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カテゴリ: あると便利なテーマ史

 先日、ブログを友人に見せたところ「イタリア戦争の項目って、両シチリア王国の話でイタリア戦争の部分ほとんどなくねw」と言われましたw しかり、ごもっとも。ただ、これは何もHANDが手抜きをしたからとかいうことではなくて、単純に受験生に必要な情報に絞って書いたらこうなりましたよ、ということなんです。イタリア戦争については戦争の経過自体よりも「戦争に至るまでのイタリア周辺の政治状況の概略」と「イタリア戦争中に形成される大きな構図(ヴァロワ家フランスvsハプスブルク家)」、「イタリア戦争の意義(ルネサンスの衰退・主権国家体制の形成開始など)」が世界史では問われるので、そこに情報を絞ったんですね。ただ、こちらをご覧になる方の中にはイタリア戦争自体の概略を知りたい、という方もいらっしゃるかと思いますので、少し視点を変えてイタリア戦争について詳述しておきたいと思います。(この部分は特に世界史で頻出というわけではありませんし、おそらく知らなくてもどうにかなる部分かとは思いますので注意して下さい。ただし、稀に一橋などでちょっとはっちゃけちゃった場合に出題されることがありますw)

 

 まずは、イタリア戦争までのイタリア周辺の政治状況を概観してみましょう。おおざっぱにいうと、11世紀頃までのイタリアは北イタリアを神聖ローマ帝国、南イタリアを東ローマ帝国、シチリアをイスラーム勢力、さらには教皇領と4分されていました。ただし、この勢力図は実際には名目上のもので、イタリアの各地にはコムーネをはじめとする小国家が成立しており、これがその時々の勢力に応じて神聖ローマ帝国ないし東ローマ帝国の権威に服したり、逆に同盟を組んでこれらに対抗したりしていました。簡単に整理すればこのようになります。

 

(北イタリア)

 フランクによる制圧までは東ゴート王国→東ローマ帝国→ランゴバルドの支配、9世紀以降は中部フランクの支配下に入ります。この時期において特筆すべきことは、ラヴェンナが東ローマのイタリア支配の拠点となっていくことでしょう。本来、東ローマの派遣した部隊長的立場にあった東ゴート王国(テオドリックは東ローマ皇帝ゼノンによって派遣されています)のイタリア支配に否定的だったユスティニアヌスは東ゴートを征服してラヴェンナを占領。以降、この地は東ローマのイタリア支配の中心となる総督府がおかれる都市となります。サン=ヴィターレ聖堂(548年完成)に例のユスティニアヌスと皇后テオドラの肖像が描かれたモザイクがあるのはこのことによります。


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Wikipedia「サン=ヴィターレ聖堂」より引用)

 

 ですが、東ローマの影響力の低下とローマ教皇との対立の中で、東ローマのイタリア支配は難しくなり、8世紀の前半にはランゴバルド族にここを奪われます。その後は、フランク王国の侵入とピピンの寄進にいたるまでの受験生にはおなじみの流れになりますね。10世紀頃からは神聖ローマ帝国のイタリア政策に悩まされます。典型的なものがシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)のフリードリヒ1世などですが、これに対抗してイタリアでは1167年にロンバルディア同盟がミラノを中心にボローニャ・パルマ・マントヴァ・パドヴァなどのロンバルディア諸都市により結成され、1176年にレニャーノの戦いでフリードリヒ1世の軍を撃退した後も継続され、イタリアの教皇党(ゲルフ)の中心となります。一方で、イタリア内の皇帝党(ギベリン)の存在や、ローマ教皇との関係などにより、神聖ローマ皇帝がどの程度の影響力を有していたかは時代によってたえず変化しました。

 

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クリーム:ビザンツ帝国

オレンジ:ランゴバルド系の諸国

ピンク:係争地

Wikipediaより引用、8世紀初頭のイタリアです。)

 

(中部・南イタリア)

 南イタリアの多くの部分はランゴバルド系のベネヴェント公国の支配下に入りましたが、周辺諸地域は東ローマ(ビザンツ)帝国や、これから派生したアマルフィ公国、イスラームが支配するシチリア首長国などが乱立していました。理解しておきたいのは東ローマの影響力低下にともない、イスラーム勢力の浸透が見られたことです。もともとは東ローマの支配下におかれていたシチリアでしたが、この島を治めていた総督が東ローマに反乱を起こした際に援助を求めたことがきっかけで、アッバース朝支配下の独立政権アグラブ朝がシチリア島に侵入、これを段階的に制圧します。これにより、シチリアにはおよそ200年にわたってアグラブ朝系のイスラーム勢力であるシチリア首長国(831-1072)が成立することになりました。よく、シチリア島で育ったシュタウフェン朝のフリードリヒ2世の宗教的寛容性やイスラーム文化の受容、近代的視点などが言われ、テレビの特集番組などで紹介されることがありますが、その背景にはこうしたシチリア島や南イタリアの歴史的背景があるのです。

 

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10世紀末イタリア」

WikipediaList of historic states of Italy」より引用)

 

 その後、こうした様々な勢力が割拠していたイタリアに、ノルマン人たち、なかでもフランス・ノルマンディー公国で次第に貴族化したノルマン系貴族たちが入り込んできます。そのきっかけははっきりしませんが、「サレルノ伝承」と呼ばれる半伝説的な記録によれば、イスラームからの貢納要求に困っていた当地の領主のために働いたことがきっかけで、南イタリアで傭兵として働けばかなりの褒賞を得ることができるという噂が当時ヨーロッパで盛んになってきていた巡礼者の口を通して伝わったことからであるようです。このようにして入り込んできたノルマン系貴族の中に、ロベール=ギスカールとルッジェーロ1世がいたわけですね。彼らは、教皇のお墨付きをいただいて南イタリアの各地を統合していきます。


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1112年イタリア」

WikipediaList of historic states of Italy」より引用)

 

 その後、彼らが征した南イタリアをルッジェーロ1世の子、ルッジェーロ2世が継承して(両)シチリア王国となったことは以前「あると便利なテーマ史に書いた通りです。


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http://imillecoloridinapolii.blogspot.jp/より引用)

 

13世紀以降のイタリア)

 さて、それ以後のイタリアですが、皆さんもご存じの通り、北イタリアでは各地にコムーネと呼ばれる都市共和国や、シニョリーア制(もともとは都市共和国などであったものが、臨時に独裁官を任命することをきっかけに終身、世襲の僭主となること)などから発展した公国が成立します。代表的なものにはヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、シエナなどのコムーネやミラノ公国(ヴィスコンティ家)やフェラーラ公国(エステ家)などがあります。

 

 また、南イタリアでは、12世紀から13世紀にかけてはシュタウフェン朝が統治していた(両)シチリア王国(当時はシチリアと後のナポリ王国の領域を含めた全域が「シチリア王国」とよばれていました)でしたが、フリードリヒ2世死後の後継者争いの中で、教皇の支持を受けたフランス貴族アンジュー家のシャルル(シャルル=ダンジュー、ルイ8世子、ルイ9世弟)が兄ルイ9世の承認を受けてシチリア王国に侵入し、フリードリヒ2世の庶子であったマンフレーディを敗死させてカルロ1世としてシチリア王に即位しました(1266年)。

 

