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カテゴリ: 大学入学共通テスト(センター試験)

もう色んな方が解いて解答出しているようですが、今年もひとまず解いてみました。解説も用意しましたが、結構手間がかかったのでチェック後回しにしています。もしかすると血迷って間違えているところなどあるかもしれませんので、お読みになる場合には自己責任でお願いします。

全体の感想ですが、ところどころに資料問題として良質な設問が見られました。単なる国語の問題や史料の読み取りが主で世界史の知識は表面的な浅い知識があればいいというスタイルの設問ではなく、かなり深い知識まで駆使して丁寧に情報を整理する必要のある設問ですね。一方で、単なる国語の問題にとどまっている設問も相当数ありました。

今年の問題は、世界史の知識として難しいかと言われるとそうではないけれども、とにかく時間がかかるのでそれがしんどい、というタイプの問題ではないかと思います。60分で解けないことはないと思いますが、実際の受験生は自己採点のためのチェックとか、見直しの時間なども必要になるので、これまでのセンター試験では十分に確保できていた、こうしたことに費やす余裕がかなり圧迫されたのではないかと思います。その分、見逃しやミスの増加、自己採点の精度が悪くなるなどの影響が出そうだなぁと思いました。問題数が34問とそう多いわけではないのは救いと言えば救いですが、これだけ読み取りを要求する問題を出すのであれば、30問くらいにしても良いかなという気もします。各予備校は「やや難化した」としているところが多いようですが、上記のような理由で妥当な評価である気がします。
 3年分出てきましたので、概ねこの出題スタイルで固まってきているのではないでしょうか。1年分とか2年分だと次もそうなるか不確かなところがありますが、3年分もデータが出そろったのであればそろそろ、分析をしてもいいころかもしれません。

2023年 大学入学共通テスト世界史B 解答と解説】

 

 1  

:フィンランドは1815年のウィーン議定書でロシア領になっているので、アはロシア。BRICSはブラジル(Brazil)・ロシア(Russia)・インド(India)・中国(China)でロシアは入っている。2001年にゴールマン=サックスのジム=オニールが使い始めたのが最初とされる。

 

① 北方戦争で戦ったのはロシアのピョートル1世とスウェーデンのカール12世なので、イギリスではない。

② シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州をプロイセンと争ったのはオーストリアなので×。また、オーストリアはこれらを争った普墺戦争(1866)でプロイセンに敗れている。

③ ピウスツキはポーランドの人物。

 

 2  

:イギリスがインドから兵士・物資を出させた代わりに自治を約束したものの、戦後その約束が果たされなかったことからインドの民族運動が激化したことを思い出すと良い。

 

① オスマン帝国は同盟国側なので×。第一次世界大戦の同盟国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアなので注意。また、オスマン帝国に対する独立闘争を繰り広げていたアラブ人の運動をイギリスが支援していたことなどを想像すれば、「オスマン帝国 VS イギリス」という構図が思い浮かぶので、協商国ではあり得ない。

② タンネンベルクの戦いはドイツとロシアの戦いで、東部戦線での出来事。西部戦線でドイツ軍の進軍を阻んだのはフランスで、マルヌの戦いが有名。

④ レーニンが出したのは平和に関する布告(1917)で、無併合・無賠償・民族自決などを主張した。アメリカのウィルソンが出した十四か条の平和原則(1918)にも民族自決の理念が見られるが、これは平和に関する布告よりも後のことだった。

 

 3  

 

室井さん:誤。ニュージーランドが自治領になるのは20世紀に入ってから(1907)なのに対し、女性参政権の獲得は19世紀末(1893)。

 

渡部さん:正。イギリスの第4回選挙法改正(1918、ロイド=ジョージ挙国一致内閣)で女性参政権が認められた。ただし、男性が満21歳以上とされたのに対し、女性は満30歳以上という年齢による差があったことには注意。

 

佐藤さん:誤。キング牧師の主導した公民権運動は1960年代、ケネディの頃。ケネディ暗殺後の1964年、ジョンソン大統領の頃に公民権法が制定された。第一次世界大戦は19141918年。

 

 4  

:史料中最後に、北方の女性の振る舞いが「平城に都が置かれていた時代からの習わしであろうか」と書かれている。平城は北魏の最初の都なので、②が正しいとかんがえるべき。匈奴も北方の異民族、隋ももともとは北朝の流れをくむので、よく勉強している人ほどやや難しく感じるかもしれない。

 

 5  

:難しいが、良問。文章中、中村さんは中国の女帝について言及しているが、中国史の女帝と言えば則天武后のことなので、唐を意識して話していると考えることができる。唐に関連する文章には①と②があるが、科挙官僚が門閥貴族に代わって力を持ち出すのは則天武后によって科挙官僚が重用される唐中期以降の話であって、則天武后が「出現する」原因にはなりえない。

対して、唐の建国者李淵は、北朝時代に鮮卑系軍人と漢民族の土着勢力が融合して形成された関隴(かんろう)集団の血を引いており、唐の門閥貴族にはこうした出身者が多かった。関隴集団については高校世界史では用語としてはあまり出てこない。(山川と東書の教科書、山川用語集には記載がないが、山川の『詳説世界史研究』には記載有り。[p.124] こうして共通テストで出てくるところを見ると、難関大ではもしかすると今後、関隴集団やその視点を問う設問が増えてくるかもしれない。) しかし、上述の通り、②が消去できるので①が正解。また、家の中における女性の傾向という、本文の内容とも合致する。

 

 6  

:この時代(北魏、都が平城の頃)以降とあるので、それ以前のものは消去する。『五経正義』は唐の時代に孔穎達らが編纂した儒学のテキスト五経の注釈書なので問題なし。

 

① 清談がはやるのは魏・晋の時代。

② 董仲舒による儒学官学化は前漢・武帝の時代。

③ 新天師道を興した寇謙之は北魏3代目の太武帝の頃の人物だが、道教の指導者で儒者ではない。

 

 7  

:基本的には消去法で解くことになる。

 

① 文章をよく読むと、以下のようになっていることが分かる


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フランス王家であるカペー朝と、ナバラ王家は、家系図からも別家系なのは明らかなので、右の図柄がクレシーの戦いにおける図柄(左の図柄)と同じとする①は誤り。

 

③ 上述の通り、両図柄はフランス王家とナバラ王家のものであり、イギリス王家は無関係。

④ 家系図より、ナバラ王であったのはアンリ4世の母であって、父ではない。

 

 8  ①

:サン=バルテルミの虐殺は、ユグノーとの和解を図ったカトリーヌ=ド=メディシスにより進められたナバラ王アンリと、フランス王妹マルグリット(カトリーヌの娘)の結婚式のために集まったユグノーたちが、カトリックの首領ギーズ公アンリに虐殺された事件。このあたりのことについては以前一橋の2012年解説で詳しくお話ししました。

 

② ドイツ農民戦争の指導者はトマス=ミュンツァー。ツヴィングリはスイスのチューリヒでカルヴァンに先んじて宗教改革を展開した人物。

③ 首長法を制定したのはヘンリ8世。

④ 文章自体は正しいが、イエズス会はカトリック。(対抗宗教改革の文脈で出てくることを忘れないように。)設問はプロテスタントについて聞いているので不適。

 

 9  

:文章中に「宰相マザランが死去した後、親政を始めた」とあるので、該当するのはルイ14世(あ)。ネッケルはルイ16世の頃に活躍したスイス生まれの銀行家で、財務長官(財務総監)を務めた人物なので、文章Xは不適。よって、組み合わせは「あ」と「Y」の②。

 

 10  

:史料の中で、 ウ の支配者は自分のことを「わたしたちウマイヤ家」と呼んでいる。しかし、ファーティマ朝が成立している時期なので、ウマイヤ朝ではありえないので、この王朝は後ウマイヤ朝であることが分かる。よって、支配していた半島はイベリア半島であるから、該当するものを選べばよい。ムワッヒド朝はその前のムラービト朝と同じく、ベルベル人が中心となって建てた国なので、③が正。

 

① ルーム=セルジューク朝はアナトリア半島に成立する王朝で、イベリアの王朝ではない。

② イベリア半島最後のイスラーム王朝はナスル朝。イベリア半島では西ゴート王国というゲルマン王国が後ウマイヤ朝に倒された後、「後ウマイヤ朝→ムラービト朝→ムワッヒド朝→ナスル朝」と変遷し、1492年にナスル朝の都グラナダが陥落してレコンキスタが終結すると、イベリア半島からイスラーム王朝が消滅した。

④ ワッハーブ王国はアラビア半島に建設された王国。

 

 11  

:ムハンマドの後継者である正統カリフは「アブー=バクル→ウマル→ウスマーン→アリー」の順。

 

② アブデュルハミト2世は、スルタン=カリフ制とパン=イスラーム主義を利用して専制の強化を図った人物。カリフ制の廃止はトルコ共和国が成立して間もなくの1924年。

③ ブワイフ朝の君主は、アッバース朝のカリフから大アミールの称号を与えられて政治的諸権利を委譲されたので、カリフは名乗っていない。

④ サファヴィー朝が活動していたころにカリフを保護していたとされるのはオスマン帝国。また、サファヴィー朝はシーア派王朝なので、アッバース朝(スンナ派)カリフを擁立する必然性がない。

 

 12  

:シーア派であるファーティマ朝がアッバース朝カリフの権威を否定してカリフを自称したことは世界史の教科書等でも学習する内容。さらに、史料2はファーティマ朝がアリーの子孫によるものであることの証拠としてアッバース朝カリフの手紙を挙げているので、④の内容は正。

 

① ファーティマ朝(909年)の成立はアッバース朝成立(750)の後。

② 上述の通り、ファーティマ朝はシーア派。

③ 史料を読むと、「シリアやエジプトを取り戻せない無能力」の主語はアッバース朝であってファーティマ朝ではない。国語の問題。

 

 13  

:図は、「ナポレオンの帰還」を描いたもの。これはエルバ島を脱出したナポレオンを描いたもので、当時フランス国王であったのはルイ18世。

 

① アルジェリアがフランスによって侵略されるのは、シャルル10世の頃に始まるアルジェリア出兵(1830~)がきっかけだが、占領までにはかなり長い時間がかかる。いずれにせよ、アルジェリアがフランス支配下とされていく時期は「七月王政(国王:ルイ=フィリップ)~第二共和政~第二帝政(皇帝:ナポレオン3世)」の頃なので不適。

② ルイ18世は恐怖政治を敷いていない。

③ ヴァレンヌ逃亡事件で捕まったのはルイ16世。

 

 14  ②

 ア に入るのは「トゥサン=ルヴェルチュールが独立運動」とあるのでハイチ(a)。また、ナポレオンが最終的に流されるのはセントヘレナ島(c)。

 

 15  

:文章より、宋代に興った新しい学問であることが分かるので ウ は宋学(朱子学)。宋学は北宋の周敦頤から始まり、南宋の朱熹(朱子)の時に大成されたので朱子学とも呼ばれる。朱子学は『五経』に加えて『四書』を重視したことでも知られる。また、臨安は南宋の都なので③が正しい。

