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カテゴリ: 東京大学対策

2023年の東大の問題解説を今頃UPします。去年は仕事を変えたりしていたので3月とかホンマにバタバタでして…。今はちょうど受験もひと段落して少しばかり時間的余裕ができたのでようやく記事を更新する気力がわいてきましたよといったところです。

さて、2023年の東大の問題はぱっと見既視感のある設問でした。デジャヴってやつですね。東大の過去問演習をびっちりやった経験のある人であれば、「何かみたことある、この地図」とお感じになられたのではないでしょうか。地図中に各国の政体のあり方などを示して問うスタイルの設問は、1992年の東京大学大論述でかつて出題されたものです。内容も、1992年の問題では時期が明示されていませんでしたが、主権国家体制が「南北アメリカ」、「東ヨーロッパ」、「東南アジア」でそれぞれの変化のフェーズにおいてどのような展開を示したかを示せという内容でしたので、2023年の問題とかなり類似点があると思って良いと思います。ただし、2023年の設問はリード文の方に出題者が何を求めているかのヒントになるような文章がかなり含まれていますので、そうした部分を丁寧に読み取って、設問の要求にしっかりと答えていくことが大切なポイントとなるかと思います。1992年の問題には指定語句がなかったのに対して、2023年問題には8つの指定語句がありますから、こうしたものも解答を作成する際の道しるべになりますね。

 

【1、設問確認】

・時期:1770年前後から1920年前後まで(約150年間)

・ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジア諸国の政治の仕組みの変化を記述せよ

・同地域においてどのような政体の独立国が誕生したかを記述せよ

・地図Ⅰ・Ⅱを参考とせよ

20行(600字)以内

・指定語句:アメリカ独立革命 / ヴェルサイユ体制 / 光緒新政 / シモン=ボリバル / 選挙法改正(注1/ 大日本帝国憲法 / 帝国議会(注2/ 二月革命(注3


(注1):イギリスにおける4度にわたる選挙法改正

(注2):ドイツ帝国の議会

(注3):フランス二月革命

 

(リード文のヒント)

・近代世界=君主政体・共和政体・植民地など様々な政体があった

・この状態には以下のような変化が見られた

 ① 植民地が独立して国家となる

 ② 一つの国が分裂・解体して新しい独立国が誕生する

 ③ 元々の独立国において革命などで政体が変わる

 ④ 憲法の有無 / 議会権力の強弱 / 国民の政治参加の範囲

 

【2、地図の読解(地域ごとの変化)】

:地図Ⅰ・Ⅱを読み解き、設問が示した3地域(ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジア)におけるおおよその変化を検討します。その際に、上記のリード文で示された①~④の変化をヒントとしつつ、指定語句と結びつけながら漏れがないかどうかを確認していくと精度が高まるように思います。

 

(ヨーロッパ)

:ヨーロッパについて主に読み取れることは以下の通りです。

 

1815年頃の地図>

① 共和政体をとっているのはスイスのみ

② 成文憲法を定めている国もフランスなど数か国に限られる

 

1914年頃の地図>

① 共和政体を取る国が増加(スイスのほかフランス・ポルトガルなど)

② 成文憲法を定める国が大きく増加(イギリス以外の主要国はほぼ成文憲法を制定)

③ 北アフリカの植民地化が進んでいる(地図Ⅰに北アフリカは示されていない)

④ 両方の地図において、イギリスは成文憲法がない扱い

 

地図上の変化から注目すべき点はやはりフランスの共和政化ですね。もっとも、フランスは設問で設定されている150年間の間に「フランス革命→第一帝政→ウィーン体制と王政復古→七月王政→二月革命と第二共和政→第二帝政→第三共和政」と目まぐるしい政体の変化が存在していますので、何を書くべきか取捨選択しないとフランスだけでめちゃくちゃな字数を取られてしまうことになるので気をつけなければなりません。

その他、ほとんどの国々で立憲政がとられていますが、世界史に登場するもので注意を払うべきなのはドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法、1871年)とロシア帝国の立憲化(ロシア帝国国家基本法、1906年)、オスマン帝国の立憲化(ミドハト憲法、1876年→停止、1878年→青年トルコ革命、1908年)あたりでしょうか。イタリアはカルロ=アルベルトの時に定められたサルデーニャ憲法がそのままイタリアでも使われますし、オーストリアはオーストリア=ハンガリー二重帝国成立時に憲法を出しています。

イギリスについては、マグナ=カルタ(1215年)、権利の章典(1689年)などが実質的には憲法としての役割の一部を担っていますが、体系的に人々の諸権利や統治機構のあり方などを記載した成文の憲法典は存在しません。いずれにしても、これらの話は17世紀までにほぼ完了していますので、立憲化という点においては、イギリスはあまり考慮に入れる必要はありません。ただ、指定語句に(イギリスの)選挙法改正がありますので、これをどのように使うかが問題となります。

 

(南北アメリカ)

:南北アメリカについて主に読み取れることは以下の通り

 

1815年頃の地図>

① 共和政体を取るのはアメリカ合衆国くらい

  (地図からは読み取りにくいが、他にハイチ、パラグアイなども)

② そのほかの国々はほぼ植民地

 

1914年頃の地図>

① 南北アメリカともに共和政体の国が大きく増加

② 同時に、立憲制を敷く国も大きく増加

③ アメリカ合衆国の領土拡大

④ カナダが君主政体に(自治領)

 

地図上の変化からは、やはり19世紀前半のラテンアメリカ諸国の独立を見ることができます。注意すべき点としては、1914年時点ではブラジルが共和政体をとっていることです。ブラジルは、独立時にはペドロ1世を皇帝とする君主国でしたが、1889年に軍部のクーデタによって共和政体に移行しています。また、カナダが植民地から君主政国家に変わっているのはイギリスの自治領になったから(自治領はイギリス国王を元首とする半独立国)ですから、この点についても可能であれば記述したいところです。

 

(東アジア)

:南北アメリカについて主に読み取れることは以下の通り

 

1815年頃の地図>

① ほぼ全ての国々が君主政体

  (南の方に植民地フィリピンがちらりと見える)

 

1914年頃の地図>

① 立憲政を敷く国は日本のみ(地図上にはロシアもあるが、ヨーロッパ扱い)

② 中国(中華民国)は共和政体

③ 朝鮮と台湾、南樺太が植民地に

 

地図上の変化から最重要なのは日本の立憲化(大日本帝国憲法と帝国議会、1889年~1890年)です。そのほか、中華民国の成立とその後の袁世凱独裁(中国に☆がついていないのは1912年の中華民国臨時約法が袁世凱によって改変されたからでしょうか)、日清・日露戦争を経ての朝鮮ならびに台湾の植民地化あたりが気をつけたいところです。南樺太は言及の仕方にもよりますが、おそらく使わないと判断して良いでしょう。

 

【3、時代の変化にともなう政体の変化と参政権の拡大】

:地図は、1815年と1914年という、設問が設定した1770年~1920年ごろという時期のほんの一部をカバーしているにすぎません。ですから、地図に引っ張られ過ぎると、肝心な部分・変化を見落としてしまう可能性があります。ちょっと考えてみるだけでもフランス革命(1789年)や第一次世界大戦後の東欧諸国の独立(1918年以降)などは見落としてはいけない要素だということが分かります。指定語句にアメリカ独立革命やヴェルサイユ体制がありますしね。そこで、時代の移り変わりによって各地域、各国の政体がどのように変化したかの大枠は確認しておいた方が良いでしょう。1992年の東大過去問に取り組んだことがある人であれば、整理はしやすかったのではないかと思います。

 

18世紀後半)

・アメリカ独立革命

:イギリスからアメリカ13植民地が独立

・フランス革命

:フランス絶対王政が崩壊 → 一時は共和政が成立

 

19世紀前半)

・ラテンアメリカ諸国の独立

:多くが共和国として独立

・フランスにおける政体変化

:王政復古→七月王政→第二共和政

・七月革命や二月革命をきっかけとするヨーロッパの政体変化

:ベルギー立憲王国の独立や欧州各国での自由主義の高揚、立憲化など

・イギリスの選挙権改正

:参政権の範囲拡大へ(~1918年の女性参政権成立まで続く)

・アメリカのジャクソニアン=デモクラシー

:特に、白人男子普通選挙の成立

・各国での奴隷制の廃止

 

19世紀後半)

・国民国家の形成や立憲化進む

:ドイツ帝国、イタリア王国など

・フランスの第二帝政崩壊と第三共和政の成立

・アメリカの奴隷解放宣言

:ただし、実質的には権利の拡大はなされず

・トルコの立憲化(★)

:ミドハト憲法の制定とアブデュルハミト2世による憲法停止

・日本の立憲化

:明治維新とその後の憲法制定、議会の設置

・ブラジルの共和政化

 

20世紀前半)

・旧帝国の解体と立憲化や共和政化

:ロシア第一革命とロシア革命、青年トルコ革命、辛亥革命と中華民国の成立、オーストリア=ハンガリー二重帝国の解体、ドイツ革命など

・東ヨーロッパ諸国の独立

:ヴェルサイユ体制の成立と民族自決

・女性参政権の拡大

:ロシア革命、ドイツ革命、イギリス選挙法改正[4]、アメリカのウィルソン政権下での憲法修正第19

 

政体の変化というところでは、このあたりが重要な要素として注目すべき内容かなと思います。もちろん、全てを書くことはできないので、ある程度情報をしぼって取捨選択する必要が出て来ます。また、オスマン帝国(トルコ)の扱いをどうするかという点は少々悩ましいところですね。設問は、「ヨーロッパ・南北アメリカ・東アジア」が対象となっていますので、もしオスマン帝国を扱うとすればヨーロッパ扱いで言及することになります。オスマン帝国をヨーロッパとして扱って言及できないことはない(問題文中のヨーロッパの地図にもギリギリのっています)のですが、抜いてしまってもおとがめはない気がしなくもないです。

 

【4、植民地の変化】

:ややもすると見逃しがちですが、植民地の変化には大きく分けて二つの方向性があります。それは、「①1770年ごろまでにすでに植民地であった地域が、自由主義の高まりなどによりそれまでの宗主国から独立していく、または地位を向上させていく」というものと、「②19世紀からの帝国主義政策によって新たに植民地となり支配されていく」というものです。このうち、②については、広くとれば政治のしくみの変化としてとれなくもないですが、設問の主要なテーマは政体の変化や新しい独立国などだと思われますので、無理に言及する必要はないと思います。

 

① 植民地→独立や地位の向上

・アメリカ合衆国

・ラテンアメリカ諸国

・ギリシア(1821年~1829年のギリシア独立戦争)

・カナダ 

・東欧諸国(セルビアなど、早い段階からの国も)

など

 

② 新たに植民地として帝国主義諸国の支配下に入る

・北アフリカ(アルジェリアなど)

