2018年の東京外大の問題が斬新な内容であった件についてはすでに前の記事で書きましたが、2019年も従来とはやや違った設問形式での出題となりました。従来の問題は400字論述と100字論述の計500字による出題、2018年が600字論述と30字論述の計630字による出題であったのに対し、2019年は500字論述と40字論述の計540字と、昨年度よりは字数を削っての出題となりました。
小問については大問1で論述(500字)を除いて7問、大問2で小論述(40字)を除いて6問の計14問で、内容的に難しいものはほとんどありませんでした。ですから、この年は論述以外の小問は全問正解または落としても1問までにとどめたい内容だったのではないかと思います。
また、大論述・小論述ともに難解な資料読解や知識は必要のないものでした。大論述の方は多少知識の整理に手間取ったり、見落としなどが出る可能性はありましたが、基本的には東京外大クラスを受験する受験生の知識で十分対応できる内容で、2018年度問題のようなとっつきにくさ、難しさはなかったのではなかったように感じます。ただ、やはり60分という時間を考えると知識整理をかなり迅速に行わなければならず、丁寧さと正確さと速さが要求されるという意味で大変な設問だったのではないでしょうか。小問にかけられる時間は長くても5分といったところでしょう。小論述に2分でしょうか。実際に私の方でやってみたところ、「小問、小論述(5分強)→リード文の冒頭部分を読む(1分)→大論述の設問部分[問8]を読む(1分)→リード文をかなり丁寧に読む(8分)」の計15分でしたので、論述の構想・記述にかけられる時間は45分でした。実際に会場で解く受験生は緊張やらもあると思いますので実際にはもっと時間がかかるとして、それでも論述の構想・記述に35分はかけたいところでしょう。そうやって書いた論述が半分~3分の2くらいの点数をもらえれば御の字といった感じでしょうか。
理想形は「小問・小論述取りこぼしなしの75点+大論述3分の2で16点程度の90点前後」、落としたとして「小問・小論述で2問落としての60~65点、大論述で半分もらっての12~13点の計75点~80点」は確保したいですね。あとは英語でどの程度補えるか(または英語[を]どの程度補えるかw)でしょうか。
もっとも、これはあくまでも2019年問題についての感想です。年によっては難しかったり、より時間のかかる問題もあると思います。ですから、本番で小問をかなりの数落としてしまったり、時間が予想していたよりもかかったからといって、落ち込んだり焦ったりする必要はありません。結果は出るまでだれにも分からないのですから、結果が出るまでは「自分がこれだけ苦戦しているのだから、周りも似たようなもんだろう」と思って解くのが吉です。もっとも、なかなかそう上手く感情のコントロールができるものではないのですが、コントロールできた方が良いことも確かですから、それくらいの心構えで臨むのが良いということですね。
【小問解説】
(大問1-1) 魯迅、『阿Q正伝』
:白話運動は1910年代の新文化運動(文学革命)における中心的な運動で、それまで士大夫階層において正統と重んじられてきた文語文から脱して、それまで低俗な民衆語と蔑まれていた白話により文章を書くことを重視しようという文化運動です。白話運動の提唱者というとまず胡適が出てきますが、具体的な作品名まで出てくるとなると世界史の教科書・参考書ではまず魯迅の『狂人日記』と『阿Q正伝』しか出てきません。あとは、作品の内容から『狂人日記』か『阿Q正伝』かを判断することになりますが、一応用語集にはそれぞれの作品の内容が簡単には載っておりますので、解けないこともないと思います。気の利いた先生であれば教える時に簡単な概要は伝えるでしょうし(文化史は、人物・作品について最低限他のものと区別できるだけの情報を与えないことには学習する意味がありません)、もし判断材料がなかったとしてもまぁ、2分の1の確率で当たりますw
ちなみに、胡適、魯迅ともに留学経験ありですが、胡適がアメリカのデューイに師事したプラグマティストであることや、魯迅が日本に留学したことや『藤野先生』の著者であることはわりと有名な話ですので、そちらの知識から特定できた人もいるかもしれません。
(大問1-2) 平和に関する布告
:大問1-8の指定語句にも指定されているくらいですので、おそらく解ける前提の設問です。
(大問1-3) 治安維持法
