2015年 東京外国語大学「世界史」解説
■記述問題概要
2015年の各記述問題(小問)概要は以下の表の通りです。
印象としては、この年の小問は比較的難しい(または答えにくい)内容が多かったように思います。大問1では問6、大問2では問1・問5あたりは答えられない受験生が多かったかもしれません。以下、注意すべき点について解説していきます。
(大問1、問1)
まず、大問1の問1ですが、史料読解問題になっています。本文(史料)中に空欄(①)が配置されており、これについて様々なヒントが示された上で、(①)に入る国名を答えなさい、というものです。史料全てを掲載するのは煩雑ですので、そちらは赤本なりを参照していただくとして、本設問を解くにあたり重要なヒントを示したいと思います。
ヒント1:史料から読み取れるヒント
・①では、奴隷貿易が存続しており、英国の反対にもかかわらず、それを継続しようとしている。
・①で奴隷貿易が存続している原因は、原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる勤勉な人々、人口が不足しているからである。
ヒント2:設問から読み取れるヒント
・①は1822年にポルトガルから独立したラテンアメリカのある国である。
・イギリスは①の独立を承認する代わりに、①に奴隷貿易を廃止させようとして1826年に奴隷貿易禁止条約を締結したが、条約は死文化して、①では1850年代まで奴隷貿易が存続した。(大問1の問1より)
・①の皇帝はペドロ1世である。(大問1の問2より)
本設問で決定的なのはまず、ラテンアメリカに存在したポルトガルの植民地という部分です。これだけで「ブラジル」という答えを導くことは可能です。また「君主国」であり、その皇帝が「ペドロ1世」であるということからも情報を確定することができます。もちろん、ラテンアメリカで奴隷制が続いていて、サトウキビなどの栽培が行われているという情報からでもある程度は答えを導くことが可能ですが、完全に答えを確定させるには固有名詞や個別の事実に依拠する方が確実でしょう。
ブラジルは元々ブラガンサ朝ポルトガルの植民地でしたが、ナポレオン戦争にイベリア半島が巻き込まれた結果、当時のポルトガル宮廷は植民地であるブラジルのリオデジャネイロに一時避難します。この街は、18世紀の前半に内陸部で金が発見されたことから金採掘のための拠点都市として急速に発展した街です。
宮廷が移転したことで、イベリア半島からやってきた本国ポルトガル人とブラジル人との間で次第に確執が生じます。また、この宮廷の避難やその後のイベリア半島の奪回などにイギリスが深くかかわっていたことなどからポルトガルやブラジルではイギリスへの経済的従属が進みます。さらに、宮廷がリオに遷ったことでポルトガル‐ブラジル間の関係が微妙なものになります。「本国‐植民地」の関係が「植民地‐本国」へと変化してしまったのです。
こうした変化に対する不満からポルトガルで自由主義革命(1820)が起こると、革命政権は国の秩序を回復するためにリオのポルトガル王家にポルトガルへの帰還を要請し、宮廷はこれに応えてポルトガルへと戻りますが、帰国したのは国王ジョアン6世とその近臣たちで、皇太子ペドロはリオに残されました。しかし、その後「本国」の立場に復帰したポルトガルは、ブラジルを再度「植民地」の立場へと追いやる施策を続けたため、これに不満を感じたブラジル人たちは残されたペドロを担ぎ出し、ポルトガルから独立します(1822)。
だからと言って、ペドロとポルトガル王室の関係が極端に険悪になった、というわけではなかったようです。このことは、父ジョアン6世が死んだ際にペドロが一時的にではありますがポルトガル王(ペドロ4世)として即位したことからもうかがえます(1826)。ペドロ自身はブラジルがポルトガルから独立したとはいえ、対等な関係での「同君連合」を取り結び、その王に父王ジョアンがつくことを想定していたようです。しかし、ブラジルのクリオーリョたちにその意思はなかったため、最終的にはペドロ自身がブラジルの「皇帝(ペドロ1世)」として即位する立憲君主国が成立しました(1824)。
(大問1、問6)