 

① 科挙が創設(導入)されたのは隋の時代なのでおかしい。

② 金の支配下で儒・仏・道の三教融合を目指したのは王重陽が創始した全真教。

④ 王守仁(陽明)は陽明学を大成した人物で、知行合一は陽明学における基本的な考え方。

 

 16  

:文章中には顧炎武が紹介されている。顧炎武は明から清へと王朝が変わる時代に、考証学の祖として黄宗羲とともに知られる人物。『日知録』で知られる顧炎武も、『明夷待訪録』で知られる黄宗羲も、早慶などでは頻出の人物。また、17世紀とあることからも、王朝交替が明→清であることが分かる。

 同時期に起こった「書院を拠点とした争い」とあるので、東林書院のことを言っていることが分かる。明の末期には、東林書院に反宦官派の官僚や文人が集い、東林派と呼ばれる集団を形成していたが、これが宦官魏忠賢に弾圧される事件が起こった。

 

① 張角の太平道が起こした黄巾の乱(184)は後漢の末期。

② 秦檜(和平派)と岳飛(抗戦派)の対立が生じたのは南宋の時代。

③ 土木の変(1449)は明の時代ではあるが、明の中期である6代目正統帝(英宗)の時代で、15世紀。

 

 17  

:丁寧に読み解かないと足元をすくわれそうな問題。まず、科挙以前の官吏任用制度として知られるのは、前漢の武帝の頃に導入される郷挙里選と、魏の時代に始まる九品中正法で、「あ」が郷挙里選、「い」が九品中正法を指していると考えられる。「あ」の文章に問題はないが、「い」は最終的には中央の高官の意図が反映されやすく、門閥貴族を形成したことで知られている。cf.「上品に寒門なく、下品に勢族なし」) そのため、「貴族の高官独占が抑制された」という部分が誤り。

 また、朝鮮・日本における人材登用制度に対する考えについては、「日本の社会には中国で理想とされる周代と共通する要素があると考え、周代の制度を参考にして…」とあるので、日本は周の制度を肯定的にとらえていることが分かる。そのため、「Y」の「日本の儒学者が、周の封建制を否定的に考え…」という部分は明らかな誤り。こちらは国語の問題。よって、正しいのは「あ」と「X」の組み合わせである①。

 

 18   

:『四書大全』は明の永楽帝の時代に編纂された『四書』の注釈書。『四庫全書』は清の乾隆帝の時に編纂された叢書。叢書とは、世間にある書物を集めて、各書の一部を引用するなどして一定の形式に整えて、編纂し直したものを言う。

『四庫全書』がどんなものか、ということは用語を覚えているだけだとイメージしにくいが、『四書大全』が『四書』の注釈書であるということをおさえてさえあれば、文章の言っている「四」が『四庫全書』の話をしているのは明らか。また、時代は清の時代なので、該当するのは辮髪について述べている方。よって、組み合わせより④が正しい。(中書省の廃止は明の初代皇帝である洪武帝による。)

 

 19  

:これは、すぐに解ける人と時間のかかってしまった人とがかなり分かれる設問。普通は、文章を丁寧に読んで解くことになります。文章を読むと、以下のことが分かります。

 

『隋書』経籍志の中に『漢書』があり、この『漢書』芸文志の中に『易経』をはじめとする五経(書経・詩経・易経・春秋・礼記)が含まれている。

 

よって、「あ」の『詩経』は含まれているとかんがえるべき。対して、『資治通鑑』は北宋の司馬光が著した歴史書で、これが『漢書』に含まれているはずがありません。(文中にあるように、『漢書』は1世紀にできた書物だが、司馬光は11世紀の人物) 勘のいい人は、『資治通鑑』は初めから入っていないということを理解した上で、『詩経』の有無のみ確認する作業に集中すればよいですが、文章を一から丁寧に読んで両方の情報を探そうとすると思わぬ時間がかかってしまう可能性があります。

 

 20  

:あまり良い問題ではありません。他のところでは世界史の知識を用いて解く設問も多く出しているわけですから、この問題を解いている受験生にとっては「書いてあること=正しい」とは判断できても、「文章に書いていないこと=間違っている」とは必ずしも判断できないと思われます。そのため、②と③で迷った人が多かったのではないでしょうか。③に書かれている「本紀」と「列伝」を主体とする歴史書とは、紀伝体で書かれた歴史書のことなので、これが正。

 

① これは、文章の最後の方で「1世紀にはまだ四部分類がなかったのですか。」→「その通りです。当時は史部という分類自体、存在しませんでした。」とあるので、明らかに誤り。

② 文章中には歴史書が増加したことは書かれているが、その原因が木版印刷の普及にあったとは書かれていない。また、木版印刷が中国で普及するのは唐代以降なので、3世紀から6世紀にかけて歴史書が増加した理由にはならない。ただし、中国における木版印刷の普及がいつごろからかという知識は通常の高校受験生は持ち合わせていないと思われるので、判断材料が問題の会話文にしかないことになるので、②を誤文とする根拠はやや弱い。

④ 文章中には宣教師については書かれていない。また、『四庫全書』が編纂されたのがそもそも18世紀の乾隆帝時代なので、この時代に四部分類が用いられなくなったとするのはおかしい。

 

 21  

:それぞれの貨幣についての説明(貨幣1=ソリドゥス金貨、貨幣2=発行したのがムアーウィアの開いた王朝)から、貨幣1を発行したのは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、貨幣2を発行したのはウマイヤ朝で、貨幣はディナール金貨と分かる。当てはまるのは、ユスティニアヌスの時にトリボニアヌスが編纂した『ローマ法大全』など、ローマ法の集大成をビザンツが行ったことから③。

 

① ゾロアスター教が国教とされたのはササン朝ペルシアであってビザンツ帝国ではない。

② パルティアを征服したのもササン朝。ウマイヤ朝ではない。

④ ウマイヤ朝の都はダマスクスであってバグダードではない。(バグダードはアッバース朝の都として有名。)

 

 22  

:よく読めば答えはわかるのですが、正直に言って設問の文章が読みにくいです。「情報処理能力が必要とされている」と言えばたしかに聞こえはいいのですが、日常においてこの手の情報処理能力が必要かと言われると…。いや、相手の国語が怪しい場合にはあり得るのか…。「父親が解読できない母親の言いたいことを、なぜか息子は即座に解読できてしまう(我が家の場合)」みたいな能力なのか…。いや、これはまた別か…。ヤバイ顧客やヤバイ上司への対応には必要になる力なのかも…。あれ?やっぱり必要な能力なのか?これ。

 何が分かりにくいのかというと、「貨幣2を発行した王朝」と「貨幣2の発行者」が別の存在を示していることを読み取れないと、選択肢の読み取りを間違えてしまう可能性があるのです。前者はウマイヤ朝ですが、後者はウマイヤ朝の5代カリフであるアブド=アルマリク(アブドゥルマリク)のことを指しています。ですが、貨幣2を発行した王朝はウマイヤ朝なわけですから、「貨幣2の発行者」=ウマイヤ朝と読み取ることもできてしまうため、「貨幣2を発行した王朝」と「貨幣2の発行者」が同一の主体なのだととらえてしまう可能性があります。(実際、私は最初そのように読み、そこで「ん?行政において別言語を認めたのに、同じ存在が行政で用いる言語をアラビア語に統一している?しかも逆接で結ぶ?」と矛盾を感じ、「ん~?」と30秒ぐらいにらめっこしてから「ああ。(ピコーン)」となりました。)

読み取らせたいのはわかるのですが、本設問は国語ではなく、世界史の設問なので、最低限、妙な形でミスリードしない程度の舞台装置はととのえていただきたいものです。(「貨幣2の発行者」ではなくて、「貨幣2を最初に発行した王(王がまずければ政治的指導者)」とか。)

 さて、そうしたわけで三人の言っていることの正誤は以下のようになります。

 

佐々木さん:正。

鈴木さん:正。

広田さん:誤。ソリドゥス金貨を最初に発行したのはローマ帝国のコンスタンティヌス帝。ヴァンダル王国を滅ぼすのはビザンツ帝国のユスティニアヌス。

 

 23  ⑤

:資料1を書いたのは『対比列伝』の著者とあるのでプルタルコス。プルタルコスは文中にもあるようにローマ帝政期(五賢帝の時代は1世紀~2世紀)の人物で、文章より史料2の著者も同時代人と分かる。対して、アリストテレスは古代ギリシアの哲学者で、前4世紀の人物であるから、その弟子のヘラクレイデスが生きた時代は史料12の著者の時代よりも古い。( ア に入れる語句は「い」)

 だとすれば、よりマラトンの戦いに近い時代を生きたのはヘラクレイデスになるので、その言の方が信憑性が高いことになるので、テルシッポスが使者であるとする方が妥当。( イ に入れる人物名は「Y」) エウクレス説は「今の多くの人」が言っていることで、ヘラクレイデスの言ではないので注意。

 

 24  ①

:マラトンの戦いがあったのはペルシア戦争(第2次)。ペルシア戦争のきっかけはイオニア(アナトリア半島南西部の地方)の都市国家ミレトスのアリスタゴラスが起こした反乱がきっかけ。

 

② エフタルを滅ぼすのは突厥とササン朝の挟撃によるもので、6世紀。

③ コリントス同盟が結成されたのはマケドニアのフィリッポス2世が主導したもので、カイロネイアの戦いの後。

④ プラタイアイの戦いはペルシア戦争中だが、この戦いでギリシア軍は勝利している。

 

 25  ③

:上述の通り、資料1ならびに『対比列伝』の著者プルタルコスは、ヘラクレイデスと「今の多くの人」の説を併記している。

 

① ペイシストラトスは前6世紀のアテネの僭主で、ペルシア戦争が起こるよりも前の人物であるから知りようがない。アテネについては「ドラコン→ソロン→ペイシストラトス→クレイステネス→テミストクレス→ペリクレス」の流れは必須なので注意。(アテネ民主政の発展についてはこちら

② トゥキディデスの『歴史(戦史)』はペロポネソス戦争について書いたもの。

④ 文中にある「 ウ (ペルシア戦争)を主題とした紀元前5世紀の歴史家の著作」がヘロドトスの『歴史』で、これには資料2でマラトンの戦いの使者とされるフィリッピデスの名前はマラトンの戦い以前にスパルタにつかわされた使者として出てくると書いてあるので、正確に反映しているとは言い難い。

 

 26  

 エ に入るのがゲルマン人の大移動であるのは基本事項なので、資料1と資料2の読み取りに集中すればよい。

資料1は、アングル人がサクソン人とジュート人とともに渡ってきたゲルマン人であることは書かれているが、言語については一切言及がないので、こちらが「あ」。

これに対して、資料2にはサクソン人とジュート人の名前はあがっていないが、異なる言語を話す5つの民族が書かれている。ゆえに、資料2の「アングル人」にはゲルマン人として同じ言語を話すサクソン人やジュート人も含まれる表現であると考えるべきなので、こちらが「い」。