:日本史をやっている人にはさほど難しい知識ではありませんが、世界史の授業の中ではあまり強調されないこともあるかと思いますので、解きにくい設問かもしれません。ただ、一応教科書等には記述があります。1925年に普通選挙法と抱き合わせで制定されたことから「飴と鞭」の関係で言及されることがあります。
(大問1-4) 山東半島
:半島名を答えよとのことですから、山東半島で問題ないでしょう。山東半島には膠州湾とその都市青島があります。
(大問1-5) 蔣介石
(大問1-6) 対ソ干渉戦争
(大問1-7) チョイバルサン
:モンゴル人民党の指導者としてはチョイバルサンとスヘバートルがいますが、スヘバートルは用語集の方でもチョイバルサンの項目でチラリと出てくるだけですので、そもそもチョイバルサンしか知らないという受験生も多かったかもしれません。スヘバートルは1923年には亡くなっておりますから、設問の「1930年代後半にモンゴル人民共和国の最高指導者として…」の部分からもチョイバルサンで問題ないことが確認できます。
(大問2-1) コモン=センス
(大問2-2) リンネ
:リンネを覚えている受験生はあまり多くないでしょうが、実は設問としてはわりとよく出題される人物です。「分類学の父であること」と「スウェーデンの博物学者」ということをおさえておけば十分で、出題される場合も概ねこのヒントで出題されます。植物の学名では学名の後に命名者が記されますが、そこに「L.」とある場合はリンネが命名したことを示します。一文字の略称があるのはリンネのみだそうです。何だかデスノートみたいですが。
(大問2-3) アリストテレス
(大問2-4) カピチュレーション
(大問2-5) アンゲラ=メルケル
:メルケルさん、もう2005年からずーっと首相やっていますので、時事問題ですらない気がします。普段からニュースに関心を払っている人であれば難なく解ける問題だと思います。
(大問2-6) ジョン
【小論述解説(40字、大問2-7)】
(解答例1)
:ユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとされた冤罪事件で、ゾラにより批判された。(40字)
(解答例2)
:ユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとされたが、後に無罪となった冤罪事件。(38字)
【大論述解説(500字、大問1-8)】
(設問概要)
・アジア各地域の人々が、成立後間もないソヴィエト=ロシアをどのように受け入れ、関係を築いたのかについて論ぜよ。
・上記を論ずるにあたり、以下の3点について留意せよ。
①アジアと資本主義の関係
②ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係
③アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係
・史料[A][B]と出題者による注記、問1~7の設問文を参考にせよ。
・500字以内
・指定語句:三一運動 / 民族解放 / 陳独秀 / 大問1問2の解答(平和に関する布告)
(史料[A]、[B])
史料A=陳独秀「社会主義批評―広州公立法政学校での演説」『新青年』第9巻第3号、1921年7月1日
:陳独秀は『新青年(発刊当初は青年雑誌)』を創刊した新文化運動の指導者で、次第にマルクス主義に傾倒して1921年には中国共産党の初代委員長となった人物です。本史料は中国共産党が結成された年のものですから、当然社会主義・共産主義的な視点が史料中には盛り込まれています。
史料B=極東勤労者大会で採択された決議「ワシントン会議の結果と極東の情勢」(出典はコミンテルン編、高屋定国/辻野功訳『極東勤労者大会』合同出版、1970年)
:極東勤労者大会は1922年にコミンテルンがモスクワとペトログラードで開催した国際会議で、日本・中国・モンゴル・朝鮮などの社会主義者を招いて開かれたものです。基本的にはアジア諸地域での共産主義運動の拡大を目指すことを確認するもので、日本共産党結成の原点とも称される大会でした。
(解答手順1:ソヴィエト=ロシアと他地域との関係の大まかな構図を思い浮かべる)
:東京外語大の大論述は、場合によっては資料をかなりしっかりと読み取らないと十分な解答が得られないこともあります。ただ、本設問は特に史料を精緻に読み込まなくても、世界史の知識のみで大まかな構図を思い浮かべることは可能です。(細かい部分については資料を読んで確認する必要が出てきます。)そこで、まずは大まかにソヴィエト=ロシアを受け入れないものと受け入れたものに分けて整理してみると良いと思います。ここで、ソヴィエト=ロシアとは、1917年のロシア十一月(十月)革命から1922年までのソ連成立までの時期のロシアを便宜上指す(この期間はロシア帝国ともソ連ともいえないため)言葉です。
