もっとも、そのように長い間「待望」されていた問題なので、おそらくこの分野についてノータッチで受験する人の数は、昔と比べるとかなり減っていたのではないでしょうか。もしこの問題が10年前に出題されていたとしたら、おそらくかなりの人数が返り討ちにされた可能性が高いですが、今年度は受験生の側もそれなりに対応できるだけのものをもって受験していたのではと推測します。そういう意味では東大がこの問題を今年度出題したことはタイミング的にはちょうど良かったのかもしれません。
また、問題の内容としても概ね標準の内容です。近年多かった比較の視点など、整理に時間がかかるような条件もついていませんので、それほど面倒な整理でもありません。トルコ史をしっかりやっていった人にとっては逆に物足りなさを感じた可能性があります。本設問で注意しなくてはならないところは、パン=イスラーム主義とスルタン専制の関係性と、その後に出てくるパン=トルコ主義との関連をどのように処理するかでしょう。多くの受験生がこの部分については正確には知らないと思います。また、18世紀半ばから1920年代までのオスマン史と、170年近いスパンでの「動き」を記述するわけですから、東大が日頃気にしている「変化・変遷」といったものも伝わるようにできれば言うことはありません。
形式上の大きな変化としては、大論述が22行(660字)と解答欄いっぱいに使わせるように変更になりました。もっとも、東大はたびたび大論述の字数を変更していますし、全体としては増加傾向にありましたから、このこと自体はそれほど驚くべき変化ではありません。おそらく、会場の受験生もある程度は対処可能だったのではないでしょうか。ただ、22行の文章を書くにはそれなりの文章力を必要としますので、日頃から文章を書き慣れていない人にとっては苦しかったかもしれません。
全体としては、第1問よりも第2問の方が難しさを感じました。受験生が何となく知っていることではあるものの、正確に記述するのは難しい部分を間接的に問うというやり方で出題されていて、応用力がある人や勘の良い人はある程度対処できる反面、ピンとこない人にとっては下手をすると丸々1問落としかねない出題のされ方がされています。(ニュージーランドの政治的地位の変化などはその典型ですね。) 第3問についてはおおむね基本問題でした。第3問では、落として許されるのはせいぜい1問か2問ですが、できれば全問正解を目指したいところです。
【第1問】
(設問概要)
・時期:18世紀半ばから1920年代
・オスマン帝国の解体過程について記述せよ。
・オスマン帝国内の民族運動に注目せよ。
・オスマン帝国内の帝国の維持を目指す動きに注目せよ。
・指示語:アフガーニー / ギュルハネ勅令 / サウード家 /
セーヴル条約 / 日露戦争 /
フサイン=マクマホン協定 / ミドハト憲法 / ロンドン会議(1830)
・用いた語句には下線を付せ。
・22行以内(660字)
リード文は今回あまりヒントにはなりません。なぜか唐突に冷戦30周年とか言ってますが、とってつけたようですねw つい最近冷戦期の問題出したばかりですから、そうそう冷戦に持っていくこともできなかったのでしょう。今回の設問はあくまでオスマン帝国の解体過程について問う問題ですから、その後の影響などについては記述の必要はありません。指示語のうち、使い方が難しい(というよりは、使い方を誤りがち)のはロンドン会議でしょうか。あとはオスマン帝国の衰退と改革の試み、そして解体を一連の流れで書けばよいので、比較的平易です。もっとも、完全解答を作ろうとすると、難度は急激に上がりますw あくまでも、「他の受験生が書ける+αを書く」という意味ではそこまで難しくはないだろうという意味で平易と言っておりますので、「簡単だから誰でも満点近くとれる」と言っているわけではありません。東大の問題でそんな問題はそもそもないでしょう。
(解答手順1:全体の流れを構築)
まずは、全体の骨組みとなる流れを構築します。ただし、本設問は「オスマン帝国の解体過程」を要求する内容ですから、そこに焦点を合わせて書く必要があるでしょう。ですから、いわゆる「東方問題」のような内容をひたすら書いてもそれは得点とはなりません。あくまでも、オスマン帝国がどのように衰退、分裂、解体するのかを意識して流れを構築することが大切です。このような視点で考えた時に、全体の骨組みとして必須なものは以下のような部分かと思います。
・18世紀半ば以降のオスマン帝国の衰退
:オスマン帝国の力が弱まる一つのきっかけとしてよく出てくるのは17世紀末の第2次ウィーン包囲の失敗(1683)とその後のハプスブルク家からの追撃を受けて締結するカルロヴィッツ条約(1699)におけるオスマン帝国領ハンガリーならびにトランシルヴァニアの喪失ですが、これらは時期的に今回の流れには使えません。オスマン帝国はその後もかなりの力を維持していますが、18世紀半ば以降はその衰退を隠すことができなくなります。
