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カテゴリ: 東京大学対策

東大の大論述では宗教にがっぷり四つで取り組ませる設問はそこまで頻繁ではありませんが、時折出題されます。ざっと10年おきくらいかなという気がします。とりあえず、私の主観で「うわ、宗教だわ」と感じる設問としてはこの年の出題以外ですと1991年あたり(イスラーム世界、西ヨーロッパ世界、南アジア世界の政治体制変化を問う設問。必然的に宗教政策が大きな問題となる)かなと思います。ただ、2021年については、地中海世界の3つの文化圏がテーマでしたが、イスラームの成立やピレンヌ=テーゼとも絡む設問で、「宗教の問題に着目しながら」とわざわざ注意書きがありましたし、1994年についてもモンゴル帝国と宗教(ほかに民族・文化も)の関係を問う設問で、かなり宗教的な要素について考えないと解けない設問でした。

その他の年についても、宗教を全く扱わないわけではなく、たとえば2011年のようにイスラーム文化圏をめぐる動きについて述べるような設問では宗教を避けるわけにはいきません。にもかかわらず、宗教をまったく、またはほとんど考慮しなくてもよいと思われる設問が過去20年で1112年分あることを考えれば、東大大論述では宗教はそこまで重要なファクターとはなっていない気もします。ただ、いつも申し上げることですが、「だから出ない」というわけではありません。東大では歴史に対する総合的な理解度を問う設問が出題されますので、マニアックな知識は不要であるにしても基本的な要素はしっかりと身につけておく必要があるでしょう。

 

【1、設問確認】

・時期:18世紀前半まで=信教の自由(または宗教的寛容)が広まる以前の時期

・世界各地の政治権力はその支配領域内の宗教・宗派をどのように取り扱っていたか

・世界各地の政治権力はその支配領域内の(各宗教集団に属する)人々をどのように取り扱っていたか

・西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げよ

・上記について3つの地域の特徴を比較せよ

20行(600字)以内で論ぜよ

・指定語句(使用箇所に下線)

:ジズヤ / 首長法 / ダライ=ラマ / ナントの王令廃止 / ミッレト / 理藩院 / 領邦教会制

 

:設問の要求には少し注意が必要です。宗教・宗派をどのように取り扱っていたのかに加えて、領域内に住む人々をどのように扱っていたのかについて聞いています。これらは、同じことを聞いている場合もありますが、異なる扱いを受けることもあります。たとえば、特定の宗教・宗派に対して寛容が認められた場合でも、個々人に対する扱いは存外に厳しいといったケースはありうるわけで、集団に属する個人がどのように扱われたのかについては少し丁寧に見ていく必要があるかと思います。また、本設問は「世界各地の」と言っているわりに、結局は西ヨーロッパ・西アジア・東アジアの3地域に限定されていることにも注意が必要です。さらに、終わりの時期ははっきりしているのですが、いつ頃からかなのかは判然としません。これについては指定語句からおおよその時期を判断するしかないかと思います。多少、設問の設定が甘いかなという気はします。

 

【2,指定語句を3地域ごとに整理】

:具体例を挙げるべき3地域がはっきりしていますので、指定語句を3地域ごとに整理してみると以下のようになります。

 

(西ヨーロッパ):首長法 / ナントの王令廃止 / 領邦教会制

(西アジア):ジズヤ / ミッレト

(東アジア):ダライ=ラマ / 理藩院

 

このように見てみると、おそらく西ヨーロッパについては宗教改革後のキリスト教世界、西アジアについてはオスマン帝国支配下のイスラーム世界、東アジアについては清朝支配下の中国を想定しているかと思います。ただ、東アジアについては他の世界とそろえる(首長法が1534年、宗教改革の開始[ルターの95か条の論題]1517年と考えれば16世紀あたりから)という意味と、イエズス会宣教師の活躍が明末から展開していたことなどを考えれば明の支配していたころまで広げた方がいいかと思います。

 

【3、18世紀以前の3地域はどのような宗教世界であったか】

:設問がアバウト(開始時期が不明な上、地域ごとの多様性も無視)なので、何を要求しているのかぱっと見にはわかりません。上の2で示した通り、指定語句などを参考に時期を16世紀~18世紀前半に限定した上で、3地域がどのような宗教世界であったかを簡単に把握して、関連事項を整理する必要があるでしょう。

 

(西ヨーロッパ)

:指定語句から絶対王政や宗教改革の展開される16世紀以降が主であることは想像できます。この世界は、ルネサンス以前の中世においてはアタナシウス派キリスト教(カトリック)が絶対の存在でしたが、中世末期には教皇権の失墜などによりそれが動揺します。ルネサンス期の人文主義などから教会批判が強まり、16世紀に入ってルターが展開した一連の教会批判をきっかけとして宗教改革が始まりました。その結果、それまで一つの宗教世界であった西ヨーロッパは分裂し、主として南ヨーロッパを中心とするカトリック世界と北西欧を中心とするプロテスタント世界へと分かれていきました。両派の対立は、宗教戦争へとつながり、各地においてそれぞれの宗派をどのように扱うかがルール化されていきます。

たとえば、ドイツにおいてはアウクスブルクの宗教和議やウェストファリア条約を通して領邦教会制が成立するとともに、カルヴァン派についても容認されるなど両派の住み分けが進んでいきましたが、個人単位の信仰の自由は認められませんでした。イギリスにおいても、ヘンリ8世の出した首長法、そしてエリザベス時代に出された統一法などを通してイングランド国教会(イギリス国教会)が成立・確立していき、国家の宗教は国王を首長とするイングランド国教会とされたものの、時代が進むにつれ、プロテスタントであれば非国教徒への一定レベルの寛容が認められていきます(cf. 寛容法[1689])。一方で、カトリックに対しては長く敵性宗教と扱いが続いていくことになりました(cf. 審査法[16731828廃止]、カトリック教徒解放法[1829])。

宗教が領邦単位、国家単位で管理されたドイツやイギリスに対して、フランスではユグノー戦争を経てアンリ4世のもとでナントの王令(勅令[1598])が出され、個人単位での信仰の自由が認められました。ですが、17世紀に入り絶対王政が確立して集権化が進むと、フォンテーヌブローの勅令でナントの王令が廃止され[1685]、ユグノーの信仰の自由は奪われ、商工業者の多かったユグノーたちは北西欧へと亡命していくことになります。

西ヨーロッパにおける状況は以上のようなものでしたが、これをポイントだけまとめていくと以下のような感じになるかと思います。政治権力による宗教・宗派の取り扱いやそれらに属する人々の取り扱いについて特に重要な部分については赤字で示してあります。

 

・キリスト教による支配→教皇権の失墜

・宗教改革→各国の政治権力が国家(支配領域)の宗教を管理

・宗派対立の存在

宗教支配については地域、時期によって差

 <ドイツ>

領邦教会制、個人単位の信仰の自由は認められない

 <イギリス>

:国教会による支配(首長法・統一法 / マイノリティに一定の寛容)

