(読者の方より「問題の一部に取り違えがあるのでは?」というご指摘を受けまして確認したところ、その通りでした。[なんともみっとも情けないことですが。] ただまぁ、全く点数が入らないこともないかと思いますし、周辺知識の確認という意味ではいくらか有用な部分もあるかなと思いますので記事自体は残しておきます。ご覧になる方はそのあたりご承知おきの上でご覧ください。気力・体力・時の運があれば後ほど修正記事に改めるつもりですが…最近は二次関数とか仕事算とか場合の数とか国会・内閣・裁判所とかやってて多忙気味なので…。あ、もちろん大学受験世界史もやってますよw) 

今回の東大大論述では、昨年の660字から600字と元の形に戻りました。そのかわり、東大にしては珍しく史料読解をさせる問題でした。ただ、こうした形式がこれまでにまったくないというわけでもなく、例えば2000年のフランスの啓蒙思想と中国の思想や社会制度との関係について問う問題では、リード文の中に挿入される形ではありましたがヴォルテール、レーナル、モンテスキューの中国文化に対する評価が示されており、今回の設問と類似の形をとっていると見ることができます。また、1992年問題では、史料ではありませんが、南北アメリカ・東ヨーロッパ・東南アジアにおける主権国家体制の下にある地域の変遷を地図で示してその読解を求めるものでした。ただし、本設問では「○○は××だった(史料A)。」のような形で史料番号を挙げて論述問題の事例として用いよという指示があるので、こうした指示をきちんと見落とさずに対応することが大切かと思います。

 テーマ自体は明・清時代の冊封体制を中心に記述させるもので、地域的・時代的な広がりを考慮しなければならないことを除けば一橋などでは頻出のテーマです。史料を読ませるあたりもかなり一橋くさい設問で、たびたび申し上げておりますが最近東大と一橋の設問が何となく似てきたなぁという印象があります。奇しくも、2020年の一橋の大問3も小中華思想について問う問題でした。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_399056.html) 史料の内容自体は分量も少なく、意図も比較的はっきりとくみとれますので、扱いが難しいものではありません。また、テーマも一般の教科書や授業のテーマとしてもかなりしっかりと扱われる部分でもありますので、特に書きにくいという類のものではなかったと思います。ただ、そのわりに本設問の解答をしっかり書こうとするとかなり深いです。特に明代から清代にかけての東アジア国際秩序の変容はいろいろな分野にまたがるもので、本当の意味で示そうとすると各事象に対する非常に深い理解が必要となります。そうした意味で、本設問は半分くらいまでは多くの受験生が書けるけれども、満点を取ろうとするとえらく難しい設問かなと思います。多くの受験生が基本となる部分はしっかりおさえてくるはずですので、いかに基本を外すことなく、他の受験生が十分に書けない部分を示すことができるかで差がついてくるのかなという設問でした。

 第2問、第3問も含めた全体の印象としては、第2問の比重がやや重いかなという気がします。第2問は難しいとまでは言えませんが、受験生が正確にスンナリ書けるかと言われるとかなり怪しいと思います。書ける人と書けない人で設問ごとに細かい差がついて全体としてかなりの差が出る設問だったのではないでしょうか。一方、第3問は設問自体に特にひねりもなく、平易です。もちろん、東大の設問だから平易と思うのであって、他の大学や学部で出されたのであれば正答率はかなり低くなるのは間違いないと思います。第3問で間違えたとしても1問まで、第2問で2問分程度失点したとして、第1問の大論述で半分確実に取りに行ったとして3741点というところでしょうから、全体としても得点は取りやすい(その分、基本を取りこぼしてはいけない)設問のように感じます。一応、某予備校さんの評価を見ますと全て「標準」となっていますね。妥当な評価だと思いますが、上述のように個人的には第1問はかなり奥深い設問だなぁと感じました。

 

【第1問】

(設問概要)

・時期:15世紀頃から19世紀末(1401年ごろ~1900年)

