経済理論について、通り一遍の知識を身につけることはそれほど難しいことではありません。レッセ=フェールといえばアダム=スミスだし(まぁ実際には重農主義がもとですけど)、マルサスといえば『人口論』です。ですが、こうした経済学の流れや、そもそもなぜ種々の経済理論が生み出されては消えていったのかを理解することはなかなかに難しいことです。そこで、今回は特に近世以降のヨーロッパ経済の発展とともに変化してきた経済理論について簡単にまとめてみたいと思います。
(16世紀~18世紀)
・重商主義
-重金主義:スペイン・ポルトガル
-貿易差額主義:コルベール(仏)、クロムウェル(英)
(-産業保護主義:コルベール、ジョン=ケアリ[英・キャリコ論争])
(18世紀後半)
・重農主義…ケネー・テュルゴー(仏)
:重商主義のような国家による経済介入を批判
「レッセ=フェール」による自由放任主義を唱える
-ケネー(仏)『経済表』
-テュルゴー(仏)
・古典派経済学(自由主義経済学)
:重農主義の自由放任主義を継承、近代資本主義の発達
-アダム=スミス(『諸国民の富』、レッセ=フェールの継承、労働価値説)
-リカード
(労働価値説、19世紀英自由貿易主義、『経済学および課税の原理』)
-マルサス(『人口論』)
-J・Sミル(功利主義)
(19世紀~、ドイツ)
・歴史学派経済学
:経済を発達段階的に理解する
経済後進国における保護貿易主義を説く
-リスト:ドイツ関税同盟(1834)
(19世紀後半~)
・マルクス経済学
:資本家による労働者搾取批判
労働価値説の批判的継承による「剰余価値説」
-マルクス『資本論』
(20世紀)
・修正資本主義
:国家による経済介入を肯定
-ケインズ:ニューディール政策
『雇用、利子および貨幣の一般理論』
【★ ここがポイント】
近代的な経済学が発展するのは16世紀に入ってからですが、これはいわゆる大航海時代(または大交易時代)の始まりと軌を一にしています。その萌芽はすでに15世紀イタリアにも見られますが、16世紀以降、商業革命が起こってからの交易はその規模が全く異なります。いずれにせよ、これ以降の近代経済学の発展は、それぞれの国が直面した経済状況に応じて変化してきました。新大陸の鉱山経営を進めてヨーロッパやアジアに莫大な銀をもたらしたスペインやポルトガルにおいて重金主義という考え方が生まれたことはその典型です。
ところで、貴金属こそが国富であり、この国外流出を防ぐことが経済的繁栄をもたらすという考え方を重金主義であるとするなら、同じく16世紀のイギリスのトマス=グレシャムなどもこれに含めることができます。彼は王室財務顧問としてエドワード6世期からエリザベス1世期にかけて王室債務の軽減に尽力した人物ですが、彼の「悪貨は良貨を駆逐する」という考え方がどうも受験生には苦手のようです。簡単に説明すると、「悪貨(品位の低い貨幣)と良貨(品位の高い)貨幣を比較したとき、人は通常良貨を退蔵して悪貨を取引に用いるため、取引市場においては、良貨は姿を消し悪貨のみが流通することになる」ということを言っているわけです。具体的に説明してみましょう。たとえば、下は江戸時代に流通した小判であり、さらに表は江戸期の小判の金の含有量を示したものです。この小判の金の含有量をめぐる設問はたとえば2013年の慶應義塾大学経済学部の日本史などでも出題されています。
さて、仮にこれらの小判の額面が全て「1両」であったとして、流通したとしましょう。金・銀・銅などの中で「金」が最も価値を持つと考えられるとした場合に、みなさんは取引の際に「慶長小判」と「元禄小判」のどちらを使うでしょうか。多くの人は、「同じ1両として通用するなら、慶長小判の方が金をたくさん含んでいるからこれはタンスにでもしまっておいて、取引には金があまり含まれていない元禄小判を使おう」と考えるはずです。これが続けば、実際の流通貨幣からは「良貨(慶長小判)」は駆逐され、「悪貨(元禄小判)」のみが取引で用いられるようになります。これがグレシャムの法則の基本的な考え方であり、かれはこの考え方に基づいてイギリスの通貨価値の是正を進言して王室財政の立て直しに成功します。このような考え方は基本的に「通貨それ自体」に価値がある場合に当てはまるものであり、通貨自体の価値(紙)が額面上の価値におよばない現在の信用貨幣の場合には当てはまらないものです。