奴隷貿易にたずさわった黒人王国としてよく出てくるのはベニン王国ですが、用語集や『詳説世界史研究』あたりだとアシャンティ王国やダホメ王国も出てきます。名前は知っている受験生も位置関係を視覚的に把握している受験生は少ないのではないでしょうか。これらの国々のおおまかな位置関係は以下のようになります。
念のためおことわりしておきますと、ものすごくアバウトな位置関係になります。特にベニン王国はひどいですねw ベニン王国はニジェール川の下流西岸一帯くらいで考えておくと良いかと思います。いずれにしても、
ベニン王国=ニジェール川下流(現ナイジェリア)
ダホメ王国=現ベナン共和国
アシャンティ王国=現ガーナ共和国
という位置関係になっています。どこも奴隷貿易で栄えた国ですが、ベニン王国の繁栄が早く15世紀末以降であるのに対し、18世紀に入るとベニン王国にかわりダホメ王国やアシャンティ王国が勢力をのばします。
最近はこれとは別に内陸にあったブガンダ王国(現ウガンダ)なども用語集の中には見られますね。
(大問1、問7)
クックですが、以下の二人がいることに注意して下さい。
・ジェームズ=クック
:18世紀イギリスの航海者。ベーリング海峡からニュージーランドを探検し、ハワイで先住民に殺害された。
・トマス(トーマス)=クック
:19世紀イギリスの旅行業者。ロンドン万博(1851)にちなんで国内の夜行列車や乗合馬車を利用したツアー旅行を計画、成功させた。その後はパリ万博(1855)、スエズ運河開通などを機とする海外旅行も計画。今でも彼にちなむトーマス=クック=グループという旅行者は存在する。
(大問2、問1)
津田梅子は日本史の設問としては平易ですが、世界史の設問としては少々厳しいです。ですが、津田塾大学(旧女子英字塾)の創始者、日本の女子教育の先駆者として常識の範疇といえば確かにその通りですし、「明治期の女子教育の先駆者」ということになれば他に浮かぶ名前もないということで、書けた受験生も案外多かったのではないでしょうか。
(大問2、問5)
イプセンをおさえている人はそう多くないのではないでしょうか。「近代演劇の父」と呼ばれる人ですが、世界史で出てくるのはノルウェー出身の人物であるということと『人形の家』の作者であることだけです。『人形の家』は、夫である弁護士の示す愛情は表面的で上っ面のものであることを薄々感じつつも平穏に日々を過ごす妻が、ある事件をきっかけに自分に対する態度を豹変させた夫を見て(社会的地位が脅かされると感じた夫がそれまで寵愛していた妻をなじり始める)、自分を一個の人間として見ず、可愛い「人形」としてしか見ていない夫に絶望して家を出るという物語です。こうした物語の内容もありますので、北欧史や女性史に関連する設問ではわりに出題しやすい人物であると言えるでしょう。
■論述問題解説
【大問1、問9】
(設問概要)
・カニングが史料[A]において、①(ブラジル)の独立を認めようとしつつ、ブラジルが行っている奴隷貿易の廃止を訴えた理由を400字で説明せよ。その際、ウィーン体制発足後の国際関係についても言及せよ。
・指定語句
:メッテルニヒ / モンロー / 安価な労働力 / 1807年 / 工業製品
(条件・前提・与えられている材料)
・1822年にポルトガルから独立を宣言したある国( ① )[設問1でブラジルとわかる]について言及した3つの史料(①の独立承認をめぐるカニングの覚え書きの一部、①に立ち寄ったビーグル号船長フィッツロイの航海記、同じく、①に立ち寄ったダーウィンの航海記)が示される。
・イギリスは人道主義だけでなく経済的な利害関心から、特に砂糖生産をめぐる国際競争の観点からポルトガルに奴隷制度を廃止させようとした点が設問で示されている。
・以下のグラフが示された上で、ブラジルの砂糖輸出が拡大する一方で英領西インド諸島の砂糖生産が衰退傾向にあったことが設問内で説明される。
・[A]-[C]の史料と設問1~8を参考にせよ。
・アラビア数字、アルファベットは1マスに2文字ずつとする。
・指定語句を使用した箇所全てに下線を付すこと
(史料)
史料については解説の都合上必要な部分、注意すべき部分のみ抜粋します。
[史料A:A. G.
