2018年の問題は「ついに来たなー」という感じのテーマでしたね。「女性」をテーマにした出題です。説明会などでは散々「女子学生の比率を増やしたいのだ―。」とのたまっている割に、女子の全体に対する比率は依然として18.6%と、アメリカ軍と同レベルの女子比率である東大でもついに女性が扱われました。もっとも、たぶん東大では以前から大論述で扱いたかったのではないかなーと思います。ただ、大論述で扱うには2つほど問題があったのではないでしょうか。
一つには、従来の教科書記述では女性に関する情報量が少なすぎて、大論述を構成するだけの情報がないという問題があったのではないでしょうか。この点、最近の教科書ではフランス革命期のグージュをはじめ、女性の活動についての記述が増えてきました。(山川の用語集の2012年版にはグージュについての記述はありません) 二つ目は、高校の教員や受験生側の認識の問題があります。たとえ教科書に新しく載ったとしても、高校の教員や受験生の側でそれは当然知っておくべき情報だという認識へと変化していくためにはいくらかの時間差が必要となりますから、そのあたりもある程度は考慮してくれていたのではないでしょうか。まぁ、この辺は推測にすぎませんけど。
ところで、今回の問題は採点の方で色々あったようで、どうもある程度何でもよいので具体例をひたすら書き込んだ答案の方が、点数が高く出る傾向にあったようです。これは、そもそも設問が「具体的に記述しなさい」という形で東大にしては珍しく「具体的に」という指示を出していたことと、女性の権利の歴史という慣れないテーマのせいで、一般論で終わってしまう受験生が多数であったことから、とりあえず設問条件を満たす具体例が入っている場合には一定の基準で加点したのではないか、という報告が某予備校の研究会ではされていました。本当かどうかは分かりませんが、そうしたこともあったのかもしれません。ただ、東大の設問の傾向は原則としてあくまでも設問が提示した一定のテーマに沿ってまとめた解答を評価するタイプのものですので、具体例をただ連ねただけの解答は本来であれば低評価となるはずです。そのあたり、今回の設問は東大の側でも一つのチャレンジであり、試験的なものだったのかもしれません。今回の問題は、テーマや求められている内容ともに非常にレベルの高いもので、「やや難」といったところかなと感じます。
それから、すでにあちこちで指摘されていることでもありますが、女性参政権については過去に一橋の方でこれを扱った問題が出題されています(一橋大2010年、大問2)。これについては別のところで解説していきたいと思います。
2018年 第1問
【問題概要】
・19世紀~20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について具体的に記述せよ。
・女性参政権の歩みについて具体的に記述せよ。
・女性解放運動について具体的に記述せよ。
・指定語句として、キュリー(マリー) / 産業革命 / 女性差別撤廃条約(1979) / 人権宣言 / 総力戦 / 第4次選挙法改正(1918) / ナイティンゲール / フェミニズム
設問を見ると、一橋と違って参政権のみを問題にしているのではないことがわかります。女性の活動全般についてかなり幅広く聞いてきています。これについて、東大ではリード文を長めに提示して受験生にヒントを与えていますね。受験生が不慣れであろう事柄について問う際には、東大の側でこのようにリード文を通してヒントを与えてくれることもあります。(例えばですが、2012年の宗教的標章法が指示語として与えられた、アジア・アフリカの植民地独立とその後などはリード文がかなり丁寧でした。また、この年の世界史平均点は例年と比較して高かったようですので、おそらく採点基準についても当初のものからかなり易化したのではないでしょうか。)
【解答手順1:リード文(中段)から、おおよその流れを確認】
・最初の段落の部分は18世紀までを意識して書かれているものです。ですが、設問の方の時期は19世紀~となっていますので、18世紀の内容はただ書いても加点要素とはなりません。フランスの人権宣言に女性の権利が明記されていないことに抗議して、『女性および女性市民の権利宣言』を発表したグージュなどはフランス革命期に処刑されていますので対象外です。
