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カテゴリ: 東京大学対策

2000年の東大の問題はフランスの啓蒙思想家たちによる当時の中国への評価をベースに、彼らがそうした評価をなすに至った時代背景と、彼らの思想(啓蒙思想)の持つ歴史的意義を述べよ、という設問で、当時の東大の出題としてはやや異色の出題であったように思います。まず、東大が思想史を正面から扱うということが珍しいものでした。また、近年では2020年の問題などで見られましたが、史料の一部を示して、それをベースに論を展開させる型の出題は東大ではあまり見られません(こうした型の出題はむしろ一橋でよくみられるタイプの出題です)。そうした意味で、当時この問題に取り組んだ受験生にとっては、やや取り組みにくい設問であったかもしれません。

また、内容についてもなかなかに奥深く、受験生にとっては難しい内容が含まれていますので、高得点を取りに行くことを考えると難問だと思いますが、一方で設問の要求には受験生にとっては必須の基本知識を答えるべき部分も織り交ぜられていますので、いつも申し上げている通り「他の受験生より一歩抜けた解答を作る」ということを目標とした場合、そこまで無茶ぶりというわけでもないかなぁと思います。思想については多くの受験生は「何となく理解」していることが多いので、「啓蒙思想」というものをどこまで理解しているかが問われる本設問は「書けたつもりで書けていない」解答を多く生み出した問題だったのではないかと思います。

 

【1、設問確認】

・これらの知識人(18世紀フランスの知識人=啓蒙思想家)が、このような議論をするに至った18世紀の時代背景について述べよ。

・とりわけフランスと中国の状況に触れよ。

・彼ら(啓蒙思想家)の思想の持つ歴史的意義について述べよ。

15行(450字)以内。

・指定語句(下線を付せ)

 イエズス会 / 科挙 / 啓蒙 / 絶対王政 / ナント王令廃止 / フランス革命 / 身分制度 / 文字の獄

 

:本設問では「このような議論」をするに至った時代背景について述べよ、となっていますので「このような議論」とは何かをしっかり確認する必要があります(この中身を確認せずに単に「啓蒙思想は」とひとくくりにしてしまうと、きめ細かさのない粗い解答になってしまいます)。また、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューが「18世紀フランスの知識人」であったことから、時代的・地域的には「18世紀フランスの状況」を述べることが求められています。これは、18世紀フランスに生きた彼らの思想の背景には拭い難く「18世紀フランス」の影響がみられるからにほかなりません。たしかに、啓蒙思想自体は全ヨーロッパ的な、コスモポリタン的な性格を持ったもので、当時の啓蒙思想家たちは他国の知識人とも活発に意見交換をしていましたが、だからと言って当時彼らが置かれていた社会における諸条件から完全に解放されていたわけではありません。設問がそうした視点をもって「18世紀フランス」に限定したのかどうかは分かりませんが、設問の指示に従うのであれば、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューたちの述べている意見を確認した上で、なぜそのような意見・視点・思想を持つに至ったのかを「18世紀フランス」の時代背景・状況から説明することになります。また、中国に対する評価を行っているわけですから、当然同時代の中国の時代背景も考慮に入れることになります。(もっとも、後述するように「彼らの思想の影響」について述べる際には必ずしもフランスという枠にとらわれる必要はないように思います。)

:本設問では啓蒙思想の持つ歴史的意義についても述べよ、となっています。問題になるのは、これを18世紀フランスに限定すべきかどうかということですが、少なくとも設問は直接的にそのような指示はしていません。また、上記の通り、彼らの思想は18世紀ヨーロッパが「啓蒙の世紀」と称されるほどに全ヨーロッパ的な影響を与えていたことからも影響は何もフランスに限定されるものではないかと思います。昔の教え方ですと「啓蒙思想→フランス革命」に一直線なムードがありましたが、そもそもフランス革命自体が思想的にも政治的にも物質的にもアメリカ独立革命の影響を受けたものでしたし、18世紀東欧の近代化は啓蒙専制君主の存在なしには語れません。字数的に450字なので、結果として時代的には18世紀に限定されるとしても、歴史的意義について述べるにあたって地域的にフランスに限る理由はあまり見いだせない気がしますので、解答例もそのつもりで作成してみたいと思います。

 

【2、「このような議論」の中身はどのようなものか】

:設問中に示されている3人の啓蒙思想家ですが、ヴォルテールは啓蒙思想家の代表格です。イギリスに渡り、名誉革命後の(フランスのアンシャン=レジーム下の社会と比べると)自由な社会に触れたことが刺激となって書かれた『哲学書簡(イギリス便り)』などは私大でも頻出ですし、『寛容論』などで宗教的寛容を説いたことでも知られています。また、フリードリヒ2世、エカチェリーナ2世などの啓蒙専制君主と交流があったことでも知られる人物です。二人目のレーナルは高校世界史ではまず名前があがることはありません。革命前のフランス社会において教会や王政を批判した著述家です。三人目のモンテスキューは『法の精神』の中で三権分立を説いたことで知られる人物ですね。彼ら3人の対中国評価が設問中では示されていますので、そのポイントだけ示しますと以下のようになります。


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 ヴォルテールは中国の儒教について、迷信や伝説がなく、道理や自然を侮辱するような教理がないと称賛しています。これは、逆に言えば当時のフランスの社会には迷信・伝説があり、道理や自然を侮辱するような教理がまかり通っていることを暗に批判しているといえないこともありません。当時のフランスはアンシャン=レジームの下でブルボン家による絶対王政が展開されているわけですが、ここで力を持っていたのは第一身分である聖職者と第二身分である貴族です。18世紀フランスは、教会と貴族がその教理や家柄といった権威を振りかざして第三身分の平民を支配する権威主義的な社会でした。こうした中でヴォルテールが中国の儒教を上記のような形で称賛しているのは、合理的な考え方を尊重し、それを通して伝統・権威・キリスト教の教理などが持つ不合理を批判するという意味を持っていました。(啓蒙思想のこうした考え方については、2021年一橋の大問Ⅱ解説の方でも少し述べました。)

これと類似の考え方はレーナルの主張にも見られます。レーナルはヨーロッパの特権階級は「自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位」を持ち、そのため「ヨーロッパでは、凡庸な宰相、無知な役人、無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在している」と当時の身分制度を批判しています。一方で、中国については「このような制度」はなく、「世襲的貴族身分が全く存在しない」ことを紹介して称賛しています。指定語句に「科挙」があることからレーナルが称賛しているのが科挙などの人材登用システムにあることは明らかです。もっとも、当時の中国(清)では確かに科挙をはじめ満漢併用制など満州人と漢人を区別しない登用システムなどが存在していましたが、それでも貴族身分や世襲身分が存在しなかったわけではありません。ですが、レーナルの議論については当時のフランスに暮らす啓蒙思想家レーナルが「どのように中国をとらえたか」を把握することが大切です。

 ヴォルテールやレーナルが中国社会を称賛しているのに対して、モンテスキューの方はややシビアです。彼は「共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、専制政体の国においては『恐怖』が必要である。」と述べた上で、中国を「専制国家であり、恐怖で統治する」国家であると批判しています。設問のリード文でも「中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は、称賛もあり批判もあり、様々だった。」とあるように、啓蒙思想家の中国観が全て肯定的意見だったわけではないという点には注意が必要でしょう。

 

【3、啓蒙思想家はなぜ、「このような議論」を進めたか】

:では、「このような議論」の中身を確認したところで、本設問の要求である、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューという三人の啓蒙思想家たちはなぜ「このような議論」に至ったのかという背景を、フランスの時代背景、中国の時代背景を手掛かりにまとめていきましょう。まず、18世紀フランスの時代背景で、高校世界史に登場してくる知識としては以下のような事柄があるかと思います。

 

18世紀フランスの状況)

・貴族たちによる権威主義的な統治と身分制 / 社会の様々な束縛(アンシャン=レジーム)

:当時のフランスには、聖職者・貴族などの特権身分に対する免税特権をはじめ、様々な特権が存在していました。ところが、市民層の成長(ブルジョワの台頭)とともに彼らの持つ特権や権威に対する批判が高まっていきます。たとえば、ギルドなどが廃止されたイギリスの自由な商業活動を見たヴォルテールの『哲学書簡』などによってフランス社会の後進性が示されます。こうして、「アンシャン=レジームにおける諸特権が自由な経済活動を阻害している」ということが明らかになってくると、新しい経済理論が登場します。これがケネーの重農主義や自由放任という主張、『経済表』による経済分析へとつながっていきます。また、こうした批判がアンシャン=レジームにおける身分制自体の非合理性批判へとつながっていくとルソーの『人間不平等起源論』であるとか、シェイエスの『第三身分とは何か』などに見られる身分制批判が生まれてきます。

 

・キリスト教的価値観の支配する世界と啓蒙思想の対立

:フランスでは、17世紀後半から18世紀初めにかけてルイ14世の下で絶対王政が最盛期をむかえます。国王を頂点とする集権化が進み、国内の安定が達成されると、かつてのユグノー戦争時のような国内混乱は生じないわけで、少数派(ユグノー)に対する配慮も不要になりました。そこで1685年、ルイ14世はフォンテーヌブローの勅令を発していわゆるナントの王令を廃止するわけですが、このことによって18世紀フランスは宗教的には不寛容な社会に逆戻りをしていきます。また、フランスにおけるガリカニスムは教会と王権に同じ方向性を持たせ、教会に逆らうことはキリスト教の教理のみならず王室の権威に逆らうことともとらえられるようになりました。

 こうした中で、啓蒙思想は「合理的な」考え方を尊重し、理屈に合わない、観察や実験を経ない「迷信」や「伝説」を批判していきます。そうしたものの中で良く知られているのはディドロやダランベールが中心となって編纂された『百科全書』でしょう。『百科全書』は王党派や教会からたびたびその内容を批判されて発禁処分を受けます。本設問のヴォルテールによる中国儒教の称賛はこのような文脈のもとで読み取る必要があります。また、ヴォルテール自身も「カラス事件」(1761年にトゥールーズで発生した、少数派のプロテスタントに対するカトリック側の偏見がもとで生じた冤罪事件)をきっかけとして、宗教的寛容を説く『寛容論』を著しています。当時のフランスが、教会の権威と、教会の非合理性を批判する啓蒙思想家たちが対立する社会であったことをおさえておく必要があります。

