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カテゴリ: 東京大学対策

2013年東大の大論述は歴史上行われてきた開発と人の移動がもたらす軋轢について問う設問でした。東大では、交易や人の移動についてはたびたび出題をされています。移民というテーマをダイレクトに扱った設問としては2002年の「19世紀から20世紀はじめの中国からの移民の背景とその影響」がありますが、それ以外にも人やモノ、カネ、情報などの移動が様々な形で出題されています。移民問題が近年様々な分野でクローズアップされていることは明らかで、当然東大も歴史学会もこれを意識しています。その背景には、冷戦の終結とグローバル化の進展に伴って、特に高所得国への移民が急増していることが挙げられます。1990年に7500万人だった高所得国への移民数は、2017年には16500万人にまで急増しました。

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(児玉由佳編『アフリカにおける女性の国際労働移動』調査研究報告書、アジア経済研究所、2018年、p.3より引用[https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/2017/pdf/2017_2_20_003_intro.pdf]閲覧日、2022年1月2日

 また、それまで大量の移民とは無縁であった日本という国が、少子高齢化やグローバル化といった変化の中で、移民問題と腰をすえて向き合わなければならなくなったことも、移民問題が関心を集めている原因の一つに挙げられるでしょう。いずれにしても、こうした中で「移民問題」、「人の移動」といったテーマは今後も有力なテーマの一つになると思います。

 さて、2013年の設問ではこれに加えて、交易や人的移動と関連する「開発」という視点が盛り込まれました。こうした視点を盛り込んだ背景には、近年歴史学の分野でも「環境史」というテーマが次第に注目を集めつつあるということが言えるのではないかと思います。また、近年ではもう一般にも良く知られるようになりましたが、SDGs(持続可能な開発目標)といったものが意識されるようになってきたことも一つの要因かと思います。SDGsとは、ミレニアム開発目標 (MDGs)が2015年に終了することに伴って、20159月の国連総会で採択されたもので、17の大きな目標と、その他多くの達成基準や指標の総称です。学校教育の場でも言及されることが多くなりました。(もっとも、あと8年しかないので知られていないと困るわけですが。)

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SDGsの一覧[Wikipediaより]

 今後何年かして、教科書の内容に「環境史」的視点が多く盛り込まれ、そうした視点からの記述が充実するようになれば、もしかしたらそうしたテーマの出題が出されるようになることもあるかもしれません。ですが、まだまだそうしたテーマで大論述を出題するほどには教科書の記述は充実していませんし、本設問の「開発」も、これまでの交易史、経済史の延長線上で十分答えうるものですから、特別目新しいといった感じは受けませんでした。内容的にはいかにも東大らしい設問で、当日この設問を見て「びっくりしてしまった」という受験生はそう多くはなかったのではないでしょうか。手持ちの知識で十分対応可能な設問だったのではないかと思いますが、その分ミスや取りこぼしには注意しなければならない設問だったかと思います。また、設問の文章がやや分かりづらく、すっきりしない部分があり、表現上の問題があったように思います。(たとえば、「19世紀まで」という表現がありますが、これは19世紀にさしかかるまでなのか、19世紀を含むのか判然としません。「点Aから点Bまで」といった時に点Bが●(点Bを含む)なのか、〇(点Bは含まない)なのかを考えた場合、通常は点Bを含むと考えるわけですが、「19世紀」というのは一般には点ではなく、相応の期間を含むものとしてイメージされますので、やはり19世紀の「どこまで」なのかは明示するべきではないかと思います。)

 

【1、設問確認】

・時期‐17世紀~19世紀まで

:「まで」というのは上記の通り非常に厄介な日本語ですが、指定語句に1882年移民法があるので、16011900年までで良いと思います。

・メインの要求は以下の①~③

①同時期に地球上で広く展開された開発の内容について論ぜよ。

②同時期の人の移動について論ぜよ。

③同時期の人の移動にともなう軋轢について論ぜよ。

・注意点は以下の通り

 ⓐカリブ海と北アメリカ両地域への非白人系の移動を対象とせよ

ⓑ奴隷制廃止前後の差異に留意せよ

:「留意せよ」とあると、受験生は「気にしていればいいんだろ」と思いがちですが、そうではありません。留意しているかどうかを採点者に伝えるにはこの内容を書かなければならないのであって、差異に留意せよとあるからには、奴隷制廃止前後の差異を示すことは必須項目となります。「言わなくてもわかってくれよ」というのは、もはや一般社会においても通用しなくなってきていますw 厄介な世の中ですねw

18行(540字)以内

 

【2、対象を絞り込む】

:本設問が対象としている人の移動は、「カリブ海と北アメリカ両地域への非白人系の移動」とかなり限定されていますので、発想としては「①同時期、同地域への非白人移動にどのようなものがあったか」→「②それらの移動は世界各地のどのような開発と密接にかかわっていたか」→「③それらの移動はどのような軋轢を生みだしたか」を確認する手順になるかと思います。指定語句を整理してから全体像を導き出すという手順でも良いのですが、本設問のように時期・対象・地域が限定的である場合には先に全体像の見極めを行うやり方もアリかと思います。

 

① 1601年~1900年にかけてのカリブ海、北アメリカ地域への非白人の移動

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19世紀は「移民の世紀」として知られます。その背景には産業革命による人口増加、発展の不均衡、交通機関の発達などがありました。そのため、白人系移民を含めるとその内容・背景ともに多様で整理するのに苦労するのですが、本設問では非白人系に対象が限られているため、整理は非常に簡単で上の表のようになります。上の表を見るとお分かりになる通り、18世紀まではカリブ海・北アメリカにやってくる非白人系の移動人口は黒人奴隷が大半です。(インディオは先住民かつ通常は大規模な移動を伴いませんので対象とはなりません。)対して、19世紀になるとこれがアジア系移民に変化します。この背景には同地域における奴隷解放があるわけですが、この変化が設問の要求する「差異」であることは明らかです。ただし、この「奴隷解放」も、ハイチや英領植民地、合衆国ではそれぞれ事情が異なりますので、その差が分かるように示す必要があるかと思います。

 

② ①で示された人の移動と世界各地の「開発」

:これは、言い換えれば「黒人奴隷は世界のどの開発で使われ、どの地域の開発に影響を及ぼしたのか」ということと「奴隷解放後に増加したアジア系移民は世界のどの開発で使われ、どの地域の開発に影響を及ぼしたのか」ということですので、知識を整理していけばOKです。その際、カリブ海と北アメリカでは使われ方や移動に差がありますので、その差異を丁寧に整理していくと良いかと思います。簡単にまとめたものが以下の表になります。

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基本的には、「開発」というのは奴隷制解放以前については何らかのプランテーション開発を指します。ただ、何を栽培していたのかについては地域、時期によって差がありますので、それらを丁寧に区別して示してあげる必要があるでしょう。一方、奴隷解放以降については北アメリカにおける第二次産業革命の本格化が挙げられます。もっとも、南北戦争以前からたとえばカリフォルニアのゴールドラッシュなどは中国系移民などをひきつける効果をもたらしましたので、そうした個別の具体例は使って差し支えないでしょう。

 

③ ①で示された人の移動にともなう軋轢

:黒人奴隷の流入については、基本的には奴隷解放運動と結びつければOKです。ただし、ハイチ、英領植民地、合衆国ではそれぞれ事情が異なりますので、注意が必要です。

ハイチ…トゥサン=ルヴェルチュールの活動などで1804年に独立

・英領植民地…1807年に奴隷貿易、1833年に奴隷制が廃止(cf.ウィルバーフォース)

・合衆国…南北戦争(1861-1865)と奴隷解放宣言(1863)、憲法修正第13条~15

 

:アジア系移民の流入については、特に合衆国について、指定語句にもある白人下層労働者との競合と排斥について示せばよいかと思います。中国系移民が禁止された1882年移民法もこの文脈で使うことになりますが、その結果、中国系に変わって日系移民が増加したことには触れておきましょう。

 

【3、指定語句の最終確認】

:1、2の方でまとめつつで指定語句の使いどころはだいたい見えてきますが、注意すべき語句がないかを再確認しておきましょう。「アメリカ移民法改正(1882)、産業革命、ハイチ独立、年季労働者(クーリー)、白人下層労働者」については概ね上記で確認済みです。

 

・リヴァプール、大西洋三角貿易

:黒人奴隷の流入のところで使うことになります。イギリスによるアシエントの獲得(1713、ユトレヒト条約)、リヴァプールの繁栄と資本蓄積による産業革命の発生などについても言及しておくとよいでしょう。特に、産業革命についてはその後の合衆国の綿花プランテーションの発達や、交通革命による移民の増加などにもつなげることができます。

 

・奴隷州

:南北戦争にいたるまでの合衆国における奴隷制をめぐる議論と南北対立について示す必要があります。

 

これまで述べたことを整理すれば解答の大筋は書けてしまうので、それほど難しい設問ではありませんが、先に述べたように、奴隷制廃止以前と以後の差異や、地域・時期による違いを丁寧に描くように注意しましょう。

 