・中段をまとめると以下の通りです。
① 19世紀以降、男性の普通選挙要求と並行して進められた。
② 19世紀末から20世紀初頭に一部の国で女性参政権が認められた。
③ 日、仏では第二次世界大戦末期以降に女性参政権が認められた。
④ 参政権のみでは女性の権利や地位の平等は達成されず、20世紀後半には根強い差別からの解放運動が繰り広げられた。
つまり、リード文自体が設問の要求する女性の活動、女性参政権獲得の歩み、女性解放運動のおおまかな流れを示していることに気づきます。このうち、②と③については一連のものとみなしてもいいと思います。大きく分けて3つの時期と内容に分けると比較的すっきりしますね。つまり、「女性が男性優位社会の中で活躍の場を見出そうとする時期(19世紀前半~後半にかけて)」、「女性の活動が参政権獲得運動と本格的に結びつき、運動が高揚して女性参政権が実現する時期(19世紀後半~第二次世界大戦)」、「参政権を獲得した女性が残存する差別の撤廃のために運動を展開する時期(第二次世界大戦後)」です。女性の権利のように、教科書に一つのテーマとしてまとめられていないことについて論述を構成する際には必ずこうした大きな見取り図を用意する必要がありますが、これをリード文が用意してくれるのはとても助かります。実際、ほっとしましたw
【解答手順3:解答手順2の①~④を意識しつつ、整理していく】
解答手順2で示した①~④がおおまかな流れを示しているので、あとはそれに従って加点要素になりそうなものを整理していくと良いでしょう。
(①‐19世紀前半~:女性の地位と社会的活動)
:この時期は、まだ女性の参政権獲得運動は本格的には展開していません。(あったとしても男性の活動に付随する形で進んでいきます) ですから、この時期については女性がどのような地位にあったのかの確認と、男性中心社会における女性の社会的活動に焦点を当てると良いでしょう。
・産業革命以降、労働を担当する男性と家事を担当する女性の分業が進む
:従来、女性は、つねに労働の場から遠ざけられていたわけではありませんでした。たとえば、農村社会において農作業は男女共同で行う作業で、女性だけでなく子どもたちにすら何らかの役割があります。もうすでに古典となっていますが、フランスの歴史家であるフィリップ=アリエスは『アンシャン=レジーム期の子どもと家族生活(邦題:子供の誕生)』という研究書において、中世には大人と子どもの線引きが曖昧であったことを指摘しています。
ところで、農村での共同の農作業の場合、家事労働は必ずしも生産労働から区別されません。乳児を背負いながら農作業を手伝うことも可能ですし、食事の支度はそのまま農作業を補助する役目となります。つまり、家事労働をこなしながら生産活動に従事することが可能で、こうした社会においては、時代や地域により差はあるものの、女性は一定の役割と権利を認められています。
ところが、産業革命によって労働が賃雇いの工場労働に変化すると、特にイギリスでは家事労働は次第に生産活動の場から切り離されていきます。賃雇いの場合、時間と効率が重視されますから、子育てを片手間に行いながら労働していると工場長から睨まれます。また、労働者は家から離れた工場で働きますので、働きながら家事をこなすことはできません。さらに、工場労働は多くの場合、重労働の力仕事や過酷で劣悪な勤務条件であることが多く、子どもや女性に必ずしも適したものとは認められません。こうした流れの中で、シャフツベリ伯アシュリー=クーパーの尽力で1833年にイギリスで一般工場法が制定されたことを皮切りに女性やこどもに対する保護条項が定められていきます。(1844年と1847年の改正で女性と若年労働者の労働時間が制限された。) つまり、この法律は重労働から女性やこどもを守る目的からのものでしたが、農村的生活から都市的生活への変化や、製造業を中心とする労働環境の厳しさは、家事労働と生産活動の分化を促進し、女性を家に閉じ込める結果にもつながっていきます。