 

(参考)17世紀の「科学の時代」が準備した18世紀「啓蒙の時代」

:本設問の対象は「18世紀フランス」なので、厳密には17世紀の話は不要です。ただ、18世紀が「啓蒙の時代」となる前に、17世紀の「科学の時代」がその思想的土台を用意していたことには注意しておく必要があると思います。いわゆる「科学革命」では望遠鏡、顕微鏡など用具面での開発と、観察・実験などの方法論の確立の確立が進んでいきます。簡単に言ってしまうと、観察や実験の精度が上がっていくわけですね。正確に物事を測る器具や方法がないと、「何となくこのくらいずつ混ぜると…爆発したw」みたいなことになってしまいますし、同じ現象を再現することも難しくなります。17世紀になると、正確にものを測ったり見ることができる器具がそろい、そのための方法が確立して、実験・観察における現象の再現性が飛躍的に向上することになります。すると、実験結果・観察結果を数値化することも容易となり、理論に数学的裏付けがなされていくことになります。17世紀はイギリスでニュートンが会長も務めた王立協会が、フランスでも王立科学アカデミーが設立された時代です。「17世紀=科学の時代」の理性に基づく様々な考え方の発達は、合理性を重んじる18世紀の啓蒙の時代へとつながっていきます。この二つの時代は早慶などの私大でも頻出の箇所なので、代表的な人物や著作・成果はおさえておいた方が良いかと思います。

 

18世紀の中国[]の状況)

18世紀(17011800年)の中国、つまり清についてということですと、おおむね康煕帝・雍正帝・乾隆帝の統治期間ということになります。清では明代と同じくイエズス会宣教師が重用されておりましたので、彼らのもたらす情報がヨーロッパへと伝わっていきます。もっとも、情報の伝播の仕方には多少のタイムラグがあるかと思いますし、康煕帝の統治期間が17世紀から18世紀にまたがっておりますので、こちらの方はそこまで厳密に18世紀にこだわらずとも、世界史で清朝について勉強する内容として知られた話をまとめるだけで良いかもしれません。ただし、さすがに明代の話などを入れると時代的に無理がありますので、それは避けた方が良いでしょう。

 

・宗教的寛容(儒学の他、仏教、道教、一時的にはキリスト教)

:これは、ヴォルテールが儒教の称賛とフランスの教会の非合理性批判を行っていることと合わせて示すと良いでしょう。中国でも時おり国教的なものが定められることはありますが、基本的には複数の宗教が併存している社会です。

 

・科挙や満漢併用制などの登用システム

:こちらは、レーナルの世襲貴族批判とのからみで示せればよいかと思います。科挙などの登用システムに影響を受けて、ヨーロッパでも官僚登用のための高等文官試験などが整備されていきます。ただし、当時の中国において支配階層が形成されていなかったのかというと、そういうわけではないのであって、郷紳など実質的には支配階層と言える層は存在していました。

 

・皇帝専制支配(清) / 文字の獄 / 典礼問題

:宗教的寛容や筆記試験に基づく試験など、アンシャンレジームと比較したときに自由で平等に見える一方で、清でも強権的な支配や言論・思想統制は存在しました。モンテスキューが指摘する通り、当時の清は皇帝による専制支配のもとにおかれていましたし、また体制にとって危険とみなされた思想や宗教は弾圧の対象となることがありました。たとえば、文字の獄などはその良い例ですし、一時は布教に寛容だったキリスト教・イエズス会などに対して禁令を発することになる典礼問題もそのひとつと考えることができます。

 

(中国・フランス双方に関係のあるものとして)

・イエズス会士の活動と中国文化のヨーロッパへの伝播

:イエズス会士たちは明代の頃から中国で活躍しており、ヨーロッパの文物を伝えると同時に中国の文化をヨーロッパへと伝えていました。本設問では18世紀の状況ですので、基本的には清で活躍した人物を書く必要があります。多分、本設問で一番使い勝手が良いのはブーヴェ(白進)ではないでしょうか。ブーヴェはその著作に『康煕帝伝』があることから康熙帝の頃の人物であることはあたりがつきますし、フランスのルイ14世が送った宣教師ですから、時期的に大外れということはなさそうです。実際、ブーヴェはライプニッツに儒教経典の一部を紹介などもしています。確実に18世紀となると乾隆帝の肖像画を描いたことでも知られるカスティリオーネ(郎世寧)がおりますが、西洋画や円明園の話だと本設問の内容につなぎにくい気がします。

 

・朱子学がヨーロッパに与えた影響

:中国から伝えられた文化のうち、朱子学は特に18世紀のヨーロッパの知識人に大きな影響を与えたことで知られています。唐代までの儒学が主に儒学経典の注釈・解釈を中心とする訓詁学にとどまっていたのに対し、宋代に入ると儒学はより大きな世界観をもった哲学体系へと発展していきます。北宋の周敦頤に始まるとされる宋学は南宋の朱熹によって大成され、全宇宙の運行と総ての生命を支える根本原則たる「理」と、物質を構成する根本たる「気」の二つによって宇宙の万物が形成されるとする「理気二元論」が確立されました。単なる字句の解釈にとどまらない壮大な宇宙観と、これを基にした中国に古来から存在する経書の膨大な知識体系は、ルネサンスに続き17世紀の科学の時代を経験し、人間の理性とは何かに注目し始めたヨーロッパの知識人たちの注目する所となりました。

 有名なところでは、ドイツの数学者・哲学者であるライプニッツが中国の易経に関心を寄せていたことが知られています。太極から陰と陽が派生し、八卦にいたる宇宙生成論を示した先天図は朱子学においても重視されましたが、これを宣教師ブーヴェから伝えられたライプニッツは自身の2進法との類似に強くひき付けられることになります。

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Wikipedia「ライプニッツ」より)


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Wikipedia「先天図」より [CC 4.0, Author:Gmk35298]

 

 また、カントやヴォルテールといった18世紀の思想家たちにも中国の思想は大きく影響を与えたことが知られています。フランスのケネーの重農主義にも『太極図説』の影響が見て取れるとの指摘もあります。中国文化の啓蒙思想家への影響については、2017年に改訂された『詳説世界史研究』では記述量がだいぶ減ってしまい、具体的な人名や事例などは省かれてしまいましたが、旧版(2008年版)の『詳説世界史研究』ではかなりの字数を割いて説明されておりました。こちらの説明がコンパクトにまとめられて分かりやすいかと思いますので、以下引用します。

 

 イエズス会宣教師をつうじて紹介された西洋学術は、中国文化に大きな影響をおよぼした。しかし彼ら宣教師も中国の制度・文化を積極的にヨーロッパに紹介し、各方面に大きな影響を与えた。たとえば、科挙制度は高度な官吏登用方法と考えられ、その影響でイギリスやフランスでは高等文官試験制度が始められた。また朱子学はヨーロッパの学者に歓迎され、ドイツの哲学者ライプニッツに影響を与え、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールに高く評価された。とくにヴォルテールは、孔子を崇拝していたという。フランスのケネーの重農主義にも中国の道家思想や農本主義が大きく影響している。陶磁器をはじめとする工芸品は、ロココ式芸術にとりいれられ、またフランスのルイ14世は中国風のトリアノン宮殿をたて、マリ=アントワネットは宮殿に中国家具がおかれた部屋をもっていた。さらに中国の造園術は、フランスのヴェルサイユ宮殿にも影響を与えた。

イエズス会宣教師たちによって紹介された中国文化は、1718世紀のヨーロッパに大きな影響をおよぼしたが、これをうけておもにフランスを中心に、中国の歴史や文化を研究対象とするシナ学(シノロジー、Sinology)が発達し、また17世紀後半から19世紀初頭にかけての美術にも影響を与え、シノワズリ(中国趣味)として流行した。[木下康彦ほか編、『改訂版:詳説世界史研究』山川出版社、2008年版p.263]

 

・科挙とイギリスやフランスの高等文官試験

:上述の引用にありますように、科挙は非常に優れた官吏任用試験と受け止められ、英仏の高等文官試験導入に影響を与えたとされています。また、筆記試験によって官僚への採用が決まる科挙のシステムは、身分制や世襲にとらわれないシステムとして、上述したレーナルのように当時のヨーロッパの啓蒙思想家に高く評価されました。

 

【4、啓蒙思想の歴史的意義とは何か】

:それでは、最後に設問のもう一つの要求である彼ら(啓蒙思想家)の思想、つまり啓蒙思想の持つ歴史的意義について考えてみたいと思います。ここで注意すべきこととしては、設問の要求しているのはあくまでも「啓蒙思想」の持つ歴史的意義なのであって、必ずしもフランスに限定する必要はないということです。設問はたしかに「とりわけフランスと中国の状況に触れよ」と要求していますが、それは18世紀の時代背景についてこれを要求しているのであって、歴史的意義についてまでこれを要求しているのではありません。問題概要のみですとこのあたりのことが読み取りにくいと思いますので、以下に設問の要求部分だけ引用します。

 

これらの知識人がこのような議論をするに至った18世紀の時代背景、とりわけフランスと中国の状況にふれながら、彼らの思想の持つ歴史的意義について、15行(450字)以内で述べよ。

 

 