 

 27  

:資料1は「マルキアヌスが即位した年」はカルケドン公会議が開かれた年であると注にあるので451年。資料2はベーダが執筆している時期なので731年頃。資料3はゲルマン人への布教で知られるグレゴリウス1世についての話なので、6世紀~7世紀。(グレゴリウス1世の在位年は590年~604年。)

グレゴリウスの時期特定がやや難しいが、文章よりグレゴリウスの時期にはすでにブリテン島にはアングル人が渡って暮らしていることがわかるので、少なくともグレゴリウスは資料1よりは後の人。あとはベーダとの比較だが、通常教科書などではグレゴリウスのゲルマン人への布教は6世紀頃とされ、ベーダの時代の8世紀ではさすがに遅すぎる。(8世紀前半というと、トゥール=ポワティエ間の戦い[732]が起こるころ。)

よって、時代順は資料1→資料3→資料2となる。

 

 28  

:ジョン=ボールはワット=タイラーの乱の際の思想的指導者の一人。ウィクリフの影響を受けたロラード派の聖職者であったとされる。

 

① クローヴィスの改宗は5世紀末で、この頃にはまだノルマン人の移動は起こっていない。先住だったのはローマ系の人々。

③ 統一法(1559)を発布したことで知られるのはイギリスのエリザベス1世。

④ 第1回十字軍が提唱されたのはウルバヌス2世によるクレルモン公会議(1095)。ボニファティウス8世はアナーニ事件(1303)でフィリップ4世に幽閉され、憤死する教皇。

 

 29  

:マラヤの宗主国はイギリス。もっとも、選択肢が全部イギリス絡みなので実質的には選択肢の正誤判断のみでOK。シンガポールは19世紀前半(1819)にイギリスのラッフルズがジョホール王国から獲得したもの。

 

② 東インド会社の貿易上の諸特権が廃止されるのは19世紀前半。(対インド貿易特権廃止が1813年、対中国が1833年。)東インド会社自体がインド大反乱(18571859)を契機に解散される(1858)ので、これをおさえてあれば19世紀後半に貿易特権廃止はおかしいと気づける。

③ 公行の廃止が決められるのはアヘン戦争の後の南京条約(1842)。北京議定書は義和団事件の時(1901年)。

④ オタワ会議でスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)の構築が決定されたので×。

 

 30  

:フィリピンの輸出が圧倒的に多いので、 ア はフィリピンの当時の宗主国であったアメリカ合衆国と判断できる(「い」)。アメリカ合衆国でゴムの需要が伸びたのはフォードT型の大量生産によるタイヤ需要が増加したためと考えるのが妥当なので、適当な文は「X」。

 

 31  

:インドシナの輸出額上位5地域は表より香港・フランス・マラヤ・インドネシア・中国であるので、正しい。本設問は丁寧に読み解く必要があり、正誤の判断よりそちらが大変。

 

① インドネシア(オランダ領東インド)の宗主国はオランダで、その割合は21.0%。これは、マラヤの宗主国イギリスの14.3%より高いので、×。

③ 強制栽培制度が導入されていたのは1830年に総督ファン=デン=ボスによって導入されたジャワ島で、フィリピンではない。また、この強制栽培制度も19世紀後半には見られなくなっていく。

④ インドシナの輸出額最大の相手は香港。インドシナの宗主国がフランスであるのに対し、香港の宗主国はイギリスだったので同じではない。

 

 32  ①

:表から読み取れる事実をしっかり確認することが大切。表1を見ると、都市人口比率が上昇しているので、①と②では②が×となる。また、表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口は上昇しているので、③と④では④が×となる。よって、①か③の2択となるが、③のウで述べられている農業調整法(AAA)はアメリカのニューディール政策で行われるものなので、イギリスの話としては適切ではない。よって、①が正解。(①で述べられている「新農法」とはノーフォーク農法のこと。)

 

 33  

:アイルランドのジャガイモ飢饉とアメリカ合衆国への移民の増加、またそれに関連するグラフ読み取り問題は頻出と以前にも書きました。(→「史資料問題でよくみる」

 

② クロムウェルによるアイルランドの征服は17世紀半ばのピューリタン革命後のこと。

③ 南北戦争は18611865なので、1870年代ではない。

④ グラフより、1895年の移民数は1890年の時点の移民数より減少しているので×。

 

 34  

:ダービー父子によるコークス製鉄法が正だが、基本は消去法で解く。

 

① 大西洋三角貿易の品目にアヘンはない。アヘンが入るのはアジア三角貿易。

③ ラダイト運動は機械の打ちこわし運動で、選挙権獲得運動ではない。イギリスで起こった選挙権獲得運動としてはチャーティスト運動が有名。

④ 1833年の工場法(一般工場法)は労働条件の改善を定めたもので、環境汚染の問題については触れていない。

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河合塾、駿台・ベネッセともに今回の大学入学共通テストの世界史B予想平均点は66点(昨年比+3点)とのこと。先日の解答解説の記事の中で「問題が難しかったのかというとそういうわけではなく、時間がかかったのは設問の条件や情報の整理を注意深く行う必要のある個所で時間がかかっただけで、設問を解くにあたって必要な世界史の知識については、昨年度の設問よりもやや易化したのではないかと思います。」と書いた後で、世間ではめっちゃ難化したという話を聞いたので、「あれ?もしかしたら適当なことを書いてしまったかしら…」と心配していたのですが、だいたい感じたとおりだったようです。

(河合予想)
https://www.keinet.ne.jp/center/average/22_index.html

ただ、今回は特に数学をはじめとして受験生はかなり苦戦した様子。自分も受験生の時に似たような目にあった(現役生と浪人生の数学平均点差が鬼)ので他人事とは思えませんが、自分のできなった分は周りも同じようにできなかったととらえて、前を向いてこれから頑張ってほしいと思います。


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さて、今年で2度目の実施になります「大学入学共通テスト」です。昨年の共通テスト世界史Bでは史資料を用いた設問が多く出て、従来のセンター試験の出題よりもアタマを使わせる設問となっていたため、情報の整理を素早く行うことが苦手な人にとっては難しくなっていたことについては、昨年の問題解説を行った際にお話しをいたしました。

では、今年度はどうだったか。受験生の実感をつかむために、解説を作る前に時間を図って解いてみました。何分で解けたとかはここでお話しすることではありませんが、概ね、従来のセンター試験の問題を解くよりも35分は多くかかったように思います。曲がりなりにも歴史を専門にしている人間が解くのに35分余分にかかるわけですから、受験生であればかなりの負担感があったのではないでしょうか。

ですが、それでは問題が難しかったのかというとそういうわけではなく、時間がかかったのは設問の条件や情報の整理を注意深く行う必要のある個所で時間がかかっただけで、設問を解くにあたって必要な世界史の知識については、昨年度の設問よりもやや易化したのではないかと思います。これが何を意味するかといえば、ミスが怖いということです。知識面でそれほど難しいことが問われていないのであれば、一定レベルの知識を身に着けた受験生同士で差がつくとすれば、情報の読み取り違えや、注意不足による誤答などで差がつくことになり、今年の問題でも昨年と同じく、頭の中でだけ処理しようとすると答えを選ぶのに時間がかかる、またはミスをしてしまいがちな設問が多く見られました。特に、複数の要素を組み合わせた答えを選択肢の中から選ぶスタイルの設問では、確実に自分の選んだ選択肢が何だったのか、一つ一つチェックしながら解き進めることが大切だったように思います。全体としては、昨年と比べてとんがったところが少なくなった、ごくごくオーソドックスなタイプの設問だったように感じました。

 

 1 ‐①
:下線部は、「解剖学、植物学、薬学」となっておりますので、これに関する書物を選ぶことになります。『本草綱目』は明の李自珍による薬学に関する百科事典です。明の時代の実用書には他に宋応星による『天工開物』や徐光啓の『農政全書』などがありますが、どれも頻出のものになりますので、覚えておくようにしましょう。

 

②‐北宋の司馬光が著した『資治通鑑』は歴史書なので×

③‐明の宋応星が著した『天工開物』は産業技術書なので× 産業技術とは具体的にどんなものかといえば、錬鉄、製紙、製陶などで、Wikipediaの『天工開物』を調べれば実際にどんなものか見ることができますので、イメージもわきます。

④‐梁の昭明太子による『文選』は詩文集なので×

Chinese_Fining_and_Blast_Furnace

Wikipedia「天工開物」より)


 2 ‐②
:空欄 ア はオランダの東南アジア拠点とあるのでジャワ島のバタヴィアなので、b


 3 ‐②
隋の煬帝による高句麗遠征(612614)は有名。この遠征に失敗したことなどが隋衰退の原因となります。一本釣りでも解けますが、丁寧に消去法で解きましょう。

 

①‐楽浪郡を置いたのは前漢の武帝。楽浪郡はその後も続きますが、4世紀に高句麗に滅ぼされました。また、唐の時代の朝鮮半島は新羅が支配しています。

③‐南京条約(1842)は清、イギリス間のアヘン戦争の講和条約(1840-1842)で、朝鮮は無関係です。清が朝鮮の独立を認めさせられることになるのは、日清戦争(1894-95)の講和条約である下関条約(1895)。

④‐朝鮮王朝は確かに科挙を導入しますが、科挙が始められたのは隋の頃とされていて、明の時代が最初ではありません。

 

 4 ‐②

:ウラマーとはイスラーム世界の知識人のことですが、基本的にはクルアーンに基づくシャリーアやハディースに精通した法学者・神学者のことです。対して、スーフィーとは、イスラーム神秘主義(スーフィズム)の修行僧のことを指します。ウラマーがクルアーンの一言一句とその意味するところにこだわるのに対して、スーフィーは儀式や感覚的な神との一体化を追求します。史料を読めば、ハサン=ブン=イーサーがウラマーであるのは明らか(「法学者やハディース学者が彼を高く評価」、「彼のハディース講義は…」など)ですので、選ぶべき記号は「あ」と「Y」の組み合わせである②になります。

 

 5 ‐②

:ネストリウス派はエフェソス公会議(431)で異端とされて以降、イランを経由して中国にまで伝わり、景教と呼ばれます。

 

①‐サファヴィー朝はシーア派の十二イマーム派を奉じる王朝です。

③‐カニシカ王はインドのクシャーナ朝の王で、第4回仏典結集を行ったことで知られています。

④‐イスラームと融合してシク教になるのはヒンドゥー教です。シク教はカビールの改革の影響を受けたナーナクが創始しました。

 

 6 ‐④(基本問題)

:ウマイヤ朝が「アラブ帝国」と呼ばれアラブ人に免税特権を与えるなど優遇していたのに対し、アッバース朝がムスリムの平等を達成して「イスラーム帝国」としての性格を有したことは小論述などでもよく出題される基本事項です。その他の選択肢もアッバース朝の時代とはかけ離れています。

 