 <フランス>

:個人単位の侵攻の自由を認める

→集権化が進むとユグノーを迫害(ナントの王令廃止

・マイノリティの存在と迫害、対立(異端審問、ピューリタン、13植民地の形成など)

・大航海時代の開始と布教活動(イエズス会など)

 

(西アジア)

16世紀~18世紀前半の西アジア世界を考えた場合、この世界はオスマン帝国とサファヴィー朝の支配下にありました。これらの王朝のもとでは、イスラーム世界の原則に基づき、一定の条件下で異教徒にも信仰の自由と自治が認められました。このことをもって教科書などではイスラーム世界における異教徒政策を「寛容」と評価することが多いですが、一方で異教徒はあくまでジズヤの支払いを条件として信仰の自由が認められたのであって、ムスリムと平等に取り扱われたわけではありませんから、どのレベルで「寛容」であったのかという点には注意が必要かと思います。また、本設問は西アジア世界が対象なので、本設問では使えませんが、たとえば同じ時期の南アジアに存在していたムガル帝国ではアクバルのもとにおけるジズヤの廃止とアウラングゼーブによるジズヤの復活など、宗教政策の変化があったことにも注目しておくと良いでしょう。

 オスマン帝国とサファヴィー朝のうち、通常世界史の教科書や参考書などで国内の宗教政策などについて言及されることが多いのはオスマン帝国の方です。特に、ミッレトと呼ばれる非ムスリムによる宗教共同体を通して、納税を条件に各宗教共同体の慣習、信仰の自由、自治が認められたことはよく知られています(対象はギリシア正教徒、アルメニア教会、ユダヤ教徒など)。これはイスラーム世界におけるジズヤの支払いを代価として信仰の自由を保障するという伝統的な異民族統治の流れをくむものです。一方で、バルカン半島のキリスト教徒の子弟を強制的に徴用するデウシルメなどを通して、歩兵常備軍イェニチェリを形成するなど強権的な側面も持ち合わせていました。一方、支配領域外の異教徒とのかかわりについては、貿易などを通して盛んに諸外国と交流を持つなど比較的寛容で、特にフランスと結ばれたカピチュレーションと呼ばれる恩恵的通商特権についても、ご存じの方は多いかと思います。

 指定語句を見ても、以上の内容(オスマン帝国の宗教政策)を中心にまとめておけばまず安心ではあるのですが、「西アジア」が対象となっているのにサファヴィー朝を完全に無視するのもどうかと思いますので、これについてはサファヴィー朝がシーア派(十二イマーム派)を奉じてスンナ派のオスマン帝国と対立していた(西アジアでも宗派対立が存在した)ことなどを示しておけば十分かと思います。この点を示せば、西ヨーロッパ世界がカトリックとプロテスタントに分裂して宗派対立を繰り広げたこととの良い対比にもなると思います。以上の事柄をまとめると以下のようになります。

 

・一定の条件下で信仰の自由と自治を認める

ex.) オスマン帝国 / サファヴィー朝など  

cf.) 南アジアではムガル帝国(本設問では不要)

ジズヤの支払いによる信仰の自由

ミッレトを通した自治

・一部ではデウシルメなど、強権的な統治(ジズヤなども強権的ととらえ得る)

 cf.) 南アジア:ムガル帝国では一時的なジズヤの廃止[アクバルの時]

・宗派対立は存在(スンナ派とシーア派)

・対外的には寛容

 

(東アジア)

:国家単位、領主単位で信仰すべき宗教が決定されていた西ヨーロッパ世界や西アジア世界に対して、東アジア世界では特定の宗教が国教として個人に強制されることはあまりありませんでした。東アジア世界の中心である中国、16世紀~18世紀前半では明・清では、基本的に統一した宗教政策は存在せず、儒教・仏教・道教の三教が特に強い勢力をみって共存している世界でした。一方で、明末・清初にはイエズス会宣教師を重用し、諸外国とも交易を行うなど、外部の異教徒に対しては基本的に寛容であったと考えられます。支配領域における、伝統的な中国の文化宗教からするとやや異質な宗教集団・民族についても、藩部としてまとめて理藩院の監督下に自治と信仰の自由を認めるなど比較的寛容な宗教政策をとっていました。

一方で、こうした寛容さは、対象が国内統治にとって脅威となると認識された場合には失われ、弾圧を強めます。もっともよく知られているのは康煕帝から雍正帝の頃にかけて行われたキリスト教布教の禁止です。孔子などの聖人崇拝や祖先崇拝を当時のローマ教皇クレメンス11世が禁止したことをきっかけに、康熙帝の時代にはイエズス会宣教師以外によるキリスト教布教が禁止され、雍正帝の頃にはキリスト教布教が完全に禁止されます。また、国内の宗教でも白蓮教などについては反体制的な宗教として弾圧の対象とされました。(雍正帝がイエズス会も含めての禁令を出した背景の一つとして、皇帝即位前に争った弟の胤トウ(しめすへんに唐)をイエズス会士であったジョアン=モランが推したことや、康煕帝時代に急速に増大した信徒の数を警戒したことなどが指摘されています。(岡本さえ『世界史リブレット109 イエズス会と中国知識人』山川出版社、2008年、p.42

東アジアについては中国を書いておけば十分かとは思いますが、日本についても当初は受け入れていた南蛮人・紅毛人を、秀吉の時代には伴天連追放令、江戸幕府の頃にはいわゆる「鎖国」とキリスト教信仰の禁止が進められていきますから、対キリスト教・対ヨーロッパについて考えると、流れとしては似ていますね。

 

中国[明・清]では統一した宗教政策は無し(儒・仏・道の三教が共存)

・イエズス会宣教師の重用など、外来の宗教には寛容

理藩院を通した藩部の自治と信仰の自由

ex.) チベット仏教とダライ=ラマ、新疆におけるイスラーム信仰

事情によっては弾圧の対象とする宗教も

cf.) 白蓮教 / 典礼問題とキリスト教布教の禁止(康煕帝・雍正帝)

 

【4、3地域の特徴比較】

:本設問は「3つの地域の特徴を比較して」と要求していますので、上記3で絞り出したことをただ羅列するのではなく、できる限り比較する視点でまとめてみたいところです。その際にポイントになるのはやはり、政治権力が「宗教または宗派をどのように扱ったか」と同じく政治権力が「人々をどのように扱ったか」でしょう。この視点に基づいて各地域の特徴をピックアップしたのが以下の表になります。この表に基づいて、大枠をつくり、必要に応じて肉付けしていけば設問要求から大きく外れた解答にはならないと思います。