まず、黒海北岸においてはエカチェリーナ2世の統治下にあったロシアの南下にさらされ、1774年のキュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約ではクリム=ハン国の宗主権を放棄して、実質的にクリミア半島を喪失します。(クリム=ハン国はその後1783年にロシアに併合されます。)
また、アラビア半島ではイスラーム改革運動が起こり、ムハンマド=イブン=アブドゥルワッハーブが興した復古主義的、原理主義的なワッハーブ派と、アブドゥルワッハーブと盟約を結んだムハンマド=イブン=サウードのサウード家が中心となってワッハーブ王国(第1次)が建国されます(1744)。ワッハーブ派は次第に勢力を拡大し、メッカ、メディナを占領(1803、1804)しますが、最終的にはオスマン帝国の要請を受けたエジプト総督ムハンマド=アリーによって滅ぼされます(1818)。 聖地の奪回を一地方総督に頼らざるを得なかったことはオスマン帝国の退潮を如実に示すものであり、また、ワッハーブ派の活動はアラブ人たちの民族主義を自覚させる契機となるものでした。(もっとも、私自身はこれを「アラブ民族主義」と表現することにはかなり抵抗を覚えます。20世紀半ば以降のアラブ民族主義との混同を招きますし、その他いろいろとワッハーブ派の活動にともなうアラブ人の民族的自覚をアラブ民族主義という一言で表現することには色々と問題がありそうな気がします。)
・エジプトの独立とムハンマド=アリー朝の成立
:ムハンマド=アリーは1805年にエジプト総督の地位につきます。実質的にはこれがムハンマド=アリー朝の開始とされますが、宗主国であるオスマン帝国や国際的に正式承認されたものではありません。ムハンマド=アリーはその後1811年に自身に反抗的で、近代化の障害となっていたマムルーク勢力を謀略によって一掃し、本格的な自立を始めます。社会全体に影響を及ぼしていたマムルーク勢力を一掃したことで、ムハンマド=アリーは本格的な近代化を開始します。その改革は教育改革、殖産興業(近代的工場の導入や紡績業の育成、軍需品生産の拡大)、税制の改革(政府による直接徴税)、西欧の学問の取り入れなど多岐にわたり、依然としてアーヤーンやイェニチェリなどの保守勢力の存在によって改革が進まなかったオスマン帝国と力の差は縮まっていきました。
こうした中で、ギリシア独立戦争に際してオスマン帝国の要請に応じた見返りとしてムハンマド=アリーはシリアの行政権を要求します。その結果、第一次エジプト=トルコ戦争(1831~1833)が起きてオスマン帝国はシリアを奪われます。さらにその後、シリア奪回を目指して出兵したオスマン帝国軍を打ち破ったムハンマド=アリーはエジプト・シリアの総督世襲権を要求すると、エジプトの強大化とフランスの接近を嫌った諸国(英・露・普・墺)がオスマン帝国を支持した結果、この戦争ではエジプト側が敗北します(第二次エジプト=トルコ戦争:1839~1840)。その後開かれたロンドン会議(1840)において、エジプトはシリアの領有権については放棄しましたが、エジプトならびにスーダン(スーダンは1820~22にかけての外征で軍事占領していた)の世襲権を認められ、独立国として承認されます。これにより、長らくオスマン帝国の版図であったエジプトはその支配下から完全に離れることとなりました。
・ギュルハネ勅令とタンジマート(恩恵改革[原語の意味は「再編成」])
:第一次エジプト=トルコ戦争の敗北に加え、第二次エジプト=トルコ戦争の緒戦でも、シリアにおいて敗北を喫したオスマン帝国では、マフムト2世が病死し新たなスルタンとしてアブデュルメジト1世が即位します。このもとで、当時外交問題を担当していたムスタファ=レシト=パシャ(後に大宰相)の起草により、オスマン帝国の改革案であるギュルハネ勅令(1839)が発布されました。この勅令はオスマン帝国の司法・行政・財政・軍事に関する一連の西欧化改革の方針を示したもので、具体的にはムスリムと非ムスリムの法の下の平等、生命・財産の保障、裁判の公開、イルティザーム(徴税請負制)の廃止などが示されており、形の上ではオスマン帝国はこれ以降近代的法治国家としての体裁を整えていくことになります。
重要な点は、このタンジマートはギュルハネ勅令が出された時に一気に進められた一過性の改革ではなく、これ以降のオスマン帝国が進める法制改革、殖産興業、軍事改革など一連の諸改革の総称を指すということです。その集大成となるのがミドハト憲法の制定(1876)と帝国議会の設置による西欧型の立憲君主制樹立でした。