【解答例】

タバコや砂糖の需要が急増すると、北米植民地でタバコの、ジャマイカやサン=ドマング、キューバでサトウキビのプランテーション開発が進み、労働力として黒人奴隷が輸入された。ユトレヒト条約で英がアシエントを獲得した18世紀初めごろから大西洋三角貿易は本格化し、リヴァプールが繁栄して資本が蓄積され、産業革命につながった。産業革命の本格化と綿花需要の高まりは米南部で綿花プランテーションを発達させた。米独立や仏革命後に自由・平等の理念が広まるとハイチ独立を皮切りにラテンアメリカ諸国が独立して多くの国で奴隷制が廃止された。英でもウィルバーフォースの活動で奴隷制反対運動が活発化し、英植民地で奴隷制が廃止された。これらの地域ではインド・中国系移民が代替労働力としてプランテーション経営を支えた。一方、米では北部自由州と南部奴隷州の間で南北戦争が発生し、奴隷解放宣言を発したリンカン率いる北部の勝利で奴隷制が廃止されたが、黒人の多くはシェア=クロッパーとして南部農園にとどまった。カリフォルニアの金鉱開発や大陸横断鉄道建設に従事した中国系の年季労働者(クーリー)は第二次産業革命を支えたが、白人下層労働者と対立したため、アメリカ移民法改正(1882)で中国系移民は禁止され、かわって日系移民が増加した。(540字)

 

こんなところでしょうか。設問は、人の移動とそれにかかわる開発、軋轢を求めるものですから、それ以外の影響や意義については最小限で良いかと思います。今回解答を作成するにあたって気を遣ったのは、カリブ海地域と北米における代替労働力としての移民の用いられ方ですね。カリブ海地域においては、インド系・中国系の移民は奴隷制廃止後しばらくの間は以前としてプランテーションを支える安価な労働力として用いられたのに対し、合衆国における移民はむしろ工業化を支える労働力として用いられました。その原因は南部農村地帯で解放されたはずの黒人たちが経済的理由から依然としてシェア=クロッパーとして搾取・酷使されたためです。シェア=クロッパーは分益小作人とも訳されますが、プランター (大農場主)から土地,小屋,燃料,道具,家畜,飼料,種子,肥料などの生産手段を高利で前借りし、収穫物をプランターと均分した小作人のことで、解放黒人は教育も受けず、元手となる資本も持っていなかったことから、解放後も結局は債務奴隷的な立場に陥ってしまいました。そのため、南部農村地帯においては奴隷の代替労働力としての移民はそれほど必要とされず(皆無ではありませんが)、多くが北部や西部で開発の進む工業地帯の労働力として使用されていきます。解答作成にあたっては、奴隷制廃止以前、廃止後の差異だけでなく、こうした北米とカリブ海の差異についてもできれば丁寧に示したいところです。

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2010年の東大大論述は、中世末から現代にかけてのオランダ人(とオランダ系の人々)が果たした世界史に対する役割を問う問題でした。一つの民族や国について長期にわたってその歴史を概観させる出題としては、たとえば2001年のエジプト5000年史がありますが、2010年の設問でも、単なる「オランダ史」を書けということではなく、「世界史」という枠組みの中で、他の民族や国家とどのような関係、つながりを持ってきたのかについて述べなくてはならないという点については共通しています。そのあたりが、2001年のエジプト史を問う設問では丁寧に示されていたのに対し、2010年のオランダ史の方では「役割」という語に集約されているので、解答を作成する受験生は注意が必要だったかと思います。

 

【1、設問確認】

・オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について論述せよ

・中世末から現代(国家をこえた統合の進みつつある)までの展望において

20行以内(600字以内)

・指定語句

:グロティウス / コーヒー / 太平洋戦争/ 長崎 / ニューヨーク / ハプスブルク家

  マーストリヒト条約 / 南アフリカ戦争

 

:中世末から現代までとなっていますが、それでは中世末とはいつごろかということになります。オランダの成立はリード文にもあるように16世紀末ですが、当時はすでにルネサンスを経て宗教改革が信仰している時期であり、中世末とは言えません。一般に、ヨーロッパ史における中世というのは、西ローマ帝国の滅亡の頃(5世紀ごろ)からルネサンスの本格化するまで、遅くとも大航海時代や宗教改革が始まる前と考えるのが妥当で、これらが始まってしまうとそれは中世というよりは近世と呼ばれることが多いです。これは、中世ヨーロッパの世界観やシステムが、これらの出来事(ルネサンス・大航海時代・宗教改革)によって大きく変わるからで、だからこそ教科書や参考書は近世の始まりの部分にこれらの出来事を配置しているわけです。(もっとも、こうした時代区分は地域によっても変わります。)

 さて、そうだとすれば、オランダにとっての中世末とはいつごろかということですが、一般的にヨーロッパの中世後期が百年戦争の展開された15世紀ごろまでということを考えても、エラスムスがルネサンスの人文主義とルターの宗教改革を結ぶ人物であることを考えてエラスムス以前だとしても、1315世紀ごろと考えるのが妥当ではないでしょうか。だとすると、本設問はオランダの役割について述べよ、と言いつつも毛織物産業の中心地として発展した中世のフランドル地方が発展する頃からを想定していると考えて問題ないと思います。
 フランドルは英語では「フランダース」となり、かの有名な『フランダースの犬』の舞台ともなった土地ですね。パ、パトラッシュゥ(涙)

また、フランドル地方は正確にはネーデルラント南部にあたり、現在のオランダよりはむしろベルギーを中心とする地方になりますが、本設問の対象として含んで問題はありません。地理的には、フランドル地方はオランダ南部やフランス北部を含む地方になります。(下の地図の黄色い〇で囲んだあたりが概ねフランドル地方です。)

フランドル地方 - コピー

本設問の対象は「オランダ、およびオランダ系の人びと」とされており、ベルギー・オランダ両国と文化的・言語的にかかわりが深く密接に結びついたフランドル地方を対象としても全く問題はありません。

 また、後述しますが、本設問ではオランダの人びとの世界史における「役割」について書けと言っておりますので、単にオランダの政治経済史を述べるだけでは不十分なので、この点についても注意するべきかと思います。

 

【2、オランダ史を概観しつつ、指定語句を配置する】

:設問の要求する時期は13世紀頃~現代(出題されたのが2010年)とすれば、ざっとみて800年強を対象とするわけで、2001年東大のエジプト5000年の歴史と比べればマシなものの、かなり長い期間についての記述が要求されているのは間違いありません。単純計算で1字につき1.3年分を示さなければならないwわけですから、細かいディテールにこだわりすぎるよりも、オランダ史の大きな流れをとらえた方が、間違いが少ないのではないかと思います。そのように考えた上で、オランダ史の大きな流れを概観するのであれば以下のようなものになると思います。

 

① フランドル地方と毛織物産業の発達

② 宗教改革とオランダの独立

③ 海洋国家オランダの発展

④ イギリスとの抗争と衰退

⑤ フランス革命後の混乱

⑥ ウィーン体制とベルギーの支配

⑦ ベルギーの独立と産業革命

⑧ 帝国主義時代における植民地経営と相対的な国際的の地位低下

⑨ 第二次世界大戦と戦後の植民地独立

⑩ ヨーロッパ統合の担い手として

⑪ 多極共存型民主主義とその限界

 

こんな感じでしょうか。現代史の部分は分かりにくいところもあるかもしれませんが、それ以外のところはご覧になれば「あー、なるほどな」とか、「教科書で見たことあるわ」と感じるところがほとんどかと思います。ですから、本設問は「難しすぎて全然とっかかりが見えないや」という設問ではなく、「基礎的な事項をしっかり示すことができればそれなりの点数は来る設問」です。第2問、第3問をしっかりと取れれば、この第1問の大論述でそれなりの点でも十分に合格点が取れると思います。逆に、このレベルの論述で手も足も出ないということになりますと、むしろ第2問、第3問もおぼつかないということになります。(特に、前半部分の①~④あたりが書けない場合には基礎から固めるべきです。)その場合には大論述対策に力を入れるよりは、むしろ共通テスト対策や私大対策を通して知識面をしっかりと充実させていった方が力がつくと思います。

 さて、上記オランダの歴史の流れと時期、関連する指定語句を整理していくと、概ね以下のような表になります。もっとも、指定語句の配置は「だいたいこのあたりで使えるかな」という配置ですので、他のところで使えるものもあると思います。

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 これを見ると、特にイギリスとの抗争に敗れて衰退する17世紀末ごろから、フランス革命ならびにナポレオン戦争の混乱の時期、ウィーン体制期あたりの指定語句がすっぽり抜けていることに気が付きます。このあたりは、教科書でもオランダを意識しながら学習する部分ではなく、オランダは周辺に追いやられがちですから、受験生は気づきにくく、まとめにくい部分です。逆に、前半部分は指定語句も豊富で、教科書でもよく出てくる部分ですので、受験生は比較的書きやすかったのではないでしょうか。おそらく、17世紀後半から19世紀にかけてがきちんとかけたかどうかで差がついたのではないかと思います。また、現代史も手薄になりがちな部分になりますが、これについては設問で念押しされていることから、受験生が気づかないということはないと思います。あとはどれだけの知識を持っているかで差のついてくる部分になりますね。

 

【3、オランダが世界の歴史に果たした役割について考察する】

:本設問では、オランダ(およびオランダ系の人びと)が果たした世界史における「役割」について述べることが重要なポイントになります。東大の大論述はこの手の設定が好きです。常に世界史における意義・役割は何かということを問いかけてきます。このことについては、古い記事ですが以前に東大世界史大論述出題傾向②でもお話をしました。たとえば、2007年、2005年、2000年の大論述などはこうした意義・役割をわりとストレートに問う設問でした。近年は意義・役割といった表現ではなく、変化・変遷・変容といったことばで表現されることが多いですが、いずれにしても東大大論述では常に時間軸・空間軸双方における「つながり」が意識されているということは忘れずにおいた方が良いでしょう。また、「役割」といった場合、その分野は多岐にわたります。オランダというと真っ先に頭に浮かぶのは経済的役割ですが、それ以外の分野(政治・文化・社会など)についても意識する必要があります。以上のことを踏まえて、2で示したオランダ史の流れとオランダの世界史における役割(言い方を変えれば世界に対して与えた影響)は何かを順にまとめていきたいと思います。