①‐バーブ教徒の乱(18481850)はカージャール朝の時。

②‐ダレイオス1世はアケメネス朝ペルシアの人物で、まだイスラーム教が成立していない。

③‐アフガーニーは19世紀の人物。

 

 7 ‐①

:空欄 エ は、契丹と並んで『遼史』、『金史』に書かれているとあるので、金を建国した女真族であるのは明らか。猛安・謀克(ミンガン・ムケ)は金の時代の部族制度。

 

②‐ソンツェン=ガンポはチベットに存在した吐蕃の建国者。

③‐テムジンはチンギス=ハンのことでモンゴル帝国の創始者。

④‐冒頓単于は匈奴の人物。前漢の高祖、劉邦を白登山で打ち破ったことで知られる。

 

 8 ‐③

:ダライラマ14世の亡命でも正解は選べますが、確実に消去法を用いた方が良いです。

 

①‐ワッハーブ派はアラビア半島のイスラーム改革運動。

②‐ガザン=ハンはイル=ハン国の君主でイスラームを受容した人物。

④‐北魏では3代太武帝の時に寇謙之の下で道教が国教化されたが、その後の文成帝の頃からは仏教が保護され、雲崗や竜門の石窟寺院がつくられた。

 

 9 ‐①

:「あ」については、中国の魏の歴史書である『魏志』に現在の日本にあたる邪馬台国の記述があるので問題はないが、「い」のパスパ文字はモンゴルで行政官も兼ねたチベット仏僧パスパが考案し、かつモンゴルの公文書に用いられた文字であるため、「別の民族や集団」が記述したとはいいがたい。そのため正しいのは「あ」のみ。

 

 10 ‐③(基本問題)

:空欄 ア はその直前に「ナポレオンの侵略がもたらした悲惨な苦難の記憶」とあるのでフランス、 イ はジブラルタルを奪った国になるのでイギリスです。ジブラルタルはスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約の際にイギリスに奪われました。ユトレヒト条約については→こちら

 

 11 ‐③

:リード文には「スペインの最後の植民地」とありますが、厳密にはスペインの植民地は20世紀に入ってもアフリカの一部(スペイン領サハラなど)に維持されています。ですが、リード文では「アメリカ合衆国に奪われた」と書いてありますので、そのことを考慮すれば、ここでいう「スペインの最後の植民地」とは1898年の米西戦争で失われた植民地であることが分かります。

 米西戦争の講和条約であるパリ条約で、スペインはキューバの独立を承認し、さらにフィリピン・グアム・プエルトリコをアメリカ合衆国に割譲しました。ですから、地図上からこれらに該当するものを選べばOKです。地図を見ますと、aはアルジェリア、bはタイ、cはフィリピン、dはペルーを指していますので、該当するのはフィリピンのcとなります。

 

 12 ‐②

:史資料が示す、ソ連がミサイル基地を建設しようとしたことでアメリカとの一触即発の危機に陥ったとする内容から、このことがキューバ危機(1962を指していることが分かります。そのやめ、空欄 ウ はキューバです。②のバティスタはキューバ革命においてカストロ・ゲバラによって倒される親米政権ですので、キューバについて述べているのは②が正解です。

 

①‐北大西洋条約機構は基本的に北米・ヨーロッパ(発足当初は西ヨーロッパ)を中心とした軍事同盟になりますので、キューバは参加していません。

③‐文章からは、ハイチ(フランス領サン=ドマング)を指すものです。

④‐ナセルはエジプトの大統領です。

 

 13 ‐④

:設問自体がやや読み取りづらいので、丁寧に事実を確認していく必要があります。「この演説中で述べられている交渉相手国の首相」とは史料中にあるマクミラン首相のことです。マクミランはイギリスの首相なので、「交渉相手国の首相の国」は「い」のイギリスなのですが、本設問の史資料がキューバ危機についてのものであり、かつその後の核軍縮についての内容を示すものだということに注意する必要があります。

 キューバ危機はソ連のフルシチョフとアメリカのケネディとの間で核戦争の危機を回避しますが、その後、米ソにイギリスを加えた3国間で部分的核実験禁止(停止)条約[1963PTBTPartial Test Ban Treaty]が締結されます。この条約は地下核実験を除くすべての核実験を禁止するというものでした。この辺の事情が分かれば、マクミランがイギリスの首相であるということはマクミランの名前が分からなくても判断できます。また、史料中では「包括的な核実験禁止条約に関する早期の妥結を目指し…」となっていますが、実際に締結されたのはPTBTでしたので、締結した条約の内容は「Y」の「核実験の部分的な禁止」が正しいということになります。史料の内容と、その後実際に取り交わされた条約の内容が異なるので、その点に注意を払う必要があるやや難しい設問です。

 また、包括的核実験禁止条約(CTBTComprehensive Nuclear Test Ban Treaty)が国連総会で採択されたのは1996年のことです。

 

 14 ‐①

:ソ連は、中国との間に中ソ国境紛争(1969)を引き起こしています。

 

②‐ソ連はサンフランシスコ講和会議に出席はしていますが、条約は調印していません

③‐ソ連がクウェートに侵攻した事実はありません。

④‐アラスカはアメリカ合衆国がロシア帝国[当時はアレクサンドル2]から購入した土地です(1867)。また、当時ソ連は存在していません。

 

 15 ‐③

:文章中の空欄 ア は、その直後にコッシュートが活躍した時期とありますので、1848年の諸革命(諸国民の春)のことだということが分かります。この時期に起こったこととして正しいものは、ウィーン三月革命やベルリン三月革命など、ドイツの諸革命に続いて開催されたフランクフルト国民会議(18481849)です。

 

①‐ロシアで立憲民主党(カデット)を中心に臨時政府が建てられたのはロシア二月(三月)革命でニコライ2世が対した時のことで、1917年の出来事です。

②‐ 青年トルコ革命は1908年。よく出ます&使います。

④‐ディズレーリはイギリスの首相で、オーストリアの人物ではありません。ディズレーリがメッテルニヒであれば、ウィーン三月革命(1848)のことを指す文章になります。

 

 16 ‐④

:組み合わせタイプの設問としては比較的易しい問題です。空欄 イ は「1881年にエジプトで民族運動を起こしたのものの鎮圧され」とありますので、ウラービーのことだと分かります。ウラービーは1881年~1882年にかけて「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げ、当時スエズ運河会社を買収(1875)してエジプトへの経済的搾取を行っていたイギリスに抵抗する民族運動を起こしました。(ウラービーの乱、18811882 この歴史的事実を知っていれば組み合わせも容易に解けます。

 

 17 ‐②

:少し文章の読み取りが必要となります。空欄 ウ は「1880年代というと、領事裁判権を含む、日本に有利な ウ を結んだ時期である」とありますので、日本が日本にとって有利な内容の条約を他国に結ばせたものであると分かります。この条件に合うのは日朝修好条規(1876です。日朝修好条規は1870年代なので少し変な感じもしますが、もう一つの選択肢である日清修好条規も1871年ですし、日清修好条規は日本との対等条約なので、選ぶとすれば日朝修好条規しかありません。

 また、1880年代は日本が欧米と結んだ不平等条約の改正に向けて働きかけを強めた時期でもありました。対して、南樺太の領有が問題となるのは日本が日露戦争に勝利してポーツマス条約(1905)を締結した頃になります。

 

 18 ‐③

:「表」より、1700年の中国の人口15000万人、1800年の中国の人口は32000万人ですので、1800年の時点で1700年の時点の人口の2倍は超えています。清の時代の人口増加が、サツマイモやトウモロコシといった新大陸由来の作物の導入と山間部開発にあったことはよく知られていますので、これも問題はありません。たしかに、当時は地丁銀の導入で丁税が廃止されたことが統計上の人口増加を急激にさせる一因となったともいわれていますが、そのことは「トウモロコシやサツマイモの普及が人口増加を支えた」という事実を否定するものでも、相反するものでもありません。

 

①‐マラッカ王国の繁栄していた時期は14世紀末から16世紀初めごろで、1800年代には存在していません。

②‐インドでヴィクトリア女王がインド皇帝に即位(インド帝国の成立)したのは1877年のことで、19世紀後半です。

④‐1900年時点のインドの人口は28000万人、ヨーロッパの人口は27100万人とありますので、「表」の内容と食い違います。

 

 19 ‐②(やや難)

:読み取りの面でも歴史的知識の面でもやや細かい作業・知識を求められる設問です。まず、1850年時点の東南アジアの人口は「表」より4200万人、日本の人口は文章より3071万人(推定)です。対して、面積については「日本の面積は…東南アジアのおよそ11分の1」とありますので、東南アジアと日本の面積比は111となります。複雑な計算は必要なく、もし東南アジアが日本と同じ人口密度を持つとすれば日本の人口の11倍の人口が必要になり、人口密度は日本の方が高い(東南アジアの方が低い)ことがわかりますので、選ぶべきは「あ」です。間違えて現在の人口で判断したり、複雑な計算をして時間を浪費することがないように注意が必要です。

 また、日本が北部仏印に進駐するのはフランスがドイツに降伏した後(その後のフランスではペタンのヴィシー政権が成立)で「X」の文章は誤っているので、正しい文章は「Y」となります。

 

 

 20 ‐④(基本問題)

:単純な知識問題です。オーストラリアの先住民はアボリジニー、ニュージーランドはマオリ。


 21 ‐③(読解問題)

:史料の文章を正しく読めばそれでOKです。

 

 22 ‐③

:オセアニア地域の探検者としてはオランダのタスマン[17世紀]やイギリスの(ジェームズ=)クック[18世紀]が知られています。

 

①‐白豪主義が廃止されるのは1960年代~1970年代にかけてです。

②‐ハワイが併合されるのは1898年、アメリカ合衆国によってです。最近は最後の女王リリウオカラニの名前も以前と比べて出てくるようになりました。

④‐カナダはイギリス最初の自治領(1867)です。ニュージーランドが自治領になるのは1907年。

 

 23 ‐②

:標準的な問題ではありますが、文章の読み取りには注意が必要です。オーウェルの史料では「この10年に満たない数年間、民主的と言われる国々はファシズムに負け続けるという歴史を歩んできた。例えば、日本人の思うままの行動が容認されてしまった。」とあります。本史料はスペイン内戦(19361939)の最中に書かれたとありますので、「この10年に満たない数年間」に「日本が行った行動」は、概ね1920年代の後半から1930年代の後半までの間に起こった出来事である必要があります。時期・内容ともに当てはまるのは満州国の建国(1932のみです。

 

①‐ノモンハン事件は19395月の出来事で、スペイン内戦(スペイン内戦は同年4月まで)の後です。また、ノモンハン事件はソ連軍の勝利に終わっていますので、「日本人の思うままの行動が容認されてしまった。」という史料の内容とも食い違います。

③‐日本が台湾を獲得するのは日清戦争(18941895)後の下関条約(1895)です。

④‐日本の真珠湾攻撃は1941年のことで、スペイン内戦の後です。

 