・朝鮮・台湾など

 

設問の対象が「ヨーロッパ・南北アメリカ・東アジア」なので北アフリカをどうするかは悩みどころです。地図2でなぜ地図1に登場しなかった北アフリカの地図が出てきているのかをどのように解釈するかですね。もっとも、上述の通り、②はそもそも本設問のテーマにそうか微妙なところなので、省いてしまって良いとは思います。

 

【5、整理(指定語句の整理と、関連事項の配置)】

:続いて、設問の要求である「政治の仕組みの変化」「どのような政体の独立国が誕生したか」について、リード文内のヒントに示された「①植民地が独立して国家となる」、「②一つの国が分裂・解体して新しい独立国が誕生する」、「③元々の独立国において革命などで政体が変わる」、「④憲法の有無 / 議会権力の強弱 / 国民の政治参加の範囲」などの視点に注意しながら、地図の読み取りや時代ごとの大枠で抽出した内容を整理していきます。

ここでは、地域ごと(ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジア)にまとめていく方法と、時系列に沿ってまとめていく方法の二通りが考えられますが、上述の通り、かなり情報量が多いことと、ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジアで政治的な仕組みの変化が起きる中心的な時期が自然に分かれていることなどを考えると、個々の地域ごとに分けて考えるよりは、時系列に沿って個別の事象を書き連ねていく中で、特徴のある動きや一連の動きとしてまとめられるものなどについてはその都度指摘していくという書き方の方がスムーズに書き進められるのではないかと思います。その際、まずは指定語句とその周辺事項をある程度まとめた後で、肉付けとして上述の「2、地図の読解」や「3、時代の変化にともなう政体の変化」、「4、植民地の変化」でまとめた内容を入れていくというのがやりやすいかなと思います。以下、(赤字)は指定語句になります。

 

(アメリカ独立革命)

:アメリカの独立宣言は1776年、それまでイギリスの植民地であった、いわゆる13植民地が独立を宣言し、1783年のパリ条約で最終的に独立を勝ち取り、国王のいない共和国(アメリカ合衆国)が成立することになります。また、合衆国では人民主権・連邦主義・三権分立などを規定した合衆国憲法が成立することになりました(1787年)。

これについては、やはりこの独立革命の影響を受けたフランス革命と絶対王政の崩壊をセットで示すことが必須となると思います。また、ラテンアメリカ諸国の独立もいわゆる「環大西洋革命」の流れで示してあげる方が、流れとしてはスムーズになるように思います。

 

(シモン=ボリバル)

:シモン=ボリバルは19世紀前半のラテンアメリカ諸国の独立において、大コロンビアやボリビアの独立を導いた指導者です。サン=マルティンとともにラテンアメリカ諸国の独立を導きました。また、ラテンアメリカの独立についてはハイチ(トゥサン=ルベルチュール)やメキシコ(イダルゴ、モレーロス)などの独立や、上述の通りブラジルがペドロ1世のもとで帝政を敷いたことなどには注意が必要です。

 

(選挙法改正)

:イギリス選挙法改正については第1回から第4回にかけての選挙法改正で国政に参加できる国民の範囲が拡大していったことや、そのことが19世紀の「保守党VS自由党」の二大政党制を20世期の「保守党VS労働党」へと変えていく背景の一つとなったことなどに注目する必要があります。また、時期的には少し後の話になりますが、1911年の議会法(アスキス内閣)では、庶民院の優越が認められたため、貴族院を構成する特権階層の意見を押しのけて庶民院が民意を反映することが可能となって大きな力を持つようになり、議会制度が大きく変化することとなりました。

 

(二月革命)

:フランスは、1789年のフランス革命以降、第一帝政(ナポレオン1世)と王政復古(ルイ18世とシャルル10世)、七月王政(ルイ=フィリップ)を経て、1848年の二月革命で第二共和政の成立へとつながっていきます。これについては、その後の第二帝政(ナポレオン3世)と第三共和政などもあわせて流れとして確認しておきたいですね。

 

(大日本帝国憲法)

:大日本帝国憲法は、1868年以降に明治維新を達成した日本において、その後の自由民権運動などをはじめとするいくつかの動きを経て1889年に制定されました。また、その翌年の帝国議会開催により、日本は立憲君主政国家としての体裁を整えていきます。ただし、この大日本帝国憲法はドイツと同じく欽定憲法であり、さらに帝国議会の衆議院選挙は制限選挙でしたので、国民の政治参加は大きく制限されていた点については気を付ける必要があります。

 

(帝国議会)

:ここでは、問題文中の注より、「ドイツ帝国の」帝国議会であることが明示されています。ドイツ帝国の帝国議会は、ドイツ帝国が成立した普仏戦争後の1871年から、ドイツ革命でヴァイマル共和国が成立した1918年まで続きます。ですから、プロイセンを中心とするドイツ統一とヨーロッパにおける国民国家の形成・拡大という文脈の中に位置づけて書くのも良いと思います。

また、ドイツ帝国議会は、同じく1871年に制定されたドイツ帝国憲法に基づいて成立していますが、この憲法も日本のものと同じく欽定憲法でした。また、ドイツの国制を日本が参考にしたことはよく知られていますので、「ドイツの国制が影響を与えて日本」のような一連の流れとして書くのもアリかなと思います。

 

(光緒新政)

:光緒新政は20世紀初頭、義和団事件の後の北京議定書による清の半植民地化が進む中で、危機感を抱いた清朝保守派によって進められた立憲化改革です。かつて西太后を中心とする保守派は光緒帝と康有為・梁啓超らによる変法運動をつぶしました(戊戌の政変、1898年)が、それとほぼ同様の内容の改革を自ら進めることになります。通常、内容として気をつけておくべきなのは、新軍の創設、科挙の廃止(1905年)、憲法大綱の発布と9年後の議会開設の約束(1908年)あたりですが、本設問では憲法大綱の発布あたりが特に注意すべき事柄です。

ただし、政体の変化という視点を考慮した場合、こちらの光緒新政も、これを良しとせず「保皇派」と批判する革命派を中心とする辛亥革命と、その後の中華民国の建国(共和政体の成立)や袁世凱独裁と軍閥の割拠までを一連の流れとしておさえておくべきでしょう。

 

(ヴェルサイユ体制)

:ここで注目すべき点は、やはり民族自決の原則による東欧諸国の独立です。また、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー二重帝国の解体に言及するのも良いと思います。

 

さて、これまで指定語句と関連する事柄をまとめてみましたが、これらをある程度並べるだけでもかなりの部分について上述の「2、地図の読解」や「3、時代の変化にともなう政体の変化」、「4、植民地の変化」でまとめた内容はカバーできそうです。上のまとめでは抜けてしまうものを見ると以下のようになります。これらを追加するかしないかは、その事柄の重要度と、文章のバランスを考えてということになるでしょう。

 

・ベルギーの独立

・カナダの自治領化

・オスマン帝国の立憲化(ミドハト憲法、青年トルコ革命、トルコ共和国)

・ブラジルの共和政化

・日清、日露戦争後の台湾・朝鮮の植民地化

・ロシア革命

 

【解答例】

アメリカ独立革命で人民主権や三権分立を定める憲法を持つ共和国が誕生し、フランス革命を経て自由主義が高まると、黒人共和国ハイチ独立を皮切りに、シモン=ボリバル指導下でラテンアメリカ諸国が独立し、君主政のブラジルを除く多くの国で奴隷制も廃止された。オスマン帝国からはギリシアも独立した。ウィーン体制下では仏の王政復古など反動化も進んだが、七月革命やベルギー立憲王国の独立で綻び、二月革命を機に欧州各地で国民国家形成への動きが強まり、仏では第二共和政が成立した。共和政体の国民国家が増加する一方で、英の選挙法改正や議会法による庶民院の優越、米のジャクソン政権下での白人男子普通選挙成立など、参政権を持つ国民の範囲も拡大し、カナダが自治領になり一部植民地の地位も向上した。独伊の統一が進む中、独は帝国議会を置き、欽定憲法を定めた。明治維新後に立憲化を目指す日本は独を手本に大日本帝国憲法を制定し、近代国家として帝国主義政策を進め、朝鮮や台湾を植民地にした。日清・日露戦争は各国に衝撃を与え、清は光緒新政で憲法大綱を発布し、ロシアはドゥーマを設置したが、辛亥革命やロシア革命で帝国は滅亡し、中国では中華民国が、ロシアではソヴィエト政権が成立した。また、オスマン帝国でも青年トルコ革命でミドハト憲法が復活した。第一次世界大戦後には女性参政権が拡大し、ヴェルサイユ体制下では解体した旧帝国領から東欧諸国が独立した。(600字)

 

キッツキツですが、とりあえずこんな感じでまとめてみました。基本的には、設問のメインテーマである「政体の変化」にかかわるところを中心にピックアップしています。また、リード文でヒントとして示されていた「①植民地が独立して国家となる」、「②一つの国が分裂・解体して新しい独立国が誕生する」、「③元々の独立国において革命などで政体が変わる」、「④憲法の有無 / 議会権力の強弱 / 国民の政治参加の範囲」などについても極力要素として入るように盛り込んでいます。

つながりとして意識したのは、「①環大西洋革命(アメリカ独立→フランス革命→ラテンアメリカ諸国独立[産業革命はスルー])」、「②参政権を持つ国民の範囲拡大」、「③立憲政のアジアへの波及(独の欽定憲法→日本の立憲化と近代化→日清・日露戦争→アジアの立憲化を刺激 / 清帝国とロシア帝国の崩壊)」あたりです。これだけ多くのものを詰め込むとどうしても事実の羅列になりがちですが、設問の意図に沿ってできるだけ一定のテーマによるつながりを意識したいところです。逆に、省いたものとしては北アフリカの植民地化ですね。オスマン帝国はギリシア独立などのからみもありますし、地図にも出ているのでヨーロッパ扱いするのはいいとしても、さすがに北アフリカは地図に出ているとはいえ本設問のテーマでは無理があるかなともいましたので、植民地に関する話については東アジア(朝鮮と台湾)の方で使いました。

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2024年東京大学世界史の第1問大論述ですが、すでに話題になっている通り大きな変化がありました。これまでの600字論述が「360字論述+150字論述」と二つに分けられ、さらに合計の字数も大幅に減りました。この変化は、過去問対策をしっかり行って会場に臨んだ受験生からすると「マジか…Σ(゚Д゚)」とある種の感動を覚えるほどの変化だったように思います。てか、自分だったら多分20秒くらいは浸ります。大論述が二つに分かれたのは1989年以来35年ぶりのことで、私が現役時代にも見た記憶がありません。