 

Ⓐ バルト海・北海商業圏の重要拠点

:オランダとして独立する前から、ネーデルラント、より正確に言えばフランドル地方は、毛織物産業によって商業の発展した土地でした。11世紀頃からイングランドの羊毛を原料として優れた染色技術を用いてつくられたフランドル産の毛織物取引は遠隔地商業を活発化させます。その中心地はブリュージュ(現ブルッヘ)やガンなどのフランドル都市であって、これらの都市は北ドイツのハンザ同盟諸都市と取引する中で発展していきます。特に、ブリュージュにはハンザ同盟の商館が置かれ、大きな役割を果たしました。

 

Ⓑ 百年戦争の原因

:世界史教科書などでもよく出てくる部分になりますが、毛織物産業の発展したフランドル地方は、英仏両国で王権の伸長が見られた14世紀から15世紀にかけて、両国の抗争の的となりました。また、同地方はフランドル伯の治める土地でしたが、婚姻関係から14世紀には本領をブルゴーニュ地方におくブルゴーニュ公(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)の領地となりました。15世紀に入ると、フランス国内でブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が起こり、ブルゴーニュ公はイングランドに接近し、フランス北部からフランドル地方にかけては、一時このイングランド・ブルゴーニュ公の同盟勢力の支配下に置かれました。

 

Ⓒ イングランド(イギリス)の毛織物産業発展の要因

:イングランドは、フランドル向けに輸出する羊毛生産地としてフランドル地方と密接な関係にありました。また、百年戦争中にはイングランドと同盟を結んだブルゴーニュ公の支配地であったことから両地域の関係はさらに深まりましたが、最終的に百年戦争がイングランドの撤退と、フランス王家とブルゴーニュ公の和解によって終結したことから、イングランドでは自国での毛織物生産の需要が高まっていきます。元来、輸出向けの羊毛生産によって原料が豊富にあったこともあいまって、15世紀頃からイングランドでは毛織物産業が発達し、地域によってはマニュファクチュア(工場制手工業)も見られるようになります。これにともなってイングランドの荘園領主は第1次囲い込み(エンクロージャー)によって羊毛増産を目指し、テューダー朝のエリザベス1世の統治期には重商主義政策の下で保護されて、イングランドの最重要産業へと発展していきます。

 

Ⓓ 北部ヨーロッパのプロテスタント国家の一角

:宗教改革の進行する中で、ネーデルラントではゴイセンと呼ばれるカルヴァン派が勢力を拡大していきます。当時ネーデルラントを治めていたのは、婚姻関係からヴァロワ=ブルゴーニュ家よりこの地の統治を継承していたハプスブルク家でした。神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)のときにはハプスブルク家はヨーロッパにネーデルラントを含む広大な領地を有していました。

カール5世の領域_Wikiより作成 - コピー

Wikipedia「カール5世」より、一部改変)

 

 その後、オーストリアと神聖ローマ皇帝位は弟のフェルディナント1世、スペインは息子のフェリペ2世に継承されますが、ネーデルラントはフェリペのものとされました。このフェリペ2世に対してネーデルラントのゴイセンがオラニエ公ウィレムを中心に起こしたのがオランダ独立戦争です。ネーデルラント諸州のうち、南部10州はこの独立戦争から離脱しますが、北部7州はユトレヒト同盟を結成(1579)して、ネーデルラント連邦共和国として独立します(1581)。その後も独立戦争は続きますが、1609年には停戦を達成して実質的な独立を達成し、ハプスブルク家の不利な状態で終結した三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約でその独立が正式に国際承認されました。

 このようにして独立を達成したオランダは、北欧のプロテスタント国家の一角としてカトリック勢力に対抗する役割を担い、同じくプロテスタント国家のイングランドと協力関係を結ぶことになります。(エリザベス1世時代の1588年のアルマダ海戦はこうした文脈の中で起こります。もっとも、こうした英蘭の共闘関係は、17世紀に入ると商業上の対立を背景とした抗争から、同君連合による協力関係の再構築へと変遷を見せることになります。) 

 

Ⓔ 海洋覇権の掌握と国際金融の中心、世界経済の一体化を進める

:イングランドとの共闘関係の中でスペインに対して優勢となったオランダは、1602年には世界初の株式会社とされる連合東インド会社を設立して海外へと進出します。こうした中、オランダの立場を擁護するグロティウスは『海洋自由論』のなかで公海概念のもとをつくり、後に著した『戦争と平和の法』とあわせて自然法・国際法の基礎を築いていきます。これも、オランダ人が世界史に果たした大きな役割と考えてよいでしょう。また、ポルトガルにかわりアジアの香辛料貿易を独占したことや中継貿易から得られる利益で17世紀前半の海洋覇権を手にしたオランダの首都アムステルダムは、国際金融の中心地として繁栄を極めます。

 

Ⓕ 経済的繁栄と文化の中心地

:フランドル地方またはネーデルラントは、その経済的繁栄からオランダの独立以前から文化の中心地でもありました。美術でいえば、初期のフランドル派が西洋美術史に与えた影響は極めて大きなものでしたし、オランダの独立後もレンブラント、フェルメール、ルーベンスなどのフランドル系のバロック画家たちが活躍します。また、オランダの宗教や文化に寛容な風土は、周辺から多くの学者を引き付けて、多くの文化人が活動しました。オランダのグロティウス、ホイヘンス、スピノザに加え、フランスからはデカルト、イギリスからはロックなどもやってきてかなりの長い期間滞在します。

 

Ⓖ ユダヤ人やユグノーの受け皿

:また、信仰の自由を求めて独立を達成したオランダは、1580年にポルトガルがスペインに併合された際に追放されたユダヤ人の逃亡先となり、さらに1685年にルイ14世がナントの勅令を廃止したことによってフランスから流出したユグノーの受け入れ先ともなりました。彼らが優れた商工業上の技術や人脈を有していたことも、オランダの商業上の発展に有利に働いていきます。

 

Ⓗ 大交易時代の終焉と衰退→植民地経営への転換

17世紀後半に起こった3次にわたる英蘭戦争に敗れたこともオランダの国力を衰退させますが、この時期はアジアにおける大交易時代が日清両国の海禁策の進展や胡椒価格の大暴落をはじめとする香辛料の価値の低下により、オランダが衰退へと向かった時期でもありました。(もっとも、オランダは日本と交易を許された唯一のヨーロッパの国として、長崎の出島で取引を継続し、日本が海外の情報を手に入れる貴重な情報源となりました。)

こうした中で、ヨーロッパの国際政治や世界経済においてオランダが果たす役割は次第に小さなものになっていきますが、ジャワ島をはじめとするオランダ拠点においては、それまでの交易を中心とした利益の追求から、商品作物の栽培と輸出による利益収奪型の植民地経営への転換がはかられていきます。特に、1825年~1830年に発生したジャワ戦争(ディポネゴロ戦争)の鎮圧以降、ジャワでは総督ファン=デン=ボスの下、強制栽培制度が導入され、コーヒー、サトウキビ、藍などの商品作物栽培がおこなわれていきます。この制度自体はその非効率性と現地での飢饉の原因と考えられたことから1870年ごろにはなくなりますが、ここから得られた利益はオランダの財政と産業革命を支えていくことになります。また、オランダの植民地経営はその後のアジア、なかでもインドネシアのあり方に大きな影響を与えていきます。

 

Ⓘ 世界大戦とオランダ

:オランダは、第一次世界大戦では中立を保ちましたが、同じく中立を宣言した第二次世界大戦ではドイツ軍に蹂躙されます。また、アジアでは米とともに1930年代後半からABCD包囲網と呼ばれる石油などの対日禁輸政策をとりますが、このことは太平洋戦争の誘発へとつながっていきます。太平洋戦争が始まるとオランダ領東インドは日本軍によって占領され、オランダ植民地当局に囚われていたスカルノは解放され、日本軍と協力しつつインドネシア独立への活動を展開していきます。日本軍が撤退し、ポツダム宣言受諾によって日本の降伏が決まるとスカルノは独立宣言を発しますが、これを認めないオランダとの間でインドネシア独立戦争(19451949)が始まり、これに勝利したインドネシアは独立を達成しました。

 

Ⓙ ヨーロッパ統合の担い手として

:第1次世界大戦に引き続き、第二次世界大戦でも中立を宣言したオランダでしたが、その国土はヒトラー率いるナチス=ドイツに占領され、蹂躙されます。戦後、フランスとドイツのあいだに存在する鉱物資源がこれまでの両国間の紛争のもととなってきたという反省と、戦後の経済復興を強力に推し進める必要性からヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立されたのを皮切りに、西ヨーロッパの経済的統合と、東側諸国に対抗する軍事同盟(西ヨーロッパ連合条約[ブリュッセル条約]や北大西洋条約機構[NATO])も形成され、西ヨーロッパの統合が次第に進められていきます。植民地を失い、経済的基盤をヨーロッパ本国のみで再構築する必要に迫られたオランダは、西ヨーロッパの政治的安定と経済復興を目的としてマーシャル=プランを受け入れた上で、欧州統合に積極的な役割を果たしました。その結果、ベネルクス三国の主要都市にはこうした欧州統合につながる組織の拠点が置かれることとなりました。ヨーロッパ経済共同体(EEC)から欧州連合(EU)にいたるまでその拠点はブリュッセルに置かれましたし、EUを成立させたマーストリヒト条約が調印されたマーストリヒトもオランダの都市です。

 

(Ⓚ 分断社会を抱える国家オランダと多極共存型民主主義の限界)

