野で出題される地域にもなりますから、せめて「ポーランド」、「チェコスロヴァキア(このうち東部がチェコ[ベーメン])」、「ハンガリー」の位置関係くらいは把握しておきましょう。バルト三国が覚えづらい時は、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの順だけ覚えておくと、「リトアニア=ポーランド大公国」があるからポーランドに近い方がリトアニアだ、と判断がつきます。ものを覚えるときに重要なのは、語呂合わせなどももちろん良いですが「常に同じ順番で覚える」など自分なりのルールを決めておくことです。

 

3 三・一独立運動(1919

[背景] 

・朝鮮総督府による武断政治と土地調査事業

・パリ講和会議に対する期待(東京で留学生が独立宣言とデモ)

[事件の発生と経過]

・高宗(ハーグ密使事件後日本の監視下に)の死

ソウルで数千人規模のデモ、独立宣言

3月から5月で延べ50200万人参加、死者数百~1万弱を出す全国規模の運動に発展

日本は文化政治への転換

李承晩は上海で大韓民国臨時政府を結成

 

4、国際連合成立(1945

[成立の背景と民族自決]

・大西洋憲章(1941

=枢軸国との戦争目的と戦後の国際協調についての英・米合意民族自決の明記

 ・サンフランシスコ会議(1945

国際連合憲章採択、半年後の10月に発足

[国際連合成立の民族自決にとっての意義]

 ・それまでは理念に過ぎなかった民族自決に国際法上の根拠が成立

インド・朝鮮の独立、その他東南アジア各国で独立運動

 

【解答手順3、解答のポイント】

 本設問のポイントは、何といっても「民族自決」を軸に解答を整理するということです。これにつきます。さらに、もう一点ポイントをあげるとすれば「国際連合の使い方」ですね。「平和に関する布告」や「十四か条の平和原則」、「三・一独立運動」が比較的近い時期(23年の間)におこった出来事であるのに対して、残り一つ「国際連合」だけは1945年設立と数十年もの開きがあります。流れでいったら「国際連盟」があってもいいのですが、そうではないのですね。そこにどのような意味を見出すか、これがポイントではないでしょうか。

 だとすれば、基本的な流れは「ボリシェヴィキの発表した平和に関する布告の中で民族自決が示されたことに対抗して、ウィルソンは十四か条の平和原則を発表したが、これは民族自決を敵対国の支配地であった東欧諸国に限定し、アジアなどの植民地には適用しないという限界があった。これに期待を裏切られたアジアなどの植民地では民族運動が激化し、朝鮮では三・一独立運動が起こった。(ちなみにこれで165字)」という流れだと思いますが、これに国際連合設立によって民族自決に国際法上の根拠が示されたこと、英仏に植民地を抑える力が残っていなかったことなどから、インドや朝鮮の独立や各地での独立運動へとつながったとまとめるとすっきりすると思います。様々な情報があって取捨選択することが難しいのは相変わらずですが、大切なことは設問の要求する大テーマを外さないこと、そして設問に含まれる意図をどこまで正確にくみ取るかということです。やはり、ここでもコミュニケーションが大切になるのですね。出題者の側は多少そっけないですがw

 

【解答例】

民族自決を掲げたソヴィエト政権の平和に関する布告に対抗してウィルソンは十四ヵ条の平和原則を示し、パリ講和会議では東欧諸国独立が達成されたが、戦勝国の植民地が多いアジア・アフリカの自決権は認められなかった。そのため、朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動、インドのサティヤーグラハのほか、エジプトや東南アジア各地でも独立を求める民族運動が高揚したが弾圧された。第二次世界大戦が始まると、国際連合成立過程で大西洋憲章などの諸法規に民族自決が国際法上の権利として明示され、朝鮮やインドの独立の根拠となった。(250字) [解答例を2022.6.21に更新しました]

 

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