①受け入れない
列強諸国 / 帝国主義 / 資本家 など
②受け入れる
陳独秀・李大釗 / 中国共産党 / モンゴル人民党 /
ホー=チ=ミン / インドネシア共産党 など
ものすごく大雑把ですが、このような区分けで良いと思います。設問は「アジア各地域がいかにソヴィエト=ロシアを受け入れたか」を問うていますが、同時に「ソヴィエト=ロシアと資本主義列強」の関係も踏まえよと言っています。当時の資本主義列強とはすなわち欧米の(あるいは日本も含む)帝国主義諸国を指しますので、ソヴィエト=ロシアを受け入れなかった側に言及しても全く問題ありません。となると、大きな枠組みとしては「資本主義列強はソヴィエト=ロシアを受け入れずに対ソ干渉戦争となったが、ロシア革命の影響やコミンテルンの活動からアジア各地で社会主義・共産主義の運動が活発化し、次第にソヴィエト=ロシアを受け入れる個人・集団・国が出現した」という構図で問題ないのではないでしょうか。この構図は、大問1のリード文の冒頭の一部「民族解放運動や反帝国主義運動の展開、英米などの資本主義列強とソヴィエト=ロシアとの対立といった情勢の下で、20世紀のアジアの歴史はロシア革命、ソヴィエト=ロシアと結びつきながら展開されていくことになる」という内容ともぴったり一致します。
(解答手順2:留意すべき①~③について検討する)
:続きまして、留意すべき①~③の要素について検討してみます。
①アジアと資本主義の関係
暗記主体の知識ですと一番まとめにくいのがこの部分なのではないかと思います。何となくは分かっていても文章にはしづらい部分です。設問の文章にはいくつかヒントが示されていますので、まずはそちらを確認してみましょう。
史料[A]には以下のような記述がみられます。
「資本主義の生産と分配の方法がなくならなければ、侵略的な軍国主義がなくなる道理はない。アメリカのウィルソン大統領の十四ヵ条(の平和原則)という大言が実現を見なかったのはなぜか。資本制度が国際的な侵略や戦争の根本の原因であることを、彼が分かっていなかったからである。」
「彼ら(文中より英・仏のこと)の国家組織は資本主義の上に成り立っており、もしも侵略主義や軍国主義を放棄したりすれば、彼らの国の大量の余剰生産物はどうやって売ればよいのか、経済危機をどうやって救えばよいのか、彼ら資本階級の地位はどうやって維持すればよいのか。」
ここで確認しておきたいのは、資本主義世界の発展と帝国主義政策の拡大は非常に密接な関係を持っていたということです。産業革命によって生み出された大量の資本や、産業資本家の台頭と労働者の増加という社会変化は、それまでの世界とは異なる新たな資本主義社会を生み出すに至ります。その中で、各国では(程度の差こそあれ)独占資本が形成されますが、成長した資本家たちは彼らが利益を最大限に享受できる環境を用意できるように政治に対して様々な形で働きかけます。最大限に享受できる環境とはつまり、「安価に原材料を手に入れること」ができ、「自分たちの生産物を売りつける市場」を確保し、「得た資本を投下して利益をさらに拡大する投資の場」を得ること、すなわち植民地を獲得することでした。植民地を獲得するためには、競合する諸国を力尽くで退ける軍事力と工業力を持つ必要があります。こうした中で経済と工業の発展ならびに軍備の拡張を国是とする帝国主義政策が各国において採用されることになるわけですが、[A]の史料で書かれていることはそのことを指摘しているわけです。
また、[B]の史料でも以下のような記述がみられます。
「…ワシントン会議は、極東問題が現在、世界の帝国主義者たちの政治の最も重要な問題であるということを具体的に証明した。[中略]ワシントン会議は太平洋の支配をめぐる新しい帝国主義戦争の勃発を一時延期した。しかし、この条件付きの延期は、すでに抑圧されている極東の人民をさらに奴隷化することによって得られた。ワシントン会議では、…朝鮮に関して一言も語られていない。[中略]…中国の「門戸開放」政策実行についての合意は、中国の略奪における帝国主義者の強盗の特権の平等を公式に認めたものであり…その代わり日本は、朝鮮、( ④:山東半島 )、満州での搾取を続け、自治モンゴル…や、ソヴィエト=ロシアの方向へ、その支配を広げていく特権を与えられた。」
(「…」部分は問題文を適宜省略した)