 ところが、突然やってきたこのフランス系貴族の支配にシチリア王国の民衆は不満を募らせていきます。当時、カルロ1世(シャルル=ダンジュー)は姻戚関係から滅亡したラテン帝国(1261年滅亡、最後の皇帝ボードゥアン2世の息子フィリップがシャルル=ダンジューの娘婿)の継承権を主張して東ローマ帝国のミカエル8世(パラエオロゴス朝)と対立していたため、住民から強制徴発などを行っていたとも言われます。こうしたカルロ1世に対する不満が噴出したのが1282年のシチリアの晩鐘(晩祷)とよばれる暴動事件です。事件の背後にはアンジュー家による地中海支配を恐れるイベリア半島のアラゴン家や、東ローマ皇帝ミカエル8世の謀略があったとする説もありますが、いずれにせよこの暴動事件に端を発する混乱の中でカルロ1世はシチリア島からの撤退を余儀なくされ、シチリア島にはこの混乱に乗じてカルロ1世を破ったアラゴン家のペドロ3世が侵入して、カルロ1世に敗れて死んだかつてのシチリア王マンフレーディの娘婿であることを理由として王位につきました。一方、シチリア島を追い出されたカルロ1世は南イタリアに逃れてこの地を確保し、あらためてナポリ王として即位します。その結果、それまでは「シチリア王」という称号のもとに統治されていたシチリア島とイタリア半島南部は「シチリア王国(アラゴン家)」と「ナポリ王国(アンジュー家)」の二つの王国に分割されていくことになります。

 

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14世紀イタリア」

https://jp.pinterest.com/pin/534309943262026426/より引用)

 

 

 その後、しばらくの間ナポリ王国はアンジュー家の支配下にありますが、15世紀に出たジョヴァンナ2世(女性)に後継者がなく、ジョヴァンナがその後継者に一度はアラゴン王アルフォンソ5世を指名したことなどがきっかけとなって、ジョヴァンナの死後にアンジュー家とアルフォンソ5世がナポリの領有をめぐって争います。この戦いに勝利したアルフォンソ5世はナポリ王位を獲得し、これ以降シチリア、ナポリともにアラゴン系の家系がこれを領有していくことになります。このように、南部においてシュタウフェン家→アンジュー家→アラゴン家とそれぞれ神聖ローマ帝国、フランス、イベリア半島と縁の深い家系が覇を競う一方で、北方のコムーネや諸侯国も周辺の大国や教皇との力関係の中で割拠する状態にありました。

 

 ですが、15世紀半ばのルネサンスが花開かんとしつつも群雄が割拠する時代に、イタリア半島全土を揺るがす大事件が起こります。オスマン帝国のメフメト2世によるコンスタンティノープル占領(1453)です。この事件が起こる前兆はすでに十数年前からイタリアにも届いていました。東ローマ皇帝ヨハネス8世(パラエオロゴス朝)が参加したバーゼル公会議(1431)とフェラーラ公会議(1438-39)です。両公会議は、1054年の正式分裂以来東西に分かれていたギリシア正教会ならびにローマ=カトリック教会の合同を餌として、オスマン帝国に対する十字軍の協力を西欧諸国から得るためにヨハネス8世が画策して開かれたものでした。ちなみに、この会議の際に多くのギリシア人学者がイタリアに来たことが、ルネサンスをさらに促進させることにつながったと言われています。一時は東西教会合同の署名が交わされるまでにいたった両会議でしたが、東ローマにおける人々の反対は根強く、ヨハネス8世の意に反してこの署名は教会、人民の総反対のもとで反故にされてしまいます。また、何とかこの合意に基づいて教皇の要請により派遣されたハンガリー王兼ポーランド王ウラースロー1世(ヴワディスワフ3世)の軍はオスマン帝国のムラト2世の軍に敗れ、ウラースロー自身も戦死してしまいました。

 

 実は、オスマン帝国のバルカン半島への進軍は15世紀の初めにある事情で停止していました。アンカラの戦い(1402)です。ムラト1世以来、アドリアノープル遷都(1366)、コソヴォの戦い(1389)、ニコポリスの戦い(1396)と、14世紀後半に着実にバルカン半島の奥へと侵攻してきていたオスマン帝国でしたが、後方に起こったティムールと雌雄を決したアンカラの戦いで皇帝バヤジット1世は捕らえられ、帝国は一時大混乱に陥ります。このため、バルカン半島への進行もストップします。

 

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ムラト1世時代の支配域の拡大

Wikipedia「ムラト1世」より引用)

 

 オスマンの攻勢に手を焼いていた東ローマ帝国では、ヨハネス8世の父であるマヌエル2世がこの好機をとらえて外交交渉に腐心し、オスマン帝国メフメト1世との間に友好的な外交関係を築き上げることに成功しました。しかし、その子のヨハネス8世はオスマン帝国に対する強硬策を主張し、メフメト1世の後を継いだばかりのムラト2世に対抗する、対立スルタンを擁立するという奸計を巡らせた上に失敗します。つまり、寝かしつけた虎の尾を踏んで起こしてしまったのです。先のバーゼル公会議、フェラーラ公会議は、オスマン帝国に追い詰められたヨハネス8世の苦肉の策でした。しかし、それも成果を上げることはなく、東ローマ帝国はヨハネス8世の次のコンスタンティノス11世がコンスタンティノープルでその命を散らした時に長い歴史に幕を下ろしました。

 

さて、この事態に驚いたのがイタリアの諸国です。それまでは自分たちの利益ばかり考えて半島内の勢力争いを行っていましたが、オスマン帝国が迫ってくるとなると話は別です。当面の争いは置いておいて、まずは共同戦線をはろうということで、イタリア半島の国際関係を安定させることにしました。その結果結ばれたのが「ローディの和(1454)」と呼ばれる和約です。イタリアを代表する当時の五大国(教皇領、ナポリ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア)が交わしたこの和平協定によりイタリアの政局は安定し、その後数十年にわたる盛期ルネサンス時代が訪れます。ボッティチェリも、レオナルド=ダ=ヴィンチも、ミケランジェロも、ラファエロもみんなこの時代に現われたのです。「イタリア戦争」が始まったのは、こうした15世紀の繁栄が終わりを告げようという、また一方では新たな世界への扉が開かれんとする、そんな時代だったのです。

 

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1494年、イタリア半島

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Italy_1494_AD.pngより引用)

 

(イタリア戦争)

ローディの和の一角が崩れ始めたのは1492年、コロンブスが新大陸を「発見」したこの年に、フィレンツェのロレンツォ=デ=メディチが病没します。メディチ家を継いだのは若干20歳のピエロ=デ=メディチでした。 

このことが周辺諸国の不安を煽ります。中でも不安に陥ったのはミラノ公国の実質的な支配者であったルドヴィーコ=スフォルツァでした。背後に大国フランスを抱えるミラノ公国の状況をよく知るルドヴィーコは、ロレンツォのいなくなったフィレンツェとの同盟関係の見直しに入ります。当時、ルドヴィーコは、甥のジャン=ガレアッツォから実権を奪う形でミラノ公国を取り仕切っていました。そして、そのジャンが1494年に亡くなったことをきっかけに正式にミラノ公位につきます。ところが、ジャンの妻であるイザベラ=ダラゴーナがナポリ王アルフォンソ2世の娘であったことからアルフォンソがこれに異議を唱えます。こうして、イタリア半島内における自身の立場が怪しくなったことを悟ったルドヴィーコはフランスに接近し、フランス王シャルル8世にナポリ王位の正式な継承権はフランス王家にあるのではないかとたきつけて自領の通行権を認め、フランス軍を北イタリアに引き入れます。フィレンツェのピエロはこの際、戦乱を嫌うフィレンツェ市民によって追放されてしまいました。フィレンツェはナポリ王位を要求して南イタリアへと進軍するシャルル8世のフランス軍の通行を許可します。イタリア戦争の始まりです。(ちなみに、この出来事を予見していたとされたサヴォナローラがその後フィレンツェで信望を集め、フィレンツェでは数年間彼の神権政治が展開されます。)