2009_東大_宗教政策比較 - コピー

【解答例】

カトリック支配が続いていた西ヨーロッパでは、教皇権の失墜と王権の伸長、そして宗教改革により各国の政治権力が支配地域の宗教を管理する体制が成立したが、ドイツでは三十年戦争後に領主が宗派を選び個人に信仰の自由のない領邦教会制が、イギリスではヘンリ8世の首長法に始まるイギリス国教会が成立するなど地域差があり、フランスではユグノーに個人単位の信仰の自由を認めたものの、絶対王政を展開したルイ14世のナントの王令廃止で弾圧に転じるなど時期による差もあった。西アジアではイスラーム王朝が異教徒に対しジズヤの支払いで信仰を認め、オスマン帝国ではミッレトにおける自治も認められた。対外的にも主に商業面で異教徒の出入りに寛容だったが、オスマン帝国のデウシルメなど一部では異教徒に対する強権支配も見られ、スンナ派王朝としてシーア派のサファヴィー朝との宗派対立も存在した。東アジアでは明・清を中心に儒・仏・道の三教が共存し、特に儒教的価値観は朝鮮や日本でも重視されたが、国家が特定の宗教を国教として強制はせず、イエズス会宣教師の重用など外来の宗教にも寛容だった。清では理藩院を通して藩部の自治と信仰の自由が認められ、チベット仏教とダライ=ラマの存在や新疆におけるイスラーム信仰などは保障されたが、白蓮教の弾圧や典礼問題を契機とする康煕帝・雍正帝によるカトリック布教の禁止など、反体制的とされた宗教は国家によって弾圧された。600字)

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2011年の東大大論述では、7世紀~13世紀までのアラブ・イスラーム圏文化圏の拡大ならびに異文化の需要と発展がテーマでした。2011年より前の大論述が10年近くにわたって主に近現代から出題されていた(15世紀以前が問われたのは、2007年の農業生産の変化とその意義を問う設問で一部が11世紀にかかっていたところを除けば、2001年のエジプト5000年の歴史に関する設問までさかのぼる)ことや、イスラームの文化圏を真正面から取り扱う設問が長らく出題されていなかったことなどから、この年の東大受験生にはやや唐突な感じのする設問だったように思います。どちらかというと、それまでの一橋に近い匂いを感じた受験生も多かったのではないでしょうか。本設問に近いものとしては、東大では1995年にだされた地中海とその周辺地域に興亡した文明と、それらの交流・対立を問う設問(前1世紀~後15世紀)まで見られません。ただ、問われている内容はかなり基本的なものですので、唐突な感じを受けつつも、比較的しっかりとした解答を書けた受験生も一定数いたと思われます。率直に言って、それほど面白味のある設問ではありません。注意すべき点があるとすれば、イスラームが外部から文化を取り入れてそれを自己のものとして消化した後、さらにその文化を他地域へと伝えて影響を与えるというように、交流・対立が「一度伝わって終わり」ではなく、「いくつかの変容を経て、さらに別の段階へとつながっていく」という様子を描き切れるかということでしょう。このあたりを設問の要求としてくるあたり、イスラーム文明が融合文明であるという特徴をよくとらえていると思います。

 

【1、設問確認】

・時期は7世紀から13世紀まで

・アラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じた以下の動きについて論ぜよ

①、イスラーム文化圏拡大の中で、新たな支配領域や周辺の他地域からことなる文化が受け入れられ、発展していったこと。

②、①で育まれたものが、さらに他地域へ影響を及ぼしたこと。

17行(510字以内)

・指定語句(使用箇所に下線を付す)

インド / アッバース朝 / イブン=シーナー / アリストテレス / 医学 / 代数学 / トレド / シチリア島

:リード文より、意識すべきは異なる文化間の接触や交流、軋轢、文化や生活様式の多様化と変容などになります。

 

【2、7世紀~13世紀のイスラーム世界(フレームワーク)】

:いきなり文化の受容・発展・伝播について書き連ねても良いのですが、リード文にもあるようにこれらの動きはイスラーム世界の拡大と連動しています。また、周辺世界の状況とも関係してきますので、文化だけを思い描いて思いついたものから書くという手法ではとりとめもなくただ出来事を箇条書きするだけの解答になってしまいかねません。そうしたことを避けるためにも、大まかで良いのでイスラーム世界の拡大がどのように展開されたか、イスラームの拡大にともなって周辺世界がどのように変化したかの枠組みは把握しておいた方が良いと思います。イスラーム世界の拡大については、概ね以下の内容を確認しておけば良いでしょう。(13世紀までなので、実際にはより細かい変化もあるのですが、最終的に書く内容は文化の受容・発展・伝播なのでこのくらいで十分かと思います。)

 

① ムハンマドの出現、イスラーム共同体の形成と拡大(ムハンマド~正統カリフ)

② イスラーム王朝の誕生(ウマイヤ朝~アッバース朝)

③ イスラーム世界の分裂と3カリフ鼎立(後ウマイヤ朝・ファーティマ朝・アッバース朝)

:イベリア/北アフリカ/西アジア~中央アジア

④ トルキスタン、インドのイスラーム化

⑤ ムスリム商人の活動

 

【3、イスラーム世界と周辺世界間の文化の伝播、社会の変容】

:では、続いてイスラーム世界はどのような文化を発展させ他の世界に伝わっていったのか、またどのように他の文化を受容したのかについてまとめてみたいと思います。まず、上にも書きましたがイスラーム文化は融合文明としての特徴を備えており、同じイスラーム文化でも地域によって異なる多様性を持っています。一方で、どの地域においても基本的には共通する要素もあります。本設問が要求する時期に発展したイスラーム文化として、多くの場合に見られる要素をいくつかピックアップすると以下のようなものになるかと思います。

 

アラビア語 / クルアーン / シャリーア / マドラサ / ウラマー / スーフィズム / 都市文明 / モスク / ワクフ / 市場(バーザール) / 隊商交易 / 小切手

 

外部世界とイスラームの関係について、教科書などで言及されるものをまとめたのが以下の表になります。こちらの表では、復習しやすいように文化に限らず、両者の交流が影響して生まれた制度や習俗、交易品なども含めて記載していますが、本設問で要求されているのは文化の発展と伝播になりますので、文化に関する部分のみ赤字で示しました。もっとも、設問のリード文では文化に限らず生活様式の多様化にも言及しています。そうした場合、制度の変化や習俗の変化、交易品を通しての生活の変化なども含まれると考えることができますので、そのようにとらえれば書くべき内容はもう少し幅広くなるかと思います。

画像12

① ビザンツ帝国(東欧世界)

:ビザンツ帝国とのかかわりの中では、イスラーム世界に流れ込んできたギリシア語文献をアラビア語に翻訳するための知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)がアッバース朝の7代カリフマームーンによってバグダードにつくられました。この中で、特にアリストテレス哲学を中心とするギリシア哲学の研究が進められていきます。また、外の世界から入ってきた学問は「外来の学問」として整備されていきます。