Stapleton, The Political Life of the Right Honourable George Canning,
1831. およびLeslie Bethell, The Abolition of
the ******Slave Trade, 1970]
※ ちなみに、設問には「表題を一部伏せた」という注がつけられていますが、これは何も差別用語や放送禁止用語がつかわれているからというわけではなく、******の部分に’Brazilian’の語が入るためですw 表記すると答えがばれちゃうのですねw
※ 史料中、( )で略、中略とされているのは私が省略した部分、[ ]で略されているのは設問の段階で省略されていた部分です。
・ブラジルは合法的奴隷貿易の一大中心地です。…(中略)…しかし、諸々の事情により、奴隷貿易全廃の可能性が見えてきました。…(中略)…それは、イギリスの決断がブラジル独立の成否を左右すると考えられるからです。しかし、もし、われわれが判断を遅らせ、②オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら、あるいは、フランスが奴隷貿易の存続を支持し、それを支援することになったら、イギリスが独立を認めるかわりに、ブラジルは奴隷貿易を廃止するという我々の提案は時宜を失ってしまいます。[中略]③西インド植民地を救う方法は、奴隷貿易を全廃することであり、それはブラジルに奴隷貿易を廃止させることによってしか達成できないのです。
[史料B:Robert FitzRoy, Narrative
of the Surveying Voyages of his Majesty’s Ships Adventure and Beagle, 1839.]
…(略)…ブラジルにおいて奴隷制度が存続しているのは、人口が不足しているからです。もちろん、それだけが奴隷制度の原因というわけではありませんが、やはり原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる、勤勉な人々が不足しているのです。
人口不足を解消するのは非常に困難なため、ブラジルなどでは、自分のことしか考えない、行き当たりばったりの大地主が、不運にみまわれた人々を、何百人、何千人と連行してくるのです。…(略)…
[史料C:Charles Darwin, Journal
of Researches into the Natural History and Geology of the Countries visited
during the Voyage of H.M.S. Beagle round the World, 2nd ed.,
1845.]
(省略)
(採点基準と解説)
・本設問で要求されていることを整理します。本設問での要求は「①カニングがブラジル独立を認める一方で、ブラジルの奴隷貿易廃止を訴えた理由を説明すること」、「②ウィーン体制発足後の国際体制に言及すること」、「③指定語句としてメッテルニヒ / モンロー / 安価な労働力 / 1807年 / 工業製品」を用いることの3点です。(あと、指定語句に下線を忘れないように)
・まず、本設問を解く上でスッキリさせておきたいのは、①=ブラジルということです。これを導くことは上に書いた設問1の解説からもわかる通り、それほど難しいことではありません。仮にこれが導けなかったとしても当時の①とイギリスとの関係は設問中にかなり示されていますし、当時のイギリスとラテンアメリカ、ヨーロッパをめぐる国際関係は受験ではありきたりのテーマですから、解答を作成することは十分に可能ですが、やはり分からないままで解くとなると、何となくスッキリしない、ムズムズした感じが残るのではないかと思いますので、ここははっきりブラジル、としておきたいですね。
・次に、設問の周辺にかなりのヒントがちりばめられていることに注目しましょう。すでに設問のうちヒントになりそうな部分は上で示してありますが、整理すると以下のようになります。
①カニングはブラジルの独立を承認しようとしていた。
②カニングはブラジルの奴隷貿易をやめさせたいと考えていた。
③カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した理由は人道主義からのみではないこと。
④カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した理由に砂糖生産をめぐる国際的な競争があったこと。
⑤当時、ブラジルが砂糖輸出を拡大していたのに対し、ジャマイカ(設問中で英領西インド諸島であることが明示されている)の砂糖生産は衰退していたこと。
・つづいて、史料から読み取れることを検討します。