内容については戦後のアジア・アフリカや南北問題が出されました。ただ、たしかに戦後史は受験生には取り組みにくい面があるとはいえ、東大では似たような内容の設問が2012年に出ていますし、東大がどちらかといえば近現代史寄りの出題をしていたことなどを考えると、内容的に局単位難しかったようには思いませんでした。指定語句も比較的分かりやすいものが示されていたように思います。むしろ、内容的には第3問などの方にやや難しめの出題があったのではないかと思います。サイードと『オリエンタリズム』なんかは高校生の受験生にはしんどそうです。用語集を見たら載ってはいますが、燦然と輝く「①」。そらそうだ。第1問はウォーラーステインを思わせる設問設定でしたし、全体的にちょっとアカデミックな雰囲気を感じます。それ以上に東大の側が現代的な問題を考える一助として歴史と向き合って欲しいと考えて出題を作成しているような印象も受けました。

設問自体に大きな形式上の変更はありましたが、ここ数年東大が実験的というか、従来とはちょっと変わった設問の出し方をしてきていたことや、旧課程最後の年となることなどを考えた場合に、「何もないかもしれないけど、何かあるかもしれない」くらいのことを想定していた人も多かったのではないでしょうか。何より、試験始まってしまえばあとは解くしかないわけですので、ちょっとした感動にひたりつつも、もうガツガツ解かないといかんわけですから、多少試験の形式が変わったとしても、結局は普段と同じように解き、普段と同じくらいの難度と感じるような設問だったかなぁと感じました。

 

〇第1問 問⑴

【1、設問確認】

・時期:1960年代

・アジアとアフリカにおける戦乱や対立について記述せよ。

・「戦乱や対立」=(戦後に)独立を得る過程での戦乱や独立した国どうしの対立

・指定語句:アルジェリア、コンゴ、パキスタン、南べトナム解放民族戦線

 (語句に下線を付すこと)

12行(360字)以内

 

:こちらの設問には、1964年に国連事務総長ウ=タント(ビルマ出身)が行った演説が示されていて、それを受けてのものでした。冒頭にウ=タントとか出てくると「うげ。」ってなりそうですよね。演説の内容はアジア・アフリカ・ラテンアメリカなど、かつて政治的植民地や半植民地とされていた諸民族の政治的解放が進んでいることを示しつつ、これらの地域の経済的な後進性が問題となっているとする、いわゆる「南北問題」について述べたものでした。

設問自体は、一見何を書いてもいいように見えて、少々自由度の低い設問かもしれません。設問の文章では、「諸民族どうしの政治的開放が進んだが、独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国同士が対立を深めるなど…」とあり、これを受けて「このような戦乱や対立」について記述せよとあるので、記述すべき戦乱や対立は(原則として)「独立を得る過程での戦乱」や「独立した国どうしの対立」などでなければなりません。また、演説では「戦後には、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放が、すみやかに進みました。」とあるので、ここで言う「独立した国」とは戦後の独立国を指すものと基本的には解釈されます。さらに、1960年代という限定がついていることや、360字という字数を考えた場合、おそらく指定語句に関連する事柄を丁寧にまとめるだけでも解答の大半は仕上がってしまう可能性があります。そういった意味では非常に誘導的で、事実を知っている人にとっては書きやすい設問、単純に知識量の差がそのまま出てしまう設問だったような気もします。また、2016年の問題に「1970年代後半から1980年代にかけての東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化」→こちらが、2012年の問題に「アジア、アフリカにおける植民地独立の過程と独立した後の動向」→こちらを問う設問がありましたから、過去問演習を丁寧に行ってきた受験生には書きやすかった設問だったように思います。

 

 

【2、指定語句の整理】

そんなわけで、指定語句の整理を進めてみます。

 

(アルジェリア)

:アルジェリアについてはアルジェリア戦争(1954-1962)に言及すればよいのですが、1960年代と限定されていますので、アルジェリア戦争後のエヴィアン協定によるフランスからの独立が中心になると思います。FLN(民族解放戦線)くらいは言及しても良い気がしますが、高校世界史ではそれ以上の情報はアルジェリアに関しては出てこないので、アルジェリアにこだわりすぎるよりはアフリカの他の地域や、1960年の「アフリカの年」などに言及するなどして字数を稼ぐ方がよさそうです。

 

(コンゴ)

:コンゴ動乱の話をすればOKです。コンゴ動乱についてはその背景と、場合によってはルムンバ、モブツあたりが示せれば十分でしょう。コンゴ動乱の概要については以下の通り。

 

1960年 コンゴ独立(→直後からコンゴ動乱の発生)

 ・希少金属(銅・コバルトなど)を産出するカタンガ州の分離を、旧宗主国ベルギーが支援

 ・カタンガの分離を防ぐべく首相ルムンバが国連に支援を要請

  →国連は介入に消極的

  →ルムンバはソ連に接近し、親米派の大統領カサブブと対立

  →軍部のモブツがクーデタを起こし、カサブブと結び、ルムンバは殺害される(1961

 ・その後のコンゴの混乱と、国連軍、米・ベルギー軍の介入

1965年 モブツの2度目のクーデタ

 ・カサブブとカタンガの指導者チョンベの対立と政局混乱

  →政局混乱収拾を名目にモブツがクーデタ、西側諸国の支持

  →モブツ独裁の確立(1971年には国号はザイールへ変更)

画像1

 

(パキスタン)

:パキスタンについては、1960年代ですので第2次インド=パキスタン(印パ)戦争について言及すれば大丈夫です。当然、インドとの係争地であるカシミールについては言及する必要があります。印パ戦争は3次にわたりますが、概要は以下の通りです。

 

① インドとパキスタンの分離独立(1947

:ヒンドゥー教徒を中心とするインドとムスリムを中心とするパキスタン(東パキスタンと西パキスタン)の分離独立

 

① 第1次印パ戦争(1947-1949

:藩王がヒンドゥー教徒、住民の多数がムスリムという構成のカシミール地方をめぐり、インド・パキスタン両国が交戦した戦争

・国連の仲裁で停戦

・カシミールはインドとパキスタンで分割

 

② 第2次印パ戦争(1965-1966

:カシミールをめぐりインド・パキスタン両軍が再度交戦

・国連の仲裁で停戦

 

③ 第3次印パ戦争(1971年)

:東パキスタンの独立運動をインドが支援し、西パキスタンと交戦

・インドの勝利と東パキスタン(バングラデシュ)の独立

 画像2

(カシミールの位置)


画像1

(カシミールの支配状況)

 

(南ベトナム解放民族戦線)

:南ベトナム解放民族戦線の結成は1960年。 南ベトナムで結成された、南ベトナムを当時のゴ=ディン=ジェム政権の支配から「解放」することを目的とした反米の民族統一戦線です。北ベトナム(ベトナム民主共和国)と連携することになるので、関係性を丁寧に把握しておく必要があります。この南ベトナム解放民族戦線と南ベトナム(ベトナム共和国)との対立が開始された1960年、またはアメリカの本格介入(ジョンソンの北爆)が始まる1965年などがベトナム戦争の開始年とされていますので、ベトナム戦争について冷戦構造と絡めながら言及することになります。ただし、1960年代と限定されているので、1973年のパリ和平協定によるアメリカの撤退や、北ベトナムによるサイゴン陥落(1975)とベトナム社会主義共和国の建国(1976)までは述べられないので注意が必要です。

画像3

(戦後のベトナムに成立した国家)


画像4

(ベトナム戦争の基本構図)

 

【3、1960年代のアジア・アフリカの確認】

:基本的には、上記2の指定語句確認だけで書けてしまうと思いますが、設問は「アジアとアフリカにおける」とありますので、念のため「独立を得る過程での戦乱」と「独立した国同士の対立」に該当する事例が他にないかの確認をしておきます。

 

(アジア)

:第3次中東戦争(1967)がありますが、一方の当事者であるイラクとシリアは(一応)戦前からの独立国ではあるんですよね。まぁ、これは書いてしまってもいいのかな。他には、強いて挙げればシンガポールの独立(1965)がありますが、「独立した国同士の対立」ではないですし、独立の際に戦乱も起こっていませんから、該当しないと思います。

 

(アフリカ)

:目立つものはビアフラ戦争(またはナイジェリア内戦、19671970)が発生したナイジェリアくらいでしょうか。クーデタとかまで含めたらほかにもありますけど、「戦乱」ってことですから気にしない方がよいですね。もちろん、ビアフラ戦争は書いても良いのですが、ビアフラ戦争の年代や内容を正確に把握している受験生がどれくらいいるかなぁということを考えると、無理に解答に盛り込まずに指定語句と関連情報のみで丁寧に解答を作成した方が間違いは少ないかもしれませんね。書ける人はもちろん書いてしまって良いとは思います。ちなみに、ビアフラ戦争の概要は以下の通りです。

 

1960年代 ナイジェリアのイボ族に対する迫害が強まる

1967年 ナイジェリア東部がイボ族を中心にビアフラ共和国として独立宣言

      →米・英・ソなどがナイジェリア政府軍を支援

      →ナイジェリア正規軍による「兵糧攻め」とビアフラの飢餓本格化

1970年 ナイジェリアの勝利とビアフラ共和国の崩壊

 

3次中東戦争やビアフラ戦争を書くべきかどうかについてですが、これらを「たしかに1960年代に起きた戦乱であり、対立だ」と考えるのであれば書いた方が良いでしょう。一方で、これらをアルジェリア戦争やコンゴ動乱、印パ戦争やベトナム戦争とならべて書く共通の要素が見いだせるかどうか。ビアフラ戦争は問題ない気がしますが、第3次中東戦争はちょっと質が違うような気がしなくもないです。第3次中東戦争と印パ戦争は「植民地支配の負の遺産と内部対立」っていう意味でかなり共通項が見出せる気がしますが、ベトナム戦争はどちらかというと冷戦や資本主義と共産主義っていうイデオロギー対立が前面に出ていて、かつてのフランス支配が直接的に関わっているかというと微妙な気がする、という意味で、です。もっとも、視点の変え方次第でいくらでも共通項は探せるでしょうし、1960年代の戦乱対立であることには変わりないので、書いて問題になることはないと思います。

 

【解答例】

アフリカでは、アルジェリアで民族解放戦線が独立を目指したが、仏のド=ゴール政権成立後のエヴィアン協定で独立した。1960年の「アフリカの年」に独立したコンゴでは、銅やコバルトの産地カタンガの分離運動をベルギーが支援したことでコンゴ動乱が発生し、首相ルムンバが殺害され、米の支援を受けたモブツの独裁が始まった。ナイジェリアではイボ族への迫害からビアフラ戦争が発生した。アジアでは、分離独立したインドとパキスタンの間でカシミール地方をめぐる争いが再燃し、第2次インド=パキスタン戦争が発生した。また、ベトナムで南のベトナム共和国に反対する南ベトナム解放民族戦線が結成されて内戦が始まり、北のベトナム民主共和国やソ連、中国の支援を受けて内戦が拡大し、さらに米がジョンソン大統領による北爆を機に本格介入して、ベトナム戦争が泥沼化した。(360字)