さて、話を戻しますと、こうした重金主義の後に出てくるのが貿易差額主義です。17世紀に入って英・蘭・仏はそれぞれ東インド会社を設立して海外交易に乗り出しますが、当初海外交易の覇権をにぎったのはオランダでした。これには、それぞれの会社の質も関係しています。英・仏の東インド会社が当初は王室からの特許によって成立した一部の特権商人の集団であったにすぎなかったのに対し、商人貴族(レヘント)が国政を牛耳るオランダでは当初から国家的な後押しを期待することができました。フランスの東インド会社は15年の有限の特許状によるもので間もなく消滅してしまいます(後にコルベールによって再建される[1664])。また、イギリスの東インド会社はジョイント=ストック=カンパニーと呼ばれる形態の会社で、各商人が無限責任を負って投資し、その投資した資金によって会社組織(施設、従業員など)を維持するというものであったのに対し、オランダの東インド会社は株式会社でした。要は、組織面や資金力において当初からオランダの方が強力だったわけです。
こうした状況に変化が生まれるのはオリヴァー=クロムウェルが政権を担当するようになってからでした。航海法でよく知られるクロムウェルですが、クロムウェル自身は航海法には反対だったようです。熱心なピューリタンとしてカトリックのアイルランド制圧などに乗り出し、同じくカトリック国フランスと対峙していたクロムウェルは、同じプロテスタント国家であるオランダと対立することにはあまり乗り気ではなかったらしいんですね。むしろ、この航海法制定をクロムウェルに迫った(もしくは懇請した)のは議会の側でした。そして、その議会を構成する貴族やジェントリの多くは航海法による取引の拡大に少なからぬ利害関係を有していました。[Barry
Coward, The Stuart Age : England 1603-1714 Third Edition (London:
Longman, 2003) ほか]
アジア交易や大西洋交易が発展するに従い、輸出は良く、輸入は国富の流出につながるから良くないとする貿易差額主義が重金主義にかわってあらわれます。また、輸出を促進するための国内産業の育成が図られる中で、産業保護主義が唱えられるようになります(コルベールによるゴブラン織りの王立マニュファクチュア設立など)。
一方、18世紀になるとフランスでは重農主義が、イギリスでは古典派経済学が出現します。実はこの二つの経済理論は密接に関連しています。もしかすると発展の仕方こそ違えど本質的には同じものであったかもしれません。重農主義は、重商主義に対する批判の中で生まれてきた経済理論です。『経済表』を著したケネーは特に以下の点を経済発展の阻害要因として批判しました。
・絶対王政の重商主義政策による一部特権商人の保護
・強力な地主の存在と過剰な統制による経済活動(流通など)の鈍化
要は、強大な権力が一部の特権を有するものに便宜を図ることで物価の上昇を招いたり、新規参入の商人が現われなくなるなどの経済活動の萎縮が起こり、さらにこれが地方レベルにおいては地主権力による過剰な課税や関税徴収などの搾取により、経済発展を阻害すると言っているわけです。こうした考え方はイギリスの自由貿易主義とか、もっと乱暴に言ってしまえば楽市楽座の発想にも共通するものがあります。しかし、当時は絶対王政下のフランスです。経済が発展しないのは「あんたのせいだ!」と王室や貴族・聖職者連中に言ったところでまともに聞いてもらえないのはわかっています。そこでケネーは社会を地主・生産者(農民)・非生産者(商人)に大まかに区分し、「富の源泉は農業にある」と唱えてその富を最大効率で配分するために、「交易の自由化」や「関税の廃止」などによる経済の自由化(レッセ=フェール)を主張したわけです。