 

一時は2万を超す大軍を擁してイタリア入りしたシャルル8世でしたが、ナポリをはじめ、ナポリの親類筋のスペイン(カスティーリャ・アラゴン)や、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ教皇、神聖ローマ帝国、さらに一度はフランスについていたはずのミラノ公国のルドヴィーコらが連合軍を組織したことで追い詰められ、目的(ナポリ王位の継承)を果たせぬままに撤退します。その後、シャルル8世の後を継いだルイ12世(シャルル8世の義兄)は、再度遺恨の残るミラノ公国やナポリ王国への進軍を計画しますが、失敗に終わります。

その後もいくつかの小競り合いが続きますが、イタリア情勢が新展開を見せるのは1519年の神聖ローマ皇帝選出選挙です。この選挙ではフランスのフランソワ1世が対立候補として名乗りを挙げましたが、ハプスブルク家を継いだカール5世(カルロス1世)がこれを撃退し、神聖ローマ皇帝に選出されます。このことで、自領をハプスブルク領に囲まれることになったフランソワ1世は、自国防衛の拠点を確保するため、ピレネー山脈やネーデルラントで軍事行動を起こし、さらに停止していたイタリアでの戦闘も再開されました。

 

 ハプスブルク家

http://tabisuru-c.com/travel/germany_201205/germany_history/germany6.htmより引用した地図を一部改変)

 

この戦いの中で、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国とスペイン、教皇とそれに味方するイタリア諸侯、イングランド(当時はヘンリー8世)などを敵に回し、国際的に孤立したフランソワ1世は、遠く離れたオスマン帝国のスレイマン1世の宮廷へ使節を派遣し、カール5世と対抗させる同盟関係を構築することになります。(この中で、後のカピチュレーション[オスマン帝国による恩恵的諸特権]の素地が作られていくことになるわけです。)このようにしてヨーロッパのみならず、地中海全域を巻き込んだ戦いはヴァロワ家、ハプスブルク家の双方を疲弊させ、財政難にあえがせることになりました。カール5世の退位(1556年)をきっかけとして、これらの国々の次代の王たち(フランスのアンリ2世、スペインのフェリペ2世)によってカトー=カンブレジ和約が締結されたのは1559年のことです。イタリア戦争は、アンジュー家のシャルルの頃から続くイタリア領有の夢をかなえることなく、ハプスブルク家の優位を16世紀ヨーロッパにつくりだして終わりました。フランスが、ハプスブルク家に対してその遺恨を晴らすのは、三十年戦争後の1648年、ウェストファリア条約を締結するブルボン家の統治においてでした。

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 東アジアの通貨・産業・金融史に続いて、ヨーロッパ通貨・産業史と近現代の金融史についていくつか補足しておきたいと思います。

 

【ポイント①:リディアと古代ギリシアの商工業】
:取引手段としての金銀は古代においては「鋳造」されて用いられるのではなく、塊で取引され、その重さが交換の基準となりました。世界で最古の鋳造貨幣と言われるのは、リディアにおいて鋳造されたエレクトロン貨です。ここで注目してほしいのはリディアと古代ギリシアの位置関係です。世界史の教科書ではこの両地域の歴史は別々に出てくることが多いので受験生はあまり意識することがないのですが、実はリディアが勢力圏としたアナトリアと古代ギリシアは目と鼻の先にあります。

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そして、リディアが栄えたのは紀元前7世紀~紀元前6世紀です。さらに、『詳説世界史』の記述を見ると「ポリスの発展」という節に「前7世紀、小アジアのリディアで始められた鋳造貨幣をイオニアのポリスも取り入れて」とあります。このように、注意深く見ていくと一見別々の世界のように感じられるメソポタミア地域の歴史と古代地中海世界の歴史は、アケメネス朝の登場を待たなくてもリンクしてきます。

 各地に植民市を建設し、鋳造貨幣を取り入れた古代ギリシアはその商業活動を活発化させていきます。こうした中で、アテネで鋳造されるのがテトラドラクマ銀貨です。これは、ペイシストラトスが開発を奨励したラウレイオン銀山の銀をもとに鋳造されたものです。

 
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 Wikipedia「テトラドラクマ」より引用)


【ポイント
:「価格革命」の虚実】

:世界史の教科書や参考書には「価格革命」について以下のように書いてあります。

 

アメリカ大陸から大量の銀が流入して、価格革命とよばれる物価騰貴がおこった。これは、停滞していた経済活動に活気を与え、「繁栄の16世紀」をもたらした。農村にまで貨幣経済が浸透すると、農民の一部は経済力をつけて領主から自立するようになった。すでに固定額の貨幣地代が普及していた西ヨーロッパでは、貨幣価値の下落は領主層に大きな打撃を与え、封建社会の崩壊を促進した。」(東京書籍『世界史B』、平成27年度版、p.220.

 

しかし、実は『詳説世界史』にはこれに加えて目立ちませんが重要な記述があります。

 

 「その結果、銀の流通量が急速に増加したことが一因となって、ヨーロッパで激しいインフレーション(いわゆる「価格革命」)がおこった。16世紀を通じて、物価を数倍に引き上げることになったこのインフレには、ヨーロッパ全域における人口の激しい増加という原因もあったがいずれにせよ、この物価騰貴によって額面の固定した地代に依存する伝統的な封建貴族は苦境にたち、資本家的な活動をする新たなタイプの地主や農業経営者は、大きな利潤を獲得するようになった。」(『改訂版 詳説世界史研究』、山川出版社、2016年版)

 

実は、この赤い部分で示したところがカギなのです。近年、価格革命が銀の大量流入にのみによって引き起こされたという説は否定されつつあります。たとえば、例の世界システム論を日本に紹介したことで知られる川北稔は銀流入説を否定し、人口増加説をとっています。(村岡健次・川北稔編著『イギリス近代史宗教改革から現代まで』ミネルヴァ書房、1986年) 下の二つの図を見てください。これは、16世紀から17世紀にかけてスペインに流入した銀の5年ごとの流入平均量(最初の図)と累積流入量(2番目の図)、そして価格指数を比較したものです。(平山健二郎「16世紀『価格革命』論の検証」経済学研究58(3)2004年、207-225より。これは関西学院大学リポジトリより全文を参照することができます。)

 
スペインへの金銀流入量と価格

スペインへの金銀流入累積と価格
 
まず、図1を見ると、たしかに1500年代の後半に銀の流入量が増えるにつれて価格も上昇していることが見てとれます。また、図2を見ても銀の累積流入量が増えるにつれ、価格指数も上昇しています。かつての研究者たちはこれを根拠として銀流入による物価騰貴、すなわち「価格革命」論を展開しましたが、これには問題となる点がいくつかあります。

 

 流入量と価格指数に相関関係があるとすれば、1600年ごろから銀の流入量は減少傾向にあるのに価格が高止まりしている理由に説明がつかない。(図1)

 同じく、累積量が価格指数に影響を与えるとすれば、増加するほど価格が上がるはずであるが、1600年以降、累積流入量は増え続けているのに価格は頭打ちになり、むしろ下落傾向を示していることが説明できない。(図2

 

とくにこの2点が問題点として目立ちます。その他にも、金銀の流入比と各地域の価格上昇に一致が見られないこと(金銀が大量に流れ込んでいる地域も、逆にむしろ流出していく地域も同じように価格が上昇しているなど)や、金銀が大量流入する以前からすでに価格上昇が見られることなどから、少なくとも銀流通量の増加のみを根拠とした価格革命説は否定されつつあります。

 

 スペインへの金銀輸入量

ストックホルム地域の価格
(表12ともに前出、平山[2004]より引用)