まず、史料Aですが、この史料だけを読まされたとすれば非常に難解な史料であるかもしれませんが、設問の中でカニングの意図(①・②・③・④)については明確に解説されています。
それでもよくわからない箇所があるとすれば、下線部②で示されている「オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら」という部分でしょうが、これについても大問1の問2の問題文において「オーストリア皇帝フランツ2世の娘マリア・レオポルディーネは①(ブラジル皇帝)ペドロ1世の皇后だった。」と書いてあります。さらに、「そのため、スペインから独立したラテンアメリカの新生共和国は、オーストリアを中心とする神聖同盟の再植民地化政策を警戒した。」とまで書かれています。当時の事情をしっかりと思い出せない人も、こうしたことをヒントにすれば、ラテンアメリカの独立とウィーン体制の関係、さらには当時の合衆国やイギリスの外交政策をある程度正確に思い出すことができるのではないでしょうか。
さらに、上に書いた史料Bの赤字で示した部分を読めば、当時のブラジルにおいて黒人奴隷は「原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる、勤勉な人々」として重要であり、地主によって絶えず輸入され、酷使される存在であったことが読み取れます。このことから、当時のブラジルにおけるプランテーション経営と黒人奴隷の関係について述べることは比較的容易でしょう。
ただ、ここで問題となるのは史料Cです。史料Cは進化論で有名なダーウィンが書いたビーグル号での航海記です。ダーウィンは確かに奴隷反対論者で、このビーグル号の航海でもフィッツロイと奴隷制をめぐり意見の対立があったといわれます(もっとも、本設問の史料ではそのあたりがはっきりとは見えてきませんが)。ですが、今回この史料Cを見る限りでは設問の要求に答える際に必要となるようなヒントは特に見当たりませんでした。強いて言えば、当時のイギリスの人々が持っていた奴隷制に対する見方や感情がどのようなものであったかという具体例からエヴァンジェリカル(福音主義的)な要素を導くことくらいでしょうか。エヴァンジェリカリズムについては後で述べることにして、ここでは、「史料C」を配置した意図が気になる、とだけ示しておきたいと思います。設問を作る側からすれば、何らかの意図があってこの史料を配置したと思うんですが、この史料からはそれが明確に見えてこないんですよね…。私が何か見落としているのかもしれません。
・さて、以上のことをベースとして採点基準になりうるポイントを考えていきましょう。これらのポイントの中には通常の受験世界史を勉強していれば書ける内容と、史料・設問がヒントになって書ける内容の両方があると思いますが、今回の設問では必ずしもその境界がはっきりしません。そこで今回は「世界史の(東京外語レベルを目指した)基本的な学習からすれば書けるはずの事柄」のみ赤字で強調することにしてポイントを列挙してみたいと思います。
① カニングがブラジルの独立を承認しようとしていた背景にはイギリスの自由貿易主義が背景にあったこと。
② 一方で、カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した背景には、英国内の奴隷制反対の世論があったのみならず、イギリス領西インドの砂糖輸出がブラジル産砂糖輸出の拡大によって圧迫されているという事情があったこと。
③ ②のような状態に陥った背景には、イギリスが奴隷制を廃止しつつあった(奴隷貿易廃止は1807年、奴隷制廃止は1833年)ために、農場経営に不可欠な安価な労働力を確保できず、砂糖生産のコストが上がったのに対し、ブラジルでは奴隷制が維持されたことから安価な砂糖を生産でき、国際競争においてブラジル産砂糖が優位に立っていたこと。
④ ウィーン体制発足後のヨーロッパではナショナリズム・自由主義を抑圧するための神聖同盟・四国同盟が結成されたこと。
⑤ ウィーン体制は1820年代までのヨーロッパ内ナショナリズム・自由主義の弾圧には成功した(ギリシア独立を除き)ものの、ラテンアメリカ諸国の独立を防ぐことができなかったこと。
⑥ ⑤の一因に、当初は四国同盟の一員であった英国が自由主義貿易、自由主義外交への転換によって四国同盟を離脱し、メッテルニヒ主導のウィーン体制とは一線を画してラテンアメリカ独立を支持したことがあること。
⑦ 英国がラテンアメリカの独立を支持した背景にはラテンアメリカへの経済的関心があったこと。
⑧ 同じく、合衆国はモンロー宣言によってアメリカとヨーロッパの相互不干渉を主張し、同じくラテンアメリカの独立を支持したこと。
