[問 題]
早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。
(https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/)
概要を紹介すると以下のようになります。
・民族自決の考え方の世界への波及の仕方について述べなさい。
・時期は20世紀初頭から20世紀前半まで
(表現としてどうかと思いますが、要は1901-1950まで)
・指定語句は「平和に関する布告 / 十四か条の平和原則 / 三・一独立運動 / 国際連合」の四語が示されています。(順番は設問通り)所定の語句に下線を付せという指示は例年通りです。
・指定字数は200字から250字です。
【解答手順1:設問内容の確認】
:設問の要求は「20世紀初頭から20世紀前半までにどのように民族自決という考え方が波及していったか」です。(期間は1901-1950年になります)
【解答手順2、指定語句分析】
設問がややアバウトなので、まずは方向性を把握するために指定語句を精査します。正直なところ、「民族自決」について書こうと思えば東欧だろうとアジアだろうと中東だろうとあらゆるところをテーマに書けることが山ほどあるので、もう少し範囲や路線を絞って方向性を確認しないと書きようがありません。ですから、書き始める前に出題者が何を意図しているかを指定語句から推し量ることが必須です。
逆に、指定語句の分析とその整理という作業さえ済んでしまえば、聞かれていることは基本的なことが多いのである程度は体裁を整えて書くことができると思います。
1、 平和に関する布告(1917)
:ロシア十一月革命(十月革命)を達成したボリシェヴィキが発布
:「無併合・無賠償・民族自決」の原則による講和の提唱
→1918 ブレスト=リトフスク条約によるドイツとの講和
2、 十四か条の平和原則(1918)
:ロシアの平和に関する布告に対抗してウィルソンが発表
[①影響]
・第一次大戦後のパリ講和会議ならびにヴェルサイユ体制下において、フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年からユーゴスラヴィア)などの東欧諸国が独立
・アジア諸国やエジプトなどで民族自決を求める運動が激化
[②問題点]
・一民族一国家の原則に基づいて東欧に国民国家が形成された結果、少数民族問題が発生
・民族自決の適用はヨーロッパのみであり、アジアには適用されなかった
★ ワンポイント
あまり世界史の教科書などでは言及されませんが、ウィルソンの十四か条の平和原則は、その前年にロシアのボリシェヴィキ(1918年からはロシア共産党)が発表した平和に関する布告に対抗する必要性から出された面があります。ボリシェヴィキが第一次世界大戦を帝国主義戦争と断罪し、その証拠としてロシア帝国時代に締結された秘密外交(サイクス=ピコ協定など)を次々に暴露したことで連合国側の戦争に対する大義名分は大きく揺らぎ、またロシアの戦争からの離脱によって東部戦線の維持が困難になり、協商国側は不利な立場に置かれることになりました。こうした中でウィルソンは新たな戦争目的として十四か条を示したのです。だから十四か条にも「秘密外交の禁止」という項目があるのですね。
ですが、共産主義者であるレーニンが示した平和に関する布告と、英・仏などの植民地を多く抱えた協商国に配慮しなくてはならないウィルソンの十四か条では内容に大きな差がありました。本設問に関係する民族自決について言えば、平和に関する布告が民族自決を全面承認する内容になっていたのに対し、十四か条では「関係住民(植民地住民など)の利害が、法的権利を受けようとしている政府(支配国政府)の正当な請求と同等の重要性を有する」として、民族自決の重要性を認めながらも、それはあくまで本国政府が「正当」に有する権利と比較衡量された上で認められるべきものだとされています。さらに、その適用範囲も、第10条から第13条によって示されているように、基本的に敵対国の民族集団に適用されるものでした。
ちなみに、第10条から第13条の内容をかいつまんで示すと以下のようになります。
第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の自治
第11条:バルカン諸国の回復
第12条:トルコ少数民族の保護
第13条:ポーランドの独立
ね?もう何というか、そのまんまドイツ・オーストリア・オスマン帝国が利害を持っていた地域でしょ?ですから、民族自決がヨーロッパにのみ適用されたというのは、何のことはない、要はこれら敵対国の解体を進めたに過ぎなかったからなんです。ですから、民族自決がアジアなどに適用されなかったのも無理はありません。だって、これらの地域は戦勝国の支配地なんですから。