「女性は家庭にいるのが理想」という発想は、福音主義のような倫理的・道徳的観念からも出てきますが、当時の社会的状況からも強化されていきます。当時の工場法が女性労働を制限しているのは、女性に対する過酷な労働環境が存在していたことの反映でもあります。労働者階級の女性たちは様々な困難があり生産活動の場から遠ざけられようとしながらも、家計を支えるためには何らかの形で稼ぎに出なくてはなりませんでした。そうした女性たちにとって、労働は権利というよりは「つらいこと」でした。それに対して、ジェントルマン階級の家庭では、女性が外に働きに出ることはありません。女性は子どもの教育をはじめ、来客の接待、家宰の一切を任されて、(実際には大変なのでしょうが)優雅に暮らしています。こうした対比がなされた時、「労働者階級の女性はつらいのに働きに出てかわいそう、裕福な家の女性は家のことだけしていいね」というイメージが「女性は家庭に」という理想像をさらに強化していくことにつながりました。このあたりの事情について読みやすいものとしてはジューン=パーヴィスの『ヴィクトリア時代の女性と教育』(ミネルヴァ書房)あたりが良いかと思います。
・女性の権利はなかなか認められなかった。
:これについてはいくつか具体例を挙げることができます。上述したグージュの『女性および女性市民の権利宣言』は、女性の権利が認められないことに対する抵抗としては良い例ですが、18世紀の例なので本設問では書きにくいです。同じフランスですが、フランス民法典(ナポレオン法典)などは良い例でしょう。ナポレオン法典は極めて近代的な内容の法典でしたが、家父長権を設定するなど古い家族関係を維持しようとする内容が含まれていたため、女性の権利は尊重されていませんでした。また、イギリスではメアリ=ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』(1792)で女性教育の重要性と教育の機会均等をを説き、その他にも男女同権を主張する著作を発表して有名になりましたが、この人も18世紀末に亡くなっています。
・一部の政治的活動に参加する女性の姿も見られたが、多くの場合女性の権利は黙殺されたり、社会活動を展開する女性が蔑視されたりもした。
:女性の政治的活動に対して否定的な社会においても、政治的権利を求める女性たちの活動は展開されましたが、男性優位の社会において、その活動はある種の妥協を強いられました。よくあるパターンは、男性たちが権利の主張をする際にそれに乗じる形で女性の権利を主張するパターンです。18世紀にはフランス革命期に女性の活動が見られましたし、19世紀に入ってからはイギリスのチャーティスト運動などでは女性チャーティスト協会などの婦人団体が参加していました。これは、その時の権利をめぐる対立構図の中心が「権利を持つ支配階層または資本家層 VS 権利を持っていない被支配階層または労働者」であって、「男性 VS 女性」という構図ではなかったことが原因です。ところが、ひとたび男性たちが権利を手にしてしまうと、共に闘っていた男性たちはそれに満足して女性の権利については無頓着になってしまいます。(似たような構図にアメリカにおける奴隷解放があります。奴隷を解放し、自由にするという流れの中で女性の解放というものも問題となりました。公民権運動にも似たような部分はあります。)
・女性たちが参加を許されたチャリティーなどの社会活動が存在した。
:このように、政治的活動や労働など、女性は社会的活動の場を19世紀の前半には失ってしまっていますが、そうした中でも許された社会活動にチャリティー(慈善活動)があります。家庭にいることを理想とされた女性たちでしたが、こうした発想のもとには福音主義や、当時の道徳観・倫理観がありました。聖書の中には、見方によっては女性が社会に出たり、指導的立場に立つことを否定していると解釈しうる部分や、家庭を維持し子育てをする女性や、弱者救済を行う人を称賛していると解釈できる部分があります。(例えば、「婦人たちは、教会では黙っていなさい」[コリント人への手紙。14・34]など。)こうしたことから、当時の倫理観では「女性は家庭にいて子育てや家事に従事すべきだが、弱者を救済する慈善活動は神の御心にかなう活動であり、女性が行ってもよい」という発想があったようです。女性を中心テーマにしたものではありませんが、イギリスのチャリティーについては金澤周作の『チャリティとイギリス近代』は非常に細かく近代イギリスにおけるチャリティのあり方を示しています。金沢先生については他にも『海のイギリス史』なども読みやすくていいかと思います。金澤先生は元々は難破船に対する周辺社会の対応の在り方などを研究されていた方ですが、その後チャリティへと関心をむけられた研究者です。