⑨ イギリスでは、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ウィルバーフォースをはじめとする福音主義者やクウェーカー教徒の活動によって奴隷制廃止の運動が高まっていたこと。
こんな感じでしょうか。極論を言ってしまえば、ラテンアメリカの独立についての部分をしっかり勉強していた人であれば、仮に設問の要求している史料読み取りができなかったとしても、まぁ多少の点数は入りそうな雰囲気です。採点する側からすると残念な(質が、というよりも自分の意図を理解してもらえなかったことが)答案に見えるでしょうがw
脱線しますが、いつも申し上げている「論述はコミュニケーション」というのは実は出題する側も同じで、出題する側は「これくらいの材料を提供すれば、きっとこちらの誘導に乗って、これくらいの内容を書いてきてくれるかな。どれくらいの人が正解にたどり着けるかな。」と意地悪な気持ち半分、期待半分でわくわくして待っていたりします。肝試しの脅かし役みたいな気分ですねw 脅かしてやろうとワクワクして待っているところに、正規のルートではないショートカットを通ってゴールされたのでは「あ、うん。そうね。そっちの道を通っても確かに着くかもしれないけどさぁ。せっかく待ってるんだからこっちに来てよ…」とがっかりするわけですねw
■解答例
ナポレオン没落後に発足したウィーン体制を主導するメッテルニヒは、ラテンアメリカの独立運動が欧州の自由主義とナショナリズムを刺激することを恐れて干渉を試みたが、英外相カニングは産業革命の進展と産業資本家の成長により国内で高まっていた自由貿易要求を受け、四国同盟と一線を画し諸国の独立を支持した。また、独立して間もないアメリカ合衆国大統領モンローも欧州による干渉を恐れアメリカ・ヨーロッパの相互不干渉を主張したため、メッテルニヒは干渉を断念した。こうした中で、ブラジルの独立を工業製品輸出による経済支配拡大の好機と捉えたカニングはその独立を支持した。一方で1807年に奴隷貿易を廃止したことで国際競争力が低下していた英領西インド諸島の砂糖産業救済のため、ブラジルの砂糖プランテーションで安価な労働力である黒人奴隷が使用されることを止めようと奴隷貿易廃止を訴え、英国内の福音主義者などの奴隷廃止論者はこれを支持した。(400字[1807は4字で2字扱い])
(おまけ:奴隷制廃止)
奴隷制の廃止について、受験世界史で出てくる人物としてはウィルバーフォースがあげられます。もっとも、彼の名前は用語集には出てきますが、『詳説世界史研究』(2016年版)にはまだ登場していないようです。『詳説世界史研究』の奴隷制廃止に関する箇所を見てみると、以下のように出ています。
「18世紀末からの革命思想によって人間の尊厳に対する人道主義的世論が高まり、1807年イギリスにおける奴隷貿易が禁止され、さらに33年植民地も含む奴隷解放令がグレーGrey(1764-1845、任1830-34)内閣のもとで成立し、38年有償方式による全奴隷の解放が実現した。」(同書p.362)
「イギリスでは18世紀からクウェーカー教徒によって奴隷反対運動が進められていた。デフォーやアダム=スミスなども反対を表明した。」(同書p.362,注3)
「18世紀後半から非国教各派による奴隷制と奴隷貿易の廃止を求める運動が展開された。ナポレオン戦争中に奴隷貿易が停止され、1833年、イギリス帝国全体で奴隷制度を廃止することが決定されたのは、この運動の成果である。奴隷貿易廃止への動きは、ヨーロッパにおける産業と社会の構造変化を反映するものであった。19世紀前半に西アフリカからのアブラヤシの輸出が急速に拡大したように、アフリカはもっぱら工業化を進めるヨーロッパにとってのヤシ油・ピーナッツ油・綿花などの原料供給地と工業製品市場の役割を果たすことになった」(p.435)
「イギリスはウィーン会議(1814-15)で奴隷貿易の禁止を提起した。その背景には、解放奴隷を産業化推進のための労働力として確保しようという意図があったと考えられる。フランスではフランス革命の時にいったん奴隷制度が廃止されたが、最終的には1820年に奴隷貿易が、48年の二月革命において奴隷制が廃止された。スペイン植民地における奴隷制廃止は1883年であった。」(p.435,注1)
『詳説世界史研究』のレベルで奴隷制廃止について書いてあるのがこの程度ですから、かなりよく勉強している受験生でも奴隷制廃止の経緯とその周辺の物事の詳細についてはご存じない方が多いのではないでしょうか。
まず、イギリスで奴隷制廃止論が高まっていくのは18世紀末のことです。イギリスで奴隷制度反対の動きが高まった背景としては様々な原因が考えられます。学問的には諸説あるとは思いますが、わかりやすく話を理解することを重視すれば(w)、大きく以下の点をあげることができると思います。
①早くから農奴制が消滅していたこと。