また、もう一つ重要な点に、この改革の進展の中でオスマン帝国に対する外国資本の流入が急激に進んだことが挙げられます。さらに、オスマン帝国の産業育成は綿花・小麦・オリーブなどの商品作物栽培が中心で、工業製品は安価なイギリス製製品を購入するという関係が続いたことから、次第に欧州資本に対する経済的従属が進行していきます。さらに、クリミア戦争の戦費や、1860年代の綿花価格の乱高下(アメリカ南北戦争の影響による)などで国際価格の変動が大きい綿花などの一次産品に依存した経済は大きな打撃を受けることになりました。
・クリミア戦争(1853~56)と財政破綻
:クリミア戦争では、オスマン帝国は英仏の支援によりどうにか勝利を収めることができましたが、戦争中にイギリスから借款を行ったことでオスマン帝国の財政は破綻へと向かい、ヨーロッパ依存型経済への変化が加速します。
・露土戦争の敗北と帝国領の縮小
:露土戦争に敗北したトルコは、サン=ステファノ条約ならびにベルリン会議における諸決定により、バルカン半島の一部とアナトリアならびにアラブ人居住地域(シリア・パレスティナ・アラビア半島西岸・イラク周辺など)にその領有地域が狭まりました。(ベルリン会議ではセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの完全独立、ブルガリア公国の自治領化、キプロス島におけるイギリスの支配権、ボスニア=ヘルツセゴヴィナのオーストリアによる統治権などが承認されました。)
・ミドハト憲法の停止とアブドュル=ハミト2世の専制
:ミドハト憲法の停止とアブデュル=ハミト2世の専制は、オスマン帝国における民族運動や帝国維持の議論と密接に関わっています。これについては、思想史的な要素が多分に含まれて複雑なので、次の(解答手順3)の方で詳述します。
・青年トルコ革命(1908)
:同じく、次の(解答手順3)で解説します。
・バルカン戦争(第一次:1912~13、第二次:1913)
:ここではバルカン戦争勃発の背景については踏み込むことはしませんが、この戦争に敗北したオスマン帝国はイスタンブルを除くバルカン半島領土を喪失します。スラヴ人たちの民族主義については、続く(解答手順2)で解説します。
・第一次世界大戦と敗戦、セーヴル条約(1920)
:第一次世界大戦でオスマン帝国は同盟国として参加しますが、敗北します。その講和条約であるセーヴル条約において、領土の大部分を失い、その統治範囲はイスタンブルとアンカラ周辺のアナトリア中央部に限られます。その細かい内容まで知る必要はありませんが、一応その内容のうち、主要なものを示すと以下のようになります。
1、トルコ領はアナトリアの一部とイスタンブル(下の地図の黄色部分)
2、ボスフォラス海峡とその沿岸地域は国際管理とする。また多くの地域が英仏伊などの勢力圏に入る(下の地図の縦線がひかれた地域)
3、イラク・パレスティナはイギリス、レバノン・シリアはフランスの委任統治領とする
4、アラビア半島におけるヒジャーズ王国の独立を容認する
5、アルメニアの独立を容認する(下の地図の水色部分)
6、クルディスタン建国のための地域を設定する
ぶっちゃけ、5と6はここに示さなくてもよいのですが、これらが当時ロシア革命における共産主義波及の防波堤として定められたことや、現在のクルド人問題などと関わりがあることなどを考えると、ちょっとしたことでどこかの私大などで関連知識を問われる可能性もあるので、一応示しておきます。このセーヴル条約を締結したのはイスタンブルのスルタン政府でしたが、この条約の締結によりスルタン政府は完全に列強の傀儡と化しました。
・ムスタファ=ケマルとトルコ共和国の建国
:列強の言いなりに国土のほとんどを譲り渡したスルタン政府に対し、アンカラを中心に開催された国民会議はムスタファ=ケマルを指導者に革命政権を樹立します。革命政権は外国の占領軍やスルタン側の軍隊と戦い、1922年にはギリシア軍を駆逐してイズミル(スミルナ)を回復、外国軍を駆逐してアナトリアを回復することに成功します。(ちなみに、イズミルは下の地図です)
(「イズミル」Wikipedia)
ムスタファ=ケマル率いるアンカラ政府は、スルタン制を廃止(メフメト6世の退位)、ここにオスマン帝国は完全に滅亡します。(ただし、カリフ制はまだ存続しています。) さらに、1923年のローザンヌ条約で、先のセーヴル条約で失っていたトルコの独立と領土を回復、確定し、さらにそれまで存在した不平等な国際関係を完全に精算することにも成功します(治外法権の廃止、関税自主権の回復など)。同年、トルコ共和国が成立すると、新国家は西欧化と政教分離を進めたため、残されていたカリフ制も廃止され、メフメト6世の皇太子で最後のカリフとなったアブデュル=メジト2世は廃位され、国外に亡命します。
以上が、オスマン帝国解体までのおおまかな流れになります。途中、解説を挟んでしまって流れが分かりづらくなってしまったかと思いますので、再度まとめておきます。
・18世紀半ば以降のオスマン帝国の衰退