こちらの史料では、帝国主義諸国によるアジアへの進出についてより具体的に語っています。もっとも、世界史で勉強するワシントン体制と内容的にはほぼ合致するので、史料が読み取れなくてもある程度世界史の知識だけで対応することもできます。まずは、ワシントン会議についてその概要をご紹介しておきましょう。
ワシントン会議では、3つの条約が締結されます。四か国条約、九か国条約、ワシントン海軍軍縮条約です。これらの条約によって成立したいわゆるワシントン体制は「アメリカが主導した東アジア・太平洋地域における新しい国際秩序」であり、その意味することろは「急激な日本のアジア・太平洋地域への進出抑制」と「同地域に対するアメリカの発言力増大と進出の拡大」です。四か国条約は米・英・仏・日間で太平洋における領土・権益の相互尊重と現状維持を取り決めたものでしたが、この条約により1902年以来、日本拡大の背景となってきた日英同盟は更新されず発展的に解消されたとされました。また、「九か国条約」は中国に対する門戸開放、機会均等、主権尊重、領土保全などを求めたものです。アメリカはすでに1899年と1900年の2度にわたり国務長官ジョン=ヘイがしめした門戸開放宣言(門戸開放通牒)の中で九か国条約と同様の内容を示していますが、門戸開放宣言が単なる外交通牒に過ぎず、各国から無視をされたのに対して、九か国条約は第一次世界大戦により東アジア・太平洋地域に対する英仏の影響力が後退し、アメリカがそのプレゼンスを増す中で締結された国際条約でした。つまり、この九か国条約は単なる掛け声にすぎなかった門戸開放宣言を国際条約(国際法)のレベルで具体化させたものでした。この条約により、第一次世界大戦中に結ばれた石井=ランシング協定は解消され、この条約に基づく形で日本は山東懸案解決に関する条約(1922)を中華民国と締結して山東省権益を中国に返還することとなりました。また、ワシントン海軍軍縮条約では各国の主力艦保有トン数比は5:5:3:1.67:1.67(米・英・日・仏・伊)とされ、対米7割を主張した日本の主張は容れられませんでした。
一般に、ワシントン体制は上述の通り日本の進出をアメリカが中心となって抑制したものと考えられています。(たとえば、平成31年度版東京書籍『世界史B』のP.356にはワシントン体制について「合衆国が中心となって日本の進出をおさえ、各国の利害を調整するとともに、高揚する民族運動に共同で対処しようとするものであった」と書かれています。)実際、その通りなのですが、一方で日本は満蒙における特殊権益については列強から容認されることになった点は注意が必要です。また、太平洋の現状維持が認められたということは、日本は第一次世界大戦中に占領下ドイツ領南洋諸島についてもその実質的な領有(委任統治による)が認められました。ですから、確かにワシントン体制は日本の進出を抑制はしましたが、日本が勢力を戦前と比べて拡大していなかったわけではありません。そして、中国・太平洋地域に大きく進出した日本と、特に中国への経済進出を考えるアメリカとの関係は、ワシントン会議以降次第に悪化していきます。
さて、以上がワシントン会議の概要になりますが、それを踏まえて上述の史料[B]を見ますと、「帝国主義諸国が太平洋支配をめぐり争っているが、一定の妥協を成立させたこと」、「朝鮮半島への言及がないこと」、「門戸開放についての合意は帝国主義列強による中国の反植民地化をさらに進めること」、「日本が朝鮮、山東半島、満州での搾取と、モンゴル、ソヴィエト=ロシア方面への進出を進めることが認められたこと」などが読み取れます。以上の内容をまとめますと、アジアと資本主義の関係については、「資本主義の発展が帝国主義政策の原因となっていること」、「アジアは列強の帝国主義政策の餌食となっていること」、「具体的な例としてアメリカの中国進出(九か国条約)や、日本の進出が挙げられること」などを確認しておけば良いでしょう。
②ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係
