すでに通貨・産業・金融史として自分である程度まとめていたことを忘れていたために、間違えて通貨史から書きだしてしまった記事です。ただ、古代通貨についてわりと細かく書いたものだったので、一応追記としてそのまま掲載しておきます。)
【中国通貨史1:鋳造貨幣の使用と普及】
鋳造貨幣の使用以前には一部地域で貝貨が用いられておりましたが、これは商業のために流通させるというよりは、儀礼上や贈答用として用いられていたようです。
(Wikipedia「貝貨」より)
春秋・戦国時代に入り、商業の発展が見られるようになると、物々交換以外にも各地で鋳造された青銅貨幣が用いられるようになります。この青銅貨幣の種類と流通地域については、時折入試などでも出題されるものになるので注意が必要です。
(青銅貨幣の種類と流通地域)
・刀銭(貨):斉・燕・趙で使用(東北部)
・蟻鼻銭:楚で使用(南部)
・布銭[鋤を模したもの]:韓・魏・趙で使用(中央部)
・環銭[円銭]:秦・趙・魏で使用(西北部)
戦国の七雄の位置関係が最もよく問われるところはここでしょうね。出題頻度としてはやはり環銭(円銭)と蟻鼻銭が一番高いのかなぁと思いますが、その他のものも早稲田などでは出ています。写真もよく出ますよね。個別に国と青銅貨幣を結び付けて覚えるやり方だと忘れてしまいますので、戦国の七雄の位置関係をしっかり把握した上で、どの通貨がどの地域(東北部・南部・中央部・西部)で使われていたのかを理解した方が忘れずに定着しそうな気がします。
ところが、秦の始皇帝によって中国全土が統一されると、地域によって異なっていた貨幣は度量衡や文字などとともに統一されることになります。これが半両銭です。
(Wikipedia「半両銭」)
「半両」というのは重さの単位を示したもので、約8gです。秦では孝公に仕えた商鞅の頃に一斤(約250g)を16両とし、1両(約16g)を24銖とする重さの単位が定められていましたから、1両の半分(16g÷2=8g)で半両となるわけですね。ちなみに、武帝の時の「五銖銭」も重さの単位を表しています。(ちなみに、「五銖」は武帝期の重さでは3.35g相当だそうです。)いずれにしても、この秦の半両銭の円形方孔(円の形で中央の穴は四角)の形状はその後の東アジア地域において流通する鋳造貨幣の基本形になります。受験では、始皇帝の半両銭と武帝の五銖銭の区別をしっかりつけることが大切になりますので、注意してください。(もっとも、この両者の区別は銭に限ったことではなくあらゆる面で重要です。)
その後、漢代に入ると軽量化が図られます。軽い方が便利ということもありますが、軽量化された原因の一つとして、漢王朝が民間での貨幣鋳造(私鋳)を認めたこともあるようです。原料となる銅を使う量が少なければ少ないほど、鋳造する人間にとっては旨味が大きいですからね。ところが、品質の粗悪な私鋳銭の流通はインフレにつながりやすくなりますし、国家以外の通貨発行主体が複数存在することは、国家体制の安定を脅かすことにつながりかねません。実際、紀元前154年に発生した呉楚七国の乱において、呉が一時大きな勢力を持つことができたのは、呉が銅貨鋳造と製塩によって莫大な富を有していたところが大きいと言われています。(実はこの辺の話は以前ご紹介した横山光輝『史記』にも出てきます。マンガすげぇ。)
ちなみに、「塩」というのは経済上重要な意味を持つ商品です。塩は、人間にとって必需品ですが、特に内陸部においては塩分の摂取方法は限られます。(日本でも、「敵に塩を送る」の由来として武田信玄と上杉謙信のエピソードは有名です。史実としての信用性は怪しいようですが。)ですから、確実に必要であるという意味で、塩は時に通貨に匹敵する価値を持つ商品です。その重要性は古代中国王朝が塩の専売制を取り入れていることからも見て取れます。(ただ、これも国の専売制の目を逃れて勝手に塩をつくる密売人はいつの時代も存在したわけです。このように考えると唐末の黄巣の乱の首謀者である黄巣が塩の密売人であった事実も意味を持って理解することができます。)