・エジプトの独立とムハンマド=アリー朝の成立
・ギュルハネ勅令とタンジマート(恩恵改革[原語の意味は「再編成」])
・クリミア戦争(1853~56)と財政破綻
・露土戦争の敗北と帝国領の縮小
・ミドハト憲法の停止とアブドュル=ハミト2世の専制
・青年トルコ革命(1908)
・第一次バルカン戦争(1912~13)
・第一次世界大戦と敗戦、セーヴル条約(1920)
・ムスタファ=ケマルとトルコ共和国の建国
(解答手順2:帝国内の民族運動とは何か)
続いて、「帝国内の民族運動」とは何かについて考えてみたいと思います。オスマン帝国が解体へと向かう時期に、オスマン帝国の内部で生じた民族運動には大きく3つの動きがあります。
①バルカン半島におけるスラヴ人たちの民族主義
②アラブ人居住地におけるアラブ人たちの民族主義
③「トルコ人」たちの民族主義
これらのうち、③の「トルコ人」たちの民族主義は、少々複雑な話になるのでパン=イスラーム主義と合わせて(解答手順3)の方で説明したいと思います。
[①バルカン半島におけるスラヴ人たちの民族主義]
バルカン半島において民族主義が高まってくるのは、ヨーロッパでナショナリズムの高揚が見られた19世紀前半の頃からです。この先駆けとなったのがギリシア独立戦争(1821~1829)でした。ただし、ギリシア人は正確にはスラヴ人ではありません。また、それまでギリシア人は自分たちを古代ローマないしは東ローマ帝国の末裔と考えていて、古代ギリシアの系統をひいているとは考えていませんでしたが、この頃から自分たちの起源を古代ギリシアに求めた新たなナショナリズムの構築が進められていきます。
いずれにしても、オスマン帝国の衰退とギリシア独立戦争によるギリシアの独立、そしてヨーロッパ各地で高揚するナショナリズムが、オスマン帝国の支配下にあったスラヴ民族のナショナリズムを刺激したことは疑いがありません。オーストリア=ハンガリー帝国下で西スラヴ人がナショナリズムを高揚させた(ex.スラヴ民族会議:1848)のと同じように、オスマン帝国支配下にあったバルカン諸地域も一つの民族としての自覚を強めていくことになります。同じスラヴ人であるロシアの支援を得ながら、バルカン半島の南スラヴ人たちは次第にオスマン帝国から自治や独立を勝ち得ていくことになります。(1856年のパリ条約によるセルビアの自治獲得や、1878年のサン=ステファノ条約ならびにベルリン条約によるセルビア・ルーマニア・モンテネグロの独立やブルガリアの自治獲得、1908年の青年トルコ革命の混乱に乗じたブルガリアの独立宣言[正式独立は翌年]など)
このような中、1912年に依然としてオスマン帝国の支配下にあったアルバニアが反乱を起こすと、アルバニア人の独立を支援すべく、すでに独立を勝ち得ていた周辺諸国(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシア)が同盟を結成します。これがバルカン同盟です。さらに、同じスラブ民族でかつ正教を信仰し、さらにオスマン帝国によるボスフォラス・ダーダネルス両海峡の封鎖を懸念するロシアがバルカン同盟側に加勢して、オスマン帝国との戦争となりました。第一次バルカン戦争です(1912~1913)。このあたりの話をきちんと理解するためには、やはりバルカン周辺の地図をしっかりと頭に入れておく必要があると思います。
上の地図がバルカン戦争後のバルカン半島を示した地図です。基本の構図は「バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシア)VSオスマン帝国」です。
さて、この戦争ではバルカン同盟側の勝利となり、戦後のロンドン条約(1913)ではアルバニアは独立が認められましたが、アルバニア人が多数住むコソヴォ地域はセルビアが領有することとなりました。(こうした事情が後にコソヴォ紛争の遠因となっていきます。)この時、アルバニアの独立が認められた背景には、セルビアのアドリア海進出を阻もうという英・伊の意向が働いたのではないかと言われています。また、マケドニアは上の地図にもあるように、セルビア・ブルガリア・ギリシアに分割されてしまい、独立した国家を形成することはできませんでした。これらのうち、セルビア領マケドニアは後にユーゴスラヴィアの一部となりますが、冷戦後にユーゴスラヴィアから独立します。そしてその後、ギリシア領マケドニアとブルガリア領マケドニアは歴史的に「マケドニア」であると主張して、現在の領土問題へとつながっていきます。