・東アジアの伝統的な国際関係のあり方について具体的に記述せよ。

・近代における東アジアの伝統的な国際関係の変容について具体的に記述せよ。

・朝鮮とベトナムの事例を中心に記述せよ。

20行以内(600字)

・指定語:薩摩 / 下関条約 / 小中華 / 条約 / 清仏戦争 / 朝貢

 

(ヒント[リード文より]

・東アジアの伝統的な国際関係は、各国の国内支配とも密接なかかわりを持ち、国内支配の強化や異なる説明による(支配の)正当化に用いられた。

・近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味したわけではなかった。

・東アジアの伝統的な国際関係は、近代にヨーロッパで形づくられた国際関係(=主権国家体制)が近代になって持ち込まれると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされた。

 

(解答手順1:文章の読みかえ)

:とりあえず、設問の中心である「東アジアの伝統的な国際関係」とは何かですが、これについては冊封体制と朝貢関係で特に問題はないと思います。リード文の方にも「近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだ」とありますので、冊封体制のありかたについてはしっかりと記述しておきましょう。

 また、この冊封体制と朝貢関係を近代に入って変容させる「ヨーロッパで形づくられた国際関係」とは何かということですが、これについても主権国家体制で良いと思います。

 そうしますと、本設問は「中国を中心とする冊封体制のあり方を示し、その上で冊封体制がヨーロッパで形づくられた主権国家体制によりいかに変容するかを朝鮮・ベトナムの事例を中心に示す」という設問であるということになります。

 

(解答手順2:冊封体制のあり方について整理)

:つづいて、冊封体制について整理する必要があるでしょう。冊封体制は「中国の皇帝が周辺諸国の支配者に位階を与え、君臣関係を結ぶことによって形成された国際秩序。東アジア諸国は朝貢国として交流を保障される一方、中国の権威を内政の安定に利用した。」(全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集:改訂版』山川出版社、2018年、p.126)です。「冊封体制」という言葉自体は戦後中国古代史研究者である西嶋定生が提唱した歴史用語です。西嶋は東アジア社会に一定の相互連関があることを指摘した上で、その背景に何があるのかを考察するために儒教が国際関係をどのようにとらえているかというその論理構造に着目して、冊封とそれを支える論理(中華思想)が「東アジア世界」という他の世界とは区別される完結した世界を作っていたと主張しました。この冊封体制について早稲田大学の東洋史学者である李成市の説明では「…中国の皇帝は、漢代以降、周辺諸国、諸民族の君長にも中国の官爵(爵位・官職)を与えて君臣関係を結び、そのことを通して両者に国書(外交文書)を媒介とする朝貢関係が必然化することによって、それに基づき中国の文物が伝播・受容されたのである。こうして皇帝と周辺諸国、諸民族の君長との間に官爵の授受を介して結ばれた関係は、冊命(任命書)によって封ぜられる行為にちなんで冊封体制と名付けられている。」とまとめています。(歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年、p.3、李成市「諸王たちのモニュメント‐東アジア世界の形成」) いずれにせよ、冊封体制については

 

・中国皇帝と周辺国が形式的な君臣関係を結んだこと

・その際には朝貢が行われることが一般的であったこと

・朝貢国はこの関係を国内支配の強化や支配の正当化、朝貢貿易などに利用したこと

 

などが示してあれば、フレームワークとしては十分でしょう。

 

(解答手順3:近代以降の冊封体制の変容について整理)

:冊封体制と朝貢関係がいかに変容するかということは本設問の重要なテーマの一つです。もちろん、最終的にはヨーロッパの進出によって清の外交政策が大きく転換したことや、それまで清の宗主権下にあった諸国が新たにヨーロッパなど主権国家体制のもとにある国家の影響下に入ったことなどによって崩壊するというのが大きなフレームワークです。(ちなみに、この清朝末期における冊封体制の崩壊については、近いところでは2015年の一橋大3が扱っています。また、本ブログでもテーマ史など所々で言及しています。)ただ、そこにいたるまでにも段階的な変容が見られるわけで、そうした変容をどこまで示せるかで他の受験生との差がついてくるかと思います。ただ、最初にそうした細かい変容について突っ込んでしまうと収拾がつかなくなってしまう(これについては手順6で後述します)ので、まずは全体の大きなフレームワークを確実に作っておくべきでしょう。清末における冊封体制の崩壊については、

 

・イギリスによる自由貿易要求と清による拒否(マカートニー、アマーストetc.