:一方で、イスラームの拡大はビザンツ帝国の国境防備の整備を促しました。7世紀のヘラクレイオス1世の頃から屯田兵制やテマ制(軍管区制)が導入され始めます。また、11世紀にセルジューク朝が迫った際にはこのテマ制はプロノイア制へと変化していくことになります。ただ、これらは基本的にはビザンツの国制の変化に関するものですので、本設問では記入の必要はありません。

 

② 西ヨーロッパ世界

:西ヨーロッパ世界の側からイスラームに対して与えた文化的影響というのは、教科書などではあまり示されません。実際、当時の西ヨーロッパは基本的には守勢に回っておりますし、カールの頃にようやくカロリング=ルネサンスと言い出し、大学にいたっては最古とされるボローニャ大学が11世紀に出てくるような状況ですので(ちなみに、知恵の館は9世紀前半、ファーティマ朝のアズハル学院は10世紀)、基本的には文化の伝播は「イスラーム世界→西ヨーロッパ世界」という構図で思い描いて差し支えないかと思います。

解答に必ず盛り込みたいのは12世紀ルネサンスと、その中でアラビア語文献がラテン語文献に翻訳されたという内容ですね。これと関連して、中心地としてのイベリア半島のトレド、シチリア島のパレルモや、具体例として医学(『医学典範』イブン=シーナー)、哲学(イブン=ルシュド)、スコラ学(『神学大全』、トマス=アクィナス)、大学の発展、ロジャー=ベーコン(数学の重要性、経験的な観察・実験)、地理学(イドリーシー『ルッジェーロの書』)、光学(イブン=ハイサム『光学の書』)などを示すことができるかと思います。挙げたもののうち、イブン=シーナーと医学典範、イブン=ルシュドとアリストテレス哲学、スコラ学の発展あたりが書ければ十分ではないでしょうか。また、表中では赤字(文化)としては入れていませんが、サトウキビ(砂糖)、オレンジ、ブドウなどの新たな産物の流入がもたらした生活の変化を文化の一部としてとらえるならそうした内容を書くことも可能かとは思います。

 

③ インド

:インドについては、イスラーム世界に伝えたものとしてゼロの概念があります。ここから代数学がフワーリズミーなどによって発展し、さらにそれがヨーロッパへと伝わっていきます。

:一方で、イスラーム世界からインドへの影響としてインド=イスラーム建築の成立、ウルドゥー語の形成などが挙げられます。インド=イスラーム建築としては奴隷王朝の祖、(クトゥブッディーン=)アイバクが築いたクトゥブ=ミナールというインド最古のミナレットが挙げられます。最近、模試などでも示されることが増えてきました。

画像13

Wikipedia「クトゥブ=ミナール」より)

 

ウルドゥー語については、デリー周辺の方言にペルシア語やアラビア語の要素を取り入れて形成された言語で、ガズナ朝が侵入した時期の1213世紀が起源とされています。

 

④ 中央アジア

:中央アジアについてはあまり文化的交流について書かれることはありませんが、イスラームがトルキスタンに侵入したことを受けてマムルークが導入されたことをイスラーム世界の新習俗=文化とみなせば、そのようにとらえられないこともないかと思います。

 

⑤ 中国

:イスラーム世界が中国から受容したものとしては、製紙法、羅針盤、火薬などがあります。製紙法についてはタラス河畔の戦い(751)などにも言及できますね。最終的にはこれらの技術はヨーロッパへと伝わっていきます。また、中国絵画の技法がモンゴルによるユーラシアの一体化の中でイル=ハン国に伝わると、ここからイスラーム世界におけるミニアチュール(細密画)が発展していきます。また、陶磁器は交易品ではありますが、美術工芸としてとらえた場合には文化と考えることも可能でしょう。本設問では直接の関係はないですが、中国の陶磁器の発展にイランから輸入されたコバルトが利用されたことなども思い浮かべると良いですね。中国というよりはモンゴルとの交流の中で生まれてくるものとしてラシード=ア[]ッディーンの『集史』がありますが、これは14世紀のものなので本設問では利用ることができません。

:イスラーム世界から中国に伝わったものとしてはイスラーム天文学に言及しておけば良いでしょう。元の郭守敬が授時暦を作ったことを示しておけば十分です。もっとも、元の時代には色目人と呼ばれる西方由来の人々がやってきてもおりました。色目人の中にはイラン系のムスリムなどもいたわけですが、こうした人が財務官僚などとして活躍していましたので、こうした人々から財務処理に関する知識・技術が伝わったということはあったと思います。また、『説世界史研究』(山川出版社、2017年版)にはこうした色目人のうち、イラン系ムスリム商人がオルトク((あつ)(だつ))と呼ばれる共同出資制度を作ってユーラシア全域で活動した記載などもあります。(あつ)(だつ)については旧版の『改訂版詳説世界史研究』(山川出版社、2008年版)にも記載がありますので、両方を引用してみたいと思います。

 

 …イラン系のムスリム商人は、オルトク(仲間の意)といわれる会社組織をつくり、共同出資による巨大な資本力によってユーラシア全域で活動した。内陸の商業ルートと南シナ海・インド洋の海上ルートは、彼らの活動によって結びつけられた。ムスリム商人の商業活動はモンゴルの軍事力を背景としておこなわれ、またその利益の一部は、出資者であるモンゴル諸王家の手にはいった。このようにして、色目人の経済活動は、モンゴル人の軍事活動とともに、モンゴル帝国にとって不可欠の役割をはたしていたのである。(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.210

 

当時イスラーム世界の東部では銀が不足しており、中国から銀を持ち出せば交換レートの差により大きな利益がえられた。そこで斡脱と呼ばれたムスリム商人は、中国の銀を集めるため、科差のひとつである包銀の施行を元朝に提案したといわれる。包銀は中国初の銀による納税で、科差のもう片方の糸料(絹糸で納税する)とともに華北でしか施行されなかったが、納税者である農民に銀の需要を高めた。さらに斡脱は、こうした納税のために銀を必要とする農民相手に高利貸しを営み、複利式年利10割の高利で銀を搾りとってイスラーム世界に流出させた。また、この利率だと、元利ともに年々2倍になり、羊が子羊をどんどん産んでいくようすに似ているとして、羊羔利、羊羔児息と呼ばれて中国人に恐れられた。(木下康彦ほか編『改訂版詳説世界史研究』山川出版社、2008年版、p.150

 

これらを経済活動として見れば本設問とは関係ないのですが、金融知識の伝播ととらえれば文化の伝達の一環ととらえられないこともありません。

 

⑥ アフリカ

:イスラーム世界がアフリカから受けいれたものとしては黒人奴隷(ザンジュ)がありますが、奴隷制度自体は特にアフリカから導入したというわけでもないので、文化の伝播としてとらえる必要はない気がします。一方、イスラーム世界がアフリカに与えた影響としては東アフリカ沿岸のスワヒリ語あたりを示せれば十分かと思います。