この戦争により、ベルリン条約(1878)で領土を削減されていたブルガリアの勢力が再び南方へ拡大しましたが、マケドニアは十分な領土を獲得できなかったと考えて不服でした。また、同じく南方への拡大による大セルビアの実現を企図していたセルビアと対立するようになります。マケドニア分割に不服を感じたブルガリアは、まもなくセルビア・ギリシア領に侵入します。これが第二次バルカン戦争の開始です。この戦争では、ブルガリアの強大化を恐れる周辺国(オスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニア)が連合を組んで参戦したため、ブルガリアは国際的に孤立し、敗北します。ブカレスト講和条約では、ブルガリアの領土が縮小されます。このことで、セルビアに対する敵意を強めたブルガリアは、その後の第一次世界大戦ではセルビアと敵対したオーストリアの側、つまり同盟国側で参戦することになります。
あまりバルカン戦争の詳細について話す機会がないので簡単にバルカン戦争についてお話ししましたが、本設問では以下のような内容をオスマン帝国内におけるスラヴ人たちの民族主義とオスマン帝国の解体に関して示しておくと良いと思います。
・ギリシアの独立
・バルカン半島におけるスラヴ人たちのナショナリズムと自立
・ベルリン条約とセルビア・ルーマニア・モンテネグロ独立とブルガリアの自治
・アルバニアの反乱と2度にわたるバルカン戦争
[②アラブ人居住地域におけるアラヴ人たちの民族主義]
これについては、大きく3つに分けておくと良いかと思います。
・18世紀半ば以降から始まるワッハーブ派の改革運動
・19世紀後半から拡大するアフガーニー主導のパン=イスラーム主義
:もっとも、これはパン=イスラームを「民族主義」と言っても良いのであれば、の話。厳密にはイスラームは「民族」ではないですし、アフガーニー自身はイラン人であり、アラブ人でもトルコ人でもありません。パン=イスラーム主義はむしろそうした各民族を越えたイスラームによる紐帯をベースに西欧諸国に対抗していくことを目指した運動なので、「民族運動」という分類は正確ではありません。ただ、アラブ人たちの民族としての自覚や、前後の民族運動との密接な関連を考えた場合、ここに入れておいた方が頭の整理はしやすくなるかと思います。
・第一次世界大戦とアラブ民族主義
:第一次世界大戦がはじまると、オスマン帝国支配下で民族的自覚に目覚めたアラブ人たちは活動を活発化させます。ムハンマドの血をひくハーシム家の出身であるフサイン(フサイン=イブン=アリー)は、イギリスと結んでアラブ人国家の樹立を目指し、フサイン=マクマホン協定の密約に基づいて反乱を起こします。1918年にはアラビア半島西岸のヒジャーズ地方を中心にヒジャーズ王国を建国しました。一方、第二次ワッハーブ王国の滅亡後、クウェートで亡命生活を行っていたサウード家のイブン=サウードは、ワッハーブ派信奉者の支持を得ながらアラビア半島東岸地域で勢力を拡大し、一大勢力を築いていきます。後に、イブン=サウードはカリフ宣言を行ったフサインのヒジャーズ王国に対する侵攻を開始し、これを滅ぼしてヒジャーズ=ネジド王国を建国(1924)、さらに1932年にはこれをサウジアラビア王国に改称しました。ただ、本設問ではオスマン帝国の解体と民族運動の関係となっているので、ここではイブン=サウードやワッハーブ派がアラビア半島で勢力を拡大したこと程度の言及で十分でしょう。
(解答手順3:帝国の維持を目指す動きとは何か)
さて、続いて「帝国の維持を目指す動き」について検討してみたいと思います。オスマン帝国を維持しようとする動きということで真っ先に頭に浮かぶのはタンジマートですが、オスマン帝国の末期には帝国の維持を図るいくつかの思想的な動きが見られました。それは、以下の3つにまとめることができます。
①オスマン主義
②パン=イスラーム主義
③パン=トルコ主義
これらは、いずれもオスマン帝国を西欧に対抗するために一つにまとめ上げ、国力を強化していこうとする中で生まれた思想的潮流でしたが、発生した時期や発生の背景はかなり異なっていました。以下では、この3つの思想的潮流がいかなるものであったか、またオスマン帝国を維持しようとする動きとどのように関わってきたのかについて簡単に紹介していきたいと思います。
[①オスマン主義]
:「オスマン主義」はオスマン帝国内に住む人々は宗教・民族の別なく、すべて平等な「オスマン人」であり、「オスマン人」の連帯を基礎として祖国(オスマン帝国)の政治的一体性を維持していこうという発想です。ただ、このような主張は必ずしも当時のオスマン帝国の実態には合致していませんでした。当時のオスマン帝国はバルカン半島のスラヴ系民族や西アジアにおけるアラブ人など複数の民族を抱える多民族国家であり、少なくともオスマン帝国内の人々が全て同じような「オスマン人」としては存在していませんでした。つまり、オスマン主義とは、実態としては多民族国家であったオスマン帝国が各地のナショナリズムの高揚や民族間の対立によって分裂の危機に瀕した時に、帝国を維持するために「創出」されたものであって、「オスマン人」というのもそのために「想像」ないしは「創造」された概念でした。(関連する知識として「創造の共同体」論)