 まぁ、フランスを中心に書いても問題はないのかもしれませんが、上述したように18世紀の啓蒙思想家の活動は国という枠にとらわれないコスモポリタンなものでしたし、18世紀フランスの啓蒙思想がフランスに限らずヨーロッパ全体に大きな影響を与えていたことを考えると、その歴史的意義をフランスに限定する意味はないように思います。出題者の当初の意図と合致していたかまでは分かりませんが、採点の際にはフランスに限らない広い視点での歴史的影響を書いたとしても、加点要素として考慮してもらえたのではないかと思います。フランスに限定してしまうと「啓蒙思想はフランス革命を準備した。」というお定まりの定型文で終わってしまいますし、仮にルソーだのなんだのと色々肉付けをしたとしても何だかつまらないですよね…。何より、東大らしくありませんw やはり、あっちにもこっちにも影響して、脱国境!交流!複雑!でもつながってる!すごいでしょ!の方が東大っぽくていい気がします。さて、以上を踏まえて「啓蒙思想の歴史的意義」ということでまとめるのであれば、ポイントとして示すべきなのは以下のようなものではないでしょうか。こちらは、教科書レベルでも十分に対応できる内容かと思います。また、あわせて啓蒙思想の持つ性格についても示しておきたいと思います。

 

[啓蒙思想の歴史的意義]

・フランスにおいてはフランス革命を準備したこと

 (また、それ以前にはアメリカ独立革命に影響を与えたこと)

・東ヨーロッパでは啓蒙専制君主の出現と近代化を促したこと

封建社会、貴族社会にかわる近代市民世界において理論的正当性を与えたこと

 (台頭するブルジョワの拠る理論)

・啓蒙思想を通じたコスモポリタン的、身分横断的な広がり

 ‐知識人のネットワーク

(アダム=スミス、ルソー、ケネーなどの文通、ヴォルテールの活動)

 ‐サロン

・博物学の発展

(各地の探検やビュフォン『博物学』、イギリスの『ブリタニカ百科事典』など)

・宗教的寛容が進んだこと

 ‐イギリスにおける国教会と非国教徒系プロテスタントの連携

 ‐プロイセンにおける宗教的寛容

   

[啓蒙思想の性格]

・理性に照らして非合理なものを排除する実学

・歴史や伝統、信仰を相対化する普遍主義

・未来を楽観する進歩思想

 

【解答例】

 フランスでは身分制度に基づくアンシャン=レジームの下、免税特権を持つ特権身分による権威主義的統治が展開され、ガリカニスムの下で国家と教会の価値観が強要され、自由な経済活動や科学的思考は阻害された。ルイ14世のナント王令廃止以降はユグノーが弾圧され、商工業が停滞した。中国では科挙や満漢併用制の実施、イエズス会士の重用など、身分や人種を越えた人材登用がされ、儒仏道の三教を基本としつつ宗教的には寛容で、マテオ=リッチの数学・暦法などの新知識も取り入れた。『哲学書簡』で啓蒙思想を広めたヴォルテールは儒教の合理性を称賛する一方で伝統・権威・キリスト教などの非合理性を指摘し、レーナルは階級にこだわらない官吏任用制度を評価したが、モンテスキューは反体制的思想を文字の獄で弾圧する中国をフランスと同じ専制国家であると批判した。このように、啓蒙思想家は絶対王政を批判し、合理的・普遍的・進歩的思想をヨーロッパに広めて、アメリカ独立革命やフランス革命の思想的土台を作り、東欧では啓蒙専制君主の出現と近代化を促した。(450字)

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2022年の東大大論述は、8世紀~19世紀にかけてのトルキスタン史を問う設問でした。東大では、このように特定地域について長いスパンにわたっての歴史を問う出題がたびたび出題されています。たとえば、以下のようなものが例として挙げられるかと思います。

 

2011年:アラブ=イスラーム文化圏[7-13世紀]

2010年:オランダ(系)の人々の役割[中世末~現代]

2001年:エジプト史[文明発祥~20世紀]

1999年:イベリア半島史[3世紀-15世紀]

1995年:地中海周辺地域史[ローマ帝国成立~ビザンツ帝国滅亡]など)

 

設問の要求はいたってシンプルで、トルキスタンにおける勢力の変遷と周辺地域とのかかわりを丁寧に書いていけば十分な内容の解答を用意できるかと思います。東大ではたびたびユーラシア大陸の広域にわたる交流・対立の様子を問う設問が出題されており、教科書や参考書などでも最近は中央アジアの様子を伝える情報量が拡大していることから、しっかりと勉強を進めた受験生であれば十分に対応できる標準的な設問だったのではないでしょうか。近年では京都大学でも立て続けに遊牧民族を取り扱った設問が出題されていたこともあって、今年は試験前にこんなことを言っておりましたが…かすりましたね。「中央アジア史については以前よりも手厚く勉強しておかないと特に国公立は差がついてしまうな」ということは受験生、あるいは受験指導をされている先生方の共通認識としてあったのではないかと思います。また、東大では2019年にオスマン帝国史を出題しており、そうした面でもトルコ民族にかなりの関心が払われていることがうかがわれます。ただし、ひとことで「トルキスタン」といっても、この土地にはイラン系、モンゴル系など様々な民族が流出、流入、興亡を繰り返している点には注意が必要です。「〇〇人」という時に、その民族的な背景がどのようなものかまで深く理解しながら学習を進めているかどうか。一見、そこまで難しくないように見えて、そうした学習が不十分だとじわじわとボディーブローのように効いてくる問題です。やはり、表面的な理解ではなくてしっかりとした内容的な理解までできているかどうかが東大では点数の差となってくるように思います。

 リード文では「オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心」であり「文化が交錯する場」であったこと、「トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれ」るようになったこと、「同地(トルキスタン)の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出」したこと、「一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響」を及ぼしたことなどが紹介されているため、これらも解答作成の際には全体の大きな枠組みを作るための材料として活用することができます。

 

【1、設問確認】

・時期:8世紀~19世紀(7011900

・トルキスタンの歴史的展開について記述せよ

20行(600字)以内

・指定語句の使用(使用した語句に下線)

アンカラの戦い / カラハン朝 / 乾隆帝 / / トルコ=イスラーム文化 / バーブル / ブハラヒヴァ両ハン国 / ホラズム朝

 

:設問の指示はシンプルです。10年前、20年前であれば教科書や参考書のトルキスタンの記述が不十分であったことや、各大学でトルキスタンが出題されることがそれほど多くはなかったことなどから十分な準備ができなかった受験生も多かったのではないかと思います(そのあたりのことを考えて以前トルキスタンとはどういう地域かについては簡単にご紹介いたしました)が、近年の諸大学の出題傾向、教科書の記述等を考えれば、基本問題になるのではないかと思います。細かい内容となるとなかなか出てこないかもしれません。勉強量がそのまま反映される設問と考えてよいかと思います。

 記憶を掘り起こすのに苦労する設問ではありますが、上でも書きました通り、リード文の方に大きな流れ自体は示されていますので、これをヒントにすると良いでしょう。リード文から確認できる流れとしては以下の通り。

 

① オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心 / 文化が交錯する場

② トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれるように

③ 同地の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出

④ 一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響も

 

この流れに沿って指定語句をヒントにトルキスタン史を思い描くだけでも、それなりの内容は構築できるのではないかと思います。当然、抜けてしまう部分はあるので、そこをどう肉付けして埋めていくのかという点で力量の差が問われるのではないでしょうか。

 

【2、指定語句の整理】

:指定のスパンが非常に長いので、指定語句をチェックしてある程度の内容を確認しておく必要があるでしょう。

 

・アンカラの戦い

1402年に起こったアンカラの戦いは、オスマン帝国のバヤジット1世をティムールが打ち破ったことで知られる戦いです。ティムールはトルコ化したモンゴル系貴族の出身で西トルキスタンで自立して大帝国を築いた人物ですから、「トルキスタンで勃興し、周辺地域に影響を与えた例」として用いるべき用語です。

 

・カラハン朝

:カラハン朝を紹介する時の定番は「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」というフレーズです。カラハン朝の成立する時期は10世紀半ばですので、セルジューク朝(1038年に成立)よりも早いんですね。この知識は私大などの正誤問題でもよくキーとなる部分ですので注意が必要です。本設問では、トルコ化が進む過程で同地のイスラーム化が進展した一例として使うことになるかと思います。また、カラハン朝の滅亡には西遼(カラ=キタイ)やホラズム朝が関係していますので、そのからみでも使うことになるかと思います。実は、カラハン朝の滅亡に関する教科書や参考書の記述はかなり曖昧です。私大等の正誤問題では「カラハン朝は西遼に滅ぼされた」を根拠として選ばせるものが多く出題されるにもかかわらず、教科書や参考書によっては西遼だけでなくセルジューク朝やホラズム朝の影響について言及するものもあったりで、受験生を悩ませる部分です。(そもそも、そういった部分を正誤問題とするのはどうなんだろうと思いますが。)  このあたり、旧版の山川出版社の『改訂版世界史B用語集』では「11世紀中頃パミール高原を境に東西に分裂し、後セルジューク朝や西遼の支配下に入った。」となっておりましたが、新版の『改訂版世界史用語集』(山川出版社)では「王朝は緩やかな部族連合体であったため、11世紀には王族が各地で割拠した。それらは12世紀、カラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。」となっています(下の方に旧版と新版の用語集については引用しています)。

 教科書にはほとんど満足のいく記述はありませんので、これ以上の情報を手近で確認したい場合には、現状ではWikipediaの「カラハン朝」の記載が一番わかりやすいようです。「Wikipediaなんて!(蔑)」と思われるかと思いますが、こちらの項目は文献引用の仕方も丁寧ですので、その気になれば紹介されている引用を確認すれば裏付けも取れるかと思います(多分。時間あるときに私の方でも確認してみます)。こちらによると、カラハン朝は11世紀半ばに東西に分裂し、その後東西ともに一時セルジューク朝に臣従しました。臣従から脱した後、東カラハン朝は12世紀半ばに西に進出してきた西遼の支配下に入り、さらに後に西遼の王位を簒奪したナイマン族のクチュルクによって13世紀初めに滅ぼされます。西カラハン朝はその後もわずかに存続しましたがホラズム朝によって滅ぼされました。この話の内容であれば、各種教科書、用語集とも矛盾が生じませんし、もともと私が持ち合わせている知識とも大きな齟齬はないように思いますので、まず問題ないのではないかと思います。ちなみに、山川用語集の「カラハン朝」の項目は以下の通り。

 

(旧版)