・アヘン戦争後の開国と不平等条約

・北京条約(1860)による外国公使の北京駐在と翌年の総理各国事務衙門設置

・阮朝の宗主権移動(清仏戦争と仏領インドシナの形成)

・朝鮮に対する清の宗主権否定(1895、下関条約)

 

あたりが具体的な事例として挙げられる内容かと思います。この時点で、設問の言う「朝鮮とベトナムの事例を中心に」の意図が見えてきますね。少なくとも、朝鮮とベトナムがそれぞれ日本、フランスの進出によって清の宗主権下から離れていくことは具体的な事例として記述する必要があります。それぞれ、簡単にまとめていくと以下のようになるでしょう。

 

[阮朝]

1858-62 仏越戦争(1862:サイゴン条約[1]

:仏によるコーチシナ東部3省割譲

1867 コーチシナ西部3省占領

1874 第2次サイゴン条約

:ベトナムの独立主権を認め、一方でフランス支配下にあるコーチシナ全省の割譲を承認

18831884 第1次ユエ条約(アルマン条約)、第2次ユエ条約(パトノートル条約)

:ベトナムの保護国化(アンナン[ベトナム中部]、トンキン[ベトナム北部]を支配下に)

1884-85 清仏戦争(1885:天津条約)

:清のベトナムに対する宗主権放棄、仏による保護権の承認(李鴻章‐パトノートル)

1887 フランス領インドシナ連邦の形成

仏領インドシナの各地域_地名入り

 

[朝鮮]

1875 江華島事件

1876 日朝修好条規

:日本・朝鮮間で朝鮮の自主独立の確認、朝鮮3港開港(仁川・元山・釜山)、不平等条約

1894-95 日清戦争(1895、下関条約)

:清の朝鮮に対する宗主権の否定、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲

(伊藤博文・陸奥宗光‐李鴻章)

 

いずれにせよ、これらの事例を挙げることによって清の冊封体制と朝貢関係が崩壊することを示すことができます。南京条約による開国と自由貿易の開始によって朝貢貿易は崩壊していきますし、総理各国事務衙門設置による欧州諸国との対等な外交関係成立により清朝は主権国家体制の枠内に組み込まれていきます。また、朝鮮や阮朝が日本やフランスの影響下におかれる過程で清は宗主権を放棄し、周辺の朝貢国との関係が断ち切られていきました。(日本はヨーロッパではありませんが、設問は「ヨーロッパで形づくられた国際関係[=主権国家体制]」としておりますので問題はないかと思います。)おおよそ、このあたりのことがしっかり書けていれば全体の三分の一程度は点数として確保できると考えてよいでしょう。

 

(解答手順4:指定語の確認・整理)

:指定語と史料は当然設問の確認時に目を通すべきだと思いますが、最初からこれだけを手掛かりに解答を作ってしまうと時々設問の要求から外れてしまったり、細かい点の指摘に終わってしまって大テーマを見失ってしまうことがあるので、一通り目を通して何となくの方向性を確認したら、まずは(手順1)~(手順3)のようにして設問全体のフレームワークを意識し、その上で指定語や史料をどのように活用するか考える方が、間違いが少ないかと思います。指定語は「薩摩 / 下関条約 / 小中華 / 条約 / 清仏戦争 / 朝貢」ですが、これらのうち「下関条約 / 清仏戦争 / 朝貢」はすでにお話した内容で十分に使えるかと思いますので、あとは「薩摩 / 小中華 / 条約」をどう使うかという問題になるかと思います。

 

(薩摩)