②二度の「革命」を経て人々の「自由」、特に人身の自由にかんする意識が高まっていたこと。
③黒人奴隷取引の実態が非常に悲惨で酸鼻にたえない状態であったこと。
④イギリス本国内に連れてこられた黒人奴隷の法的扱いをめぐってたびたび世論を巻き込む議論が巻き起こったこと。
⑤クウェーカー教徒を中心とした奴隷制反対運動が起こったこと。
⑥ウィルバーフォースをはじめとする福音主義者たちのキリスト教的な博愛主義が、同じく奴隷制反対運動へと向かわせたこと。
⑥産業革命の進展により、イギリス本国の産業構造が変化していたことと、産業資本家の勢力が国政に対する圧力として働いたこと。
まぁこんな感じでしょうか。世界史で時々言及される「クウェーカー教徒」や「福音主義」はある意味当時のイギリスを知る上ではとても重要なのですが、これらの全体像を把握しようとすると下手するとそれだけで小冊子が一冊書けてしまうことになるので、ここでは深入りしません。ここでは、18世紀以降のイギリス(またはアメリカ)においてはたびたび信仰覚醒運動と呼ばれる動きが起きて主流の教会・宗派とはことなる宗派が分離、または対立していくことと、19世紀において大衆の運動に大きな影響を与えたものに福音主義があるのだということだけおさえておけば十分だと思います。詳しいことが知りたいということでしたら、それこそ大学でイギリス史近代史を専攻してみるのも面白いと思います。高校で勉強する世界史は歴史の本当にほんの一部分にすぎません。もっとも、史学科に進学するのであれば、「就職向けのスキル・勉強もしておいて、大学の歴史はあくまでも趣味の一環と割り切って勉強する」、「大学院(修士)くらいまではいくつもりであらかじめ教員免許も取っておく」、「本気で研究者になるつもりでガンガン留学したり生の史料から読み漁っていく」など、卒業後に最低限の「物の役に立つ」レベルまで持っていっておかないとあとで何にも残らないということがあり得ますのでお気をつけてw
受験用の世界史として奴隷制廃止を理解するのであれば、上の原因をさらに整理して「A:革命や啓蒙思想、自然法思想などの様々な要因から人間の自由や最低限の待遇を重視する[人道主義]とも呼ぶべき考え方が広まり始めていたこと」、「B:こうした[人道主義]と、クウェーカー教徒や福音主義者などのキリスト教的博愛の実践を重視するセクトが奴隷制廃止に向けた運動を精力的に展開したこと」、「C:工業化が進展したイギリスで必要であったのはむしろ流動的な労働力で、固定の維持費がかかる奴隷制度は(少なくとも本国では)必要なかったこと」の三点を理解しておくべきでしょう。
個人的にはCの工業化と必要とされる労働力とのマッチングが、19世紀の欧米の変化を理解する上で大切なポイントなのではないかなと思っています。たとえば、南米で16世紀以降展開した金・銀の採掘や商品作物のプランテーションといった農作業は基本的に一日中、一年中作業することが期待される労働です。こうした環境下においては、多少の維持コスト(住居費、食費、衣類など)がかかったとしても、休まず徹底して酷使することが可能な黒人奴隷は理想的な「安価な労働力」となりえます。ですから、クリオーリョによるプランテーション経営が中心的な産業であった旧スペイン植民地、19世紀以降同じくコーヒーのプランテーション栽培が拡大したブラジル、綿花プランテーションが発展したアメリカ合衆国南部といった地域では奴隷制の維持は最重要の前提でしたし、実際にこれらの地域で奴隷制が廃止されたのも19世紀の後半から末にかけてと、かなり遅れてのことでした。
一方、工業化が進むとこうした奴隷を抱えることは必ずしもコストの削減にはつながりません。工場で製品を生産する場合、好不況の波や、流行り廃りといった要因にも影響を受けて、工場をフル稼働させるべき時期と、むしろ生産を縮小するべき時期に差が出てきますので、一年中同じように工場で労働させれば良い、というわけにはいきません。1年中同じように働かせ続けないのであれば、労働力を「所有物」として維持し続けることはむしろコスト高へとつながります。つまり、工業化された地域で必要とされる理想的な「安価な労働力」となるのはむしろ「流動的な」労働力、雇いたい時に安く雇うことができて、クビにしたい時にはすぐにクビにできる、そういう労働力です。それがつまり、イギリスでは「都市に流入する余剰人口」であり、アメリカ合衆国であれば「移民」ということになるわけです。
このように考えれば、産業革命をいち早く達成したイギリスや、工業化の進展した合衆国北部でなぜ、早くに奴隷制が廃止されたのかをよく理解することができます。もちろん、人道主義や博愛主義というものの影響もあったのでしょうが、これらの地域の支配層にとってもはや奴隷制は必要なものではなかったことも理由としてあげられます。むしろ、特に合衆国においては、南部のプランターの所有から解放された奴隷たちが流動的な労働力に転化していく方が、工業化が進んだ北部の利益にかなうという側面があったのです。南北戦争に発展するほど北部が奴隷制に反対した理由が、人道主義とアンクルトムの小屋だけだなんて、ねぇ。