 

ひとまず、中東戦争を除いて解答例を作ってみました。何か、散文的だ…。むしろ、ビアフラ戦争を除いて指定語句のみで解答作っちゃってもいいのかなという気がしなくもない。ですが、「アジア・アフリカの」とありますので、指定語句以外の+αを入れておく方が安心はできますね。

 

〇第1問 問⑵

【設問確認】

・演説中の経済的問題の歴史的背景を記述せよ。

・演説中の経済的問題解決のため、1960年代に国際連合が行った取り組みを記述せよ。

5行以内

 

(演説中の経済的問題-要約)

・発展途上国と呼ばれる地域は、実際には発展していないか、十分な速さでは発展していない。

・程度の差はあれど、深刻かつ持続的な低開発の状態に苦しんでいる。

・発展途上国は工業化された社会に比べてますます遅れをとっている。

・人口増加を考慮に入れれば、生活水準が絶対的に悪化している場合もある。

 

:ここで言う経済問題がいわゆる南北問題であるのは明らかなので、南北問題の歴史的背景を示した上で、この問題解決のために国際連合が1960年代に行った取り組みに言及すれば終わりです。非常にシンプルで明瞭な設問だと思います。また、この設問がウォーラーステインの「近代世界システム論」を意識したものであるのは、はっきり見て取ることができます。「近代世界システム論」についてはその概要をかなり前にご紹介したものがありますので、ご覧ください。→「東大への世界史①(世界システム論、13世紀世界システム、銀の大循環)」

 

【解答例】

16世紀以降の欧州諸国の海外進出と18世紀以降の産業革命を起点とする工業化は、列強の帝国主義的政策もあり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの植民地を原料供給地兼市場とする経済支配構造を生み出し、発展途上国と先進国間の南北問題という経済格差につながった。国際連合はUNCTADを創設し途上国の開発と経済発展を図った。

 

こんな感じでどうでしょうかね。「近代世界システム」は一つの学説ですし、教科書(『世界史探究』山川出版社)や用語集(『世界史用語集』山川出版社)などにも索引見る限り記載はないようですから書きませんでした。むしろ、いわゆる発展途上国がなぜ経済的に劣後することになったのかという経済構造上の問題点(工業製品の輸出などで経済的利益を確保する先進国と、原料の供給地や先進国の市場として利益を搾取される発展途上国)と、こうした経済構造がなぜ作られていったのかという歴史的背景(欧州の海外進出とラテンアメリカの植民地化、産業革命による欧州の工業化、帝国主義政策によるアジア・アフリカの植民地化など)をできるだけ丁寧に示してあげた方が設問の要求に合致するのではないかと思いましたので、そのようにしてみました。

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2000年の東大の問題はフランスの啓蒙思想家たちによる当時の中国への評価をベースに、彼らがそうした評価をなすに至った時代背景と、彼らの思想(啓蒙思想)の持つ歴史的意義を述べよ、という設問で、当時の東大の出題としてはやや異色の出題であったように思います。まず、東大が思想史を正面から扱うということが珍しいものでした。また、近年では2020年の問題などで見られましたが、史料の一部を示して、それをベースに論を展開させる型の出題は東大ではあまり見られません(こうした型の出題はむしろ一橋でよくみられるタイプの出題です)。そうした意味で、当時この問題に取り組んだ受験生にとっては、やや取り組みにくい設問であったかもしれません。

また、内容についてもなかなかに奥深く、受験生にとっては難しい内容が含まれていますので、高得点を取りに行くことを考えると難問だと思いますが、一方で設問の要求には受験生にとっては必須の基本知識を答えるべき部分も織り交ぜられていますので、いつも申し上げている通り「他の受験生より一歩抜けた解答を作る」ということを目標とした場合、そこまで無茶ぶりというわけでもないかなぁと思います。思想については多くの受験生は「何となく理解」していることが多いので、「啓蒙思想」というものをどこまで理解しているかが問われる本設問は「書けたつもりで書けていない」解答を多く生み出した問題だったのではないかと思います。

 

【1、設問確認】

・これらの知識人(18世紀フランスの知識人=啓蒙思想家)が、このような議論をするに至った18世紀の時代背景について述べよ。

・とりわけフランスと中国の状況に触れよ。

・彼ら(啓蒙思想家)の思想の持つ歴史的意義について述べよ。

15行(450字)以内。

・指定語句(下線を付せ)

 イエズス会 / 科挙 / 啓蒙 / 絶対王政 / ナント王令廃止 / フランス革命 / 身分制度 / 文字の獄

 

:本設問では「このような議論」をするに至った時代背景について述べよ、となっていますので「このような議論」とは何かをしっかり確認する必要があります(この中身を確認せずに単に「啓蒙思想は」とひとくくりにしてしまうと、きめ細かさのない粗い解答になってしまいます)。また、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューが「18世紀フランスの知識人」であったことから、時代的・地域的には「18世紀フランスの状況」を述べることが求められています。これは、18世紀フランスに生きた彼らの思想の背景には拭い難く「18世紀フランス」の影響がみられるからにほかなりません。たしかに、啓蒙思想自体は全ヨーロッパ的な、コスモポリタン的な性格を持ったもので、当時の啓蒙思想家たちは他国の知識人とも活発に意見交換をしていましたが、だからと言って当時彼らが置かれていた社会における諸条件から完全に解放されていたわけではありません。設問がそうした視点をもって「18世紀フランス」に限定したのかどうかは分かりませんが、設問の指示に従うのであれば、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューたちの述べている意見を確認した上で、なぜそのような意見・視点・思想を持つに至ったのかを「18世紀フランス」の時代背景・状況から説明することになります。また、中国に対する評価を行っているわけですから、当然同時代の中国の時代背景も考慮に入れることになります。(もっとも、後述するように「彼らの思想の影響」について述べる際には必ずしもフランスという枠にとらわれる必要はないように思います。)

:本設問では啓蒙思想の持つ歴史的意義についても述べよ、となっています。問題になるのは、これを18世紀フランスに限定すべきかどうかということですが、少なくとも設問は直接的にそのような指示はしていません。また、上記の通り、彼らの思想は18世紀ヨーロッパが「啓蒙の世紀」と称されるほどに全ヨーロッパ的な影響を与えていたことからも影響は何もフランスに限定されるものではないかと思います。昔の教え方ですと「啓蒙思想→フランス革命」に一直線なムードがありましたが、そもそもフランス革命自体が思想的にも政治的にも物質的にもアメリカ独立革命の影響を受けたものでしたし、18世紀東欧の近代化は啓蒙専制君主の存在なしには語れません。字数的に450字なので、結果として時代的には18世紀に限定されるとしても、歴史的意義について述べるにあたって地域的にフランスに限る理由はあまり見いだせない気がしますので、解答例もそのつもりで作成してみたいと思います。

 

【2、「このような議論」の中身はどのようなものか】

:設問中に示されている3人の啓蒙思想家ですが、ヴォルテールは啓蒙思想家の代表格です。イギリスに渡り、名誉革命後の(フランスのアンシャン=レジーム下の社会と比べると)自由な社会に触れたことが刺激となって書かれた『哲学書簡(イギリス便り)』などは私大でも頻出ですし、『寛容論』などで宗教的寛容を説いたことでも知られています。また、フリードリヒ2世、エカチェリーナ2世などの啓蒙専制君主と交流があったことでも知られる人物です。二人目のレーナルは高校世界史ではまず名前があがることはありません。革命前のフランス社会において教会や王政を批判した著述家です。三人目のモンテスキューは『法の精神』の中で三権分立を説いたことで知られる人物ですね。彼ら3人の対中国評価が設問中では示されていますので、そのポイントだけ示しますと以下のようになります。


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 ヴォルテールは中国の儒教について、迷信や伝説がなく、道理や自然を侮辱するような教理がないと称賛しています。これは、逆に言えば当時のフランスの社会には迷信・伝説があり、道理や自然を侮辱するような教理がまかり通っていることを暗に批判しているといえないこともありません。当時のフランスはアンシャン=レジームの下でブルボン家による絶対王政が展開されているわけですが、ここで力を持っていたのは第一身分である聖職者と第二身分である貴族です。18世紀フランスは、教会と貴族がその教理や家柄といった権威を振りかざして第三身分の平民を支配する権威主義的な社会でした。こうした中でヴォルテールが中国の儒教を上記のような形で称賛しているのは、合理的な考え方を尊重し、それを通して伝統・権威・キリスト教の教理などが持つ不合理を批判するという意味を持っていました。(啓蒙思想のこうした考え方については、2021年一橋の大問Ⅱ解説の方でも少し述べました。)

これと類似の考え方はレーナルの主張にも見られます。レーナルはヨーロッパの特権階級は「自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位」を持ち、そのため「ヨーロッパでは、凡庸な宰相、無知な役人、無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在している」と当時の身分制度を批判しています。一方で、中国については「このような制度」はなく、「世襲的貴族身分が全く存在しない」ことを紹介して称賛しています。指定語句に「科挙」があることからレーナルが称賛しているのが科挙などの人材登用システムにあることは明らかです。もっとも、当時の中国(清)では確かに科挙をはじめ満漢併用制など満州人と漢人を区別しない登用システムなどが存在していましたが、それでも貴族身分や世襲身分が存在しなかったわけではありません。ですが、レーナルの議論については当時のフランスに暮らす啓蒙思想家レーナルが「どのように中国をとらえたか」を把握することが大切です。

 ヴォルテールやレーナルが中国社会を称賛しているのに対して、モンテスキューの方はややシビアです。彼は「共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、専制政体の国においては『恐怖』が必要である。」と述べた上で、中国を「専制国家であり、恐怖で統治する」国家であると批判しています。設問のリード文でも「中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は、称賛もあり批判もあり、様々だった。」とあるように、啓蒙思想家の中国観が全て肯定的意見だったわけではないという点には注意が必要でしょう。

 

【3、啓蒙思想家はなぜ、「このような議論」を進めたか】

:では、「このような議論」の中身を確認したところで、本設問の要求である、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューという三人の啓蒙思想家たちはなぜ「このような議論」に至ったのかという背景を、フランスの時代背景、中国の時代背景を手掛かりにまとめていきましょう。まず、18世紀フランスの時代背景で、高校世界史に登場してくる知識としては以下のような事柄があるかと思います。

 

18世紀フランスの状況)

・貴族たちによる権威主義的な統治と身分制 / 社会の様々な束縛(アンシャン=レジーム)