こうした「オスマン主義」を唱えた人々は、タンジマートによって西欧式教育の導入が進んだことにより、新しい思想に触れた「新オスマン人」と呼ばれる人々でした。この「新オスマン人」は、伝統的な官僚・ウラマーとは一線を画し、ヨーロッパの自由主義思想の影響を受けた改革派の官僚や知識人で、次第にスルタン専制に対する批判を強め、立憲制の導入を進めることになります。このような思想家の一人に、ナムク=ケマル(1840-88)がいました。彼は、憲法制定を目指す「新オスマン人協会」を設立(1865)し、各国を亡命する中で当時のスルタンであるアブドュルアジーズの専制を批判する言論活動を展開しました。このような流れの中で、ミドハト=パシャを中心とする改革派の運動が展開し、アブドュルアジーズはこの改革派のクーデタによって廃位され、その後幽閉の後に亡くなります。さらに、アブドュルアジーズのあとを継いだムラト5世も、病のため即位3か月で退位し、その弟であるアブドュルハミト2世が即位することになります。
こうした一連の動きを見てみると、タンジマート自体に大きな矛盾が存在したことに気づきます。タンジマートは、たしかに法の下の平等など、西欧的な自由主義的思想を積極的に取り入れる改革運動で、歴代のスルタンも国力を強めるための西欧化には積極的でした。一方で、スルタンたちは自身の権力基盤を弱めるような諸改革、たとえば憲法制定による君主大権の制限や議会の設置などには消極的で、このような姿勢はよりドラスティックな改革を求める「新オスマン人」などの改革派には不満の残るものでした。アブドュルハミト2世が即位したときの状況は、このスルタンと改革派の対立とぴったり符合します。アブドュルハミト2世自身は自身の権力を弱めることになる「ミドハト憲法」の制定には極めて消極的でした。ですが、これに先立つクーデタなど、自身が即するに至った経緯を考えると、強く大宰相ミドハト=パシャらの改革派に異を唱えることもできません。一方、ミドハト=パシャら改革派の側でも、ムラト5世の退位などスルタン位をめぐる混乱が長引けば保守派の巻き返しを招く恐れがありました。ミドハト憲法は宗教の別を問わない全オスマン人の平等、人権の保障、二院制議会の設置など、極めて進歩的なアジア初の近代憲法となりましたが、一方できわめて強力な君主大権が残され、スルタンは戒厳令を発し、危険人物を国外追放に処することが可能とされました。これは当時のスルタンと改革派の関係がある種の妥協を要求されるものであったことを示しています。こうした、近代化を求めながらも自身の権力維持を追求する君主と、君主大権の制限など急進的な改革を進めたい改革派の協力と対立の構図は、19世紀以降のアジアの各地で見られる現象ですので、比較してみるのも面白いかもしれません。(中国における洋務運動~変法運動~光緒新政や朝鮮における閔氏政権など)
露土戦争が開始されるとアブドュルハミト2世は憲法の規定に従いミドハト=パシャを追放し、さらに露土戦争敗北によってスルタンに対する批判が高まったことに危機感を覚えたアブドュルハミト2世は議会を解散し、憲法を停止してスルタン専制へと復帰します。この新たに展開されたスルタン専制において、アブドュルハミト2世が利用しようと考えた思想がパン=イスラーム主義でした。
[②パン=イスラーム主義]
:パン=イスラーム主義自体は19世紀の後半にアフガーニーを中心として高揚したイスラーム改革運動で、オスマン帝国のスルタン専制とは直接的な関係はありませんでした。ですが、当時のオスマン帝国のスルタンはイスラームの宗教的な最高権威であるカリフを兼ねており、これに目をつけたアブドュルハミト2世は自らを中心として民族・宗派をこえたイスラームの連帯を呼び掛けることで、自身の権威・権限の強化とスルタン専制の復活を目指しました。一方、それまでに「新オスマン人」たちが「創出」してきた「オスマン主義」は、いくつかの理由からその勢いが弱まっていきます。一つは、「オスマン主義」による帝国の維持を推進してきたミドハト=パシャの追放に見られるように、スルタン専制に批判的な「新オスマン人」たちがアブドュルハミト2世のスルタン専制(あるいはそれ以前から)によって政治の中心から遠ざけられ、弾圧されてしまったことです。そして、もう一つは、「オスマン主義」を掲げる「新オスマン人」たちの急激な西欧化改革がイスラーム社会の伝統や価値観を無視して進められたことから、ウラマーの一部やムスリムの民衆の間に強い不満が生まれることになり、その結果「オスマン主義」が目指した宗教・民族の区別のない平等なオスマン人の創出は挫折し、むしろ宗教的・民族的な対立を生み出すことになります。