 10世紀中頃~12世紀中頃 中央アジアのトルコ系イスラーム王朝。サーマーン朝を倒し、東西トルキスタンを支配、トルコ人のイスラーム化を促進した。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史B用語集』山川出版社、2008年版、p.82

 

10世紀中頃~12世紀中頃 中央アジアを支配したトルコ系最初のイスラーム王朝。999年サーマーン朝を滅ぼし、東西トルキスタンを征服して、そのイスラーム化を促進した。11世紀中頃パミール高原を境に東西に分裂し、のちセルジューク朝や西遼の支配下に入った。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史B用語集』山川出版社、2008年版、p.94

 

(新版)

 10世紀半ば~12世紀半ば頃 中央アジアではじめてのトルコ系のイスラーム王朝。10世紀末にサーマーン朝を滅ぼし、パミール高原の東西に領域を広げた。緩やかな部族連合体の政権であったため、11世紀には王族が各地で割拠し、12世紀にそれらはカラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史用語集』山川出版社、2018年版、p.76

 

10世紀半ば~12世紀半ば頃 中央アジアに成立した最初のトルコ系イスラーム王朝。建国後イスラーム教に改宗し、10世紀末にサーマーン朝を滅ぼして、東西トルキスタンにまたがる領域を形成した。王朝は緩やかな部族連合体の政権であったため、11世紀には王族が各地で割拠した。それらは12世紀、カラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史用語集』山川出版社、2018年版、p.113

 

もし上記が「信用ならないな」とお感じになるようでしたらWikipediaの紹介している引用の内容をご確認ください。多くの教科書や参考書で「カラハン朝=西遼が滅ぼした」となっているのは東カラハンと西カラハンの滅亡までにほとんど差がないこと、両王朝滅亡の大きな要因が西遼の進出によるものだったからでしょう。上記の新版『改訂版世界史用語集』(山川)の新しい記述は、そのあたりの事情を知らない受験生が混乱しないようにと配慮した記述になっているように思います。

 

・乾隆帝

:この用語は一瞬「!?」となる受験生もいたのではないかと思います。ただ、地力のある受験生であれば乾隆帝のジュンガル遠征と平定後の新疆の設置につなげて考えることは十分に可能かと思います。康煕帝による出兵以降、衰退していたジュンガル部は、18世紀半ばの乾隆帝の出兵によって平定され、彼らが住んでいた東トルキスタンの地域は「新疆」という藩部の一つとされ、理藩院の監督下に置かれることとなりました。注意しておきたいこととしては、ジュンガルはトルコ系部族ではなくオイラートの血をひくモンゴル系部族だということです。

 

・宋

:これも使いどころに一瞬迷うものかと思います。ただ、上述の通りカラハン朝の滅亡に西遼(カラキタイ)が深くかかわっていることを思い出せば、西遼建国のきっかけとなったのが宋(北宋)と金(女真族)の挟撃による遼の滅亡にあったことに思い至るのではないかと思います。遼の滅亡に際して、王族の一人であった耶律大石が西へと移動し、(東)カラハン朝を撃破して西遼を建国します。宋はこれにからめて使用すればOKでしょう。

 

・トルコ=イスラーム文化

:トルキスタンのトルコ化とイスラーム化にともなって、トルキスタンではトルコ=イスラーム文化という同地特有の文化が花開きます。トルコ=イスラーム文化とは何かというのは、受験生にはなかなか把握しづらい事柄かもしれませんが、本設問で使うのであれば、同文化が特に栄えたのがティムール朝の時期であったことと、具体例を一つか二つ示せれば十分でしょう。ちなみに、新版の『改訂版世界史用語集』(山川出版社)ではトルコ=イスラーム文化について「セルジューク朝やイル=ハン国の元で繁栄したイラン=イスラーム文化が、ティムール朝により中央アジアに伝わって形成された文化。トルコ語文学や写本絵画が発達した。」と紹介されており、それに続いて天文学の発展に貢献したティムール朝4代君主ウルグ=ベクや、細密画(ミニアチュール)などの項目が紹介されています。また、近年は教科書・参考書等でトルコ語文学(チャガタイ語文学)について言及されることも増えてきました。中でも、ムガル帝国の建国者バーブルが書いたとされる『バーブル=ナーマ』については今後出題頻度が増えてきそうな気がしています。ティムール朝期の文化については、2017年版『詳説世界史研究』の記述がかなりまとまっていますので引用します。

 

ティムール朝期の文化はおもにサマルカンドとヘラートで、君主や高官の保護のもとで発展した。2つの都市には、多数のモスク・マドラサ・ハーンカーフ(修道場)・庭園・聖者廟・公共浴場・隊商宿・病院・給養所が建てられたが、そのほとんどはワクフとよばれる寄進財で建設・運営された。ティムールの孫ウルグ=ベク(位144749)は、君主であると同時に天文学者でもあり、サマルカンドに天文台を建設したことで知られている。彼が作成した天文表のラテン語抄訳は1655年にイギリスで刊行された。歴代の君主は学芸の保護に努め、各地から学者や詩人を宮廷に招聘して優遇した。ヘラートで活動したナヴァーイーは、伝統的なペルシア語で詩作したのみならず、ペルシア語に倣ってアラビア語で表記されるトルコ語の文章語、すなわちチャガタイ語で多数の作品を著し、チャガタイ語の発展に大きく貢献した。この時代の著作は手書きで写されて流布したが、こうした写本にはしばしば美しく繊細な絵画(細密画)が挿入された。ヘラートやブハラ、タブリーズの工房は写本絵画の制作で知られていた。

 ティムール朝は、16世紀の初め北部の草原地帯から南下したトルコ系の遊牧ウズベクの攻撃を受けて滅亡した。このときティムール朝の王子バーブルはアフガニスタンをへてインドに進み、ムガル帝国を創始した。この意味でムガル帝国はティムール朝の継承国家ともいえる。バーブルの回想録『バーブル=ナーマ』は、チャガタイ文学の傑作として名高い。そして、ティムール朝にかわって西トルキスタンを制した遊牧ウズベクがしだいに定住することにより、この地域のトルコ化は最終段階を迎えることになる。(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、P.242

 

・バーブル

:バーブルを用いるコンテクストとしてはすでに上記のトルコ=イスラーム文化の方でご紹介しました。ティムールの血を引くバーブルは、パーニーパットの戦い(1526)でデリー=スルタン朝最後のロディー朝を破り、ムガル帝国を築きますので、こちらもトルコで勃興した勢力が周辺地域に影響を及ぼした例として示すのが良いかと思います。また、トルコ=イスラーム文化の一つとして示すことももちろんOKです。

 

・ブハラ・ヒヴァ両ハン国

:ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国は19世紀後半にロシアが支配下におくウズベク人の国です。東大では以前ロシアのユーラシアにおける勢力拡大が出題されたこともありますので、東大受験生にとっては比較的なじみ深い用語ではないかと思います。ティムール朝の滅亡がウズベク人の進出によるものであることを考えれば、その流れにそって示してやるのが一番使い勝手が良いと思いますし、両国が事実上、ロシアの保護国となった[ブハラ=ハン国については1868年、ヒヴァ=ハン国については1873]ことも書くべきでしょう。

 また、ウズベク3ハン国と言えば、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国に加えてコーカンド=ハン国も当然問題となります。コーカンド=ハン国とブハラ・ヒヴァ両ハン国の違いをあえて示すとすれば、コーカンド=ハン国は完全にロシアの植民地として併合されることと、イリ事件の元をつくったヤクブ=ベクが元はコーカンド=ハン国がカシュガルで清に対して反乱を起こしたイスラーム勢力支援のために送った軍人であったことでしょうか。イリ地方は本来はモンゴル系の多い地域でトルキスタンとは歴史的に異なっていた地域ですが、清朝統治下においては新疆の一部としてタリム盆地のトルコ系イスラームと一体の関係で取り扱われておりましたので、本設問でトルキスタンの一部として取り扱っても差支えはないかと思います。近現代中央アジアにおけるムスリムの活動についてはつい最近上智のTEAP利用(2021年)の論述問題でかなり真正面から取り扱った設問が出題されるなど、出題頻度が増えてきている&設問自体もかなり突っ込んだものが多くなってきている印象を受けます。

 

・ホラズム朝

:ホラズム朝についてもすでに上記でいくらかご紹介しています。ホラズム地方(アラル海の南、アム川下流域)の統治を任されていたセルジューク朝の総督(マムルーク)が自立化したことで建国され、その後13世紀の初めまでにセルジューク朝や西遼、ゴール朝などを破ってイラン西部やアフガニスタンの一部を含む中央アジア一帯を支配する大勢力に成長しました。その後、チンギス=ハーンによって滅亡し、その旧領の多くはチャガタイ=ハン国の支配下に置かれることとなりました。(イランについてはイル=ハン国の支配下に入りました。)

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【3、指定語句をヒントに話の流れを整理】

:これまで、かなり細かく指定語句のチェックをしてきましたので、本設問を解くにあたって必要な情報のかなりの部分は確認できたかと思います。ですが、本番の試験会場ではここまで細かくチェックしている時間・余裕はないでしょうから、実際には手早く時代ごとに並べ替えて、内容的に途中の抜けがないかどうか、関連事項は何かなどを確認していくことになるかと思います。下の表は、上記2の指定語句チェックで述べた事項を簡単に時代や地域ごとに整理したものです。時代や地域が重なったりする部分もあるのでかなり大雑把なものですが、大きな流れを把握するにはこの程度で十分かと思います。赤字は、指定語句チェックをただ進めるだけでは出てきにくい事項です。特に、ウイグルの定住とトルコ化の進展、サーマーン朝の進出とイスラーム化の進展は前提となる部分ですので、これを見逃してしまうとかなり差がついてしまうかもしれません。メジャーな割に意外に気づきにくいのがセルジューク朝やモンゴルの支配でしょうか。「モンゴル支配をすっとばしていきなりティムール」みたいなことがないように注意したいですね。タラス河畔の戦いは出てくるかもしれませんが、唐による都護府の設置と西域支配は見逃しがちです。また、ガズナ朝・ゴール朝がトルコ系王朝であることも、指定語句を追いかけているだけでは見逃してしまうかもしれません。もっとも、いつも申し上げることですが必ずしも完璧な解答が書ける必要はない(書けるにこしたことはない)ので、仮に自分が見落とした箇所があるにしてもあまり気に病まず、自分ならどこまで書けるかを確認した上で精度を上げていくのが良いでしょう。