 24 ‐①

:文章の表現に注意が必要ですが、設問としては難しくありません。オーウェルの言う「ヒトラーは権力の座に上りつめ、あらゆる党派の政敵の虐殺に手を付け始めた」とはどういうことかということですが、これはヒトラー内閣の成立とその後の共産党弾圧を示しています。共産党は、当時多くの政治党派と敵対関係にありましたので、そのことを「あらゆる党派の政敵=共産党」とオーウェルは表現したわけです。

 

②‐九か国条約はワシントン会議(19211922)の中で締結された、中国の領土保全、主権の尊重などを定めた条約なので、エチオピア問題とは無関係です。

③・④‐第一インターナショナルはマルクスが主体となって作られた共産主義者の団体ですが、これが成立していたのは19世紀後半(18641876)で、ヒトラーの「虐殺」の対象とはなり得ません。

    

 25 ‐①(やや難)

:歴史的な知識というよりは、読解力・情報整理の面で多少注意が必要な設問です。事実に対する異なる見方と根拠を正しく選ぶ必要があるので、ファシズムまたはファシズム国家の特徴や行動とは何かが理解できていないと正確に根拠を選ぶことができません。また、組み合わせの仕方もかなり多く出てきますので、情報を素早く整理する力が問われます。重要なことは、Z(軍事力による支配圏拡大を行わなかった)を含む選択肢を全て排除できることに気づくかどうかです。Zは、そもそも歴史的事実と異なる(日本は実際には軍事力により支配圏の拡大を行っている)とはっきりわかりますので、どちらの見方をとったとしても根拠としては不適切です。すると、実質的には選択肢としては①、②、⑥の3択となります。

 

W:日本は治安維持法(1925)で共産主義者を弾圧したり、ドイツと防共協定を結ぶ(1936)など、明らかに共産主義に対抗する運動に加わっています。また、これはファシズム国家の特徴を示す内容ともなります。

X:国民社会主義は国家社会主義ともいわれ、ナチス(国民[国家]社会主義ドイツ労働者党)とも深いかかわりを持ちますが、日本が国家としてこれを掲げた事実はありません。

Y:日本の軍事独裁体制における形式上(とはいえ、完全に形式だけのものというわけでもないのですが)の指導者は天皇で、政策立案者は軍部とかかわりの深い人物が首相となる形で進められていきます。また、日本では1932年の五・一五事件で犬養毅首相が殺害されて以降、政党内閣ではなくなっていますので、「政党の指導者」が独裁者として権力行使をしているわけではありません。この点は、ナチスという政党の指導者であるヒトラーが総統(フューラー)として権力を握ったドイツ、ファシスト党の指導者として政権の座に就いたムッソリーニのイタリアとは異なりますので、これを根拠としてヨーロッパのファシズムとは異なると議論することは可能です。

 

以上の理由から、「あ‐W、い‐Y」の組み合わせとなり、①が正解です。

 

 26 ‐④

:空欄 ア モスクワ大公国のイヴァン4です。イヴァン4世は自分の息子を錯乱して殴り殺したことで知られています。ただ、このエピソードはそこまで有名なものではないので、実際の判断は「ロシアで初めて正式にツァーリを称した」とか「雷帝」などの部分で判断することになります。また、イヴァン3世もツァーリを称しますが、これは自称であって正式に(皇帝を意味する称号として公式に)称したものではなかったと世界史ではされています。

 

①‐ステンカ=ラージンの乱(16701671)はロマノフ朝ロシアの成立後、皇帝アレクセイの時です。この反乱の約100年後に起こるプガチョフの乱(17731775、エカチェリーナ2世の時)との区別はしっかりつけておきましょう。

②‐ロシアでギリシア正教が国教とされるのはキエフ公国のウラディミル1世がバシレイオス2世の妹アンナを妻としてからのことです。

③‐モスクワ大公国はキプチャク=ハン国の支配を受けてきましたが、この「タタールの(くびき)」を脱して独立するのはイヴァン3世の時です。(1480

 

 27 ‐⑤

:空欄 イ は、明の建国者とあるので洪武帝(朱元璋)です。朱元璋の徴税政策、土地管理政策としては賦役黄冊や魚鱗図冊が知られています。対して、一条鞭法は明の末期、万暦帝時代の宰相張居正が導入したものです。

 また、税制一般の歴史について述べたX~Zの文章については以下の通りです。

 

X‐誤。ザミンダーリーは徴税の際に地主(ザミンダール)をはさむ制度。農民からの直接徴税はライヤットワーリー制。(ザミンダーリー制とライヤットワーリー制について→こちら

Y‐正。騎士身分はエクイテスとも呼ばれます。

Z‐誤。イギリスは印紙法を撤回します。

 

 28 ‐②

:二つの根拠から、②が正しいと判断できます。一つ目は、ドイツ騎士団を撃退した将軍を英雄視する映画が上映禁止となっていることから、対ドイツ関係を気遣ってのことだと判断できます。また、独ソ不可侵条約が締結されたのは1939年、ヒトラーがこれを破棄して独ソ戦が始まるのが1941年なので、上映禁止期間とも一致します。

 

①‐世界恐慌は1929年で時期が離れていますし、ソ連は世界恐慌の影響を受けていません。

③‐コメコン(経済相互援助会議、1949結成)は戦後の冷戦下で組織されるものなので、時期が不適切です。

④‐十月革命(十一月革命)は1917年のこと。その後の内戦とはロシア帝国の残党との内戦や、これに介入した諸外国との対ソ干渉戦争を指しますが、これも1922年までには終結しますので不適切です。

 

 29 ‐③

800年にローマで戴冠したとあるので空欄 ア の人物はカール大帝(シャルルマーニュ)。カールがアーヘンに神学者アルクインや歴史家アインハルトらを招いて文芸を奨励したことはカロリング=ルネサンスと称されます。

 

①‐フン人のアッティラがヨーロッパに撃退されるのは、カタラウヌムの戦い(451)やレオ1世の説得(452)、アッティラの死(453)を経てからのことで、カールの時代とは時期が異なります。

②‐イングランド王国はそもそも成立したのが829年、ウェセックス王エグバートによる七王国(ヘプターキー)の統一によるものです。カールがこれを征服した事実はありません。

④‐文章はメロヴィング朝のクローヴィスを指すものです。

 

 30 ‐②

:標準的な知識と読み取りが要求される設問です。空欄 イ はイングランド王ジョンから大陸領の大半を奪ったとあるのでフィリップ2。文より、南にはメロヴィング朝、カロリング朝の王を、北にはカペー朝の王をとあるので、南の空欄 ウ にはメロヴィング朝またはカロリング朝の王が入ります。今回はたまたま図の下方が南でしたが、必ず方角を指す記号は確認してください。もし、今回方角を確認せずに何となく上が北、下が南と判断して問題を解いて正解していた場合、それは運が良かっただけかもしれません。設問によっては方位記号をずらしてくることも十分考えられるので、丁寧に確認しましょう。

 選択肢で空欄 ウ にはいる候補であるもののうち、ロロはノルマンディー公国を建国したノルマン人、ピピン(小ピピン)はカール大帝の父でカロリング朝の創始者ですから、選ぶべきはピピン

 

 31 ‐③

:フィリップ2世~ルイ9世までの時期は、おおよそ12世紀末~13世紀の後半です。これらの王の統治期として重要な出来事は以下の通り。

 

・第3回十字軍への参加(フィリップ2世)

・ジョンとの抗争と大陸領の回復(フィリップ2世)

・インノケンティウス3世からの破門(フィリップ2世)

・アルビジョワ十字軍(フィリップ2世~ルイ9世)

・ルブルックの派遣(ルイ9世)

・第6回、第7回十字軍(ルイ9世)

 

①‐アナーニ事件はフィリップ4世の時(1303

②‐ジャックリーの乱は百年戦争中の14世紀後半(1358

④‐トリエント公会議は対抗宗教改革のために開催(15451563

 

 32 ‐③

:清では、遷海令の解除後も、中国人の海外渡航は原則禁止で、取引等で渡航する場合にも厳格な制限が課せられていました。ただ、設問としては消去法で解くのが良いかと思います。

 

①‐合衆国の1882年移民法は中国人移民を禁止する内容でした。

②‐興中会はハワイで結成(1894)。東京で結成されたのは中国同盟会(1905)。

④‐マレーシアではマレー人と中国系移民との対立からシンガポールの独立につながっていきます。優遇政策はマレー人に対してとられたもので、ブミプトラ政策と呼ばれます。

 

 33 ‐②

:空欄 エ は乾隆帝が征服したということと、ムスリムが多いという内容からジュンガル部であると分かります。ジュンガル部は制圧された後、新疆として理藩院の監督下に置かれます。新疆の位置は地図中のbが適切なので答えは②

 

 34 ‐③

:山西商人の活動が活発化するのは明の時代なので、空欄 オ は「い」の明。彼らは、遠隔地商業を円滑に進めるために各地に会館や公所を設置しますので、適切な文は「X」。また、明の都は金陵(南京)または北京で、黄河と大運河の交差する地点ではないので「Y」は明らかに不適。

 

取り急ぎ、作成いたしましたが、まだ印刷してのチェック等はしておりませんので、もしかすると誤り等があるかもしれません。後ほどもし誤り等があれば修正していきますが、ご利用は自己判断でお願いいたします。

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今年度もさっそく「大学入学共通テスト」の世界史Bを解いてみました。今年度からこれまでの「センター試験」から「大学入学共通テスト」になったわけですが、さすがに問題の形式・内容は大幅に変わったようです。予備校の分析の方ははっきりと「難化した」、「平均点は下がるだろう」としているようですし、私自身が解いてみた感想も「そりゃ、平均点は下がるだろうな」という感触です。ただ、確かに難しくはなっているのですが、要求される知識などがこれまでと変わっていますかと言われると「そんなことはないね」というのが印象です。結局、要求される「世界史の知識や理解」については変わりがなく、学習の仕方も特に変更の必要はないと考えています。