:これについてはやはり尚氏が支配する琉球王国の日中両属関係について述べるのが良いでしょう。琉球王国は1609年に薩摩家久による侵攻を受けて薩摩藩ならびに江戸幕府に従属しましたが、中国との密貿易がもたらす利益を薩摩藩が重視したことから琉球の明・清に対する朝貢を認めていました。しかし、明治政府が成立すると、西欧式の主権国家として主権の所在を明確にすることを考えた日本は、琉球王国を自国の主権下に組み込むために琉球藩を設置(1872)し、さらに1879年には琉球藩を廃止して沖縄県を設置(琉球処分)し、日本支配下の一地域としました。

 

(小中華)

:小中華思想は朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承しているという考え方です。中華思想を自国の統治の正当化に用いる事例自体は珍しいものではなく、中国の周辺諸国では国内統治に儒教や中華思想を援用して、自身の統治が「天命」によるものであり、周辺諸地域は夷狄であるとする考え方を示すことがよくありました。上述した李成市の文章(李成市「諸王たちのモニュメント‐東アジア世界の形成」)では、高句麗や新羅の世界観を例にとってそのあたりのところを紹介しています。

 明滅亡後の朝鮮王朝では、女真族である清の征服によって中国が夷狄化し、明以降の正当な中華を継承しているのは自分たちであるという考え方が成立します。こうした考え方は、リード文にある「異なる説明による(支配の)正当化」と対応しますので、小中華はこの事例の一つとして挙げれば良いでしょう。

 

(条約)

:一見すると何の変哲もない用語ですし、受験生によっては「まぁ、下関条約で条約使っているし」とか、「なんでもいいから適当な条約挙げて消化してしまおう」と考えるかもしれません。ただ、この「条約」という指定語はなかなか曲者です。指定語に示すからには、東大としてもそれなりの意図をもってこの用語を指定していると考えなくてはなりません。ですから、行き当たりばったりでこの用語を使ってもおそらく加点にはつながらないでしょう。そのように考えると、やはりこれはヨーロッパ式の主権国家体制に中国(清)が組み込まれていく過程で用いるべきだと思います。一般に、条約は文書による国家間合意であり、このような合意自体は古代から存在していました。ですが、中華思想と冊封体制に支えられた東アジア世界、中でも中国においては、周辺諸国との間に「主権」を認め合い、「対等な」立場から締結される近代的意味での条約は原則として存在していません。もちろん、周辺諸国との取り決めは存在していましたが、それはあくまでも世界の中心たる中国の皇帝とその徳を慕う周辺国の長という関係の下でなされる約束事でした。これは、実質的に遼や西夏に圧迫されていた北宋が結んだ澶淵の盟(1004)や慶暦の和約(1044)が形式的な兄弟関係や君臣関係のもとでかわされたことなどからも見て取れます。また、南宋が結んだ紹興の和約(1141)では南宋が臣下で金が君主という関係性の逆転こそ見られたものの、朝貢関係とそれを支える論理構造自体が破綻していたわけではありませんでした。(もっとも、こうした事例を従来の冊封体制論の中でどのように考えるか、という問いはあってしかるべきかと思います。)

 ですから、ヨーロッパでウェストファリア条約(1648)以降成立する、たがいに主権を持つ国家同士が国際法的な効力を持つ条約を締結するという近代的国際関係は、イギリスが中国に持ち込む(というか強要する)ことによってはじめて成立するのであり、その意味で本設問の「条約」は、イギリスに強要された南京条約(1842)もしくは初めて主権国家間で対等に展開される外交を取り扱う官庁として設立された総理各国事務衙門を成立させるきっかけとなった北京条約などと絡めつつ、清が主権国家体制のもとに組み込まれたことを示す際に用いるのが適切な使い方だと思います。

 

(解答手順5:史料の確認・整理)

:上述の通り、指定語・史料は当然設問の確認と同時に行うものですが、じっくり吟味するのは全体のフレームワークを何となく組み立ててからでも遅くはありません。これまでにしめした(手順1)~(手順4)の内容をおさえながら、各史料について検討してみましょう。

 

(史料A)