:これは、高校世界史のレベルでは出てこない話になるので、設問の解答としては特に書く必要はないものになりますが、本設問のリード文を見るに、何となく出題者がこのあたりのところを意識しているのではないかなと感じられたので、示しておきたいと思います。

かつては海洋国家として海外からの移民を受け入れ、宗教にも寛容だったオランダでは、多様な価値観が受けいられてきました。こうした中で、オランダでは「柱状社会」と呼ばれる宗派別、政治信条別の社会集団を形成しつつ、各集団から選ばれた政治的エリート同士が国家全体の利益のための妥協点を探る中でコンセンサスを形成する社会が形成されたと言われています。こうした社会の形成は1920年代ごろから形成が進み、1960年代までは継続したものの、その後は「柱」の融解によって表面上は見えなくなったと考えられています。

どういうことかと言いますと、1960年代までのオランダでは、政治や宗教的信条ごとに、それぞれの集団で全く別の(お互いに交わることが少ない)社会グループが形成され、これらのグループごとに政党、労働組合、教育、福祉などの系列化・組織化されていきます。さらに、各グループの構成員たちは日常生活のなかで強固なコミュニティを形成していきます。たとえて言えば、日本という社会の中に仏教グループとか、神道グループとか、右派グループとか、左派グループとか、中道グループのようなものが存在し、仏教グループは仏教グループの中で独自の政党、労働組合、教育・福祉組織を作り、仏教グループサークルとか、町内会的なもので日常生活に至るまで行動を共にする一方で、他のグループとの交流は乏しいという社会を思い描いてもらうと良いかと思います。こうした社会は、確かに多様性は許容されているのですが、それはお互いの価値観を融合させて混じりあっていく社会ではなく、「あんたの価値観はあんたの価値観で勝手にやってもらって構わない。私はこういう価値観だけど。」という「住み分け」によって維持されている社会です。

オランダ生まれのアメリカの政治学者アーレンド=レイプハルトは、オランダの柱状社会の比率をカトリック34%、社会主義派32%、プロテスタント21%、自由主義派13%と分析し、このような分断社会においては「多極共存型民主主義(consociational democracy)」という、それまでの政治学で主に想定されていた多数決型民主主義とそこから導かれる多数派支配とは異なったアプローチが行われていると、オランダの政治社会を分析しました。オランダのようにそれぞれの価値観が生活レベルまで分断された社会においては、一部の多数派が物事を決定する方式ではなく(そもそも、各グループが小集団なので安定した多数派が形成されえない)、各グループの代表者同士のコンセンサス形成によって民主主義が維持されていると考えたわけです。こうした「多極共存型民主主義」の特徴はいくつかありますが、概ね以下の4つにまとめることができるとレイプハルトは主張します。

 

 ① 全てのグループの代表を政治の需要な決定に参画させること(大連立による政府)

 ② 相互拒否権(the mutual veto

   :一部の少数派が他のグループの合意を得ずに決定することを避けるため

 ③ 政治権力や公的資源の各グループへの比例分配

 ④ 各グループが独自性を維持するための高度な自立性

   :各グループにとって決定的な事項についてはそのグループに決定権を与えるため

 

実際、現在のオランダでは30近い政党が選挙で表を争い、そのうち半数が少なくとも1議席を獲得するなど、議会における勢力は広範囲に分散しています。

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オランダの主要政党

https://jp.reuters.com/article/dutch-election-analysis-idJPKBN16G0VO、ロイター、

出典:Peilingwijzer[https://peilingwijzer.tomlouwerse.nl/p/laatste-cijfers.html]

 

ところが、これまではこうしたシステムで安定してきたオランダの民主主義は、近年の政治環境の変化、特に移民の増加によって揺らいでいます。オランダ統計局によれば、オランダの人口に占める西側諸国以外からの移民の比率は、1996年の7.5%に対して、2015年は12.1%へと上昇しています。現在、総人口1700万人のうち、約5%がムスリムだとのことです。(上記に引用したロイター記事より。Wikipediaによれば、総人口のうちゲルマン系のオランダ人が83%、それ以外が17%だそうです。)移民の増加は、これまでのリベラルな主流派からの有権者の離反を促す一方で、ポピュリズムに対する支持が拡大し、自由党(PVV)などの極右政党が勢力を広げています。移民とポピュリズムというテーマは、近年のドイツ、イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ大統領当選など、政治学の分野ではホットなテーマですので、こうしたことも出題者の方では意識していたのかもしれません。

 ただ、Ⓚについては当然設問で要求されている内容とは思えませんので、基本的にはⒶ~Ⓙに注意しつつ、時系列に沿って解答をまとめていくことになるかと思います。

 

【解答例】

毛織物産業によるフランドル地方の発展は、遠隔地商業拡大や羊毛供給地イングランドの産業発達など周辺の商工業を刺激したが、その富をめぐり百年戦争の勃発ももたらした。宗教改革でゴイセンが増加するとオラニエ公ウィレムの下、ネーデルラント連邦共和国としてハプスブルク家からの独立を宣言し、イングランドと共闘した。その後東インド会社を設立し、香辛料貿易独占や中継貿易を通して世界貿易一体化の一端を担った。アムステルダムは国際金融の中心として繁栄し、国際法の礎を築いたグロティウスをはじめ、デカルトやレンブラントら文化人が活躍する場を提供した。新大陸植民地は英蘭戦争で奪われたが、ニューヨーク発展の礎となった。海洋覇権を失い、大交易時代が終焉した後も日本と長崎で取引を継続し、世界情勢を伝えた。ウィーン会議でオランダが失ったケープ植民地を追われたブーア人は南アフリカ戦争にも敗れて英の帝国主義政策に飲み込まれ、南アフリカ連邦のアパルトヘイトを支えた。ベルギー独立はオランダの経済的自立を促し、ジャワの強制栽培制度でコーヒーやサトウキビを生産させて得た利益を元に産業革命が進展した。植民地経営への転換を図る中で蘭領東インドを形成したが、太平洋戦争中に日本に侵攻され、これと共闘したスカルノがインドネシアを独立させた。植民地を喪失したオランダは欧州統合による経済の安定を図り、マーストリヒト条約によるEU設立に尽力した。(600字)

 

こんなところでしょうか。率直に言って、指定語句と設問の要求にややアンバランスさを感じました。数百年にわたるオランダの活動が世界史に果たした役割を述べるにあたり、ヨーロッパ周辺の遠隔地交易の発展や世界経済の一体化、現代における欧州統合を支えたというのはスケールとしてもテーマとしても問題ないと思うのですが、これらに対して日本との取引だの、ニューヨークだの、アパルトヘイトだのは局地的な事柄で、スケール的に別次元の話な気がします。日本との取引はオランダが展開した広範・長期にわたるアジア交易の一部にすぎないわけで、アジア交易を言うのにわざわざ長崎を指定語句にする必要を感じません。また、南アフリカ戦争についても何となく浮いているというか、とってつけた感がぬぐえません。自分もアパルトヘイトが廃止された時には多感な少年時代でしたし、インビクタスのDVDも持っていますが、何となく高校の世界史教科書に載っているオランダに関連する事項を縫い合わせてくっつけてみました感がしてしまい、すっきりしないバランスの悪さが残ってしまう気がします。まぁ、あまり細部にこだわりすぎても時間内に解答作れませんので、当日の受験生がすべきことは「役割」という部分から外れることなく、特に前半部分の取りこぼしがないようにまとめることだったのではないかと思います。

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今日は東大大論述とにらめっこをしているのですが、大論述でやや気になるなぁと思ったのはユーラシアの遊牧騎馬民族テーマですかね。遊牧民ゆーてすぐに『乙嫁語り』が浮かんだけど、時代ちゃうなw 森先生の作品では、個人的には何といっても『エマ』推しですわ。専門イギリス史ですしw

何で気になるのかって、特に根拠というほどのことはないのですが、少し気になります。何で?うーん…。

・前から作ってみても良いと思っていたけれども、これまでは情報量不足&受験生の平均値の理解力不足で作れなかったものが、最近は「やたらスキタイの出題頻度が増えた」とか「これまではせいぜい匈奴ぐらいしか思いつかなかった受験生の平均的理解が向上してかなりの民族を挙げることができる」とか「どの時代、どの地域にどの民族がいたかがある程度はわかるようになってきている」とか、出題してもある程度の解答を作れるであろう条件が整ってきている。(多分、東西交流史や草原の道にが注目される中で自然と遊牧民についての情報量も増加し、理解が深まってきている。)
・京都大学で数回にわたって遊牧民絡みの出題が出ている。(2017や2020 / マンチュリアも含むなら2019も)
・これまでは単純な民族興亡史しか書けない程度の情報しかそろっていなかったが、周辺諸民族との関係や文物の伝播など、複数の要素も絡めて書けるだけの材料が準備されている。
・東大は広域、ダイナミズムが好き。
・これまでにもモンゴル絡みはわりと出ている。(1994や2015)
・ここ数十年で東大のメインテーマになったことがないので斬新。(受験生にとっては不意打ちになりやすい)
・時事的にウイグル問題には関心あるはず