 

かわって、登場してきているのが「人口増加説」です。以下は中世ヨーロッパにおける人口増加のグラフです。

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http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9010.htmlより引用)


1300
年代の人口急減の原因は当然のことながらペストですが、その後のヨーロッパの人口は安定して回復傾向にあります。1500年代に5600万人ほどであった人口は1650年ごろには一億に達します。要は、新しい説では急激な人口増加に食糧生産とその分配が追いついていないことが価格上昇の原因であるとするわけです。

 「そんなことになっているなら、どっちを覚えたらいいの?」ということに受験生ならなると思います。もちろん、教科書や参考書には銀流入説が主体で書いてあるわけですから、まずはこちらを把握してかまわないと思います。ただ、裏にこうした説があることを理解しておいて損はないでしょう。たとえば、慶応大学の経済学部の世界史ではたびたびこうしたグラフや表を示しながら歴史的事象を解説させる問題が出題されますが、こうした出題の仕方で「近年、価格革命論のこれまでの説明の仕方には批判が高まっているが、それはなぜか。示した図表を参考にして説明しなさい」などのスタイルの出題がされないとは限らないからです。歴史とは常に一方向からだけ見たものが正しいとは限らないということを意識して学習することが必要となるでしょう。

 

【ポイント ブレトン=ウッズ体制の本質を考える】
:最近になってようやく戦後史の中でブレトン=ウッズ体制をはじめとする国際通貨体制について語られるようになってきました。私が大学を受験する頃は、ブレトン=ウッズ体制はあまり注目されず、むしろGATTなどが強調されていたように思いますが、これはおそらく1980年代に日米が貿易摩擦の真っ只中にあったことや、様々な分野で輸入自由化などが論議されていたことと無関係ではないのでしょう。いつの時代でも、望むと望まざるとにかかわらず、その時代の問題関心の影響を少なからず受けるものです。その意味で、純粋にバイアスのかからない物の見方、歴史像というものもないと思います。

だとすれば、1990年代末のアジア通貨危機や2008年のリーマンショック、近年のアベノミクスや米国のQE(量的緩和)をはじめとする世界中の中央銀行の非伝統的な金融緩和策など、金融の国際化とそれに伴う諸問題が様々な場面で俎上に載せられる中で、戦後の金融政策が歴史学において注目され始めることは、なんら不思議なことではありません。しかし、それでは教科書や参考書はこうした戦後の国際金融体制について満足のいく説明をしているのでしょうか。無理もないことではありますが、教科書や参考書に最新の知見が登場するまでにはある一定のタイムラグというものが存在します。なぜなら、新説に対する評価がある程度定まり、通説として教科書なりに載せるに足ると判断されるまでには多くの人々の検証を経る必要があり、それにはそれなりの時間がかかるからです。学校の教員なり、塾の講師なりに教科書や参考書以上の価値があるとすれば、その一つはこうした新しい知見に対する巷の評価を吟味、検証して紹介する点にあるのではないでしょうか。(もちろん、それは押しつけであってはならないし、それだけが価値なのではないと思いますが。)

 

 さて、まずブレトン=ウッズ体制についてですが、さすがに『詳説世界史研究』にはある程度の記載が見られます。これについては私の方でも基本的な流れは「通貨・産業・交易史」の方で示しておきました。しかし、この体制がある意味で西側諸国におけるアメリカの「金融面での覇権」を確立した、という視点を提示しているものは皆無に等しいのではないでしょうか。世界システム論的に言えば、覇権国家は生産・流通・金融の順にその覇権を確立していくとされますが、この金融覇権をアメリカが握ったのがまさにこのブレトンウッズ体制の成立によってでした。それまでは英連邦内諸国との経済的つながりのなかでかろうじて基軸通貨としての面目を保っていたイギリスでしたが、このブレトンウッズ体制がいわゆる「金=ドル本位制」によって各国の通貨がドル・ペッグ制(自国の貨幣相場をドルと連動させること)をとったことにより、この体制成立以降は名実ともにドルが世界の基軸通貨となります。

実は、イギリスのスターリング=ポンドの地位下落は1944年に突然もたらされたものではありません。すでに第一次世界大戦が終了した段階で、イギリスの金保有量はアメリカのそれを下回っていました。「黄金の20年代(または狂騒の20年代)」を経て、対外貿易輸出額でイギリスを凌いで世界トップに躍り出たアメリカは、たしかに世界恐慌による痛手をうけたものの、当時最先端であったケインズ経済学(修正資本主義)を採用したニューディール政策をはじめとする諸政策によって30年代の後半には恐慌前の状態に近いところまで回復します。一方、イギリスはこの世界恐慌をポンド=ブロックの形成によって乗り切ろうとしたものの、ヒトラーとの未曽有の大戦に巻き込まれた結果、その経済に完全にとどめを刺されてしまいました。一方のアメリカは1941年のレンド=リース法(Lend Lease Acts)によってイギリスをはじめとする各国へ軍事物資を供与し始めます。その結果、イギリスは総額314億ドル(現在価値でざっと45兆程度)もの軍需物資を実物で貸与されることとなりましたが、これによりイギリスはアメリカに対して膨大な「債務」を負うことになってしまいました。さらに、戦争が終わりに近づいた時点でアメリカは世界全体の金保有量の7割以上を有していました。

こうした中で戦後の国際経済体制についての話し合いである「ブレトン=ウッズ会議」が開かれたわけですが、戦後経済の主導権をアメリカが欲したのは当然の成り行きでした。しかし、イギリスはどうにかその経済的覇権と面目を保とうと英国の誇る経済学者であるケインズを会議に派遣します。ケインズはドイツ経済学者シューマッハーとともに超国家通貨(というか、決済手段)「バンコール」の創設を提唱することによってポンドの相対的な地位低下を隠そうとしました。これに対しアメリカの財務次官補ハリー=ホワイトが対抗案を示し、ケインズの案と競った結果、IMFの創設やドルを基軸とする国際通貨体制など、ホワイト案にそった解決がなされてアメリカは金融における「覇権(ヘゲモニー)」を確立するに至ります。(ちなみに、バンコールは近年、国際的な金融危機が頻発することを受けて再度注目を集めました。)

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ケインズとホワイト

Wikipedia「ハリー=ホワイト」より引用)

 

 確かに、その後のECの台頭や金の欧州への流出、ドル=ショックとその後の変動相場制への移行など、アメリカの相対的地位低下を示す事例が続くことになりますが、それでもドルは依然として国際経済における基軸通貨ですし、プラザ合意やルーブル合意などを見るまでもなく、アメリカの金融政策や経済政策が各国に与える影響は依然として大きなものがあります。一方、当初はブレトン=ウッズ体制の維持という役割を与えられたIMFも、変動相場制への移行以後は各国通貨の安定と経常収支が悪化した国への融資など、その役割を変えつつありますが、1994年のメキシコ通貨危機、1997年のアジア通貨危機などではその役割に限界も感じさせるようになってきています。[これについてはポール=ブルースタインが書いたノンフィクション『IMF』の日本語版(東方雅美訳、楽工社、2013年)が3年ほど前に出版されましたが、これは実に面白いです。基本的な経済の仕組みさえわかっていれば、高校生でもその面白さを感じるには十分ですし、何より世界経済の最前線の裏側を覗き見るかのような興奮があります。] 20世紀半ばにアメリカが築いた金融の「覇権」の行方がどのようになるのか、21世紀はそれが問われる時代なのかもしれませんね。

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1 古代・中世通貨史(ヨーロッパ・西アジアほか)