:当時のフランスには、聖職者・貴族などの特権身分に対する免税特権をはじめ、様々な特権が存在していました。ところが、市民層の成長(ブルジョワの台頭)とともに彼らの持つ特権や権威に対する批判が高まっていきます。たとえば、ギルドなどが廃止されたイギリスの自由な商業活動を見たヴォルテールの『哲学書簡』などによってフランス社会の後進性が示されます。こうして、「アンシャン=レジームにおける諸特権が自由な経済活動を阻害している」ということが明らかになってくると、新しい経済理論が登場します。これがケネーの重農主義や自由放任という主張、『経済表』による経済分析へとつながっていきます。また、こうした批判がアンシャン=レジームにおける身分制自体の非合理性批判へとつながっていくとルソーの『人間不平等起源論』であるとか、シェイエスの『第三身分とは何か』などに見られる身分制批判が生まれてきます。

 

・キリスト教的価値観の支配する世界と啓蒙思想の対立

:フランスでは、17世紀後半から18世紀初めにかけてルイ14世の下で絶対王政が最盛期をむかえます。国王を頂点とする集権化が進み、国内の安定が達成されると、かつてのユグノー戦争時のような国内混乱は生じないわけで、少数派(ユグノー)に対する配慮も不要になりました。そこで1685年、ルイ14世はフォンテーヌブローの勅令を発していわゆるナントの王令を廃止するわけですが、このことによって18世紀フランスは宗教的には不寛容な社会に逆戻りをしていきます。また、フランスにおけるガリカニスムは教会と王権に同じ方向性を持たせ、教会に逆らうことはキリスト教の教理のみならず王室の権威に逆らうことともとらえられるようになりました。

 こうした中で、啓蒙思想は「合理的な」考え方を尊重し、理屈に合わない、観察や実験を経ない「迷信」や「伝説」を批判していきます。そうしたものの中で良く知られているのはディドロやダランベールが中心となって編纂された『百科全書』でしょう。『百科全書』は王党派や教会からたびたびその内容を批判されて発禁処分を受けます。本設問のヴォルテールによる中国儒教の称賛はこのような文脈のもとで読み取る必要があります。また、ヴォルテール自身も「カラス事件」(1761年にトゥールーズで発生した、少数派のプロテスタントに対するカトリック側の偏見がもとで生じた冤罪事件)をきっかけとして、宗教的寛容を説く『寛容論』を著しています。当時のフランスが、教会の権威と、教会の非合理性を批判する啓蒙思想家たちが対立する社会であったことをおさえておく必要があります。

 

(参考)17世紀の「科学の時代」が準備した18世紀「啓蒙の時代」

:本設問の対象は「18世紀フランス」なので、厳密には17世紀の話は不要です。ただ、18世紀が「啓蒙の時代」となる前に、17世紀の「科学の時代」がその思想的土台を用意していたことには注意しておく必要があると思います。いわゆる「科学革命」では望遠鏡、顕微鏡など用具面での開発と、観察・実験などの方法論の確立の確立が進んでいきます。簡単に言ってしまうと、観察や実験の精度が上がっていくわけですね。正確に物事を測る器具や方法がないと、「何となくこのくらいずつ混ぜると…爆発したw」みたいなことになってしまいますし、同じ現象を再現することも難しくなります。17世紀になると、正確にものを測ったり見ることができる器具がそろい、そのための方法が確立して、実験・観察における現象の再現性が飛躍的に向上することになります。すると、実験結果・観察結果を数値化することも容易となり、理論に数学的裏付けがなされていくことになります。17世紀はイギリスでニュートンが会長も務めた王立協会が、フランスでも王立科学アカデミーが設立された時代です。「17世紀=科学の時代」の理性に基づく様々な考え方の発達は、合理性を重んじる18世紀の啓蒙の時代へとつながっていきます。この二つの時代は早慶などの私大でも頻出の箇所なので、代表的な人物や著作・成果はおさえておいた方が良いかと思います。

 

18世紀の中国[]の状況)

18世紀(17011800年)の中国、つまり清についてということですと、おおむね康煕帝・雍正帝・乾隆帝の統治期間ということになります。清では明代と同じくイエズス会宣教師が重用されておりましたので、彼らのもたらす情報がヨーロッパへと伝わっていきます。もっとも、情報の伝播の仕方には多少のタイムラグがあるかと思いますし、康煕帝の統治期間が17世紀から18世紀にまたがっておりますので、こちらの方はそこまで厳密に18世紀にこだわらずとも、世界史で清朝について勉強する内容として知られた話をまとめるだけで良いかもしれません。ただし、さすがに明代の話などを入れると時代的に無理がありますので、それは避けた方が良いでしょう。

 

・宗教的寛容(儒学の他、仏教、道教、一時的にはキリスト教)

:これは、ヴォルテールが儒教の称賛とフランスの教会の非合理性批判を行っていることと合わせて示すと良いでしょう。中国でも時おり国教的なものが定められることはありますが、基本的には複数の宗教が併存している社会です。

 

・科挙や満漢併用制などの登用システム

:こちらは、レーナルの世襲貴族批判とのからみで示せればよいかと思います。科挙などの登用システムに影響を受けて、ヨーロッパでも官僚登用のための高等文官試験などが整備されていきます。ただし、当時の中国において支配階層が形成されていなかったのかというと、そういうわけではないのであって、郷紳など実質的には支配階層と言える層は存在していました。

 

・皇帝専制支配(清) / 文字の獄 / 典礼問題

:宗教的寛容や筆記試験に基づく試験など、アンシャンレジームと比較したときに自由で平等に見える一方で、清でも強権的な支配や言論・思想統制は存在しました。モンテスキューが指摘する通り、当時の清は皇帝による専制支配のもとにおかれていましたし、また体制にとって危険とみなされた思想や宗教は弾圧の対象となることがありました。たとえば、文字の獄などはその良い例ですし、一時は布教に寛容だったキリスト教・イエズス会などに対して禁令を発することになる典礼問題もそのひとつと考えることができます。

 

(中国・フランス双方に関係のあるものとして)

・イエズス会士の活動と中国文化のヨーロッパへの伝播

:イエズス会士たちは明代の頃から中国で活躍しており、ヨーロッパの文物を伝えると同時に中国の文化をヨーロッパへと伝えていました。本設問では18世紀の状況ですので、基本的には清で活躍した人物を書く必要があります。多分、本設問で一番使い勝手が良いのはブーヴェ(白進)ではないでしょうか。ブーヴェはその著作に『康煕帝伝』があることから康熙帝の頃の人物であることはあたりがつきますし、フランスのルイ14世が送った宣教師ですから、時期的に大外れということはなさそうです。実際、ブーヴェはライプニッツに儒教経典の一部を紹介などもしています。確実に18世紀となると乾隆帝の肖像画を描いたことでも知られるカスティリオーネ(郎世寧)がおりますが、西洋画や円明園の話だと本設問の内容につなぎにくい気がします。

 

・朱子学がヨーロッパに与えた影響

:中国から伝えられた文化のうち、朱子学は特に18世紀のヨーロッパの知識人に大きな影響を与えたことで知られています。唐代までの儒学が主に儒学経典の注釈・解釈を中心とする訓詁学にとどまっていたのに対し、宋代に入ると儒学はより大きな世界観をもった哲学体系へと発展していきます。北宋の周敦頤に始まるとされる宋学は南宋の朱熹によって大成され、全宇宙の運行と総ての生命を支える根本原則たる「理」と、物質を構成する根本たる「気」の二つによって宇宙の万物が形成されるとする「理気二元論」が確立されました。単なる字句の解釈にとどまらない壮大な宇宙観と、これを基にした中国に古来から存在する経書の膨大な知識体系は、ルネサンスに続き17世紀の科学の時代を経験し、人間の理性とは何かに注目し始めたヨーロッパの知識人たちの注目する所となりました。

 有名なところでは、ドイツの数学者・哲学者であるライプニッツが中国の易経に関心を寄せていたことが知られています。太極から陰と陽が派生し、八卦にいたる宇宙生成論を示した先天図は朱子学においても重視されましたが、これを宣教師ブーヴェから伝えられたライプニッツは自身の2進法との類似に強くひき付けられることになります。

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Wikipedia「ライプニッツ」より)


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Wikipedia「先天図」より [CC 4.0, Author:Gmk35298]

 

 また、カントやヴォルテールといった18世紀の思想家たちにも中国の思想は大きく影響を与えたことが知られています。フランスのケネーの重農主義にも『太極図説』の影響が見て取れるとの指摘もあります。中国文化の啓蒙思想家への影響については、2017年に改訂された『詳説世界史研究』では記述量がだいぶ減ってしまい、具体的な人名や事例などは省かれてしまいましたが、旧版(2008年版)の『詳説世界史研究』ではかなりの字数を割いて説明されておりました。こちらの説明がコンパクトにまとめられて分かりやすいかと思いますので、以下引用します。

 

 イエズス会宣教師をつうじて紹介された西洋学術は、中国文化に大きな影響をおよぼした。しかし彼ら宣教師も中国の制度・文化を積極的にヨーロッパに紹介し、各方面に大きな影響を与えた。たとえば、科挙制度は高度な官吏登用方法と考えられ、その影響でイギリスやフランスでは高等文官試験制度が始められた。また朱子学はヨーロッパの学者に歓迎され、ドイツの哲学者ライプニッツに影響を与え、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールに高く評価された。とくにヴォルテールは、孔子を崇拝していたという。フランスのケネーの重農主義にも中国の道家思想や農本主義が大きく影響している。陶磁器をはじめとする工芸品は、ロココ式芸術にとりいれられ、またフランスのルイ14世は中国風のトリアノン宮殿をたて、マリ=アントワネットは宮殿に中国家具がおかれた部屋をもっていた。さらに中国の造園術は、フランスのヴェルサイユ宮殿にも影響を与えた。

イエズス会宣教師たちによって紹介された中国文化は、1718世紀のヨーロッパに大きな影響をおよぼしたが、これをうけておもにフランスを中心に、中国の歴史や文化を研究対象とするシナ学(シノロジー、Sinology)が発達し、また17世紀後半から19世紀初頭にかけての美術にも影響を与え、シノワズリ(中国趣味)として流行した。[木下康彦ほか編、『改訂版:詳説世界史研究』山川出版社、2008年版p.263]

 

・科挙とイギリスやフランスの高等文官試験

:上述の引用にありますように、科挙は非常に優れた官吏任用試験と受け止められ、英仏の高等文官試験導入に影響を与えたとされています。また、筆記試験によって官僚への採用が決まる科挙のシステムは、身分制や世襲にとらわれないシステムとして、上述したレーナルのように当時のヨーロッパの啓蒙思想家に高く評価されました。

 

【4、啓蒙思想の歴史的意義とは何か】

:それでは、最後に設問のもう一つの要求である彼ら(啓蒙思想家)の思想、つまり啓蒙思想の持つ歴史的意義について考えてみたいと思います。ここで注意すべきこととしては、設問の要求しているのはあくまでも「啓蒙思想」の持つ歴史的意義なのであって、必ずしもフランスに限定する必要はないということです。設問はたしかに「とりわけフランスと中国の状況に触れよ」と要求していますが、それは18世紀の時代背景についてこれを要求しているのであって、歴史的意義についてまでこれを要求しているのではありません。問題概要のみですとこのあたりのことが読み取りにくいと思いますので、以下に設問の要求部分だけ引用します。