まぁ、こんな感じですかね?もっとも、出ないかもしれない理由もいくつか挙げられますけどね。私が遊牧民史で出すとすればスキタイ~ウイグル滅亡と中央アジアのトルコ化くらいまでの流れで出しますが、(それ以降だとモンゴルか中国周辺史になって面白みがない)去年の東大大論述が5世紀~9世紀と古い時代だったので、何となく時代的に古いの2回重ねるの嫌だなぁとかw
他には、個人的には20世紀史でニッチなところで面白い問題が作れるなら気になりますねぇ。すごくめんどくさいし、手間もかかるので、ペイが発生しないと絶対作りませんけどw
ま、宝くじみたいなもんですねw 思いついたから書きましたが、あてにしない方が吉。
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2004年の東大大論述のテーマは、「銀を媒介とした世界の一体化」でした。2000年代の初めごろは、いまでは言葉としてはやや陳腐化した「グローバル化」という言葉がさかんに使われ始めた時期でもあります。1980年代ごろまでは、国際関係においてよく用いられたのは「インターナショナル」という言葉でしたが、冷戦の終わりとIT技術の進歩によって、一部の国だけではなく地球上のほぼすべての国々が何らかの形で互いにつながりを持つようになりました。こうしたグローバル化の流れの中で、かつて歴史の中で起こった地球の一体化への動き、過程を確認しようという意図が見え隠れします。また、当時の受験生にそうした問題意識を持ってほしいということもあったのでしょう。

 また、当時は歴史学会において、アンドレ=グンター=フランクの『リオリエント』(邦訳は2000年の出版)をはじめ、ウォーラーステインの近代システム論に対する修正的なものの見方がよく話題にのぼった時期でもありました。私自身は当時大学院生になりたてでしたが、原史料へのアプローチ不足は否めないものの、ヨーロッパ中心史観にかえて銀の流入・流出というデータから巨視的に15世紀~18世紀頃の経済の実体を読み解こうする内容と手法には引き込まれたのを覚えています。本設問は、こうした当時の歴史家たちの問題意識を反映したものでもあったのではないかと思います。『リオリエント』については以前に別記事の方でご紹介しておりますので、こちらをご参照ください。銀の流れをテーマとした設問としては、近年でも東京外国語大学2017年の大問1論述400字)などで出題されています。

 

【1、設問確認】

・時期:16世紀~18世紀

・銀を中心とする世界の一体化を概観せよ。

16行(480字以内)

 

:リード文は多分に示唆的ではありますが、本設問を解く直接のヒントになる部分はそれほどありません。(設問の要求が1618世紀までであるのに対して、リード文の多くが19世紀以降の話であるため。)ただ、東アジアでは19世紀になっても「依然として」銀貨が子国際交易の基軸通貨であったという部分から、東アジアにおいて銀本位的な経済が18世紀までに成立していたことは確認できます。

 

【2、指定語句の整理】

:今の受験生であれば、本設問のテーマはすでに授業や講習などで先生方が意識して語るテーマの一つになっておりますので、全体の流れを何となくはイメージできるという人もいるかもしれません。ですが、本設問が出題された当時は、銀による世界の一体化を一つのテーマとして語る教材等はまだそれほど多くはなく、当時の多くの受験生はおそらく手探りで本設問にあたることになったと思われます。いずれにしても、こうした世界各地を結び付ける動きを確認しようとする説問の場合、対象となる地域(設問によってはヒト・モノ・カネ・情報なども)はどのあたりなのかを指定語句からひとまず整理してやるべきだと思います。

 

① 汎用

= 綿織物、東インド会社

:この二つについては色々な地域について用いることができます。綿織物については東アジアでも生産されますが、本設問で使用するのであればインド産綿布のイギリス(またはヨーロッパ)への輸出という文脈で用いるのが妥当かと思います。東インド会社についても、その活動範囲は広いですし、設立されるのはヨーロッパですから、色々な地域について言及することが可能です。

 

② 東アジア・東南アジア

= 一条鞭法 / 日本銀

:一条鞭法はめちゃくちゃ出ます。頻出です。これは、明の時代が大交易時代と同時期で、アジアに従来では考えられなかった量の銀が流入してことにより、中国の経済が銀決済を中心とする経済に変化していく中で税制も変化していくという形で、「世界の一体化→地域社会の変化→制度の変容」といった関連性をはっきりと見出せるものであることから、好んで出題されるようになったものと思われます。また、清代にはさらに地丁銀へと変わっていきます。

:日本銀については、出会い貿易を介しての中国への流入などについて書いておくと良いでしょう。

 

(関連事項)

・一条鞭法の内容

=租税や雑徭が複雑なものになっていた両税法にかわり、税を地税と丁税(人頭税)の二つにまとめ、これらを銀で一括納入する制度。以前の『詳説世界史研究』等では以上のような説明ではっきり書いてあったのですが、最近の『詳説世界史研究』や山川の用語集では、地税と丁税というような言及はなく、「とりあえず全部銀でまとめて払った」的な説明が多いです。(帝国書院の教科書も似たような記述になっていました。) 多分、受験生がわかりやすくなるようにということなのだと思いますが、かえって清代の地丁銀との区別がつきにくいので、個人的には以前の記述の方が良かったなぁと思います。これについては、以前Q&Aの方に記事を書いておきました(→こちら)。

・張居正

:一条鞭法を導入した宰相

 

③ 西ヨーロッパ

= 価格革命 / アントウェルペン(アントワープ)

:価格革命は新大陸の銀が大量に流入したことによる銀価値の下落がヨーロッパにおける物価の高騰を招いたとされる事象です。また、これにより生じた西欧・東欧間の価格格差は、東欧から西欧への食糧輸出を促し、東欧でのグーツヘルシャフト発展へとつながっていきます。そういった意味では、新大陸や東欧の文脈でも利用できる用語でしょう。価格革命を扱った設問としては、近年では一橋大学2017年大問1400字論述)などがあります。また、価格革命が実は銀流入ではなく人口増加を背景としたものだったのではないかとする説が近年有力になってきていることについても以前書いた通貨・金融史の方で述べておきました。お時間あればご参照ください。

:アントウェルペンについては、商業革命によって商業の中心地が北イタリア諸都市から大西洋岸へと移っていく例として用いると良いと思います。商業革命によって発展した大西洋岸の都市としては、ほかにリスボンやロンドンなどがあります。また、本設問では18世紀までとなっておりますので、アントウェルペンが衰退した後のアムステルダムなどを示すことも可能でしょう。

 

④ 東ヨーロッパ

= グーツヘルシャフト(農場領主制)

:「グーツヘルシャフトとは何か」を説明させようとすると答えに窮する受験生が結構いるのですが、いまやグーツヘルシャフトは一問一答で答えるだけの用語ではなく、16世紀以降のヨーロッパ経済・社会と深く関連している用語ですから、いくらかは説明できるようにしておかないと活用の機会を逃してしまうかもしれません。グーツヘルシャフトを簡単に説明したいと思うのであれば、以下の3点を抑えておくと良いと思います。

 

Ⓐ 西欧への輸出用穀物生産が目的

Ⓑ 領主が農奴を支配して大農場を経営

Ⓒ エルベ川以東のドイツ諸地域で発展

 

単純に農奴から税を搾り取ることが目的なのではなく、西欧向け輸出作物を大量に生産して売り飛ばすことが目的なのだということは大事なポイントですので、確認しておきましょう。また、エルベ川以東とはどのあたりかということですが、エルベ川はユトランド半島の西の付け根から袈裟懸けにドイツを縦断する川ですので、おおむねプロイセン地域のあたりが中心だと思えばよいかともいます。

画像1

(エルベ川の位置)

⑤ 新大陸

= ポトシ

:ポトシは銀山があることで有名な現在のボリビアにある都市です。このポトシ銀山やメキシコのサカテカス銀山で採掘された銀は、ヨーロッパや、アジア方面に大量に運ばれることになります。ヨーロッパについてはスペインの重商主義(重金主義)、アジアについてはアカプルコ~マニラ間のアカプルコ貿易を思い浮かべればOKです。

 

【3、銀が流れる=取引が行われる】

:2の指定語句整理で、設問が意図している地域としては東アジア、東南アジア、東西ヨーロッパ、新大陸などがあることがわかります。できれば、これに加えて南アジアや中東地域(イスファハンなど)、奴隷貿易が行われる西アフリカといった中継地点を思い浮かべることできればなお良いです。中東は見落としがちですが、指定語句に綿織物がありますし、本設問を解いていくうちに大西洋三角貿易や奴隷貿易は当然思い浮かべることになると思いますので、南アジアや西アフリカについてはさほど苦にせず浮かんでくるのではないかと思います。

 さて、世界の銀の流れについてですが、冒頭でご紹介したアンドレ=グンター=フランクによれば、設問の対象となっている16世紀~18世紀にかけての世界の銀は、最終的には中国に流れ込んでいくとされています。以下はフランクが示した1400年~1800年にかけての環地球交易ルートです。「→」の最終的な先端が中国を向いていることが見て取れるかと思います。

画像2

(アンドレ=グンター=フランク、山下範久訳『リオリエント』藤原書店、2000p.147

 

このように銀が流れていく場合、一部の例外を除いて、当然のことながらこうした銀は何らかの支払いのために流れていくわけで、銀が流れていく反対方向に銀で購入されたモノが流れていくことになります。ですから、こうした銀の流れを意識しつつ、各地域でどのようなモノが取引の対象とされ、どこに流れていくかを確認することが大切です。ただし、新大陸からスペインへなど、重金主義政策や王家に対する納税など取引以外の要素で流れていく銀があることにも注意を払う必要があります。そこで、16世紀~18世紀に、本設問が意識している諸地域間でどのような交換が行われていたのかを、世界史の教科書レベルの知識でまとめてみました。

画像3



青の→:銀と引き換えにもたらされる主要な物産

緑の→:大西洋三角貿易(17世紀~18世紀ごろ)

黄の→:主な銀の流れ(メキシコ銀・日本銀)

ピンクの→:茶の輸入(大量に入ってくるのは18世紀頃から)

 