 なぜ、(私は)今なお崇禎という年号を使うのか。清人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を独り守っているのは明らかである。(中略)崇禎百五十六年(1780年)、記す。

 

 こちらの史料は史料中に「わが朝鮮」とありますし、時期が1780年とありますので明らかに朝鮮王朝(李氏朝鮮)の史料です。文章の内容からも、小中華思想を示すにあたって適切な史料であることが見て取れます。ちなみに、「崇禎」は明の最後の皇帝である崇禎帝(毅宗)の頃に用いられた元号[1628-1644]です。崇禎帝が自害するのが李自成の乱による1644年のことですから、百五十年以上も使ってたのですね。それはそれですごいですがw まぁ、西暦なんかもう2020年ですが、元号で百年超えるとすごいなぁって思います。

 

(史料B)

 1875年から1878年までの間においても、わが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従の意を示すのが、この宮廷の慣習であった。

 

 史料Bについては、「フエ」(ユエ)とありますし、フランスの総督や領事とありますので、阮朝越南国についての史料であることが分かります。1875年から1878年当時の阮朝は、上述の通り1874年の第2次サイゴン条約によって「ベトナムの独立主権」が確認され、さらにコーチシナ全域をフランスに奪われて、実質的なフランスの保護下にありました。

ところで、1876年の日本‐朝鮮間で締結された日朝修好条規にも「朝鮮の自主独立」が内容に入ってきますが、こうした内容は受験生は何となく見過ごしがちなのですけれども、実は「清の宗主権を否定する」という重要な性格を持っています。あくまでも二国間条約ではありますが、日本と朝鮮、またはフランスと阮朝の間では「わたしの国(朝鮮、阮朝)は自主独立の国ですよー」と認めさせることで「清は関係ないだろう、引っ込んでろ」という理論を展開するわけです。ただ、こうした取り決めはあくまでも日本と朝鮮、またはフランスと阮朝という二国間でのみ確認された内容であって、条約を締結していない清の立場を拘束するものではないんですね。ですから、清との間に対立が生じて清仏戦争(1884-85)や日清戦争(1894-1895)が起こることになりますし、清が敗れた後の講和条約である天津条約(1885)や下関条約(1895)では、清の宗主権放棄が確認され、フランスによる阮朝保護国化の承認や、朝鮮の自主独立の確認がなされることになるわけです。

さて、少し話がそれましたが、そんなわけですからフランスはこの史料が言及している時期に実質的に阮朝を保護下においているし、清の宗主権を否定させているわけですね。にもかかわらず、阮朝の人間は臆面もなくそれまでの慣習にしたがって清に対して朝貢の使節を派遣するわけです。これは清の宗主権を認める行為にほかなりませんから、フランスの総督・領事・外交官からすれば「いったいこいつらは何を考えているんだ?」となるのでしょうが、東アジアにはヨーロッパとは異なる東アジアの世界観・論理が存在しているわけです。この史料の背景としては以上の通りですので、この史料を用いるとすれば清との朝貢関係を示す事例や後の清仏戦争を導く原因として扱うのが良いでしょう。

 

(史料C)

 琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのような、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間にある琉球はまさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。

 

 この史料は日中両属についてと、朝貢貿易に携わることにより、朝貢国が利益を受ける事例として示すのが良いと思います。琉球の両属関係については、(手順4)の(薩摩)の項目ですでに示してありますので、そちらをご覧ください。設問は「朝鮮とベトナムの事例を中心に」とありますが、この史料があることから記述の内容を朝鮮・ベトナムに限定する必要はないことが見て取れます。(もっとも、史料中には琉球が「朝鮮の豊かな文化を一手に集め」ていることや「南海の恵まれた地域に立地して」いることなどが示されていますので、朝鮮やベトナムを結ぶ中継地として示すことも可能ではあります。琉球は華北・朝鮮・日本を含む東シナ海交易圏と江南・ベトナム・タイ・東南アジア島嶼部などを含む南シナ海交易圏の結節点にあり、明の海禁の緩和(1567)によって中国とアジア諸国(日本を除く)の直接取引が認められ、東南アジア方面をポルトガルによって抑えられるまでは東アジアから東南アジア諸国を中継貿易で結ぶ重要拠点でした。ただ、大航海時代でヨーロッパ商人の進出が顕著になるとマラッカをはじめとする東南アジア方面の貿易は打撃を受けますし、17世紀には日本と清双方の海禁策(鎖国と遷界令)により東アジア交易の規模縮小に見舞われることとなります。このあたりの事情については、最近(2017年)全面改訂された『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年)のp.226にある「琉球」というコラムに詳しく書かれています。