話がやや横道にそれましたが、このような背景を知っていると、19世紀前半のイギリスにおける自由主義運動とその成果は、必ずしも別のものではなく深く結びついていることが見えてきます。1833年は一般工場法が制定された年ですが、イギリスで奴隷制が廃止された年でもあります。工場法を推進したシャフツベリ伯も、奴隷制廃止運動を展開したウィルバーフォースも福音主義者でした。つまり、自由主義と福音主義は当時において密接に関連しています。また、女性の活動、といったときに真っ先に名前が思い浮かぶのはナイティンゲールですが、彼女が行っていたのも「看護活動」で政治的活動ではありません。もっとも、ナイチンゲール自身は単なる「召使い」としての看護婦ではなく、衛生状況の改善などを政府や軍に打診して実行し、統計学者や看護体制の改革者として力を発揮しました。ただ、そうした力のある女性であっても、教育を受ける際に姉の看護を口実としたり、社会的活動を行うにあたってその入り口が看護活動であったことは当時の世相を反映しているものです。
・19世紀に活躍した女性の具体例(参政権や女性解放以外の分野で)
:世界史の教科書に出てくるような人で調べてみると、意外にその数が少ないことに驚きます。指定語句にあるナイティンゲールとキュリー(マリ=キュリーまたはキュリー夫人)については良いでしょう。キュリーはラジウムの発見とノーベル物理学賞の受賞で有名ですが、政治的な活動は目立ったものがありません。このあたりのことを考えてみても、ナイティンゲールとキュリーについては、女性による参政権獲得運動が本格化する以前の、政治色のない女性の活動の例として挙げるにとどめるべきでしょう。また、指示語として示してある以上は、名前を挙げるだけでなく、関連した事項に触れておくことが大切です。ナイティンゲールについては、クリミア戦争への従軍、彼女の活動の影響を受けたアンリ=デュナンによる国際赤十字の設立などを挙げることができると思います。
そのほかの19世紀女性となるとあまり見当たりません。使えそうなのはストウ夫人(『アンクルトムの小屋』の著者)で、奴隷解放運動と結びつけることは可能です。他ですと世界史に出てくる女性としては、ヴィクトリア女王と津田梅子(岩倉使節団とともに渡米、留学。女子英学塾[現在の津田塾大学]の創始者で女子教育の先駆者)くらいしか思い浮かばないですねぇw ナイティンゲール・キュリー・ストウ・ヴィクトリア・津田梅子って何の脈絡もなくてガッタガタのラインナップ過ぎて笑えませんw
ちなみに、看護活動などの社会活動で重要な人物として、世界史の教科書には出てきませんがアメリカのクララ=バートンがいます。南北戦争中に看護活動を行い、その後のアメリカ赤十字の設立に尽力した人物です。この人が世界史などでおなじみだと使い勝手が良いのですけどね。
(②19世紀末~20世紀初頭:女性参政権獲得への歩み)
・女性の権利の主張
:さて、19世紀は女性が活動するには世間の目や色々な制限があり難しい時代でしたが、それでもナイティンゲールやキュリーのように、慈善活動などの社会活動や学問の分野で活躍する人たちは見られました。19世紀後半ごろからは、政治的な権利を求める女性の活動が次第に熱を帯びていくことになります。その一つが、2010年の一橋大学出題の大問2リード文で示されたセネカ=フォールズ会議です。これ以降、アメリカでは女性参政権獲得運動が進められていきます。
(アメリカの女性参政権獲得の歩み)
これらのうち、一般的な世界史の知識で引っ張り出せそうなのは「アメリカでは州単位では早い段階で女性参政権の導入があったこと」と「総力戦である第一次世界大戦への参戦と女性の戦争への協力が女性参政権の成立につながったこと」、「その時の政権がウィルソン政権であったこと」くらいでしょうか。また、一橋の問題を解いたことがあったという人であればセネカ=フォールズ会議について言及できた人もいたかもしれません。(そんなに数は多くはないでしょうが)
