先日、ジャック=ル=ゴフの『中世の身体』を再読いたしましたので、ちょっとご紹介しようかなぁと思います。
では、身体史とは演劇やマンガについて学ぶものなのかというとそういうわけではありません。身体史とは、およそ人間の身体にまつわるあらゆる事柄について、歴史の中でどのように扱われ、イメージされ、存在し、意味を持ってきたかを探るものです。それはたとえば食事の内容やマナー、服飾、生活空間、性、生理現象など、本当に多岐にわたります。テーブルマナーにおけるナイフの置き方や扱い方にどのような意味があるか、女性の身体が同性や異性からどのようにイメージされ扱われてきたか、排泄行為をある時代、ある地域の人々がどのようにとらえてきたか、人間の抱く感情がどのようにイメージされ、意味を持ってきたかなど、本当に様々です。
大切なことは、こうした事柄のすべてが「現在私たちが暮らしているこの世界と同じではない」という前提に立つことです。歴史を深く読み解くうえで大切なことは、事象としては同じであっても、その事象がどの時代、どの地域、どういった人々と関わっていたかによって、事象の持つ意味が大きく変わってくるということを理解することにあります。たとえば、古代中国における残酷な刑罰を、現代の感覚で忌避したり、古代ギリシア悲劇を現代的な感覚で鑑賞し、「素晴らしい」とか「よくわからん」とか評することは簡単です。ですが、歴史学ではそうした過去の事象が当時の人々に「どのようにとらえられていたか」、どのようなイメージを与えていたか」、「果たしていた機能は何か」などをとらえなければなりません。となれば必然、当時の人々が世界や自分自身をどのように把握していたかという、人々の思考様式や感覚をとらえられなければ、各事象の正しい意味・意義を知ることはできません。
こうした理解のもと、人々の思考様式や感覚、つまり心性(マンタリテ)について研究する「心性史」が、特にフランスの歴史家を中心として生まれたのが20世紀の前半頃でした。リュシアン=フェーブルやマルク=ブロックのグループから始まるいわゆるアナール学派が、従来の歴史学が重視してきた「事件史(特定の大事件などに注目する)」や「大人物史(特定の「偉大な」人物とその周辺に注目する)」を離れ、むしろ民衆の生活文化や、社会全体の集合的記憶などに注目し、それらを明らかにするために他の学問領域(人類学や言語学、経済学や統計学など)の手法を取り入れていわゆる「社会史」を発展させる中で、人間の身体について考察する「身体史」も生まれてきたのです。とまぁ、結構真面目な話なのですが、何も知らずに史学科に入った私が、フランス史関連の講義に出席した時に教授が真面目な顔でいきなり「アナールが」と話し出した時には、自分も真面目な顔をしつつ「むむ?(笑)」となるのをおさえきれませんでしたw 何の話かと思いましたよ。
さて、フェーブルやブロックを第一世代、これに続くフェルナン=ブローデルを第二世代とした時、本書の著者であるジャック=ル=ゴフはこのアナール学派の第三世代に位置する人物です。
(ジャック=ル=ゴフ[Wikipedia英語版より])
ル=ゴフはなぜ(中世の)身体を問題にするのかについて、『中世の身体』の序文で以下のように述べています。
「身体は歴史の重要な欠落の一つであり、歴史家は身体をほとんど忘れ去っているからである。事実、伝統的な歴史は肉体を欠いていた。歴史は男たちに関心を向け、付随的ながら女性たちに関心を向けてきた。しかし、ほとんどいつも身体が不在だったのである。まるで身体の生命は時間と空間の外に置かれ、人類は不変であるという思い込みの中に閉じ込められてしまっているかのように。ほとんどの場合問題となるのは、権力者、王や聖人、それに軍人、貴族たちを描くこと、あるいは、過ぎ去った世界の重要人物たちを、時代の大義や必要に応じてしかるべく見出し、美化し、そしてときには神話化することであった。水面から浮かび出た顔のみに還元されたこれらの人物たちは、肉体を奪われていた。彼らの身体は、象徴、表象、肖像にすぎず、彼らの行為とは、権力の継承、数々の秘跡、戦闘、事件に限られていた。列挙され、記録され、世界史を画するとされる石碑のように置かれた人物たち。これら偉人たちの栄光や失墜を取り巻き、それに手を貸した一群の人々はといえば、彼らの歴史、感情、行動、逸脱、苦しみを語るためには、ただ「下層民」あるいは「民衆」という名を用いれば十分だとされていたのである。」
(池田健二・菅沼潤訳、J=ル=ゴフ『中世の身体』藤原書店、2006 [原書が出版されたのは2003年])
こちらを一読するだけでも、ル=ゴフが身体を考えることにどのような意義を見出していたのかがひしひしと伝わってきます。こうした問題意識の下に、ル=ゴフは自分自身の研究のほかにも数多くの歴史家の研究も参照しつつ、中世ヨーロッパにおける身体史の様々な側面を紹介し、全体像を描き出そうとしています。ル=ゴフは2014年に90歳で亡くなりますが、80歳を迎えようかという歴史家の著作とは思えないほどみずみずしく、それでいて丁寧な表現で書かれた文体は読みやすく、まろやかです。(もっとも、邦訳しか読んでおりませんが。)そんな本書は、研究書というよりは中世身体史に関する研究を総合的にかみくだいて紹介する内容となっているため、歴史学を専門とはしていない人にとっても刺激的な著作ではないかと思います。もちろん、多くの研究者や諸研究が登場しますので、あらかじめそれらの歴史家についてある程度知っていれば、より深く本書を愉しむことができるかと思います。
個人的には、キリスト教における身体観、「体は魂の忌まわしい衣である」とともに「体は聖霊のための聖櫃である」という非常にアンビバレントな存在であるということについて、様々な例を挙げながら示していく第1章「四旬節と謝肉祭の闘い」を非常に興味深く読みました。どの章も面白いのですが、禁欲、精液と血液、性の営み、労働、涙、夢、笑いなど、いろいろな題材をもとに中世の人々が抱いていたイメージと、それらを生んだキリスト教の抑圧、あるいは聖性を持つものとしての意味付けや称賛の関係が丁寧に示されていてとても面白いです。ついこの間、ショーン=コネリーが主演の映画『薔薇の名前』(1986)を見直す機会があったのですが、ここでも信仰と笑いの関係が議論されるシーンがあり、本書に書かれた内容が頭に入っているとより深く味わって楽しむことができるように思います。
また、本書は面白いだけでなくとても参考になります。イギリスの大学院で医学史の講義を受講する機会があったのですが、政治・宗教史ばたけの私でもこの本をあらかじめ読んでいたおかげでだいぶイメージがしやすく授業が楽になった記憶があります。ほかには、第4章の「メタファーとしての身体」はとても参考になりました。「心」のありかはどこか、「心臓」のイメージの変化、邪淫の座に貶められた肝臓、手の両義性など、言われてみればなるほどそうかと思えることがらが紹介・整理されていて刺激的でしたが、こちらはもう少し厚みがあってもよかったかなと思いました。歴史を考えるにあたって、あらためて当時の人々の心性、認識がいかに大切かを感じさせられた本でした。それなりの値段はしますが、面白いと思いますよ。