第一次世界大戦の頃のソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係としてまず思い浮かべなければならないことは、対ソ干渉戦争(1918~1922)です。これについては直接史料中には出てきませんが、超重要事項(かつ基本事項)ですし、リード文の冒頭にも「英米など資本主義列強とソヴィエト=ロシアの対立」と書かれておりますので、思い浮かべるのはそう難しいことではないと思います。対ソ干渉戦争には英・仏・米・日などが参加し、英・仏軍はザカフカースやウクライナ、バルト海方面などから、日・米はシベリア方面から進軍しましたが、対ソ干渉戦争が開始された1918年8月当時はまだ第一次世界大戦が終了しておりませんでした(戦争の終結は1918年の11月)から、西部戦線で依然としてドイツと戦う英・仏は効果的な進軍はできず、主力となったのは日・米のシベリア方面軍であり、またロシア国内の反革命派(白軍)に対しての支援も行われました。一方のソヴィエト=ロシアは、赤軍の組織化、戦時共産主義の実施、コミンテルンの創設などによって対抗し、中でもコミンテルンは資本主義諸国における共産主義者との連携による革命の達成のために活動することになりました。
干渉戦争自体は1922年に日本が撤兵したことで終結します。その後の資本主義諸国とソヴィエト=ロシアの関係については、1922年にドイツがラパロ条約によってソヴィエト=ロシアを承認したことで敗戦国ドイツと共産主義国ソヴィエト=ロシアの孤立化を他の列強が危惧したことや、ヨーロッパが国際協調路線に転じたこと、ソヴィエト=ロシアのネップ(新経済政策)への転換をイギリスなどが歓迎したことなどから次第に国際承認が進み、英仏は1924年、日本は1925年にソ連を承認し、遅かったアメリカがソ連を承認するのが1933年、1934年にソ連は国際連盟に加盟しました。ただ、本設問についてはソ連成立前の「ソヴィエト=ロシア」と資本主義列強の関係となっていることから、いわゆる「ソ連の承認」については言及の必要はないと思います。
③アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係
この部分は本設問の中では比較的書きやすいところかなという気がします。要は、ソヴィエト=ロシアまたはコミンテルンの活動などがアジア各地の共産主義運動や民族運動に影響を与えたことと、その具体的な例を示せば良いでしょう。史料に陳独秀があることから、中国共産党の結成については書けると思いますし、史料中や設問でモンゴルについての言及もあることから、モンゴル人民党やスヘ=バートル、チョイバルサン、モンゴル人民共和国(世界で2番目の社会主義国家)などについて(全ては無理にしても)思い浮かべることは可能だと思います。最近、アジアにおける社会主義・共産主義の話をする際にモンゴルについて言及する設問が増えてきている印象があります。設問全体の傾向として、一国史的な観点をやめてより広範な視点でモノを見ようという流れがありますから、主流の内容を抑えつつその周辺にも気を配るという形の設問はおそらく増加してくるのではないでしょうか。その意味でも、今後はやはり地理的な理解をしっかりしておかないと、全体像をイメージしにくくなって、点数に差が出てくるかもしれませんね。
さて、史料中、アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係についてわかる部分というと以下のようなところがあげられるかと思います。
[A]
「それ(=資本主義)に取って代わるのは当然に社会主義の生産、分配の方法であり、そうしてはじめて、剰余価値や余剰生産といった弊害をとりのぞけるのだと断言することができる…」
[B]
「…彼ら(=朝鮮、中国、モンゴル)自身の団結と、すべての侵略者に対する組織的な闘争と、国際プロレタリアートやソヴィエト=ロシアとの団結によってのみ、彼らは独立と自由を獲得できるということを証明したのである。」
「革命的華南はその民族的存在のために闘っており、華北の軍国主義者から攻撃される危険に常にさらされており、国全体の民族的、民主主義的革命の勝利なしには、その地位を強化するのぞみはない。」
「…中国の勤労大衆は、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国を指導者にして、帝国主義に対する断固たる戦いをすでに始めている。」
「武装闘争と友好的なソヴィエト=ロシアの赤軍との協力によって、外国人抑圧者―ロシア白軍や日本帝国主義の案内人である中国の帝国主義者―の支配から自らを解放して、モンゴルはついに自らのことを自らの方法で決める機会を確保した。」
[設問]
・陳独秀 / 『新青年』が後に共産党の機関紙としての役割果たす / 民族自決に対するソヴィエト=ロシアの肯定的姿勢 / 日本では労働運動や農民運動が活発化 / 極東勤労者大会には中国国民党からも代表 / 孫文による共産党の受け入れ強化 / モンゴル人民党(モンゴル人民革命党)…etc.