 

(解答手順6:東アジアの伝統的な国際関係の「変容」を確認)

:これまでの(手順1)から(手順5)で概ね全体の流れは作れると思います。

 

・明が朝鮮や黎朝などと形式上の君臣関係を結ぶ冊封体制を形成

・朝貢による文物の交流を通して漢字・儒教文化圏による東アジア世界の一体化

・朝貢国は朝貢貿易により莫大な利益を得る

・明との貿易で巨利を得つつも交易の拡大とともに中国と薩摩藩の双方に臣従した琉球のような国も現れた(史料C)

・周辺国は中国の権威を利用して自国支配の強化に努める

・明に代わって正当な中華文化を継承したと考える朝鮮王朝の小中華思想のように、中国の儒教や中華思想を援用して支配正当化の理論とする国も存在した(史料A)

・当初はヨーロッパ諸国も朝貢関係の下で交易

・自由貿易要求を拒否されたイギリスがアヘン戦争を起こして南京条約によって清に開国と自由貿易を強要

・アロー戦争後の北京条約を機に対等な外交関係を扱う官庁として総理各国事務衙門が設置されると、中国は主権を持つ対等な諸国が条約によって国際関係を形成するヨーロッパ式の主権国家体制に組み込まれた

・清は、フランスによる実質的な保護下に置かれながらも自国に使節を派遣した(史料B)阮朝の宗主権をめぐる清仏戦争で敗れてベトナムに対する宗主権を放棄

・日清戦争と下関条約で朝鮮の自主独立を認めて宗主権を放棄

・中国と周辺国との朝貢・冊封関係も崩壊した。

 

こんなところでしょうか。これらが示せていれば少なくとも半分は点数がもらえるのではないでしょうか。大きなテーマはやはり「冊封体制・朝貢関係→主権国家体制・自由貿易」なんですよね。ただ、いわゆる冊封体制と朝貢関係からなる東アジアの伝統的な国際秩序は、イギリスの進出によって急激に変化したわけではなく、徐々にその形を変えていった部分もあります。これはたとえば、琉球の日清両属関係もその一つですし、朝鮮王朝における小中華思想も中華思想や儒教的世界観が変容した一形態ととらえることもできます。また、中国の支配者が明から清へと変容したことも大きな変化です。(手順3)の冒頭でもお話ししましたが、こうした様々な変容がありますので、時系列に沿って明・清代の対外関係に注目して関連事項を整理する必要があるでしょう。

 

(明)

・海禁策(倭寇対策としての民間貿易取り締まりと朝貢貿易による海上秩序再編)

・永楽帝の大越国支配

・鄭和の南海遠征と朝貢国の増加

・日明貿易(足利義満と勘合貿易)

・黎朝の独立と朝貢

・北虜南倭と明の冊封・朝貢体制の動揺

・壬辰・丁酉倭乱

・李自成の乱

 

明についてはこのようなところでしょうか。注意しておきたいのは、ひとことで冊封関係といっても各王朝において常に一様ではないという点です。何が言いたいかと言いますと、本設問では15世紀から19世紀末までにおける東アジアの伝統的な国際関係の変容を聞いています。これはつまり、明から清にかけての変容を聞いているわけですが、明の前には宋・元が構築した国際関係が存在したのであり、これは必ずしも明の築き上げた国際関係と全く同一のものではありませんでした。つまり、明の建国とそれにともなう国際秩序の再編があったのであり、明の成立した時期も東アジアの国際関係は変容の過渡期にあったととらえることも可能なのです。『詳説世界史研究』(2017年)はこのあたりのことを「朝貢関係の形成」の中で以下のように示しています。

