やっと復活できました。いえ、実際にはまだ本調子とは程遠いですね。ゲホゴホ咳ばっかり出ますが、どうにか体力的に余裕が出てきました。もう行事やら試験づくりやらで、本業が忙しくて。「一週間で戻ってくるぜ!」みたいに戦隊モノみたいな捨て台詞を残していたのに本当にすみません。これからまたちょくちょく更新していくつもりですので、なにとぞお見捨てなく。

 

さて、今回は予告しておりました通り、東大2014年の第1問、大論述ですね。個人的な感想ですが「やや難」です。ちなみに、当時の河合も「やや難」ですね、手元の資料見ると。正直、ロシアの拡大政策だけを書くなら東大クラスの受験生なら普通に書けます。多分。数学とか英語が得意で世界史は捨てた、とかではない限り。受験生が出しにくい部分は指定語句がちゃんと示してくれていますし、連想すればアイグン条約も北京条約も三国干渉も出てきますしね。ですから、「事項をただ並べるだけ」ならそれほど苦にはならないんです。

やはり、難しいのは「とりあえず並べてみた事項」を「当時の国際情勢の変化」と結びつけて述べる、というこの部分をどう処理するかにつきます。東大の好きそうなフレームワークの設定ですね。しかも、地味に難しいのは、この「変化」の中に、19世紀前半から後半へという時間的な「タテの変化」(具体的には露墺関係の変化)と、ロシアの進出先の転換という地理的な「ヨコの変化」(クリミア戦争後の中央アジア、極東地域への進出)、ある地域における国際情勢に変化をもたらす「局地的な変化」(極東地域におけるロシアのプレゼンス上昇と極東情勢の変化、日ロ対立の発生、日英の接近など)という複数の変化が混在しているところです。これを600字の中にどう入れるかということが問題になるのですが、やはり字数の関係上、うまく言葉を入れていかないと十分にこれらの変化を示せずに、結局露墺関係の変化と英露対立示して終わり、ってことになりかねないですね。 

 

2014 第1

 問 題 概 要 

(設問の要求)

・ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について論ぜよ。

・時期はウィーン会議から19世紀末までの間である。

 

(本文から読み取れる条件と留意点)

・西欧列強の対応に注意を払いなさい。

・隣接するさまざまな地域への拡大をロシアの対外政策の基本として示すべきである。

・ロシアの「動向」がカギとなって変化した国際情勢に注目すべきである。

・特にイギリスとの摩擦には注目する。(ただし、他の列強についても注意が必要)

 

(指定語句)

 アフガニスタン / イリ地方 / 沿海州

 クリミア戦争 / トルコマンチャーイ条約

 ベルリン会議(1878年) / ポーランド / 旅順  (順番通り)

 

 解 法 の 手 順 と 分 析、 採 点 基 準

(解法の手順)

1、指定語句の整理またはロシアの対外進出地域の整理

:指定語句の整理から行うこともできますが、19世紀ロシアの対外拡大政策を地域ごとに把握できている人は、まず大まかなユーラシア周辺の地図を頭に思い描くことから始めても良いと思います。というより、その方が時間的に早いかもしれません。この時期のロシアの対外拡大が進められている地域を大まかに分ければ、以下の地域をあげることが可能だと思います。

 

 ・ヨーロッパ(東欧、北欧)

 ・バルカン半島

 ・中央アジア(カフカス地方[コーカサス地方]、トルキスタン)

 ・イランおよびアフガニスタン

 ・極東地域

 

  一方、仮に指定語句を中心にロシアの進出地域をまとめたとしても、以下のように、ほぼ同じような構成になると思います。ちょっと中央アジアの分けがアバウトになる感じですね。こういう時、地理的にカフカス地方、西トルキスタン、東トルキスタンをしっかり把握できている人は中央アジアに対する理解が強いですね。カスピ海とパミール高原を基準にイメージすると割と簡単に把握できるのでそれも別稿で示しますね。

 

 ・ポーランド東欧

 ・クリミア戦争、ベルリン会議バルカン半島

 ・アフガニスタン、イリ地方、トルコマンチャーイ条約中央アジア

 ・沿海州、旅順極東

 

2、設問の要求を精査し、それに沿った形で書くべきテーマを見出す。

 :設問の要求から、書くべき主要な内容がロシアの南下政策とイギリスとの対立(広い意味でのグレート=ゲーム)にあることは容易に想像がつきます。ただ、いくつか条件が付されていることから、それ以外の点にも注意を払う必要が出てくるでしょう。