以上の記述から、中国、朝鮮、モンゴル、日本についてはかなりの部分記述することが可能になると思います。また、ソヴィエト=ロシアが設立したコミンテルンと当時のアジアにおける社会主義運動を考えた場合、インドシナ(ベトナム)のホー=チ=ミン(パリ講和会議にグエン=アイ=クォック(阮愛國)として参加した後、1920年にフランス共産党の結成に参加、その後ソ連にわたりコミンテルンの指示でベトナム青年革命同志会を結成)や1920年結成のインドネシア共産党に言及することも可能ではあります。ただ、設問と史料から考えた場合、必須の内容ではないかもしれません。
(解答手順3:指定語句の使いどころを検討する)
指定語句は、「三一運動 / 民族解放 / 陳独秀 / 平和に関する布告」の四つでした。使い方としては以下のような使い方があるでしょう。
・三一運動
:ロシアの平和に関する布告やウィルソンの十四ヵ条の平和原則の中に謳われた「民族自決」に刺激を受けた朝鮮の民衆と、その運動を抑えようとした日本との摩擦から発生した民族運動、それを黙殺したパリ講和会議やワシントン会議における資本主義・帝国主義諸国の論理
・民族解放
:民族自決に刺激を受けた各地での民族解放運動、その方法の一つとしての共産主義
・陳独秀
:中国共産党の初代委員長、中国共産党の結成、コミンテルンの指導と国民党との接近
・平和に関する布告
:ロシア革命とボリシェヴィキ、帝国主義諸国に対する非難、民族自決、ウィルソンの十四ヵ条の平和原則への影響
上に書いたもの以外にももちろんあると思いますが、一般にすぐ思いつく内容としてはこんなところでしょう。解答手順1でつくった大きな枠組みに肉付けをしていくとすれば、以下のような感じではないでしょうか。
①ロシア革命と平和に関する布告の民族自決が、アジア諸国の民族運動と共産主義を刺激
②ソヴィエト=ロシアは資本主義・帝国主義列強を批判
③資本主義列強はソヴィエト=ロシアを受け入れずに対ソ干渉戦争
④コミンテルンの創設とアジア各地の共産党への指導
⑤パリ講和会議やワシントン会議は資本主義諸国の論理を優先して民族自決を顧みず
⑥民族運動の激化とともにソヴィエト=ロシアを受け入れる個人や団体が増加
⑦アジア各地で共産主義運動の高揚や共産党の結成が見られる
⑧ロシアに続く社会主義国としてのモンゴル人民共和国の建国
概ね、このような流れで解答を作成することを意識していきます。
(解答例)
ロシア革命で一党独裁を達成したボリシェヴィキが平和に関する布告で民族自決を呼びかけると、資本主義列強の支配下にあったアジアでは民族運動と共産主義が刺激された。共産主義拡大を危惧した列強は対ソ干渉戦争を起こしたが、ソヴィエト=ロシアは赤軍の組織化、戦時共産主義やコミンテルン創設による共産主義者の連携で対抗した。秘密外交暴露などで帝国主義政策と批判された第一次世界大戦への参戦を決めたアメリカのウィルソンは十四ヵ条の平和原則で秘密外交廃止や民族自決を訴え、これに刺激された朝鮮では日本からの独立運動である三一運動が発生したが弾圧された。さらに、戦後のヴェルサイユ・ワシントン体制では資本主義列強の論理が優先され民族自決が顧みられなかったため、中国の五四運動やインドのサティヤーグラハなどの民族解放運動が激化した。コミンテルンの活動でソヴィエト=ロシア受け入れも進み、陳独秀を委員長とする中国共産党の結成、ホー=チ=ミンのコミンテルン参加、孫文による国共合作への動きが見られ、モンゴルでは日本が支援するウンゲルンをチョイバルサンらのモンゴル人民党が赤軍の支援を受けて駆逐し、モンゴル人民共和国を建国した。(500字)
こんな感じでしょうか。赤字のところが「アジアと資本主義列強の関係」、青字のところが「ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係」、緑字のところが「アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係」を主に示しています。アジア各地の「運動家」とありましたので、できるだけ個人名が出るようにしてみました。メインのソヴィエト=ロシアの受け入れと関係については、民族運動や共産主義の刺激につながったことやソヴィエト=ロシアを受け入れる動きにつながったことで示せているかと思います。