 

地域別には上記のような内容がまとまっていれば良いかと思いますが、これをイスラームの拡大と関連して文章化するのであれば、大きく①「イスラーム側が文化を受容する時期(外来の学問の成立期)」と②「イスラーム文化が拡大・伝播する時期」に分けて考えるとすっきりしそうです。

 

【解答例】

 アラビア半島から勢力を拡大したイスラームは、各地にモスクやマドラサ、バーザールを築き、クルアーンと現地文化を融合した都市文明を発展させた。タラス河畔の戦いで西伝した製紙法をもとにアッバース朝では多くの文献が編纂され、文化の普及に寄与した。ビザンツから流入したギリシア文献がバグダードの知恵の館でアラビア語訳されて哲学、幾何学、天文学などが導入され、インドのゼロの概念からフワーリズミーが代数学を大成するなど、外来の学問も発達した。10世紀には中心地がカイロやコルドバへと拡大し、各地に伝播した。十字軍・東方貿易・レコンキスタを通して、トレドシチリア島のパレルモはイブン=シーナーの『医学典範』、イブン=ルシュドのアリストテレス研究がラテン語訳される中心地となり、大学設立や『神学大全』に大成されるスコラ学、医学が発展する12世紀ルネサンスが起こった。ムスリム商人の活動は東アフリカでスワヒリ語の成立、中国でコバルトを用いた陶磁器の作製を促し、インドへの侵入はウルドゥー語成立やクトゥブ=ミナール建造につながった。さらにモンゴルとの接触は元の郭守敬による授時暦や、中国絵画技法を取り入れたミニアチュールの成立へとつながった。(510字) 

 

解答例の方では判断が微妙なものは除いて、教科書等で頻出のものだけ使って書いてみましたが、それでも十分に510字分を埋めることは可能かと思います。

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東大第3問(小問記述など)の解答または解答に関連する事項のみ一覧にしたものを作成してみました。1988年より以前になると第3問でも小論述が中心になってきてしまい、かえって全体の傾向を把握できないので、今回は1989年~2021年までを対象としています。東大過去問を思い切り昔までさかのぼって確認したい場合には、教学社から出ている『東大の世界史○か年』シリーズや駿台の『東大入試詳解○年世界史』シリーズなどが出ていますので、こちらを用いると良いでしょう。また、ネット上でも「世界史教室」さんなど、過去問や解説が見れるサイトがありますので、そちらからでも良いかと思います。

画像3

(東大第3問解答等一覧[1989-2021]

 

今回の一覧作成にあたっては、手元に『東大の世界史25か年[2]from1985to2009』(教学社)がありますのでそちらと、あとは手元にある最近の東大過去問を見ながら一通り解き直してみました。古い本は取っておくものだわ、かさばるけど。その上で、頻出のものや、高校生に対して聞く設問としてはいささかエグイと思われるものなどをピックアップして色分けしてみました。一覧表を作ってからの確認になるので、一部頻出であるにもかかわらず見逃しているものなどあるかもしれませんが、「あー、これはよぉ出るわw」と思えるものはだいたいチェックしてあるかと思います。(「新大陸産作物のジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ」なんてのはどんだけ好きやねんレベルで出てきます。)

 

全体を比較できるように、上の表は1989年~2021年の33年か年分すべてをまとめてありますが、もしかすると表示が小さくて見にくい部分もあるかと思いますので、以下には198820012002201120122021に細かく分けたものを示しておきます。

画像2

(東大第3問解答等一覧[1989-2001]

画像4
(東大第3問解答等一覧[2002-2011]

 画像5

(東大第3問解答等一覧[2012-2021]

 

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以前の分析から56年ぶりくらいに東大大論述の過去問分析を更新したいと思います。最初に申し上げておきますと、分析をしている私自身がそもそもこうした分析に重きをおいていないので、あまり期待しないでくださいw(受験生が「ヤマをはる」材料としては。逆に、教える立場の人間からするとこういった分析を定期的に行うことはとても重要です。)
 前回の分析でもお話ししましたが、東大の大論述はとてもオーソドックスでかつ非常に良く練られた問題です。また、時代・領域ともに広域にわたり、問題全体を貫く何かしらのテーマが設定されていることが多いです。出題の仕方はいわゆる「正当派」で、奇をてらうといったことはありません。そのため、「ヤマをはる」タイプの対策がたてにくく、正攻法で攻めることが一番の対策となります。ですから、東大の大論述問題分析は参考程度のものにしかなりません。分析に頼って「ヤマをはる」ようなことはせず、自身の学力の地力を上げる方が無難です。東大大論述の特徴については、大筋で前回書いた分析と変わるところはないので、前回のものをごらんください。

東大「世界史」大論述出題傾向①(20161987年:データ編)
東大「世界史」大論述出題傾向②(20161987年:設問内容と対策)

 

 とはいえ、ある程度の傾向を知っておくことは必要でしょう。「どこから何が出るか分からない」とはいえ、仮に「近代史から9、古代史から1」の分量が出題される傾向がある場合に、どの部分もまんべんなく、重箱の隅をつつくようにして学習して覚えるのが効率の悪いやり方であるのは確かですから。極論言っちゃえば『詳説世界史研究』を丸ごと一冊隅から隅まで覚えて消化できていれば、(知識面では)大概の問題には対処できるわけですが、受験生の利用できる時間には限りがありますし、他教科の勉強もありますので、よほどの世界史好きかめちゃくちゃ余裕のある人でもない限り、どの部分を重点的に学習するかや、何を優先するかといったことは意識して学習することになると思います。

 

 今回も、東大が過去に出題した大論述が、どの時代をテーマとしていたのかを示す表を作成しました。設問が「〇〇から△△まで」と対象を明示している場合にはその時代を示してありますが、そうした明示がない場合には出題の意図に照らして妥当だと思われる時代を示しておきました。また、データとして1987年~2021年の35年分、②2002年~2021年の20年分、③2012年~2022年の10年分3つに分け、時代ごとの出題傾向の変遷がつかめるようにしてみました。

時代区分_1987_2021 - コピー

(東大大論述設問が対象とした時代区分の分析:19872021[35年分]

1989年が2色なのは、2題に分かれていたため


時代区分_2002_2021 - コピー
(東大大論述設問が対象とした時代区分の分析:20022021[20年分]


時代区分_2012_2022 - コピー
(東大大論述設問が対象とした時代区分の分析:20122021[10年分]

 

 こちらをご覧いただくと、東大の出題対象が近現代史、中でも18世紀~20世紀に集中しているのがお分かりになるかと思います。また、その傾向はここ10年から20年の方が全体よりも顕著で、古代~中世の出題は回数としてはかなり限られていることがわかります。ただし、直近5年では2017年、2021年に古代~中世が対象に出題されていますので、その点については注意が必要かと思います。また、第二問、第三問で点数を取ることは、大論述で点数を取ること以上に東大世界史では重要で、これらの問題では古代・中世に関わらず非常に広い範囲から出題されていますので、「近現代史をやっておけば何とかなる」という考えは捨てたほうがいいという認識に変わりはありません。