いずれにしても、ヴェルサイユ条約によって東欧諸国は独立を果たしました。もっとも、これはロシア革命がヨーロッパに波及することを防ぐこともその目的としていました。以下の薄い黄色がついている国がこの時に独立した諸国です。
「東欧の地図なんて覚えても…」と思う人がいるかもしれませんが、多くの受験生が世界史を覚えられない原因の一つに「地図を把握していない」ということがあると考えています。「中央アジア」とか「イベリア半島」と言われた時に「パッ」とその地域が目に浮かぶようにするとイメージ付けも簡単ですが、知らない情報の上に知らない情報を重ねようとしてもうまくいきません。また、東欧は中世では神聖ローマ帝国、近現代ではオスマントルコ、ロシアの南下政策、ドイツ・オーストリアの進出や戦後の共産化など、様々な分野で出題される地域にもなりますから、せめて「ポーランド」、「チェコスロヴァキア(このうち東部がチェコ[≒ベーメン])」、「ハンガリー」の位置関係くらいは把握しておきましょう。バルト三国が覚えづらい時は、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの順だけ覚えておくと、「リトアニア=ポーランド大公国」があるからポーランドに近い方がリトアニアだ、と判断がつきます。ものを覚えるときに重要なのは、語呂合わせなどももちろん良いですが「常に同じ順番で覚える」など自分なりのルールを決めておくことです。
3、 三・一独立運動(1919)
[①背景]
・朝鮮総督府による武断政治と土地調査事業
・パリ講和会議に対する期待(東京で留学生が独立宣言とデモ)
[②事件の発生と経過]
・高宗(ハーグ密使事件後日本の監視下に)の死
→ソウルで数千人規模のデモ、独立宣言
・3月から5月で延べ50~200万人参加、死者数百~1万弱を出す全国規模の運動に発展
→日本は文化政治への転換
→李承晩は上海で大韓民国臨時政府を結成
4、国際連合成立(1945)
[①成立の背景と民族自決]
・大西洋憲章(1941)
=枢軸国との戦争目的と戦後の国際協調についての英・米合意→民族自決の明記
・サンフランシスコ会議(1945)
→国際連合憲章採択、半年後の10月に発足
[②国際連合成立の民族自決にとっての意義]
・それまでは理念に過ぎなかった民族自決に国際法上の根拠が成立
→インド・朝鮮の独立、その他東南アジア各国で独立運動
【解答手順3、解答のポイント】
本設問のポイントは、何といっても「民族自決」を軸に解答を整理するということです。これにつきます。さらに、もう一点ポイントをあげるとすれば「国際連合の使い方」ですね。「平和に関する布告」や「十四か条の平和原則」、「三・一独立運動」が比較的近い時期(2~3年の間)におこった出来事であるのに対して、残り一つ「国際連合」だけは1945年設立と数十年もの開きがあります。流れでいったら「国際連盟」があってもいいのですが、そうではないのですね。そこにどのような意味を見出すか、これがポイントではないでしょうか。
だとすれば、基本的な流れは「ボリシェヴィキの発表した平和に関する布告の中で民族自決が示されたことに対抗して、ウィルソンは十四か条の平和原則を発表したが、これは民族自決を敵対国の支配地であった東欧諸国に限定し、アジアなどの植民地には適用しないという限界があった。これに期待を裏切られたアジアなどの植民地では民族運動が激化し、朝鮮では三・一独立運動が起こった。(ちなみにこれで165字)」という流れだと思いますが、これに国際連合設立によって民族自決に国際法上の根拠が示されたこと、英仏に植民地を抑える力が残っていなかったことなどから、インドや朝鮮の独立や各地での独立運動へとつながったとまとめるとすっきりすると思います。様々な情報があって取捨選択することが難しいのは相変わらずですが、大切なことは設問の要求する大テーマを外さないこと、そして設問に含まれる意図をどこまで正確にくみ取るかということです。やはり、ここでもコミュニケーションが大切になるのですね。出題者の側は多少そっけないですがw
【解答例】
民族自決を掲げたソヴィエト政権の平和に関する布告に対抗してウィルソンは十四ヵ条の平和原則を示し、パリ講和会議では東欧諸国独立が達成されたが、戦勝国の植民地が多いアジア・アフリカの自決権は認められなかった。そのため、朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動、インドのサティヤーグラハのほか、エジプトや東南アジア各地でも独立を求める民族運動が高揚したが弾圧された。第二次世界大戦が始まると、国際連合成立過程で大西洋憲章などの諸法規に民族自決が国際法上の権利として明示され、朝鮮やインドの独立の根拠となった。(250字) [解答例を2022.6.21に更新しました]