 

これらの知識人がこのような議論をするに至った18世紀の時代背景、とりわけフランスと中国の状況にふれながら、彼らの思想の持つ歴史的意義について、15行(450字)以内で述べよ。

 

 

 まぁ、フランスを中心に書いても問題はないのかもしれませんが、上述したように18世紀の啓蒙思想家の活動は国という枠にとらわれないコスモポリタンなものでしたし、18世紀フランスの啓蒙思想がフランスに限らずヨーロッパ全体に大きな影響を与えていたことを考えると、その歴史的意義をフランスに限定する意味はないように思います。出題者の当初の意図と合致していたかまでは分かりませんが、採点の際にはフランスに限らない広い視点での歴史的影響を書いたとしても、加点要素として考慮してもらえたのではないかと思います。フランスに限定してしまうと「啓蒙思想はフランス革命を準備した。」というお定まりの定型文で終わってしまいますし、仮にルソーだのなんだのと色々肉付けをしたとしても何だかつまらないですよね…。何より、東大らしくありませんw やはり、あっちにもこっちにも影響して、脱国境!交流!複雑!でもつながってる!すごいでしょ!の方が東大っぽくていい気がします。さて、以上を踏まえて「啓蒙思想の歴史的意義」ということでまとめるのであれば、ポイントとして示すべきなのは以下のようなものではないでしょうか。こちらは、教科書レベルでも十分に対応できる内容かと思います。また、あわせて啓蒙思想の持つ性格についても示しておきたいと思います。

 

[啓蒙思想の歴史的意義]

・フランスにおいてはフランス革命を準備したこと

 (また、それ以前にはアメリカ独立革命に影響を与えたこと)

・東ヨーロッパでは啓蒙専制君主の出現と近代化を促したこと

封建社会、貴族社会にかわる近代市民世界において理論的正当性を与えたこと

 (台頭するブルジョワの拠る理論)

・啓蒙思想を通じたコスモポリタン的、身分横断的な広がり

 ‐知識人のネットワーク

(アダム=スミス、ルソー、ケネーなどの文通、ヴォルテールの活動)

 ‐サロン

・博物学の発展

(各地の探検やビュフォン『博物学』、イギリスの『ブリタニカ百科事典』など)

・宗教的寛容が進んだこと

 ‐イギリスにおける国教会と非国教徒系プロテスタントの連携

 ‐プロイセンにおける宗教的寛容

   

[啓蒙思想の性格]

・理性に照らして非合理なものを排除する実学

・歴史や伝統、信仰を相対化する普遍主義

・未来を楽観する進歩思想

 

【解答例】

 フランスでは身分制度に基づくアンシャン=レジームの下、免税特権を持つ特権身分による権威主義的統治が展開され、ガリカニスムの下で国家と教会の価値観が強要され、自由な経済活動や科学的思考は阻害された。ルイ14世のナント王令廃止以降はユグノーが弾圧され、商工業が停滞した。中国では科挙や満漢併用制の実施、イエズス会士の重用など、身分や人種を越えた人材登用がされ、儒仏道の三教を基本としつつ宗教的には寛容で、マテオ=リッチの数学・暦法などの新知識も取り入れた。『哲学書簡』で啓蒙思想を広めたヴォルテールは儒教の合理性を称賛する一方で伝統・権威・キリスト教などの非合理性を指摘し、レーナルは階級にこだわらない官吏任用制度を評価したが、モンテスキューは反体制的思想を文字の獄で弾圧する中国をフランスと同じ専制国家であると批判した。このように、啓蒙思想家は絶対王政を批判し、合理的・普遍的・進歩的思想をヨーロッパに広めて、アメリカ独立革命やフランス革命の思想的土台を作り、東欧では啓蒙専制君主の出現と近代化を促した。(450字)

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2022年の東大大論述は、8世紀~19世紀にかけてのトルキスタン史を問う設問でした。東大では、このように特定地域について長いスパンにわたっての歴史を問う出題がたびたび出題されています。たとえば、以下のようなものが例として挙げられるかと思います。

 

2011年:アラブ=イスラーム文化圏[7-13世紀]

2010年:オランダ(系)の人々の役割[中世末~現代]

2001年:エジプト史[文明発祥~20世紀]

1999年:イベリア半島史[3世紀-15世紀]

1995年:地中海周辺地域史[ローマ帝国成立~ビザンツ帝国滅亡]など)

 

設問の要求はいたってシンプルで、トルキスタンにおける勢力の変遷と周辺地域とのかかわりを丁寧に書いていけば十分な内容の解答を用意できるかと思います。東大ではたびたびユーラシア大陸の広域にわたる交流・対立の様子を問う設問が出題されており、教科書や参考書などでも最近は中央アジアの様子を伝える情報量が拡大していることから、しっかりと勉強を進めた受験生であれば十分に対応できる標準的な設問だったのではないでしょうか。近年では京都大学でも立て続けに遊牧民族を取り扱った設問が出題されていたこともあって、今年は試験前にこんなことを言っておりましたが…かすりましたね。「中央アジア史については以前よりも手厚く勉強しておかないと特に国公立は差がついてしまうな」ということは受験生、あるいは受験指導をされている先生方の共通認識としてあったのではないかと思います。また、東大では2019年にオスマン帝国史を出題しており、そうした面でもトルコ民族にかなりの関心が払われていることがうかがわれます。ただし、ひとことで「トルキスタン」といっても、この土地にはイラン系、モンゴル系など様々な民族が流出、流入、興亡を繰り返している点には注意が必要です。「〇〇人」という時に、その民族的な背景がどのようなものかまで深く理解しながら学習を進めているかどうか。一見、そこまで難しくないように見えて、そうした学習が不十分だとじわじわとボディーブローのように効いてくる問題です。やはり、表面的な理解ではなくてしっかりとした内容的な理解までできているかどうかが東大では点数の差となってくるように思います。

 リード文では「オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心」であり「文化が交錯する場」であったこと、「トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれ」るようになったこと、「同地(トルキスタン)の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出」したこと、「一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響」を及ぼしたことなどが紹介されているため、これらも解答作成の際には全体の大きな枠組みを作るための材料として活用することができます。

 

【1、設問確認】

・時期:8世紀~19世紀(7011900

・トルキスタンの歴史的展開について記述せよ

20行(600字)以内

・指定語句の使用(使用した語句に下線)

アンカラの戦い / カラハン朝 / 乾隆帝 / / トルコ=イスラーム文化 / バーブル / ブハラヒヴァ両ハン国 / ホラズム朝

 

:設問の指示はシンプルです。10年前、20年前であれば教科書や参考書のトルキスタンの記述が不十分であったことや、各大学でトルキスタンが出題されることがそれほど多くはなかったことなどから十分な準備ができなかった受験生も多かったのではないかと思います(そのあたりのことを考えて以前トルキスタンとはどういう地域かについては簡単にご紹介いたしました)が、近年の諸大学の出題傾向、教科書の記述等を考えれば、基本問題になるのではないかと思います。細かい内容となるとなかなか出てこないかもしれません。勉強量がそのまま反映される設問と考えてよいかと思います。

 記憶を掘り起こすのに苦労する設問ではありますが、上でも書きました通り、リード文の方に大きな流れ自体は示されていますので、これをヒントにすると良いでしょう。リード文から確認できる流れとしては以下の通り。

 

① オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心 / 文化が交錯する場

② トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれるように

③ 同地の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出

④ 一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響も

 

この流れに沿って指定語句をヒントにトルキスタン史を思い描くだけでも、それなりの内容は構築できるのではないかと思います。当然、抜けてしまう部分はあるので、そこをどう肉付けして埋めていくのかという点で力量の差が問われるのではないでしょうか。

 

【2、指定語句の整理】

:指定のスパンが非常に長いので、指定語句をチェックしてある程度の内容を確認しておく必要があるでしょう。

 

・アンカラの戦い

1402年に起こったアンカラの戦いは、オスマン帝国のバヤジット1世をティムールが打ち破ったことで知られる戦いです。ティムールはトルコ化したモンゴル系貴族の出身で西トルキスタンで自立して大帝国を築いた人物ですから、「トルキスタンで勃興し、周辺地域に影響を与えた例」として用いるべき用語です。

 

・カラハン朝

:カラハン朝を紹介する時の定番は「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」というフレーズです。カラハン朝の成立する時期は10世紀半ばですので、セルジューク朝(1038年に成立)よりも早いんですね。この知識は私大などの正誤問題でもよくキーとなる部分ですので注意が必要です。本設問では、トルコ化が進む過程で同地のイスラーム化が進展した一例として使うことになるかと思います。また、カラハン朝の滅亡には西遼(カラ=キタイ)やホラズム朝が関係していますので、そのからみでも使うことになるかと思います。実は、カラハン朝の滅亡に関する教科書や参考書の記述はかなり曖昧です。私大等の正誤問題では「カラハン朝は西遼に滅ぼされた」を根拠として選ばせるものが多く出題されるにもかかわらず、教科書や参考書によっては西遼だけでなくセルジューク朝やホラズム朝の影響について言及するものもあったりで、受験生を悩ませる部分です。(そもそも、そういった部分を正誤問題とするのはどうなんだろうと思いますが。)  このあたり、旧版の山川出版社の『改訂版世界史B用語集』では「11世紀中頃パミール高原を境に東西に分裂し、後セルジューク朝や西遼の支配下に入った。」となっておりましたが、新版の『改訂版世界史用語集』(山川出版社)では「王朝は緩やかな部族連合体であったため、11世紀には王族が各地で割拠した。それらは12世紀、カラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。」となっています(下の方に旧版と新版の用語集については引用しています)。

 教科書にはほとんど満足のいく記述はありませんので、これ以上の情報を手近で確認したい場合には、現状ではWikipediaの「カラハン朝」の記載が一番わかりやすいようです。「Wikipediaなんて!(蔑)」と思われるかと思いますが、こちらの項目は文献引用の仕方も丁寧ですので、その気になれば紹介されている引用を確認すれば裏付けも取れるかと思います(多分。時間あるときに私の方でも確認してみます)。こちらによると、カラハン朝は11世紀半ばに東西に分裂し、その後東西ともに一時セルジューク朝に臣従しました。臣従から脱した後、東カラハン朝は12世紀半ばに西に進出してきた西遼の支配下に入り、さらに後に西遼の王位を簒奪したナイマン族のクチュルクによって13世紀初めに滅ぼされます。西カラハン朝はその後もわずかに存続しましたがホラズム朝によって滅ぼされました。この話の内容であれば、各種教科書、用語集とも矛盾が生じませんし、もともと私が持ち合わせている知識とも大きな齟齬はないように思いますので、まず問題ないのではないかと思います。ちなみに、山川用語集の「カラハン朝」の項目は以下の通り。