 

 A、国際情勢の「変化」の「変化」という語

   「変化」というからには、Aという状態や関係性がずっと続くのではなく、BまたはCという別の状態と関係性へと移り変わらなくてはなりません。つまり、関係性の移り変わりを示さずにただ歴史的事項を書き並べただけでは駄目だということ。そのようなものがあるか考えると、とりあえず以下の例を挙げることができるでしょう。

 

   -ウィーン体制における露墺の協調から世紀後半の対立への変化

   -英の独自外交とロシアの南下政策の対立(南下政策の進展と挫折)

   -北東欧地域へのロシア支配の進行とそれに対する民族的反発

   -中央アジアからイラン、アフガニスタン地域における英露の均衡状態の創出

   -極東地域におけるロシアのプレゼンス拡大

 

 B、西欧列強の対応に注意

   「対応」に注意を払えというのですから、対外政策を行うロシアに対して欧米列強が示した反応を中心にまとめればよいでしょう。わかりやすい例としてはエジプト=トルコ戦争後のロンドン会議と五国海峡協定、クリミア戦争とパリ条約、露土戦争とサンステファノ条約に対するベルリン会議(ベルリン条約)などですが、何もこれに限ったことではないと思います。

  

 C、ロシアの「動向」がカギとなる事柄に注目すべき

   これも設問からの理解ですが、基本の構図は「ロシアが動く西欧列強が反応する」というものであることを理解すると話が作りやすいです。

 

 D、イギリスとの摩擦を中心の軸として想定する、べきか?

   これは難しいところですね。設問に示されている部分を読めば、「こうした動きは、イギリスなど他の列強との間に摩擦を引き起こすこともあった」とあるので、英露対立を中心に書けばよいような気になってきます。具体的にはパーマストン外交の勝利、クリミア戦争、ベルリン会議、イラン・アフガニスタンをめぐる抗争とアフガニスタンの緩衝地帯化(グレートゲーム)、極東地域への進出と間接的干渉(アヘン戦争、アロー戦争、日英同盟)などです。

   ですが、設問の設定がウィーン会議を起点としていること、国際情勢の「変化」に注目することを要求している点などを鑑みれば、やはりここはオーストリアとの関係と、19世紀後半の普墺露間の外交関係(ビスマルク外交)を外すわけにはいかないでしょう。イメージで言えば、英4、墺、3、普1、極東1、その他(仏など)1くらいのつもりで書きたいものですが、さて、そううまくいきますかねぇ。

 

3、2から大きな流れを設定する

  :2で考察した内容を踏まえて、大きな流れを設定すると19世紀前半については以下の2点を示すことができます。

 

  A、ウィーン体制(露墺が主導したため、協調関係をとる)

露の南下政策の進展とウィーン体制崩壊によりバルカンをめぐる露墺対立へ

  B、ウィーン体制を主導する露と独自路線を打ち出す英

   露の南下政策をイギリスが阻止(cf. 3C政策)

 

   一方、19世紀後半については、以下のようにこうした流れに一定の変化が起こることについても注意しておくべきでしょう。

  

  C、クリミア戦争後のロシアは、確かにパリ条約の妥協的な内容によってバルカン方面における南下政策の一時的な中断を余儀なくされたが、一方で極東方面や中央アジア方面への進出は成功させた。(cf. アイグン条約、北京条約、ウズベク三ハン国併合、イリ事件etc.) ただし、露土戦争後の展開によってロシアのバルカン方面への南下は完全に頓挫した。

  D、ウィーン体制後のヨーロッパにおける国際関係の変化

    (cf.三帝同盟とその解消、ビスマルク外交、ベルリン会議、露仏同盟など)

 

 どうも、高校の世界史教科書では、やたらと「ロシアの南下政策を阻止した」という流れにしたいらしく、Cの前半部分を強調するのですが、実際にはロシアは中央アジアをガッツリ南下してイラン、アフガニスタンに迫りますし、極東でもしっかり南下を成功させているのですよね。だからこそ、イギリスはアフガニスタンを緩衝地帯化する必要に迫られるわけですし、極東でも次第にロシアの影響力があらわになってきて、最終的には三国干渉、日英同盟、日露戦争のあのおなじみの流れにつながっていくわけです。こうしたロシアをdisってイギリスを持ち上げる歴史の書かれ方はもしかするとヨーロッパ中心史観ならぬ西側中心史観の名残なのかもなぁと思ったりもします。