 

 続いて、出題の対象となっているテーマについて分析してみます。下の表は、各年の大問1の大論述の内容を考慮して、「広域(時代・領域)」、「政治」、「経済・交易」、「文化」、「宗教」、「戦争」、「外交」、「民族」など、キーになるテーマごとにどの程度その要素が含まれているかを分析したものです。ただし、ある事柄について「これは政治」、「これは経済」、「これは宗教」などと分けるのは不可能に近いです。たとえば、「一条鞭法」は税制ですが、とらえようによっては政治とも経済とも取れますし、仮に一条鞭法を扱う問題が出題されたときに、この税制が導入される背景となった中国における銀経済の成立や海外からの大量の銀の流入などについても言及しなければならないとすれば、「社会」や「交易」なども含むことになります。ですから、この判断は相対的なものですし、私の主観によるものです。実際、以前に作成した同様の表と比べた場合に全く同じ結果にはなっていません。ただ、ある程度どういう基準で分けているのかを示すために、各分野がどういった内容を想定しているのかについては簡単な一覧を作りました。また、全体の傾向についても以前の分析結果と矛盾するとか違和感があるものではありませんでした。

分野分け基準 - コピー

(分野分けの基準)

以上のような基準で、該当の設問を解く上で必要・関連性が高いと思われる事柄を重要度順に「◎→△→無印」で分け、◎はピンク、○は青によって色分けしてあります。「広域(時代)」は10世紀以上にわたる内容が対象の場合には◎、5世紀~9世紀程度のものには○、2世紀~4世紀程度のものには△、それ以外を無印としました。「広域(領域)」は複数地域間の関係が深く解答作成にかかわる場合や関係が複雑な場合に◎、そのような重要性・複雑性はないものの複数地域にまたがっているものは○、2地域間比較については△としました。また、「比較」のうち「★」のついているものは比較せよという指示が明示されていて、それが設問の主題となっているものです。「字数」は大論述のみの字数であって、東大「世界史」全体の総字数ではありません。また、項目ごとに◎=5点、○=2点、△=1点としてその総点を計算してありますので、だいたいどれくらいの割合でその項目が問題に盛り込まれているかがわかるようにしています。

テーマ1987-2021 - コピー

(テーマ別:1987-2021[35年分]


テーマ2002_2021 - コピー

(テーマ別:2002-2021[20年分]


テーマ2012-2022 - コピー
(テーマ別:2002-2021[20年分]

この表からは、以前書いた30年分の分析と大きく異なる点はありませんが、以下のことが読み取れました。

 

・ほとんどの設問が広域における各地域の関連性や交流を問う設問になっている。

35年間全体を通して、政治史が圧倒的に多い。

・全体に比して、直近20年の方が「社会」や「経済・交易」の要素が増してきている。

・字数についてはここ9年間600字(ただし、2019年のみ660字)

 

 以上が、過去35年の東大入試におけるデータ分析です。上に示したデータから何を読み取るか、というのは人それぞれだと思いますが、私の方からこうした点に注意したほうがいい、ということをあげるのであれば、5年前の分析と大きな違いはありませんが、以下の内容になります。

 

① 18世紀以降の近現代史(可能であれば16世紀以降の近世、近代、現代史)はもれのないように学習しておくべきです(「古代・中世が必要ない」ということではなく、近現代を重点的にということ)。

 

② 政治・経済史に対する深い理解が東大世界史攻略の基本です。

 

③ どんなテーマでも、2~3世紀程度のスパンでの「タテの流れ」は把握しておくべきです。背景・展開・影響などを中心に、短期の事柄に対する理解で満足せずに大きな流れをつかむことを常に心がけると良いと思います。教科書や参考書などの各章の冒頭などは全体の流れを把握するには役立つかもしれません。また、テーマごとに自分なりのまとめをする作業をしてみましょう。自分でするのが手間であれば、本HPでもテーマ史、地域史などをまとめていく予定でいるので参考にしてください。

 

④ 同時代の各地域の交流、関連事項を常に意識して、ヨコのつながりに注意を払うことが重要です。

 

また、こちらの表から直接は読み取れませんが、最近特に注意すべきこととして「突然の出題形式、傾向の変更に気を付けること」をあげておきます。2019年の問題では、一時的に大論述が660字となりました。また、2020年の問題では、東大には珍しい史料を扱い、それを解答に盛り込ませるスタイルの出題がなされました。2021年にはそうした史料を扱う問題は出ませんでしたが、近年の大学入学共通テストにおける改革などもふまえると、次にいつ同様の問題が出題されるか分かりません。対応できる学力を身につけることはもちろん大切ですが、それ以上にこうした突然の出題形式の変更に戸惑わないように注意する必要があります。(2019年、2020年と、東大にしては珍しい変更が続けて見られたので気をつけておいた方が良いかもしれません。)

 その他、心構えとして持っておくべきことなどについても5年前の分析と大きな違いはありません。詳しくは5年前の東大問題分析をご覧ください。5年分のデータは追加しましたが、東大大論述の出題傾向に大きな変更はなく、ただし近年出題にやや「揺れ」がみられるので、その点にのみ追加で注意が必要、というのが結論になります。

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2003年の東大大論述は、運輸・通信手段の発達がどのように世界各地の植民地化やそれに抵抗する民族運動に影響を与えたかという、いかにも東大らしい設問でした。広域、ダイナミズム、民族運動、帝国主義と東大が好きそうなテーマが盛りだくさんであるだけでなく、2003年当時というのはインターネットの普及とグローバル化に伴う情報革命が進展していた最中であったこともあり、現代の問題を受験生に考えさせる意味でも非常に意欲的な設問であったかと思います。この手の設問を高校世界史の知識の範囲で作ろうとすると、時としてバランスの悪い設問や、焦点がぼやけた設問になりがちなのですが、本設問についてはそうしたこともなく、十分に当時の受験生の知識で取り組める内容となっていますし、指定語句も適切で受験生がストーリーを組み立てやすいものになっている良問かと思います。また、この前の年(2002年)の問題が同時代の中国人移民についての設問だったので、当時の東大受験生にとっては比較的イメージしやすい問題でもあったかと思います。ですが、要求されているハードルはかなり高いので、よくできる受験生と全く書けない受験生の差が明確に出るタイプの問題ではないでしょうか。東大では、現代的な意味での運輸・通信を扱った設問は大論述ではその後出題されていませんが、情報の伝達や交通といったテーマは時折出てくるものですので、確認しておきましょう。

 