 

(旧版)

 10世紀中頃~12世紀中頃 中央アジアのトルコ系イスラーム王朝。サーマーン朝を倒し、東西トルキスタンを支配、トルコ人のイスラーム化を促進した。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史B用語集』山川出版社、2008年版、p.82

 

10世紀中頃~12世紀中頃 中央アジアを支配したトルコ系最初のイスラーム王朝。999年サーマーン朝を滅ぼし、東西トルキスタンを征服して、そのイスラーム化を促進した。11世紀中頃パミール高原を境に東西に分裂し、のちセルジューク朝や西遼の支配下に入った。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史B用語集』山川出版社、2008年版、p.94

 

(新版)

 10世紀半ば~12世紀半ば頃 中央アジアではじめてのトルコ系のイスラーム王朝。10世紀末にサーマーン朝を滅ぼし、パミール高原の東西に領域を広げた。緩やかな部族連合体の政権であったため、11世紀には王族が各地で割拠し、12世紀にそれらはカラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史用語集』山川出版社、2018年版、p.76

 

10世紀半ば~12世紀半ば頃 中央アジアに成立した最初のトルコ系イスラーム王朝。建国後イスラーム教に改宗し、10世紀末にサーマーン朝を滅ぼして、東西トルキスタンにまたがる領域を形成した。王朝は緩やかな部族連合体の政権であったため、11世紀には王族が各地で割拠した。それらは12世紀、カラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史用語集』山川出版社、2018年版、p.113

 

もし上記が「信用ならないな」とお感じになるようでしたらWikipediaの紹介している引用の内容をご確認ください。多くの教科書や参考書で「カラハン朝=西遼が滅ぼした」となっているのは東カラハンと西カラハンの滅亡までにほとんど差がないこと、両王朝滅亡の大きな要因が西遼の進出によるものだったからでしょう。上記の新版『改訂版世界史用語集』(山川)の新しい記述は、そのあたりの事情を知らない受験生が混乱しないようにと配慮した記述になっているように思います。

 

・乾隆帝

:この用語は一瞬「!?」となる受験生もいたのではないかと思います。ただ、地力のある受験生であれば乾隆帝のジュンガル遠征と平定後の新疆の設置につなげて考えることは十分に可能かと思います。康煕帝による出兵以降、衰退していたジュンガル部は、18世紀半ばの乾隆帝の出兵によって平定され、彼らが住んでいた東トルキスタンの地域は「新疆」という藩部の一つとされ、理藩院の監督下に置かれることとなりました。注意しておきたいこととしては、ジュンガルはトルコ系部族ではなくオイラートの血をひくモンゴル系部族だということです。

 

・宋

:これも使いどころに一瞬迷うものかと思います。ただ、上述の通りカラハン朝の滅亡に西遼(カラキタイ)が深くかかわっていることを思い出せば、西遼建国のきっかけとなったのが宋(北宋)と金(女真族)の挟撃による遼の滅亡にあったことに思い至るのではないかと思います。遼の滅亡に際して、王族の一人であった耶律大石が西へと移動し、(東)カラハン朝を撃破して西遼を建国します。宋はこれにからめて使用すればOKでしょう。

 

・トルコ=イスラーム文化

:トルキスタンのトルコ化とイスラーム化にともなって、トルキスタンではトルコ=イスラーム文化という同地特有の文化が花開きます。トルコ=イスラーム文化とは何かというのは、受験生にはなかなか把握しづらい事柄かもしれませんが、本設問で使うのであれば、同文化が特に栄えたのがティムール朝の時期であったことと、具体例を一つか二つ示せれば十分でしょう。ちなみに、新版の『改訂版世界史用語集』(山川出版社)ではトルコ=イスラーム文化について「セルジューク朝やイル=ハン国の元で繁栄したイラン=イスラーム文化が、ティムール朝により中央アジアに伝わって形成された文化。トルコ語文学や写本絵画が発達した。」と紹介されており、それに続いて天文学の発展に貢献したティムール朝4代君主ウルグ=ベクや、細密画(ミニアチュール)などの項目が紹介されています。また、近年は教科書・参考書等でトルコ語文学(チャガタイ語文学)について言及されることも増えてきました。中でも、ムガル帝国の建国者バーブルが書いたとされる『バーブル=ナーマ』については今後出題頻度が増えてきそうな気がしています。ティムール朝期の文化については、2017年版『詳説世界史研究』の記述がかなりまとまっていますので引用します。

 

ティムール朝期の文化はおもにサマルカンドとヘラートで、君主や高官の保護のもとで発展した。2つの都市には、多数のモスク・マドラサ・ハーンカーフ(修道場)・庭園・聖者廟・公共浴場・隊商宿・病院・給養所が建てられたが、そのほとんどはワクフとよばれる寄進財で建設・運営された。ティムールの孫ウルグ=ベク(位144749)は、君主であると同時に天文学者でもあり、サマルカンドに天文台を建設したことで知られている。彼が作成した天文表のラテン語抄訳は1655年にイギリスで刊行された。歴代の君主は学芸の保護に努め、各地から学者や詩人を宮廷に招聘して優遇した。ヘラートで活動したナヴァーイーは、伝統的なペルシア語で詩作したのみならず、ペルシア語に倣ってアラビア語で表記されるトルコ語の文章語、すなわちチャガタイ語で多数の作品を著し、チャガタイ語の発展に大きく貢献した。この時代の著作は手書きで写されて流布したが、こうした写本にはしばしば美しく繊細な絵画(細密画)が挿入された。ヘラートやブハラ、タブリーズの工房は写本絵画の制作で知られていた。

 ティムール朝は、16世紀の初め北部の草原地帯から南下したトルコ系の遊牧ウズベクの攻撃を受けて滅亡した。このときティムール朝の王子バーブルはアフガニスタンをへてインドに進み、ムガル帝国を創始した。この意味でムガル帝国はティムール朝の継承国家ともいえる。バーブルの回想録『バーブル=ナーマ』は、チャガタイ文学の傑作として名高い。そして、ティムール朝にかわって西トルキスタンを制した遊牧ウズベクがしだいに定住することにより、この地域のトルコ化は最終段階を迎えることになる。(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、P.242

 

・バーブル

:バーブルを用いるコンテクストとしてはすでに上記のトルコ=イスラーム文化の方でご紹介しました。ティムールの血を引くバーブルは、パーニーパットの戦い(1526)でデリー=スルタン朝最後のロディー朝を破り、ムガル帝国を築きますので、こちらもトルコで勃興した勢力が周辺地域に影響を及ぼした例として示すのが良いかと思います。また、トルコ=イスラーム文化の一つとして示すことももちろんOKです。

 

・ブハラ・ヒヴァ両ハン国

:ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国は19世紀後半にロシアが支配下におくウズベク人の国です。東大では以前ロシアのユーラシアにおける勢力拡大が出題されたこともありますので、東大受験生にとっては比較的なじみ深い用語ではないかと思います。ティムール朝の滅亡がウズベク人の進出によるものであることを考えれば、その流れにそって示してやるのが一番使い勝手が良いと思いますし、両国が事実上、ロシアの保護国となった[ブハラ=ハン国については1868年、ヒヴァ=ハン国については1873]ことも書くべきでしょう。

 また、ウズベク3ハン国と言えば、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国に加えてコーカンド=ハン国も当然問題となります。コーカンド=ハン国とブハラ・ヒヴァ両ハン国の違いをあえて示すとすれば、コーカンド=ハン国は完全にロシアの植民地として併合されることと、イリ事件の元をつくったヤクブ=ベクが元はコーカンド=ハン国がカシュガルで清に対して反乱を起こしたイスラーム勢力支援のために送った軍人であったことでしょうか。イリ地方は本来はモンゴル系の多い地域でトルキスタンとは歴史的に異なっていた地域ですが、清朝統治下においては新疆の一部としてタリム盆地のトルコ系イスラームと一体の関係で取り扱われておりましたので、本設問でトルキスタンの一部として取り扱っても差支えはないかと思います。近現代中央アジアにおけるムスリムの活動についてはつい最近上智のTEAP利用(2021年)の論述問題でかなり真正面から取り扱った設問が出題されるなど、出題頻度が増えてきている&設問自体もかなり突っ込んだものが多くなってきている印象を受けます。

 

・ホラズム朝

:ホラズム朝についてもすでに上記でいくらかご紹介しています。ホラズム地方(アラル海の南、アム川下流域)の統治を任されていたセルジューク朝の総督(マムルーク)が自立化したことで建国され、その後13世紀の初めまでにセルジューク朝や西遼、ゴール朝などを破ってイラン西部やアフガニスタンの一部を含む中央アジア一帯を支配する大勢力に成長しました。その後、チンギス=ハーンによって滅亡し、その旧領の多くはチャガタイ=ハン国の支配下に置かれることとなりました。(イランについてはイル=ハン国の支配下に入りました。)

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【3、指定語句をヒントに話の流れを整理】

:これまで、かなり細かく指定語句のチェックをしてきましたので、本設問を解くにあたって必要な情報のかなりの部分は確認できたかと思います。ですが、本番の試験会場ではここまで細かくチェックしている時間・余裕はないでしょうから、実際には手早く時代ごとに並べ替えて、内容的に途中の抜けがないかどうか、関連事項は何かなどを確認していくことになるかと思います。下の表は、上記2の指定語句チェックで述べた事項を簡単に時代や地域ごとに整理したものです。時代や地域が重なったりする部分もあるのでかなり大雑把なものですが、大きな流れを把握するにはこの程度で十分かと思います。赤字は、指定語句チェックをただ進めるだけでは出てきにくい事項です。特に、ウイグルの定住とトルコ化の進展、サーマーン朝の進出とイスラーム化の進展は前提となる部分ですので、これを見逃してしまうとかなり差がついてしまうかもしれません。メジャーな割に意外に気づきにくいのがセルジューク朝やモンゴルの支配でしょうか。「モンゴル支配をすっとばしていきなりティムール」みたいなことがないように注意したいですね。タラス河畔の戦いは出てくるかもしれませんが、唐による都護府の設置と西域支配は見逃しがちです。また、ガズナ朝・ゴール朝がトルコ系王朝であることも、指定語句を追いかけているだけでは見逃してしまうかもしれません。もっとも、いつも申し上げることですが必ずしも完璧な解答が書ける必要はない(書けるにこしたことはない)ので、仮に自分が見落とした箇所があるにしてもあまり気に病まず、自分ならどこまで書けるかを確認した上で精度を上げていくのが良いでしょう。

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それでは、これらを1の設問確認でチェックしたリード文の流れに沿って配置して、話の大きな流れを作ってみることにしましょう。