一方、同じ時期にイギリスでも女性参政権獲得運動が展開していきます。一次大戦がきっかけで女性参政権が成立(第4回選挙法改正:1918)するのも同じですね。おおまかな流れは以下の通りです。
(イギリスの女性参政権獲得の歩み)
このうち、パンクハースト夫人は一部の教科書に掲載されています。また、2017年に改定された『詳説世界史研究』(山川出版社)にもパンクハーストは出てきます。また、第一次世界大戦と第4回選挙法改正の関係は教科書でもはっきり示してある重要箇所ですから、これについて記述することは十分可能ですし、必須です。総力戦であったこと、女性の軍需工場への動員が行われていたことなどは基本事項になりますので確認をしておきましょう。
注意しておきたいのは、アメリカ・イギリスと同じく第一次世界大戦の時期に女性参政権が成立した国としてロシアとドイツがありますが、この二つの国については革命が大きな役割を果たしています。1917年にロシア革命が起こると、ソヴィエト政権は女性参政権を導入していきます。一方、ドイツでは20世紀初頭からすでにドイツ婦人参政権協会(1902)がアニタ=アウクスブルクの手により設立されていました。また、大戦中にはローザ=ルクセンブルクが社会主義運動を展開するなど政治的な動きも展開していきます。ドイツ革命の後、1919年にヴァイマル共和国が成立すると、女性参政権が成立します。社会主義の動きの拡大と男女同権論は密接な関連をもったものですから、19世紀後半からの社会主義の拡大と結びつけて論を展開することも可能です。
・その他の地域における女性参政権
:女性参政権については、第一次世界大戦との関連が極めて重要ですが、その文脈からは離れた女性参政権の成立についてもまとめておきましょう。まず、世界で初めて女性参政権が成立した国は英領ニュージーランドです。ただし、被選挙権は1919年からの導入でした。続いてオーストラリア(1902)、フィンランド(1906)と続きます。女性解放の動きとしては、近年出題頻度が増えているなと感じるものにイプセンの『人形の家』(ノルウェー、1879)があります。弁護士に猫かわいがりに可愛がられていた妻が、あることを境に夫の愛情が表面的なもの、妻の人格を尊重してのものではなく、人形に向けられるようなものと感じて、自立していくという内容のもので、女性の自立を一つのテーマにしています。イプセンは男性で、厳密には「女性の活躍」には含まれませんが、女性解放運動は女性だけが推進するものではありませんから、「女性参政権の歩み」や「女性解放運動」の一環として示すのであれば加点されるのではないでしょうか。
そのほかにも、上述したように社会主義運動は女性同権と結びつきやすく、パリ=コミューンなどによる一時的導入が見られました(1871年)。ロシア革命を通して女性参政権が実現するのもこのあたりが関連していますね。また、トルコの近代化政策の中で、ムスタファ=ケマルが女性参政権を導入していきます。この際には、参政権だけではなく、チャドルの禁止や一夫一婦制の導入などが進められますが、こうした動きは女性解放というよりはむしろ当時のトルコ政府の政教分離政策(世俗化)と西欧的近代化志向の流れの中で出てきたもののようです。また、一部の教科書にはココ=シャネルについての記述がみられます。実は、シャネルというのは第一次世界大戦と女性の社会進出をテーマにするにあたっては非常に良い例です。シャネルはファッションの分野で有名になった人物ですが、1910年代に相次いで開店したシャネルは、コルセットが多用されていた当時のファッションに疑問を感じ、機能的で動きやすいシャネルスーツを発表してその後発展していきます。
ココ=シャネル(Wikipedia)