 

 「宋・元時代の東アジアでは、朝貢といった国家間の正式の関係よりは、民間の商業ベースの交易の方が盛んであった。それに対し、明朝においては、民間の海外貿易を禁じて朝貢貿易に一本化しようとする政府の厳しい対外貿易禁止政策がとられた点に特徴がある。元末の動乱期、東アジアの海上秩序は乱れ、「倭寇」とよばれる海賊集団が東アジア海域に多数出没していた。洪武帝の一つの課題は反明勢力とも結びつきかねないこのような海賊集団を取り締まり、海上の秩序を回復することであった。すなわち、「海禁」(民間海上貿易の禁止)をおこなって海賊集団の財源を絶つとともに、明の新政権に対する周辺諸国の支持を取りつけ、それら諸国の協力を得て海上秩序を再建することが目指された。したがって明は建国当初より周辺諸国に対し朝貢勧誘をおこなった。しかし、洪武帝の時代は国内の統治を固めることに重心がおかれ、積極的な対外政策をとる余裕はあまりなかった。明の対外関係が大きく発展するのは永楽帝の時代になってからであった。…」(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年、pp.224-225

 

たとえば、上記のような流れの中で朝鮮王朝・黎朝・琉球を扱うことも可能でしょう。

 

(清)

・支配地域の拡大(中国東北・直轄領・藩部・朝貢国)

・藩部の支配[モンゴル・新疆・チベット]

:中国皇帝としての顔と北方・西方民族のハンとしての顔

・朝貢関係の多様化

:琉球(日清両属)、互市の国(朝貢ではなく貿易を行うのみ)

・朝鮮における小中華思想の形成

・ロシアの接近(ネルチンスク条約、キャフタ条約)

・イギリスによる自由貿易要求

・アヘン戦争後の開国と自由貿易体制

・アロー戦争後の総理衙門設置と主権国家体制

・朝鮮、越南(阮朝)に対する宗主権の放棄と冊封体制の崩壊

 

清についてはおおよそこのような内容になるかと思います。注意しておきたいことは、清は確かに中国の伝統的な諸制度・世界観を継承しましたが、それは必ずしもそれまで存在していた冊封体制、朝貢関係、中華思想をそのままの形で受け継いだわけではないということです。上記にあるように冊封・朝貢関係は多様化していきますし、それらを理論面で支えた中華思想(または華夷思想)も大きく変化していきます。これらについては、『詳説世界史研究』(2017年)のp.236の記述と、p.237のコラム「多民族国家清朝」に詳しく書かれています。

 

「…清朝支配者の目から見て、その支配地域は必ずしもこの範囲にとどまるものではなかった。朝鮮・琉球など、清朝に定期的に朝貢使を派遣する周辺諸国も、またベトナムやタイのように政権交代や国内の紛争などで清朝の権威を借りることが必要なときのみ朝貢してくる国々も、現実の支配はおよばなかったとはいえ、理念的には天子の勢力のもとにあった。また、広州に来航するヨーロッパ船など、朝貢でなく貿易をおこなうのみの外国(「互市の国」)も、清朝の目から見れば、天子の徳を慕ってはるばるやってくるという意味で、潜在的な支配関係の枠組みのなかで認識されていた。…」(『詳説世界史研究』、p.236

 

「清朝の皇帝は…多民族国家清朝の正当性を支える統一的な論理をつくり上げようと試みた。例えば雍正帝は、『大義覚迷録』という書物の中で、おおむねつぎのように述べている。[満州人は満州人の、漢人は漢人の、モンゴル人はモンゴル人の、それぞれの言語や風俗をもつ。もし漢人を華としそれ以外を夷とよぶなら、そうよんでもよいが、その場合、華と夷は価値の上下をあらわすものではなく、たんに出自の集団や地域の違いをあらわすだけである。人としての上下は、言語や風俗の違いにかかわらず、目上を敬い、罪を犯さず、秩序を守ってなごやかに暮すという、普遍的な倫理を守っているかどうかにある。天は、華夷の別なく、もっとも徳のあるものに天命を下して天下を支配させるのであり、現に清朝が広大な領域を平和に統治しえているという事実こそ、清朝皇帝の徳の証明である。…]」(『詳説世界史研究』、p.237