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それでは、これらを1の設問確認でチェックしたリード文の流れに沿って配置して、話の大きな流れを作ってみることにしましょう。

 

① オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心 / 文化が交錯する場

:トルキスタンでもともと活発に活動していたのはソグド人と呼ばれるイラン系民族で、オアシス都市を拠点に交易に従事していました。唐は、彼らが西域と呼んだ同地の経済的利益をおさえるため、クチャ(亀茲)に安西都護府を置き(658年)、さらに北庭都護府をおいて西域経営を強化しましたが(702年)、タラス河畔の戦い(751年)でアッバース朝に唐が敗れて以降は同地へのイスラーム勢力が進出を始めました。一方で、モンゴル高原を支配していたトルコ系ウイグル人の帝国が9世紀にキルギスによって滅亡すると、それまでの居住地を追われたウイグル人が中央アジアに定住し、これらとソグド人の混血が進む中で同地のトルコ化が進んでいきます。

 

② トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれるように

:トルコ化が進むトルキスタンでは、同時にイスラーム化も進展していきます。イラン系サーマーン朝の侵入によってトルキスタンのイスラーム化は加速し、その過程でイスラーム世界には同地のトルコ人を軍人奴隷として使役するマムルークを用いる習慣が導入されていきます。また、軍人として力をつけたマムルークの中には次第に自立化し、独自の勢力を築く者も出てきました。こうした中で、トルキスタンには同地初のトルコ系イスラーム王朝とされるカラハン朝や、後に西アジア方面へ進出してスルタンの称号を得るセルジューク朝、アフガニスタンに興りたびたびインドに侵入したガズナ朝やゴール朝、セルジューク朝から自立して中央アジア一帯に大勢力を築くホラズム朝などが成立していきます。

「アフガニスタンをトルキスタンに含めるのか」という問題については、現在のアフガニスタンの人口のほとんどが非トルコ系民族(イラン系が多い)ということで現在のトルキスタンの定義に照らすと微妙なところですが、アフガニスタン北部をトルキスタンに含めて考える場合もありますし、何よりガズナ朝・ゴール朝ともにトルコ系王朝ですから、本設問が設定している時期の両王朝を歴史的にトルキスタンに関係する事柄として示すことには問題がないのではないかと思います。

 

③ 同地の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出

:トルキスタンではカラハン朝やホラズム朝が大きな勢力を築きますが、同地には宋と金によって祖国(遼)を滅ぼされた西遼や、チンギス=ハンによってモンゴルを追われたナイマン部のクチュルク、さらにユーラシア全土に支配を拡大するモンゴル手国のチンギス=ハーンなどの諸勢力が侵入して興亡を繰り広げます。こうした中でカラハン朝ならびにホラズム朝は滅亡し、しばらくの間は13世紀のモンゴルの平和(パクス=タタリカ)のもとでチャガタイ=ハン国などの支配が続きました。しかし、14世紀に入るとティムールが帝国を築き、トルコ=イスラーム文化が花開きます。それも16世紀には衰退し、トルキスタンはウズベク人の諸王朝によって支配されます。その後、トルキスタンは清の乾隆帝による新疆設置やロシアによるヒヴァ、ブハラ、コーカンドのウズベク3ハン国支配により、トルコ人以外の民族が支配する時代へと移り変わっていきます。

 

④ 一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響も

:これについては表の方にも示しましたが、以下の内容を適宜盛り込んでいけば良いかと思います。

 

A ガズナ朝、ゴール朝がインド侵入

B セルジューク朝の西アジア進出(バグダード入城とスルタンの称号)

C ティムールの進出とオスマン帝国のバルカン半島進出の停滞

D ウルグ=ベク天文表をはじめとするトルコ=イスラーム文化の伝播

E バーブルによるムガル帝国の建国(デリー=スルタン朝の滅亡)

F ヤクブ=ベクの反乱と露清両国の対立(イリ事件)

 

【解答例】

イラン系ソグド人がオアシス都市を拠点に交易した乾燥地帯は西域と呼ばれ、唐が都護府を置き支配したが、タラス河畔の戦い以降はイスラーム勢力が進出した。一方、キルギスに追われたトルコ系ウイグル人が同地に移住するとトルコ化も進んだ。サーマーン朝進出でトルコ人がマムルークとして受容されると勢力を拡大し、アフガニスタンに興ったガズナ朝やゴール朝、西アジアや小アジアへ進出したセルジューク朝、中央アジアのカラハン朝などのトルコ系王朝が出現した。カラハン朝はと金の挟撃で滅んだ遼の耶律大石が建てた西遼や、アム川下流域に興ったホラズム朝の圧迫で滅び、その後チンギス=ハーンの征服を経てチャガタイ=ハン国が出現した。チャガタイ=ハン国から自立したティムール朝は、アンカラの戦いでバヤジット1世を捕らえオスマン帝国の拡大を停滞させ、サマルカンドやヘラートではチャガタイ語文学や細密画などトルコ=イスラーム文化が花開いた。ティムール朝衰退後は、ティムールの血を引くバーブルがインドにムガル帝国を築いたが、トルキスタンはウズベク人が支配した。同地の西部に成立したブハラ・ヒヴァ両ハン国は南下政策を進める露の保護国とされ、コーカンド=ハン国は併合された。一方、モンゴル系ジュンガルが進出した東部は清の乾隆帝が平定し、新疆として理藩院の監督下に置かれたが、ヤクブ=ベクの反乱を機に発生したイリ事件が露清間の対立を引き起こした。(600字)

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(注:掲載当初、2003年の小論述が1問抜けていましたので、修正しました。[2022.3.31])

 今回は東大第2問の分析です。東大というと大論述が「どーん」とあるので、とかくそちらに意識が集中しがちですが、以前からたびたびお話している通り、大論述が「ガッツリ書けて」かつ「シッカリ点数が取れる」という受験生はまれです。合格点を考えても、内容的にも、大論述で点数が取れるようにすることも大切ではありますが、それ以上に2問、第3問で点数の取りこぼしをしないということを重視するべきなのです。ただ、第2問、第3問については東大受験生の最終的な(受験時の)平均値を考えた場合、ほとんどの問題は基礎的な内容にとどまり、教科書なり参考書なり用語集を見れば解決できてしまうので、特に当ブログでご紹介することはありませんでした。どうしても心配な場合には、東大過去問をベースにつくられた対策問題集などが市販されていますので(駿台の『テーマ別東大世界史論述問題集』など)、そうしたものや東大やその他100字前後の論述問題が収録されている問題集や他大過去問を解くことで練習しておくと良いでしょう。まれに、「むむ?これは!」と受験生をうならせるような難問が出題されることもあります。2008年の「ゴラン高原領有をめぐりイスラエルが主張の根拠とする1923年の境界はいかなる領域間の境界として定められたか」などは多少しんどいかなと思いますし、2002年の段階で「ジャーギール制とティマール制の共通の特徴」を問うのはちょっと無茶が過ぎるだろうと思います。(現在ではそこまで難しくはありませんが。)

ですが、これもしばしば申し上げるように、難しい問題は他の受験生もできません。ということは、その問題によって点差が開くことはほとんどないのであって、それを気にしても始まりません。(出題された翌年度以降は受験生にとっての共通認識になっていくので、ほったらかしにするのではなく、見直しはしっかりしておく必要があります。) むしろ「本番でオレ様ができない問題は周りもできねぇ。」と思えるくらいの自信を日々の学習で培っておくことの方が重要な気がします。

問題の内容的な面はともかく、出題の全体的な傾向を把握しておいて損はないかなと思いますので、1985年から2022年までに東大第2問で出題された問題のうち、論述問題(1行以上の字数で説明を求める問題)の一覧を作成し、簡単な傾向分析を行ってみました。これからご紹介する表をご参照いただくにあたって注意すべき点は以下の通りです。

 

① 一覧に示されているのは原則として設問の要求・概要です

② 一部、論述にくっついて用語を要求する設問などについては解答を示してあります

③ 「行数」は純粋に「〇〇行で書きなさい」という設問のみカウントし、単問式の設問に要する行数はカウントしていません

④ 1996年~2002年については単問式の設問数が多いため、論述問題以外は概要の表のデータから除外しました

⑤ 分野分析の各単元は、基本的には『詳説世界史研究』山川出版社、2017年度版の章立てに依拠していますが、一部タイトルを変更したり、まとめているものがあります

ex.) 「近世ヨーロッパ世界の形成」と「近世ヨーロッパ世界の展開」を「~の形成と展開」など

⑥ 対象となる設問がどの分野に属するかについては、設問の肝となる部分を考慮してキーとなる用語を索引で調べ、設問内容と照らして妥当と思われる箇所に分類しました(複数分野に重複して数えることは避けました)

⑦ 殷・周~秦・漢までは、中国史の出題とその他をはっきり分けてとらえたかったため、「内陸・東アジア世界の形成と展開」の方に含めています(本来はアジア・アメリカの古代文明に分類されていました)

 

【東大第2問:設問概要と論述問題の行数】

:表中の赤字は単問式設問の解答です。全体を通しての平均合計行数は11.6でした。


1985年~1989年)

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1990年~1999年)

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2000年~2009年)

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2010年~2022年)