そして、この重農主義のレッセ=フェールを継承したのが古典派経済学でした。古典派経済学は産業革命による資本主義の発達に対応するために発展した経済理論です。アダム=スミスはケネーの重農主義を継承しつつ、国家の富の源泉を農業ではなく農地や設備に投下された労働にあると考えました。つまり、「どれだけ働いてものを作りだしたか」がそのものの価値を決めると考えたのです(労働価値説)。またスミスは、重農主義者のレッセ=フェールを発展させて、「個人が自由な市場において個々の利益を最大限にしようと経済活動を行う場合、最終的に全体としては最適な富の配分が達成される」という「見えざる手」を想定し、『国富論』の中で紹介しました。
こうした考え方は、18世紀後半から19世紀初頭において展開するイギリスの自由貿易主義ともマッチするものでした。ここで、なぜこの時期にイギリスでは自由貿易主義が台頭してくるのかというその社会経済的背景について解説しておかなくてはなりません。受験生はあまり把握していないことが多いのですが、この時代に台頭してくるのは「産業資本家」であって、「地主」や「東インド会社」はむしろこうした「産業資本家」とはその利害において対立関係にあります。単純に図示すると下のような状態です。
単純に「支配層」と言っても一様ではなく、その中での対立が国の方針や政策に影響を与えることはあります。こうした諸階層の対立や、18世紀イギリスの自由貿易主義などは商業・経済系の大学などでもたびたび出題される個所です(2012年一橋大学「世界史」大問3、2015年慶応経済学部「世界史」大問2の問6「キャリコ論争」など)。直接の因果関係があるとまでは言いませんが、1832年に第1回選挙法改正があった翌年の1833年に東インド会社の諸特権(中国貿易独占権など)が廃止されることは印象的です。こうした19世紀の自由貿易主義を支えた古典派経済学はアダム=スミスの労働価値説を大成したリカードにおいて頂点に達します。ところが、古典派経済学は次第にその説得力を失っていきます。新たに成立した資本主義経済下で定期的に発生する恐慌や、大規模な失業問題に対処することができなかったからです。
その結果、世界には資本主義を前提とする古典派経済学を基礎としながらも、あらたな理論が各国の経済状況などに応じて考え出されていきました。ナショナリズムが高揚する後発国ドイツにおいては、歴史学的に経済を考察した結果発展段階論にたどり着きます。原始的未開→牧畜→農業→農工業→農工商業というように国家が段階的に発展すると考えたのです。もしそうであるとすれば、すでに高度に商業化されたイギリスと同様に後発国であるドイツが自由貿易を行った場合、イギリスの製品によってドイツ国内の産業が打撃を受けることは避けられません。ゆえに、リストはドイツが自国の産業を守るためには国内的には経済の自由化、対外的には関税政策を行うという保護貿易主義をとりました。この考えに基づいて成立するのが1834年のドイツ関税同盟です。一方、資本主義の抱える矛盾を「資本家」と「労働者」間の階級闘争としてとらえ直し、共産主義を生み出したのがマルクスであり、その協力者エンゲルスでした。先に一橋の問題解説で示したように、共産主義においても発展段階説は継承されています。共産主義の理論は資本主義経済学と全く無関係に生まれたのではないということには注意が必要になるでしょう。
しかし、19世紀までの経済学は結局、20世紀に入ってからも経済の規模の拡大に十分に対応することができませんでした。特に、1929年に始まる世界恐慌のような極端な需要と国際貿易の縮小の下では古典派経済学の言うようなレッセ=フェールでは対応できなかったのです。それまでの経済の常識に即して展開されたフーヴァー大統領の「なすにまかせよ」式の経済的無策と国内産業保護のための関税の引き上げはかえって世界貿易の縮小を促し、恐慌を拡大してしまう結果につながりました。これを受けて、続くフランクリン=ローズヴェルトによる経済への積極的な国家介入政策であるニューディール政策がケインズの新たな修正資本主義経済学に基づき、展開されます。この後の第二次世界大戦後の新たな経済体制については別の機会に示したいと思います。