注意しておきたいことは、これらの物産の流れにも時代による違いがあるということです。たとえば、新大陸から西欧への物産に「砂糖、タバコ、綿花」などがありますが、このうち綿花については、やはり大量に西欧に流れ込んでくるのはイギリスで産業革命が本格化してからの時期(18世紀後半)をイメージするべきだと思います。それに対して、インドからの綿織物輸入については産業革命本格化以前の話なので、16世紀~17世紀が中心だとイメージするべきでしょう。また、アカプルコ貿易や日本銀の流れについても、17世紀半ば頃には東アジア・東南アジア海域でのいわゆる大交易時代は斜陽の時代を迎えます。これは、日本の「鎖国」、清の「海禁」(遷界令など)、スペインが新大陸で採掘する銀の産出量の減少と重金主義の終わり、胡椒をはじめとする香辛料価格の暴落など、複数の要因からなるものです。16世紀~18世紀にかけての世界交易では、スペイン・ポルトガルが活躍していた16世紀、オランダが覇権を握った17世紀前半、英仏が競い合う17世紀後半以降など、時期によって活躍する国も移り変わっていきますが、地域ごとに取引される物産も変化していくのだという点は意識しておきましょう。

 

【4、16世紀~18世紀にかけての主要な銀の流れと影響をまとめる】

:これまで整理してきた内容に注意して、16世紀~18世紀にかけての主要な銀の流れと影響を整理してみると、以下のようなものが挙げられるかと思います。このあたりのところはすでに教科書などでもおなじみの基礎的な内容かと思いますので、詳しい説明は割愛して、関連語句のみcf.)として示しておきたいと思います。

① 新大陸から西欧への銀の大量流入

 →商業革命、価格革命

 →国際分業体制(西欧:商工業、東欧:食糧供給地)

cf.) 大航海時代、ポトシ銀山、ガレオン船、アントウェルペン、リスボン、セビリャ、重金主義、グーツヘルシャフト、中継貿易など

 

② 新大陸からアジアへの銀の大量流入

 →中国を中心とした銀経済の成立

 →一条鞭法、地丁銀など、銀経済に対応した税制の成立

cf.) アカプルコ、ガレオン船、マニラなど

 

③ 日本銀の東南アジアを経由した中国への流入

 →②に同じ。

cf.) 石見銀山、出会い貿易、堺、博多、朱印船など

 

④ 新大陸から一度欧州に到達した銀が、アジアへ流入

 =香辛料、陶磁器、絹織物、綿製品などの代金として

 (経由地としての中東[イスファハン]などの繁栄)

 →生活革命などを促す

cf.) 東インド会社、生活革命、ゴア、モルッカ諸島、クローブ、ナツメグ、アンボイナ事件、台湾、マラッカ、アムステルダム(国際金融の中心[もっとも、ヨーロッパにおける]

 

⑤ 大西洋三角貿易

 =奴隷、新大陸物産(砂糖、タバコ、綿花など)、工業製品の交換

 →交易の主導権を握り、高付加価値商品を販売する西欧に資本が蓄積

 →産業革命の一因に、生活革命を促す(西欧)

 →プランテーション拡大、モノカルチャー化(新大陸)

 →労働可能人口の流出による人口構成の崩壊、低成長の遠因(西アフリカ)

cf.) リヴァプール、ボルドー、アシエント、黒人王国(ベニン・ダホメ・アシャンティ)、英領ジャマイカ、仏領サン=ドマング、スペイン領植民地(カリブ海ではキューバ)、ポルトガル領ブラジルなど

 

⑥ 茶の流入

 =ヨーロッパの宮廷から、後にオランダなどを経由してイギリスへ、民衆への広がり

 →砂糖や陶磁器需要の急増(生活革命)

 →アメリカ独立のきっかけに

cf.) 東インド会社、平戸(オランダ船の来航)、アンボイナ事件、ボストン茶会事件など

 

:ポイントは、個々の動きを断絶したものとしてしまうのではなく、他の事柄と連動していることをうまく示してやると良いかと思います。特に、後半(17世紀半ば以降)の話は、それ以前に銀を原動力として物産の流れや各地の社会状況が変化した結果として起こる新たな流れですから、やはり連続性ということに注意を払うべきかと思います。

 また、本設問の要求はあくまで「銀を中心とする世界経済の一体化の流れを概観せよ」です。銀の流出入は、様々な物産の移動や社会の変化を促しますけれども、そうした変化のうち本設問の解答として書くべきなのはあくまでも「世界経済の一体化の流れ」にかかわるものだけです。これまでの解説の中では、関連する事項として広く多くのことを示しておりますが、そうしたものの中でも「解答に盛り込むべきものは何か」ということについては精選した方が良いでしょう。

 

ex.)◎・〇は使ってOK、△あたりは微妙、×は書いても加点されないと思います。

・国際分業体制…◎

:東西ヨーロッパ経済の一体化を促すため

・一条鞭法…◎

:東アジア経済のさらなる銀経済化を促すため

・生活革命…◎

:関連する物産の輸入、ライフスタイルの変化が世界各地の経済的結びつきを深める

・産業革命…○

:時期的には本設問の終わりの方になるが、その後のイギリスの経済覇権の下での世界経済の一体化に重要な役割を果たすため

・プランテーション拡大、モノカルチャー化…〇

:プランテーションで生産される物産が交易(銀の移動)の原動力となるため

・アフリカの低成長…×

:当時の世界経済一体化の結果に過ぎない / 現代世界への影響はあるが、当時の世界経済一体化に影響を与えるものではない

・アメリカの独立…△

:当時の世界経済一体化の結果に過ぎない / ただし、世界経済の一体化が当時の新大陸にも深く及んでいたことを示す例として示すことは可能(時期が18世紀なので)

 

【解答例】

大航海時代が始まり、スペインがポトシ銀山などの銀を西欧に持ち込むと、商業の中心がアントウェルペンなどの大西洋岸に移る商業革命や、価格革命による物価高騰が起こった。東欧ではグーツヘルシャフトが発展して西欧への穀物供給地となり、国際分業体制が成立した。メキシコ銀はアカプルコからマニラへも向かい、絹や陶磁器を売る中国商人、日本銀を持つ堺・博多の商人を巻き込む出会い貿易で交換された。当初ポルトガルが独占した香辛料貿易はオランダ東インド会社に引き継がれ、アムステルダムが国際金融の中心となった。イギリスもインド産綿織物を輸入したため欧州からアジアへ銀が流出し、中継地イスファハンも繁栄した。銀経済化した中国では、明の一条鞭法や清の地丁銀など銀納の税制が導入された。生活革命により西欧で砂糖・タバコ・茶の需要が急増すると、カリブ海で西アフリカの黒人奴隷を使うプランテーションが発展し、西アフリカへ西欧が工業製品を売る大西洋三角貿易が成立した。資本を蓄積したイギリスで産業革命が本格化すると、インドへの綿織物輸出が増加し、茶の輸入や自由貿易をめぐり清との対立が激化した。(480字)

 

:こんな感じでしょうか。480字という制限があると、やはりどうしても教科書的な解答になってしまって、いまいち『リオリエント』的な銀の複雑な流れを示すことができません。でも、どうしても「欧州からアジアへという銀の流れ」には言及したかったので、それを示せただけよかったかなと思います。教科書的にはポルトガルやオランダによるアジア地域での中継貿易、オランダによるヨーロッパ方面での中継貿易なども書くべきなのかもしれませんが、世界全体での銀の流れということを意識するのであればヨーロッパ諸国が主体の中継貿易という用語にこだわる必要はなく、むしろアジアの商人を交えた出会い貿易の方が良いかなと思ったのでそちらを入れました。600字ならもう少し自由度が高く、色々な要素を入れることもできるかもしれません。

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かなり古い設問ですが、この年の設問は冷戦、中でも分断国家の形成と統合についての問題でした。1989年当時私はちょうど中学生になるかならないかくらいの頃でしたが、こども心に「何かすごいことが起こっている」と考えさせられる時期でした。やはり、ベルリンの壁の崩壊はとても印象的で、きっとこれからすごいことが起こるんだろうなぁと思ったものです。あの頃にむしろITとかアップルとかに関心を持っていれば今頃大金持ちだったかもしれないのにw 脱線しましたが、あの頃は子どもも大人も無邪気に「もしかしたら世界はもっと良くなるかもしれない」と思ったものです。もっとも、すぐに湾岸戦争やら各地の民族紛争で「どうも、そうではないのかもしれない」と感じさせられることになったわけですが。いずれにせよ、本設問が出題された背景にもおそらく、当時の出題者の問題関心が冷戦後の世界がどうなるか、また冷戦がどういうものであったか受験生は知っているだろうかとうことに向けられていたのではないでしょうか。当時の雰囲気は実際にニュース映像などをご覧いただいた方が文章で追うよりも手っ取り早いのではないかと思います。

 

ベルリンの壁崩壊→https://www.youtube.com/watch?v=1YJDvpWL4AY

ソ連崩壊→https://www.youtube.com/watch?v=3l3QxfZHPTQ

 

冷戦については、2016年の東京大学でも出題されていますが、1993年から2016年まで冷戦を真正面から扱った出題はされていません。この理由はよくわかりませんが、実際のところ一般的な認識として冷戦をどこか終わったものとして理解していた向きはあるのかもしれません。2016年の設問については、すでに過去の記事でご紹介していますので、そちらをご覧ください。今後冷戦に関する問題が東大で登場するか、はっきりとしたことは分かりませんが、もしかしたら冷戦終結40周年とか50周年当たりでは出るのかもしれませんねw 少なくとも、私の中ではそれほどは警戒してないです。ただ、冷戦は早慶などの次第では頻出の設問になりますので、メインになる話は整序も含めてしっかりと確認しておきたいところです。世界が平和になりますようにw