このような背景の中で、アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、西欧化改革に不満を持つムスリム層を取り込み、中央集権を強化して帝国の維持を図ろうとしたものでした。そのために、アブドュルハミト2世はパン=イスラーム主義の指導者であったアフガーニーをイスタンブルへ招聘します。ですが、アブデュルハミト2世のパン=イスラーム主義はアフガーニーの主張とは根本的に異なるものでした。アフガーニーは、確かにイスラームを紐帯として連帯することを主張しますが、一方でカージャール朝やオスマン帝国の専制については批判的でした。アフガーニーは宗教運動家でもありましたが、その主張はイスラーム社会の直面する様々な問題を解決しようとする目的のために展開されたものでした。彼の主張は、イスラーム社会に蔓延する矛盾や悪弊を一掃するためにイスラームの原点に回帰する復古主義・原理主義的な部分を持ちつつも、政治的には専制支配ではなく立憲制の樹立を主張し、イスラームの解釈についても時代に合わせた解釈のあり方を追求するなど、極めて進歩的で現実的なものでした。このようなアフガーニーの主張は、スルタンの権力強化の道具としてパン=イスラーム主義を利用しようとするアブドュルハミト2世の考えとは相いれないものでしたので、次第に両者の対立が明らかになっていきます。こうした中、イラン(カージャール朝)のナーセロッディーン=シャーがアフガーニーに影響を受けたケルマーニによって殺害される事件が起こると(1896)、かねてからアラブ人指導者などスルタンに批判的な勢力と接触を持っていたアフガーニーは幽閉され、イスタンブルで亡くなります(1897)。
[③パン=トルコ主義]
:アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、アフガーニーが本来主張したものとはかけ離れたものでしたが、それでもカリフ/スルタン権威をある程度高めることには成功しました。ですが、列強による各種利権の独占や、オスマン債務管理局の設立により帝国税収が直接的に列強に搾取されるなど、オスマン帝国の植民地化はさらに進行し、西欧化も進みました。スルタン専制と植民地化を阻止しようとする改革派は、「統一と進歩委員会(統一と進歩団)」などの秘密結社を中心に「青年トルコ人」運動を展開します。この運動の大きな目的は、憲政の回復(具体的にはミドハト憲法の復活)により、スルタン専制を打倒しようというものでしたが、運動の性質上、弾圧の対象となり、多くはヨーロッパ各地に亡命して運動を展開しました。この運動において、彼らが民族の団結と祖国の維持のために掲げた思想が「パン=トルコ主義」でした。彼らのような改革派は、民族対立や宗教対立を生む原因となった「オスマン主義」の幻影を追うことはもはやできませんでした。また、スルタン専制の道具とされてしまった「パン=イスラーム主義」も、彼ら改革派の目には時代遅れのものとして映りました。そんな彼らが団結のために掲げたものが「トルコ人、トルコ民族による連帯」により民族国家を成立させようという考え方である「パン=トルコ主義」でした。青年トルコの運動は、日論戦争における日本の勝利などにも刺激されて次第にオスマン帝国軍内の青年将校にも浸透し、1908年の青年トルコ革命へとつながっていきます。エンヴェル=パシャ率いる反乱軍の鎮圧に失敗したアブデュルハミト2世はミドハト憲法の復活を宣言し、スルタン専制は瓦解して憲政復活が実現しました。さらに、その翌年にはこの年に起こった反革命クーデタに関与した疑いでアブデュルハミト2世の退位が決定しました。このように、パン=トルコ主義はスルタン専制の打破には成功しましたが、「トルコ人」としての民族意識を要求する思想は各地の多民族の不満を強め、バルカン半島におけるスラヴ民族の独立運動や西アジアにおけるアラブ人たちの独立運動につながっていくことになります。
以上、タンジマートやアブドュルハミト2世のスルタン専制、そして青年トルコ革命にも絡むオスマン帝国末期の三つの思想的潮流(オスマン主義、パン=イスラーム主義、パン=トルコ主義)について概観してみました。このあたりの事情については以前ご紹介した予想問題で用いた史料とその解説をご覧いただくとより雰囲気がつかめるかと思います。
また、最近の教科書や参考書(詳説世界史研究)などではこのトルコ末期の状況については新しい用語や記述が目立って増えてきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(平成30年度版)には以下のような記述があります。
帝国解体の危機にさらされたオスマン帝国では、1860年代から、オスマン帝国の臣民は民族・宗教のちがいをこえて一つの集団である、という主張があらわれた。このように主張した知識人は、自らを「新オスマン人」と称して、スルタンの専制を廃して立憲政をめざす運動を展開した。(p.319)