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【東大第2問:分野別分析(1985年~2022年)】

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:「アジア諸地域の繁栄」、「アジア諸地域の動揺~帝国主義とアジアの民族運動」、「内陸・東アジアの形成と展開」が上位3つとなりました。「アジア諸地域の動揺~帝国主義とアジアの民族運動」は多少対象範囲が広いので参考程度ですが、やはり中国史関連の出題はかなり多いという印象を受けます。また、「アジア諸地域の繁栄」の数が多いのは、中国史(明・清)だけでなく、オスマン帝国やムガル帝国などの出題が多いことも原因です。「イスラームの形成と発展」はそこまで多くありませんが、近代史では民族運動とからんでイスラームと関係する出題が出されたり(ワッハーブ派など)、現代史ではパレスティナ問題にからむ設問がたびたび出題されるなど、やはり全体としてイスラームの印象も色濃い気がします。ヨーロッパ単体(ヨーロッパだけで話が完結する設問)は全体からすればそれほど割合は高くありません。目立って出題が少なかったのは「アジアアメリカの古代文明」でしたが、これは上述の通り「殷・周~秦・漢」を「内陸・東アジアの形成と展開」の方に含めて計算したことが影響しているかと思います。もっとも、「アジアアメリカの古代文明」からの出題のうちほとんどは初期仏教の誕生や伝播にかかわる設問で、古代アメリカからの出題は2000年の「インカ帝国の交通・情報手段(1行)」のみでした。

 

(分野別分析:2003年~2022年)

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 直近の20年ほど(2003年~2022年)で見ると、全体を通してみたときよりもアジア世界の優位性が相対化され、あまり目立たなくなっています。「オリエントと地中海世界」や「ヨーロッパ世界の形成と展開」の割合がやや増え、まんべんなく出題されている印象があります。

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東大の大論述では宗教にがっぷり四つで取り組ませる設問はそこまで頻繁ではありませんが、時折出題されます。ざっと10年おきくらいかなという気がします。とりあえず、私の主観で「うわ、宗教だわ」と感じる設問としてはこの年の出題以外ですと1991年あたり(イスラーム世界、西ヨーロッパ世界、南アジア世界の政治体制変化を問う設問。必然的に宗教政策が大きな問題となる)かなと思います。ただ、2021年については、地中海世界の3つの文化圏がテーマでしたが、イスラームの成立やピレンヌ=テーゼとも絡む設問で、「宗教の問題に着目しながら」とわざわざ注意書きがありましたし、1994年についてもモンゴル帝国と宗教(ほかに民族・文化も)の関係を問う設問で、かなり宗教的な要素について考えないと解けない設問でした。

その他の年についても、宗教を全く扱わないわけではなく、たとえば2011年のようにイスラーム文化圏をめぐる動きについて述べるような設問では宗教を避けるわけにはいきません。にもかかわらず、宗教をまったく、またはほとんど考慮しなくてもよいと思われる設問が過去20年で1112年分あることを考えれば、東大大論述では宗教はそこまで重要なファクターとはなっていない気もします。ただ、いつも申し上げることですが、「だから出ない」というわけではありません。東大では歴史に対する総合的な理解度を問う設問が出題されますので、マニアックな知識は不要であるにしても基本的な要素はしっかりと身につけておく必要があるでしょう。

 

【1、設問確認】

・時期:18世紀前半まで=信教の自由(または宗教的寛容)が広まる以前の時期

・世界各地の政治権力はその支配領域内の宗教・宗派をどのように取り扱っていたか

・世界各地の政治権力はその支配領域内の(各宗教集団に属する)人々をどのように取り扱っていたか

・西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げよ

・上記について3つの地域の特徴を比較せよ

20行(600字)以内で論ぜよ

・指定語句(使用箇所に下線)

:ジズヤ / 首長法 / ダライ=ラマ / ナントの王令廃止 / ミッレト / 理藩院 / 領邦教会制

 

:設問の要求には少し注意が必要です。宗教・宗派をどのように取り扱っていたのかに加えて、領域内に住む人々をどのように扱っていたのかについて聞いています。これらは、同じことを聞いている場合もありますが、異なる扱いを受けることもあります。たとえば、特定の宗教・宗派に対して寛容が認められた場合でも、個々人に対する扱いは存外に厳しいといったケースはありうるわけで、集団に属する個人がどのように扱われたのかについては少し丁寧に見ていく必要があるかと思います。また、本設問は「世界各地の」と言っているわりに、結局は西ヨーロッパ・西アジア・東アジアの3地域に限定されていることにも注意が必要です。さらに、終わりの時期ははっきりしているのですが、いつ頃からかなのかは判然としません。これについては指定語句からおおよその時期を判断するしかないかと思います。多少、設問の設定が甘いかなという気はします。

 

【2,指定語句を3地域ごとに整理】

:具体例を挙げるべき3地域がはっきりしていますので、指定語句を3地域ごとに整理してみると以下のようになります。

 

(西ヨーロッパ):首長法 / ナントの王令廃止 / 領邦教会制

(西アジア):ジズヤ / ミッレト

(東アジア):ダライ=ラマ / 理藩院

 

このように見てみると、おそらく西ヨーロッパについては宗教改革後のキリスト教世界、西アジアについてはオスマン帝国支配下のイスラーム世界、東アジアについては清朝支配下の中国を想定しているかと思います。ただ、東アジアについては他の世界とそろえる(首長法が1534年、宗教改革の開始[ルターの95か条の論題]1517年と考えれば16世紀あたりから)という意味と、イエズス会宣教師の活躍が明末から展開していたことなどを考えれば明の支配していたころまで広げた方がいいかと思います。

 

【3、18世紀以前の3地域はどのような宗教世界であったか】

:設問がアバウト(開始時期が不明な上、地域ごとの多様性も無視)なので、何を要求しているのかぱっと見にはわかりません。上の2で示した通り、指定語句などを参考に時期を16世紀~18世紀前半に限定した上で、3地域がどのような宗教世界であったかを簡単に把握して、関連事項を整理する必要があるでしょう。

 

(西ヨーロッパ)

:指定語句から絶対王政や宗教改革の展開される16世紀以降が主であることは想像できます。この世界は、ルネサンス以前の中世においてはアタナシウス派キリスト教(カトリック)が絶対の存在でしたが、中世末期には教皇権の失墜などによりそれが動揺します。ルネサンス期の人文主義などから教会批判が強まり、16世紀に入ってルターが展開した一連の教会批判をきっかけとして宗教改革が始まりました。その結果、それまで一つの宗教世界であった西ヨーロッパは分裂し、主として南ヨーロッパを中心とするカトリック世界と北西欧を中心とするプロテスタント世界へと分かれていきました。両派の対立は、宗教戦争へとつながり、各地においてそれぞれの宗派をどのように扱うかがルール化されていきます。

たとえば、ドイツにおいてはアウクスブルクの宗教和議やウェストファリア条約を通して領邦教会制が成立するとともに、カルヴァン派についても容認されるなど両派の住み分けが進んでいきましたが、個人単位の信仰の自由は認められませんでした。イギリスにおいても、ヘンリ8世の出した首長法、そしてエリザベス時代に出された統一法などを通してイングランド国教会(イギリス国教会)が成立・確立していき、国家の宗教は国王を首長とするイングランド国教会とされたものの、時代が進むにつれ、プロテスタントであれば非国教徒への一定レベルの寛容が認められていきます(cf. 寛容法[1689])。一方で、カトリックに対しては長く敵性宗教と扱いが続いていくことになりました(cf. 審査法[16731828廃止]、カトリック教徒解放法[1829])。

宗教が領邦単位、国家単位で管理されたドイツやイギリスに対して、フランスではユグノー戦争を経てアンリ4世のもとでナントの王令(勅令[1598])が出され、個人単位での信仰の自由が認められました。ですが、17世紀に入り絶対王政が確立して集権化が進むと、フォンテーヌブローの勅令でナントの王令が廃止され[1685]、ユグノーの信仰の自由は奪われ、商工業者の多かったユグノーたちは北西欧へと亡命していくことになります。

西ヨーロッパにおける状況は以上のようなものでしたが、これをポイントだけまとめていくと以下のような感じになるかと思います。政治権力による宗教・宗派の取り扱いやそれらに属する人々の取り扱いについて特に重要な部分については赤字で示してあります。

 

・キリスト教による支配→教皇権の失墜

・宗教改革→各国の政治権力が国家(支配領域)の宗教を管理

・宗派対立の存在

宗教支配については地域、時期によって差

 <ドイツ>

領邦教会制、個人単位の信仰の自由は認められない

 <イギリス>

:国教会による支配(首長法・統一法 / マイノリティに一定の寛容)

 <フランス>

:個人単位の侵攻の自由を認める

→集権化が進むとユグノーを迫害(ナントの王令廃止

・マイノリティの存在と迫害、対立(異端審問、ピューリタン、13植民地の形成など)

・大航海時代の開始と布教活動(イエズス会など)

 

(西アジア)

16世紀~18世紀前半の西アジア世界を考えた場合、この世界はオスマン帝国とサファヴィー朝の支配下にありました。これらの王朝のもとでは、イスラーム世界の原則に基づき、一定の条件下で異教徒にも信仰の自由と自治が認められました。このことをもって教科書などではイスラーム世界における異教徒政策を「寛容」と評価することが多いですが、一方で異教徒はあくまでジズヤの支払いを条件として信仰の自由が認められたのであって、ムスリムと平等に取り扱われたわけではありませんから、どのレベルで「寛容」であったのかという点には注意が必要かと思います。また、本設問は西アジア世界が対象なので、本設問では使えませんが、たとえば同じ時期の南アジアに存在していたムガル帝国ではアクバルのもとにおけるジズヤの廃止とアウラングゼーブによるジズヤの復活など、宗教政策の変化があったことにも注目しておくと良いでしょう。

 オスマン帝国とサファヴィー朝のうち、通常世界史の教科書や参考書などで国内の宗教政策などについて言及されることが多いのはオスマン帝国の方です。特に、ミッレトと呼ばれる非ムスリムによる宗教共同体を通して、納税を条件に各宗教共同体の慣習、信仰の自由、自治が認められたことはよく知られています(対象はギリシア正教徒、アルメニア教会、ユダヤ教徒など)。これはイスラーム世界におけるジズヤの支払いを代価として信仰の自由を保障するという伝統的な異民族統治の流れをくむものです。一方で、バルカン半島のキリスト教徒の子弟を強制的に徴用するデウシルメなどを通して、歩兵常備軍イェニチェリを形成するなど強権的な側面も持ち合わせていました。一方、支配領域外の異教徒とのかかわりについては、貿易などを通して盛んに諸外国と交流を持つなど比較的寛容で、特にフランスと結ばれたカピチュレーションと呼ばれる恩恵的通商特権についても、ご存じの方は多いかと思います。