【古代世界】

①古代メソポタミア・エジプト
:価値の尺度としての金銀の使用 
(ただし、定量・同形状の「貨幣」としてではない。)
 ex. ハンムラビ法典中の財産関係の記述に出現

②紀元前
7世紀
リディアで世界初の鋳造貨幣が作成(エレクトロン貨)
 →隣接するイオニア地方に伝播
 (ギリシアにおける商工業の発展と平民の台頭→民主政の進展)

③紀元前
4世紀ごろまで
:交易の拡大による鋳造貨幣の普及
 →古代ギリシア・マケドニア・アケメネス朝などで使用される
  cf. ダレイオス1世による貨幣の統一

 

【ローマ帝国・中世地中海世界】
:金貨・銀貨・銅貨を鋳造し、貨幣経済が発達

①1世紀~2世紀
:「パクス=ロマーナ」(オクタウィアヌス~五賢帝の時期)
・地中海沿岸地域を中心に貨幣経済が発展、各地に地方都市成立
 (ウィンドボナ、ロンディニウム、ルテティア)
・インド・東南アジアと季節風貿易
 (『エリュトゥラー海案内記』に記述)
 ex.1 扶南(カンボジア)の港オケオからローマ金貨が出土

 ex.2 南インドのサータヴァーハナ朝や前期チョーラ朝にはローマ金貨が流入1世紀頃から)
 ex.3 南インドのパーンディヤ朝からローマのアウグストゥスに使者?AD22年、ストラボンによる記述)

②4世紀
:コンスタンティヌス帝によるソリドゥス金貨鋳造(東ローマではノミスマ
:「3世紀の危機」後の経済混乱を収拾して国際交易の安定化を図る 

 →ローマ帝国・東ローマで流通(11世紀まで高純度を保った「中世のドル」)

 ソリドゥス金貨

Wikipedia「ソリドゥス金貨」より)

③7世紀
:ウマイヤ朝がディナール金貨・ディルハム銀貨を鋳造
 (5代カリフ、アブドゥル=マリク[アブド=アル=マリク]の時代)

  アフリカのガーナ王国(サハラ交易[金-岩塩])、ヌビア(現スーダン)などから金供給
  ディナール金貨はノミスマ(ソリドゥス金貨)の流通していた旧東ローマ帝国で、ディルハム銀貨は旧ササン朝領で流通したが、アッバース朝下の9世紀には金銀二本位制に移行した

ディナール・ディルハム
Wikipediaより 

サハラ交易
 
 Wikipedia「ガーナ王国」の地図より作成)
④13世紀
:フィレンツェがフローリン金貨を発行(~16世紀)
:メディチ家の支店がヨーロッパ中に存在し、金融ネットワークを作っていた
 →取引において優位に

 →ヨーロッパ全土で金貨の流通(ただし、希少なので主に銀貨・銅貨が併用される[実質的な銀本位制] 

フローリン金貨
 

 Wikipediaより引用

2 大航海時代とアメリカ銀の流入

【ヨーロッパ】
:1492 コロンブス(ジェノヴァ人、スペインの援助を受ける)によるアメリカ大陸の「発見」
 →スペインによって大量のアメリカ銀がヨーロッパに流入


(影響)
① 価格革命
:新大陸からの大量の銀の流入によって貨幣価値が下落・物価高騰
 →西欧地域で商工業が活発化
 →定額の貨幣地代にたよる封建領主に打撃
 →封建制崩壊を促進
② 商業革命
:貿易の中心が地中海岸から大西洋岸に移動

 →大西洋岸の都市(リスボン・アントワープなどが発展)

 →17世紀に入るとアムステルダムが国際金融の中心都市に 

価格革命
 Wikipediaより[一部改変]

 

【アジア】


1521
マゼランの世界周航

1545 ポトシ銀山発見
1565 フィリピン領有
1571 マニラ建設
   →アカプルコ貿易の展開(メキシコ銀と中国の絹織物・陶磁器を交易)

 

3 金融の世界史(16世紀以降~第二次世界大戦)

【銀行制度の誕生と金融市場の形成と拡大】

① 中世
:秤量貨幣の信用性と品質の不均衡
:各地の権力者が私的に鋳造
 →品位と重量がバラバラなため、取引や計測の煩雑さ

 

② 近世
:グレシャムの通貨改革 [イギリス、エリザベス1]
:イギリスの貨幣が他国の貨幣に比べて通用価値が低く、取引に支障をきたしたために、トマス=グレシャムが通貨改革を行い、通貨価値を高める

  「グレシャムの法則」(悪貨は良貨を駆逐する)
=貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合に実質価値の高い方の通貨が流通過程から駆逐され、より実質価値が低い通貨が流通するという法則(現在の紙幣の場合、実質価値[紙の価値]が額面価値よりもはるかに低いため、この法則は当てはまらない)


③ 近代
<17世紀>
・初の株式会社・株式取引所の設置[オランダ・東インド会社(1602)]
 (英の東インド会社[ジョイント・ストック・カンパニー]は無限責任)
<1637>
・チューリップ=バブル崩壊[オランダ]
 →その後のオランダ経済に影響なし
  (先物取引で債権者=債務者が多い。一部がババ引いただけ)
 →オスマン帝国産のチューリップの球根価格の暴騰と暴落、世界初のバブル崩壊 

<17世紀末>
国債の発明[オランダ・イギリスなど]
:従来の君主発行型の公債は様々な理由でたびたびデフォルト(債務不履行)をひき起こした。イギリスで議会が国家の歳入(徴税)・歳出を安定的に管理し、君主の私的財産が国庫と明確に区別されると国債の発行時に返済の裏付けとなる恒久的な税などが設定された。こうした安定した徴税を信用として18世紀以降のイギリスは国民所得の数倍に及ぶ国債を発行することができ、この財源をもとに18世紀を通じた対外戦争を勝ち抜くことが可能となった(財政軍事国家)

※「財政軍事国家」とは
:歴史家ジョン=ブリュアによって提唱された、名誉革命以降におけるイギリスの巨大な陸海軍、勤勉な行政官(整備された官僚制度)が、消費税をはじめとする重税と徴税システムによって担保される莫大な国債をはじめとする債務によって支えられたとする考え方、またはこうした当時のイギリスの国家システムを指す。イギリスがこの莫大な債務により戦費を維持できたことが、
18世紀イギリスが大国フランスとの戦争に勝利した一つの原因だとする。これについては折を見て「東大への世界史」の方で詳述する。(ジョン=ブリュア『財政=軍事国家の衝撃:戦争・カネ・イギリス国家 1688-1783』大久保桂子訳、名古屋大学出版会、2003年)

<1694>
イングランド銀行設立
 →ファルツ戦争・ウィリアム王戦争などの対仏戦争の戦費捻出(財政革命)
 →金融におけるイギリスの信用能力を高め、イギリス資本主義の発展に寄与
 →第一次世界大戦が始まるまでの金融界を支配


<1720>
・南海泡沫事件(サウスシー=バブル)[イギリス]
:当時の財政危機解決のために国債を引き受ける目的で設立された南海会社が引き起こしたバブル崩壊事件。数か月の間に10倍強にもなった株価が元値以下になるまで暴落した。この事件の事後処理を担当した財政の専門家であるロバート=ウォルポールは後にイングランドの初代首相となった。


図1
 Wikipediaより
<1871>
ソブリン金貨の発行(初の金本位制の確立)[イギリス]
:イギリスの貨幣法により、発行されたソブリン金貨の自由鋳造・自由融解を認めることで本位貨幣(通貨の実質価値と額面価値が一致した貨幣)とした。世界金融の中心がロンドンのロンバード街(シティ)に(「世界の銀行」)
 →20世紀初頭までに世界各国で金本位制が確立=「国際金本位制=ポンド体制」の成立 