今回の問題の長所と短所について考えてみたのですが、長所については何といっても「①史資料問題が豊富に出ている」、「②解く人間にアタマを使わせる設問になっている」という点でしょう。史資料問題がたくさん出ている点については、世界史の知識をきちんと活用して理解するところまでできているかを問う上で非常に有用だと思いますし、多くの情報を整理したり、推測したりして正解を導き出すという作業は、その人の情報処理能力をはかる上で有益だと思います。一方で、短所についてですが「①結局、思考力というよりは読解力を問うだけの問題になっていないか(世界史の問題ではなく、国語力の問題ではないか)」という点と「②設問自体が煩雑になっていないか」という2について強く感じました。①についてですが、文章の読解能力についてはすでに受験生は「現代文」という科目で問われているわけで、世界史でさらにその能力を問うのはいかがなものか、という気がしないわけではありません。ただ、一方で大学生になる(あるいは社会人になる)と、きちんと文章や情報を読み取り正確に理解することがとても、とても、とても、とても大切になります。本をきちんと読めないと(理解できないと)高等教育を受けることはできません。(というより、教授や「分かっている奴」と話がかみ合いません。)ですが、実際にはそれが「大学生でもできない」ということがよくあるわけですので、そういった能力を求める、ということは(「世界史」という科目でそれを図る必要があるかどうかは別として)妥当な気もします。ただ、人間の能力は様々あるわけでして、「人の言ってることはよく理解してくれないけどやたらたくさんのことを覚えることができて知識が豊富な奴」もいれば「人の言うことはよく理解できるけどさっぱりものを覚えられない奴」もいるわけです。その辺のことを考えたときに、今回のテストはちょっと偏ってないか?と感じる部分もありますが、変革の時期なので仕方ない部分もあるのかもしれません。①については一長一短という部分もあるのかな、という気がします。②についてですが、あちこちに空欄があって、かつあちこちに(下手をすると前のページに)参考にするべき文章やらグラフがあったりして、設問自体がボコボコのパズルのようになってしまっています。もちろん、アタマを使わせるためだというのはわかるのですが、あまりに煩雑で「アタマを使わせる以前に無駄な労力を使わせてやしませんか?」と感じました。正直、もう少し洗練してほしかったなぁという気がします。ですが、全体としては高いレベルにまとめられた問題だったのではないかと思います。解く方は大変だったかと思いますが、結果に差が出る問題だったのではないでしょうか。

今年も解いたうえで、解答を導くのに必要な知識、考え方についてまとめてみましたので、参考にしてみてください。(ただし、急いで解いたこともあり[というか、眠いです。現在AM3:30]、チェックが行き届いていない部分もあるかと思います。書いてある内容に間違い・勘違い・見落としなどあるかもしれませんが、そのあたりのところには責任を負えませんので自己責任でお願いいたします。)今年度は本当にたくさんのイレギュラーがあって受験生のみなさんは大変なのではないかと思いますが、からだにだけは気をつけて頑張ってください。 

 

 1 ‐③
:史料(資料)より、空欄アに入れる人物が「始皇帝が亡くなった時の大臣(宰相)」であることは明らかですので、このヒントからだけでも李斯(う)であることは導けます。また、李斯は法家として知られていますので、「統治のために重視したこと」は「法律による秩序維持」について示してあるZが正解となります。(う)とZの組み合わせですから、解答は③となります。

 ちなみに、孟子は性善説を唱えた儒家であり、張儀は各国に秦との同盟(連衡)を唱えた縦横家です。また、Xは儒家の思想、Yは墨家の思想(兼愛)です。

 

 2 ‐③(消去法)
①:始皇帝の思想弾圧(焚書)では医薬・占い・農業書以外の書物が焼かれた。

②:エフェソス公会議(431)はネストリウス派キリスト教を異端とした公会議。この時期にはまだ教皇権は強くない。また、禁書目録などが定められて異端審問が強化されるのは16世紀の対抗宗教改革の時期。(cf. トリエント公会議[1545-63]

④:マッカーシズムの語源となった上院議員マッカーシーはアメリカの人物。

 

 3 ‐②(やや難)
:武帝の時期の政策は②と③。これらのうち、司馬遷が批判の対象としている政策は設問より「商人・経済活動の自由を奪うような政策」であることが読み取れるので、正解は②。

 

①:呉楚七国の乱が起こったのは景帝の時で、武帝の即位より前。

②:武帝の経済政策としては、均輸法・平準法や塩・鉄・酒の専売制などが有名。

③:董仲舒は武帝に五経博士の設置などを進言して儒学の官学化を達成した人物。

④:三長制や均田制は北魏の孝文帝の政策で導入された。(5世紀)

 

 4 ‐③

:世界史の知識というよりは半分は文章読解の問題です。

 

(前提としたと思われる歴史上の出来事)-「あ」が正解

:「1790年以降、聖職者市民法の適用によって、一連の文書は領地と同様に、没収されたに違いないでしょう」とあるので、文書が没収されたのは1790年以降と分かる。1790年当時は国民議会の時代。(次の立法議会になるのは1791年憲法に基づく制限選挙の後)

:また、「い」の総裁政府の時代に国王が処刑されたという文章は明確な誤り。ルイ16世の処刑は国民公会の時代(17931月)であるというのは頻出。

 

(文書資料についてのブロックの説明)―「Z」

:「最も望ましいのは第1の場合」とあり、それは「領主の所領が教会に属していた場合」であり、「亡命した者(俗人)に属していた」という場合も「悪くない」、一番まずいのは「きわめて厄介」である「俗人だけれども…亡命しなかった者に属していた場合」とあるので、使いやすい資料の順に「教会に属していた場合>俗人で亡命した者に属していた場合>俗人で亡命しなかった者に属していた場合」なのは明らか。文章読解により正解はZ。

 

→「あ」と「Z」の組み合わせなので③が答え。

 

 5 ‐④

:「せいぜい、嫌われた体制の遺物として、意図的に破壊されたことが危惧される程度でしょう。」という文章があるが、文書を「破壊する」のは文書を没収した革命政府(国民議会)またはその支持者であると考えられるので、それらが「嫌う体制」は「アンシャン=レジーム(旧体制)」であることがわかる。

 

①:産業資本家の社会的地位の向上が起こるのは産業革命後だが、フランス革命当時のフランスではまだ産業革命は進展していない。

②:ヘイロータイは古代ギリシアのスパルタにおける隷属民。

③:強制栽培制度はジャワ島で1830年からファン=デン=ボスが行った制度。

 

 6 ‐②

:初めて500万ポンドに達したのはグラフより1776年頃と読み取れる。

 

①:イダルゴの蜂起からメキシコの独立への一連の動きは1810s1820s

②:茶法制定とボストン茶会事件は1773年。

③:トルコマンチャーイ条約は1828年。

④:アレクサンドル1世の神聖同盟提唱はウィーン会議(18141815)において。

 

 7 ‐③

:やや設問の説明自体が分かりづらい問題。内容は平易。

 

① グラフ1より、金貨鋳造量が10年以上にわたって100万ポンドを下回った時期は1799年から1813年の時期しかない(他の時期は10年に達する前にどこかで100万ポンドを上回っている)。

② さらに、グラフ2でその時期を見てみると、紙幣発行量は一貫して増加している。

 

以上の読み取りから「ア」はフランス(対仏大同盟やナポレオン戦争を思い浮かべればよい)、「イ」は紙幣を大量に発行するとなるので、正解は③.

 

 8 ‐①

:設問やイギリスの金本位制導入が19世紀であるという知識などから、19世紀の事柄を選べばよい。ちなみに、肖像はヴィクトリア女王。インド帝国成立(1877)によりインド皇帝となった。(ディズレーリ内閣の時)

 

②:グレートブリテン王国成立はスコットランドを併合した1707年(アンの時)。

③:統一法は1559年でエリザベス1世の時。

④:ハノーヴァー朝が始まったのはジョージ1世の時。(1714~)

 

 9 ‐③

:「16世紀に」とあるので、消去法でも解ける。

 

①:銀は中国に「日本銀やメキシコ銀」が流入したのであり、中国から日本へ流入したわけではない。

②:地丁銀制の導入は清の康煕帝の頃から。(18世紀前半)

③:正解。書かれているのは張居正が導入した一条鞭法(頻出)で、明末の万暦帝の頃。16世紀後半の出来事なので問題なし。

④:アヘンの密貿易が問題になるのは19世紀前半。(cf. アヘン戦争1840-42

 

 10 ‐③

:半両銭は秦の始皇帝がつくった統一貨幣で、青銅製。また、元の交鈔は紙幣なので材料は紙。

 

 11 ‐④

:「キ」の人物はムスタファ=ケマルで、「アタテュルク(トルコの父)」の称号を持つ。アンカラで国民議会を率いてギリシア軍を撃退し、セーヴル条約を破棄して対等なローザンヌ条約を締結し、トルコ共和国を建国した彼は、カリフ制の廃止などの世俗化政策を進め、ラテン文字(ローマ字)の採用などの近代化策を展開した。(アラビア文字は廃止された。)

 

 12 ‐④

:史料中に出てくる「ア」の病はペスト。『デカメロン』はペストを逃れて非難した人々が様々なエピソードを語るという筋書きの話で、作者はボッカチオ。ボッカチオはルネサンス期の人物なので、人文主義(ヒューマニズム)の影響を受けていると考えられる。該当する答えは、「イ」と「T」の組み合わせなので、正解は④。

 ちなみに、ペトラルカは『叙情詩集』で知られる人物で、エラスムスは『愚神礼賛(讃)』などで教会批判を展開し、ルターの宗教改革に影響を与えた人物。(どちらもルネサンス期の人物。)

 

 13 ‐⑤

:ペストは、東西交流が進む中でアジアからもたらされたと考えられている。(起源は諸説あり。) ここで示されているペストの流行は14世紀半ばの流行なので、まだヨーロッパ人のアメリカ大陸進出は始まっていない。また、資料より症状が様々であったことは明らかである。

 

 14 ‐②

①:モンテ=カッシーノに修道院をつくったのはベネディクトゥスで、6世紀のこと。

③:クローヴィスはアタナシウス派に改宗したフランク王で、5世紀の人物。クリュニー修道院設立は10世紀はじめなので時期が数百年単位で違う。

④:修道院を解散したのはヘンリ8世。

 

 15 ‐④

:隋・唐の科挙は儒学の理解を問う内容。

cf. 『五経正義』孔穎達・顔師古の編纂→科挙の試験で解釈の基準に)

 

 16 ‐②

「イ」-農民の覚醒を促す

「ウ」-農民の覚醒を防遏する(防止する)

→これがはっきりと分かれば、19世紀の半ば以降農民の覚醒を促したのはナロードニキと呼ばれた革命家であったことと結びつけて解くことができる。

 

 17 ‐③

:ロシアの農奴解放令(1861)はアレクサンドル2世による。クリミア戦争(18531856)での敗北後に近代化を目指す中で出された。彼の統治下での出来事なので樺太・千島交換条約(1875)。

:クリミア半島がロシア領となるのは、キュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約[1774]でクリム=ハン国に対するオスマン帝国の宗主権が否定された後の1783年で、エカチェリーナ2世の時期。

 

 18 ‐①

:「作者(オーウェル)は、トロツキーの影響を受けた組織の一員としてスペイン内戦に参加したが、ソ連からの影響を受けた共産党と対立し、弾圧された」とあることから、オーウェルが批判の対象としていたのはトロツキーと対立していたソ連共産党の指導者(スターリン)であったことがわかる。該当するのは①のみ。

 

 19 ‐②(やや難)

18世紀の中国の朝廷なので、清朝であることを確認する。

 

(図書の名称)

:清代に編纂されたのは『四庫全書』のみ。

(『永楽大典』は明の永楽帝の時期、『資治通鑑』は北宋の司馬光によるもの)

 

(史料の改竄)

「皮衣を着て禄を食み」→「遼朝の禄を食み」

「左前の服を脱ぎたい」→「中国に身を投じたい」

「漢人の衣装を着て」→「先祖の墳墓に参り」

=中国とは異なる遼の習俗を下に見る、または漢人の習俗を上に見る表現から、当たりさわりのない表現に変更されている。

 