 指定語句を見ても、以上の内容(オスマン帝国の宗教政策)を中心にまとめておけばまず安心ではあるのですが、「西アジア」が対象となっているのにサファヴィー朝を完全に無視するのもどうかと思いますので、これについてはサファヴィー朝がシーア派(十二イマーム派)を奉じてスンナ派のオスマン帝国と対立していた(西アジアでも宗派対立が存在した)ことなどを示しておけば十分かと思います。この点を示せば、西ヨーロッパ世界がカトリックとプロテスタントに分裂して宗派対立を繰り広げたこととの良い対比にもなると思います。以上の事柄をまとめると以下のようになります。

 

・一定の条件下で信仰の自由と自治を認める

ex.) オスマン帝国 / サファヴィー朝など  

cf.) 南アジアではムガル帝国(本設問では不要)

ジズヤの支払いによる信仰の自由

ミッレトを通した自治

・一部ではデウシルメなど、強権的な統治(ジズヤなども強権的ととらえ得る)

 cf.) 南アジア:ムガル帝国では一時的なジズヤの廃止[アクバルの時]

・宗派対立は存在(スンナ派とシーア派)

・対外的には寛容

 

(東アジア)

:国家単位、領主単位で信仰すべき宗教が決定されていた西ヨーロッパ世界や西アジア世界に対して、東アジア世界では特定の宗教が国教として個人に強制されることはあまりありませんでした。東アジア世界の中心である中国、16世紀~18世紀前半では明・清では、基本的に統一した宗教政策は存在せず、儒教・仏教・道教の三教が特に強い勢力をみって共存している世界でした。一方で、明末・清初にはイエズス会宣教師を重用し、諸外国とも交易を行うなど、外部の異教徒に対しては基本的に寛容であったと考えられます。支配領域における、伝統的な中国の文化宗教からするとやや異質な宗教集団・民族についても、藩部としてまとめて理藩院の監督下に自治と信仰の自由を認めるなど比較的寛容な宗教政策をとっていました。

一方で、こうした寛容さは、対象が国内統治にとって脅威となると認識された場合には失われ、弾圧を強めます。もっともよく知られているのは康煕帝から雍正帝の頃にかけて行われたキリスト教布教の禁止です。孔子などの聖人崇拝や祖先崇拝を当時のローマ教皇クレメンス11世が禁止したことをきっかけに、康熙帝の時代にはイエズス会宣教師以外によるキリスト教布教が禁止され、雍正帝の頃にはキリスト教布教が完全に禁止されます。また、国内の宗教でも白蓮教などについては反体制的な宗教として弾圧の対象とされました。(雍正帝がイエズス会も含めての禁令を出した背景の一つとして、皇帝即位前に争った弟の胤トウ(しめすへんに唐)をイエズス会士であったジョアン=モランが推したことや、康煕帝時代に急速に増大した信徒の数を警戒したことなどが指摘されています。(岡本さえ『世界史リブレット109 イエズス会と中国知識人』山川出版社、2008年、p.42

東アジアについては中国を書いておけば十分かとは思いますが、日本についても当初は受け入れていた南蛮人・紅毛人を、秀吉の時代には伴天連追放令、江戸幕府の頃にはいわゆる「鎖国」とキリスト教信仰の禁止が進められていきますから、対キリスト教・対ヨーロッパについて考えると、流れとしては似ていますね。

 

中国[明・清]では統一した宗教政策は無し(儒・仏・道の三教が共存)

・イエズス会宣教師の重用など、外来の宗教には寛容

理藩院を通した藩部の自治と信仰の自由

ex.) チベット仏教とダライ=ラマ、新疆におけるイスラーム信仰

事情によっては弾圧の対象とする宗教も

cf.) 白蓮教 / 典礼問題とキリスト教布教の禁止(康煕帝・雍正帝)

 

【4、3地域の特徴比較】

:本設問は「3つの地域の特徴を比較して」と要求していますので、上記3で絞り出したことをただ羅列するのではなく、できる限り比較する視点でまとめてみたいところです。その際にポイントになるのはやはり、政治権力が「宗教または宗派をどのように扱ったか」と同じく政治権力が「人々をどのように扱ったか」でしょう。この視点に基づいて各地域の特徴をピックアップしたのが以下の表になります。この表に基づいて、大枠をつくり、必要に応じて肉付けしていけば設問要求から大きく外れた解答にはならないと思います。

2009_東大_宗教政策比較 - コピー

【解答例】

カトリック支配が続いていた西ヨーロッパでは、教皇権の失墜と王権の伸長、そして宗教改革により各国の政治権力が支配地域の宗教を管理する体制が成立したが、ドイツでは三十年戦争後に領主が宗派を選び個人に信仰の自由のない領邦教会制が、イギリスではヘンリ8世の首長法に始まるイギリス国教会が成立するなど地域差があり、フランスではユグノーに個人単位の信仰の自由を認めたものの、絶対王政を展開したルイ14世のナントの王令廃止で弾圧に転じるなど時期による差もあった。西アジアではイスラーム王朝が異教徒に対しジズヤの支払いで信仰を認め、オスマン帝国ではミッレトにおける自治も認められた。対外的にも主に商業面で異教徒の出入りに寛容だったが、オスマン帝国のデウシルメなど一部では異教徒に対する強権支配も見られ、スンナ派王朝としてシーア派のサファヴィー朝との宗派対立も存在した。東アジアでは明・清を中心に儒・仏・道の三教が共存し、特に儒教的価値観は朝鮮や日本でも重視されたが、国家が特定の宗教を国教として強制はせず、イエズス会宣教師の重用など外来の宗教にも寛容だった。清では理藩院を通して藩部の自治と信仰の自由が認められ、チベット仏教とダライ=ラマの存在や新疆におけるイスラーム信仰などは保障されたが、白蓮教の弾圧や典礼問題を契機とする康煕帝・雍正帝によるカトリック布教の禁止など、反体制的とされた宗教は国家によって弾圧された。600字)

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2011年の東大大論述では、7世紀~13世紀までのアラブ・イスラーム圏文化圏の拡大ならびに異文化の需要と発展がテーマでした。2011年より前の大論述が10年近くにわたって主に近現代から出題されていた(15世紀以前が問われたのは、2007年の農業生産の変化とその意義を問う設問で一部が11世紀にかかっていたところを除けば、2001年のエジプト5000年の歴史に関する設問までさかのぼる)ことや、イスラームの文化圏を真正面から取り扱う設問が長らく出題されていなかったことなどから、この年の東大受験生にはやや唐突な感じのする設問だったように思います。どちらかというと、それまでの一橋に近い匂いを感じた受験生も多かったのではないでしょうか。本設問に近いものとしては、東大では1995年にだされた地中海とその周辺地域に興亡した文明と、それらの交流・対立を問う設問(前1世紀~後15世紀)まで見られません。ただ、問われている内容はかなり基本的なものですので、唐突な感じを受けつつも、比較的しっかりとした解答を書けた受験生も一定数いたと思われます。率直に言って、それほど面白味のある設問ではありません。注意すべき点があるとすれば、イスラームが外部から文化を取り入れてそれを自己のものとして消化した後、さらにその文化を他地域へと伝えて影響を与えるというように、交流・対立が「一度伝わって終わり」ではなく、「いくつかの変容を経て、さらに別の段階へとつながっていく」という様子を描き切れるかということでしょう。このあたりを設問の要求としてくるあたり、イスラーム文明が融合文明であるという特徴をよくとらえていると思います。

 

【1、設問確認】

・時期は7世紀から13世紀まで

・アラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じた以下の動きについて論ぜよ

①、イスラーム文化圏拡大の中で、新たな支配領域や周辺の他地域からことなる文化が受け入れられ、発展していったこと。

②、①で育まれたものが、さらに他地域へ影響を及ぼしたこと。

17行(510字以内)

・指定語句(使用箇所に下線を付す)

インド / アッバース朝 / イブン=シーナー / アリストテレス / 医学 / 代数学 / トレド / シチリア島

:リード文より、意識すべきは異なる文化間の接触や交流、軋轢、文化や生活様式の多様化と変容などになります。

 

【2、7世紀~13世紀のイスラーム世界(フレームワーク)】

:いきなり文化の受容・発展・伝播について書き連ねても良いのですが、リード文にもあるようにこれらの動きはイスラーム世界の拡大と連動しています。また、周辺世界の状況とも関係してきますので、文化だけを思い描いて思いついたものから書くという手法ではとりとめもなくただ出来事を箇条書きするだけの解答になってしまいかねません。そうしたことを避けるためにも、大まかで良いのでイスラーム世界の拡大がどのように展開されたか、イスラームの拡大にともなって周辺世界がどのように変化したかの枠組みは把握しておいた方が良いと思います。イスラーム世界の拡大については、概ね以下の内容を確認しておけば良いでしょう。(13世紀までなので、実際にはより細かい変化もあるのですが、最終的に書く内容は文化の受容・発展・伝播なのでこのくらいで十分かと思います。)

 

① ムハンマドの出現、イスラーム共同体の形成と拡大(ムハンマド~正統カリフ)

② イスラーム王朝の誕生(ウマイヤ朝~アッバース朝)

③ イスラーム世界の分裂と3カリフ鼎立(後ウマイヤ朝・ファーティマ朝・アッバース朝)

:イベリア/北アフリカ/西アジア~中央アジア

④ トルキスタン、インドのイスラーム化

⑤ ムスリム商人の活動

 

【3、イスラーム世界と周辺世界間の文化の伝播、社会の変容】

:では、続いてイスラーム世界はどのような文化を発展させ他の世界に伝わっていったのか、またどのように他の文化を受容したのかについてまとめてみたいと思います。まず、上にも書きましたがイスラーム文化は融合文明としての特徴を備えており、同じイスラーム文化でも地域によって異なる多様性を持っています。一方で、どの地域においても基本的には共通する要素もあります。本設問が要求する時期に発展したイスラーム文化として、多くの場合に見られる要素をいくつかピックアップすると以下のようなものになるかと思います。