ソブリン
Wikipediaより 
 ロンバード街
(Wikipediaより[一部改変])
<1914-1918>
・第一次世界大戦によるイギリスの相対的地位の低下と世界金融の不安定化
 →アメリカの台頭(黄金の20年代を経てウォール街が世界金融の中心に)
1923>
・ドイツでハイパーインフレ(ルール占領がきっかけ)

 →シュトレーゼマン内閣によるレンテンマルク発行で沈静化

 →ドイツの経済・政治危機をアメリカが支援

(対ドイツのアメリカによる支援策)
A、ドーズ案
(1924)
:アメリカ資本の対ドイツ貸与、賠償金支払い方法と期限の緩和(減額はなし)
B、ヤング案(1929)
:賠償総額の減額と期限の緩和[ローザンヌ会議(1932)でさらに減額→ヒトラーによる一方的破棄(1933)]


<1929>
世界恐慌による経済の動揺
A、金本位制の動揺と停止
‐イギリス(1931:マクドナルド挙国一致内閣)
‐日本(1930 金解禁→1931 犬養毅内閣による金輸出再禁止
‐アメリカ(1933:フランクリン=ローズヴェルト大統領)
‐フランス・ベルギー・オランダによるフラン=ブロック(金本位維持)
 →フランスの金本位制停止(1937)による管理通貨制度への移行
B、ブロック経済の形成
 ex.スターリングブロック(英、1932:オタワ連邦会議)

 

4 現代の通貨・金融体制(第二次世界大戦以降)

【ブレトン=ウッズ体制】
:第二次世界大戦終了時に圧倒的な経済力を有していたアメリカによる国際為替の安定と自由貿易体制の確立


ブレトン=ウッズ会議(1944)
:ブレトン=ウッズ協定に基づくアメリカ主導の国際通貨・経済体制の成立

・世界恐慌前の「国際金本位制=ポンド体制」崩壊にかわる新通貨秩序の成立

・米ドルと各国通貨の交換比率を固定した固定相場制の成立
 (1ドル=360円、金1オンス(28g=35USドル)
・二つの国際機関設立の決定
 (1945IMF[国際通貨基金]IBRD[国際復興開発銀行、後の世界銀行]の設立)
IMF:固定相場制(金=ドル本位制)の採用
・IBRD:長期資金の融資による戦後復興や発展途上国への資金援助を行う
 (1960年に国際開発協会と合わさり現在の世界銀行[WB]に)

GATT(関税と貿易に関する一般協定)成立(1947)
:関税障壁撤廃による自由貿易体制確立を目指す

 →1995年にWTO(世界貿易機関)に発展

 

【ブレトン=ウッズ体制崩壊】
:世界貿易・財政の拡大に金=ドル本位制が対応できず
(金産出・保有量と経済規模の乖離が拡大)

ドル=ショック(ニクソン=ショック、1971)
:アメリカ大統領ニクソンが金とドルの兌換を停止

(背景)
・ベトナム戦争(1960 / 19651973 / 1975)による米軍事費の増大
・日本・ECの台頭と国際競争力向上により貿易赤字に

変動相場制へ移行(1973、ブレトン=ウッズ体制の完全な崩壊)

 円2

 Wikipediaより

【経済規模の拡大と国際化に伴う経済危機の発生】
<1970s>
・オイル=ショック(1973、1979)

<1980s>
対外累積債務問題の深刻化
:中所得国(ラテンアメリカ[メキシコ・ブラジルなど]やフィリピンなど)で対外累積債務問題が深刻化

(対外累積債務深刻化の背景)
1970s3つの動き
①一次産品価格が高騰したことによる途上国の交易条件の改善
②過剰な産油国資金の流入(オイルショックによる原油価格の高騰)
③金融自由化により先進国政府ならびに民間機関や国際機関による貸付が容易に
 →発展途上国が大規模な借入により工業化を進める(高成長の時期)
1980sに入り一次産品価格の下落や米国金利の急騰
 →途上国の資金繰りが困難に(70年代債務の返済の見通しが難しくなった) 


プラザ合意(1985)
:G5(先進五か国[米・英・西独・仏・日]蔵相会議)で為替レート安定化に関する合意

(背景)
 :双子の赤字(貿易赤字&財政赤字)拡大によるアメリカの債務国への転落
(内容)
 :アメリカの貿易赤字解消のためにドル安政策を進める
  →日銀による独自の金融政策によって当初の目標をはるかに上回る円高・ドル安が進行

ルーブル合意(1987)
:行き過ぎたドル安の防止のためのG7(G5 + 伊・加)での合意
 →失敗
円
 Wikipediaより
バブル経済(平成バブル)崩壊[日本、1989~1993頃]
:プラザ合意直後の日銀の短期金利引き締め策(高目放置)と、その後の政府の意を受けた金融緩和策(公定歩合の引き下げ)が人々に極端な金融緩和策が行われているという錯覚(貨幣錯覚)を生じさせて、過剰な投資へと結びつく。
→下落し始めていた不動産価格に財務省・日銀の金融引き締め策(総量規制・公定歩合の引き上げ)がトドメをさして株価暴落
バブル2
Wikipediaより
【経済のグローバル化と金融危機】
<1980s末~1990初>
:超国家的な経済協力体制・共同体の形成

APEC(アジア太平洋経済協力会議、1989年)
 →日・韓・
ANZUSASEANなど
EU(ヨーロッパ共同体)
 →1991年の会議で合意、1992年に採択されマーストリヒト条約をもとに発足(1993)
 →域内共通通貨ユーロの導入によって米ドルの国際支配に対抗

<1990年代以降>
:経済のグローバル化にともなう金融危機の連鎖と規模の拡大

ex.1) 
メキシコ経済危機(1994)

ex.2) 
アジア通貨危機(1997)
:タイを皮切りに韓国・インドネシアなどアジア各国で発生した通貨価値の急激な下落ドルと連動していたアジア通貨がドル高に伴い上昇し、実体経済と乖離した頃にヘッジファンドの空売りを浴びた
 →アジア各国が変動相場制へ

ex.3) 
リーマン=ショック(2008)
:リーマン=ブラザーズが負債総額64兆円を抱えて倒産
 →連鎖的な世界規模の金融危機
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 今回は、中国儒学史について簡単にまとめてみようかと思います。一見するとさして重要ではないように思えるテーマですが、アジア思想史については東大ではたびたび出題されています。たとえば、東京大学1987年第2問のA「宋学(朱子学)が正統学派としてその後の中国の諸王朝や近隣諸国で受容された理由」や2010年第2問、問(1)-(a)「前漢半ばに儒学が他の思想から抜きんでた存在となった理由」などです(2003年の第2問にも朱熹を答えさせてその後の宋学の影響を答えさせる問題があります)。文化史の一部として出てくることが多く、東大でもその出題は宋学に集中していることからあまり儒学について古代から通してまとめようとする人はいないように思いますので、ごく簡単にまとめておきたいと思います。

 

[儒学史]

 

(春秋・戦国)

・孔子による儒学創始

:周代の政治の理想化、道徳(孝・悌)、礼、仁の重視

・孟子(性善説)、荀子(性悪説)による発展

 

(秦)

・始皇帝による焚書・坑儒[BC213212]

→儒教を伝える者や文書が一部離散

 

(漢)

[前漢] 武帝期

・董仲舒の献策で儒学官学化、統治理念として採用

・五経(詩経・書経・易経・礼記・春秋)と五経博士の設置

 