 

【1、設問確認】

・二つの分断国家(ベトナムとドイツ)の形成から統合への過程を略述せよ。

・冷戦の展開と関連付けよ。

・指定語句:ゴルバチョフ / ジュネーヴ会議 / 封じ込め政策 / 平和共存 / ベルリンの壁

・指定語句に下線を付せ

20行(600字)以内で記せ

 

:設問は非常にシンプルです。少し気を遣わないといけないのは、冷戦との関連付けでしょうか。ただ、ベトナムとドイツの分裂が書けないと話になりませんので、いろいろ考えてごちゃごちゃになるよりは、まず両国の分裂と統合の過程をしっかり確認した上で、それらを冷戦の文脈の中に位置づけるという方法が無難かと思います。

 

【2、ベトナムの分裂と統合について整理】

 まず、ベトナムの分裂と統合について整理します。文章で書くよりも、表でまとめちゃった方が良いかなと思いますので、とりあえず以下の表にまとめてみます。

分裂国家(ベトナム) - コピー

受験生がよく混乱しがちなのが、ベトナム民主共和国とベトナム国、ベトナム共和国の区別です。かなり乱暴な区分けではあるのですが、「民主」と名前に着くのは共産主義の国に多いです。後にあげるドイツ民主共和国(東ドイツ)もそうですし、民主カンプチア、朝鮮民主主義人民共和国…、結構ありますねw 世界史で出てくるレベルの国であれば特に問題はないので、「ベトナム民主共和国(北ベトナム)=共産主義の国=ホーチミン」というように理解しておけば問題ないかと思います。その上で、残った南部ベトナムについては、「最初の方はフランスが阮朝最後の皇帝バオ=ダイを元首に担ぐので典型的な共和国ではない=ベトナム国」、「後の方はアメリカの後ろ盾を持ち、ゴ=ディン=ディエム(ジェム)を大統領とする共和国=ベトナム共和国」と理解すれば、間違えることは少なくなるかと思います。

ベトナム史については、後ほど地域史か何かで上の表を文章にしましょうか。ただ、それほど分かりにくいところはないので、上の表の内容が理解できていれば本設問を解くには十分かと思います。

 

【3、ドイツの分裂と統合について整理】

ドイツについても、以下の表にまとめておきます。

分断国家(ドイツ) - コピー

こちらについては、いくらか分かりにくいところもあるかと思いますので何点か補足しておきます。

 

① 西側占領地域の通貨改革とベルリン封鎖

 ドイツについては、米・英・仏・ソの四か国による分割占領がされたことはよく知られています。ここでしっかり理解しておかなければならないのは、ベルリンも同様に四か国の分割占領下におかれたのですが、ベルリンの周辺地域は全てソ連の占領下にあり、そのためベルリンの米・英・仏による管理地域はソ連によって交通を遮断された場合、陸の孤島になってしまうということです。(下の地図、白い丸で囲まれた部分がベルリン。そのうち、西部の青・緑・オレンジが西側占領地域)これが、後のベルリン封鎖を可能にすることになります。

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Wikipedia「連合軍軍政期(ドイツ)」より、一部改変)

て、当初、ドイツに対しては米の占領地域においても積極的な工業復興は支援せず、農業国化することが想定されていました。しかし、ソ連との対立が深まるにつれて、占領地域を貧困のままにとどめておくことは、占領国(米・英・仏)に対する反発を呼ぶだけでなく共産主義の拡大を招く恐れがありました。(共産主義は、一般的に経済がパッとしない場合に広まる傾向が強いです。みんなが日雇い労働者や失業者の場合、失うものがないので「金持ちの財産をオラに分けてくれー」という思想は共感を呼びやすいですが、みんながそこそこの財産を所有している場合にはむしろ「財産を取られて誰かに分け与えられるのは嫌だなぁ」という発想につながりますので、共産主義の勢いはそがれることになります。) そこで、いわゆる西側(米・英・仏)の占領地域については経済再建が目指されることになります。また、その副産物というわけでもないのですが、かつてのナチ時代の企業による対ナチ協力についても「んー、まぁ、ナチに強制されてた分はしょうがないよね」という形で「何でもかんでも厳罰!」というムードではなくなってきます。(もちろん、ホロコーストにかかわっていたとか、どうしようもない場合は除きますが。) 戦争中のドイツ人はほとんどの場合何らかの形でナチスにかかわっていましたので、それらを片っ端から挙げてしまうと復興のための人材が極端に不足してしまうんですね。実際、ドイツの3代目首相となったキージンガーなども内心はユダヤ人迫害などに批判的であったようですが、若いころに一時ナチスに在籍した経歴があり、かつ後の外務省勤務時代にゲッベルスなどと交流があったことから、就任時はかなり批判を受けたようです。いずれにしても、西側占領地域では占領政策が経済復興に転換されたことによって急速に暮らし向きが良くなっていきます。

 一方、ソ連の占領地域では土地改革をはじめとして社会主義化が図られていきます。企業は解体され、非ナチ化は徹底していました。これは、そもそもファシズム(ナチス)と共産主義が相容れない存在であったことを考えれば容易に理解できることです。ドイツはたしかに一時ソ連と独ソ不可侵条約を結びましたが、これは戦争を有利に進めるための一時的なもので、ナチスは根っこのところから反共産主義でしたし、ソ連も同じく反ナチスでした。そのため、ソ連による占領地の社会主義化と非ナチ化は西側諸国の占領地域と比べるとはるかに徹底したものでしたが、このことがソ連占領地域の経済復興を遅らせることになります。

 その結果、西側と東側には次第に復興速度に格差がみられるようになりました。西側が、西側占領地域でのみ通用するドイツ・マルクの発行(通貨改革)を計画したのはこうした時期です。この西側の通貨改革に対し、ソ連は西側経済に東側が吞まれ、その後の占領政策で西側に主導権を握られることを恐れ、占領地は統一したものとして扱われるべきものと元来の連合国の合意でされていることを主張し、通貨改革を批判します。そして、ソ連が採った手段がいわゆるベルリン封鎖でした。これにより、ベルリンの西側占領地域までの交通が遮断された結果、西側占領地域は陸の孤島となることになりました。これに対し、西側諸国はベルリン西部への大空輸作戦を実施し、西ベルリン市民に必要な物資を届ける作戦を1年弱にわたって繰り広げ、最終的にソ連はベルリン封鎖を解除します。

C-54landingattemplehof - コピー

Wikipedia「ベルリン封鎖」より)

注意しておきたいのは、この時のベルリン封鎖ではベルリンの壁は建設されていないということです。このベルリン封鎖は、ソ連軍による各所の検問や、鉄道・地下鉄・運河・高速道路の封鎖によって行われたもので、壁によって遮られたのではありません。下に書くように、ベルリンの壁建設は西ドイツの奇跡の経済復興によって東西の経済格差が明らかになった1950年代末から1960年代初めにかけて東ドイツから西ドイツへの市民流出が問題となった結果、1961年に建設されるもので、ベルリン封鎖からは10年以上も後のことである点は注意しておいた方が良いでしょう。

 

② ベルリンの壁建設

:ベルリンの壁建設については、先日簡単に別記事の方に書いておきましたので、こちらをご覧ください。

 

③ ヨーロッパ=ピクニック

1989年の東欧革命とドイツについては、とかくベルリンの壁崩壊がクローズアップされがちですが、実はそれ以前から東側諸国と西側諸国の国境にはほころびが生じておりました。ソ連でゴルバチョフが就任し、ペレストロイカを進める一方で東側諸国に対しても各国の自由裁量を容認したことで、ワレサの率いる「連帯」に理解を示し始めたヤルゼルスキの指導下にあったポーランドや、1960年代ごろから寛容な政治路線を打ち出し、市場経済の導入を模索していたハンガリーなどでは次第に自由化へと進み始めます。しかし、東ドイツは分断国家であり、「なぜ、西ドイツと別国家であるのか」を問われた場合、それは「共産主義体制であるから」というイデオロギー的部分に拠るところが大きく、自由化を進めること自体が国家の存在意義を問われる問題であったため、ソ連と同様の改革路線を拒絶します。もちろん、同様のことは西ドイツにも言えたわけですが、当時の東西ドイツの経済状況は圧倒的に西ドイツが優勢であったため、仮に東ドイツが自由化に着手して西とのイデオロギー上の差異が希薄となった場合、西ドイツに吸収されて国家自体が消滅することを東側首脳部は危惧したわけです。

 こうした政治状況のなか、ハンガリーでは中立国オーストリアとの国境管理が負担となっていました。国内旅行の自由化も進められていたハンガリーでは、中立国オーストリアとの国境管理の必要性は極端に乏しく、数百キロに及ぶ国境の警備費用は無駄な出費であると考えられるようになりました。しかし、ハンガリーには他の東側諸国からやってくる旅行者なども存在したため、ハンガリーが単独で国境を開放することは考えられませんでした。こうした中、ハンガリーのネーメト首相はゴルバチョフにハンガリー国境の警備を緩めることについて意見を確認しましたが、すでに西側への窓を開くことを考え始めていたゴルバチョフはこれを黙認します。

 これを受けて、ハンガリーはオーストリア国境地帯にあった鉄条網の撤去に入ります。これは、ハンガリーとオーストリア国境の通行が半ば黙認されたことを示す出来事でした。これに敏感に反応したハンガリーへの旅行許可を受けた東ドイツの人々は大挙ハンガリー国内のオーストリア国境地帯へと殺到し、最終的にはハンガリー政府の黙認の下で「ヨーロッパ=ピクニック」と称されるイベントを口実に強引に両国国境を突破して、多数の東ドイツ市民がオーストリアを経由して西ドイツへと亡命していきました。