近代経済学についてテーマ史を書いたところでもご紹介したように、当時の工業化や産業資本家の台頭は、既存権力との対立や社会システムの変化と密接に関連しています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_216372.html)このあたりを深く理解していくと社会・経済史は俄然面白くなりますし、「歴史って何の役に立つの?」という残念な疑問も自然と解消されてきます。
【大問2 問4】
(設問概要)
・インド大反乱の結果を受けてイギリスのインド統治はどのように変化していったか100字以内で説明しなさい。。
・パクス=ブリタニカ期の英国女王の名と、指定語句(東インド会社 / ムガル皇帝 / インド帝国)を用いなさい。
・語を使用した箇所全てに下線を引きなさい。
(解説)
ちょっとびっくりしたのは、本設問にジャーンシー藩王国王妃ラクシュミー・バーイーの名前が登場したことです。ラクシュミー・バーイーは、ジャーンシー藩王ガンガーダル・ラーオの妃でしたが、せっかく生まれた子が病没した後に夫にも先立たれた結果、当時の東インド会社が展開していた「失権の原則」という、後継ぎがいない場合にその王国を東インド会社の所有とするとする取り潰し政策にあって追放されてしまいます。ですが、それから数年後にシパーヒーの乱が起こるとこれに加わり各地を転戦、大活躍をしたインドの英雄です。超有名人なんですが、なぜか世界史にはあんまり出てきません。
ですから、大学の試験問題で、しかも東京外語などというA級大学で出題されたことにHANDは萌えましたw ラクシュミーを想像するときの私のイメージ図は私が中学生の頃に出版され始めたラノベ『風の大陸』に出てくる、祖国を出奔して男装のまま主人公と旅を続ける少女、ラクシです。いのまたむつみのイラストが美麗だったのですが、途中から多少話が退屈になってきたので10巻あたりで読むのをやめましたw 今調べたら完結したそうです。1990年に始まって2006年完結って…。
脱線しました。あ、ちなみに今回の設問では残念ながらラクシュミーの出番はまったくありません。というより、リード文となっている2次文献全体がそれほど必要ないですね。きわめてオーソドックスな問題です。要は、それまで東インド会社が行っていたインド統治権がイギリス国王へ移譲されてインド担当大臣が新設されて統治される方式へと変わり、さらに反乱の途中でムガル帝国が滅亡したことを示して、最終的にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立したことを述べればそれで十分です。論述としては基本問題の部類に入るものだと思います。
一点、設問について難癖をつけるとすれば、設問では「インド大反乱の結果をうけて、イギリスのインド統治はどのように変化していったか(原文ママ)」とありますが、指定語句にムガル帝国を入れる意図から考えれば、「結果を受けて」ではないですね。ムガル帝国はインド大反乱(シパーヒーの乱:1857-59)中の1858年にバハードゥル=シャー2世が形式的にではありますが反乱軍の指導者に擁立されたことを咎められてビルマに追放されたことにより滅亡しますから、設問は本来「インド大反乱の経過と、その結果を受けてイギリスのインド統治がどのように変化したか」とすべきです。実は、2015年の設問は2016年や2014年の設問と比べると、どことなくその辺のきめ細やかさというか、設問に対する愛に欠けているようなところを解いていて感じます。根拠はありませんw ただ何となく、そんな感覚がするだけです。忙しかったのかもしれませんねぇw
ちなみに、イギリスの帝国支配またはインド支配については少し古い本になりますがデイヴィッド=キャナダイン(David Cannadine)による『オーナメンタリズム』(Ornamentalism)という本が面白い知見を提供してくれています。イギリスがインドをはじめとする植民地統治をおこなう際に、現地の人々をどのようにその支配機構に取り込んでいくのかについて考察したものですが、単なる力による支配ではなく、自分とは異なる他者が持つ類似性をもとに再秩序化していく過程を丹念に見ていった研究書で、邦訳も出ています(平田雅博、細川道久訳『虚飾の帝国:オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』日本経済評論社、2004年)。そのうちこれについてもご紹介したいですが…と言いつつ全然できてないですよね、すみませんw