 20 ‐②

:「結ばれた後に破棄された」という条件からも、露土戦争の後に結ばれたロシア・トルコ間で結ばれたサン=ステファノ条約が、その後のベルリン会議によって破棄されたことを想起することができる。また、条約の内容からもそれが分かる。

 

(サン=ステファノ条約の主な内容)

・セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立(オスマン帝国から)

・ロシアが黒海沿岸に領地を拡大

・ブルガリアの自治(実質的にはロシアの保護下)

 

サン=ステファノ条約とベルリン会議の関係については過去の記事を参照してください。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_253756.html

 

 21 ‐②

 20 の解説にも示した通り、「ア」に入るのはブルガリア。

 

 22 ‐③

:ボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を得て、1908年の青年トルコ革命時の混乱に乗じて併合したのはオーストリアであってイタリアではない。

 

 23 ‐①

:別に資料を参考にしなくても「イ」はアメリカで「ウ」はソ連であるということはわかる。

 

 24 ‐③

(資料について)

資料X:アメリカのニクソンによる米中接近の時期の資料

1970年代前半(ニクソン訪中が1972年)

資料Y:中ソが友好関係(資料を特定する必要はない)

   →少なくとも、「中ソ論争(中ソ対立)」が起こる前(cf. スターリン批判[1956]

資料Z:日中共同声明(1972)はニクソン訪中と同年だが、米中接近を受けて日本が中国との関係を改善するので、順番としてはX→Z

    

 25 ‐②

:サンフランススコ講和会議は1951年のこと。

①:第一次国共合作は1924年で第二次世界大戦前の出来事。

③:中華人民共和国が支援したのは大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)。

④:中国の民主化運動弾圧には天安門事件などがあるが、サンフランシスコ講和会議の時期ではない。

 

 26 ‐①

:「エ」は古代インドで文学作品が多く書かれたとあることからもサンスクリット語であることがわかる。(cf. サンスクリット文学[グプタ朝期]

 

(文学作品)―「あ」

:「あ」の『シャクンタラー』はカーリダーサによるサンスクリット文学。「い」のルバイヤートはイランのウマル=ハイヤームによる詩集。

 

(資料から読み取れる事柄)―「W」

:文章読解問題(世界史の知識は不要)。

「残りの半数はアラビア語…を推しています」=アラビア語を有用と考える委員はいる。

「西洋の図書館のたったひと棚分が、インドやアラビアの言語で書かれたすべての文献に相当することを」委員たちは誰も否定しなかった。→「否定する者がいる」という文と矛盾

 

 27 ‐③

(英語教育導入の動機)-「え」

:史料によらなくても、「う」の「(英語が)ペルシア語とともにイギリス統治以前の諸王朝で用いられていた」ことが誤りであることはわかる。(この文章の主語が英語でないなら「英語教育導入の動機」にはなりえない。)

 

(インドにおける植民地政策の特徴)-「Y」

:「Z」のベンガル分割令(1905、カーゾン法)は、ムスリムとヒンドゥーを対立させる内容で、仏教徒が対象ではない。

 

 28 ‐②

①:タミル語は南インドのドラヴィダ系言語であり、起源も古いため、ペルシア語は基になっていない。

③:ワヤンはジャワ島の民俗芸能(影絵芝居)。

④:ウルグ=ベクはティムール朝の君主。

 

 29 ‐①

:「地域1」は、ガリバルディの名前があることからシチリア島とわかる。シチリア島でラテン語がトルコ語に翻訳され、盛んとなった事実はない。

 

 30 ‐①

:「地域2」は、ヨーロッパの島国であることや万国博覧会などからイギリスであると分かる。ゆえに、14世紀から15世紀までの戦争は百年戦争のことであるため、「ア」はフランスであると分かる。

 

(「ア」の国の歴史)-「あ」

・「あ」のルール占領は1923年。問題なし。

・「い」のカルマル同盟を結成したのはデンマーク・スウェーデン・ノルウェー。

 

(「イ」にいれる文)-「X」

:ノルマン朝成立は1066年で、百年戦争とは無関係。

 

 31 ‐②

:「地域3」はオリンピックなどの記述からアテネであるとわかる。

(「地域1」=シチリア、「地域2」=イギリス[ブリテン島]、「地域3」=アテネ)

 

(時期確定のポイント)

① ローマ最初の属州はシチリア(第一次ポエニ戦争時、頻出)

② ギリシアがローマの支配下に入るのは第三次ポエニ戦争の頃(BC2世紀)

③ カエサルの頃にようやくガリア遠征→おそらく、ブリテン進出が一番遅い

 

 32 ‐④

:朝鮮の大院君による鎖国政策と攘夷論は、昨年の東大・一橋でも出題された近年の頻出問題。詳しくは以下を参照。

・一橋2020年解説(http://history-link-bottega.com/archives/cat_399056.html

・朝鮮史(http://history-link-bottega.com/archives/cat_213698.html

 

(「ウ」に入る人物)-「い」

:西太后は中国の人物なので×。

 

(「エ」にいれる文)-「Y」

:文の内容から攘夷思想について述べられていることはわかる。

 

 33 ‐②

:「オ」は朱子学(詳しくは上記「一橋2020年解説」を参照)。王守仁(王陽明)は「心即理」を唱えて朱子学の「性即理」を批判する陽明学のもとを作った。

 

①:寇謙之は北魏の太武帝の頃に新天師道(道教)を国教化した人物。

③:義浄は唐の時代の仏僧。

④:王重陽は金の支配下で全真教(道教の一派)を起こした人物。

 

 34 ‐①

「う」-壬午軍乱(1882):大院君による閔氏に対するクーデタ事件

「え」-甲申政変(1884):開化派(独立党)による閔氏に対するクーデタ事件

「お」-甲午農民戦争(1894):日清戦争の契機となった朝鮮の農民反乱(東学党の乱)

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 今年もセンター試験が終わりました。色々とテストをめぐっては形式が変化するの、しないのと、受験生は振り回されて大変そうです。前にもどこかで書きましたが、私自身も昔旧課程と新課程のはざまでそれなりにワリをくったものですから、いい加減にしてあげてほしいなぁとも思います。ただ、今年のセンター試験を見る限り、多少の形式変更はあっても世界史については従来型の勉強で対応できる内容だったかと思います。文化史の比率が多かったので、そのあたりで得意・不得意は分かれたのかもしれません。今年も解説を作ってみましたが、チェックが行き届かないところもあるかと思いますので、もし間違いなどありましたらご勘弁いただきたいと思います。その辺のところをご了解いただいてご覧ください。また、これから私大や国立の受験を控えているみなさんは、ぜひ体調に気をつけて頑張ってください。

 

問1 ① 

【解説】

②両シチリア王国を占領したのはガリバルディ。

③オスマン帝国の支配地にモロッコは入っていない。また、20世紀に入ってモロッコを支配下に置くのはフランス(とスペイン)。

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(オスマン帝国の領土拡大‐Wikipedia「オスマン帝国」より)

④ヴァチカン市国の独立を認めたのはムッソリーニのラテラン条約(1929年)。ミラノ勅令はキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の勅令(313年)。

 

問2  

:公行は、対外貿易を広州一港に限定した際に独占的に交易を任された商人集団。

【解説】

①シャンパーニュは内陸部の地方で、中世に大市が発展した。

GATTは自由貿易を推進することを目的とした。

④カルカッタ(現コルカタ)を根拠地としたのはイギリス。イギリス拠点は他にボンベイ(現ムンバイ)・マドラス(現チェンナイ)など。

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問3 ② 

:中世、フランスではトゥルバドゥール、ドイツ地域ではミンネジンガーと呼ばれる吟遊詩人が活躍した。

【解説】

①王義之は東晋の書家、「蘭亭序」などが有名。「女史箴図」は顧愷之。

③モネは印象派を代表するフランスの画家。印象派が活躍するのは19世紀。

 17世紀スペイン宮廷で活躍した画家としてはベラスケスなど。

④ポツダムにあるサンスーシ宮殿はロココ建築。

 

問4 ① 

:ミケーネ文明を建設したアカイア人はギリシア人の一派

【解説】

②陶片追放(オストラキスモス/オストラシズム)は僭主の出現を防ぐためにクレイステネスの改革で導入された。

③3大悲劇詩人はアイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデス。フェイディアスはペリクレス時代の彫刻家。

④スパルタはドーリア人のポリス。

 

問5 ①(公開された解答では解答者全員正解) 

:三国時代の魏では屯田制が施行された。消去法で解ける(他の3つの文が明らかな誤文)ので個人的にはこの措置(全員正解)はどうかと思います。三国時代の魏ではなく戦国時代の魏と読み間違える可能性があるからというのが今回の措置の理由なのだそうですが、そんなこと言いだしたら宋とか、唐(春秋時代の諸侯国として存在する)とかキリがないので問題作れないですよ(汗)。「キングダム」とか「達人伝」とかで戦国時代の魏の知名度が上がってるせいなのでしょうかねぇ。

【解説】

②プロノイア制が導入されたのはビザンツ帝国。

③ベルンシュタインはドイツの社会主義者、修正主義の提唱者。

 農民解放などを進めたのはプロイセン改革時のシュタインやハルデンベルク。

④アトリーはイギリスの労働党内閣。

 

問6 ② 

【解説】

bが誤文。ヘレニズムの影響を受けて発展するのがガンダーラ美術であるので、関係性が逆。

 

問7 ① 

:授時暦は元の時代に郭守敬が作成したもの。

 

問8 ② 

:フィリピン共和国はマロロス共和国とも言う。マロロス共和国で覚えていた受験生はやや困ったかと思うが、残りの選択肢を落ち着いて消去すれば解ける。

【解説】

①朱元璋は明の建国者であり、元末の紅巾の乱の中で台頭した。

③ンクルマ(エンクルマ)はガーナ独立の父。

④サッチャーは保守党の政治家。

 

問9 ④ 

:マヤ文明の20進法などは過去にもセンターで出題されている。

【解説】

①棍棒外交を展開したのはセオドア=ローズヴェルト。カーターは人権外交で知られる。

②米州機構には現在ではカナダも加盟しているが、原加盟国ではない。また、結成の中心となったのはアメリカ合衆国。

③マクシミリアンはフランスのナポレオン3世によるメキシコ出兵時にメキシコ皇帝として担がれたが、後に殺害された。

 

問10 ④ 

a ユトレヒト条約でハドソン湾地方を獲得するのはイギリスの側。イギリスは他にもアカディア・ニューファンドランドをフランスから獲得した。

b 百年戦争を開始したイギリス王はエドワード3世。ウィリアム1世はノルマン朝の開祖。

ユトレヒト1

(ユトレヒト条約における仏から英への割譲地)
ユトレヒト2

(ユトレヒト条約における西→英への割譲地)

 