オスマン帝国は元来、多民族、多宗教の国家であった。しかし、バルカン半島を失ったのち、オスマン帝国の住民の多数派であったトルコ人の間にも民族意識が広まり、帝国をトルコ人の民族国家ととらえ、それにふさわしい体制を求める知識人の運動がはじまった。彼らは自らを「青年トルコ人」と称し、1889年に「統一と進歩委員会」を結成して、スルタン専制を批判した。(p.320)
教科書の方にはパン=トルコ主義の記述はありませんが、図説の方には上に示した三つの思想的潮流を端的に示した図も出ています。下の図は、帝国書院の『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』の223ページに出ているものです。
(『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』、p.223)
図ですので多少単純化されてはいますが、わかりやすい図だと思います。ただ、それぞれの思想がどのようなものかといった詳細については書かれていませんし、まだまだ図説のページの端っこにちょっぴり載せられているに過ぎませんので、生徒が自学自習でこれを把握するのはかなり難しいでしょう。オスマン帝国末期の思想について生徒がきちんと把握できるかどうかはこうした図説や教科書、プリントなどを教える側がどう扱うかによってかなりの差が出るような気がします。また、『詳説世界史研究』(2017年版)の方には上述のナムク=ケマルなどの人名やオスマン債務管理局などの新出の用語も掲載されています。
(解答例)
18世紀後半に入ると、アラビア半島ではワッハーブ派と結んだサウード家にメッカ・メディナを制圧され、ロシアにはクリミア半島を奪われるなど帝国の衰退が加速した。さらに、欧州での民族主義高揚を受けてギリシアがロンドン会議(1830)で独立し、ムハンマド=アリーの下で近代化したエジプトも独立するなど帝国の分裂は進んだ。アブデュルメジト1世はギュルハネ勅令を発しタンジマートを開始したが、外国資本流入による経済的従属も進んだ。新オスマン人と呼ばれる進歩的知識人層はオスマン主義による国家統一を図ったが、急激な西欧化に反発するムスリムとの対立も生じた。タンジマートはミドハト憲法制定に結実したが、専制復帰を目論むアブドュルハミト2世は、セルビアなどスラヴ諸国独立を許した露土戦争の敗北を機にミドハト憲法を停止し、アフガーニーを招いてパン=イスラーム主義を利用した専制強化を図った。不満を抱く改革派は、統一と進歩委員会を中心にパン=トルコ主義と憲政復活を軸とした青年トルコ運動を展開、日露戦争での日本の勝利にも刺激されて革命を起こし憲政を復活させたが、トルコ民族優先は他民族の反発を招いた。アルバニアの独立運動から発生したバルカン戦争や、第一次世界大戦中のフサイン=マクマホン協定に基づいてアラブ人がヒジャーズ王国を建国するなど分裂は続き、大戦後のセーブル条約では領土の大半を列強に奪われた。これに抵抗するムスタファ=ケマルとアンカラ政府はセーブル条約を破棄し、スルタン制を廃止したためオスマン帝国は滅亡し、新たにトルコ共和国が建国された。(660字)
なんだか、東大の問題解説というよりもまたパン=イスラーム主義とパン=トルコ主義総復習みたいになっちゃいましたね。解答の方も、できるだけそのあたりの部分がきちんと出るように作りましたので、逆に「どこに領土を取られた」とか「何戦争があった」とかいう部分は必要最低限になっています。そのせいで不足している部分もあるかとは思いますが、間違いなく言えることは、出題者の意図は受験生がただひたすらに東方問題を書き連ねて、何戦争でどこが独立したとかを書いてくるといったところにはないだろう、ということです。アフガーニーが招かれたとか、ミドハト憲法が制定・停止されたとか、青年トルコ革命が起こったとか、フサイン=マクマホン協定が結ばれたとかいう単なる歴史的事実ではなく、それらが、オスマン帝国の維持と解体の中でどのような意味を持ったのかということが十分に説明できているかの方がより重要ですし、単にベルリン条約でセルビア・ルーマニア・モンテネグロが独立し云々を説明するのではなく、このスラヴ系民族の独立が長い期間にわたる帝国の分裂において、どのような意義を持ち、どこに位置づけられるかを説明する方がより重要だということです(多分)。ですから、上の解答例もあくまでも一例に過ぎません。帝国における3つの思想的潮流をもっと後ろの方に追いやって、スラヴ系諸民族やアラブ民族の民族的自覚を前面に押し出した解答の書き方ももちろんありうるとは思います。ただ、設問の要求は「オスマン帝国の解体過程」であって、対象とされているものはあくまでもオスマン帝国であるということと、今さらパン=スラヴ主義だの中東の多重外交だのを書き連ねても面白みに欠ける気がしたものですから、むしろ新しい知見を中心に解答を組み立ててみました。