[後漢] 光武帝による保護・奨励

・国教化にともなう教義の固定化

・春秋左氏伝の発見と訓詁学の発展

:それまでの口伝である春秋公羊伝に対して秦以前の古代文字で書かれた左氏伝が発見され、以降古典の字句解釈を行う訓詁学が発展(訓詁学は後漢の馬融、鄭玄が大成)

 

(魏晋南北朝)

・漢の崩壊で儒学の権威失墜

→かわりに老荘思想が流行(清談・竹林の七賢)

 

(隋)

・九品中正を廃して科挙が整備される

 

(唐)

・太宗の指示で訓詁学の整理

孔穎達『五経正義』:解釈の統一

 -顔師古:五経の定本作成

  →儒学思想の固定化と思想的停滞

 

(唐代中期以降)

・古文復興運動[韓愈・柳宗元]

:門閥貴族に対抗する新興の科挙官僚が主導

・一方で、仏教や老荘思想を導入した古典の再解釈

→宋学の始まり

 

(宋代)

[北宋]

周敦頤『大極図説』

:宇宙の生成~士大夫の道徳までの論理体系

程顥・程頤

 

[南宋

異民族の圧迫(金・元)

→朱熹による朱子学の大成

「理気二元論」、「性即理」、『四書』の重視

(四書:論語・孟子・大学・中庸)

君臣の別・長幼の序・華夷の別・男尊女卑・大義名分論

 

(元)  

・科挙の廃止(1313 復活)

:モンゴル人第一主義・色目人の重用

 

(明)

・朱子学の官学化

→永楽帝の『四書大全』・『五経大全』編纂(解釈の固定化)

・陽明学の成立

:王陽明(王守仁)がはじめる

「致良知」(良心を磨く)

「知行合一(行いを一致させる)

「心即理」

・明末における宋学の観念論化と陽明学の行動主義

 →一時衰退

・考証学(古典の実証研究)の発展 「経世致用の学」

:黄宗羲・顧炎武など(明末)

 

(清)

・満漢偶数官制、科挙実施

・『古今図書集成』(康熙帝)、『四庫全書』(乾隆帝)編纂

・一方で文字の獄(思想・出版統制)

 →考証学が古典の字句解釈に没頭、経世致用の精神を喪失

・清末に公羊学派が孔子を社会改革者として再評価

 →清末の改革運動に影響(魏源・康有為など)

 

(アジア)

[朝鮮王朝(李朝)]

小中華思想・朱子学官学化・科挙導入・両班

[黎朝(ヴェトナム)]

科挙導入

[日本]

尊王論、『神皇正統記』北畠親房

明清交代期に明の学者が亡命

→江戸幕府へ

-湯島昌平坂学問所

-寛永異学の禁(松平定信)…官学化


(ヨーロッパ)
・ヴォルテール、ライプニッツなど 

 
 本当は理気二元論をはじめ、ポイントとなる思想について焦点をあてて詳述して世界史というよりはむしろ倫理にしたかったのですが、正直時間がありませんw そのうち加筆していきたいと思いますが、とりあえず今日は簡潔に箇条書きしたものでとどめておきます。

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経済理論について、通り一遍の知識を身につけることはそれほど難しいことではありません。レッセ=フェールといえばアダム=スミスだし(まぁ実際には重農主義がもとですけど)、マルサスといえば『人口論』です。ですが、こうした経済学の流れや、そもそもなぜ種々の経済理論が生み出されては消えていったのかを理解することはなかなかに難しいことです。そこで、今回は特に近世以降のヨーロッパ経済の発展とともに変化してきた経済理論について簡単にまとめてみたいと思います。

 

16世紀~18世紀)

 ・重商主義

-重金主義:スペイン・ポルトガル

-貿易差額主義:コルベール(仏)、クロムウェル(英)

(-産業保護主義:コルベール、ジョン=ケアリ[英・キャリコ論争]

 

18世紀後半)

・重農主義ケネー・テュルゴー(仏)

:重商主義のような国家による経済介入を批判

「レッセ=フェール」による自由放任主義を唱える

 -ケネー(仏)『経済表』

 -テュルゴー(仏)

  ・古典派経済学(自由主義経済学)

:重農主義の自由放任主義を継承、近代資本主義の発達

-アダム=スミス(『諸国民の富』、レッセ=フェールの継承、労働価値説)

-リカード

(労働価値説、19世紀英自由貿易主義、『経済学および課税の原理』)

-マルサス(『人口論』)

JSミル(功利主義)

                

19世紀~、ドイツ)

・歴史学派経済学

:経済を発達段階的に理解する

経済後進国における保護貿易主義を説く

-リスト:ドイツ関税同盟(1834

 

19世紀後半~)

・マルクス経済学

:資本家による労働者搾取批判

 労働価値説の批判的継承による「剰余価値説」

-マルクス『資本論』

20世紀)

・修正資本主義

:国家による経済介入を肯定

-ケインズ:ニューディール政策

      『雇用、利子および貨幣の一般理論』

 

★ ここがポイント】 

近代的な経済学が発展するのは16世紀に入ってからですが、これはいわゆる大航海時代(または大交易時代)の始まりと軌を一にしています。その萌芽はすでに15世紀イタリアにも見られますが、16世紀以降、商業革命が起こってからの交易はその規模が全く異なります。いずれにせよ、これ以降の近代経済学の発展は、それぞれの国が直面した経済状況に応じて変化してきました。新大陸の鉱山経営を進めてヨーロッパやアジアに莫大な銀をもたらしたスペインやポルトガルにおいて重金主義という考え方が生まれたことはその典型です。

 ところで、貴金属こそが国富であり、この国外流出を防ぐことが経済的繁栄をもたらすという考え方を重金主義であるとするなら、同じく16世紀のイギリスのトマス=グレシャムなどもこれに含めることができます。彼は王室財務顧問としてエドワード6世期からエリザベス1世期にかけて王室債務の軽減に尽力した人物ですが、彼の「悪貨は良貨を駆逐する」という考え方がどうも受験生には苦手のようです。簡単に説明すると、「悪貨(品位の低い貨幣)と良貨(品位の高い)貨幣を比較したとき、人は通常良貨を退蔵して悪貨を取引に用いるため、取引市場においては、良貨は姿を消し悪貨のみが流通することになる」ということを言っているわけです。具体的に説明してみましょう。たとえば、下は江戸時代に流通した小判であり、さらに表は江戸期の小判の金の含有量を示したものです。この小判の金の含有量をめぐる設問はたとえば2013年の慶應義塾大学経済学部の日本史などでも出題されています。


江戸時代の小判の品位比較 - コピー

(出典:上田道男「江戸期小判の品位をめぐる問題と非破壊分析結果について」
日本銀行金融研究所『金融研究』第12巻第2号、1993年、p.106p.112より作成)


 さて、仮にこれらの小判の額面が全て「1両」であったとして、流通したとしましょう。金・銀・銅などの中で「金」が最も価値を持つと考えられるとした場合に、みなさんは取引の際に「慶長小判」と「元禄小判」のどちらを使うでしょうか。多くの人は、「同じ1両として通用するなら、慶長小判の方が金をたくさん含んでいるからこれはタンスにでもしまっておいて、取引には金があまり含まれていない元禄小判を使おう」と考えるはずです。これが続けば、実際の流通貨幣からは「良貨(慶長小判)」は駆逐され、「悪貨(元禄小判)」のみが取引で用いられるようになります。これがグレシャムの法則の基本的な考え方であり、かれはこの考え方に基づいてイギリスの通貨価値の是正を進言して王室財政の立て直しに成功します。このような考え方は基本的に「通貨それ自体」に価値がある場合に当てはまるものであり、通貨自体の価値(紙)が額面上の価値におよばない現在の信用貨幣の場合には当てはまらないものです。