また、日本史を勉強している人であれば、日本における女性解放運動については比較的書きやすかったのではないかなと思います。たとえば、平塚らいてう(雷鳥)による『青鞜』創刊(1911)、や新婦人協会の設立(1919)、同じく新婦人協会設立に関わった市川房枝による婦人参政権獲得期成同盟(1924)などでしょうか。ちょうどこの頃は大正デモクラシーの時期でもありますね。1925年に普通選挙法が制定されますが、女性参政権は認められることがなく、さらに抱き合わせで治安維持法が制定されます。日本以外のアジア地域ではインドのラーム=モーハン=ローイがサティー(寡婦殉死)の禁止を訴えますし、インドネシア(オランダ領東インド)のカルティニはジャワ人の民族意識高揚や女性教育に尽力して若くして亡くなっています。
(③第2次世界大戦末期からの女性参政権)
:第二次世界大戦の末期から戦後にかけては、フランスと日本での女性参政権導入が進められます。フランスでは、パリがナチスから解放された後に、ド=ゴール臨時政府のオルドナンス(政令)による女性参政権導入が行われます。(1944) 日本では、1945年の選挙法改正で満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、1946年には女性議員39名が当選します。ちなみに、上述の市川房江は1953年の参議院選挙から議員として当選しています。
市川房枝(Wikipedia)
(④女性解放運動)
:これまでに示した通り、第二次世界大戦の終わりごろまでには世界の主要国のほとんどで女性参政権が成立しますが、それが女性の完全な自由と解放を意味するものではありませんでした。これ以降、女性たちの新たな権利獲得のための闘争が始まります。
ところが、多くの受験生はあまりこの部分が書けていないようです。設問が「19~20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について」と記しているところに注目したいところです。(もっとも、女性解放運動は広い意味でとらえた場合、参政権獲得を含めたあらゆる活動が含まれるものではあります)
1950年、国連総会で世界人権宣言(指定語句の「人権宣言」はここで使うことも可能です)が採択され、男女同権についての理念が明記されましたが、女性は政治的権利を手に入れたものの、さまざまな社会的制約(女性蔑視、賃金格差、労働環境、女性固有の諸権利への無理解など)に悩まされていました。こうした中で、1960年代から展開されるのがウーマン=リブ活動です。これは、女性を拘束する「家庭」や「女らしさ」イメージ、や男女の役割分担などの考えを打破することを目指したもので、黒人解放の公民権運動やベトナム反戦運動などと連動して拡大し、堕胎やピルの解禁運動などにもつながっていく運動です。このような運動によって、次第にポジティブ=アクション(性差別をなくすための積極的是正措置、アファーマティブ=アクションの一種)が拡大して次第に女性に対する差別が撤廃されていきます。1979年の女性差別撤廃条約はこうした中で国連総会において採択されました。
ところが、戦後のこうした女性解放運動について、受験生はほとんど書けません。というよりは武器を与えられていないんですね。フェミニズムやウーマン=リブなどは教科書には基本載っていませんし、指定語句の女性差別撤廃条約なども通り一遍の説明しかされていないことが多く、そのままでは文章にできません。ここで大切なことは二つのことに注意することです。
① 指定語句は示しただけでは得点にならない。(追加情報を示す必要がある)
② 一般的に、女性に対するどのような差別があり、何が撤廃されてきたのかを想像する
まず、①についてですが、条約の名前から女性に対する差別が撤廃された多国間条約であることは何となく想像できます。(あまり二国間で締結する類の条約ではありませんよね。) ですから、かなり高確率で国連総会における採択だろうという予想はつきます。また、ちょっと公民や倫理・政経の授業を真面目に聞いてきた人であれば男女雇用機会均等法(1985)や男女共同参画社会基本法(1999)などの名前は聞いたことがあるはずです。だとすれば、「女性差別撤廃条約が国連総会で採択され、日本でも男女雇用機会均等法が制定されて就業機会の平等が図られ、さらに男女共同参画社会基本法により女性が能力を十分に発揮できる社会が目指された。」などの文章を作ることは十分に可能です。