話が脱線しましたが、以上のような理由から漢の時代、中央集権化が進むと文帝の頃には私鋳が禁止されていきます。そして武帝の頃には五銖銭の鋳造が行われました。武帝期は、前漢の全盛期とされますが、外征や土木工事の増加により国家財政は逼迫していました。こうした中で、桑弘羊(そうくよう)の活躍などにより均輸・平準法の導入や塩・鉄・酒の専売制が行われ、財政の立て直しが図られます。これにより、国家財政は安定しましたが、一方で商人層はこうした施策を国家による利益の不当な独占であると反発し、武帝死後の塩鉄会議などで桑弘洋ら財務官僚と対立します。この内容は『塩鉄論』にまとめられていますが、今からはるか二千年も前の時代に国家による経済統制の是非、経済の自由と規制、物価統制と民生の安定などの極めて高度な経済事象が議論の俎上にのせられていることに驚かされます。また、財政の安定と国防の関係や当時の生活・文化の様子がうかがい知れる部分も非常に興味深いものです。(『塩鉄論』は岩波などから文庫版も出ています。ただ、岩波の文庫版は高校生には難しくて扱えないと思います。)
前漢は王莽(莽の字の草冠の下は「大」ではなく「犬」)の簒奪と新の建国によって幕を閉じました。王莽の政策については色々と評価は分かれますが、教科書的には「周代の政治を理想とし」など、復古主義的な政策を採ったことが書かれていることが多いです。そうした内容と関連させて王莽の政治を見てみると、刀銭・布貨などをあらたに鋳造し、さらに金銀や貝までもまじえた30種近い貨幣の採用(王莽銭)がなされましたが、この政策は複雑かつ不便であったために五銖銭の私鋳と流通を招きました。さらに、王田制(周の井田制にならった土地の国有化)や奴婢売買の禁止などを打ち出しますが、どれも当時の経済の状況にそぐわなかったことから経済混乱へとつながりました。
王莽による小刀を模した貨幣(Wikipedia「王莽」)
その後の中国の通貨は、安定した統一王朝による通貨政策が持続しなかったことから、五銖銭を模した形状の銭が国家や私鋳され、統一された形の通貨は作られませんでした。隋代に入ってようやく通貨の統一が図られましたが、隋は短い年月で滅亡してしまったため、律令制や科挙などとと同じく、統一通貨も唐のもとで作られます。これが開元通宝です。開元通宝の重さは約3.7gほどでしたが、この通貨は従来の通貨とは異なり、重さが表示されない貨幣でした。開元というと玄宗の開元の治を想定してしまいますが、開元とは唐という国家が新たに建国されたことを喜ぶもので、発行されたのは唐の高祖李淵の時代です。また、この開元通宝を模して日本でも和同開珎などの貨幣が鋳造されたことも知られています。
開元通宝(Wikipedia「開元通宝」)
開元通宝は唐末の混乱と五代十国時代にも流通し、宋代に入ってからも使われましたが、宋代に入ると新たに大量の貨幣(宋元通宝など)が鋳造され、いわゆる宋銭の鋳造量は歴代の中国王朝で最大となりました。これらの宋銭はアジアの多くの国々で流通し、日本でも平安時代末期に平清盛が日宋貿易を行ったころからその流通が拡大し、鎌倉時代には絹などにかわる決済手段としても用いられるようになっていきます。
一方、中国の四川地方や陝西地方では銅貨ではなく鉄銭が用いられたこともあったようです。この背景には、四川や陝西に面する地域に存在した西夏や遼といった異民族との対立関係から銅銭の流出を警戒したこと、経済地域として四川、陝西がその他の地域とは異なる独自の経済圏を形成していた(こうした地方の商業圏・商業都市が形成され始めるのが宋代で、さらにそれらが結ばれる遠隔地交易が発展していくのは明代に入ってのことになります)ことなどが挙げられています。いずれにせよ、唐末から宋代にかけて、銅や鉄で鋳造された貨幣は決済手段として極めて重要になりますが、経済規模や地域の拡大とともにその重量や輸送の手間などが問題になってくると様々な工夫が生み出されることになり、飛銭などの手形決済や紙幣の誕生につながることになります。