【解答手順1:設問内容確認】

・運輸・通信手段の発展が,アジア・アフリカの植民地化を促したことについて論述せよ

・運輸・通信手段の発展が,各地の民族意識を高めたことについて論述せよ

・指定語句

:スエズ運河 / 汽 船 / バグダード鉄道 / モールス信号 / マルコ一ニ / 義和団 / 日露戦争 / イラン立憲革命 / ガンディー

17行(510字)以内

 

:設問の主要な要求が二つあることには注意が必要です。運輸・通信が発達したことによってどのように植民地化が進んだのかに加えて、運輸・通信が発達したことによってどのように各地で民族意識が高まったのかを示す必要がありますので、両者をしっかりと区別して整理する必要があるでしょう。イメージがしにくい場合には具体例をいくつか用意するといいですね。前者の例としては鉄道の敷設が植民地支配拡大や周辺の経済支配につながったことをイメージすればよいと思います。イギリスによるインドの鉄道敷設、ドイツのバグダード鉄道、ロシアや日本の満州地域における鉄道経営(東清鉄道、南満州鉄道)が具体例ですね。後者の例としては、日露戦争の勝利のニュースがアジア各地の民族運動に影響を与えた例、たとえばイラン立憲革命やドンズー(東遊)運動などを想定すると分かりやすいかと思います。

 また、主要な要求を確認した上で、リード文をヒントに、いつぐらいの時期について、どのようなストーリーで書けばよいのか、全体のフレームワークを思い描いておくと良いと思います。主なヒントは以下の通りです。

 

(ヒント1)

19世紀半ばから20世紀初頭にかけて,有線・無線の電信,電話,写真機,映画などの実用化がもたらされ,視聴覚メディアの革命も起こった

→時期は19世紀半ばから20世紀初頭

→視聴覚メディアの革命とは?=時期的にラジオ・新聞までか

(映像の送受信は19世紀末に実験成功、1925には英でテレビの実用的発明)

 

(ヒント2)

:これらの技術革新は,欧米諸国がアジア・アフリカに侵略の手を伸ばしていく背景としても注目される。例えば,ロイター通信社は,世界の情報をイギリスに集め,大英帝国の海外発展を支えることになった

 

(ヒント3)

:世界中で共有される情報や,交通手段の発展によって加速された人の移動は,各地の民族意識を刺激する要因ともなった。

 

【解答手順2:3つのテーマに合わせて指定語句を整理】

:お定まりの教科書的な流れがない部分なので、設問の要求する3つのテーマに沿ってどのような事柄があったのかを分析していきます。3つのテーマとは以下の通りです。また、下線が引いてあるのは指定語句になります。(もっとも、この年の設問の指示ではなぜか「指定語句に下線を付せ」という例年の指示がつけられておりません。指示がない場合にはその指示に従い、自己判断で下線を付けないようにするべきです。[指示通りにした場合にペナルティが課せられることはありませんが、指示外のことをした場合にはペナルティの対象になる可能性があるため]

 

① 運輸・通信手段の発展

② ①によってどのようにアジア・アフリカの植民地化が促進されたか

   (欧米諸国の帝国主義的拡大)

③ ①によってどのように各地の民族運動が高揚したか

 

<運輸手段の発展>

Ⓐ 鉄道

:鉄道が実用化されるのはスティーブンソンによってです。ストックトン ~ ダーリントン間の実験走行(1825)を経て、当時の綿工業の中心地マンチェスターと、かつては奴隷貿易で栄え、産業革命本格化後はイギリス綿製品の重要な輸出港となったリヴァプールを結んだ営業運転(1830)が開始されて以降、イギリスには急速に鉄道網が整備されていきます。

また、鉄道は各地の植民地支配にとっても極めて重要でした。官僚や軍隊の迅速な移動、周辺地域の経済的支配、鉄道会社自体の経営権など、鉄道敷設によって植民地支配が安定し、経済が活性化したからです。鉄道が敷かれるということは複合的な産業発展が進むことを意味していました。輸送量の増大は、より多くの需要に応える能力を生み、製造業は生産を拡大して発展します。また、蒸気機関車の燃料となる石炭需要が高まることは、炭鉱開発の進展をもたらします。炭鉱の開発は重工業の発展へとつながり、物資や製品を輸出入するための港湾の重要性が増大するとともに、造船業も発達しました。「鉄道は植民地支配の道具となった」と述べることは簡単ですが、できれば上記のような、より具体的な例をいくらかは示しておきたいところです。

画像1

(年次ごとの大陸別鉄道延長距離[単位:1000キロメートル]Wikipediaより)

 

【植民地支配と鉄道】

:植民地支配や帝国主義的拡大、各地の民族運動に鉄道が重要な役割を果たした例としては以下のようなものが挙げられます。多くは教科書レベルの知識で十分に導き出せるものです。

 

[]インドの鉄道(最初は1853年、ボンベイの近郊)

[]バグダード鉄道と3B政策

(アブデュル=ハミト2世から敷設権を得る)

[]シベリア鉄道と極東進出

(露仏同盟によるフランス資本の導入、当時の財務大臣はウィッテ)

・中国各地の鉄道(東清鉄道など)

→義和団による鉄道・電信の破壊と「扶清滅洋」

 :義和団は明確に欧州列強を敵と認識し、鉄道や電信はその攻撃対象となります。また、義和団は「扶清滅洋」を唱えて清朝を支え、欧州列強に対抗する姿勢を鮮明にします。

 

→利権回収運動と鉄道国有令、辛亥革命

:四川地方を中心に中国の民族資本家によって展開されていた利権回収運動(資金を出し合ってヨーロッパ諸国に奪われた利権を買い戻す運動)が高揚していましたが、清は資金調達のために鉄道国有令を発し、民族資本家たちが苦労して「回収」した鉄道利権を没収することを宣言しました。このことは人々の強い反発を買い、結果的には辛亥革命へとつながっていきます。

[]南満州鉄道と満州

 

(植民地以外の鉄道)

・大陸横断鉄道

・リストと鉄道、ドイツ関税同盟、1835には最初の鉄道、モルトケと軍事

 

Ⓑ 汽船

:フルトンが発明(1807)した汽船は、それまでの帆船に代わる輸送手段として急速に普及します。軍事面では、海戦における帆船の役割はナヴァリノの海戦(1827)を最後に終わります。また、としての石炭の重要性と補給地の必要性が増していきます。

 

【汽船と航路開拓、列強資本の進出】

スエズ運河

:建設は1869(レセップス)、株買収は1875(イギリス、ディズレーリ)

 →ウラービーの反乱(18811882)鎮圧と事実上のエジプト保護国化

 →3C政策の展開

 

・パナマ運河

1903年、アメリカによるパナマ独立支援、運河地域の支配権獲得

(パナマ運河条約でパナマの主権排除)

:セオドア=ローズヴェルトの棍棒外交、1914年完成

→従来は門戸開放宣言でとどまっていたアメリカのアジア進出が進展

 