また、②については参政権以外で女性が直面した様々な差別を思い浮かべればよいと思います。最近よく話題となったのは「ガラスの天井」(資質や成果に関わらず、性別などの要素によって組織内での昇進が阻まれる現象や構造のこと)でしょうか。だとすれば、このガラスの天井を排除してきた女性の活躍について言及すれば良いので、女性政治家の活躍などはその最たるものでしょう。世界史に登場する女性政治家というと、バンダラナイケ、インディラ=ガンディー、サッチャー、メルケルでしょうか。世界史にはなじみがないですが、日本なら土井たか子(社会党)などの名前が出ても良いですね。また、他にも産休・育休の取得などの職場内の環境改善や、女性に対する社会意識の変化に触れてもいいのではないでしょうか。「東大も積極的に女子学生の比率向上に努めるなど、教育現場においても女性の地位向上が図られている。」なんて書いたら東大の先生方はどんな顔するんでしょうねw こうしたことは、世界史の知識というよりは、普段から世界史という限られた範囲の学習ではなく、さまざまな知識に触れ、それを総合的に自分の血肉としているかどうかが問われる部分なのかなと思います。まさに、南風原東大副学長が言う「本分かり」ですね。それは「探究活動を通じて身につくこともあるし、本やネットで、ということもある。知識を深めるにも多様な方法があります。」ということですよね。だから、マンガで身につけても映画で身につけても世界史リンク工房で見たものであってもw、それが適切な根拠、論拠に裏付けられたものであり、検証を怠りさえしなければそれでよいのです。
【解答例】
仏の人権宣言で無視された女性の権利は、家長権を認めたフランス民法典でも抑圧された。産業革命は女性を労働から遠ざけて男女分業化を促進し、福音主義は男性に従い家庭に縛られる女性観を強化した。チャーティスト運動など男性主導の運動に加わり女性の権利拡大を求める動きも見られたが、社会進出はクリミア戦争で看護制度改革を進めたナイティンゲールや、ラジウム発見でノーベル賞を受賞したキュリー(マリー)など、慈善活動や教育といった一部の分野に限られた。米ではセネカ=フォールズ会議を皮切りに、奴隷解放運動と結びつき女性参政権を求める運動が拡大し、一部の州では導入された。英でもミルの男女同権論などから運動が拡大し、パンクハースト結成の女性社会政治同盟が闘争を展開した。総力戦となった第一次世界大戦に女性が貢献すると、米はウィルソン政権下で、英は第4次選挙法改正(1918)で、独・ソでは革命を通して女性参政権を導入し、戦間期にはムスタファ=ケマルのトルコへ拡大した。導入が遅れていた仏・日でも第二次世界大戦後に実現し、国連総会は世界人権宣言で性差別禁止を呼び掛けた。しかし、不当な蔑視や就職・賃金・昇進での差別などが残存したため、公民権運動やベトナム反戦運動と連動してフェミニズム運動が展開され、国連総会の女性差別撤廃条約(1979)採択を契機に性差別の是正が進み、日本では男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法が成立した。(600字)
解答は設問の要求している「女性の活躍」、「女性参政権獲得の歩み」、「女性解放運動」を意識してみました。上の「手順1」で示した3つないし4つの時期ですね。社会主義や、個別の活動など十分にカバーしきれていない部分もありますが、そこはある程度妥協しました。実際の入試では、サッチャーとか、カルティニとか、平塚らいてうとか指定語句以外の女性を羅列した回答がそれなりに高い点数を取っていたらしいということは述べましたが、東大はあくまでも設問の意図に沿った、テーマを意識した解答を求めていると思いますので、おそらく今後東大で類似の問題が出題された場合、そうした構成の解答は点数が低く出ることになると思います。そのあたりのことを考慮して、あえて個別の人物名などを必要以上に挙げることよりも、設問の要求の方にこだわってみたわけです。「具体的に」述べよとありますので、ある程度各国の状況の詳細や固有名詞を出す必要がありますので、なかなか難しかったです。この年の東大の合格者ベース平均点は66%(文三)~69%(文一)とかなり高かったようですが、本来であれば歴史的事実に対する深い理解と、事柄を整理する総合力が要求されるレベルの高い良問だったのではないかと思います。