 冒頭でも書いたように、本設問の「変化」には時間的な「タテの変化」と地理的な「ヨコの変化」と「局地的な情勢変化」などさまざまな変化が混在しています。これをどうまとめるかが腕の見せ所なわけですが、それでもやはり、大きい軸を2本用意しろと言われたら英露関係と露墺関係でしょう。ですから、この部分だけは取りこぼしのないようにしっかりと幹を作って、その上でその他の細かな変化を肉付けしていく方が、間違いが少なくて良いのではないでしょうか。

 

4、1でまとめた地域ごとに関連事項を整理し、3で設定した流れやテーマに沿ってまとめる。

  :基本的には指定語句にプラスアルファしていく形でいいかなと思います。地域ごとの詳細をまた例によって表にしてみましたので参考にしてください。(間違いがあったので一部修正しました。[2016.10.19] ギリシア独立戦争が何故かエジプト独立戦争とかになってました[汗])

 東大2014訂正版


(クリックして拡大) 

 

 解 答 例

 ウィーン議定書でフィンランドとポーランドの君主となりバルト海支配を強化した露は、支配地の民族運動を抑えるため墺と協調した。南下を進める露はトルコマンチャーイ条約でカージャール朝からアルメニアなどを奪い、オスマン支配下のギリシアやエジプトの混乱に乗じ地中海進出を図った。英印の連絡を重視するパーマストンはロンドン会議でウンキャル=スケレッシ条約破棄に成功し、露を妨害した。東方問題が深刻化する中で、クリミア戦争でも地中海進出を阻まれたことで露墺の協調関係が崩れ、独伊の統一やビスマルクによる新たな国際関係構築につながった。矛先を極東へ転じた露は、アイグン条約と北京条約で沿海州に進出、ウラジヴォストークを建設し不凍港を獲得した。また、中央アジアではウズベク3ハン国を併合し、イリ地方をめぐる争いで清との通商を拡大した。3C政策や中国進出を進める英は警戒し、イランへの進出を強め、アフガニスタンを緩衝地帯化して露との均衡状態を作った。汎スラヴ主義高揚で再度バルカン進出を図る露は露土戦争後のサン=ステファノ条約でブルガリアを影響下に置き、地中海への出口を確保したが、スエズ運河を持つ英と汎ゲルマン主義を掲げる墺の反発によるベルリン会議で南下を阻止され、三帝同盟は崩壊した。露は再度極東に進出、三国干渉後に清から旅順、大連の租借権を獲得し朝鮮へも影響力を拡大したことから英は光栄ある孤立を撤回し日に接近した。(600字、2016.10.19UP)
 

 とりあえずで作ってみました。解答としての出来は正直いまいちかなぁと感じてしまうのは、やはり我々世代のアタマだと英露対立をもっと総合的に見たい(だから、アヘン戦争やアロー戦争なんかももっと前面に出したいし、黒海周辺のせめぎあいも示したい)し、墺露(19世紀後半では普墺露)間の関係の変遷ももう少し詳しく示したいし、フランスの立ち位置も示したいのですね。大国主義~w

 ただ、それらを削って本設問に対する解答としての質が多少落ちたとしても、今回解答の中で示してみたいな~と思ったことを盛り込んでみました。それは「ロシアにとって、ヨーロッパって何だ?」っていうこと、そして「中央アジアとひとくくりにしてしまいがちだけど、その中身は地域によってだいぶ違うんだぜ」ということなどに触れておきたかったということです。
 まず、受験生の皆さんには周知のことですがロシアは北方戦争を機にスウェーデンにかわってバルト海に進出します。ピョートルの時ですね。その後もロシアは各方面への拡大を続けますが、特にエカチェリーナ2世期の拡大は目覚ましく、クリミア半島、ポーランドなどへと領土を拡大します。バルト海、ポーランド、黒海北岸…まさに19世紀のロシアの南下政策の前哨戦のようなことを18世紀を通じてやっているわけで、これらは連続しているのですね。そういう意味で、どうしてもウィーン体制というとポーランド立憲王国がクローズアップされがちなんですが、ここではフィンランドにもそれなりの意味を持たせたかった。それまでスウェーデンの支配下にあったフィンランドは1809年にロシアに割譲され、フィンランド大公国としてこの国の大公をロシア皇帝アレクサンドル1世が兼任し(フィンランド大公としてはアレクサンテリ1世)、それがウィーン会議で国際的に承認されます。ですから、まさにポーランドと同じような流れで実質的にロシアの支配下に入りますし、民族運動が強まることもポーランドと類似しています。何より、フィンランドとポーランドを支配下においたロシアはバルト海東岸地域の完全な支配者で、それまでとはヨーロッパに対して示す存在感が圧倒的に異なります。これをお見せしたかったんですね。下は、19世紀のロシアとその影響下にある地域の地図です。