  鉄道・汽船を利用する際のインフラ整備などの近代化に際して、イギリスをはじめとする諸国の資本導入が行われ、それをきっかけに経済支配がはじまることがあった点にも注意するべきでしょう。

(例)トルコやエジプト

※ 製品市場化、原料供給地化という植民地支配が各地で加速していきます。

※ 汽船の発達は人の移動を容易にし、移民の増加、留学や海外渡航の増加による民族運動への影響、メッカ巡礼増加によるイスラームの連帯感の醸成(パン=イスラーム主義)などにもつながりました。

 (例)ガンディー、中国同盟会など

 

Ⓒ 自動車

:大量生産方式の導入により、アメリカ社会を一変させます。(1920年代~、フォードの大量生産方式)ですが、本設問が想定している19世紀半ばから20世紀初頭という時期を考えると、自動車については考慮しなくて良いと思われます。大衆にとって自動車が生活必需品となっていくいわゆるモータリゼーションが起こるのは最も早いアメリカ合衆国でも1920年代に入ってからのことで、ヨーロッパはそれよりも遅れてのことです。

 

<通信手段の発展>

ⓐ モールス信号1837に電信が発明された翌年に考案される)

:モールスが電信(有線電信)を発明し、40年代に実用化されると、1851年にはドーヴァー海峡に海底通信ケーブルが設置され、世界各地に通信網が築かれていきます。ロンドン~ボンベイ間には1870年に開通し、1880年代の後半には世界の通信網はほぼ完成していきます。

 

ⓑ 電話機1876

・ベルによる発明

 

ⓒ 無線電信1895

マルコーニによる発明

 

ⓓ 新聞

1851年にロイター通信社が設立され、情報の伝達が容易に行われるようになると、植民地支配に利用される一方で民族運動の活発化にもつながっていきます。主な例は以下の通り。

義和団:山東省の通信・鉄道設備破壊、「扶清滅洋」

日露戦争勝利の報道によるアジアの民族運動

(例)

 ‐中国同盟会の結成(1905@東京)

 ‐ファン=ボイ=チャウの東遊運動(19051907

 ‐東京義塾の設立(1907:ファン=チュー=チンによる)

‐インド国民会議派カルカッタ大会(1906

  :ティラクの指導

:スワラージ、スワデーシ、ボイコット(英貨排斥)、民族教育

‐青年トルコ革命(1908

 ‐イラン立憲革命1905-11

     

  サレカット=イスラームはそもそもの起源の質が違うので不要

 

・パン=イスラーム主義の拡大

:情報伝達と汽船によるメッカ巡礼がイスラームの連帯を導く

・アフガーニー

‐イスラーム世界の団結による西欧列強への対抗を説く

 ‐バーブ教徒の反乱を体験 

 ‐ウラービー運動に影響

 ‐タバコ=ボイコットを指導

 ‐オスマン=トルコのアブデュル=ハミト2世による専制に利用される

 (アフガーニー自身は立憲君主制の優位を確信)

 ‐弟子にムハンマド=アブドゥフ

 ‐現代のイスラーム原理主義へと継承される

 

ⓔ 映画などの映像メディア

:トーキー形式の映画が本格化するのは1920年代以降なので、本設問では不要です。ただし、メディアがプロパガンダとして用いられたのは世界史というよりは一般によく知られた話ではあるので、いくつかの例を挙げてみたいと思います。もし以下に挙げたもののうち高校世界史の範囲で視点として持っておいた方がいいものがあるとすればガンディーについてでしょうか。

(例)

・アメリカ『国民の創生』

1915年に公開されたサイレント映画です。南北戦争後のアメリカの名家で起こる様々な事件を白人視点で描いた映画で、KKKを擁護する内容であるととらえられたため、多くの批判を受けます。多分に人種差別的な描写がされた内容でしたが、興行的には大成功をおさめました。

・ソ連のプロパガンダ映画

・ドイツのプロパガンダ

:プロパガンダの効果に注目するヒトラーは宣伝相にゲッベルスを起用し、1934年のナチス党大会の様子を記録した『意思の勝利』やベルリンオリンピックの記録映画である『オリンピア』など、数多くの記録映画が撮影・公開されました。

画像2

Wikipedia「意志の勝利」より)

ガンディーの映像メディアへの登場と利用

:サティヤー=グラハを展開したガンディーの様子は多くの写真・映像として残されています。また、ガンディー自身がインタビューに答えている様子も残されています(ガンディーの最初のインタビューは1931年にFox Movietone Newsによって行われました)。ガンディーが粗末な服を着て何も持たなかったことはインドの貧しい民衆に共感を呼びましたし、糸車で糸をつむぐ行為は、インドの伝統産業の尊重や、イギリス産製品の不使用とイギリスの経済支配への対抗を示す象徴的な行為でした(スワラージ[国産品愛用]、ボイコット[英貨排斥])。また、塩の行進であえて大々的に違法行為にのぞみ逮捕される行為は明白に大衆向けのパフォーマンスでした。ガンディーは、自身の行為が映像に記録され、多くの人に見られることが生み出す効果を理解し、利用していたと考えることができます。


(ガンディーのインタビュー)

https://www.youtube.com/watch?v=Zt_MmVBUv84

 

【解答例(オリジナル)】

スティーブンソンが実用化した鉄道は官僚・軍隊の移動や沿線の経済支配に利用され、英のインド支配や独のバグダード鉄道敷設による3B政策推進、露の東清鉄道敷設と南下政策など帝国主義列強進出の基盤となった。フルトンが発明した汽船は世界の一体化を促進し、植民地は製品市場や原料供給地とされ、スエズ運河やパナマ運河の開通は、ウラービーの乱を鎮圧した英のエジプト保護国化や米のパナマ支配と密接に関わっていた。留学生や移民の移動が容易となり、ガンディーのサティヤー=グラハや孫文による辛亥革命など、海外渡航者の活動は各地の民族運動に影響を与えた。メッカ巡礼が容易になると、アフガーニーのパン=イスラーム主義拡大にも影響した。モールス信号を用いた電信と海底ケーブルの設置は、ロイター通信社設立や新聞の発達をもたらした。ベルが電話、マルコーニが無線電信を開発すると情報網はさらに発展したが、運輸・通信の発展は植民地支配の象徴とも映り、義和団が「扶清滅洋」を掲げて鉄道・電信を破壊するなど反発も呼んだ。また、日露戦争における日本勝利の報は、イラン立憲革命や青年トルコ革命、ファン=ボイ=チャウの東遊運動などアジア各地の民族運動に影響を与えた。(510字:本年の設問では下線を付す指示は出されていないので、指定語句については赤字で示してあります。)

 

:事例は非常に多くのものがあるので、材料を用意することにはそれほど困らないと思います。その分、単なる出来事や単語の羅列ではなく、どれだけ個々の事例が持つ意味を理解し、整理できるかが、まとまった解答を作るために必要なことになると思います。

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