さて、話を戻しますと、こうした重金主義の後に出てくるのが貿易差額主義です。17世紀に入って英・蘭・仏はそれぞれ東インド会社を設立して海外交易に乗り出しますが、当初海外交易の覇権をにぎったのはオランダでした。これには、それぞれの会社の質も関係しています。英・仏の東インド会社が当初は王室からの特許によって成立した一部の特権商人の集団であったにすぎなかったのに対し、商人貴族(レヘント)が国政を牛耳るオランダでは当初から国家的な後押しを期待することができました。フランスの東インド会社は15年の有限の特許状によるもので間もなく消滅してしまいます(後にコルベールによって再建される[1664])。また、イギリスの東インド会社はジョイント=ストック=カンパニーと呼ばれる形態の会社で、各商人が無限責任を負って投資し、その投資した資金によって会社組織(施設、従業員など)を維持するというものであったのに対し、オランダの東インド会社は株式会社でした。要は、組織面や資金力において当初からオランダの方が強力だったわけです。

 こうした状況に変化が生まれるのはオリヴァー=クロムウェルが政権を担当するようになってからでした。航海法でよく知られるクロムウェルですが、クロムウェル自身は航海法には反対だったようです。熱心なピューリタンとしてカトリックのアイルランド制圧などに乗り出し、同じくカトリック国フランスと対峙していたクロムウェルは、同じプロテスタント国家であるオランダと対立することにはあまり乗り気ではなかったらしいんですね。むしろ、この航海法制定をクロムウェルに迫った(もしくは懇請した)のは議会の側でした。そして、その議会を構成する貴族やジェントリの多くは航海法による取引の拡大に少なからぬ利害関係を有していました。[Barry Coward, The Stuart Age : England 1603-1714 Third Edition (London: Longman, 2003) ほか]

アジア交易や大西洋交易が発展するに従い、輸出は良く、輸入は国富の流出につながるから良くないとする貿易差額主義が重金主義にかわってあらわれます。また、輸出を促進するための国内産業の育成が図られる中で、産業保護主義が唱えられるようになります(コルベールによるゴブラン織りの王立マニュファクチュア設立など)。

 

 一方、18世紀になるとフランスでは重農主義が、イギリスでは古典派経済学が出現します。実はこの二つの経済理論は密接に関連しています。もしかすると発展の仕方こそ違えど本質的には同じものであったかもしれません。重農主義は、重商主義に対する批判の中で生まれてきた経済理論です。『経済表』を著したケネーは特に以下の点を経済発展の阻害要因として批判しました。

 

 ・絶対王政の重商主義政策による一部特権商人の保護

 ・強力な地主の存在と過剰な統制による経済活動(流通など)の鈍化

 

要は、強大な権力が一部の特権を有するものに便宜を図ることで物価の上昇を招いたり、新規参入の商人が現われなくなるなどの経済活動の萎縮が起こり、さらにこれが地方レベルにおいては地主権力による過剰な課税や関税徴収などの搾取により、経済発展を阻害すると言っているわけです。こうした考え方はイギリスの自由貿易主義とか、もっと乱暴に言ってしまえば楽市楽座の発想にも共通するものがあります。しかし、当時は絶対王政下のフランスです。経済が発展しないのは「あんたのせいだ!」と王室や貴族・聖職者連中に言ったところでまともに聞いてもらえないのはわかっています。そこでケネーは社会を地主・生産者(農民)・非生産者(商人)に大まかに区分し、「富の源泉は農業にある」と唱えてその富を最大効率で配分するために、「交易の自由化」や「関税の廃止」などによる経済の自由化(レッセ=フェール)を主張したわけです。 

 そして、この重農主義のレッセ=フェールを継承したのが古典派経済学でした。古典派経済学は産業革命による資本主義の発達に対応するために発展した経済理論です。アダム=スミスはケネーの重農主義を継承しつつ、国家の富の源泉を農業ではなく農地や設備に投下された労働にあると考えました。つまり、「どれだけ働いてものを作りだしたか」がそのものの価値を決めると考えたのです(労働価値説)。またスミスは、重農主義者のレッセ=フェールを発展させて、「個人が自由な市場において個々の利益を最大限にしようと経済活動を行う場合、最終的に全体としては最適な富の配分が達成される」という「見えざる手」を想定し、『国富論』の中で紹介しました。

こうした考え方は、18世紀後半から19世紀初頭において展開するイギリスの自由貿易主義ともマッチするものでした。ここで、なぜこの時期にイギリスでは自由貿易主義が台頭してくるのかというその社会経済的背景について解説しておかなくてはなりません。受験生はあまり把握していないことが多いのですが、この時代に台頭してくるのは「産業資本家」であって、「地主」や「東インド会社」はむしろこうした「産業資本家」とはその利害において対立関係にあります。単純に図示すると下のような状態です。

貴族・地主・産業資本家

単純に「支配層」と言っても一様ではなく、その中での対立が国の方針や政策に影響を与えることはあります。こうした諸階層の対立や、18世紀イギリスの自由貿易主義などは商業・経済系の大学などでもたびたび出題される個所です(2012年一橋大学「世界史」大問32015年慶応経済学部「世界史」大問2の問6「キャリコ論争」など)。直接の因果関係があるとまでは言いませんが、1832年に第1回選挙法改正があった翌年の1833年に東インド会社の諸特権(中国貿易独占権など)が廃止されることは印象的です。こうした19世紀の自由貿易主義を支えた古典派経済学はアダム=スミスの労働価値説を大成したリカードにおいて頂点に達します。ところが、古典派経済学は次第にその説得力を失っていきます。新たに成立した資本主義経済下で定期的に発生する恐慌や、大規模な失業問題に対処することができなかったからです。

その結果、世界には資本主義を前提とする古典派経済学を基礎としながらも、あらたな理論が各国の経済状況などに応じて考え出されていきました。ナショナリズムが高揚する後発国ドイツにおいては、歴史学的に経済を考察した結果発展段階論にたどり着きます。原始的未開牧畜農業農工業農工商業というように国家が段階的に発展すると考えたのです。もしそうであるとすれば、すでに高度に商業化されたイギリスと同様に後発国であるドイツが自由貿易を行った場合、イギリスの製品によってドイツ国内の産業が打撃を受けることは避けられません。ゆえに、リストはドイツが自国の産業を守るためには国内的には経済の自由化、対外的には関税政策を行うという保護貿易主義をとりました。この考えに基づいて成立するのが1834年のドイツ関税同盟です。一方、資本主義の抱える矛盾を「資本家」と「労働者」間の階級闘争としてとらえ直し、共産主義を生み出したのがマルクスであり、その協力者エンゲルスでした。先に一橋の問題解説で示したように、共産主義においても発展段階説は継承されています。共産主義の理論は資本主義経済学と全く無関係に生まれたのではないということには注意が必要になるでしょう。

しかし、19世紀までの経済学は結局、20世紀に入ってからも経済の規模の拡大に十分に対応することができませんでした。特に、1929年に始まる世界恐慌のような極端な需要と国際貿易の縮小の下では古典派経済学の言うようなレッセ=フェールでは対応できなかったのです。それまでの経済の常識に即して展開されたフーヴァー大統領の「なすにまかせよ」式の経済的無策と国内産業保護のための関税の引き上げはかえって世界貿易の縮小を促し、恐慌を拡大してしまう結果につながりました。これを受けて、続くフランクリン=ローズヴェルトによる経済への積極的な国家介入政策であるニューディール政策がケインズの新たな修正資本主義経済学に基づき、展開されます。この後の第二次世界大戦後の新たな経済体制については別の機会に示したいと思います。



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