 

アラビア語 / クルアーン / シャリーア / マドラサ / ウラマー / スーフィズム / 都市文明 / モスク / ワクフ / 市場(バーザール) / 隊商交易 / 小切手

 

外部世界とイスラームの関係について、教科書などで言及されるものをまとめたのが以下の表になります。こちらの表では、復習しやすいように文化に限らず、両者の交流が影響して生まれた制度や習俗、交易品なども含めて記載していますが、本設問で要求されているのは文化の発展と伝播になりますので、文化に関する部分のみ赤字で示しました。もっとも、設問のリード文では文化に限らず生活様式の多様化にも言及しています。そうした場合、制度の変化や習俗の変化、交易品を通しての生活の変化なども含まれると考えることができますので、そのようにとらえれば書くべき内容はもう少し幅広くなるかと思います。

画像12

① ビザンツ帝国(東欧世界)

:ビザンツ帝国とのかかわりの中では、イスラーム世界に流れ込んできたギリシア語文献をアラビア語に翻訳するための知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)がアッバース朝の7代カリフマームーンによってバグダードにつくられました。この中で、特にアリストテレス哲学を中心とするギリシア哲学の研究が進められていきます。また、外の世界から入ってきた学問は「外来の学問」として整備されていきます。

:一方で、イスラームの拡大はビザンツ帝国の国境防備の整備を促しました。7世紀のヘラクレイオス1世の頃から屯田兵制やテマ制(軍管区制)が導入され始めます。また、11世紀にセルジューク朝が迫った際にはこのテマ制はプロノイア制へと変化していくことになります。ただ、これらは基本的にはビザンツの国制の変化に関するものですので、本設問では記入の必要はありません。

 

② 西ヨーロッパ世界

:西ヨーロッパ世界の側からイスラームに対して与えた文化的影響というのは、教科書などではあまり示されません。実際、当時の西ヨーロッパは基本的には守勢に回っておりますし、カールの頃にようやくカロリング=ルネサンスと言い出し、大学にいたっては最古とされるボローニャ大学が11世紀に出てくるような状況ですので(ちなみに、知恵の館は9世紀前半、ファーティマ朝のアズハル学院は10世紀)、基本的には文化の伝播は「イスラーム世界→西ヨーロッパ世界」という構図で思い描いて差し支えないかと思います。

解答に必ず盛り込みたいのは12世紀ルネサンスと、その中でアラビア語文献がラテン語文献に翻訳されたという内容ですね。これと関連して、中心地としてのイベリア半島のトレド、シチリア島のパレルモや、具体例として医学(『医学典範』イブン=シーナー)、哲学(イブン=ルシュド)、スコラ学(『神学大全』、トマス=アクィナス)、大学の発展、ロジャー=ベーコン(数学の重要性、経験的な観察・実験)、地理学(イドリーシー『ルッジェーロの書』)、光学(イブン=ハイサム『光学の書』)などを示すことができるかと思います。挙げたもののうち、イブン=シーナーと医学典範、イブン=ルシュドとアリストテレス哲学、スコラ学の発展あたりが書ければ十分ではないでしょうか。また、表中では赤字(文化)としては入れていませんが、サトウキビ(砂糖)、オレンジ、ブドウなどの新たな産物の流入がもたらした生活の変化を文化の一部としてとらえるならそうした内容を書くことも可能かとは思います。

 

③ インド

:インドについては、イスラーム世界に伝えたものとしてゼロの概念があります。ここから代数学がフワーリズミーなどによって発展し、さらにそれがヨーロッパへと伝わっていきます。

:一方で、イスラーム世界からインドへの影響としてインド=イスラーム建築の成立、ウルドゥー語の形成などが挙げられます。インド=イスラーム建築としては奴隷王朝の祖、(クトゥブッディーン=)アイバクが築いたクトゥブ=ミナールというインド最古のミナレットが挙げられます。最近、模試などでも示されることが増えてきました。

画像13

Wikipedia「クトゥブ=ミナール」より)

 

ウルドゥー語については、デリー周辺の方言にペルシア語やアラビア語の要素を取り入れて形成された言語で、ガズナ朝が侵入した時期の1213世紀が起源とされています。

 

④ 中央アジア

:中央アジアについてはあまり文化的交流について書かれることはありませんが、イスラームがトルキスタンに侵入したことを受けてマムルークが導入されたことをイスラーム世界の新習俗=文化とみなせば、そのようにとらえられないこともないかと思います。

 

⑤ 中国

:イスラーム世界が中国から受容したものとしては、製紙法、羅針盤、火薬などがあります。製紙法についてはタラス河畔の戦い(751)などにも言及できますね。最終的にはこれらの技術はヨーロッパへと伝わっていきます。また、中国絵画の技法がモンゴルによるユーラシアの一体化の中でイル=ハン国に伝わると、ここからイスラーム世界におけるミニアチュール(細密画)が発展していきます。また、陶磁器は交易品ではありますが、美術工芸としてとらえた場合には文化と考えることも可能でしょう。本設問では直接の関係はないですが、中国の陶磁器の発展にイランから輸入されたコバルトが利用されたことなども思い浮かべると良いですね。中国というよりはモンゴルとの交流の中で生まれてくるものとしてラシード=ア[]ッディーンの『集史』がありますが、これは14世紀のものなので本設問では利用ることができません。

:イスラーム世界から中国に伝わったものとしてはイスラーム天文学に言及しておけば良いでしょう。元の郭守敬が授時暦を作ったことを示しておけば十分です。もっとも、元の時代には色目人と呼ばれる西方由来の人々がやってきてもおりました。色目人の中にはイラン系のムスリムなどもいたわけですが、こうした人が財務官僚などとして活躍していましたので、こうした人々から財務処理に関する知識・技術が伝わったということはあったと思います。また、『説世界史研究』(山川出版社、2017年版)にはこうした色目人のうち、イラン系ムスリム商人がオルトク((あつ)(だつ))と呼ばれる共同出資制度を作ってユーラシア全域で活動した記載などもあります。(あつ)(だつ)については旧版の『改訂版詳説世界史研究』(山川出版社、2008年版)にも記載がありますので、両方を引用してみたいと思います。

 

 …イラン系のムスリム商人は、オルトク(仲間の意)といわれる会社組織をつくり、共同出資による巨大な資本力によってユーラシア全域で活動した。内陸の商業ルートと南シナ海・インド洋の海上ルートは、彼らの活動によって結びつけられた。ムスリム商人の商業活動はモンゴルの軍事力を背景としておこなわれ、またその利益の一部は、出資者であるモンゴル諸王家の手にはいった。このようにして、色目人の経済活動は、モンゴル人の軍事活動とともに、モンゴル帝国にとって不可欠の役割をはたしていたのである。(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.210

 

当時イスラーム世界の東部では銀が不足しており、中国から銀を持ち出せば交換レートの差により大きな利益がえられた。そこで斡脱と呼ばれたムスリム商人は、中国の銀を集めるため、科差のひとつである包銀の施行を元朝に提案したといわれる。包銀は中国初の銀による納税で、科差のもう片方の糸料(絹糸で納税する)とともに華北でしか施行されなかったが、納税者である農民に銀の需要を高めた。さらに斡脱は、こうした納税のために銀を必要とする農民相手に高利貸しを営み、複利式年利10割の高利で銀を搾りとってイスラーム世界に流出させた。また、この利率だと、元利ともに年々2倍になり、羊が子羊をどんどん産んでいくようすに似ているとして、羊羔利、羊羔児息と呼ばれて中国人に恐れられた。(木下康彦ほか編『改訂版詳説世界史研究』山川出版社、2008年版、p.150

 

これらを経済活動として見れば本設問とは関係ないのですが、金融知識の伝播ととらえれば文化の伝達の一環ととらえられないこともありません。

 

⑥ アフリカ

:イスラーム世界がアフリカから受けいれたものとしては黒人奴隷(ザンジュ)がありますが、奴隷制度自体は特にアフリカから導入したというわけでもないので、文化の伝播としてとらえる必要はない気がします。一方、イスラーム世界がアフリカに与えた影響としては東アフリカ沿岸のスワヒリ語あたりを示せれば十分かと思います。

 

地域別には上記のような内容がまとまっていれば良いかと思いますが、これをイスラームの拡大と関連して文章化するのであれば、大きく①「イスラーム側が文化を受容する時期(外来の学問の成立期)」と②「イスラーム文化が拡大・伝播する時期」に分けて考えるとすっきりしそうです。

 

【解答例】

 アラビア半島から勢力を拡大したイスラームは、各地にモスクやマドラサ、バーザールを築き、クルアーンと現地文化を融合した都市文明を発展させた。タラス河畔の戦いで西伝した製紙法をもとにアッバース朝では多くの文献が編纂され、文化の普及に寄与した。ビザンツから流入したギリシア文献がバグダードの知恵の館でアラビア語訳されて哲学、幾何学、天文学などが導入され、インドのゼロの概念からフワーリズミーが代数学を大成するなど、外来の学問も発達した。10世紀には中心地がカイロやコルドバへと拡大し、各地に伝播した。十字軍・東方貿易・レコンキスタを通して、トレドシチリア島のパレルモはイブン=シーナーの『医学典範』、イブン=ルシュドのアリストテレス研究がラテン語訳される中心地となり、大学設立や『神学大全』に大成されるスコラ学、医学が発展する12世紀ルネサンスが起こった。ムスリム商人の活動は東アフリカでスワヒリ語の成立、中国でコバルトを用いた陶磁器の作製を促し、インドへの侵入はウルドゥー語成立やクトゥブ=ミナール建造につながった。さらにモンゴルとの接触は元の郭守敬による授時暦や、中国絵画技法を取り入れたミニアチュールの成立へとつながった。(510字) 

 

解答例の方では判断が微妙なものは除いて、教科書等で頻出のものだけ使って書いてみましたが、それでも十分に510字分を埋めることは可能かと思います。

 

 

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