ヨーロッパ・ピクニック - コピー

Wikipedia「東ドイツ」より引用の地図を一部改変)

この出来事は、西側諸国と東側諸国の間の国境封鎖が形骸化したことを強く東ドイツの人々に印象付け、後のベルリンの壁崩壊へとつながっていきます。この時の様子を示したフォトギャラリーは以下のサイトなどで見ることができます。

https://www.rferl.org/a/hungary-1989-east-germany/30156892.html

またEuropeanaで「Pan European Picnic」を検索するといくつかの動画も見ることができます。
(Europeanaについてはこちらでご紹介しています。)

 

【4、冷戦の展開とどのように関連するか考察】

:最後に、上記のベトナムやドイツの分断と統合が、冷戦の展開とどのように関連していたかを確認していきます。冷戦については大きな区分けになりますが、概ね「①冷戦構造の形成期(~1950年代前半)」、「②スターリン批判と雪解け(1950年代後半)」、「③再緊張と危機(1960年代前半から後半にかけて)」、「④デタント(緊張緩和:1960年代末~1979年)」、「⑤新冷戦(19791985)」、「⑥ゴルバチョフ就任後の共産圏の改革と冷戦の終結(19851989)」に区分すると理解がしやすいかと思います。これらの時代区分に基づいて、ドイツやベトナムの分断・統合に深くかかわってくる出来事をピックアップしていくと以下のようになるかと思います。

 

① 冷戦構造の形成期(~1950年代前半)

・チャーチルの「鉄のカーテン」演説(1946

・トルーマン=ドクトリンと対ソ「封じ込め政策」(1947

・マーシャル=プラン(1947

・チェコスロヴァキアクーデタ(1948.2)と西ヨーロッパ連合条約(1948.3

 

→ドイツ西側占領地域の通貨改革とソ連によるベルリン封鎖(1948.6

:東西の緊張関係は、当時四か国による分割占領中だったドイツにも影響を与えます。

 

→ソ連と中国によるベトナム民主共和国(北ベトナム)支援と、フランスによるベトナム国建設

:元々は宗主国フランスからの独立闘争であったインドシナ戦争(1946~)にも、東西冷戦構造の形成が影響を与え、ホー=チ=ミンの率いるベトナム民主共和国の側をソ連ならびに成立したばかりの中華人民共和国が支援します。一方、ドミノ理論に基づくアジアの共産化を恐れたアメリカは1950年代初めに相次いで反共同盟を成立させ、防共圏の形成を進めます。(1954、東南アジア条約機構[SEATO]など。)

 

② スターリン批判と雪解け(1950年代後半)

・ソ連のスターリン批判

・フルシチョフの平和共存路線

・ジュネーヴ会議(1954

 

→インドシナ戦争の終結と北緯17度線を境とする南北ベトナムの分断

1953年にスターリンが亡くなったのち、ソ連では1956年にスターリン批判がおこなわれ、当時の指導者フルシチョフの下で平和共存路線が打ち出されました。これに先立ち、1954年にスイスのジュネーヴで開かれたインドシナ問題を話し合う会議(ジュネーヴ会議)では、北ベトナムが当時圧倒的に優勢で国土の大部分を掌握していたため、北緯17度線の軍事境界線設定に難色を示していたものの、スターリンの死により外交方針を転換させつつあったソ連政府の説得によって最終的には軍事境界線の設定に合意し、南北ベトナムは北緯17度線で分断されました。ですが、この段階では一定の準備期間を経て1956年に南北ベトナム統一のための自由選挙が行われる予定であり、南北ベトナムの分断は決定的なものではありませんでした。南北の分断が決定的になるのは、南ベトナムにおいてそれまでのベトナム国の元首バオ=ダイを追放して成立したベトナム共和国のゴ=ディン=ディエム大統領が北ベトナムとの統一のための自由選挙を無視し、これをフランスに代わってアメリカが支援したことによるものでした。

 

③ 再緊張と危機(1960年代前半から後半にかけて)

U-2機撃墜事件(1960)と米ソの再緊張

:スターリン批判以降、改善されつつあったアメリカとの「雪解け」ムードはアメリカのU-2偵察機がソ連に撃墜された事件をきっかけに急速に冷え込みます。その後、1962年にはキューバ危機(1962)が発生し、核戦争の危機に直面するなど、1960年代前半を通して世界は危機の時代を迎えます。

 

→ベルリンの壁建設(1961

:直接の原因は東西の経済格差と東ドイツからの市民流出ですが、上記のように当時が東西の緊張関係が高まっていた時期であったことには注意する必要があります。

 

→ベトナム戦争の開始(1960~)とアメリカの本格介入(1965~)

:同様の時期に、ベトナムでは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されます(1960年)。これを北ベトナムや共産主義諸国が支援し、一方で南ベトナム(ベトナム共和興)をアメリカのケネディ政権が支援することになりますが、ジョンソン大統領の時代に入って発生したトンキン湾事件(1964)とその翌年の北爆(1965)を機にアメリカ軍が本格的に介入を進めます。

 

④ デタント(緊張緩和:1960年代末~1979年)

:デタントへと至った要因は複数ありました。たとえば、1960年代の中ソ対立の激化、ソ連経済の停滞、ベトナム戦争の長期化・泥沼化と反戦運動などです。こうした中で、アメリカ側はベトナム戦争の解決とソ連への牽制を狙った対中接近をキッシンジャーとニクソンが進めますし、米・中を敵に回すことを避けたいソ連も一定の妥協を強いられます。こうした状況下で大きく東西の関係をデタントへと導いたのが西ドイツの首相ブラントによる東方外交でした。

 

→西ドイツのブラントの東方外交(1970~)

:ソ連=西ドイツ武力不行使条約(1970)、西ドイツ=ポーランド国交正常化条約とポーランド国境問題の解決(1970)、東西ドイツ基本条約(1972)と東西ドイツの国連同時加盟(1973)などが進められました。

 

→パリ協定(1973)による米軍のベトナム戦争からの撤退

:すでに選挙時からベトナム戦争の「ベトナム化」を主張して戦線の縮小を図っていたニクソン政権は、米中接近を通して北ベトナムに圧力をかけ、最終的にはパリ協定によって泥沼化していたベトナム戦争からの離脱に成功します。その後、米国の再介入を警戒していた北ベトナム政府は、再介入はないと判断すると1975年から南に対する大攻勢に出て首都サイゴンを陥落させ、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利で終結し、1976年にベトナム社会主義共和国として統一されました。

 

⑥ ゴルバチョフ就任後の共産圏の改革と冷戦の終結(19851989

:ゴルバチョフのペレストロイカは、ソ連国内にとどまらず、それまでソ連が主導権を握ってきた共産諸国全体に対しても、その自主性を認め、自由化を容認するものでした。特に、1988年の新ベオグラード宣言では、ゴルバチョフはブレジネフによる制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン:1968年のプラハの春におけるソ連の介入に際してブレジネフが表明した考え方で、共産圏全体の維持のためには一国の主権は制限されうるという考え方)を撤回し、ソ連は東欧諸国に関与しないことを明確に示しました。これにより、ソ連の介入の恐れが亡くなった東欧諸国では急速に自由化と民主化が進展し、1989年の東欧革命へとつながっていきます。

 

→ベルリンの壁崩壊(1989)とドイツの統一(1990

:上記の通り、ゴルバチョフ就任による共産圏の変化の中で、東ドイツは西側へと亡命する市民の流出を防ぐことができず、最終的にはベルリンの壁崩壊とドイツ統一へとつながっていきます。

 

→ドイモイと市場経済の導入

:すでに統合後のことになるので本設問では書く必要のないことではありますが、ベトナムでも1970年代から1980年代にかけての共産圏の停滞の中で、他の共産主義諸国同様に市場経済の導入が図られ、1986年からドイモイ(刷新)と呼ばれる市場経済の導入政策が進められていきます。

 

【解答例】

トルーマンがギリシア・トルコ支援と対ソ封じ込め政策を表明し、マーシャル=プランによる欧州復興計画が示されると東西対立は深まった。分割統治下にあった独の西側占領地域で通貨改革が断行されるとソ連はベルリン封鎖で対抗し、翌年には西にドイツ連邦共和国、東にドイツ民主共和国が成立した。ベトナムではホー=チ=ミン率いるベトナム民主共和国が仏とインドシナ戦争を戦い、ディエンビエンフーで勝利したものの、平和共存を企図するフルシチョフの意向を受けたジュネーヴ会議の決定で、北緯17度線を境に南北が分断された。U-2機撃墜で米ソの緊張が再度高まると、東独は亡命者を防ぐベルリンの壁を築いた。また、南ベトナム解放民族戦線と戦うベトナム共和国政府支援のため、トンキン湾事件を口実に米が北爆を開始しベトナム戦争に本格介入すると、ベトナムでも分断が深まった。しかし、ニクソンが中国に接近してベトナム戦争からの離脱を図り、パリ協定により軍を完全撤退させると、北ベトナムはサイゴンを陥落させて南北を統一し、ベトナム社会主義共和国を成立させた。また、西独のブラントによる東方外交から東西ドイツ基本法が制定され、欧州でもデタントが進んだ。さらに1980年代半ばにゴルバチョフがペレストロイカを打ち出し、新ベオグラード宣言で東欧諸国の自主性尊重を示すと、急速に東欧の自由化が進み、ベルリンの壁崩壊を機にコール首相の下で東西ドイツも統一された。(600字)

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