map-russia-19c
(http://www.globalsecurity.org/military/world/russia/maps-history.htm)

 また、中央アジアについてですが、当時ロシアが進出していたのは同じ中央アジアでも「カフカス地方」、「西トルキスタン」、「東トルキスタン」と複数あり、それぞれの地域で敵対する相手も、その地域の持つ意味合いもかなり異なります。まず、地理的な把握をしておきましょう。「カフカス地方」は別名を「コーカサス地方」ともいう、黒海とカスピ海に挟まれた地域になります(上の地図を参照)。ここには現在のグルジアやアゼルバイジャン、アルメニアなどがあり(下の図を参照)、豊富な天然資源(アゼルバイジャンのバクー油田などは有名です)もあり、民族構成も複雑で、現在でもチェチェンやナゴルノ=カラバフ、グルジア(ジョージア)などで紛争が起きました。当時ここをロシアと接していたのはカージャール朝イランで、建国したばかりのイランは南下するロシアとの戦いに巻き込まれていきます。トルコマンチャーイ条約が締結されるのはこの時です。

 Caucasus
(Wikipediaより引用)

 一方で、ウズベク人の3ハン国(ボハラ[ブハラ]、ヒヴァ、コーカンド)があるのは西トルキスタンで、これはカスピ海とアラル海をまたいだ地域になります。サマルカンドなんかはこの西トルキスタンの中心都市(現ウズベキスタン)になるわけです。
 こちらもイランと接していますが、この地域にある3ハン国を領有したこと、その後最後まで抵抗するトルクメンをギョクデぺの戦いで制したことは、より直接的にインドを植民地として持ち、イランへの進出を進めて3C政策を展開するイギリスにとっての脅威となりました。これは上の地図を見ればおわかりになるかと思います。そこでイギリスはアフガニスタンを緩衝地帯として保護国化、と言えば聞こえはいいですが、最後の最後でアフガニスタン人の抵抗にこっぴどくやられた結果完全支配することができず、外交面での帳尻合わせをしたに過ぎないかったわけですが、とにかくもロシアとの「住み分け」をする材料を手に入れます。この地域ではその後もしばらく緊張が続きますが、日露戦争でロシアが敗れたこととロシア第一革命(1905)を機に英露協商で同地域(イラン、アフガニスタン、チベット)の勢力圏が設定されることになります。

 また、東トルキスタンは現在の新疆ウイグル自治区です。よくシルクロードの地図ということで、タクラマカン砂漠を中心に天山北路、南路、西域南道などが出てくる地域ですね。実は、イリというのは現在の新疆ウイグル自治区で、まさにこの地域です。
 この地域で起こったイスラームの反乱の混乱に乗じて、コーカンド=ハン国の軍人であるヤクブ=ベクが同地域を制圧します。実はヤクブ=ベクはその後イギリスから武器などを援助してもらっています。ヤクブ=ベクによって同地に駐留していた清軍は追い払われてしまったわけですが、この地域にロシア軍が進駐します(1871)。清は左宗棠を派遣してヤクブ=ベクの反乱を鎮圧するのですが、ロシアが占領していたイリ地方をめぐってその帰属が問題となり、最終的にはイリ地方は東部を清が、西部をロシアが領有し、同地におけるロシアの通商権を認めるというかなりロシア寄りの内容のイリ条約(1881)によって決着がつきます。こうした意味で、イリ事件は西トルキスタンをめぐる英露の対立構図も絡んできて、その性格が強い一方、ロシアの清への進出政策の一環としてもとらえうる事件となっています。こうしてみると、中央アジア、とひとくくりに語るのはかなり乱暴だということがお分かりになるのではないかなと思います。
 前に書いておいたサン=ステファノ条約とベルリン条約の関係については、別稿を設けてお話しすることにしたいと思います。ではでは。