 

このように、清における冊封、朝貢関係では、「周辺国が偉大な中国皇帝の徳を慕って従う」という儒教的道徳観や理論的な柱に変化はありませんが、その形態は「藩部」、「朝貢国」、「互市の国」など様々だったのであり、また朱子学が官学であった明代には「華夷の別」が明による支配正当化理論の柱の一つであったのに対し、女真族による征服王朝であった清代にはこの「華夷の別」の重要性はむしろ否定されました。しかし、一方で易姓革命論的な天命論を重視することによって中国皇帝が中心であり、その徳を慕う周辺諸国という構図自体は維持されました。以下に示すのは清の時代の直轄領・藩部・朝貢国を示す図ですが、清の冊封・朝貢関係がアジアのかなり広範囲(東アジア・東南アジア・中央アジアの多くの地域)にわたっていたことが分かります。

 清領域

(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年、p.234

 

以上のような明から清にかけての様々な変容を全て示すのは限られた時間の中で整理して答案を仕上げる本番の試験では至難だと思います。ですから、戦略としては(手順1)~(手順5)で示したような大きなフレームワークを意識しながら、(手順6)の中に出てきた細かな変容をどれだけ自分の論述の中に組み込み、それらをどのように意味づけるかで他の受験生に差をつけていく解答をつくる、ということを目指すことになるでしょう。

 

【解答例】

明は海禁策の一方で周辺国に朝貢を促し、朝鮮や黎朝と形式上の君臣関係を結ぶことで冊封体制を再編した。南海遠征後は日本・琉球・マラッカなどとの朝貢貿易が拡大し東アジアの一体化が進んだが、北虜南倭や壬辰・丁酉倭乱への対処で明の冊封体制は動揺し、明の滅亡後は清がこれを継承・再構築した。朝貢関係は多様化し、清と対等なネルチンスク条約を結んだロシアや広州で交易するイギリスなどの互市の国、朝貢貿易の利益を得るために清と薩摩藩双方に臣従する琉球が現れ(史料C)、藩部など支配形態も多様化したが、その根本には伝統的な中華思想が存在した。しかし、征服王朝である清は儒教を保護しつつも、支配正当化のために華夷の別より易姓革命論的世界観を重視した。一方、小中華思想で正当な中華文明の継承者を自認する朝鮮(史料A)や皇帝を称する阮朝など、中華思想の援用で支配を正当化する周辺国も存在した。自由貿易要求を拒否されたイギリスが19世紀にアヘン戦争で勝利すると、清は開国を迫られて自由貿易を強要された。アロー戦争後には外国公使の北京駐在が決定して清は総理衙門を設置し、対等な国家が条約によって国際関係を形成する主権国家体制に組み込まれた。さらに、清に朝貢を続ける阮朝(史料B)をめぐって清仏戦争が起こり、清は敗れてベトナムに対する宗主権を放棄し、日清戦争後の下関条約では朝鮮に対する宗主権を放棄したため、冊封体制は完全に崩壊した。(600字)

 

時系列でひたすら朝鮮とベトナムとの関係のみに焦点を合わせて書き連ねていく人もいるのでしょうが、それだと地域的な広がりが見えなかったり、変化がうわべだけのものに見えてしまったりするかなぁと思ったので、個々の歴史的事実はいくらか削ってでも、論述内で示す事象が「明・清の冊封・朝貢関係の中でどのような意味を持つのか」ということを示す方に重点をおいて書いてみました。しっかり詰め込もうとするとかなり体力のいる設問だと思います。ぶっ通しで解説作った後でやっつけ仕事で解答作ったので疲れ果てましたw 今日はもう寝ます。