問11 ④ 

【解説】

①合衆国は1819年にフロリダをスペインから買収した。

②オランダが西ポンメルンを領有した事実はない。ポンメルンはユトランド半島の東、北ドイツにある土地だが、ウェストファリア条約でスウェーデンがこれを領有した。

③フィウメ(現リエカ)をユーゴスラヴィアと争ったのはイタリア。1919年、一時期イタリアの愛国者ダヌンツィオが占領し、その後1924年にムッソリーニ政権下のイタリアが併合した。

4f0c9c181

(フィウメ[現リエカ]の位置 Wikipedia「リエカ」より)

 

問12 ② 

:スワヒリ語は現地バントゥー語とアラビア語などが混ざり合って成立した言語。

【解説】

①サンスクリットは古代インドの言語。グプタ朝期にサンスクリット文学が発展したことからもムガル帝国期の成立ではないことが分かる。ムガル帝国における公用語はペルシア語。

③ビザンツ帝国の公用語はギリシア語。

④南インドで文学などに寄与した言語としてはタミル語などがある。マレー語はマレー半島周辺で使用された言語。

 

問13 ① 

:門戸開放を提唱するのはアメリカ合衆国。合衆国は1899年と1900年の二度にわたり、国務長官ジョン=ヘイが門戸開放宣言を発表した。

 

問14 ② 

【解説】

①コミンテルンはロシア革命後、1919年に設立された各国の共産党が革命を志向するための機関。

③ネップ(新経済政策)は戦時共産主義で落ち込んだ経済を回復されるために導入された。ネップの後に第一次五か年計画が来るので、順序が逆。ロシア革命後の経済政策の変遷はセンター試験では頻出の箇所。

④ミハイル=ロマノフはロマノフ朝の開祖。西欧化を進めたのはその後のピョートル1世など。

 

問15 ② 

:コメコン結成は1949年、ソ連のアフガニスタンからの撤兵は冷戦終了間際の1988年から1989年にかけて。SALT1はニクソン政権下の1972年に調印。

 

問16 ③ 

【解説】 

澶淵の盟(1004)では、宋が遼に銀・絹織物を贈るので、関係が逆。

②パレスチナ暫定自治協定(1993)を仲介したのはクリントン。イスラエルのラビンとPLO議長のアラファトの間で結ばれた。

④シュレジェン奪回のためにマリア=テレジアが同盟したのはフランス。(外交革命)

 

問17 ④ 

:第二次五か年計画(大躍進)の失敗を受け、劉少奇と鄧小平は調整政策を展開したが、復権をもくろむ毛沢東によるプロレタリア文化大革命では走資派と呼ばれて批判され、鄧小平は一時左遷された。

①中国における新生活運動は蒋介石によって提唱された精神運動。共産党に対する牽制や儒教的理念を利用した国家総動員を目指したファシズム運動の一種。

②ネルーと会談したのは周恩来。(1954

③毛沢東にかわって国家主席となった人物としては、大躍進失敗後の劉少奇がいる。

 

問18 ③ 

1970年代の米中接近は大統領補佐官キッシンジャーの準備の下、ニクソンの訪中によってなされた。また、中越戦争は中国が支援するポル=ポト政権下のカンボジアにベトナムが侵攻したことから発生した。

 

問19 ② 

:ファーティマ朝の成立は909年。やや難しいが、ハールーン=アッラシードがアッバース朝全盛期の君主であったことや、アッバース朝衰退の原因をつくったザンジュの乱(869-883)が9世紀の後半であったことなどから、建国年をしらなくてもある程度判断はできる。

 

問20 ② 

①パピルスはエジプトで用いられた記録媒体。インダス文字はインド。

③キープが利用されたのはアンデス山脈のインカ帝国。アステカはメキシコ。

④楔形文字はアッカド人よりも前にシュメール人が用いている。アッカド人も用いてはいるが、これはシュメール人が使っていた文字を借用したもので、発明ではない。

 

問21 ① 

:鳩摩羅什(クマラジーヴァ)は亀茲(クチャ)の出身。5世紀初めに中国に来て多くの仏典を漢訳した。同じく亀茲(クチャ)出身の仏図澄(ブドチンガ)は4世紀に中国に来て中国仏教の基礎を築いたが、仏典漢訳は行っていない。

②李自珍は『本草綱目』の著者で、薬草学者。ユークリッド(エウクレイデス)の幾何学を紹介した『幾何原本』は徐光啓とマテオ=リッチによるもの。

③アッバース朝の知恵の館(バイト=アルヒクマ)ではギリシア語文献がアラビア語に翻訳

された。

④ルターが翻訳したのはドイツ語。

 

問22 ④ 

:よく見ると下線部の直前に「インドの」とある。設問に直接関係ないが、インドの植民地化と関連するのはスリランカのみで、他の選択肢はアフリカの植民地化に関連付けた誤文。

【解説】

①ベルギーはアフリカ分割のきっかけとなったコンゴのみを領有。アンゴラはポルトガル領。

②イタリアの植民地としてはリビア・エリトリア・イタリア領ソマリランドなど。(20世紀に一時エチオピアを占領)

③ソマリランドを領有していたのは英・仏・伊の三国。(仏領ソマリ=ジブチ)ドイツが領有していたのはトーゴ・カメルーン・ドイツ領南西アフリカ(ナミビア)・ドイツ領ヒガシアフリカ(タンガニーカ)。

アフリカ分割

Wikipedia「アフリカ分割」より)

問23 ①  

:どちらも正しい文章。

 

問24 ② 

①ニコライ2世の退位は1917年のロシア革命(二月革命/三月革命)の際。

③ディアス独裁が終了するのは1910-1917年にかけてのメキシコ革命の時。

④七月革命は1830年。

 

問25 ② 

:イギリスなのでオーウェン。ロバート=オーウェンはスコットランドにニュー=ラナーク村(現在では世界遺産)を建設して資本家と労働者の協力のもとに理想村建設を考えた人物で、現在の生活協同組合のもとを作った人物。

:フーリエもオーウェンと同様、ファランジュと呼ばれる共同体建設を考えた空想的社会主義者だが、フランスの人物。

:人身保護法は1679年に王と対立していた議会からの要求で成立した法。

:工場法が成立する1833年は、他にも奴隷制の廃止や東インド会社の中国貿易独占権廃止と商業活動の停止などがあり、またその前年の1832年には第1回選挙法改正があるなど、イギリスの自由主義的諸改革が進んだ時期で、私大などでもよく出題されることがあるので意識しておくとよい。

 

問26 ① 

:ダンツィヒはポーランド回廊に存在した港湾都市。

 

問27 ③ 

:マヌ法典はヒンドゥー教の法典だが、ヒンドゥー教自体がバラモン教をベースに発展した宗教であるので、ヴァルナについての記載はあり、財産の相続や婚姻に関する細かい規定が存在する。

 

【解説】

①ユスティニアヌスは6世紀の人物で、5世紀ではない。また、ユスティニアヌスの統治下で『ローマ法大全』を編纂した人物はトリボニアヌス。

②『古今図書集成』は清代のもの。康煕帝の時期から編纂が始まり、雍正帝の時期に完成。

③『百科全書』はフランス。哲学者・美術評論家などをしていたディドロと数学者・物理学者のダランベールなどが編纂にかかわる。

 

問28 ① 

【解説】

②党錮の禁は2世紀後半(166169)で後漢の末期。(武帝は前漢の人物)

③府兵制が導入されたのは西魏の時代(6世紀頃)で、前漢よりも後の時代。

④武帝の時代に専売制が敷かれたのは塩・鉄・酒で、茶ではない。

 

問29 ② 

:マニ教は唐が同盟関係にあったウイグルの宗教なので、都長安にも寺院は存在した。

【解説】

①周の都はもともと鎬京だったが、後に異民族の侵入により洛邑(洛陽)へとうつされた。

③北宋の都開封を占領するのは金。(靖康の変)

④プラノ=カルピニは教皇インノケンティウス4世がモンゴルの様子を探るために派遣した人物で、グユク=ハンに謁見した。(元成立よりも前) 大都でカトリック布教に尽力したのはモンテ=コルヴィノ。

 

問30 ① 

【解説】

②甘英は後漢の西域都護班超に派遣された人物だが、派遣先はローマ(大秦国)。ただし、たどり着いたのは条支国(シリア)まで。彼が派遣されたのは1世紀末で、この時期すでにプトレマイオス朝エジプトは滅亡している。

③バクトリアの中心はバクトラで、アフガニスタン一帯から北西インドにかけてが支配領域。クテシフォンはイランの諸王国(パルティア・ササン朝)が拠点とした土地。

④ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス(大秦国王安敦)の使者が着いたとされるのは日南郡で楽浪郡ではない。

 

問31 ④ 

【解説】

1840年代のジャガイモ飢饉によりアイルランドからの移住者が増えたのはアメリカ合衆国であり、ハワイではない。また、ハワイが合衆国領になるのは1898年。

②バビロン捕囚は新バビロニア(カルデア人)のネブカドネザル2世によるもの。

③マレー半島で農園労働者として働いたのは中国人やインドから来たタミル人など。

 

問32 ① 

【解説】

②李舜臣がたたかった相手は日本。(豊臣秀吉の朝鮮出兵[壬辰・丁酉倭乱]の際)

③アロー号はイギリス領香港船籍(ただし、期限切れ)。

④第五福竜丸事件はアメリカによるビキニ環礁での水爆実験が原因。

 

問33 ④ 

:隋代に音曲に合わせてうたう「詞」が流行したのは宋代。(始まったのは唐代)琴などを伴奏にして詩をうたうもの。東京書籍版の世界史B(平成31年)の178ページには「…韻文では、唐代の誌に対して、民謡から発展した叙情的な詞が流行した。」とある。

 

問34 ④ 

1956年にブダペストの大規模デモをきっかけに発生したハンガリー反ソ暴動を受けて新たに首相に就任したナジ=イムレは改革を図り、ワルシャワ条約機構からの離脱などを表明したが、介入したソ連軍によって暴動は鎮圧され、捕らえられたナジ=イムレは処刑された。

【解説】

①ブルムはフランスの人民戦線内閣。

②チャウシェスクはルーマニアの指導者。

③ドプチェクはチェコスロヴァキアのプラハの春(1968)を指導した人物。一時失脚したが、東欧革命の後に連邦議会の議長に就任した。

 

問35 ③ 

:ディアスが喜望峰に到達したのは1488年。

【解説】

①イベリア半島に国家を建設したのは西ゴート王国で、西ゴートはゲルマン人。

②ヒクソスが流入したのは中王国末期。

④ロシア革命時に亡命先のスイスから帰国したのはレーニン。

 

問36 ③ 

a セルビアの独立はサン=ステファノ条約またはベルリン条約によるものだが、どちらも露土戦争が終結した後の1878年。グラフで死者数が6万人を超えるのは1876年であるので、誤った文章である。

b  オーストリア皇太子夫妻が殺害されたサライェヴォ事件は1914年の発生。この翌年の1915年に死亡者数が20万を超えているので正しい文章である。

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