 

① オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心 / 文化が交錯する場

:トルキスタンでもともと活発に活動していたのはソグド人と呼ばれるイラン系民族で、オアシス都市を拠点に交易に従事していました。唐は、彼らが西域と呼んだ同地の経済的利益をおさえるため、クチャ(亀茲)に安西都護府を置き(658年)、さらに北庭都護府をおいて西域経営を強化しましたが(702年)、タラス河畔の戦い(751年)でアッバース朝に唐が敗れて以降は同地へのイスラーム勢力が進出を始めました。一方で、モンゴル高原を支配していたトルコ系ウイグル人の帝国が9世紀にキルギスによって滅亡すると、それまでの居住地を追われたウイグル人が中央アジアに定住し、これらとソグド人の混血が進む中で同地のトルコ化が進んでいきます。

 

② トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれるように

:トルコ化が進むトルキスタンでは、同時にイスラーム化も進展していきます。イラン系サーマーン朝の侵入によってトルキスタンのイスラーム化は加速し、その過程でイスラーム世界には同地のトルコ人を軍人奴隷として使役するマムルークを用いる習慣が導入されていきます。また、軍人として力をつけたマムルークの中には次第に自立化し、独自の勢力を築く者も出てきました。こうした中で、トルキスタンには同地初のトルコ系イスラーム王朝とされるカラハン朝や、後に西アジア方面へ進出してスルタンの称号を得るセルジューク朝、アフガニスタンに興りたびたびインドに侵入したガズナ朝やゴール朝、セルジューク朝から自立して中央アジア一帯に大勢力を築くホラズム朝などが成立していきます。

「アフガニスタンをトルキスタンに含めるのか」という問題については、現在のアフガニスタンの人口のほとんどが非トルコ系民族(イラン系が多い)ということで現在のトルキスタンの定義に照らすと微妙なところですが、アフガニスタン北部をトルキスタンに含めて考える場合もありますし、何よりガズナ朝・ゴール朝ともにトルコ系王朝ですから、本設問が設定している時期の両王朝を歴史的にトルキスタンに関係する事柄として示すことには問題がないのではないかと思います。

 

③ 同地の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出

:トルキスタンではカラハン朝やホラズム朝が大きな勢力を築きますが、同地には宋と金によって祖国(遼)を滅ぼされた西遼や、チンギス=ハンによってモンゴルを追われたナイマン部のクチュルク、さらにユーラシア全土に支配を拡大するモンゴル手国のチンギス=ハーンなどの諸勢力が侵入して興亡を繰り広げます。こうした中でカラハン朝ならびにホラズム朝は滅亡し、しばらくの間は13世紀のモンゴルの平和(パクス=タタリカ)のもとでチャガタイ=ハン国などの支配が続きました。しかし、14世紀に入るとティムールが帝国を築き、トルコ=イスラーム文化が花開きます。それも16世紀には衰退し、トルキスタンはウズベク人の諸王朝によって支配されます。その後、トルキスタンは清の乾隆帝による新疆設置やロシアによるヒヴァ、ブハラ、コーカンドのウズベク3ハン国支配により、トルコ人以外の民族が支配する時代へと移り変わっていきます。

 

④ 一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響も

:これについては表の方にも示しましたが、以下の内容を適宜盛り込んでいけば良いかと思います。

 

A ガズナ朝、ゴール朝がインド侵入

B セルジューク朝の西アジア進出(バグダード入城とスルタンの称号)

C ティムールの進出とオスマン帝国のバルカン半島進出の停滞

D ウルグ=ベク天文表をはじめとするトルコ=イスラーム文化の伝播

E バーブルによるムガル帝国の建国(デリー=スルタン朝の滅亡)

F ヤクブ=ベクの反乱と露清両国の対立(イリ事件)

 

【解答例】

イラン系ソグド人がオアシス都市を拠点に交易した乾燥地帯は西域と呼ばれ、唐が都護府を置き支配したが、タラス河畔の戦い以降はイスラーム勢力が進出した。一方、キルギスに追われたトルコ系ウイグル人が同地に移住するとトルコ化も進んだ。サーマーン朝進出でトルコ人がマムルークとして受容されると勢力を拡大し、アフガニスタンに興ったガズナ朝やゴール朝、西アジアや小アジアへ進出したセルジューク朝、中央アジアのカラハン朝などのトルコ系王朝が出現した。カラハン朝はと金の挟撃で滅んだ遼の耶律大石が建てた西遼や、アム川下流域に興ったホラズム朝の圧迫で滅び、その後チンギス=ハーンの征服を経てチャガタイ=ハン国が出現した。チャガタイ=ハン国から自立したティムール朝は、アンカラの戦いでバヤジット1世を捕らえオスマン帝国の拡大を停滞させ、サマルカンドやヘラートではチャガタイ語文学や細密画などトルコ=イスラーム文化が花開いた。ティムール朝衰退後は、ティムールの血を引くバーブルがインドにムガル帝国を築いたが、トルキスタンはウズベク人が支配した。同地の西部に成立したブハラ・ヒヴァ両ハン国は南下政策を進める露の保護国とされ、コーカンド=ハン国は併合された。一方、モンゴル系ジュンガルが進出した東部は清の乾隆帝が平定し、新疆として理藩院の監督下に置かれたが、ヤクブ=ベクの反乱を機に発生したイリ事件が露清間の対立を引き起こした。(600字)

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(注:掲載当初、2003年の小論述が1問抜けていましたので、修正しました。[2022.3.31])

 今回は東大第2問の分析です。東大というと大論述が「どーん」とあるので、とかくそちらに意識が集中しがちですが、以前からたびたびお話している通り、大論述が「ガッツリ書けて」かつ「シッカリ点数が取れる」という受験生はまれです。合格点を考えても、内容的にも、大論述で点数が取れるようにすることも大切ではありますが、それ以上に2問、第3問で点数の取りこぼしをしないということを重視するべきなのです。ただ、第2問、第3問については東大受験生の最終的な(受験時の)平均値を考えた場合、ほとんどの問題は基礎的な内容にとどまり、教科書なり参考書なり用語集を見れば解決できてしまうので、特に当ブログでご紹介することはありませんでした。どうしても心配な場合には、東大過去問をベースにつくられた対策問題集などが市販されていますので(駿台の『テーマ別東大世界史論述問題集』など)、そうしたものや東大やその他100字前後の論述問題が収録されている問題集や他大過去問を解くことで練習しておくと良いでしょう。まれに、「むむ?これは!」と受験生をうならせるような難問が出題されることもあります。2008年の「ゴラン高原領有をめぐりイスラエルが主張の根拠とする1923年の境界はいかなる領域間の境界として定められたか」などは多少しんどいかなと思いますし、2002年の段階で「ジャーギール制とティマール制の共通の特徴」を問うのはちょっと無茶が過ぎるだろうと思います。(現在ではそこまで難しくはありませんが。)

ですが、これもしばしば申し上げるように、難しい問題は他の受験生もできません。ということは、その問題によって点差が開くことはほとんどないのであって、それを気にしても始まりません。(出題された翌年度以降は受験生にとっての共通認識になっていくので、ほったらかしにするのではなく、見直しはしっかりしておく必要があります。) むしろ「本番でオレ様ができない問題は周りもできねぇ。」と思えるくらいの自信を日々の学習で培っておくことの方が重要な気がします。

問題の内容的な面はともかく、出題の全体的な傾向を把握しておいて損はないかなと思いますので、1985年から2022年までに東大第2問で出題された問題のうち、論述問題(1行以上の字数で説明を求める問題)の一覧を作成し、簡単な傾向分析を行ってみました。これからご紹介する表をご参照いただくにあたって注意すべき点は以下の通りです。

 

① 一覧に示されているのは原則として設問の要求・概要です

② 一部、論述にくっついて用語を要求する設問などについては解答を示してあります

③ 「行数」は純粋に「〇〇行で書きなさい」という設問のみカウントし、単問式の設問に要する行数はカウントしていません

④ 1996年~2002年については単問式の設問数が多いため、論述問題以外は概要の表のデータから除外しました

⑤ 分野分析の各単元は、基本的には『詳説世界史研究』山川出版社、2017年度版の章立てに依拠していますが、一部タイトルを変更したり、まとめているものがあります

ex.) 「近世ヨーロッパ世界の形成」と「近世ヨーロッパ世界の展開」を「~の形成と展開」など

⑥ 対象となる設問がどの分野に属するかについては、設問の肝となる部分を考慮してキーとなる用語を索引で調べ、設問内容と照らして妥当と思われる箇所に分類しました(複数分野に重複して数えることは避けました)

⑦ 殷・周~秦・漢までは、中国史の出題とその他をはっきり分けてとらえたかったため、「内陸・東アジア世界の形成と展開」の方に含めています(本来はアジア・アメリカの古代文明に分類されていました)

 

【東大第2問:設問概要と論述問題の行数】

:表中の赤字は単問式設問の解答です。全体を通しての平均合計行数は11.6でした。


1985年~1989年)

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1990年~1999年)

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2000年~2009年)

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2010年~2022年)

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【東大第2問:分野別分析(1985年~2022年)】

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:「アジア諸地域の繁栄」、「アジア諸地域の動揺~帝国主義とアジアの民族運動」、「内陸・東アジアの形成と展開」が上位3つとなりました。「アジア諸地域の動揺~帝国主義とアジアの民族運動」は多少対象範囲が広いので参考程度ですが、やはり中国史関連の出題はかなり多いという印象を受けます。また、「アジア諸地域の繁栄」の数が多いのは、中国史(明・清)だけでなく、オスマン帝国やムガル帝国などの出題が多いことも原因です。「イスラームの形成と発展」はそこまで多くありませんが、近代史では民族運動とからんでイスラームと関係する出題が出されたり(ワッハーブ派など)、現代史ではパレスティナ問題にからむ設問がたびたび出題されるなど、やはり全体としてイスラームの印象も色濃い気がします。ヨーロッパ単体(ヨーロッパだけで話が完結する設問)は全体からすればそれほど割合は高くありません。目立って出題が少なかったのは「アジアアメリカの古代文明」でしたが、これは上述の通り「殷・周~秦・漢」を「内陸・東アジアの形成と展開」の方に含めて計算したことが影響しているかと思います。もっとも、「アジアアメリカの古代文明」からの出題のうちほとんどは初期仏教の誕生や伝播にかかわる設問で、古代アメリカからの出題は2000年の「インカ帝国の交通・情報手段(1行)」のみでした。

 

(分野別分析:2003年~2022年)

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 直近の20年ほど(2003年~2022年)で見ると、全体を通してみたときよりもアジア世界の優位性が相対化され、あまり目立たなくなっています。「オリエントと地中海世界」や「ヨーロッパ世界の形成と展開」の割合がやや増え、まんべんなく出題されている印象があります。

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